本編の話

 出口の手がかりを持つかもしれない占い師の場所について、信濃は丁寧に教えてくれた。おかげで二人は迷うことなく、目当ての人物を見つけられた。
 信濃が目印として伝えてくれたお店の近くにいたのは、年の頃は五十ほどの恰(かっ)幅(ぷく)のいい男だった。頭にちょこんと載せた麦わら帽子といい、豊かな腹を包むアロハシャツといい、一言で言うならかなり胡(う)散(さん)臭(くさ)い。ぷかぷかと煙草(たばこ)を吹かして退屈を持て余している姿は、休日の疲れた保護者の風情にも似ている。
 彼の後ろには、売り物なのか、ありとあらゆる品々が積み上げられている。もし主のよく知る世界で彼を見かけていたら、彼は粗大ゴミを集めて並べているように見えたことだろう。商売道具なのかもしれないが、集められている雑多な品はお世辞にも役に立つものがあるようには見えない。
 大きな冷蔵庫に目玉が描かれていないだるま、いつの時代か分からない古めかしいテレビに片方だけの靴。穴の空いたビニルの浮き輪はくしゃくしゃになって床に広がり、隣に置かれた木箱の上ではビー玉のような小さな玉が、仰々しく質の良い布の上に展示されている。

(……あれ、何だろう)

 太陽の光を浴びて七色に輝く、シャボン玉を固めたような小さな球だ。ビー玉のように見えるが、ラムネに入れられていた玉よりは少し大きい。明らかに、その玉だけは一つだけ周りから一線を画していた。

「すまない。そちらが、この辺りで占い師と呼ばれている者か」
「まあ、そうとも言われてますがねえ。おんやぁ……もしかして、おたくら、新参者じゃないですか?」

 のっそりと顔を上げた仕草は、まるで蛙(かえる)みたいだと主は思う。あの大きな口から舌が伸びて虫でも捕まえそうだなどと考えると、不安に揺れていた気持ちも少しだけ緩んだ。

「さては、この辺の人に私のことについて聞いてきましたかあ? 良い噂(うわさ)だといいんですがねえ」
「それは己の身を省みれば自(おの)ずと分かるだろう」
「おや、これは手厳しい! 刀の付喪神さんは、いつも正論ばかりを仰(おっしゃ)る」

 わざとらしく額に手をやる店主。だが、彼は他(た)愛(あい)ない雑談の中で薄緑を既に刀の神様と看破していた。どうにも、この世界に住む者はどこか油断ができない隙のなさを持つ。

「人の願いを当てたり、こちらの願いを叶(かな)えたりするという話なら聞いている。ただではない、ということもな」
「うーん、そういうことまで話されちゃ、わたしもあまり楽しくはないんですがねえ。その話をしたってことは、あの赤毛の神様かな?」
「さて、どうだか」

 話をしてくれた者が誰かについては、薄緑は言葉を濁す。だが、それでも蛙似の店主にはわかってしまうらしい。

「誤解がないように言っておきますがねえ、私は願いを叶えただけですからね。だけど、単純に願いが叶うだけじゃあ道理が通らない。その分、向こうが必要なものを報酬にいただく。こうしてこの世は上(う)手(ま)く回っているというわけですよ」
「詭(き)弁(べん)だな。それほどまでに力があるというのなら、無償で叶えるのが力ある者の役割だろう」
「刀の神様は、遊び心がなくてつまりませんねえ。その分、人間は欲が深くて大変よろしい。願いを探る私も楽というものです。おや、疑ってますね?」

 店主は薄緑の懐疑の視線が何を言いたいか、的確に読み取っていた。

「疑ってなどいない。ただ、願いなど自分でもよく分からないときもある。だというのに、ただ一目見て理解できるものか、とは思っている」
「そういうのを疑ってるって言うんですよ。まあ、願いも色々です。自分ではっきり分かってるものから、そうでないもの。それを考えればあの赤毛の坊ちゃんの側にいた婆(ばあ)様(さま)は、大層分かりやすかった」

 彼の言葉に、薄緑の眉がぴくりと動く。その『婆様』が信濃のご主人様なのだろうかと、主も店主の言葉の続きを待つ。

「彼女の願いはいたってシンプルでした。若返って不老不死になりたいなんて、如(い)何(か)にもそれらしいでしょう? だから、つるっと綺(き)麗(れい)にしてさしあげたんですよ。まあ、その代わり、あの人のお日様は私がもらいましたが。もう太陽を見ることは叶わないでしょう」

 悪びれる様子も見せずに笑う店主に、主は何となく嫌な気配を感じていた。
 この笑い方は髭(ひげ)切(きり)や膝丸のそれとは違う。たとえるなら、嘗(かつ)て保護者だった彼女にすり寄っていた男に似ていた。愛想笑いの応酬を浮かべ、都合が悪くなったら手をあげていた大人の姿が、ふと記憶の端で蘇(よみがえ)る。

「お日様といえば、そこの坊ちゃん。あんたもまた随分と大層な物を欲しがっているようだ」
「えっ」

 まさか自分に白羽の矢が立つと思わず、主は声をあげる。

「空、何か欲しいものがあるとしても、迂(う)闊(かつ)に口にしてはならぬぞ」

 間髪入れず、薄緑に注意をされたが、それでも主は聞きたいと思ってしまった。
 自分が何か願うものなどない。願いを叶える店の話を聞いてから、主はずっとそう考えていた。膝丸と髭切は優しくしてくれているし、温かい寝床も、美(お)味(い)しいご飯もある。帰る場所も落ち着いた生活もあるというのに、いったい何をこれ以上求めていると言うのか。

