本編の話

長義がムジナと二人きりで話し合っている頃、髭切は神社の本殿まで戻り、そのまま参道を通って、石段を駆け下りていた。
再びあの長い石段を降りることになるのかと思いきや、拍子抜けするほどあっさりと麓の鳥居に到着してしまった。
どうやら、あの異常に長い登り道も、ムジナが惑わせていたものなのだろう。姿を化ける以外にも、狐狸の類は人を迷わせる術に長けている話が多い。だろう。

「おやおや、もう日が暮れるね」

温かくなってきたとはいえ、まだ五月の初頭だ。決して日が長いわけでもない。
ここは、都会と違って灯りも少なく、山間に太陽が隠れてしまったら周囲は一気に暗くなる。夕日の鮮やかな緋色と微かにたなびく雲が織りなす澄んだ空の景色に、髭切は目を細める。
思わず立ち止まって、ずっとこの景色を眺めてみたいと思う。だが、今はそのときではないとも理解している。

「さてさて、弟はどこに……おお、あれかな」

太陽を背に黒々とした木々を抱える山の途中、自分が降りてきた石段から幾らか離れた場所にポッ、ポッと赤い火が三つ灯っていた。
それはまるで、提灯行列のように一列に並んで、下へ下へと降りていく。あたかも、夜目に慣れていない人間を導くかのように。
髭切が灯火の行き着く先に向かうと、丁度濃い闇を孕み始めている木々から、薄緑の髪をした青年が姿を見せた。その周りには、炎とも電灯とも異なる不思議な灯りがぽつりぽつりと揺蕩っている。

「兄者! 今度こそ、本当に兄者だな」
「紛れもなく僕だよ。もしかして、まだ化かされているのかな」
「それは……すまない。源氏の重宝ともあろうものが、あやかし如きに化かされるなど」

項垂れる膝丸に歩み寄り、髭切はじーっと彼を見つめている。全身にくまなく視線を通してから、髭切は「大丈夫そうだね」と安心したように頷いた。
続けて、膝丸の周りを漂う赤々とした灯を見つめる。それは炎に似た形と、自然な明るさを持っているが、どういうわけか触れても熱は感じなかった。

「これは何だい?」
「ムジナというあやかしが、俺を送っていくと聞かなくてな。結果的にこうして案内してもらったというわけだ」
「ああ、つまり弟も彼らに会ったんだね」
「というと、兄者もか?」
「うん。それについては、道中で話すよ」

髭切は膝丸の肩を軽く押して、歩くように促す。ふわふわと名残惜しげに揺れる火に、膝丸は軽く頭を下げ、謝辞を見せた。
──また何か、美味しいものちょうだい。
そんな風に言われた気がして、膝丸は仕方ないなと言わんばかりに、小さく肩を竦めてみせた。


***

「つまり、この土地には、表向きには祀られていないムジナというあやかしに似た神のようなものたちが住み着いていて」
「それを知らずに、長義たちは別の神様にだけお伺いを立てて、挙げ句に仲間に怪我をさせたものだから、偉いムジナが怒り心頭で取り憑いて苦しめている、というわけだよ」

歩くというよりは、最早ほぼ走っているともいえる速度で宿に向かう髭切に置いていかれないように、膝丸も出来る限り大股で彼の後を追う。

「なら、俺たちのすることは、それを追い払うことだな。話が単純になって分かりやすい」
「細かい交渉は長義がやってくれるだろうからね。あとは彼に任せるよ。ほら、見えてきた」

髭切が指さした先には、この一帯で唯一灯りを点している家──もとい、彼らの泊まっている民宿があった。
昼間は分からなかったが、夜になればこの辺りが廃村であるという事実がよく分かる。
灯りが灯らない家は、すなわち捨て置かれた住まいということだ。まるで黒い箱のような廃墟たちは、点々と開けた土地の上に散らばっていた。
玄関まで辿り着き、髭切と膝丸は揃って顔を顰める。廊下に漂っていた、あの饐えたような臭いが民宿の外にまでしみ出してきていたからだ。

