本編の話
先日の憑きもの騒ぎもある程度の収束を見せた、五月の上旬の頃。
髭切と膝丸は、自分たちの待機場所でもある仕事机の前で、のんびりと端末に流れてくる情報を見つめていた。
今は、鬼丸国綱も他の同僚たちもいない。二振りだけの空間には、端末の駆動する低い音だけが響いている。
彼らの仕事は、基本的に任務が来ない場合は、よその部署の手伝いとなる。
だが、人手が足りているときは、こうして過去の案件の確認や、自分が関わった仕事の報告書を作るのみとなる。要するに、彼らは暇を弄んでいた。
そして、その間隙を突くように姿を見せる者もいる。軽く扉がノックされて姿を見せたのは長義だった。
「おや、長義。どうしたんだい」
「入れ違いになっていなくてよかったよ。先ほど鬼丸国綱に会って、今ならいるだろうと聞かされていてね」
部屋に入ってきた長義は、細長く丁寧な包装のされた箱を髭切の前に置いた。
「先日、君たちが助けた職員がいただろう。彼が『世話になった礼に、これを渡すように』と俺に言付けてね。本当に助かったと、何度も言っていたよ」
「そうか。それはよかった」
膝丸は、簡潔に長義の言葉に応じる。
言葉だけなら彼は職員の無事を喜んでいるようにも聞こえるが、その実、さして興味がないことが言葉の裏からありありと透けて見えた。
(だから、直接行くのは止めるように言ったんだよね)
そつの無いやり取りを髭切と交わしつつ、長義は思う。
髭切と膝丸は、仕事に関わる人間に最低限の関心は抱くものの、それは人格や人柄への興味ではない。
彼らはきっと、職員があの後亡くなったと聞いても、きっと同じような反応をするだろうと、長義には分かっていた。
そんな者の相手を、わざわざ人間にさせるものではないと、長義は言づて役を請け負ったのだ。
「これは何が入っているんだい?」
「焼き菓子だよ。君たち、最近は食事もちゃんとしているのだろう。宿でも夕飯をぺろりと平らげていたのを見たからね。だから、食べ物がいいかと思ったんだ」
「おお、ありがとう。嬉しいよ」
髭切はほけほけと暢気な笑顔を浮かべる。その彼が、数年前は食事など不要と冷えた目で言っていたと、長義は到底思えなかった。あの怜悧な彼も、きっと今目の前の髭切の中に残ってはいるのだろう。
願わくば、それに出くわさずに済むことを、長義は口にせず願う。
長義の心配など余所に、髭切は包装を解いてひょいと箱を開ける。中には貝殻の形をした焼き菓子──マドレーヌが整然と並んでいた。
標準的なプレーンの味から、抹茶を練り込んだ薄緑のもの、オレンジや苺の風味を加えたものもある。色鮮やかな貝殻は、目で見ても美しい品だ。
「綺麗だねえ。これは、お菓子かな? 甘い香りがするよ」
「ああ。マドレーヌという洋菓子だ」
言いつつ、長義はじーっと髭切を見つめる。未知のお菓子に目を輝かせている青年の姿は、いつぞやのやり取りなど幻だったのではないかと思うほど、あまりに『普通』だった。
長義の知る彼は、先ほど思ったように、もっと何事に対しても興味が薄いものだと思っていた。恐らく、それはそれで間違いではないのだろう。
けれども同時に、こうして普通すぎる反応を今の髭切は見せている。だからこそ、長義は彼に聞かせるつもりもなかったが、ぽつりと呟いてしまった。
「……君は、変わったね」
「うん?」
「いや、その……君がそんなに豊かな感性を──心を持っているとは思ってもいなかったから」
「そうかなあ? 僕は、今までもこれからも、一振りの刀であることをやめるつもりはないのだけど」
だが、長義はゆっくりと首を横に振る。たとえ、それが表面上であったとしても、変化は変化だ。
「君は、あの石段から見た光景を美しいと思っていた。それが失われることを、寂しいと語っていた。それは、君の心が感じたことだと、言えるんじゃないだろうか」
「そんな話をしていたのか?」
不思議そうな顔で首を捻る膝丸に、長義はゆっくりと頷く。
「膝丸は、丁度ムジナによって迷子にさせられていた時だったからね。あのときの髭切──君は、目の前の光景を意味のない景色と言い切らなかった。自分の力を振るえるなら、何だっていいと言っていた君が、足を止めて、己の感情を語っていた」
「悪いことかな?」
「いや。君が良いと思うのなら、それは良いことなんじゃないか。嘗ての君なら、間違いなく無視していただろうけれどね」
長義としては驚きに値する振る舞いだったのだが、髭切にとってはそうではなかったらしい。彼は「大袈裟だなあ」と、いつものように人好きのされそうな笑みを浮かべていた。
「別に、兄者が大きく変わったように俺には思えないが」
「それは、膝丸。君は常に側にいすぎているからだろう。その顔一つとってもそうだよ」
長義は、にこにこと微笑む髭切の笑顔を軽く指で示しつつ、続ける。
「君は確かによく笑顔の形だけなら浮かべているが、もっと冷えた雰囲気だった。話していても、何だか岩とでも対話しているような心地になったものさ」
「そんな風に見えていたのかい?」
「ああ。自覚していないのだとしたら、そんな間抜けは恐らく君たち自身だけだろう」
髭切は自分の頬を指先でふにふにと触ってみせる。長義の言う変化を、彼なりに確かめようとしているようだ。
「……僕は刀の本分を忘れたように見えるかい?」
「いいや。その点に関してだけは、きっと変わりないだろうさ」
ムジナの一件の際、ともすれば彼らを躊躇なく斬り捨てようとした姿を思い出して、長義はすぐに言い返す。
「ただ、髭切。君は以前よりも少しだけ、器用に物事を受け止められるようになっている。俺には、そう見えたんだよ」
そこまで言い切ってから、長義は呆れたようなため息をついた。何故なら、髭切が長話に耐えきれず、マドレーヌの包装を破って口に咥えていたからだ。長義が呆れたように息を吐くのも無理はない。
「弟、お茶を淹れてきてくれる? これなら何が合うかな」
「それなら、この前俺が給湯室に置いた茶葉が合うだろう。あれは西洋のものだからね」
「承知した。兄者、暫く待っていてくれ」
長義のアドバイスをもとに、膝丸は給湯室に向かう。続けて、水の流れる音が二人の所にも聞こえてきた。
「……髭切。君は、いったいどういう心境の変化で、今のようになったんだい。正直、少し……いや、かなり驚かされているんだ」
「何に? 僕が心とやらを得たことかな」
「そうだね。君たちがこうして、仕事の合間にも休みをとっていることにだって驚かされている。以前は、昼夜問わず任務をびっしり予定に入れていたというのに」
「ありゃ、部署も違うのにどうしてそんなことを知っているんだい? 僕たち、以前は時間遡行軍の先行偵察を行う部署にいたけれど、長義の姿は見かけなかったよ」
「俺の仕事は、元々監査官だ。君たちの異常勤務は、十分監査対象に値する。別の課ではあったけれど、内部監査をしていた知り合いが君たちのことを話していた。最初は無理やり重労働を強いられているのかと、一応心配していたんだよ」
しかし、その心配は杞憂だった。なぜなら、二振りが自主的に休みを却下していると知ったからだ。長義自身、休みなど必要ないと髭切本人の口からも聞かされている。
それでも彼らの上司であり、管理者に該当する人間は、二振りに無理矢理休みをとらせようとした。だが、一度休暇を与えたにも拘わらず、結局二振りが休みを欲しいと言い出すことはなく、なし崩し的に無茶苦茶な勤務が黙認されることになったのだ。
「この前も話したと思うんだけれど、僕らは刀だから、その本分は斬るべきものを斬る以外にないと思っていたんだ」
「それを変えたのが、君の主というわけかな」
先だっての事件の際、髭切が長義に漏らしていた言葉を彼は振り返る。
「そうだね。僕らには、きっと主が必要だ。守るべき者がなかったら、きっと僕らはいずれ壊れてしまう。そう思って、彼に主になるよう命じたんだ。でも、僕は正直主から影響なんて受けないだろうと思っていた」
髭切は微かに目を伏せ、その瞬間を思い返す。
主を主として迎えたその日、髭切は弟と任命されたばかりの主と共に、万屋を歩いていた。
弟は、主という存在を髭切より重く見ていたらしい。彼なりに何かしてあげようと考え、膝丸は団子を主に買い与えていた。だが、主は二人に申し訳ないと思ってか、すぐに口をつけなかった。
店主に二人もどうかと促され、仕方なく髭切も団子を買い、椅子に腰掛けて団子を口にして──
「おいしかったんだよね、とても」
長義に語って聞かせながら、髭切は思い返す。
所詮、一本いくらもしない簡素な団子だ。だが、髭切は今まで足を止めて、ゆっくりと食べ物を口に含んだことがなかった。誰かの付き合いで食べることはあっても、味はしてもそれが『美味しい』とは感じなかった。
だが、あの日は違った。腰を落ち着け、少しだけ肩の荷を下ろして食べた団子は、おいしかった。
その瞬間、長いトンネルを抜けたような開放感で、体が満たされていった。
「空が、青いと知ったんだ。桜が、綺麗だと思ったんだ」
知識としては知っている。目で見たこともある。だが、あの時、髭切の中で眠っていた何かが目を覚ました。それは、長義のいう『心』なのかもしれない。
「主は、僕らのように真っ直ぐは歩けない。立ち止まることも多い。それに合わせて足を止めたら、今まで見えないものが目に入るようになったんだ」
世界のざわめきが、花の美しさが、空気の冷たさが。
一つ一つ、自分を取り巻く世界が、知らない顔を見せるようになっていった。
「だから、ちょっとだけ足を止めてもいいかなって。たまには、だけどね。僕は今でも刀であることが最も大事だと思っているし、斬るべきものを斬る存在でありたいと願っている」
だけど、と髭切は付け足す。