「……うすみどり、ぼくは、少し気になる」

 自分が内心で何を望んでいるのか知りたいと主は言う。髭切と膝丸との日々はいつも楽しくて、これ以上欲しいものなんてないはずなのに。

「聞くだけは、何かあげないと駄目?」

 難しい大人のやり取りはよく分からなかったが、どうやらこの人は欲しい物を渡す代わりに、お代として大事なものを勝手に持っていってしまうらしいとは主なりに理解していた。
 主の問いに、店主は「いいえ、聞くだけならね」とゆっくりと首を横に振る。薄緑はそれでも警戒をまるで緩めていなかったが、主は『嘘(うそ)は』言わなさそうだと思っていた。
 平気で嘘を言って具合が悪くなったら暴力に訴える大人の胡散臭さと、目の前の店主の胡散臭さは少し違うように思う。これが、主の直感が出した結論だ。

「坊ちゃん、あなたの願いはですよ」

 店主はずいと身を乗り出す。頭が前に突き出ると、ますます蛙のように見えた。

「あなたは、『色』が欲しいんじゃありませんか」

 店主は、にいっと口角を吊(つ)り上(あ)げる。顔の半分を口で埋めるような笑みを浮かべ、彼は言う。

「坊ちゃん、あなたの目は『色』が見えてませんね?」
 店主の言葉に、主は小さく息を飲んだ。

 物心ついた時から、そうだったわけではない。だから、空が青いことも、夕焼けが朱色であることも、自分の髪が烏(からす)と同じ黒であることも、人(にん)参(じん)がオレンジ色でピーマンが緑色なことも知っている。
 だが、ある日を境に、徐々に世界から色が抜け落ちた。理由と呼べるようなものはあった気もするし、無かったような気もする。保育園に行かなくなった頃かもしれない。もっと前だったかもしれない。
 ただ、もし切っ掛けがあるとしたら。自分の周りの世界が、自分にとって優しいものではないと諦めたときからだったかもしれない。
 以来、空という名を持つ己が見上げた「空」は、常に灰色だった。
 嘗て母と呼んでいた彼女と暮らしていた頃は、ずっとそうだった。
 だけど、最近は少し違う。
 初めて膝丸に卵焼きを作ってもらったとき。膝丸と一緒に不思議な世界で迷子になって、あの少女の姿をした神様が怖い姿から綺麗な姿に戻ったとき。
 ――さぁっと世界が色づく瞬間があった。
 膝丸の髪が鮮やかな薄緑で、その双(そう)眸(ぼう)がどんな宝石よりも美しい金褐色であったことも。ここではないどこかの世界で咲く桜が、見るも鮮やかな薄紅であったことも。
 たとえ一瞬であっても、主はよく覚えていた。


「色が……見えていない?」

 隣に立つ薄緑の声には、明らかな驚(きょう)愕(がく)が滲(にじ)んでいる。流(さ)石(すが)に、彼には予想外だったのだろう。だが、主としては改めて事実確認をしただけのようなものだ。

「うん。見えてない」
「それは……不便ではないのか」
「慣れたから」

 主からしてみれば、世界の色がないというのも『言われてみるとそうだったな』と思う程度の感慨だ。確かに欠落ではあるのだが、あまりに日常として受け入れていたために、欠落としてすら認識していなかった。

「君は、色を取り戻したいと思うのか」
「……それは」

 既に無いものとして諦めていた願いが、突然叶うかもしれないと示される。そんなことをされたら、願いを意識していなかった者だって、ふらりと手を伸ばしてしまう。
 主も考えてしまった。たとえば、膝丸が作ってくれた料理を、できるなら嘗てのように鮮やかな色彩で見てみたいと思うことはある。髭切や膝丸の髪や目は、真昼の空の下ではどんな風に見えるのだろう。彼らの刀はどんな輝きを放っているのだろう。もし叶うならば、と心は揺れる。

「坊ちゃんは運がいい。丁度、そこに『色』がありましてね」

 店主が指さしたのは、主が気になっていたビー玉大の玉だった。試しに玉に目線が合うように屈(かが)んでみると、灰色の世界しか見えていないはずなのに、玉の中で沢山の色が渦巻いているのが分かる。まるでシャボン玉の中のように細く筋を引いて、一時たりとも留(とど)まらない色たちが複雑な模様をいくつも作り上げられている。

「これで、色が見えるの?」
「ええ。まあ、種を明かせば私が以前のお願いで代金として頂戴した『色』です」

 つまり、誰かの願いを叶える代わりに、その人の色を見る感覚をもらったと言いたいのだろう。
 もし、これが欲しいと言ったら、店主は快く譲ってくれる。ただし、対価に何を持っていかれるかは分かったものではない。主の手を掴(つか)む薄緑の手に、ぎゅっと力がこもる。

「これは、何と交換すればもらえる?」
「まあ、普通なら結構大きな対価を貰(もら)うのですが……そうですねえ。あなたなら『声』でしょうねえ。それがあなたにとって、私から見たら一番価値のある品ですよ」
「声?」
「ええ。あなたの『言葉』は類を見ない力がある。対価として十分過ぎるくらいです」

 店主が突きつけてきた条件について、主は考えてみる。
 色が見えるようになった代わりに、自分は話せなくなってしまう。どこかの童話で、そんな話もあった気がする。そうなったら、何が起きるか。

(髭切にも、膝丸にも、声をかけられなくなる……)

 文字で意思は伝えられるかもしれないが、主は自分の字が未(いま)だ下手であると自覚していた。彼らはこちらの言葉を聞いて理解しようとしてくれているのに、その肝心の声を無くしてしまっては、彼らとお話ができなくなってしまう。
 そんな未来は、色が見えないことよりもずっと寂しい。そう思った瞬間に、言葉が口から出ていた。