「……これ、獣の臭いだね」
「ああ。兄者も気が付いたのか」

ムジナと対面して気が付いたが、この悪臭は自然に生きる獣が持つ臭いだ。
普段から都会暮らしであり、出陣した際も山で獣と対面するような機会が殆どなかったために、気付くのが遅くなってしまった。
できるだけ悪臭を思考の外に追いやり、髭切はがらりと玄関の戸を開ける。玄関口に繋がる廊下には明かりが点けられており、そこには人影があった。

「なんだ、あんたら。ようやっと帰ってきたのかよぉ」

声をかけてきたのは、見たことのない男だった。どんよりと濁った目に、だらしなくよだれを口の端から垂らしている。
吹くそうな寝間着にも使えそうな浴衣姿で、どこか不健康そうな顔色から、それが長義の話していた職員なのだと二振りは推察する。長義の手刀では、どうやら夕方までしか気絶させられなかったらしい。
顔は赤いが、飲酒のせいというよりは、熱がまだ残っているからではないかと、膝丸は眉を顰めた。

「よく見たら、あの銀髪の兄ちゃん、いねえじゃねえか。あいつの荷物に酒が入ってるから、出してもらおうと思ったのによ」

酔っ払いがただ絡んできたような物言いに聞こえるが、二振りはその奥に確かに別の何かの気配を感じていた。
髭切は、目を細めて薄い微笑を口に浮かべる。ともすればただ笑っているようにも見えるが、膝丸にはそれが臨戦態勢に入った証のように見えた。

「君に渡すお酒はないよ。ムジナの長とやら」
「あぁん?」

瞬間、濁りきった瞳に確かにギラリと鋭い獣の光がよぎる。

「なんだ、あの野郎……ごちゃごちゃ俺に何か言いに来ていたが、さてはお前らにちくったのか?」
「彼は君よりは利口だったというだけだよ。さて、君も利口だと嬉しいのだけど」

髭切の微笑は小揺るぎもしていないが、周りに漂う気配は半ば殺気を帯びている。常人なら、まず間違いなく踵を返す威圧を放っているのに対し、男──あるいは彼に取り憑いたムジナは、物怖じもせずにらみ返していた。

「俺は、どかねぇぞ。勝手に人様の山に入り込むわ、挙句かかあに怪我させるような連中に、どうして頭を下げにゃなんねえ?」
「そっか。じゃあ仕方ない」

あっさり引き下がるような物言いをした瞬間、髭切は手を振るような自然な所作で、背中に負っていた布袋に手をかけ、今度こそ躊躇いなく中のものを抜き出した。
──そこに収められていた、一振りの太刀を。
シャンッと鞘と刃が擦れ、涼しげな音を立てる。それは、神楽鈴のような澄んだ音色だった。
次いで、ひいっという引き攣った悲鳴が響く。それは、間違いなく眼前の男の口から──否、ムジナから漏れたものだ。

「君の仲間は、刀を置いていた長義に声をかけるときに、こう言っていた。『あちらの彼はどうにも金物の臭いが強すぎる』と。それに、君は先ほど長義の持っている酒を譲ってほしいと話していたね。君の性格なら勝手に取っていけばいいのに、何故そうしなかったのか」

髭切は男に詰め寄るため、玄関へと足を踏み入れる。

「長義は僕らにこう言っていたんだ。『刀は神酒と一緒に荷物の中にある』と。君は、彼の本体に近寄りたくなかったんだね」

膝丸に化けたムジナの言葉から、髭切は彼らが刃物や金属を嫌っているのではと推測を打ち立てていた。そして、ここに来る道中で膝丸の話を聞いて、推測は確信に変わった。
小さなムジナの子供たちは、膝丸が刀を抜いた瞬間、まやかしを解いたという。
想像通り、男は狼狽を露わにして、冷や汗を顔の表面にだらだらと流し始めた。

