本編の話
薄緑と膝丸の違いは、単に手指の握り方や声音や雰囲気だけではなかった。彼は膝丸のように大股では歩かず、共に行く主に併せて歩幅を狭めて歩いてくれた。薄緑の気遣いのおかげで、満腹になった体で小走りすることもなく、主はゆっくりと周りを見渡すことができた。
あの宿にいた女性が話していたように、今進んでいる場所は町から離れた地域にあたるらしい。塀の更に向こうには森が見え、道の両側に並ぶ建物はどれも大きな豪邸ばかりある。恐らく、その一つ一つが豪勢な宿なのではないかと、主は推測していた。
(お金持ちのおきゃくさまが、ここで楽しく過ごすんだ)
遙か昔、絵本で見たようなお殿様や王様の城を思い出す。きっと似たような人が訪れるのだろう。両側の宿たちへと想像を巡らせていると、
「君は、普段何をしているのだ」
沈黙ばかりの空気を嫌ったのか、薄緑の方から主へと声をかけてきた。
何をしているのかと問われ、はて自分は何をしていることになるのだろうか、と主は首を傾げる。
「……部屋で、二人を待ってる」
「部屋? 本丸とは違うのか」
本丸というのが何かは知らないが、少なくとも膝丸や髭切は自宅を本丸とは呼ばない。本丸ではない、という意味で一度頷き返すと、薄緑は驚きを顔に浮かべたが、すぐに納得してくれたようだった。
「ひげきりとひざまるは仕事に行ってるから、ぼくは部屋で待ってる」
「そうか。小さいのに立派なものだ」
そんな風にはっきりと褒められたことはなかったので、主はお腹の奥がむずむずする感覚に襲われる。恥ずかしいような、何だか自分がちょっとだけ偉くなったような、不思議な気分だ。
「うすみどりも仕事?」
「仕事とは少し違うが、今はやるべきことはある。忘れてはならない、大事なやるべきことが」
「うすみどりの主も、部屋にいるの?」
自分と同じような子供――あるいは大人かもしれないが、そういう人が自分の他にもいるのだろうか。興味の赴くままに主は尋ねた。
瞬間、主の手を握る薄緑の手が、ぴくりと強張った動きを見せた。まるで、触れてはならない深い傷に無遠慮に触れられたかのように。
(間違えた)
刹那、主は「ごめんなさい」と口にしようとした。この強張りは、まだ自分が母と住んでいた頃、彼女の気に障ることを口にしてしまったときの強張りによく似ていた。
だが、口を開いたのは薄緑の方が先だった。
「――主、は」
その声は、喉の奥から無理矢理絞り出したかのように乾いていた。
「主は、今は――隠れてしまったのだ」
「え?」
「……いや、何でもない。暫く見てはいないな。……遠く、離れた所にいるから」
彼は母のように怒りはしなかった。手をあげもしなかった。だが、いっそ怒られた方が良かったと主は思った。
薄緑は――笑っていた。その笑顔は、割れた茶碗が妙に綺麗に見えるのと同じように、壊れてしまったが故の美しさを孕んでいた。
***
歩き続けて一時間と少し経った頃。主が足のだるさを覚え始めた頃合いを見計らったかのように、一振りと一人は先程までの閑静な区画から、両脇に店が建ち並ぶ賑やかな通りにやってきた。
眼前に広がる光景を前に、薄緑と主は揃って目を丸くした。宿場町のような風情のそこには、黒々とした瓦でできた三角屋根の家が並び、白い石畳が整然と敷き詰められていた。店先では店員が箒を動かして、せっせと店の掃除をしている。
行き交う人通りはそこまで多くなく、長閑な空気が流れていた。どこかでは女中らしき女性たちが顔を合わせて笑い、またどこかでは何か売りに来た店主と店の従業員が物々交換の相談をしている。それだけならどこにでもある光景だ。
だが、彼らが驚いたのは、そこではない。
「……うすみどり、あの人」
「ああ、あちらの店主もそのようだ」