「それは駄目。ひざまるに『ご飯が美味しい』って言えなくなる。ひげきりに『ありがとう』が言えなくなる。二人の名前が呼べなくなる」

 ぶるぶると首を横に振り、ビー玉から目を逸(そ)らす。これにはきっと縁がなかったのだ。元々諦めたことなのだから、今更どうこうしたいなどと思う方が間違っていると、主は自分を戒める。

「そりゃ残念。なら、諦めるしかありませんねえ。では、そちらの生真面目な刀の神様は……」
「俺は、貴様ごときに叶えられる望みなど持ち合わせていない」

 言葉を被(かぶ)せるように、薄緑が吼(ほ)える。彼の声には、僅かに怒りが滲んでいた。
 今まで警戒こそしてはいたものの、ここまであからさまに敵(てき)愾(がい)心(しん)を見せていなかったので、主はびくりとする。薄緑の顔からは、先ほどまで浮かんでいた穏やかな表情が影を潜め、代わりに張り詰めた緊張が表れていた。

「……確かに、私であってもこればかりは到底叶えられませんねえ。残念ですが」

 どこかつまらなさそうに、肩を落とす店主。薄緑は浅く呼吸を繰り返し、乱れた心を整えているようだった。

「――だって、それだけの数の者を取り戻すのは、不可能でしょう」

 その言葉を聞いた瞬間、はっ、と息が抜けるような音がした。続いて、それが薄緑の笑い声だと主は気がつく。
 だが、何かおかしなことを言われたから笑っているようでもなく、かと言って勿(もち)論(ろん)楽しくて笑っているようにも聞こえない。まるで、笑っているのに泣いているかの如く聞こえる笑い声だ。

「俺の願いは、そんなものではない。……断じて、違う」

 数秒の乾いた笑い声の後、薄緑はきっぱりと否定する。

「違うと言うのなら、それだけのことです。どのみち、私には叶えられそうにもありませんから。叶えられない願いを叶えられると言って、お代を取ってしまっては、それはもうただの詐欺でしょう」
「その辺りの道理は弁(わきま)えているのだな」
「ええ。そりゃもう。まあ、あまり自分の願いから目を逸らすことは、私はお勧めしませんがね」

 薄緑は眉をきつく寄せる。だが、膝丸が同じ顔をしたなら凄(すご)みが出たのだろうが、薄緑の睨(にら)み付(つ)け方(かた)はどこか悲しそうでもあって、到底怖いとは思えなかった。
 まるで、本当は店主が口にした願いが正解で、何がどうあっても叶えられないと知って悲しんでいるようにも見えた。

「それで、他に何かご用件は?」
「ここから出る道を探している。それを教えてもらう代わりに、どんな対価を渡せばいい」

 当初の予定として聞きたかったことを尋ねると、店主は如何にも真面目くさった顔で顎に手をあて、撫(な)でつけるような仕草をしてみせる。

「そうですねえ……。まあ、刀さんが持っている物で手を打ちましょう」

 そう言われた瞬間、薄緑は片手に提げていた風呂敷を、あたかも庇(かば)うかのように胸へと抱き寄せる。それが余程、薄緑にとっては大切なものなのだろう。

「いやいや、それではあまりに高すぎる。寧(むし)ろ、それよりも……ええ、ポケットの中に入れているものをお願いしたいですねえ」

 薄緑がまさぐったポケットの中には、白くて四角い箱があった。主も何度か見たことはある。あれは煙草と呼ばれる、大人がたまに火を点(つ)けて煙をくゆらせている物だ。

「これでいいのか」
「ええ、寧ろこれがいい。助かりますよお。こういうのは、なかなか手に入りませんがから。そのくせ、欲しがる者だけは矢(や)鱈(たら)いますからねえ」

 煙草を受け取った店主は、丹念にそれらを撫でてから、ぽんと周りのガラクタの上に置いた。きっとこの粗大ゴミのようなガラクタの中でも、店主はどこに何があるか、しっかりと把握しているのだろう。

「さて、道……道、ですねえ。今の時分なら、この道を真(ま)っ直(す)ぐ行って、途中で右に曲がると竹(たけ)藪(やぶ)に入る道があるんですよねえ。周辺には道の端にも竹が生えているから分かるはずです。その奥に出口は現れていると思いますよ」
「現れる? 出口は消えたり姿を見せたりするものなのか」
「それを知るのも、願いの内に入れてほしいんですか?」
「……いや、今は不要な情報だ」

 下手に何かを教えてほしいと願えば、言質をとられて余計な物を奪われかねない。
 薄緑はすぐに疑問を取り下げた。

「行くんなら、早い方がいいですよお。日が暮れますからねえ。ここに来るお客様がたは、私のように親切ではありませんから」
「自分で親切などと、よく言えたものだな」
「私はこう見えても、理不尽に取り上げることはしませんからねえ。ちゃんと釣り合う物だけしか、私は貰いません。ですが、お客様たちはちょっと違う」

 店主は底の見えない微笑を浮かべて、警告するように一振りと一人に向けて言う。

「彼らは、『何をしてもいいこと』になっています。大事な物を取り上げることも、人一人を攫(さら)うことだって、ここでは咎(とが)められるはしません。ここは外の世界みたいに、道徳とか法律なんてものは、ありませんから」

 秩序も道理も通じぬ存在がいるという事実を突きつけられ、薄緑と主は揃(そろ)ってごくりと唾を呑(の)んだ。

 ***

 店主に別れを告げてから、薄緑は主の手を引いて足早に通りを歩いていた。道の端にあるという竹藪は、薄緑の視力を以(もっ)てしても未だ見えない。空を見上げると藍色の夜の色と、朱色の太陽の色が溶け合い、まるで色の違う薄い衣を何重も重ね合わせたかのようだ。
 外の世界では、電線や建物が多いために空がここまで広がっていることは少ない。主の目に映るのはあくまで灰色の空ではあるが、それでも遮蔽物のない天蓋は新鮮だった。