「そ、そ、そんなもので斬ったら! こいつも、怪我すっぞ!!」
「うん。そうだね」

髭切は刀の峰で軽く肩を叩きながら、更に距離を縮める。

「だから?」

それがどうしたのか、と言わんばかりに、髭切は告げる。
淡い金の髪の下、琥珀のように冷たい光を湛えた瞳は、全く笑っていなかった。

「僕は、人に害をなす鬼を斬った逸話を持っている。だから、君が人に害をなし続けるというのなら、斬らないとね?」

もう一歩分、髭切が歩み寄ると、

「──ひ、ひいぃぃぃっ!!」

男の悲鳴は益々大きくなる。
あやかしは、あやかしであるが故に、定められた道理から逸脱できない。時に、それは不条理なほどに。
更に髭切が詰め寄り、男の背が壁についた瞬間、彼は足を縺れさせて派手に転び、どすんと尻餅をついた。途端、がくりとその首が力をなくし、男はそのまま倒れ込む。
ギョロリと白目を剥いた様子は、お世辞にも健康的とは言い難いが、あれほど強く臭っていた獣の気配は一瞬にして消え去っていた。
素早く髭切が辺りを見渡すと、男の背後から白い猫のような小さな影が素早く通り抜けていく。

「膝丸!」

髭切がすかさず呼ぶと、

「ああ」

玄関口に立っていた膝丸の、応じる声。ともに、シャンッともう一つ、鞘が鳴る。
間髪入れず、彼は刀の柄を逆手に持ち直し、それを地面に突き立てる。
──逃げだそうとしていた、白ムジナの眼前へと。

「他の奴らはともかく、貴様を逃すと、後からこの地にやってくる者達に、何かと面倒なことを起こしそうだからな。後顧の憂は断つに限る」
「ご、後生だっ、見逃してくれっ」
「見逃してほしいのなら、最初から余計なことをしなければ良いだろう。口より先に手が出るあやかしを放置しておけば、蜘蛛切の名が廃る」

膝丸が大上段に構え、すっかり腰を抜かした白ムジナに刃を振り下ろすのと、

「待てっ!!」

後ろから長義の声で制止がかかるのは、ほぼ同時だった。
ザンッという乾いた音。
それは、ムジナの隣数ミリの所の地面に、刀が振り下ろされた音でもあった。
文字通り間一髪の所で助かった白ムジナは、ひいぃっと口笛のような甲高い鳴き声をあげながら、草むらに姿を紛れさせ、見えなくなった。
膝丸が振り向いた先、そこには全速力でこちらに向かって駆けてくる長義が見えた。

「嫌な予感がしたから急いでみたら、やっぱりこんなことを! 何で、君たちは、こう……乱暴なんだ!!」
「だってねえ、悪さをしたあやかしは討つものでしょう」

こんこんと自分の肩に峰を当てながら、悪びれもせずに言う髭切。そして同意するように頷く膝丸に、長義は体中の力が抜けていくような長いため息を吐いた。

「彼らの仲間と話はつけた。後ほど、改めて人員を用意して、正式に挨拶に向かうことにはなるだろうが……そっちの彼が助かったのなら、今は深追いしなくていい」

廊下の奥でのびている職員に、長義はすかさず駆け寄り、額に手をあて、脈を取る。まるで使い捨ての雑巾の如く、くたびれた有様ではあるが、命に別状はないようで、長義はほっと安堵の息を吐いた。

「それじゃあ、用も済んだし、僕たちは帰ろうか」
「そうだな。あまり遅くなっては、主も何があったのかと思うだろう」

まるでスイッチを切り替えるかのように、後に残されたもののことなど歯牙にもかけず、髭切と膝丸は顔を見合わせて、眼前の出来事とは無関係であるかのように話を進めていく。

