本編の話

***

気が付けば、時刻は深夜二時半を回っている。膝丸はようやく辿り着いた自宅のマンションの鍵を開き、中に入る。
当然、大抵の人は寝静まっているため、彼の歩く靴音だけがやけにエントランスホールに響いていた。エレベーターを用いて、部屋のある五階に辿り着き、家の前に辿り着く。
ちょこんと玄関前に置かれているのは、白い器に盛られた盛り塩だ。簡易的とはいえ、結界になるだろうと鬼丸に薦められ、最近置くようになったものだ。

「兄者は……そうか。今日は不在だったな」

帰るのは明日になると、携帯端末にも連絡があった。今頃、遙か遠くの土地で、膝丸の知らない光景を目にしているか、或いは見知らぬ食べ物に喜んでいるのだろう。

(……兄者は俺が隣にいなくとも、楽しみを見つけ出せるようになったのだろうな)

思考が、どんどん悪い方向に傾いていく。疲れのせいだろうか。だが、膝丸が隣にいなくても、髭切は髭切なりに幸せを見いだせるようになったという考えは、そう簡単に消えてくれなかった。
鍵を開けたまま、暫く悩み続けてしまっていたのだろう。中途半端に開いた扉が、膝丸を迎えていた。
頭を軽く振り、どんどんと溜まっていく嫌な思考を一旦振りほどく。玄関に足を踏み入れ、扉を閉めると、とっぷりとした薄闇が膝丸を出迎えた。

「ただいま帰還した……と言っても、もう寝ているか」

そういえば、今朝方は寝不足もあって主に書き置きしていなかったなと、膝丸は思い返す。
主は言われたことはきちんとこなす、髭切曰く『良い子』なので、粗相などはしていないだろうと、膝丸は楽天的な気持ちで居間への扉を開いた。
真っ暗な部屋は底なし沼のように、たっぷりとした闇を孕んでいる。しかし、膝丸はそんな暗闇程度に恐怖するような、弱い心は持ち合わせていない。今も慣れた手つきでスイッチを押し、電気をつけていく。
そして、彼はソファの上にいるものを見つけて、目を丸くした。

「主!?」

普段はまず間違いなく寝室で寝ている主が、ソファの上に腰を下ろして、じーっと膝丸を見つめている。何かあったのかと周りを見渡してみるも、変わった様子はない。

「主、まだ起きていたのか」

深夜二時半は、通常の人間なら眠気を覚えて当然の時間だ。膝丸や髭切が家にいるときは、寝る時間だと促せば勝手に布団の中に入って、一人で眠っているのに。何故か彼はうつらうつらしながらも、こちらを見つめ続けていた。

「眠くないのか」
「……眠い」
「なら、何故起きている」
「先に寝ていていいって、書かれてなかったから」

膝丸は、一瞬彼が何を言っているのか理解できず、何度も瞬きをする。主は、言うだけのことは言ったと言わんばかりに、うとうととするばかりだ。

「書かれていない……?」
「メモが、いつも、あった」
「ああ、今日は書き置きがなかったと言いたいのか」

言われてみればその通りだが、人間に必要と言われている睡眠を頑なに拒否する理由になり得るのかと、膝丸は首を傾げていた。
普段なら、夕飯を食べて先に休んでいるように、と書き置きを残して家を出ている。だが、それがなかった。だから、今日は寝なかった。主の言い分は、そういうことだろう。

(俺も似たところはあったが、いや、しかし)

主と出会う前、ただただ任務をこなすだけの日々を過ごしていた頃の自分も、似たような部分はあった。
言われたままのことを、言われたままに行っていた。髭切の側で、共に戦っている自分であればいいとだけ考えていた頃の己と、目の前の主の行動原理は似通っている。