「うすみどり?」

 先程からずっと沈黙を守っている彼が気になり、主はおずおずと声をかける。意地悪な店主とのやり取りで疲れているのだろうか。彼にばかり大変な役目を押しつける結果になってしまい、主は申し訳ないと思っていた。

「君の膝丸について、だが」

 唐突に会話が始まり、主はただ黙って言葉の続きを待った。

「君にとって、膝丸はどんな者だ」
「ひざまるが、ぼくにとって?」

 突然すぎる質問だったが、薄緑の気分転換になるのならと主は考えてみる。顔は少し怖いけれど、話してみると優しくて、兄思いの頑張り屋な所もある。そんな彼の姿が、ゆっくりと主の中で像を結ぶ。

「……ひざまるは、いい人」

 真っ先に彼を端的に表す言葉として、主はそう告げる。

「ひげきりが大好きで、おいしいご飯もいっぱい作って」
「料理が得意な膝丸なのか」
「うん。最初は……ちょっと上手くできなくて、困ってたけど。でも、頑張っておいしく作れるようになった。ひげきりと話すときは、少しだけ強がってる感じで」

 一度言葉が溢(あふ)れると止まらなかった。主自身が驚くほどに、膝丸は彼の思い出の中では大きな位置を占めるようになっていた。髭切もまた同じだ。
 甘い物が好きらしいのに、膝丸はそれをよく隠そうとする。兄にも内緒ではあるようだが、時々お菓子を買ってきて、こっそり分けてくれる。まだ子供の自分を『主』と呼び、それとなく気遣ってくれた。出会ってすぐに、団子を買ってくれたことは今でも覚えている。
 怖い事件に巻き込まれても、彼は決して見捨てはしなかった。手を引いて、守ってくれた。低く落ち着いた声が心地よくて、だというのに兄と話すときだけは少し前のめりになっている姿がちょっと面白い。
 膝丸のことを話していれば、続けて髭切についての話題も口に出る。

「ひげきりは……聞いていると、ちょっと眠くなるような声の人で、いつもあれこれ考えてるみたいなのに、考えてないようにも見える」

 小難しそうなことを考えていても、髭切は主が分かるようにかみ砕いて教えてくれる。この前は頭を撫でてもらった。彼はやや乱暴な撫(な)で方(かた)をするときがあって、そうなると自分の髪はいつもぐしゃぐしゃになる。弟には遠慮がなくて、料理もあれが食べたいとしばしば注文をしている。自分は兄だという意識が強いのか、彼は時折隠し事をしがちで、それを指摘されると少し不機嫌になる。
 そんな兄弟の様子を、薄緑は静かに聞いてくれた。相(あい)槌(づち)だけを打って、何かを噛(か)み締(し)めるかのように耳を傾け続けていた。
 話が一区切りついた頃、ようやく薄緑が口を開く。

「……その二人は、良い刀なのだろうな」

 単なる感想にしては、どこか寂(せき)寥(りょう)を帯びさせた言葉に、主はかける言葉を見失う。
 それでは、まるで。
 自分が良い刀ではないと言っているかのようにも聞こえてしまって。

「うすみどりも……良い、人だよ」

 励ましになるのかわからないが、思いつく限りの精一杯の言葉をかける。それでも、薄緑は困ったような笑顔を浮かべるばかりだ。
 どうやら、このような単純な褒め言葉を薄緑は求めていたわけではないらしい。だが、それなら一体何と言えば良いのだろうか。
 主は考えてみる。
 考えて、考えた、考え抜いた上で彼が選んだ言葉は。

「きっと、うすみどりの主も、そう思ってるよ」

 微(かす)かに息を飲む音が、二人の間に短く響いた。薄緑と主の身長差では、主の方から薄緑の顔をじっくりと見ることはできない。

「……そう、だろうか」

 それでも、何だか彼が泣いているような気がして、主はじっと彼を見つめ続ける。

「そうだよ」

 こんなに優しい人が、良い人だと思われないのは、それだけで悲しい。薄緑の主は今ここにいないようだから、代わりにただの『空』として、彼は何度も言う。

「うすみどりは……ひざまるは、良い人だよ」

 ありがとう、と返ってきた言葉は、まるで砂漠のようにからからに乾いていた。


 やや重たい沈黙を漂わせながら、一人と一振りは更に先を急ぐ。太陽が隠れてしまったからか、空は徐々に暗闇へ領域を譲り渡していく。ぽつぽつと点(とも)った灯籠や店先に吊(つる)された提灯(ちょうちん)の灯(あか)りは幻想的ではあるが、同時にますます浮世離れした気配を漂わせていた。

「あれが、例の『お客様』とやらのようだな」

 薄緑の視線の先にいるのは、ずんぐりとした黒い影が幾つかあった。
 傍(はた)目(め)から見ると、今まで目にした妖怪染みた住人たちの仲間にも見える。だが、そちらに目を向けた瞬間、主はまるで沢山の目に睨(にら)まれたような感覚が全身を走った。

「すまない、君は見ない方が良さそうだ。……下手に感づかれて、関心を持たれると厄介だろう」
「うん。うすみどりは」

 薄緑は大丈夫なのか、と聞こうとした刹那。

「おやまあ! これまた珍しい物が歩いてるじゃないか!!」
「あらまあ、ほんと。刀の付喪神に……こっちは人間? でも、人間にしては、ちょっと変ねえ」

 後ろからいきなり声をかけられ、主はその場で飛び上がりかける。薄緑は咄(とっ)嗟(さ)に主を自分の背に庇い、素早く声の主と相対した。

「何か用か」
「用があるのはあなたじゃないわ、付喪神」

 薄闇の中、灯籠の下に浮かび上がった二つの影。そのどちらも、時代劇に登場する姫君のような格好の女性だった。大輪の花の如(ごと)き、艶(あで)やかで細かく柄の入った着物を着ているが、この風情ある街並みにはあまり似合っているとは言えない。