「──盛り上がっているところ、誠に申し訳ないんだが」

長義は、そんな二人を胡乱な目つきで見つめ、

「もう、帰りの電車はないと思うよ」

都会とは異なる現実を叩きつけたのだった。

***

結局、髭切と膝丸は、一晩を長義の泊まる民宿で過ごすことになった。経緯と事情については、携帯端末の電波が復活していたので、電話で鬼丸国綱に先んじて伝えたところ、

「あんたらはまた、面倒ごとを引き起こしかけたな」

くどくどと、短いながらもしっかり説教を貰う羽目になった。どうやら、撃退するまでは良かったが、そのまま殺めようとしたことに対しては、やりすぎと判断されたらしい。
もっとも、兄弟にとってはまとめ役の鬼丸の説教であっても、馬の耳に念仏であったが。
主へ連絡したところ、彼は二振りの無事だけを案じていたらしい。そんな必要はないのに、と髭切は不思議そうに首を捻っていた。


翌朝、夜通しで報告をしていたために眠そうにしていた長義に朝の挨拶をしてから、髭切と膝丸は外へ出た。
玄関先には、この民宿に臨時で派遣されているという仲居が立っている。掃除でもしているのかと思いきや、彼女はつり目がちの瞳に緩やかな弧を描き、こちらへと近づいてきた。

「ご苦労様でした、お二人とも」

彼女は頭を下げ、お弁当です、と二振りに小さな布包みを差し出した。それを受け取ろうと髭切は手を差し出し、

「──ご苦労様?」

彼女の物言いに、髭切は怪訝そうに眉を顰める。
自分たちが巻き込まれた事件について、仲居は詳しくは知らないはずだ。長義が無関係な人間に詳細を語るとも思えない。
なのに、何故労われているのか。しかも、上から目線の言葉で。

「ええ、ご苦労様です。彼らを殺さずに、事態をより良い方にまとめてくれましたから」
「貴様、ムジナについて知っていたのか」

膝丸が半身をずらし、それとなく身構える。

「ええ。あのお客様が暴れ始めた時から、気付いてました。彼らと私は古馴染みなものですから」

女性は膝丸の態度など歯牙にもかけず、ゆるりと口元に笑みを浮かべる。
彼女の言葉だけでいうなら、地元の人間として伝承を知っていた者とも解釈できる。だが、彼女は『違う』と髭切は肌で感じ取っていた。

「私の方が、人が余所から持ち込んだだけの新参者であるというのに、いつのまにか彼らの立場を奪ってしまった。人の信仰を我々がとやかく言うものではないのですが、あまりに公然と罷り通れば、彼らが怒りを抱くのも当然でしょう」

彼女は、二振りから視線を外し、朝靄に包まれている山を──否、その只中に埋もれるようにして開けている、とある一点を見つめていた。
その視線の先には、髭切と長義が膝丸に化けたムジナと向かった神社がある。

「あの方々が最後まで気がつかないようでしたら、この土地を使って良いという前言を撤回しようかとも思ってました。まあ、終わり良ければ、全てよしということですね」

仲居は目を細めて、口元に手を当て、くすくすと意味ありげに笑い続ける。

「まさか、こんなに近くで僕らをずっと見ていたなんてね。つまり、長義がお伺いを立てていたのは、君だったということかな」

髭切も負けず劣らず、腹の底を見せない笑みを浮かべて応じる。

「──化かすのは、ムジナの特権だけではありませんよ。刀の神様?」

仲居は──その土地のもう一柱の産土は、つり上がった瞳で嫣然と、優美な笑みを口に引く。
まるで、狐のような顔立ちで。

***

「最後の最後まで、何かに化かされたような気分だな」
「そうだねえ。なんだかすっきりはしなかったけれど、まあいいんじゃないかな」

膝丸に応じつつ、髭切は来たばかりのことを振り返る。
ここに来てすぐ、部屋にやってきた長義と語り合っているとき、髭切は自分たちを見つめる視線のようなものを感じた。
あれは、恐らくムジナではなく、仲居がこちらを見張っていたが故に感じたものだろう。最初から、彼女はこちらの動向を監視するつもりだったに違いない。