「まさか、夕餉も口にしていないのか」

返事の代わりに、主の腹が大きな音をたてた。


主が夕餉を口にしなかった理由の半分は、書き置きによる許可がなかったからだろうが、たとえ書き置きがあっても何も食べられなかっただろうと膝丸は冷蔵庫の前で呻く。
幾つか、調理のための食材は買ってあったが、普段買い置きしている惣菜が見事に空になっていたからだ。
そういえば、先日全て食べきり、買いに行かねばと思って忘れていたことを、膝丸は思い返す。
しかし、腹を空かせている主をそのままにしておくのは忍びない。こんな夜更けに何を食べさせればいいか分からなかったが、結局膝丸は冷やしていたご飯をお湯でふやかして粥にしたようなものを渡した。
夜に暴飲暴食をすると翌日に響くと、以前鬼丸に教えてもらっていたが故の選択だ。

「今日は、俺の不手際で糧食がなかったが、腹が空いたのなら俺たちが不在であり、何も君に伝えていなかったとしても、好きに食べていいのだぞ」
「うん」

粥をずるずると啜るようにして食べつつ、主は応じる。表情一つ変えていない、首振り人形の如き首肯だったが、一応理解はしているのだろうと膝丸は思う。

「空腹だったのだろう。ゆっくり食べるといい。ただ、一気に食べ過ぎないようにな」

主は粥をごくりと飲み干してから、今度は膝丸をじっと見つめ、

「ひざまるは?」
「俺は、別にいい。俺は刀剣男士だ。刀の付喪神は、別に食べずとも死にはしない」
「つくもがみ……?」
「ああ。俺は人間ではない。知らなかったのか?」

主は俯いたまま答えない。知らなかったとは明言していないが、似たような意味合いを示しているのだろうと、膝丸は判断する。
膝丸は和室に置いてある刀掛け──正確には、そこに置いてある己自身でもある刀を指さし、

「あちらの刀が俺の本体だ。だから、俺が負傷すれば、あちらにも傷がつく。あちらの刀が曇れば、俺にも異変が訪れる。だが、本体はあちらである以上、俺は睡眠も食事も必要ではない」

大きな瞳を見開いて、主はじっと膝丸を見つめている。驚きを表しているのだろう。その表情は、猫が目をまん丸にしている姿を彷彿させた。

「もちろん、必要ないからと言って食べられないわけでも、眠れないわけでもない。いくらでも我慢ができる、と言い換えれば分かりやすいだろうか」
「がまん……?」
「そうだ。だが、君は付喪神ではない。我慢をしたら、死んでしまうだろう」
「うん。知ってる。……でも、がまんは、痛いよ」

主は膝丸を案じるような視線で、目の前に座る青年と対面していた。

「君たちの知る我慢とは、少し違う。ともかく、俺は平気だ。だが、君は我慢せずともよい。いいな」
「でも、前よりは、我慢できた気がした」
「気分だけだろう。それを食べたら、すぐに休むのだぞ。俺は、明日は夕方まで家にいる。無理に早起きをする必要はない」

わざわざ早起きを急かさないと明言しているのは、前例があるからだ。
ムジナの一件でもそうだったが、二振りはたまに朝一に呼び出しを受ける。そんな時、主も一緒になって起きようとするのだ。
髭切も膝丸も刀であるが故に不規則な生活であっても、別に体調は崩さない。だが、主である彼までこちらに合わせる必要はないと膝丸は考えていた。

「うん。もう、寝る」

お粥を食べ終えた主は、口元を拭いてから、ふらふらと覚束ない足取りで寝室に向かう。その姿を見送ってから、膝丸も茶碗を片付けて風呂を沸かす。
どうにも、先ほどから思考がぐるぐると悪い方向へと落ちていっている気がする。

「兄者は今、何をしているのだろう」

自分の知らない所で、知らない世界に髭切だけが足を踏み入れていく。何だか、置いてかれているようだと思う。顕現したときは、あんなに髭切を近くに感じていたのに。
風呂を入れる水の音を背景に、膝丸は顕現したばかりの頃の自分を思い返していく。