「少し休憩するのは、悪くないことだと思ったんだ」
「……なるほど。君の変化の理由が、分かった気がするよ」
長義も思う所があるのか、髭切に似た柔らかな微笑を浮かべていた。
「そんな君の主に対して俄然興味が湧いたのだけど、いったいどんな人物なんだい」
「子供だよ。男の子。七つか八つくらいかなあ」
未成年であっても十は超えているだろうと思っていた長義は、髭切の言葉に目を丸くした。
「まさか、君……誘拐してきたんじゃないだろうね」
「いやいや、そんなことはしていないよ。一応、政府にも連絡はしている。ちゃんと、許可も降りているよ?」
「それならいいが……待てよ、子供をまさか一人で家に置いてきているのか? 七つ八つの子供なんて、小さな怪獣と変わらないぞ。俺がいったい、あの頃どれだけ手を焼かされたか!」
「おや、その年の子供と接点があったのかい?」
長義はわざとらしく大きな咳払いして、髭切の質問を誤魔化した。どうやら、彼にとっては訊かれたくない内容だったらしい。
「ともかく、彼は良い子にしていると思うよ。彼は、言われたこと以上の行動は勝手にしないんだ。命令されることに、慣れているって感じがする……というのかな」
髭切は、瞼の裏に主を思い浮かべながら、ぽつりと呟く。
「ある意味、彼は僕らよりずっと──物みたいだ」
じっと見つめる主の大きな瞳は、いつも空っぽでどんな感情を浮かべているのか定かではない。だが、最近はそんな彼の瞳にも、辛うじて違うものが見え隠れし始めた。
「彼はいつも、ちょっと困っているような、不安げな顔で僕たちを見てくるんだよね」
「そりゃあ、君たちの主なんて任命された日には、俺だってそんな顔をしたくなるよ」
長義は内心で、その主とやらに強い同情を抱いていた。幸いなるかな、子供なら髭切と膝丸の突拍子もない言動に頭を抱えはしないだろう。
もっとも、彼らの悪影響を受けて育つという、別の意味での懸念はある。
「不安そうにしているのなら、頭を撫でてあげればいいんじゃないかな。子供はそういう触れあいを喜ぶからね」
「へえ、そういうものなんだ」
髭切は分かったような顔でもっともらしく、長義に頷いたのだった。
長義と髭切が雑談を交わしている頃、膝丸は火にかけている薬缶を前にして悶々と思考に耽っていた。
「いつも側にいるから、気が付いていない──か」
長義が何の気もなしに放った言葉が、膝丸の心には深々と突き刺さっていた。
確かに、膝丸はいつも髭切の隣に立っていた。だからこそ、髭切のことなら何もかも理解していると思っていた。
刀を振るうときの微かな癖、何気ない仕草、好む作戦は何で、いつも傍らの弟に何を求めているのか。
膝丸は、何もかもを分かっているつもりだった。だが、彼は気が付けていなかった。
「兄者は、主と出会ってからの方が、よく笑うようになった気がしてはいた」
主と出会い、人間のように休みを得て、食べ物を口にする生活を選んでから、髭切はよく笑うようになった。
以前から、笑わなかったわけではない。彼は、膝丸に向けてよく笑いかけていた。それもまた事実だ。
だが、言われてみれば、最近目にする笑顔は少し違うように思う。
朗らかに、楽しそうに、嬉しそうに──幸せそうに、髭切は笑うようになった。
「俺は、兄者に幸せをもたらせていなかったということか……?」
隣に立ち、刀を向ける先を揃え、背中を守り守られ、刀らしくあることを膝丸も望んでいた。
兄が望んだからだけではなく、膝丸にとっても、この在り方が最善だと信じていた。
けれども、どうやらそれだけでは、兄の笑顔を幸せなものにはできていなかったらしい。主がいなかったら、髭切はあのように微笑むことすら知らなかったのだ。
それが良いことなのか、悪いことなのかと問われれば、兄にとっては良いものだったのだろう。だから、髭切は足を止める選択をしたのだから。
「俺も、今までの俺がしてこなかったことで、兄者に笑ってもらいたいものだ」
小さな願望が、膝丸の中で芽生える。だが、何をすれば髭切は喜んでくれるだろうか。幸せを感じてくれるのだろうか。答えは、どれだけ悩んでも出てこない。
気がつけば目の前でヤカンがぴーぴーと笛を鳴らしていた。膝丸は慌てて火を止め、長義が以前残していった茶葉を手にとった。
***
庁舎にいても、任務が割り振られなければ彼らはそのまま自宅に戻る。もっとも、逆に深夜だろうが早朝だろうが、緊急の案件が舞い込んできたら、強制的な呼び出しを食らう。
時間遡行軍の偵察任務をしていた頃は、比較的規則正しい生活を送れていたが、現在の部署に所属するようになってから、彼らの活動時間帯はかなり乱れるようになっていた。それでも身体に大きな不調が訪れないのは、彼らが人ではないからだろう。
ともあれ、今日は大きな仕事もなく、二振りは順当に自宅のあるマンションに到着していた。
髭切と膝丸の住まいは、ファミリー向けに建てられた中階層マンションの一室にある。最上階は八階であるが、彼らが暮らすのは真ん中より少し上に位置する五階の角部屋である。
「この建物も、最初は慣れなかったよねえ」
「政府の寮とは、つくりも様式も異なっていたからな」
マンションのエントランスに繋がる扉に鍵を差し込み、ぐるりと回す。中に入って扉を閉めれば、オートロックの錠が勝手にがちりと鍵を閉めてくれた。
一般市民も暮らすマンションであるため、当然通りがかる人もいる。丁度エレベーターから降りてきた中年の女性は、二人の横を通り過ぎてから、もう一度振り返った。
刀剣男士の容貌は、人の目を惹きやすいと聞いているので、彼女の不審な動作にも二振りはいちいち驚かない。
「あそこの寮から、この仕事を始める前に、追い出されちゃったものねえ」
「仕方あるまい。俺たちは、怪異やあやかしに関わるものだ。俺たちが万が一奴らを自宅に呼び寄せてしまったら、他の刀剣男士たちに迷惑がかかる」
それなら民間人への影響はいいのかと思いきや、そちらについては隣室を無期限で空き部屋にすることで帳尻を合わせているらしい。二振りは知らないが、彼らの真下にあたる部屋も、現在空き室となっていた。
「それに、部屋が広くて沢山あるものね」
「ああ。のびのびと過ごせるのはいいことだ」
「そうだね。沢山あったからこそ、色々と役立てられたよ」
髭切は先を行く膝丸の背を見つめ、少し寂しげな笑みを口の端に浮かべた。
帰る場所である五階の一室に辿り着いた髭切は、鍵を差し込んでぐるりと回す。錠前が動き、髭切はドアノブを捻って玄関へと入る。壁沿いの電気のスイッチを入れると、柔らかなオレンジの光が玄関を包んだ。
「ただいま戻ったよ。主、いるかい」
髭切が中に入ると、薄暗い部屋の中、電気もつけずに部屋の片隅でじっとしている主が目に入った。
彼は、膝丸より一回りどころか二回り小さい、小柄な少年だ。黒く真っ直ぐな髪の毛を肩ほどまでの長さに切り揃え、今は無地の簡素なTシャツと膝小僧が見える丈のズボンを穿いている。
年の頃は七つか八つであり、子供の割に丸みは薄く、どこかほっそりとした体型をしていた。
主は、居間の電気を髭切がつけても、ぴくりともしない。だが、これは何も珍しいことではない。主はよく部屋の隅に座ってじっとして、その存在感を極力消すような振る舞いをしていた。用がなければ、彼はほぼほぼ無言を貫き通すぐらい、大人しい子供だった。
「主、起きているかい」
そのまま寝ていることもあるので、髭切は近づいて声をかける。果たして、今日は起きていたようで、髭切の顔を見て数度瞬きをしてから、
「──ひげきり?」
掠れた声で、彼は問う。
「うん、僕だよ」
「ひざまる?」
「ああ」
確かめるように、彼は名前を呼ぶ。二人の応答を確かめて、主はようやく安堵の表情を僅かに見せた。
「……二人が、いなくなる夢、見てた」
「大丈夫だよ。僕らはちょっとやそっとのことでいなくなるような、柔な体をしていないから」
どこか不安げに、主はじっとこちらを見つめている。そんな彼に何かできないかと、髭切は暫し考え、そうして思い出す。長義が、今日の昼に髭切に語って聞かせた言葉を。
「主。頭を撫でてもいいかい」
「……うん」
早速主の頭にそっと手を置き、そーっと撫でると、主はきゅっと目を瞑った。その仕草は、まるでくすぐったいのを堪えているかのようで、口の端には小さな笑みが浮かんでいる。
普段はなかなか表情を変えず、無口な少年の変化に、髭切も思わず口元を緩める。
そんな二人の和やかなやり取りを、買ってきた夕飯を並べながら、膝丸は目を細めて見守っていた。
この少年を主と定めたのは、膝丸ではない。髭切だ。
あの日の出来事を、膝丸は昨日のことのようにはっきりと覚えていた。
***
最初、膝丸は髭切が彼を連れて来たとき、迷子の道案内をしているのかと思っていた。それほどまでに、髭切と子供という組み合わせはちぐはぐなものに見えたのだ。
だが、髭切はまるで仕事の話のついでのように、ごく自然な切り口で、
「ねえ、弟。僕たちで、彼を引き取ってみるのはどうだろう」
そんなことを、突然言い出したのだ。膝丸が呆気にとられたのは、言うまでもない。
「前々から少し考えてはいたんだよね。彼なら、特に煩わしい手続きも必要ないだろうし。それで、君はどうしたい?」
突如話を振られた少年は、膝丸とよく似た驚きの顔で髭切を見つめていた。
自分に尋ねたのではないのかもしれないと思ったのだろう。少年は、おずおずと人差し指を己に指して、首を傾げた。
「そうだよ。君に向かって僕は訊いている。それで、君はさっきいた怖い顔の人たちの所に行くか、僕らと一緒に暮らすか、どっちがいい?」
髭切の言葉を受け、少年はじーっと二振りを見つめる。膝丸が何か口を挟むより先に、彼は二振りを指さし、それが既に一つの決定を示していた。