彼らが目にした店員や通行人の一部は、明らかに人ではなかった。分かりやすい者なら、二足歩行の人間大の狐や狼だろうか。体の骨格だけを人の形に押し込めたような彼らは、人間のように着物を着てはいるものの、どこか歪だ。店先に立っている人間も、本当に人間かどうか疑わしい者も幾人かいる。
肌が青白いもの、赤黒いものはまだ分かるが、目の覚めるような緑色の肌は人のそれではないだろう。顔にお面をつけて大きな着物で体の輪郭を隠している者に至っては、人の体をしているかすら妖しい。唖然として突っ立っている彼らの横を、荷物を背負った兎が走っていった。
しかし妖怪絵巻のような世界の中には、人間と思える姿もあった。彼らはごく自然に、人ではない者の言葉を交わし合っている。
「これは……異界、とも少し違うようだな。誰かの個人的な領域ではなく、人ではない者たちと人間が協力して暮らしている共同生活のための場なのか?」
薄緑はぶつぶつと呟きながら、道行く人の顔をちらりと見ている。あまり他人の顔をじろじろ見るものではないと、主はできるだけ下を向くようにした。
「空。疲れてはいないか」
薄緑の問いかけに、主はどう答えるか躊躇した。足は棒のようになっていて、どこかで休みたいとは思っていた。とはいえ、ここを出ようと決意表明をしたのに、休みたいなどと言うのは何だか情けない。故に顔を上げ直し、首を横に振った。
「そうか。だが、俺は少し休もうと思っている。良いだろうか」
「……うん」
主の見た限り、薄緑の方こそ疲労の影は全く見えない。それとも、そう見せていないだけなのだろうか。主には分からなかったが、休みたいと薄緑が言っているのなら断る理由は彼にはなかった。
主の手を引きながら、薄緑は休めそうな茶屋を探しつつ真っ直ぐに歩いて行く。見慣れない客と思われてか、道行く人たちはたまにちらちらとこちらを見ていたが、特に声をかけられはしなかった。
主も歩みを進めながら、周囲をそっと観察する。以前、髭切や膝丸に連れられて行った『万屋』と似たような街並みだが、それに比べると店と呼べるものはそこまで多くない。最初見たときに店に見えた建物の殆どは、宿と店を兼任しているようだった。
「休める所、ないね」
「この場所は、誰かが泊まりにくるための場所なのかもしれぬな。たしか、先程会った女性もそう話していただろう。夜に客が来る、と」
「ホテル?」
「ああ、最近の言葉ではそのように言うのだったな。この雰囲気なら旅籠と呼称した方が似合うだろう」
「はたごって?」
「古い時代の宿だ。街道を行く者に宿と食事を振る舞い、代わりに金をもらう。そういう場所のことだ」
なるほど、と主は頷く。それなら、この場所は色々な旅籠がある場所なのだろう。
じっと観察してみれば、それぞれの違いも分かってくる。あちらの旅籠は部屋自体は小さいが、何やら良い匂いがする。対して反対側の店は軒先に提灯をいくつか吊していた。灯りがついたらきっと華やかになるに違いない。
「さて、この中で座って休めるような店があれば……」
薄緑がそこまで言いかけたときだった。視線を感じ、誰が見ているのだろうと主は周囲を見渡す。視線の持ち主はすぐに分かった。向かいからこちらへと歩いていた一つの人影が、やおら顔を上げ、こちらをまじまじと見つめていたのだ。
色の濃い髪の毛に、ぐるぐると何重にも巻いた襟巻きが特徴的な少年だ。主よりは年上だろうが、薄緑よりは明らかに見た目の年齢は年下だろう。
「あれ、やっぱりそうだ!!」
大きな声をあげて、少年は急にぱたぱたと駆け寄ってきた。近づかれると、彼がこれまた濃い色合いの着物を着ているのが分かる。腰にぶら下げた巾着が、勢いよく走ったせいで別の生き物のようにぶらぶらと跳ね回っていた。
「ねえ、そっちにいるのって刀剣男士の膝丸……だよね?」