◇◇◇

目の前を舞う白い光の花びらが消えた瞬間、彼の目の前には鮮やかな白が翻っていた。

「源氏の重宝、膝丸だ。ここに兄者はおらんか……兄者?」

目と鼻の先にいる、一人の青年。輝く稲穂を思わせる金の髪に、膝丸とは色違いの白い装束。その姿を目にした瞬間、体の中心が震えた気がした。

「よかった。すぐに会えたね」
「……兄者なのか!」
「うん。僕は源氏の重宝、髭切さ。そして、そっちはえーっと……」
「俺の名前は膝丸だ、兄者!!」

少し忘れっぽい所もあるけれど、自分にとってかけがえのない存在がすぐ側にいる。その事実は、生まれたばかりの膝丸の器をあっという間に歓喜で満たしていった。
髭切もこのうえない幸福を浴びたことを示すように、膝丸へ微笑みかけた。
ほんの一瞬、ただただ二振りは、求めていた互いの存在が側にあったという事実を喜んでいた。
この先何があっても、髭切にとって誇れる存在であり、同時に欠かすことのない半身でありたいと、膝丸は心の片隅で誓っていた。

◇◇◇

顕現して五年の間。いつしか隣にいるのが当たり前になりすぎて、記憶の端に埋もれさせてしまった思い出を、膝丸は辿る。
一日の汚れを落とすために入った風呂は、普段なら体中の力を抜ける心地よい時間であるはずなのに、何故だか今日はずるずると疲労を纏わり付かせただけのように思えてしまった。

「俺もさっさと寝るとするか。きっと、疲れが抜けていないのだろう」

寝間着に着替えるのも早々に、膝丸は寝台に寝転がる。既に片隅で丸くなって眠っている主が、膝丸の視界に入ってきた。
この寝台も、一ヶ月前に髭切に提案されて購入したものだ。今まで、彼らは休憩は勿論、睡眠もほぼとっていなかったため、寝台もなかったのだ。だが、二振りが寝転がっても十分な広さの寝台は、今は少し広すぎる。
ごろごろと寝返りを打っていると、

「!?」

膝丸は、がばりと起き上がった。間接照明で薄暗くなった室内に、白い影が浮かんでいるように見えたからだ。
しかし、飛び起きて周りを見渡しても、何も見えない。てっきり墓地から何か憑いてきたのかと思いきや、嫌な気配もしない。
そもそも、盛り塩はそういうものを入れないために作った結界だ。入ろうとしたら、何か塩に変化が起きたはずである。

「……気のせいか」

気を張りすぎていたせいだろう。もう一度身を横たえると、今度はまるで温かな手に撫でられるように、穏やかな眠気が訪れてきた。
瞼の上に揺蕩い始めた眠気を追い払わないように注意して、膝丸はゆるりと目を閉じる。
意識しなければ、素直に眠ることができない。今まで物としてあろうと、睡眠や食事をほとんど絶ってきたがゆえの癖だ。慣れるのには、もう少しかかるだろう。

「兄者が……笑えるような……」

そんなものを、送れたら。
微かな呟きは、やがて小さな寝息となって細く、消えていった。
目蓋の裏側、記憶の端にいる髭切は、ひどく悲しげな笑みを浮かべて、膝丸を見つめていた。

***

ぼんやりとした意識の中、目の前にいる髭切の顔だけがはっきりと見える。どこか意識がぼんやりしており、膝丸はこれは夢だろうと理解する。

「──どうしてあんな無茶をしたんだい」

尋ねるのは、彼の声。それは、在りし日の問いと全く一緒の質問であり、だからこそこれは、過去の記憶だと分かる。
あやかしを屠るよう任ぜられてから、数ヶ月。ある理由のため、膝丸は髭切が受けるべき任務も、自分が受けるように根回しをしていた。
その無理が祟ってか、ある日膝丸は帰還してすぐに意識を失った。それから数ヶ月の間、眠り続けていたのだと髭切から後から聞かされていた。目覚めてすぐの問いが、先のものだったのだ。

「兄者を、守るためだ」

膝丸は、すぐに答えた。それ以外の理由は自分にはなく、詳細を訊かれても、膝丸は口を噤むつもりでいた。
髭切は、何かを堪えるような顔でこちらをじっと見ていた。兄は自分が怪我をしたわけでもないのに、どこか苦しそうで、辛そうで、出会った直後の幸せそうな笑顔とは程遠い笑みを浮かべていた。
そんな顔を、させたいわけではなかったのに。
言葉は形にならず、意識は夢の闇に沈んでいく。どこかで、誰かの泣き声がしている。主でもない、兄でもない。なら、あれはいったい誰の声なのだろう。
分からぬまま、思考は夢の狭間へと溶けていった。