「うん、これで決まり。いやあ、あっさり決まって良かったよ。じゃあ、そうだね」
髭切は逃げ腰になる少年の腕をしっかりと掴み、真正面から彼を見据えて言う。
「これから、君が僕らの主になってもらう。分かったね?」
有無を言わせない髭切の言葉は、少年にも届いていたが、後ろで狼狽を露わにしている膝丸にもしっかりと響いていた。彼の口が挟まる余裕など、どこにも用意してないと言わんばかりに。
やがて、少年はゆっくりと首を縦に振った。
「よし、これで決定だね。じゃあ、君は晴れて僕らの主として一緒に暮らすんだよ」
「兄者、勝手にそんなことを決めていいのか」
「いいのいいの。一応、問題ないことは確認済みだもの」
ようやく口を挟んだ膝丸に、髭切はあっけらかんとした調子でひらひらと手を振ってみせる。
主。審神者に呼ばれていない膝丸にとっては、聞き馴染みはあっても、存在そのものが肌に馴染まない。
けれども、それは主に突如任命された少年とて同じだろう。
とはいえ、髭切が主と言ったのなら、膝丸も主として扱わねばならない。それが、膝丸の選んだ己の在り方だ。
「主――か。兄者は、また奇妙なことを思いつくのだな。こんな子供を」
「これからはお前の主でもあるんだよ。だから、ちゃんと主って呼んであげないとね」
口に馴染まない『主』という単語を、膝丸は何度も心の中で呟く。それから、ごほんと一つ咳払いをして、膝丸は少年へ向き直った。
「では、よろしく頼む。主」
***
二振りが買ってきた夕餉を終えると、普段は適当なタイミングを見計らってシャワーや風呂に向かう時間となる。この習慣も、実は一ヶ月前から身についたものだ。
基本的に人間のように生活しているだけで体に汚れは生じないので、二振りは仕事で汚れたとき以外は、滅多に風呂場を使っていなかった。初めて一ヶ月使ったときは、水道代の請求書の値段が物珍しく見えたものである。
髭切が先に風呂を使うというので、膝丸はキッチンで黙々と皿洗いに勤しんでいた。流し場での片付けを終えてから居間に戻り、膝丸はおや、と瞼を微かに持ち上げる。
これまた一ヶ月前に購入したばかりのソファの端から、髭切の足が覗いていた。よく見れば、風呂に入ると言っていた髭切が、ソファの上ですやすやと眠っているではないか。
その足元では、ソファに凭れるようにして主もうとうとしている。
「……兄者、疲れていたのか」
髭切の体調について、気を配れていなかった自分に気がつき、膝丸は自分の至らなさに胸がずきりと痛んだ。隣にいて、兄のことを何でも知っていると思っていたのに、肝心のことを何も知らないのではないか。
ひょっとしたら、もっと自分が兄のことをよく見ていたなら、主に会うより早く、髭切に朗らかに笑ってもらえる瞬間を送れていたのではないか。
嫌な方向に思考が進んでいると、膝丸は軽く首を横に振る。立ち上がり、膝丸は寝室に置かれていたブランケットを取り出して、眠っている髭切の上にかけた。
刀剣男士は風邪をひいたりしない。しかし、眠っているときに上から柔らかい布団がある方が、心地よいことを膝丸はこの一ヶ月で知っていた。同じように、主の上にも毛布をかけてから、膝丸は先に脱衣場へと向かう。
「俺は、何もかもを見ているつもりで、その実、何も見えていなかったのかもしれないな……」
近くにいるからこそ、気づけなかったのだろうと長義は言うが、膝丸にとっては「近くにいたのに何で気づけなかったんだ」という感情の方が先に生まれてしまう。
髭切に、心の底から幸せそうな笑顔を浮かべてほしい。刀としての幸せは斬ることであり、それは既に満たされている。膝丸も、その点に疑念はない。
だが、それ以外の幸せがあってもいいだろう。空を綺麗と思ったように、団子を美味しいと感じたように──隙間に得た休みを、できる限りの幸福で満たしたい。
なら、何をすれば髭切の幸せになるのか。膝丸はまだ明確な答えを見つけられずにいた。
***
それから数日間、膝丸は髭切の様子を注意深く観察し続けた。
幸いなるかな、二人でばらけての任務もなく、彼は思う存分髭切の様子を見守ることができた。
だが、いくら弟といえど、あまりに凝視されていれば髭切も不自然に感じる。
「ねえ、弟。僕の顔に、何かついてる?」
ある日、髭切は困ったような微笑と共に、膝丸にそう尋ねた。
場所は昼食のために入った、適当な喫茶店でのことだ。今は昼食を終え、一息ついた所である。
「顔に? いや、何もついていないが」
「そう? でも弟、最近僕の顔をよく見てるよね」
「それは……その、疲れが顔に出てないかと気にしているだけだ」
数日前、ソファで眠りこけてしまっていた髭切は、少し罰が悪そうな顔をしていた。本人としては、風呂に入るといったのに、知らず知らずの間にソファで熟睡してしまったのを、申し訳なく思っていたらしい。
「弟は心配性だね。最近は、よく食べてよく寝るようにしたから。疲労を感じるって、意外と難しいんだね」
刀剣男士は、本質的に鋼である以上、肉体的な疲労は体感として感じないようにすれば、一切断つこともできる。食欲や睡眠欲は、本来物である彼らには存在しないものだからだ。
彼らが欠伸をしたり、お腹を鳴らしたりするのは、あくまで本質以外のおまけとして保持している機能のようなものだ。
とはいえ、精神的な疲弊を感じないわけではない。一部の例外を除いて、出陣し続ければ気力が摩耗し、行動の精彩が欠けていく。だからこそ、審神者や政府の管理者は、刀剣男士たちを酷使しすぎないように注意していた。
だが、髭切と膝丸は、一ヶ月前まで、この余分な機能を全て排除していた。刀である以上、摩耗などしないと思っていたからか、出陣を重ねても彼らの切れ味が鈍ることはなかった。
けれども、一ヶ月前から二振りは、睡眠欲や食欲を仕事の許す範囲内で受け入れるように、生活のスタイルを変更している。結果、自分の限界が分からず、突如電池が切れたように髭切は眠ってしまったのだ。人間で言うならば、寝落ちと表現できるだろう。
「ほら、あれを食べれば疲れも一息で消し飛ぶよ」
髭切が嬉しそうに指さしたのは、店員が持ってきた食後のデザートだった。昼食のおまけであるので、凝った装飾はされていないものの、見たことのない姿の食べ物は二振りの食欲を十分に刺激する。
食べるという行為を知ってから、二振りは出来るだけいろんな味に触れるようにしている。さて、このしふぉんけーきなる品は、いったいどんな味がするのか。髭切は嬉々として、細いフォークをスポンジのような表面に突き立てた。
「これ、美味しいねえ。まるで綿を食べているみたい」
「そうだな。柔らかいのに、決して味が薄いわけではない」
嬉しそうに目を輝かせる髭切につられて、膝丸も満足そうに頷く。
そして、彼は気がつく。
目の前の髭切が、とても嬉しそうに目を細めて微笑んでいることに。幸せそうに、頬を緩ませていることに。
(これが、兄者の幸せそうな顔──)
先ほど言われてしまったのに、膝丸はじーっと髭切を見つめてしまう。彼が浮かべている微笑みは、春の日差しに似て、少し温かい。
今まで目にしてきた微笑も、楽しそうではなかったというわけでもないのに。この笑顔の前では、どうしても見劣りしてしまう。
「兄者は……食べることが好き、なのか?」
気付けば、膝丸はいつしかそんな問いを口にしていた。
「好き、なのかなあ。でも、美味しいのはいいことだと思うよ」
「……そうか」
それなら、髭切にあんな笑顔を齎せるような料理を用意すればいいのではないか。
その閃きは、膝丸にとっては天啓のようにすら思えた。
今、膝丸は密かに料理という行為に挑戦していた。先日も、主の要望で卵焼きなるものを作ったのは記憶に新しい。
二振りにとって食事という行為は、買ってきた料理に対して行われる行動となっていた。
だが、同じものの繰り返しでは、多少飽きも生じる。店によっては、来店時間次第で既に売り切れの場合もある。それらを鑑みた上で、自分で作る手段があると主に教えてもらい、ならば挑戦しようと膝丸は奮起したのだ。
すぐに料理の腕も刀同様に上達させて、兄の好む品を自在に作れるようになってみせよう。膝丸は心密かに固く決意したのだった。
***
だが、すぐに上手くなるだろうという膝丸の予想とは裏腹に、現実は彼の前に巨大な壁として立ちはだかった。
髭切がいない隙を縫って、膝丸はせっせと調理に勤しんではみたものの、芳しくない成果をあげ続けたまま、既に一週間が経とうとしている。
そんなある日の昼休み、膝丸は珍しく仕事机に突っ伏してうつらうつらと眠気の軍勢と戦っていた。
昨晩遅くまで調理に関する記事を読みあさっていたせいで、少し睡眠が足りてないようで、覚醒を指揮する軍は劣勢だ。このままでは、直に陥落して眠りこけてしまうだろう。
「蜘蛛切、何だか調子が悪そうだな」
遠くから聞こえるのは、鬼丸の声だ。昼休みというのを考慮してか、鬼丸も膝丸を無理に起こすつもりはないらしい。
「最近、ちょっと調子が悪そうなんだよね」
「……例の件とは関係ないだろうな」
「ああ、それとは違うと思うよ。僕が話しかければ、ちゃんと答えてくれるし」
例の件とは何か、と疑問に思ったが、生憎緞帳のように瞼がしっかり下りてしまい、頭をもたげることすら叶わなかった。
「今日って、弟は夜から任務だよね。確か、ちょっと行った先のお墓……だっけ?」
「ああ。簡単な供養だと聞いている。職員が実際の対処をするそうだが、こいつは謂わば見張り番だな。余計なあやかしや霊がちょっかいを出さないように、立っていればいい。言い換えれば、それだけだ」