「兄者、真面目な顔をしながらいったい何をしているのだ」

呆れた様子で膝丸が言うのも無理はない。お弁当として持たされたいなり寿司を、髭切は早速頬張っていたからだ。
米粒を口元につけて話している兄を見て、膝丸はやれやれと肩を竦めてみせた。
彼らとしては、もう仕事は終わっている。だからこそ、膝丸は指摘はしつつも、止めさせようとまでは思っていなかった。
肩に力を入れ、神経を張り詰める時間を終え、気を緩めて景色を眺めながら朝の道を行く。朝靄で煙った世界は、まだ早朝ということもあって薄暗い。
だが、登りかけた太陽のおかげか、空気は美しい藍色に染まって彼らを迎えていた。できるのなら、この光景を永劫留め置きたいと願うほどに、自然がもたらす美の結晶は彼らの心を掴んで離さなかった。

「綺麗だねえ、この景色も」
「ああ。恐らく、本丸に赴任した審神者も、刀剣たちも、この光景を毎日見るのだろう」
「それはちょっとだけ、ほんの少しだけ、羨ましいかもね。でも──それは、他の僕らの話だ」
「ああ」

髭切が二つ目のいなり寿司を口に入れようとしたとき、何かの弾みか、手から滑り落ちてしまった。
緩やかな下り坂となっていたのか、いなり寿司はてんてんと転がっていく。そして数度地面を跳ねた先で、不意に小さな獣の手が現れ、しっかといなり寿司を掴む。

「おやおや」
「お前は──」

膝丸が見つめた先、そこにはイタチか狸を掛け合わせたような、奇妙な形をした獣の石像──ムジナの石像と、全く同じ姿形をした獣が立っていた。
白と茶を混ぜ合わせたまだら模様のムジナは、いなり寿司をぺろりと平らげてから、小走りで二振りの元に駆け寄った。

「まだ何か用かい?」
「君たちに礼を言いに来た」

彼は、ぺこりと頭を下げる。

「母を助けてくれて、感謝する。それと、親父を殺さないでいてくれたことも」

髭切は、数度瞬きをしてから「ああ」と得心がいったという声を漏らす。
あの怪我をした白いムジナは、彼の母親だったのだろう。親父というのは、まず間違いなく昨晩逃がしたムジナに違いない。

「別に、僕が助けたわけじゃないよ。あれは長義がしたことだ。お礼なら、彼に言うといい」
「それに、俺も長義が止めたから、刀を振り下ろす先をズラしただけだ。そうでなければ、今頃真っ二つになっていただろう」

だが、彼はゆっくりと否定を表すように首を横に振った。

「そちらの金色のは、その気になれば俺たちを根絶やしにすることもできたが、しなかっただろう。それに、あれほどの使い手なら、即座に斬り捨てることも可能だったのに、そうしなかったのは最初から脅しだけのつもりだったからだろうと、親父は言っていた。情けをかけられたと、帰ってから悔しがっていた」

髭切が膝丸をちらりと見るも、膝丸はわざと視線を逸らしてしまった。その僅かな彼の所作が、何よりも雄弁にムジナの言葉が真実だと語っていた。

「ともあれ、俺は感謝している。あんなものでも、俺の父親で、我らムジナの頭領だからな」
「もう少し聞き分けの良い頭領になるよう、伝えておいてもらいたいものだな。兄者のように」

膝丸が威勢良く髭切の方を向くと、彼は再びいなり寿司を弁当箱から取り出そうとしている所だった。相変わらずのマイペース具合に、膝丸もこれには苦笑いしか浮かべられなかった。

「弟妹たちも、君から甘い玉をもらったと喜んでいた」
「君の弟御や妹御には、人が落とした物を勝手に持っていかないように注意してもらいたいものだな」
「すまない。彼らはまだ、人と触れ合ったことが少なくて、興奮してしまったのだろう。邪険に扱わないでくれたこと、兄として礼を言わせてもらう」

そこまで述べてから、ムジナは彼らを先導するように数歩先を行き、朝靄の浮かぶ虚空へフッと息を吹いた。
すると、二振りの向かう先を案内するように、ぽつりぽつりと紅い灯が灯っていく。
藍色に染まった世界の中、人ならざるものが浮かべた道しるべが、彼らを導こうとしているように、ずっと続いていく。
この幻想的な光景も、嘗てこの土地にあった日常だったのではないかと、二振りは思う。