突然薄緑の本来の名を告げた少年に、当の本人は困惑を顔に浮かべつつも、ゆっくりと頷き返した。
「やっぱり! 俺は信濃藤四郎。分かると思うけど、刀剣男士だよ」
その自己紹介を聞いて、主はただでさえ大きな瞳をまんまるにして、信濃藤四郎を見つめる。刀の神様は大人だけと思い込んでいたが、どうやらそうではないらしい。
「実は、もうちょっと行った先で雑貨屋みたいなことをしてるんだ。同じ刀剣男士に会うのって、すっごく久しぶりなんだ。良かったら、寄っていってくれない?」
主と薄緑は顔を見合わせ、暫くの沈黙の後、
「そこは、座って休める所はあるだろうか」
信濃と名乗った少年は、満面の笑顔でゆっくりと頷き返した。
***
信濃藤四郎が連れてきてくれたのは、雑貨屋と駄菓子屋を兼任しているような店だった。店先には日焼けしすぎてラベルが読めなくなった自販機が置かれており、その隣に腰掛けられる木製のベンチが設置されている。元は白かったらしい色が殆ど剥げ落ちているが、それがまた独特の味を出していた。
主が腰を下ろすと、ベンチはぎしぎしと軋んだ音を立てたが、流石に板が抜けるようなことはなかった。
「うすみどり、お疲れさま」
「ああ。お疲れ様だな」
主は自分の手にある綺麗な薄い色の瓶を額に当て、歩きづめで火照った体を冷ます。地下の氷室から取ってきたと信濃が言っていたそれには、大きく『ラムネ』と書かれたラベルが貼り付けられている。肝心の信濃は『大将に呼ばれた』と言い残して、今は席を外していた。
「空。もし疲れたのなら、遠慮無く言ってくれ。君が疲れて体調を崩すようなことがあったら、君の膝丸に合わせる顔がない」
「うすみどりは悪くないって、ちゃんとひざまるに言う」
「俺が悪い悪くないの問題ではなく、君が心配なのだ。恐らく、君の膝丸も似たようなことを言うだろうが」
主はラムネの蓋を口元にちょんと当てながら、膝丸が『心配』する様子を考える。
薄緑が言うところの『心配』が何を指すかは分かる。薄緑は、疲労のあまり風邪をひいたり熱を出したりしたら気の毒だと思って、心配してくれているのだろう。
だが、対して膝丸はどうなのだろうか。
不思議な世界に連れて行かれたときは助けに来てくれた。それが彼にとって当たり前のことなのだろう、とは承知している。しかし、膝丸が『風邪をひくから疲れないように』と言っている様子が、どうにも想像できない。ごく当たり前の発想のはずだが、主の中の膝丸と上手く結びつかないのだ。
「……そういう心配は、しないような気がする」
ひょっとしたら、刀の神様である膝丸は『疲れたら風邪をひく』という常識すら知らないのかもしれない。それならあり得そうだと納得していると、
「主の体調管理に無頓着なのか? そんな『俺』がいるとは、信じられないな」
「ご飯は作ってくれる」
「それは当然だ。君は子供なのだから、大人の姿をしている俺たちが庇護するのは義務のようなものだろう」
「ひご?」
「面倒を見るのは当たり前だ、と言っている」
そのやり取りに、主は膝丸と薄緑の相似を感じた。膝丸も分からない単語があったら、分かりやすい単語にかみ砕いてくれる。薄緑は膝丸に対して不満を抱いているようだが、主としては似たり寄ったりのように見えた。
「ひざまるは、いい人だよ」
「ああ。そこまでは否定しない。だが……顕現して日が浅いのかもしれぬな。人間が脆いということを、まだ理解してないのだろう。見識が浅い膝丸とともにいたら、君も苦労しそうだな」
主は唇を尖らせて、わざと会話を打ち切ってラムネの蓋と格闘し始めた。薄緑が良い人なのは分かるが、膝丸を悪く言われるのは嬉しくない。主なりの無言の反論だった。