「でも、夜遅くまで動かなきゃいけないんだよね。疲れているようなら、僕が交代しようかな」
そんなことはさせられない、と膝丸は言いたかったが、もはや半ば寝ているような意識では言葉など到底発せられなかった。
「あんたも、今日の夕方から一晩かけて移動して、地鎮祭の同行任務だろ。自分の予定を忘れるな」
「そうだけど、僕の方は移動してる間、休めるじゃないか」
「疲労は、無視できるんじゃなかったのか」
鬼丸が口にした言葉は、以前髭切と膝丸の激務に鬼丸が口を挟んだとき、膝丸が返した言葉だ。そのときは、髭切も素直に賛同していた。
「無視しようと思えば、今だって無視できるよ。ただ、弟は最近どうも体が疲れている以外にも、悩んでいるみたいだから。何に悩んでいるのかは、生憎分からないけれど、肉体の疲労ぐらいは取り除いてあげたいんだ」
どこか愁いを帯びた声を発している髭切は、きっと到底幸せとは程遠い顔をしているのだろう。
そんな気持ちにさせてしまったことを申し訳ないと思いながら、膝丸は泥のようなの眠りへ、ゆっくりと沈んでいった。
***
その日の晩、膝丸は庁舎から数駅離れた町にある、とある墓地にいた。如何にも何か出そうな雰囲気は漂っているが、実際には空気も澄んでおり、悪い気配はしない。
「……これで、今回は大丈夫かと思います」
やや腰の低そうな中年の男性職員は、着物の裾を払って告げる。彼は、今までこの墓地で度々目にされる亡霊らしきものを鎮めるための儀式を一人で執り行っていた。
最近、近隣住民がその人影を目にして、あることないこと騒ぎ立てるので、余計な影響が出る前に、速やかに対処する必要があったらしい。
本来は一人でもできることなのだが、なんでもここは諸々の人ならざるものがよく通り道としているようで、儀式の最中に余計なものが寄り付かないようにと、膝丸自身が魔除けとして呼び出されたのだ。
「あの……私が言うのも何ですが……膝丸さん、帰ったらちゃんと休んでくださいね」
「ああ、わかっている」
彼がわざわざ念を押すのは、嘗ての膝丸が休息も碌に取らず働いていたのを知っているからだろうと思い、彼は何てことのないように返したが、
「絶対、休んでくださいね。ひどい顔をしています」
「……そんなに、俺は疲れた顔をしているか」
「疲れた、というよりかは、思い詰めた顔、といいますか。気落ちしている様子でしたので……」
目の前の彼に悪気はないのだろうが、出かける前の髭切と鬼丸のやり取り、更に今取り組んでいる料理の上達が上手くいってないことを思い出して、膝丸は長々とため息を吐いてしまった。
「私は、ここから車で帰る予定なのですが、膝丸さんの家に送っていきましょうか?」
「君の家はどちらにあるんだ」
彼の最寄り駅は、膝丸の住むマンションとは真逆の方角にあった。送ってもらったら、その分この男の休む時間を奪ってしまうだろう。
「それなら、駅前でタクシーとやらを拾う。それに、どうせこのぐらいの距離なら走って帰ってもいい」
人間ならまず間違いなく途中でバテてしまう距離ではあるが、刀剣男士の彼には疲労などあってなきが如しだ。
簡単な別れの挨拶を済ませてから、膝丸は墓地の入り口から外へと出た。
倦怠感と眠気がどさりと肩にのしかかってくるが、今は目を擦って息を整え、無理矢理体の外へと疲労を追いやる。
(兄者は泊まりで帰ってこない。明日……いや、もう日付が変わったから、今日だな。どちらにせよ、俺も夕方まで出かけねばならない予定はない。それなら、少しまた料理の修練をするか)
先日挑戦したパンケーキなるものは、手順通り作ったつもりが焦げてしまった。炭化した表面を見て、声もなく崩れ落ちそうになったのは記憶に新しい。
暗澹たる気持ちを抱えつつ、膝丸は帰路の道を行く。この辺りは、急峻な坂道が断続的に広がるような地形となっている。職員から聞いた話によると、山を無理矢理切り開いて作ったために、急な上り坂や下り坂がそのままになっているらしい。
墓地に向かうときも、車で坂を上る際に、彼が難儀しているのを膝丸は助手席から見守っていた。
灯りの少ない山沿いの道を、膝丸が歩いていると、
「……何だ、あれは。家の灯りが漏れているのか?」
膝丸の向かう先、数メートル向こうの道路にぼうっと灯りが漏れていた。
最初、膝丸は目の前の道路に散っている光を、玄関に点けてある光が夜道に漏れ出たものと思っていた。だが、すぐにそんなわけがないと知る。
墓地は山間に食い込むように作られており、膝丸はそのまま山に沿って歩いていた。
坂道の下には人家があるが、彼の歩く通り沿いに面した家は一軒もない。故に、道に灯りが漏れるわけがない。
しかも、その光は玄関灯の人工な光などとは異なる、炎のような、蛍のような暖かさと不思議な気配を漂わせているように思えた。
知らず知らず、膝丸は小走りでそちらに足を向けていた。光が漏れている場所をそーっとのぞき込み、そして彼は思わず息を飲む。
「ここは……」
そこにあったのは、小さな石造りの広場だ。まるで提灯をほうぼうに吊しているのではないかと思うほど、温かな光がその場に満ちている。
広場の向こうには、同じく石造りの道がずーっと続いており、真っ赤な灯籠が道沿いに建てられていた。道の先に見えるのは、朱塗りの鳥居に間違いないだろう。
恐らく眼前の広場は、入り口にあたる場所なのだろう。
その広場には、いくつかの小さな人影があった。年の頃、六つか七つかという子供たちが、あちこちで遊び回っている。あちらは綾取り、こちらは鞠つき、そちらでは広場の横幅いっぱいを使って、何やら追いかけっこのようなことをしている。
「わたしと遊ぶ人、この指とーまれ!」
子供の中でも、少しだけ年かさの少女が声を張り上げる。真っ白なワンピースに、真っ直ぐな黒髪が特徴的な子供だ。
「わたしやるー!」
「おれも!」
「ぼくも!!」
あっという間に、六人ほどの子供が黒髪の少女の元へと集まった。リーダー格らしい少女は、何やら子供たちに告げた後、
「じゃあ、あなたとあなたが門役ね!」
「ええー、またおれ?」
「やった! にいちゃんといっしょ!!」
何かの役に命じられたらしい少年二人は、兄弟だったらしい。兄は不承不承といった様子だが、弟はぴょんと跳ねた後、兄の手をとって歓声をあげる。その笑顔につられ、やがて兄もにっこりと笑いかけた。
彼らの笑顔を見て、そっと様子を見ていた膝丸の胸中に微かな痛みが走る。
「……仲の良い兄弟なのだな」
ぎゅっと強く手を握り合う二人。ただ微笑みかけるだけで、兄に幸せな笑顔を浮かべさせられる弟の少年を見ているだけで、小さな痛みが走っていく。
「ねえ、何やる?」
「じゃあ、とおりゃんせやりたい!」
「それって、歌わなきゃだよね。何て歌うんだっけ?」
「もう、また忘れたの? じゃあ、皆で一度練習! せーのっ」
リーダーの少女が、凜と澄んだ声で歌を響かせる。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神様の 細道じゃ
どこか人を惹きつける声だ。子供の声であるために、素朴であり、癖もない。立ち尽くしたまま、ゆっくりと響く不思議な童歌に耳を貸していると、
「──ねえ、一緒に遊んでいく?」
突如、背中から声がした。
背筋に冷たいものを覚え、膝丸は勢いよく振り返る。見れば、足元には白い着物を着た、腰ほどまでの長さの真っ直ぐな黒髪を持つ少女がいた。
童歌を歌っている少女によく似ているので、もしかしたら姉妹なのかもしれない。
こちらを見つめる瞳は黒曜石のように黒く、夜道ということもあいまってか、その眼窩は全て黒で塗りつぶされているように見えた。
「遊びたいなら、入れてあげてもいいよ?」
小首をかしげる少女の仕草は、子供特有のあどけなさを秘めている。とはいえ、当然遊ぶつもりなどない。膝丸はゆっくりと首を横に振った。
「いや、結構だ。俺は、家に帰らねばならない」
主が待っている。心の中で膝丸はそっと付け足した。
すると、少女は探るような瞳でじーっと膝丸を見つめてから、にこりと笑いかけた。
「そう。あなたなら、いつでも歓迎するよ」
特に残念そうな素振りも見せず、少女はじっとこちらを見つめている。
遊び仲間に入るわけでもないのに、子供たちをただ見ているのも、彼らにとっては不愉快だろうと、膝丸は社に背を向けて歩き出す。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ──
童歌が、徐々に小さくなっていく。きっと、歌と共に何か遊びをしているのだろう。
どこか後ろ髪を引かれるような思いで夜道を歩き続け、歌が聞こえなくなった頃、ふと膝丸は足を止めた。
「待て、今いったい何時だ」
携帯端末を取り出すと、午前一時半という文字盤が眩く輝いていた。墓地を出たのは午前一時頃だったから、そこまで不自然な時刻ではない。
だが、気になったのは、
「こんな時間に、子供が遊んでいるものか?」
慌てて振り返り、そして彼は絶句する。あれほどまでに煌々と道路を照らしていた灯りが、今はまるで見えない。
来た道を駆け戻り、膝丸は思わず目を見開く。
そこには黒々とした木々と、立ち入り禁止の札が立てられているだけだった。その間に、石造りの広場も、参道もない。
「疲れのあまり、夢を見ていた……のか?」
まるで、長い旅の末に辿り着いたような、安心感のある灯火が瞼の裏でもまだちらついている。
だが、どれだけ目を凝らしても、あの灯りは目に入らない。
やはり、疲労のあまり夢を見たのだろうと、膝丸は諦めて背を向け、家路を急ぎ始めた。
家に帰ることを急ぐあまり、膝丸は気が付かない。
「行きはよいよい、帰りは……」
己の口が知らず、その歌を紡いでいることに。