「ねえ、そちらの坊や。あなた、随分と面白い魂の形をしているわ。これから私の宿に行きましょう。そして朝になったら、私の家に帰りましょう。気に入ったら、私の小姓にしてあげるわ」
「ちょっと、あなた。横入りはやめてちょうだい。こんなに綺麗なままの姿なら、私が山に連れて帰って修業を積ませるわ。きっと素晴らしい力を身につけるに違いないもの」
「抜け駆けしたのはそっちでしょう。この子、どっかで見た形をしているのよねえ。きっと私の遠縁に違いないわ」
「あなた、いつも気に入った人間にはそう言ってるじゃないの」

 主や薄緑のことを完全に無視して、女性二人は主を持ち帰った後の話を繰り広げる。あたかも、偶然旅行先で見かけたお土産をどうするか、と話しているかのような気軽さだ。そこに主の意思などはまるで関係なく、薄緑の口が差し挟まる余地も当然のようになかった。
 占い師の店主と信濃藤四郎の忠告が、今になってどういうことかはっきりと分かる。
 この『お客様』は何をしてもいい。だから、気に入った物があったら、そのまま拾って持って帰ってもいい、ということなのだ。

「急ごう。彼女らに付き合っている暇はないだろう」

 薄緑は主の手をとり、女性二人に背を向けて小走りで駆け出す。主も彼に手を引かれ、少しつんのめるようにして足を動かした。

「あ、ちょっと! 付喪神如きが横取りするつもり!?」

 甲高い鳥の鳴き声のような声にも耳を貸さず、薄緑は走る速度を上げる。しかし、主は薄緑のように速く走れない。瞬く間に息も乱れ、ひゅう、と苦しそうな呼吸を薄緑の耳は拾い上げる。

「空、次の角を右に曲がる」
「でも、まだ竹がない」
「それは後でもいい。そら、この次だ」

 薄緑に言われるがままに、主は次に見えた曲がり道を曲がる。道を折れ曲がると、途端に大通りにあった提灯や灯籠が姿を消し、宿の窓から差し込む灯り以外は光源のない薄暗い世界が広がっていた。
 薄緑は主の手を引き、全速力で駆けていく。殆(ほとん)ど薄緑に引きずられるようにしながら、主も彼の後を追う。行き過ぎる風が強烈に頬(ほお)を叩(たた)き、髪が全て後ろへと流れていく。
 今の自分なら、風そのものにもなれそうだ。そんなことを考えたとき、

「あっ」

 声をあげたのは、どちらだったか。薄緑が片手にぶら下げていた風呂敷の結び目が、ゆるりとほどけていく。風圧に負けて、結び目が緩くなってしまったのだろう。
 中から現れたのは、白い一枚の布――のように見えた。それがふわりと舞い上がり、薄緑の手にも届かぬ高みへと消えていく。
 思わず、薄緑の足が止まった。それを拾いに行きたいと、彼の目が訴えていた。
 けれども、

「あの子供、どこに隠したのかしら。召使いにして、飽きたら食べてしまおうと思ったのに」
「獣くさい奴(やつ)はこれだから嫌なのよ。ああいうのは人のままにしていちゃ駄目。ちゃんと、私たちの仲間にしてあげないと」
「そうやって子供ばかり増やして、随分と年寄りくさい趣味よね。あんたは自分の羽の数でも数えてたら? そろそろ禿(は)げてきた頃でしょうよ」

 姦(かしま)しい女性の『お客様』の声が、路地の向こうから響いている。このままでは追いつかれてしまうのは必定だ。見つかったら、彼女らが何をするかは分からないが、良い結果にならないことだけは確かだろう。

「うすみどり、さっきのあれ」
「……今は、あれを撒(ま)く方が先決だ。少し失礼する」

 言うや否や、薄緑は主を抱え上げる。主に合わせて走っていては、彼女らから逃げ切るのは不可能と判断したのだろう。
 両手を使って背中と膝の裏を支える持ち方は、以前膝丸に担がれた時に比べると、安定感がまるで違う。彼の腕の中は暗く、周りの景色がどうなっているのかもよく見えない。いくつかの灯りの下をくぐり抜けていったことと、どんどん町から離れていっていることだけが何となく分かった。
 十分ほど逃避行を続けた末で、ようやく薄緑は足を止めた。

「ここまで来れば、もう大丈夫だろう」

 薄緑がそう言うのも当然と思えるほど、この場所は先程までいた宿場町とは、あまりにかけ離れていた。
 ぽつぽつと立てられた灯籠以外は、一寸先すらはっきりしない暗闇だ。石畳が敷かれている所から察するに、誰かが通り道としては使っているのだろう。しかし道沿いの灯籠以外の灯りがなく、周りにあるのが木々であるということ以外、特徴らしいものもない。

「うすみどり、ここは?」
「……すまない。俺も無我夢中になって走っていたから、ここがどこかまでは」
「迷子?」
「……ということに、なるな」

 占い師の店主は竹藪の先に出口があると言っていたが、辺りには竹は見当たらない。間違いなくここではないのだろう。
 途方に暮れて辺りを見渡す主。薄緑も同じように首を巡らせてはいるが、芳(かぐわ)しい成果は得られていないようだった。