暫く蓋を捻ったり小突いたりしていると、薄緑がその様子に気が付き、手を差し出してくれた。薄緑に瓶を渡すと、彼は蓋から何かを外し、取り出したパーツで蓋をぐいっと押した。すると、パシュッという小気味よい音と共に、液体の中にころんとビー玉が転げ落ちる。まるで魔法のような手つきだ。
「これで飲めるはずだ」
「う、うん」
いったい何が起きたのだろうと思いながら、主はラムネに口をあてて恐る恐る飲んでみる。口の中でぱちぱちと爆ぜる泡と共に、すっきりとした味が一息で広がり、主は目を丸くした。
この空間は春に近い気温だが、それでも歩き続ければ体から熱が生まれる。その熱を、ラムネは一口の間に押し流していってくれた。
「おいしい」
「ああ、冷たくて心地よいな」
薄緑もラムネの蓋を開けたようで、一息で半分ほどを飲み干している。薄緑も喉が渇いていたのだろう。中の液体を飲んだことによりできた空間を、ビー玉が涼しげな音を立てて行きつ戻りつしていた。
「君は先程部屋で留守番をしていると言っていたが、本丸の審神者ではないのか」
「さにわ、じゃないと思う。二人は『あるじ』って呼んでる」
「審神者ではなく、保護しているだけなのか……? 不思議な縁もあったものだな。何故、その膝丸の所に?」
薄緑の質問に、主はじっと考え込む。ラムネの中で揺蕩うビー玉を見つめつつ、彼は最初に彼らに出会ったときのことをなるべく正確に思い出そうとしていた。
「……はっきりは、分からないけど。沢山の大人の人がいる場所か、二人のところか、どっちがいいかって聞かれた。それで、二人がいいってぼくは言った」
「そうか。君が選んだことであったか。君は幼いのに、まるで大人のようにしっかりしているな」
どうして褒められたのかは分からないが、褒められるのは純粋に嬉しいので、主は口元を小さく緩ませた。笑っているのが見られるのが何だか恥ずかしくて、照れ隠しにラムネに口をつける。
「君の名は『空』というのだったな。名字は? 家族は何をしているのだ?」
だが、その問いに空の手がぴくりと止まった。見上げた先、薄緑の瞳に悪意はない。ただ純粋に、こちらを案じているのだと分かる。それでも主は『家族』という言葉に、そこから連想される大人達の姿に、隠しきれない忌避を感じてしまう。
(うすみどりは、ひざまると同じ神様だから、家族を知らないんだ)
考えてみれば、膝丸の側には大抵髭切がいた。話をすれば五分に一度は『兄者』という単語が飛び出るほどだ。だが、薄緑は膝丸と『同じだけど違う自分』と説明してくれたが、『兄者』――つまり髭切のことは何も言っていない。ひょっとしたら、薄緑には兄がいないのかもしれない。
だからこその好奇心であり、彼はこちらを虐めているつもりではないのだと言い聞かせ、主は深呼吸をした。春の香りが口の中のラムネの残り香と溶け合い、動揺しかけた心が落ち着く。
「名字は……高瀬だったけど、もう変わったとか聞いてた。家族は……」
そこで主は口を噤んでしまう。保護者であった彼女が今何をしているか、主は知らない。長らく家を空けて戻ってこなかった様子から察するに、自分の子供のことなどとうに忘れてどこかに行ってしまったのだろう。もう一人の父親と呼べる存在については、記憶自体があやふやだ。
「家族は……よく知らない。今はひげきりとひざまるが家族」
口にすれば、これは主にとってしっくり来る考え方だった。髭切と膝丸の『主人』というのは、彼らにとって偉い存在なのだろうとは主も薄々分かっていた。物語の中では、年下の地位の高い子供に頭を下げる大人もいたので、あれのような感じなのだろう。
だが、髭切は口では『主』と言うが、あまり『主』を重要視しているようにも思えない。そういう気安い関係は主人と家来と呼称するよりかは、家族と表した方が親しみやすい。
「友人ではなく、家族……か」
「うん。友達は……いないから」