彼の背を、じっと見つめる一対の視線に。
髭切と膝丸は、自分たちの待機場所でもある仕事机の前で、のんびりと端末に流れてくる情報を見つめていた。
今は、鬼丸国綱も他の同僚たちもいない。二振りだけの空間には、端末の駆動する低い音だけが響いている。
彼らの仕事は、基本的に任務が来ない場合は、よその部署の手伝いとなる。
だが、人手が足りているときは、こうして過去の案件の確認や、自分が関わった仕事の報告書を作るのみとなる。要するに、彼らは暇を弄んでいた。
そして、その間隙を突くように姿を見せる者もいる。軽く扉がノックされて姿を見せたのは長義だった。
「おや、長義。どうしたんだい」
「入れ違いになっていなくてよかったよ。先ほど鬼丸国綱に会って、今ならいるだろうと聞かされていてね」
部屋に入ってきた長義は、細長く丁寧な包装のされた箱を髭切の前に置いた。
「先日、君たちが助けた職員がいただろう。彼が『世話になった礼に、これを渡すように』と俺に言付けてね。本当に助かったと、何度も言っていたよ」
「そうか。それはよかった」
膝丸は、簡潔に長義の言葉に応じる。
言葉だけなら彼は職員の無事を喜んでいるようにも聞こえるが、その実、さして興味がないことが言葉の裏からありありと透けて見えた。
(だから、直接行くのは止めるように言ったんだよね)
そつの無いやり取りを髭切と交わしつつ、長義は思う。
髭切と膝丸は、仕事に関わる人間に最低限の関心は抱くものの、それは人格や人柄への興味ではない。
彼らはきっと、職員があの後亡くなったと聞いても、きっと同じような反応をするだろうと、長義には分かっていた。
そんな者の相手を、わざわざ人間にさせるものではないと、長義は言づて役を請け負ったのだ。
「これは何が入っているんだい?」
「焼き菓子だよ。君たち、最近は食事もちゃんとしているのだろう。宿でも夕飯をぺろりと平らげていたのを見たからね。だから、食べ物がいいかと思ったんだ」
「おお、ありがとう。嬉しいよ」
髭切はほけほけと暢気な笑顔を浮かべる。その彼が、数年前は食事など不要と冷えた目で言っていたと、長義は到底思えなかった。あの怜悧な彼も、きっと今目の前の髭切の中に残ってはいるのだろう。
願わくば、それに出くわさずに済むことを、長義は口にせず願う。
長義の心配など余所に、髭切は包装を解いてひょいと箱を開ける。中には貝殻の形をした焼き菓子──マドレーヌが整然と並んでいた。
標準的なプレーンの味から、抹茶を練り込んだ薄緑のもの、オレンジや苺の風味を加えたものもある。色鮮やかな貝殻は、目で見ても美しい品だ。
「綺麗だねえ。これは、お菓子かな? 甘い香りがするよ」
「ああ。マドレーヌという洋菓子だ」
言いつつ、長義はじーっと髭切を見つめる。未知のお菓子に目を輝かせている青年の姿は、いつぞやのやり取りなど幻だったのではないかと思うほど、あまりに『普通』だった。
長義の知る彼は、先ほど思ったように、もっと何事に対しても興味が薄いものだと思っていた。恐らく、それはそれで間違いではないのだろう。
けれども同時に、こうして普通すぎる反応を今の髭切は見せている。だからこそ、長義は彼に聞かせるつもりもなかったが、ぽつりと呟いてしまった。
「……君は、変わったね」
「うん?」
「いや、その……君がそんなに豊かな感性を──心を持っているとは思ってもいなかったから」
「そうかなあ? 僕は、今までもこれからも、一振りの刀であることをやめるつもりはないのだけど」
だが、長義はゆっくりと首を横に振る。たとえ、それが表面上であったとしても、変化は変化だ。
「君は、あの石段から見た光景を美しいと思っていた。それが失われることを、寂しいと語っていた。それは、君の心が感じたことだと、言えるんじゃないだろうか」
「そんな話をしていたのか?」
不思議そうな顔で首を捻る膝丸に、長義はゆっくりと頷く。
「膝丸は、丁度ムジナによって迷子にさせられていた時だったからね。あのときの髭切──君は、目の前の光景を意味のない景色と言い切らなかった。自分の力を振るえるなら、何だっていいと言っていた君が、足を止めて、己の感情を語っていた」
「悪いことかな?」
「いや。君が良いと思うのなら、それは良いことなんじゃないか。嘗ての君なら、間違いなく無視していただろうけれどね」
長義としては驚きに値する振る舞いだったのだが、髭切にとってはそうではなかったらしい。彼は「大袈裟だなあ」と、いつものように人好きのされそうな笑みを浮かべていた。
「別に、兄者が大きく変わったように俺には思えないが」
「それは、膝丸。君は常に側にいすぎているからだろう。その顔一つとってもそうだよ」
長義は、にこにこと微笑む髭切の笑顔を軽く指で示しつつ、続ける。
「君は確かによく笑顔の形だけなら浮かべているが、もっと冷えた雰囲気だった。話していても、何だか岩とでも対話しているような心地になったものさ」
「そんな風に見えていたのかい?」
「ああ。自覚していないのだとしたら、そんな間抜けは恐らく君たち自身だけだろう」
髭切は自分の頬を指先でふにふにと触ってみせる。長義の言う変化を、彼なりに確かめようとしているようだ。
「……僕は刀の本分を忘れたように見えるかい?」
「いいや。その点に関してだけは、きっと変わりないだろうさ」
ムジナの一件の際、ともすれば彼らを躊躇なく斬り捨てようとした姿を思い出して、長義はすぐに言い返す。
「ただ、髭切。君は以前よりも少しだけ、器用に物事を受け止められるようになっている。俺には、そう見えたんだよ」
そこまで言い切ってから、長義は呆れたようなため息をついた。何故なら、髭切が長話に耐えきれず、マドレーヌの包装を破って口に咥えていたからだ。長義が呆れたように息を吐くのも無理はない。
「弟、お茶を淹れてきてくれる? これなら何が合うかな」
「それなら、この前俺が給湯室に置いた茶葉が合うだろう。あれは西洋のものだからね」
「承知した。兄者、暫く待っていてくれ」
長義のアドバイスをもとに、膝丸は給湯室に向かう。続けて、水の流れる音が二人の所にも聞こえてきた。
「……髭切。君は、いったいどういう心境の変化で、今のようになったんだい。正直、少し……いや、かなり驚かされているんだ」
「何に? 僕が心とやらを得たことかな」
「そうだね。君たちがこうして、仕事の合間にも休みをとっていることにだって驚かされている。以前は、昼夜問わず任務をびっしり予定に入れていたというのに」
「ありゃ、部署も違うのにどうしてそんなことを知っているんだい? 僕たち、以前は時間遡行軍の先行偵察を行う部署にいたけれど、長義の姿は見かけなかったよ」
「俺の仕事は、元々監査官だ。君たちの異常勤務は、十分監査対象に値する。別の課ではあったけれど、内部監査をしていた知り合いが君たちのことを話していた。最初は無理やり重労働を強いられているのかと、一応心配していたんだよ」
しかし、その心配は杞憂だった。なぜなら、二振りが自主的に休みを却下していると知ったからだ。長義自身、休みなど必要ないと髭切本人の口からも聞かされている。
それでも彼らの上司であり、管理者に該当する人間は、二振りに無理矢理休みをとらせようとした。だが、一度休暇を与えたにも拘わらず、結局二振りが休みを欲しいと言い出すことはなく、なし崩し的に無茶苦茶な勤務が黙認されることになったのだ。
「この前も話したと思うんだけれど、僕らは刀だから、その本分は斬るべきものを斬る以外にないと思っていたんだ」
「それを変えたのが、君の主というわけかな」
先だっての事件の際、髭切が長義に漏らしていた言葉を彼は振り返る。
「そうだね。僕らには、きっと主が必要だ。守るべき者がなかったら、きっと僕らはいずれ壊れてしまう。そう思って、彼に主になるよう命じたんだ。でも、僕は正直主から影響なんて受けないだろうと思っていた」
髭切は微かに目を伏せ、その瞬間を思い返す。
主を主として迎えたその日、髭切は弟と任命されたばかりの主と共に、万屋を歩いていた。
弟は、主という存在を髭切より重く見ていたらしい。彼なりに何かしてあげようと考え、膝丸は団子を主に買い与えていた。だが、主は二人に申し訳ないと思ってか、すぐに口をつけなかった。
店主に二人もどうかと促され、仕方なく髭切も団子を買い、椅子に腰掛けて団子を口にして──
「おいしかったんだよね、とても」
長義に語って聞かせながら、髭切は思い返す。
所詮、一本いくらもしない簡素な団子だ。だが、髭切は今まで足を止めて、ゆっくりと食べ物を口に含んだことがなかった。誰かの付き合いで食べることはあっても、味はしてもそれが『美味しい』とは感じなかった。
だが、あの日は違った。腰を落ち着け、少しだけ肩の荷を下ろして食べた団子は、おいしかった。
その瞬間、長いトンネルを抜けたような開放感で、体が満たされていった。
「空が、青いと知ったんだ。桜が、綺麗だと思ったんだ」
知識としては知っている。目で見たこともある。だが、あの時、髭切の中で眠っていた何かが目を覚ました。それは、長義のいう『心』なのかもしれない。
「主は、僕らのように真っ直ぐは歩けない。立ち止まることも多い。それに合わせて足を止めたら、今まで見えないものが目に入るようになったんだ」
世界のざわめきが、花の美しさが、空気の冷たさが。
一つ一つ、自分を取り巻く世界が、知らない顔を見せるようになっていった。
「だから、ちょっとだけ足を止めてもいいかなって。たまには、だけどね。僕は今でも刀であることが最も大事だと思っているし、斬るべきものを斬る存在でありたいと願っている」
だけど、と髭切は付け足す。
「少し休憩するのは、悪くないことだと思ったんだ」