「どうしよう」
「……暫(しばら)く歩いて、竹藪に辿(たど)り着(つ)かないか探ってみるか。それか、夜が明けるまでここにいてから、元の道までどうにかして戻るか」
「…………」

 帰る道筋がぼんやりと見えてきていたのに、再び帰路が閉ざされてしまった。もし隣に膝丸や髭切がいたら、彼らならきっと何とかしてくれるだろうと思っていたかもしれない。
 だが、薄緑にそんな期待をかけていいのかと、主は躊(ちゅう)躇(ちょ)する。風呂敷の中身を置いてきてしまったからか、彼はどこか憔(しょう)悴(すい)しているように見えた。
 薄緑は『疲れた』とも言わなければ『君は自分で何とかしてくれ』と見捨てたりもしない。だが、主には薄緑が自分とそう変わらない年頃の子供で、それでも己は年上だからと無理に言い聞かせて、なけなしの気力を振り絞って頑張っているかのようだ。薄緑は自分よりも遙(はる)かに大きいのに、主には何だかそう見えてしまった。

「うすみどり」

 大丈夫、と尋ねようかと思った。けれども、大丈夫でないと分かっているのに尋ねるのは、まるで追い詰めている気がして、主は口ごもってしまう。
 こちらの方を向いた彼に何と言おうと、言葉を迷わせていた矢先。視界の端で、何かが動く姿を主の目は捉えた。反射的にそちらに顔をやって、主は目をまん丸にする。

「……うすみどり、お化けがいる」

 当初の予定とは全く違う言葉になってしまったが、主の発言は彼が見たものを正確に表していた。
 石畳の向こうから、ずるずるとこちらに近づく白い影。さながら、四つ足の生き物のように、白い何かが地を滑るように這(は)いながら、こちらに迫ってくる。

「お化けなど、いるわけが」

 そこまで言いかけて、お化けを視界に入れた瞬間、薄緑も口を閉ざす。まるで地面に落ちた白い布が意思を持って動き出したかのようなお化けが、今まさにこちらへと距離を詰めてくる。
 今日は散々人ではないものを見てきたはずなのに、今日一番主たちを総毛立たせるほどに、その存在の動きは奇妙で異質だった。四(よ)つん這(ば)いの獣が布を引っかけて進んできているような――。

「うすみどり、どうしよう」
「下手に刺激せぬ方がいいだろう。一度距離をとって……」

 ――にゃー。
 緊張感の漂う彼らの間に、愛らしい声が響く。

「……猫?」
「猫、のようだな」

 薄緑と主は恐る恐る、その正体不明の白い布へと近づく。よくよく見ると、それは布ではなく、一部にはふんわりとファーがつけられており、外(がい)套(とう)のような形をしていた。
 布の姿がはっきりすると同時に、薄緑はまるで飛びつくように布に手をかけ、勢いよく地面から引(ひ)き剥(は)がす。布の下からは、ふさふさとした長い毛を持ち、足と鼻先の色が濃い大柄の猫が姿を見せた。

「……ああ、よかった。ここにあったのか」

 布をしっかと抱えた薄緑の唇から、魂がそのまま抜けていくかのような安(あん)堵(ど)の吐息が漏れる。何をそんなに喜んでいるのかと思いかけた主も、すぐに気が付いた。
 薄緑の風呂敷から飛んでいった白い布。それは、きっとこの猫が引きずってきた布なのだろう。猫は薄緑の方をじっと見つめ、それから主に「少しは褒めてはいかが」と言わんばかりに、尻尾を何度かぶんぶんと振っている。

「君はすごいね。うすみどり、悲しそうだったのに、今はとっても嬉(うれ)しそう」

 恐らく、彼にとってはとても大事な品だったのだろう。薄緑は軽くはたいて汚れを落とすと、再び丁寧に畳もうとしていた。

「うすみどり。畳んで持ってると、また落としちゃうかも」
「しかし、このような布地は畳んで持ち歩く以外に方法があるのか」
「……上着なら、着てしまう、とか」

 薄緑の顔に、一瞬動揺が走る。だが、それ以外に妙案が思いつかなかったのか、彼は白い外套を己の肩にかけた。
 留め具代わりに紐(ひも)で結わえる作りになっているようで、片方の肩を緩く覆うような独特の掛け方であっても、脇の下に結ばれた留め具代わりの紐のおかげで、体を大きく動かしても飛んでいく様子はない。淡く光る灯籠に照らされた白いマントを羽織った彼は、物語の中に登場する騎士のようにも見えた。

「落とし物、見つかってよかった」
「ああ、全く。君にも礼を言わねばな」

 薄緑は主の側にちんまりと座っているふわふわとした毛並みの猫に、膝を折って「ありがとう」と感謝の言葉を伝える。薄青の瞳をした猫は、ニャアと大きな声で返事をした。そして、ゆるりとふさふさの尻尾を揺らし、てくてくと歩き出す。
 しかし、どこかに行くのかと思いきや、猫はその場にまた座り直し、ちらりとこちらを向いた。まるで、ついてこないのかと言わんばかりに。

「……どこかに、案内しようとしてる?」
「君にもそう思うか。猫よ、君は俺たちが行きたい場所を知っているのか」

 猫は再びニャアと鳴くのみ。だが、ゆったりと振られた尻尾が薄緑の問いへの返事のようにも見えた。

「ついていってみよう。どのみち、竹藪までの道はもう分からぬのだから」
「うん」

 薄緑に手を引かれ、一人と一振りは先導する猫の後を追う。立ち並ぶ灯籠の数は少ないものの、猫は灯りが照らす範囲から外れないように歩いてくれている。まるで、こちらが見失わないようにと気遣っているかの如く。
 猫の後を辿(たど)ること十分と少々。気付けば、周りから聞こえてくる葉擦れの音が少しずつ変わり、今までのように心をざわめかせる不穏な音から、涼しげな風がそのまま音になったかのような澄んだ高い音に変わっていた。
 灯籠の光に照らし出され、揺れるその葉は細く鋭い。幹は見慣れたごつごつの樹皮ではなく、つるりとして節目が目立つもの。その樹木が何かを、主も薄緑もよく知っている。