「諸々の感謝と、先ほどのいなり寿司の礼だ。人里まで、君たちを案内しよう」

ムジナはゆるりと尻尾を振る。

「それが、俺たちの役目なのだから」

言いつつ、ムジナは道ばたに置かれている石像を、懐かしそうに目を細めて見つめる。
彼らの姿を象った石像。道と道の境に置かれているこの石像は、本来人々の旅路を見守るために置かれていたものなのだろう。

「じゃあ、お願いしようかな。この靄じゃ、迷子になってしまうかもしれないからね」

先を行く髭切の後を追い、膝丸も足を一歩踏み出そうとして、ふと振り返る。
彼の視線の先、そこには小さな獣の影が三つ、ぼんやりと浮かび上がっていた。

「今度ここに来る者たちには、悪戯をするのではないぞ」

軽く手を振ってから、膝丸は兄の背中を追いかけて駆け出した。

***

電車とバスを乗り継ぐこと数時間をかけて、二振りは彼らにとって馴染みのある世界──人々の喧騒と家々が立ち並ぶ街へと戻ってきた。
山の静けさと引き換えに、人間たちのざわめきが支配する世界は、あの風情ある緑の楽園とは天と地ほども差がある。
だが、髭切と膝丸にとっては、暮らし慣れた世界はこちらにあるのだ。

「そういえば、あの道案内してくれた彼が、弟に化けていたあやかしだったんだよ」
「そうだったのか。しかし、俺に化けるとは……釈然としないものがあるか」
「見た目もだけど、性格も少し似ていたかもね」

髭切は目を細めて、あの日目にした、弟の姿をした彼を思う。
誠実にこちらに向き合おうとする一方で、同時に己の矜持をねじ曲げることだけはしないと、頑なに定めている瞳。あれは、生真面目な弟と本質は似通っている。

「家族想いなところとかも、かな?」

だから、自分はすぐに斬って捨てようとは思えなかったのかもしれないと、髭切は振り返る。
いずれ、彼が父に代わって采配を振るうようになれば、また違う生き方を見つけ出せるかもしれない。
新たにできる本丸の刀剣男士と、化かしあいでもしていることだろう。
だが、それは自分には関係ないことだ、と髭切は思い描いた未来図を己の考えから切り離した。

(刀である僕には、関係のないことだよ。関係のないことではあるけれど)

神社の石段から見た、輝くような緑。空気そのものに色を染めるような、藍色の朝。それら全てを意味のない無価値なものと、今の髭切は斬り捨てられずにいた。

「まあ、少しぐらいなら、いいんじゃないかな」

以前の自分よりは幾らか穏やかに凪いだ心を抱え、膝丸に笑いかけると、彼もつられるように小さく笑ってみせた。
その笑顔も、きっとあの光景と同じぐらい、自分にとっては大事なものなのだろう。

「いやあ、今日を休みにしてもらえてよかった。帰ったら、何か食べたいなあ」
「兄者、まだ食べるつもりなのか?」
「昼餉はまだ何も食べてないよ」
「道中で仕事終わりだからと、あれこれと買い食いしていたように見えたのは気のせいか?」
「それは、弟の目の錯覚じゃないかな」

あくまで白を切る兄の言葉に、膝丸は仕方ないなと苦笑する。
弟に屈託の無い笑顔をもたらし、自分の心にも変化を与えた──その切っ掛けである主が待つ家の前に到着し、髭切はふと足を止めた。

「そういえば、弟。ええと……こういうときは、何て言うんだっけ」
「兄者、また忘れてしまったのか?」

膝丸が教えてもらった言葉を改めて噛み締め、髭切は鍵を開け、ドアノブへと手をかけた。
扉を開けば、彼らを待つ小さな影が、そっと居間から顔を覗かせている。その者へと、髭切はこう言った。

「──ただいま、主」
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