「……なるほど。君の変化の理由が、分かった気がするよ」
長義も思う所があるのか、髭切に似た柔らかな微笑を浮かべていた。
「そんな君の主に対して俄然興味が湧いたのだけど、いったいどんな人物なんだい」
「子供だよ。男の子。七つか八つくらいかなあ」
未成年であっても十は超えているだろうと思っていた長義は、髭切の言葉に目を丸くした。
「まさか、君……誘拐してきたんじゃないだろうね」
「いやいや、そんなことはしていないよ。一応、政府にも連絡はしている。ちゃんと、許可も降りているよ?」
「それならいいが……待てよ、子供をまさか一人で家に置いてきているのか? 七つ八つの子供なんて、小さな怪獣と変わらないぞ。俺がいったい、あの頃どれだけ手を焼かされたか!」
「おや、その年の子供と接点があったのかい?」
長義はわざとらしく大きな咳払いして、髭切の質問を誤魔化した。どうやら、彼にとっては訊かれたくない内容だったらしい。
「ともかく、彼は良い子にしていると思うよ。彼は、言われたこと以上の行動は勝手にしないんだ。命令されることに、慣れているって感じがする……というのかな」
髭切は、瞼の裏に主を思い浮かべながら、ぽつりと呟く。
「ある意味、彼は僕らよりずっと──物みたいだ」
じっと見つめる主の大きな瞳は、いつも空っぽでどんな感情を浮かべているのか定かではない。だが、最近はそんな彼の瞳にも、辛うじて違うものが見え隠れし始めた。
「彼はいつも、ちょっと困っているような、不安げな顔で僕たちを見てくるんだよね」
「そりゃあ、君たちの主なんて任命された日には、俺だってそんな顔をしたくなるよ」
長義は内心で、その主とやらに強い同情を抱いていた。幸いなるかな、子供なら髭切と膝丸の突拍子もない言動に頭を抱えはしないだろう。
もっとも、彼らの悪影響を受けて育つという、別の意味での懸念はある。
「不安そうにしているのなら、頭を撫でてあげればいいんじゃないかな。子供はそういう触れあいを喜ぶからね」
「へえ、そういうものなんだ」
髭切は分かったような顔でもっともらしく、長義に頷いたのだった。
長義と髭切が雑談を交わしている頃、膝丸は火にかけている薬缶を前にして悶々と思考に耽っていた。
「いつも側にいるから、気が付いていない──か」
長義が何の気もなしに放った言葉が、膝丸の心には深々と突き刺さっていた。
確かに、膝丸はいつも髭切の隣に立っていた。だからこそ、髭切のことなら何もかも理解していると思っていた。
刀を振るうときの微かな癖、何気ない仕草、好む作戦は何で、いつも傍らの弟に何を求めているのか。
膝丸は、何もかもを分かっているつもりだった。だが、彼は気が付けていなかった。
「兄者は、主と出会ってからの方が、よく笑うようになった気がしてはいた」
主と出会い、人間のように休みを得て、食べ物を口にする生活を選んでから、髭切はよく笑うようになった。
以前から、笑わなかったわけではない。彼は、膝丸に向けてよく笑いかけていた。それもまた事実だ。
だが、言われてみれば、最近目にする笑顔は少し違うように思う。
朗らかに、楽しそうに、嬉しそうに──幸せそうに、髭切は笑うようになった。
「俺は、兄者に幸せをもたらせていなかったということか……?」
隣に立ち、刀を向ける先を揃え、背中を守り守られ、刀らしくあることを膝丸も望んでいた。
兄が望んだからだけではなく、膝丸にとっても、この在り方が最善だと信じていた。
けれども、どうやらそれだけでは、兄の笑顔を幸せなものにはできていなかったらしい。主がいなかったら、髭切はあのように微笑むことすら知らなかったのだ。
それが良いことなのか、悪いことなのかと問われれば、兄にとっては良いものだったのだろう。だから、髭切は足を止める選択をしたのだから。
「俺も、今までの俺がしてこなかったことで、兄者に笑ってもらいたいものだ」
小さな願望が、膝丸の中で芽生える。だが、何をすれば髭切は喜んでくれるだろうか。幸せを感じてくれるのだろうか。答えは、どれだけ悩んでも出てこない。
気がつけば目の前でヤカンがぴーぴーと笛を鳴らしていた。膝丸は慌てて火を止め、長義が以前残していった茶葉を手にとった。
***
庁舎にいても、任務が割り振られなければ彼らはそのまま自宅に戻る。もっとも、逆に深夜だろうが早朝だろうが、緊急の案件が舞い込んできたら、強制的な呼び出しを食らう。
時間遡行軍の偵察任務をしていた頃は、比較的規則正しい生活を送れていたが、現在の部署に所属するようになってから、彼らの活動時間帯はかなり乱れるようになっていた。それでも身体に大きな不調が訪れないのは、彼らが人ではないからだろう。
ともあれ、今日は大きな仕事もなく、二振りは順当に自宅のあるマンションに到着していた。
髭切と膝丸の住まいは、ファミリー向けに建てられた中階層マンションの一室にある。最上階は八階であるが、彼らが暮らすのは真ん中より少し上に位置する五階の角部屋である。
「この建物も、最初は慣れなかったよねえ」
「政府の寮とは、つくりも様式も異なっていたからな」
マンションのエントランスに繋がる扉に鍵を差し込み、ぐるりと回す。中に入って扉を閉めれば、オートロックの錠が勝手にがちりと鍵を閉めてくれた。
一般市民も暮らすマンションであるため、当然通りがかる人もいる。丁度エレベーターから降りてきた中年の女性は、二人の横を通り過ぎてから、もう一度振り返った。
刀剣男士の容貌は、人の目を惹きやすいと聞いているので、彼女の不審な動作にも二振りはいちいち驚かない。
「あそこの寮から、この仕事を始める前に、追い出されちゃったものねえ」
「仕方あるまい。俺たちは、怪異やあやかしに関わるものだ。俺たちが万が一奴らを自宅に呼び寄せてしまったら、他の刀剣男士たちに迷惑がかかる」
それなら民間人への影響はいいのかと思いきや、そちらについては隣室を無期限で空き部屋にすることで帳尻を合わせているらしい。二振りは知らないが、彼らの真下にあたる部屋も、現在空き室となっていた。
「それに、部屋が広くて沢山あるものね」
「ああ。のびのびと過ごせるのはいいことだ」
「そうだね。沢山あったからこそ、色々と役立てられたよ」
髭切は先を行く膝丸の背を見つめ、少し寂しげな笑みを口の端に浮かべた。
帰る場所である五階の一室に辿り着いた髭切は、鍵を差し込んでぐるりと回す。錠前が動き、髭切はドアノブを捻って玄関へと入る。壁沿いの電気のスイッチを入れると、柔らかなオレンジの光が玄関を包んだ。
「ただいま戻ったよ。主、いるかい」
髭切が中に入ると、薄暗い部屋の中、電気もつけずに部屋の片隅でじっとしている主が目に入った。
彼は、膝丸より一回りどころか二回り小さい、小柄な少年だ。黒く真っ直ぐな髪の毛を肩ほどまでの長さに切り揃え、今は無地の簡素なTシャツと膝小僧が見える丈のズボンを穿いている。
年の頃は七つか八つであり、子供の割に丸みは薄く、どこかほっそりとした体型をしていた。
主は、居間の電気を髭切がつけても、ぴくりともしない。だが、これは何も珍しいことではない。主はよく部屋の隅に座ってじっとして、その存在感を極力消すような振る舞いをしていた。用がなければ、彼はほぼほぼ無言を貫き通すぐらい、大人しい子供だった。
「主、起きているかい」
そのまま寝ていることもあるので、髭切は近づいて声をかける。果たして、今日は起きていたようで、髭切の顔を見て数度瞬きをしてから、
「──ひげきり?」
掠れた声で、彼は問う。
「うん、僕だよ」
「ひざまる?」
「ああ」
確かめるように、彼は名前を呼ぶ。二人の応答を確かめて、主はようやく安堵の表情を僅かに見せた。
「……二人が、いなくなる夢、見てた」
「大丈夫だよ。僕らはちょっとやそっとのことでいなくなるような、柔な体をしていないから」
どこか不安げに、主はじっとこちらを見つめている。そんな彼に何かできないかと、髭切は暫し考え、そうして思い出す。長義が、今日の昼に髭切に語って聞かせた言葉を。
「主。頭を撫でてもいいかい」
「……うん」
早速主の頭にそっと手を置き、そーっと撫でると、主はきゅっと目を瞑った。その仕草は、まるでくすぐったいのを堪えているかのようで、口の端には小さな笑みが浮かんでいる。
普段はなかなか表情を変えず、無口な少年の変化に、髭切も思わず口元を緩める。
そんな二人の和やかなやり取りを、買ってきた夕飯を並べながら、膝丸は目を細めて見守っていた。
この少年を主と定めたのは、膝丸ではない。髭切だ。
あの日の出来事を、膝丸は昨日のことのようにはっきりと覚えていた。
***
最初、膝丸は髭切が彼を連れて来たとき、迷子の道案内をしているのかと思っていた。それほどまでに、髭切と子供という組み合わせはちぐはぐなものに見えたのだ。
だが、髭切はまるで仕事の話のついでのように、ごく自然な切り口で、
「ねえ、弟。僕たちで、彼を引き取ってみるのはどうだろう」
そんなことを、突然言い出したのだ。膝丸が呆気にとられたのは、言うまでもない。
「前々から少し考えてはいたんだよね。彼なら、特に煩わしい手続きも必要ないだろうし。それで、君はどうしたい?」
突如話を振られた少年は、膝丸とよく似た驚きの顔で髭切を見つめていた。
自分に尋ねたのではないのかもしれないと思ったのだろう。少年は、おずおずと人差し指を己に指して、首を傾げた。
「そうだよ。君に向かって僕は訊いている。それで、君はさっきいた怖い顔の人たちの所に行くか、僕らと一緒に暮らすか、どっちがいい?」
髭切の言葉を受け、少年はじーっと二振りを見つめる。膝丸が何か口を挟むより先に、彼は二振りを指さし、それが既に一つの決定を示していた。