そこで、ふと口を閉ざす。確かに思い出す限りでは、自分に友達と呼べる者はいない。家の外で遊んでいた頃であっても、相手の顔色を窺いがちな自分は揶揄われるばかりで、いじられることはあっても、一緒にはしゃぐ機会は限られていた。
だが、一度だけ。初めて会ったというのに、しかも『彼』の方が年上だったのに、大人のように丁寧に向き合ってくれた子供がいた気がした。あれは、いつのことだっただろうか。
ふと視線を感じて顔を上げると、薄緑がこちらを労るような視線で見ていた。友達も血の繋がった家族もいないと話したせいで、無用な心配をさせてしまったのかもしれない。
「でも、昔は友達も家族もいた。だから、えっと……大丈夫」
自分でも何が大丈夫なのか分からないが、目の前の彼を不安にさせるのはひどく申し訳ない気がして、形にもなっていない言い訳染みた言葉を口にしてしまった。主の気遣いを察してか、薄緑もそれ以上は詮索しなかった。
「うすみどりは、どんなことをいつもしてるの」
当たり障りのない質問のはずだったが、薄緑は目を瞑って考え込んでいる素振りを見せた。両手で包むように持ったラムネ瓶の上を、落ち着きなく指が行き交っている。
「今は……何とも言えぬな。捜し物をしながら、同居人の世話をしている」
あまり言いたくないことだったのか、薄緑の言葉は大層歯切れが悪い。薄緑にとっては嫌な話題だったのだろうかと、主はすかさず「ごめん」と呟く。なまじっか膝丸と顔は同じなために、ついつい遠慮が無くなってしまった。
彼の様子に気が付いたのか、薄緑は慌てて取りなすように言葉を続ける。
「む、昔は色々とすることがあったのだぞ。畑で作物の手入れをして、家の掃除をして、たまに料理を作って……だな」
目を細めて思い出を語る薄緑の横顔は、とても楽しそうであるのに、どこか寂しそうだ。まるで、その思い出はもう二度と戻ってこないとでも言わんばかりに。
「猫が家に忍び込んできたこともあったのだ。これがまた、自分が迷子であるというのに傲岸不遜な猫でな。我が物顔で俺の布団を奪っていく始末だ。君は猫を飼ったことはあるか」
「猫は、飼ったことない。布団を取りに来るんだ」
「ああ。毛が長くて、耳の先や足の先の色が濃い、まるで獅子のような猫だった。毛触りだけはよい猫だったから、よく撫でたものだ」
口では何だかんだ言いながら、薄緑はその猫を気に入っていたのだろう。嬉しそうに語る顔は、先程よぎった寂しさを覆い隠していた。
「ぼくの家は、動物を飼っちゃ駄目って言われてたから」
「都会の住宅はそうであるらしいな。俺のいた家は山にほど近かったから、獣がよく通っていった。狸にイタチに……ああ、そうだ。河童もいた」
「河童は、作り話じゃないの」
「君にとってはそうかもしれないが、俺は本当に会ったのだ。それに、こんな場所にいては作り話とも言えなくなるだろう」
薄緑の言う通り、このベンチに腰を下ろすまでに明らかに人間ではない生き物たちが通っていった。二足歩行をしていることぐらいしか、共通点はないだろう。主は薄緑に対してこくこくと首を縦に振り、同意を示した。
続けて、ラムネをもう一口と思って傾けてみるが、中身は空になってしまったようで、中のビー玉が涼しげな音を立てるだけだった。ラムネ瓶を振ると、カラコロと気持ちのいい音が瓶の中に響く。何だかその音が気に入って、主は何度か瓶を振って楽しんでいた。
「それが欲しいのか?」
どうやら振っている姿を見て、中のビー玉が欲しいと思ったらしい。しかし、飲み口に固定されている形状の蓋は、飲む分には問題ないだけの穴が空けられているが、ビー玉が通り抜けるには些か道が小さすぎる。
「貸してくれ。この程度なら何とかなる」