「ここ、もしや店主の言っていた竹林か……?」
「うすみどり、この猫、きっと出口まで案内してくれてる」

 猫の後を追って辿り着いた先にあったもの。それは乾いた竹で作られた垣根であり、奇(く)しくも主がくぐり抜けてきた垣根とよく似ていた。
 その途中に、まるで垣根を切り取って作ったかのような木戸が据え付けられている。駆け寄って軽く押してみると、ぎいと音を立てて戸が開いた。僅かにできた隙間からは、この異境の竹林にはない賑(にぎ)々(にぎ)しい音が漏れ聞こえている。

「どうやら、ここから出られるようだな」

 薄緑も主も思わず顔を見合わせて、長々と息を吐き出してしまった。思えば、たった数時間の探索だというのに、随分と遠くまできたものだ。気付けば、中天にはまん丸の月が昇っていた。

「……そうだな、君とまた同じ場所に行き着けるか分からぬようだから、先に伝えておこう。気をつけて帰るのだぞ」
「分かってる」
「君の膝丸や髭切から離れないようにな。童の君には、危険なことは大人よりずっと多いだろう」
「うん。注意する」

 良い子だ、と薄緑は主の頭を撫で、笑顔を見せる。つり目がちの瞳がゆっくりと細くなり、横に伸びた口からは微かに尖(とが)った歯が見えた。
 今まで何度か感じてきた寂しい微笑ではなく、春に咲く花のように柔らかな笑い方だった。膝丸と顔の形は同じであるはずなのに、薄緑の笑顔はやはり全く膝丸と違う。

「うすみどり、たくさん、ありがとう。いっぱい、助けてもらった」
「大したことはしていない。俺が成すべきことをしたまでだ。俺も嘗てはそのように助けられた。君も大きくなって困っていた者を見つけたら、同じように助けてやってくれ」
「……うん。そうする」

 自分が大きくなったら。主には考えたこともない未来の話だ。
 もし大きくなる前だったとしても、髭切や膝丸や、或(ある)いは他の誰かが困っているときに助けたら、それは巡り巡って薄緑への恩返しになるかもしれない。

「えっと……」

 ただここで「さようなら」と言って別れを告げるのは、至極簡単だ。薄緑もそれ以上の言葉は望んでいまい。けれども、それだけでは何だか申し訳ないような気がして、主は必死に言葉を探す。探し続け、そして彼は口を開く。

「うすみどりが叶えてほしいって思うお願い、だけど」

 言いながら、主は最初に行き会った女性に分けてもらった巾着を、そっと薄緑の手に握らせ、

「叶うと、いいね」

 占い師の店主に「叶わない」という言葉を突きつけられたとき、薄緑は「その願いは違う」と否定した。だが、彼はやはりどこか寂しそうだった。あの店主が暴いた願いは、ひょっとしたら薄緑がひっそり隠している、諦めてしまった願いだったのではないかと主には思えた。
 だから、自分にとっての『色』のように、諦めることに慣れてしまった願いだったとしても。万が一の奇跡が彼の願いを掬(すく)い上(あ)げてくれたら、と祈る。たとえそうはならなかったとしても、彼の顔によぎる寂しさが少しでも慰められれば、と願う。
 薄緑は、静かに頷(うなず)き返した。春風のように淡い笑みと共に。

「さあ、君はそろそろ行くといい。俺もすぐ後に行く」

 何となく、主には外の世界で彼が合流するということはないだろう、と分かっていた。けれども、だからこそ告げる。

「うん。またね」

 再会の約束を結んで、少年は小さな木戸から賑(にぎ)やかな外の世界へと足を踏み出した。

 ***

 ごうっと車が生暖かい空気を切り裂く音がして、同時に排気ガス混じりの風が髪を靡(なび)かせた。次いで耳にわっと飛び込んできたのは、人が歩く音、空気が揺れる音、鳥の囀(さえず)りに蝉(せみ)時雨。どこかの庭で犬が吠(ほ)える声が、閑静な住宅街に大きく響いた。それらの音はあの宿場町では決してあり得ない、都会の音だった。
 異界での時間が嘘のように、空には太陽がまだ当然の顔で居座っている。眩(まぶ)しすぎる日差しが容赦なく主の体を照らし、その肌を焼いた。

(ぼくは、どれぐらい、うすみどりと一緒にいたんだろう)

 昼から夜までの間だから、恐らく半日ぐらいは一緒に彷(さま)徨(よ)っていた気がする。だというのに、この様子ではまるで一時間も経(た)っていないようではないか。

「主!?」

 耳に飛び込んできた呼び声に、主は反射的にそちらへ顔を向ける。そこには、慌てた様子でこちらに向かってきている膝丸の姿があった。ランニングのために出かけたときと同じ軽装であり、だからこそ彼は『薄緑』ではないとすぐに分かる。

「いったいどこに行っていたのだ。戻ってきたから姿がないから、何かあったのかと」
「ごめん。ちょっと――色々あった」
「すぐに見つかったから良いようなものを……今度から君を連れて走るべきだろうか」
「それは、ぼくには……できないと思う」

 そこまで言いかけて、主は気が付く。

「すぐに……?」

 膝丸は『すぐに』見つかったと言った。やはり、あの不思議な世界での探検と、この夏の日差しが照りつける現実とは、相応に時間がずれているらしい。

(それとも、全部夢……?)