***

ふ、と目が覚めて、膝丸は体をゆっくりと起こす。カーテンの隙間からは、眩しい朝日の光が突き刺さるように部屋に降り注いでいる。
寝台横の文机に置いてある時計は、午前七時を指していた。いつもなら、少し寝過ぎたくらいだ。

「兄者は……」

いつもの癖で、隣に寝ているはずの兄の姿を探してしまい、膝丸は自嘲じみた笑みを浮かべる。
今日は帰ってこないだろうと、分かっていたのに。いったい何をしているのだろう。夕方までに帰ってこなければ、恐らく行き違いになる。
仕方ないだろうと分かっていたが、今は彼の顔をすぐ見られないのが、何故だかいつも以上に堪えた。
まるで、だだっ広い野原に置き去りにされているような。あるいは、深い森の中で一人にされているような。

「何を馬鹿なことを。兄者がいないのなら、調理の修練をできるではないか」

幸い、主はこの『修練』については、膝丸が命じたように他言無用を貫いてくれていた。彼の協力のおかげで、膝丸は自身の失態を髭切に知られずにいる。
脱衣所に備え付けられている鏡を覗き込み、膝丸は憔悴した様子の自分を目の当たりにして、草臥れていると分かる笑みを浮かべる。
寝癖でほうぼうに跳ねている髪をどうにか整え、膝丸は寝間着を脱ぎ捨てる。着替えをわざわざする習慣も、ここ最近身につけたものだ。
適当な服を探すため和室に置かれたクローゼットに向かい、適当な服に袖を通していく。

(兄者の分も出さねば)

習慣で揃いの服を探し、そこで膝丸は手を止める。
また、自然と髭切がいるように振る舞ってしまった。そして、いないと分かる度に、終わりのない虚無感に心の片隅が食われていく。
置いて行かれたような気持ちになる。一人で、楽しそうに過ごす髭切の姿を想像してしまう。自分がどれだけ髭切を喜ばせようと苦心惨憺しても、彼は気にせずに背を向けて去って行くのではないか──と。

(何を馬鹿なことを考えているんだ。兄者が俺を捨てていくわけがないだろう。まだ疲れが残っているのか?)

ぶんぶんと頭を振り、夜から続く嫌な考えをどうにか頭の外に追い出す。
キッチンに行く前に寝室を覗き込むと、主はまだ寝台の中で丸くなっていた。彼は、滅多に四肢を伸ばして寝ない。どうやら、その方が落ち着くらしい。

(さて、今日は何にするか……。魚の切り身があったから、一度焼いてみるか。味噌汁も作れそうだな。必要なものは……)

まだ立ち慣れていないキッチンに向かい、膝丸は朝の支度を始める。手元に集中して、膝丸は『修練』に勤しみ始めた。

***

ゆさゆさと揺さぶり起こされる気配に、小さな闇に顔を突っ込むようにして蹲っていた少年は目を開ける。
揺さぶられている。つまり、起こそうとしている者がいる。
理解が進んだ瞬間、主は瞬時に飛び起きた。わっ、という驚きの声が近くでして、慌てて振り返る。

「ひざまる」
「ああ、俺だ。どうかしたのか。そのように飛び起きて」
「…………」

返す言葉を持たない主は、沈黙を選ぶ。飛び起きた理由を、主は理路整然と説明できるほど成熟していない。

「朝餉ができた。大したものではないが……昨晩、あまり食べていないから、腹も減っているだろう」

膝丸に指摘されて、主は初めて空腹を自覚する。ここで暮らし始めてから、腹の虫は以前より元気になったらしい。程よい空腹を自覚したのなど、いったい何年ぶりだろう。

「食べるか?」
「……うん」

寝台から滑り降り、主はまず洗面所に向かう。鏡には、ぐしゃぐしゃに寝癖をつけた自分が映っていた。
更にその向こうでは、皿を出している膝丸の姿が見える。何か鼻歌でも歌っているのか、微かに低く響く音だけがいつもと違う。
ざぶざぶと顔を洗い、一緒に濡れてしまった髪をタオルで拭く。歯を磨き、口を濯ぐという当たり前の行為すらも、ひどく懐かしく思えた。
ふと視線を感じ、主は顔を上げる。そして、思わず手に持っていたコップを取り落としかけた。
自分の後ろに、誰かが立っている。膝丸ではない。
小さな、黒い頭。それに白い服。