「うん、これで決まり。いやあ、あっさり決まって良かったよ。じゃあ、そうだね」
髭切は逃げ腰になる少年の腕をしっかりと掴み、真正面から彼を見据えて言う。
「これから、君が僕らの主になってもらう。分かったね?」
有無を言わせない髭切の言葉は、少年にも届いていたが、後ろで狼狽を露わにしている膝丸にもしっかりと響いていた。彼の口が挟まる余裕など、どこにも用意してないと言わんばかりに。
やがて、少年はゆっくりと首を縦に振った。
「よし、これで決定だね。じゃあ、君は晴れて僕らの主として一緒に暮らすんだよ」
「兄者、勝手にそんなことを決めていいのか」
「いいのいいの。一応、問題ないことは確認済みだもの」
ようやく口を挟んだ膝丸に、髭切はあっけらかんとした調子でひらひらと手を振ってみせる。
主。審神者に呼ばれていない膝丸にとっては、聞き馴染みはあっても、存在そのものが肌に馴染まない。
けれども、それは主に突如任命された少年とて同じだろう。
とはいえ、髭切が主と言ったのなら、膝丸も主として扱わねばならない。それが、膝丸の選んだ己の在り方だ。
「主――か。兄者は、また奇妙なことを思いつくのだな。こんな子供を」
「これからはお前の主でもあるんだよ。だから、ちゃんと主って呼んであげないとね」
口に馴染まない『主』という単語を、膝丸は何度も心の中で呟く。それから、ごほんと一つ咳払いをして、膝丸は少年へ向き直った。
「では、よろしく頼む。主」
***
二振りが買ってきた夕餉を終えると、普段は適当なタイミングを見計らってシャワーや風呂に向かう時間となる。この習慣も、実は一ヶ月前から身についたものだ。
基本的に人間のように生活しているだけで体に汚れは生じないので、二振りは仕事で汚れたとき以外は、滅多に風呂場を使っていなかった。初めて一ヶ月使ったときは、水道代の請求書の値段が物珍しく見えたものである。
髭切が先に風呂を使うというので、膝丸はキッチンで黙々と皿洗いに勤しんでいた。流し場での片付けを終えてから居間に戻り、膝丸はおや、と瞼を微かに持ち上げる。
これまた一ヶ月前に購入したばかりのソファの端から、髭切の足が覗いていた。よく見れば、風呂に入ると言っていた髭切が、ソファの上ですやすやと眠っているではないか。
その足元では、ソファに凭れるようにして主もうとうとしている。
「……兄者、疲れていたのか」
髭切の体調について、気を配れていなかった自分に気がつき、膝丸は自分の至らなさに胸がずきりと痛んだ。隣にいて、兄のことを何でも知っていると思っていたのに、肝心のことを何も知らないのではないか。
ひょっとしたら、もっと自分が兄のことをよく見ていたなら、主に会うより早く、髭切に朗らかに笑ってもらえる瞬間を送れていたのではないか。
嫌な方向に思考が進んでいると、膝丸は軽く首を横に振る。立ち上がり、膝丸は寝室に置かれていたブランケットを取り出して、眠っている髭切の上にかけた。
刀剣男士は風邪をひいたりしない。しかし、眠っているときに上から柔らかい布団がある方が、心地よいことを膝丸はこの一ヶ月で知っていた。同じように、主の上にも毛布をかけてから、膝丸は先に脱衣場へと向かう。
「俺は、何もかもを見ているつもりで、その実、何も見えていなかったのかもしれないな……」
近くにいるからこそ、気づけなかったのだろうと長義は言うが、膝丸にとっては「近くにいたのに何で気づけなかったんだ」という感情の方が先に生まれてしまう。
髭切に、心の底から幸せそうな笑顔を浮かべてほしい。刀としての幸せは斬ることであり、それは既に満たされている。膝丸も、その点に疑念はない。
だが、それ以外の幸せがあってもいいだろう。空を綺麗と思ったように、団子を美味しいと感じたように──隙間に得た休みを、できる限りの幸福で満たしたい。
なら、何をすれば髭切の幸せになるのか。膝丸はまだ明確な答えを見つけられずにいた。
***
それから数日間、膝丸は髭切の様子を注意深く観察し続けた。
幸いなるかな、二人でばらけての任務もなく、彼は思う存分髭切の様子を見守ることができた。
だが、いくら弟といえど、あまりに凝視されていれば髭切も不自然に感じる。
「ねえ、弟。僕の顔に、何かついてる?」
ある日、髭切は困ったような微笑と共に、膝丸にそう尋ねた。
場所は昼食のために入った、適当な喫茶店でのことだ。今は昼食を終え、一息ついた所である。
「顔に? いや、何もついていないが」
「そう? でも弟、最近僕の顔をよく見てるよね」
「それは……その、疲れが顔に出てないかと気にしているだけだ」
数日前、ソファで眠りこけてしまっていた髭切は、少し罰が悪そうな顔をしていた。本人としては、風呂に入るといったのに、知らず知らずの間にソファで熟睡してしまったのを、申し訳なく思っていたらしい。
「弟は心配性だね。最近は、よく食べてよく寝るようにしたから。疲労を感じるって、意外と難しいんだね」
刀剣男士は、本質的に鋼である以上、肉体的な疲労は体感として感じないようにすれば、一切断つこともできる。食欲や睡眠欲は、本来物である彼らには存在しないものだからだ。
彼らが欠伸をしたり、お腹を鳴らしたりするのは、あくまで本質以外のおまけとして保持している機能のようなものだ。
とはいえ、精神的な疲弊を感じないわけではない。一部の例外を除いて、出陣し続ければ気力が摩耗し、行動の精彩が欠けていく。だからこそ、審神者や政府の管理者は、刀剣男士たちを酷使しすぎないように注意していた。
だが、髭切と膝丸は、一ヶ月前まで、この余分な機能を全て排除していた。刀である以上、摩耗などしないと思っていたからか、出陣を重ねても彼らの切れ味が鈍ることはなかった。
けれども、一ヶ月前から二振りは、睡眠欲や食欲を仕事の許す範囲内で受け入れるように、生活のスタイルを変更している。結果、自分の限界が分からず、突如電池が切れたように髭切は眠ってしまったのだ。人間で言うならば、寝落ちと表現できるだろう。
「ほら、あれを食べれば疲れも一息で消し飛ぶよ」
髭切が嬉しそうに指さしたのは、店員が持ってきた食後のデザートだった。昼食のおまけであるので、凝った装飾はされていないものの、見たことのない姿の食べ物は二振りの食欲を十分に刺激する。
食べるという行為を知ってから、二振りは出来るだけいろんな味に触れるようにしている。さて、このしふぉんけーきなる品は、いったいどんな味がするのか。髭切は嬉々として、細いフォークをスポンジのような表面に突き立てた。
「これ、美味しいねえ。まるで綿を食べているみたい」
「そうだな。柔らかいのに、決して味が薄いわけではない」
嬉しそうに目を輝かせる髭切につられて、膝丸も満足そうに頷く。
そして、彼は気がつく。
目の前の髭切が、とても嬉しそうに目を細めて微笑んでいることに。幸せそうに、頬を緩ませていることに。
(これが、兄者の幸せそうな顔──)
先ほど言われてしまったのに、膝丸はじーっと髭切を見つめてしまう。彼が浮かべている微笑みは、春の日差しに似て、少し温かい。
今まで目にしてきた微笑も、楽しそうではなかったというわけでもないのに。この笑顔の前では、どうしても見劣りしてしまう。
「兄者は……食べることが好き、なのか?」
気付けば、膝丸はいつしかそんな問いを口にしていた。
「好き、なのかなあ。でも、美味しいのはいいことだと思うよ」
「……そうか」
それなら、髭切にあんな笑顔を齎せるような料理を用意すればいいのではないか。
その閃きは、膝丸にとっては天啓のようにすら思えた。
今、膝丸は密かに料理という行為に挑戦していた。先日も、主の要望で卵焼きなるものを作ったのは記憶に新しい。
二振りにとって食事という行為は、買ってきた料理に対して行われる行動となっていた。
だが、同じものの繰り返しでは、多少飽きも生じる。店によっては、来店時間次第で既に売り切れの場合もある。それらを鑑みた上で、自分で作る手段があると主に教えてもらい、ならば挑戦しようと膝丸は奮起したのだ。
すぐに料理の腕も刀同様に上達させて、兄の好む品を自在に作れるようになってみせよう。膝丸は心密かに固く決意したのだった。
***
だが、すぐに上手くなるだろうという膝丸の予想とは裏腹に、現実は彼の前に巨大な壁として立ちはだかった。
髭切がいない隙を縫って、膝丸はせっせと調理に勤しんではみたものの、芳しくない成果をあげ続けたまま、既に一週間が経とうとしている。
そんなある日の昼休み、膝丸は珍しく仕事机に突っ伏してうつらうつらと眠気の軍勢と戦っていた。
昨晩遅くまで調理に関する記事を読みあさっていたせいで、少し睡眠が足りてないようで、覚醒を指揮する軍は劣勢だ。このままでは、直に陥落して眠りこけてしまうだろう。
「蜘蛛切、何だか調子が悪そうだな」
遠くから聞こえるのは、鬼丸の声だ。昼休みというのを考慮してか、鬼丸も膝丸を無理に起こすつもりはないらしい。
「最近、ちょっと調子が悪そうなんだよね」
「……例の件とは関係ないだろうな」
「ああ、それとは違うと思うよ。僕が話しかければ、ちゃんと答えてくれるし」
例の件とは何か、と疑問に思ったが、生憎緞帳のように瞼がしっかり下りてしまい、頭をもたげることすら叶わなかった。
「今日って、弟は夜から任務だよね。確か、ちょっと行った先のお墓……だっけ?」
「ああ。簡単な供養だと聞いている。職員が実際の対処をするそうだが、こいつは謂わば見張り番だな。余計なあやかしや霊がちょっかいを出さないように、立っていればいい。言い換えれば、それだけだ」
「でも、夜遅くまで動かなきゃいけないんだよね。疲れているようなら、僕が交代しようかな」