 現実的に考えれば、自分が垣根をくぐり抜けた先の出来事が全て夢だったとも言える。何もかもが、夏の太陽が見せた蜃(しん)気(き)楼(ろう)のようなものだったのかもしれない。
 何か、あの世界が夢ではない証拠がないかと、主は自分のズボンのポケットに手を突っ込み、

「あっ」

 硬質な感触のそれを、ポケットから引っ張り出す。
 艶々と真夏の空の下に光る、光沢のある小さな玉。安っぽい光をきらきらと輝かせているその玉は、ラムネ瓶に嵌(は)まっていたものであり、薄緑が取り出してくれたビー玉だった。

「主、それはどうしたのだ?」
「……うすみどりが、取ってくれた」
「薄緑?」
「うん。ひざまる、さっき、すごく不思議な所に行った」

 あの夢のような時間で体験したことを、拙い言葉で主は言葉を繰り、もう一振りの刀の神様へと語る。膝丸は不思議そうな顔をしながらも、真剣な表情で黙って聞いてくれた。
 語りながら、少年は思う。薄緑に――あの膝丸に、再び会う日は訪れるのだろうか。
 もしあるのなら、その時は膝丸と髭切を彼に紹介したい。薄緑の主という人にも会ってみたい。それに、薄緑にも兄がいるのなら。その彼にも会ってみたい。きっと、とても楽しい時間を過ごせると、主は信じていた。

 ***

 少年の背中が扉の向こうに完全に消えたのを確かめてから、薄緑は白い外套をそっと脱ぐ。薄緑にとって、この外套は特別な存在だ。纏(まと)うには、心の抵抗が強すぎる。
 足元から聞こえる、ニャアという鳴き声。顔の周りと手足が茶色く、瓶洗いブラシのようにふさふさした尾の猫。首元には真っ赤な首輪と、結わえられた鈴が静かに揺れていた。

「やはり、君はあの家の猫か」

 再びニャアと鳴いてから、猫は薄緑へと顔をぐいと突き出す。慣れた手つきで、薄緑は猫の顔の辺りを揉(も)んでやった。
 こうして撫でていると、嘗てこの猫が己の元に迷い込んできた頃を思い出す。ふてぶてしい態度で布団を奪い、撫でろ撫でろとせがんできたと思ったら、ふいっといなくなってしまう。そんな姿に翻弄されながらも、飼い主が見つかるまで世話をし続けていた日々のことを。

「いったい、どこからここにやってきたのだ? それとも、君も客人の一人なのか」

 猫はごろごろと喉を鳴らすばかりで、答える素振りはない。薄緑もそれ以上追及するつもりもなかった。
 ひとしきり猫を撫でてから、薄緑はそっと手を放す。猫は彼を引き留めるように、小さく鳴いた。だが、薄緑はもう背を向け、戸に手をかけていた。

「すまない。まだやることがあるのだ」

 にゃう、と猫は鳴く。そっちにいってもいいことはないよ、と言わんばかりに。

「全て終わったら、君にまた会いに行く。そのときまで、良い子にしているのだぞ」

 猫は答えなかった。
 薄緑もそれ以上は待たずに、戸をくぐり抜ける。そして――。

 ***

 はっと気が付いた瞬間、彼の目の前には大通りから一本外れた住宅街の道が広がっていた。周りに立ち並ぶのは四角い箱を並べたかのような家々で、あの竹林はどこにも見当たらない。空を見上げれば、澄み渡る夏空が天蓋に広がっていた。

「……空、か」

 この蒼(そう)穹(きゅう)と同じ名を持ち、同じ色を瞳に宿した少年を思い出し、薄緑は唇の端を緩める。素直で気遣いのできる良い子供だった。きっと彼に仕える膝丸も、あのような主を持てて幸せだろう。

「あーっ、みつけましたよ! 膝丸!!」

 感慨に耽(ふけ)る暇もなく、住宅街の端からでこちらを呼ぶ大きな声が響く。幼さを隠しきれない声の主を、薄緑はよくよく知っていた。
 ぱたぱたとサンダルでアスファルトを蹴りつつ、一人の少年がこちらに向かって走ってきている。目(ま)映(ばゆ)い日差しに銀の髪を靡かせ、緋(ひ)色(いろ)の瞳を爛(らん)々(らん)と輝かせた彼もまた、薄緑と同じく刀の神様の一振りだ。そして、
 少年の後ろに立つ者の姿を目にして、薄緑は柳眉を顰(ひそ)める。
 少年へと一歩。その後ろにいる彼へともう一歩。
 踏み出すごとに、自分のなすべきことを思い出す。
 そうして二人の元にたどり着いた時には、あの静かな異境の出来事は薄緑の心の奥深くに埋められていた。

「まったく、どこにいっていたんですか。ぼくもあるじさまも、たくさんさがしたんですよ」
「少し寄り道をしていたんだ」

 不満をたれる少年に適当な言葉を投げかけてから、彼は自分の前に立つ青年に向かいあう。
 猫のように細く釣り上がった、少々目つきの悪い青年。こちらを見て、どこかおかしそうに目を細めている青年に向けて、薄緑――膝丸は言う。

「すまないが、頼まれていた煙草は置いてきてしまった。買い直してくるから、少し待っていてくれ」
「あ、それならぼくもいきます! 膝丸はひとりにしておくと、またまいごになりそうですからね」

 先導する銀の少年の後を追って歩き始めたとき、

「どこに行っていたんだ?」

 背後からの、青年からの問いかけ。
 膝丸は、ただ一言答える。

「……ここではない、どこかに」

 だが、そこは自分の居場所ではない。
 故に膝丸は、再びこの地に足をつける。
 今日の空は、一段と遠くにある気がした。
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