薄緑はしっかりはまっていた蓋に手をかけると、暫く格闘した後に蓋を引き剥がしていた。ぐにゃりとへし曲げられた蓋を見るに、相当な力をかけて無理矢理剥ぎ取ったらしい。
主の手の上にぽんと載せられたビー玉は、美しく透き通っていた。それを覗き込むと、周りの景色がぐんにゃりと曲がって見えた。ビー玉を光に翳したり手の上に転がしたりして遊んでいると、
「お待たせー、二人とも! ごめんね、大将が何があったかって根掘り葉掘り聞いてきてさ」
姿を見せたのは、薄緑と主を案内してきた信濃藤四郎と名乗った少年だった。その片手には、主たちに渡してくれたラムネが一本ある。
「すまない、君の主を驚かせてしまったか」
「いいよ。大将は知りたがりなんだ。外の世界のこと、全て知っておかないと不安で仕方ないんだよ」
大将、と信濃が呼んでいるのは、彼の主人なのだろうと主は何となく理解する。刀剣男士と名乗る刀の神様には、それぞれ『主』という人間がいる決まりでもあるらしい。
自分がよく知る髭切と膝丸の主は、勿論己のことである。薄緑の主は『遠くにいる』と本人が話していた。そして信濃の主は、今は店の奥に引っ込んでしまっている。
「それよりもさ、二人はどうやってここに来たの? ここ、そんなに簡単に入れないとは思うんだけど」
「ぼくは、垣根をくぐってきた」
「俺はふらりと歩いていたら、いつの間にか辿り着いていたのだ」
なるほど、と信濃はもっともらしく頷く。
「信濃藤四郎。ここは、ある種の異界であると認識しているが、それは相違ないか」
「うーん……まあ、そうだね。俺たちの知ってる向こう側とこっち側は、ちょっと別の世界かな。限りなく近いけど決して交わらないお隣さん、みたいな」
「そうか。ここから出る方法については?」
何やら難しい話になってきたと思っていた主だったが、薄緑のこの問いだけはすぐに理解できた。頭をもたげて、主も信濃に注目する。
「出られる人も、いることはいるみたいだよ。でも……確実な方法は、俺もよく知らないんだ。だけど、ここもそんなに悪い所じゃないよ?」
「それでは困る。俺はやらなければならないことがある。この子供も、家に帰さねば」
ベンチを蹴るようにして立ち上がり、薄緑は必死さを声に滲ませて信濃に問いかける。彼の突然の挙動に、主は目を丸くした。今まで主という子供の前では見せられなかった動揺が、刀の神様という同胞を見つけて表に露出してしまったようだった。
「……確証はないけど、可能性の話だけならしてもいい。だけど、俺はあまりお勧めできないんだ」
薄緑の必死の形相に思う所があったのか、信濃は朗らかな少年の顔を捨て、冷静な刀の神様としての断片を見せながら薄緑に向かい合う。
「この通りを行くと、来た人のお願いを聞いてくれるお店があるんだ。いつからやってるのかは知らないけど……気が付いたら、そんな店ができていた。俺とか近所の人は、願い事屋さんとか、占い師さんとか呼んでる。その人は、客のお願いと足りないものとかを言い当ててくれる。それ以外にも、お願いがあったら大体のことは叶えてくれる」
「そのお店の人が、道を知ってる?」
主の問いかけに、信濃は「ちょっと違う」と答えた。
「道を知りたいって言ったら、教えてくれるかもしれないってこと。だけど、騙されないように注意しないといけない」
「騙される?」
「その人、願いを叶える代わりに対価を持っていっちゃうんだ。もしかしたら、人じゃないかもしれない。だから、代わりに何を求められるかをちゃんと聞かないと」
信濃はぐるりと振り返り、駄菓子屋の店の奥を見つめる。彼の『大将』がいるはずの場所を。
「……思いがけない結果になってしまう。そんなはずじゃなかったのにって言っても、もう遅いんだ」
信濃の声音はいつになく真剣で、ラムネを渡してくれたときの人当たりのいい笑顔はどこにもなかった。彼の大将が何を求め、代わりに何を渡したのか。安易に聞くのは憚られるほどに空気は張り詰めていた。