「──っ!?」

慌てて振り返っても、そこには誰もいない。
目に焼き付いた白い影は、朝日が見せた光の幻だったのだろうか。
居間にいる膝丸が低い声で歌っている、聞き覚えのない独特の歌だけが、微かに響いていた。


居間に向かうと、膝丸が作り上げた朝ごはんが並んでいた。以前は、買い置きしたものを用意するだけだったが、最近は自ら作るようになったらしい。
膝丸が作った最初の料理は、主がリクエストした卵焼きだった。焦げていたし不格好な見た目ではあったが、主にとっては紛れもないご馳走だった。
いただきますの挨拶をしてから、主は手をつける。味噌汁、ご飯、焼いた魚に何度目かの挑戦として姿を見せた卵焼き。
少し冷めていたり、炭化している部分もあるが、特に気にせず主は箸を進めていく。自分の為に用意してくれた料理など、嘗てなら考えられなかったほどの幸せだ。残すなど勿体ない。
だが、ふと視線を感じて、主は顔を上げた。

「ひざまる?」

見れば、膝丸がこちらを凝視しているではないか。ぱちぱちと、瞬きをして睨めっこをする事数秒。

「……味の方は、どうだろうか」

ひどく険しい顔で、そんなことを聞かれてしまった。

「おいしい」

主は、ストレートな感想を口にする。
主の言葉を受けて、膝丸は自分でも食べるものの、どうも納得がいかないという顔をしていた。

「……あまり、俺にはおいしいとは思えないのだが」
「でも、おいしい」
「そうか。主にとっては、そうなのだろう」

いったい何と比較しているのだろうと、主は不思議に思う。
確かに、買ってきたものより魚は焦げている部分が多いし、味噌汁は味噌の風味が飛んでしまっている。辛うじて問題なく食べられるのは、白米ぐらいだろう。
それでも、自分のことを見てくれている人と食べるご飯は、美味しい。だから、膝丸の問いにも「おいしい」としか、主には言えなかった。

「まだまだ、兄者には食べさせられそうにもないな。先は長い、か」

膝丸は料理の練習中ではあるが、髭切といるときは膝丸は料理を決してしない。主にも、内緒にしておくようにと言うほどだ。

「……食べさせるのは、まだ内緒?」

どうして教えないのかと聞くと、非難がましくとられるかもしれないと、主は慎重に言葉を選んで疑問を投げかける。

「このような味では、兄者は喜んでくれないだろう」

そんなことはない、と言える根拠が見つからず、結局主は黙ったまま俯いてしまった。


***

少年が髭切という名の青年に連れられて、彼の弟であるという膝丸に紹介されてから、早一ヶ月が経とうとしていた。
刀のツクモガミというものが何かはよく分からなかったが、彼らにとって和室に置いてある刀がとても大事なものであるとは、昨日教えてもらって理解した。
彼らは、少し風変わりであるが善い人だと、少年は思っている。

(ひげきりは、何考えてるかよくわからない所もあるけど、にこにこして、いつも優しい。ひざまるは、怒ったような顔しているけど、こっちもやっぱり優しい)

優しくされると嬉しい。ご飯を作ってもらうと胸が弾む。楽しそうに笑いかけてくれると、ほっとする。
当たり前のことなのかもしれない。だが、少年にとってはずっと馴染みがなかった当たり前だ。
だからこそ、ふとした瞬間で崩れないかと、不安に思ってしまう。
たとえば、ひどく疲れていたり、悲しそうな顔をしていたり、怒ったりすると、そういった当たり前はすぐに消えてしまうと主は知っている。
故に、彼は昨晩目にした膝丸の憔悴した顔が気がかりだった。
今朝も、どこか疲れの抜けきらない顔をしているし、その様子は掃除をしている今も変わらない。