そんなことはさせられない、と膝丸は言いたかったが、もはや半ば寝ているような意識では言葉など到底発せられなかった。
「あんたも、今日の夕方から一晩かけて移動して、地鎮祭の同行任務だろ。自分の予定を忘れるな」
「そうだけど、僕の方は移動してる間、休めるじゃないか」
「疲労は、無視できるんじゃなかったのか」
鬼丸が口にした言葉は、以前髭切と膝丸の激務に鬼丸が口を挟んだとき、膝丸が返した言葉だ。そのときは、髭切も素直に賛同していた。
「無視しようと思えば、今だって無視できるよ。ただ、弟は最近どうも体が疲れている以外にも、悩んでいるみたいだから。何に悩んでいるのかは、生憎分からないけれど、肉体の疲労ぐらいは取り除いてあげたいんだ」
どこか愁いを帯びた声を発している髭切は、きっと到底幸せとは程遠い顔をしているのだろう。
そんな気持ちにさせてしまったことを申し訳ないと思いながら、膝丸は泥のようなの眠りへ、ゆっくりと沈んでいった。
***
その日の晩、膝丸は庁舎から数駅離れた町にある、とある墓地にいた。如何にも何か出そうな雰囲気は漂っているが、実際には空気も澄んでおり、悪い気配はしない。
「……これで、今回は大丈夫かと思います」
やや腰の低そうな中年の男性職員は、着物の裾を払って告げる。彼は、今までこの墓地で度々目にされる亡霊らしきものを鎮めるための儀式を一人で執り行っていた。
最近、近隣住民がその人影を目にして、あることないこと騒ぎ立てるので、余計な影響が出る前に、速やかに対処する必要があったらしい。
本来は一人でもできることなのだが、なんでもここは諸々の人ならざるものがよく通り道としているようで、儀式の最中に余計なものが寄り付かないようにと、膝丸自身が魔除けとして呼び出されたのだ。
「あの……私が言うのも何ですが……膝丸さん、帰ったらちゃんと休んでくださいね」
「ああ、わかっている」
彼がわざわざ念を押すのは、嘗ての膝丸が休息も碌に取らず働いていたのを知っているからだろうと思い、彼は何てことのないように返したが、
「絶対、休んでくださいね。ひどい顔をしています」
「……そんなに、俺は疲れた顔をしているか」
「疲れた、というよりかは、思い詰めた顔、といいますか。気落ちしている様子でしたので……」
目の前の彼に悪気はないのだろうが、出かける前の髭切と鬼丸のやり取り、更に今取り組んでいる料理の上達が上手くいってないことを思い出して、膝丸は長々とため息を吐いてしまった。
「私は、ここから車で帰る予定なのですが、膝丸さんの家に送っていきましょうか?」
「君の家はどちらにあるんだ」
彼の最寄り駅は、膝丸の住むマンションとは真逆の方角にあった。送ってもらったら、その分この男の休む時間を奪ってしまうだろう。
「それなら、駅前でタクシーとやらを拾う。それに、どうせこのぐらいの距離なら走って帰ってもいい」
人間ならまず間違いなく途中でバテてしまう距離ではあるが、刀剣男士の彼には疲労などあってなきが如しだ。
簡単な別れの挨拶を済ませてから、膝丸は墓地の入り口から外へと出た。
倦怠感と眠気がどさりと肩にのしかかってくるが、今は目を擦って息を整え、無理矢理体の外へと疲労を追いやる。
(兄者は泊まりで帰ってこない。明日……いや、もう日付が変わったから、今日だな。どちらにせよ、俺も夕方まで出かけねばならない予定はない。それなら、少しまた料理の修練をするか)
先日挑戦したパンケーキなるものは、手順通り作ったつもりが焦げてしまった。炭化した表面を見て、声もなく崩れ落ちそうになったのは記憶に新しい。
暗澹たる気持ちを抱えつつ、膝丸は帰路の道を行く。この辺りは、急峻な坂道が断続的に広がるような地形となっている。職員から聞いた話によると、山を無理矢理切り開いて作ったために、急な上り坂や下り坂がそのままになっているらしい。
墓地に向かうときも、車で坂を上る際に、彼が難儀しているのを膝丸は助手席から見守っていた。
灯りの少ない山沿いの道を、膝丸が歩いていると、
「……何だ、あれは。家の灯りが漏れているのか?」
膝丸の向かう先、数メートル向こうの道路にぼうっと灯りが漏れていた。
最初、膝丸は目の前の道路に散っている光を、玄関に点けてある光が夜道に漏れ出たものと思っていた。だが、すぐにそんなわけがないと知る。
墓地は山間に食い込むように作られており、膝丸はそのまま山に沿って歩いていた。
坂道の下には人家があるが、彼の歩く通り沿いに面した家は一軒もない。故に、道に灯りが漏れるわけがない。
しかも、その光は玄関灯の人工な光などとは異なる、炎のような、蛍のような暖かさと不思議な気配を漂わせているように思えた。
知らず知らず、膝丸は小走りでそちらに足を向けていた。光が漏れている場所をそーっとのぞき込み、そして彼は思わず息を飲む。
「ここは……」
そこにあったのは、小さな石造りの広場だ。まるで提灯をほうぼうに吊しているのではないかと思うほど、温かな光がその場に満ちている。
広場の向こうには、同じく石造りの道がずーっと続いており、真っ赤な灯籠が道沿いに建てられていた。道の先に見えるのは、朱塗りの鳥居に間違いないだろう。
恐らく眼前の広場は、入り口にあたる場所なのだろう。
その広場には、いくつかの小さな人影があった。年の頃、六つか七つかという子供たちが、あちこちで遊び回っている。あちらは綾取り、こちらは鞠つき、そちらでは広場の横幅いっぱいを使って、何やら追いかけっこのようなことをしている。
「わたしと遊ぶ人、この指とーまれ!」
子供の中でも、少しだけ年かさの少女が声を張り上げる。真っ白なワンピースに、真っ直ぐな黒髪が特徴的な子供だ。
「わたしやるー!」
「おれも!」
「ぼくも!!」
あっという間に、六人ほどの子供が黒髪の少女の元へと集まった。リーダー格らしい少女は、何やら子供たちに告げた後、
「じゃあ、あなたとあなたが門役ね!」
「ええー、またおれ?」
「やった! にいちゃんといっしょ!!」
何かの役に命じられたらしい少年二人は、兄弟だったらしい。兄は不承不承といった様子だが、弟はぴょんと跳ねた後、兄の手をとって歓声をあげる。その笑顔につられ、やがて兄もにっこりと笑いかけた。
彼らの笑顔を見て、そっと様子を見ていた膝丸の胸中に微かな痛みが走る。
「……仲の良い兄弟なのだな」
ぎゅっと強く手を握り合う二人。ただ微笑みかけるだけで、兄に幸せな笑顔を浮かべさせられる弟の少年を見ているだけで、小さな痛みが走っていく。
「ねえ、何やる?」
「じゃあ、とおりゃんせやりたい!」
「それって、歌わなきゃだよね。何て歌うんだっけ?」
「もう、また忘れたの? じゃあ、皆で一度練習! せーのっ」
リーダーの少女が、凜と澄んだ声で歌を響かせる。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神様の 細道じゃ
どこか人を惹きつける声だ。子供の声であるために、素朴であり、癖もない。立ち尽くしたまま、ゆっくりと響く不思議な童歌に耳を貸していると、
「──ねえ、一緒に遊んでいく?」
突如、背中から声がした。
背筋に冷たいものを覚え、膝丸は勢いよく振り返る。見れば、足元には白い着物を着た、腰ほどまでの長さの真っ直ぐな黒髪を持つ少女がいた。
童歌を歌っている少女によく似ているので、もしかしたら姉妹なのかもしれない。
こちらを見つめる瞳は黒曜石のように黒く、夜道ということもあいまってか、その眼窩は全て黒で塗りつぶされているように見えた。
「遊びたいなら、入れてあげてもいいよ?」
小首をかしげる少女の仕草は、子供特有のあどけなさを秘めている。とはいえ、当然遊ぶつもりなどない。膝丸はゆっくりと首を横に振った。
「いや、結構だ。俺は、家に帰らねばならない」
主が待っている。心の中で膝丸はそっと付け足した。
すると、少女は探るような瞳でじーっと膝丸を見つめてから、にこりと笑いかけた。
「そう。あなたなら、いつでも歓迎するよ」
特に残念そうな素振りも見せず、少女はじっとこちらを見つめている。
遊び仲間に入るわけでもないのに、子供たちをただ見ているのも、彼らにとっては不愉快だろうと、膝丸は社に背を向けて歩き出す。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ──
童歌が、徐々に小さくなっていく。きっと、歌と共に何か遊びをしているのだろう。
どこか後ろ髪を引かれるような思いで夜道を歩き続け、歌が聞こえなくなった頃、ふと膝丸は足を止めた。
「待て、今いったい何時だ」
携帯端末を取り出すと、午前一時半という文字盤が眩く輝いていた。墓地を出たのは午前一時頃だったから、そこまで不自然な時刻ではない。
だが、気になったのは、
「こんな時間に、子供が遊んでいるものか?」
慌てて振り返り、そして彼は絶句する。あれほどまでに煌々と道路を照らしていた灯りが、今はまるで見えない。
来た道を駆け戻り、膝丸は思わず目を見開く。
そこには黒々とした木々と、立ち入り禁止の札が立てられているだけだった。その間に、石造りの広場も、参道もない。
「疲れのあまり、夢を見ていた……のか?」
まるで、長い旅の末に辿り着いたような、安心感のある灯火が瞼の裏でもまだちらついている。
だが、どれだけ目を凝らしても、あの灯りは目に入らない。
やはり、疲労のあまり夢を見たのだろうと、膝丸は諦めて背を向け、家路を急ぎ始めた。
家に帰ることを急ぐあまり、膝丸は気が付かない。
「行きはよいよい、帰りは……」
己の口が知らず、その歌を紡いでいることに。
彼の背を、じっと見つめる一対の視線に。