「あ、でも、それさえちゃんと守れば、対価に見合った分だけのお願いは叶えてくれるって評判だよ。それ以外でここから出る道をすぐに答えられる人はいないと思う」
「つまり、危ない橋を渡るしかないということだな」
「そういうことだね。もし行くなら、夜になる前がいいよ」
信濃は薄緑に空を見るように促す。来たときは太陽が中天を半ば過ぎた頃だったのに、今は半ば西に傾き続けている。微かに滲む夕焼けの気配は、一日の終わりが近いことを示唆していた。
「夜になったら『お客様』が来るから」
信濃が意味深に告げた言葉に、主も薄緑も反応に迷う。少し前に世話になった女性も、夜には『お客様』が来ると話していた。
「その客人とは何者なのだ」
「色んなものだから、俺も何とも言えないよ。俺の店は宿じゃないし。でも、その『お客様』のおかげで、村の方にいる人たちは土地が豊かになるみたいだし、俺たちもいくつか面白いお菓子を分けてもらってる。それに、この空間が外から乱されることもない」
信濃は通りへと視線をやって、目を細める。彼につられて、薄緑と主もそちらへと視線を送った。
「ここは色んな悪いものから守られた場所なんだ。雨は降るけど嵐は来ない。晴れたとしても干上がるほどじゃない。居心地のいい楽園を作って、そこでゆっくり過ごしたい『誰か』が、ここを整えてくれる。そういう風にして、昔から続いてる場所なんだ」
それが誰かは分からないけれど、と信濃は付け足す。本当は信濃は知っているんじゃないか、と主は彼の横顔を見て思う。分からないと言った彼の言葉は、どこかとってつけた感じがした。
「だけど、その『誰か』はその分ここで好きにしていいって不文律がある。だから、出て行くなら『彼ら』が来る前がいいよ。『彼ら』は、新しい者は目聡く見つけるから」
信濃は薄緑と主を両方に視線を送って、にこりと笑った。
ふと、主は思い出す。垣根を潜った先にいた女性は『連れてこられた』と話していた。ここでは、そういう風に元いた場所から連れてきたり戻してきたりが、当然のように行われているのかもしれない。
「忠告痛み入る。空、どうやらあまりゆっくりはできないようだ」
薄緑に促され、主もベンチから飛び降りる。今度は迷わずに、彼の手をとることができた。
あの宿にいた女性が話していたように、今進んでいる場所は町から離れた地域にあたるらしい。塀の更に向こうには森が見え、道の両側に並ぶ建物はどれも大きな豪邸ばかりある。恐らく、その一つ一つが豪勢な宿なのではないかと、主は推測していた。
(お金持ちのおきゃくさまが、ここで楽しく過ごすんだ)
遙か昔、絵本で見たようなお殿様や王様の城を思い出す。きっと似たような人が訪れるのだろう。両側の宿たちへと想像を巡らせていると、
「君は、普段何をしているのだ」
沈黙ばかりの空気を嫌ったのか、薄緑の方から主へと声をかけてきた。
何をしているのかと問われ、はて自分は何をしていることになるのだろうか、と主は首を傾げる。
「……部屋で、二人を待ってる」
「部屋? 本丸とは違うのか」
本丸というのが何かは知らないが、少なくとも膝丸や髭切は自宅を本丸とは呼ばない。本丸ではない、という意味で一度頷き返すと、薄緑は驚きを顔に浮かべたが、すぐに納得してくれたようだった。
「ひげきりとひざまるは仕事に行ってるから、ぼくは部屋で待ってる」
「そうか。小さいのに立派なものだ」
そんな風にはっきりと褒められたことはなかったので、主はお腹の奥がむずむずする感覚に襲われる。恥ずかしいような、何だか自分がちょっとだけ偉くなったような、不思議な気分だ。
「うすみどりも仕事?」