「主、すまないがそこから退いてくれないか」
「うん」

部屋の隅に座っていた主に、膝丸は声をかける。彼に言われて、少年は反対側の部屋の隅に移動した。
部屋の四つ角に腰を下ろしてしまうのは、以前いた場所で身についてしまった癖だ。
あの頃は、できるだけ存在を消すことが、彼にとって最も最重要事項だったからである。

「……ひざまる」
「どうした」
「その、えっと……何か、できることがあるなら、手伝おうって思って」

おずおずと、彼は切り出す。
この一ヶ月間、彼は小さな部屋から外に出るでもなく、かといって何かするわけでもなく、そこにただ在り続けていた。
以前は寧ろ、何もしないでいることこそが求められていたが為に、少年は只管、自分の存在を殺し続けていた。
けれども、一般的に何もしないでぼーっとしていることは、喜ばれることではないとも知っている。だからこそ、疲れている膝丸のために何かしたいと、少年は声をかける。

「いや、別に何をせずともいい。兄者も、以前そう言っていただろう」

確かに、髭切はこの部屋に連れて来てすぐに、自分たちの『主』に任じた少年に向かって、笑いかけながら告げた。
──君に何かして欲しいとか、僕は思ってはいないんだ。君はただ、ここにいてさえくれればいい。
存在するだけで意味がある、などと少年は到底思えなかった。
価値が認められるのは、何か役に立ったときだけだ。だが、自分は誰かの役には立てる者ではない。だから、それぐらいなら『いなければいい』と、存在自体を極力押し殺して過ごしてきたのに。
今までと全く違う価値観を突きつけられ、戸惑いながら受け入れた。二人は少年がただじっとしていようが、何か話そうが、特に変わらず最初と同じように声をかけ、触れ合ってくれた。

(でも、何もしなくても、本当にいいのかな。ひざまる、疲れた顔しているのに)

主という役割に自分がなってからすぐ、膝丸はお団子を買って渡してくれた。ほっぺたが落ちそうなおいしさと嬉しさも含んでいて、今でも思い出すと胸のあたりが暖かくなる。
彼は、黙っていると少し怒っているようにも見える。けれども、よくよく見れば、彼が兄思いの心が真っ直ぐで温かな人だと知っている。
だからこそ、できるなら元気な顔をしてほしい。ただ、彼を笑顔にできるのは兄である髭切だけなのではないかと、思えてしまってもいた。

(それに勝手に何かして、怒られたら……怖い)

それは、彼の短い人生における経験で学んだことだ。
だから、彼は言われたこと以外の行動をしていいか悩んでしまう。昨日はその考え方のせいで、少し失敗してしまったと、主は反省する。
言われなくとも好きにしていい、などと今まで考えたことすらなかったから、面食らってしまった。
結局、微動だにせず、主である少年は膝丸の背中を見つめている。今日の膝丸は、拭き掃除をしているようだ。忙しなく、あちらこちらと駆け回っている。
何とはなしに、その視線を追っているときだった。

「えっ」

居間から玄関に続く薄暗い廊下に、白い人影が見えた。朝のように見間違えではない。瞬きをいくらしても消えないのが、その証拠だ。
白い着物姿の彼女は、首から上が薄闇に紛れてぼけてしまい、はっきりとしない。だが、何故かきょろきょろと辺りを見渡しているのは首の動きから分かった。
だが、不意に彼女は首を動かすのをやめていた。何故やめたのか、と思うより先に、その理由を少年は知る。
その白い影──少年より少し年上の女の子の姿をした子供と、目が合った。
距離にしては、歩いて数歩分。朝日の差し込まない廊下は薄暗く、人影の顔は判然としない。なのに、目が合ったと分かってしまった。

「ひざ、まる」

思わず、近くを通っていた膝丸へと声をかける。

「主?」

返事をしてくれた膝丸に安堵しつつ、少年は声もなく指を廊下に向ける。少年に誘われるように、膝丸も顔を廊下の方に向ける。

「どうかしたのか、主。何かいるのか?」

膝丸に促され、廊下を見つめ、しかし目を見開く。そこには誰も、何もいなかった。白い猫一匹いない。ただの薄暗い廊下があるだけだ。

「……なんでも、ない」
「そうか。主、もう少ししたら昼餉にしよう。今日は多めに作っておくから、夕飯は適当に温めて食べてくれ。あの電子れんじなる機械は、まことに便利だな」

何か喋っている膝丸を余所に、主はあの少女が何故最初、きょろきょろしていたのだろうと思う。
右を向いたと思ったら、左へと首を動かし、そのまま暫く停止して、またゆっくりと右を向こうとする。まるで、何かを目で追っているように。
主の目の前で、掃除を一段落させた膝丸の足が通り過ぎていく。右へ、左へ。少し広い居間を何度も横断する動きは、少女の首を振る動きと似ている。
そこまで考えてから、主ははっとする。

(……もしかして、あの子、ひざまるを目で追っていた?)


***

膝丸の作った昼ご飯は、野菜と肉を切って炒めたものだった。味自体はシンプルな塩胡椒で申し分ないが、火の通りが甘く、少し固い野菜が残っている。
油と生野菜が絶妙に噛み合っておらず、少し歯ごたえのあるキャベツをどうにかこうにか食べるために、主は何度も噛む必要に迫られていた。

「……あの、ひざまる」
「何だ、主」
「その……」

白い人影のことは気になったが、今はそんなことよりも、眼前の膝丸の様子が気になって仕方がなかった。朝から変わらず、彼の顔には疲労が濃く浮かんでいる。

「……大丈夫?」
「俺は、そこまで大丈夫でないように見えているか。兄者のことは言えないが、自分の疲れ具合が、まだ分かっていないのだろうか」
「ひざまるは、何だか色々と、沢山、考えてる……気がした」

膝丸の箸が、ぴたりと止まる。どうやら、この言葉の方が正解だったらしい。

「……仕事場の者に言われたことが、どうにも気にかかってな。兄者が以前とは違う笑い方をするようになったと、話をしていたんだ。そして、俺は兄者の側にいながら、そのことに気が付いていなかった」

主は無言で、膝丸の言葉を聞き続ける。

「兄者は、たしかに以前とは少し違う笑い方をする機会が増えた。できるなら、仕事のとき以外は、兄者が楽しそうに笑える時を増やしたい。俺が、その手伝いをしたいと思い、だからこうして料理を上達させればと思ったのだが」

膝丸は、肩を竦めて苦笑いをしてみせる。その仕草は、まるで何かを諦めたような自虐的な所作に、主には見えた。

「ひげきりは、料理がなくても、楽しそうだよ」
「そうだといいのだがな」

膝丸は、恐らく自分を主が慰めていると思ったのだろう。確かに膝丸を慰めたい気持ちも主にはあったが、先ほどの言葉はただその場凌ぎの言葉のつもりではなかった。
けれども、膝丸の心に、自分の伝えたいことは幾らも届いていないと、主は思う。
何より、主自身、自分の言葉を事実として断じていいのか、迷いがあった。髭切と膝丸と共に暮らしてから、まだ一ヶ月しか経っていない。その間に、自分が一体彼らの何を知ったと言うのだろう。
彼らのように、家族同士でもないのに。
実の家族のことすら、よく分からないままだったというのに。

「……それに、兄者は俺がおらずとも、一人でもっと自分なりの幸せを見出していくのではないかと、俺を置いていなくなってしまうのではと、考えてしまうんだ」
「それは、違う、と思う」
「ああ。違う。それだけは違う……はずだ」

軽く首を横に振り、膝丸は再び箸を進める。彼の眉には深く刻まれた皺が寄っており、彼の悩みが解消されたわけではないと、くっきりと示している。

(ひげきりが楽しそうにしているときって、それは──)

そのとき、髭切の側にはいつも膝丸がいるのではないか。
主には、そう思えてならなかった。
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