「仕事とは少し違うが、今はやるべきことはある。忘れてはならない、大事なやるべきことが」
「うすみどりの主も、部屋にいるの?」
自分と同じような子供――あるいは大人かもしれないが、そういう人が自分の他にもいるのだろうか。興味の赴くままに主は尋ねた。
瞬間、主の手を握る薄緑の手が、ぴくりと強張った動きを見せた。まるで、触れてはならない深い傷に無遠慮に触れられたかのように。
(間違えた)
刹那、主は「ごめんなさい」と口にしようとした。この強張りは、まだ自分が母と住んでいた頃、彼女の気に障ることを口にしてしまったときの強張りによく似ていた。
だが、口を開いたのは薄緑の方が先だった。
「――主、は」
その声は、喉の奥から無理矢理絞り出したかのように乾いていた。
「主は、今は――隠れてしまったのだ」
「え?」
「……いや、何でもない。暫く見てはいないな。……遠く、離れた所にいるから」
彼は母のように怒りはしなかった。手をあげもしなかった。だが、いっそ怒られた方が良かったと主は思った。
薄緑は――笑っていた。その笑顔は、割れた茶碗が妙に綺麗に見えるのと同じように、壊れてしまったが故の美しさを孕んでいた。
***
歩き続けて一時間と少し経った頃。主が足のだるさを覚え始めた頃合いを見計らったかのように、一振りと一人は先程までの閑静な区画から、両脇に店が建ち並ぶ賑やかな通りにやってきた。
眼前に広がる光景を前に、薄緑と主は揃って目を丸くした。宿場町のような風情のそこには、黒々とした瓦でできた三角屋根の家が並び、白い石畳が整然と敷き詰められていた。店先では店員が箒を動かして、せっせと店の掃除をしている。
行き交う人通りはそこまで多くなく、長閑な空気が流れていた。どこかでは女中らしき女性たちが顔を合わせて笑い、またどこかでは何か売りに来た店主と店の従業員が物々交換の相談をしている。それだけならどこにでもある光景だ。
だが、彼らが驚いたのは、そこではない。
「……うすみどり、あの人」
「ああ、あちらの店主もそのようだ」
彼らが目にした店員や通行人の一部は、明らかに人ではなかった。分かりやすい者なら、二足歩行の人間大の狐や狼だろうか。体の骨格だけを人の形に押し込めたような彼らは、人間のように着物を着てはいるものの、どこか歪だ。店先に立っている人間も、本当に人間かどうか疑わしい者も幾人かいる。
肌が青白いもの、赤黒いものはまだ分かるが、目の覚めるような緑色の肌は人のそれではないだろう。顔にお面をつけて大きな着物で体の輪郭を隠している者に至っては、人の体をしているかすら妖しい。唖然として突っ立っている彼らの横を、荷物を背負った兎が走っていった。
しかし妖怪絵巻のような世界の中には、人間と思える姿もあった。彼らはごく自然に、人ではない者の言葉を交わし合っている。
「これは……異界、とも少し違うようだな。誰かの個人的な領域ではなく、人ではない者たちと人間が協力して暮らしている共同生活のための場なのか?」
薄緑はぶつぶつと呟きながら、道行く人の顔をちらりと見ている。あまり他人の顔をじろじろ見るものではないと、主はできるだけ下を向くようにした。
「空。疲れてはいないか」
薄緑の問いかけに、主はどう答えるか躊躇した。足は棒のようになっていて、どこかで休みたいとは思っていた。とはいえ、ここを出ようと決意表明をしたのに、休みたいなどと言うのは何だか情けない。故に顔を上げ直し、首を横に振った。
「そうか。だが、俺は少し休もうと思っている。良いだろうか」
「……うん」
主の見た限り、薄緑の方こそ疲労の影は全く見えない。それとも、そう見せていないだけなのだろうか。主には分からなかったが、休みたいと薄緑が言っているのなら断る理由は彼にはなかった。
主の手を引きながら、薄緑は休めそうな茶屋を探しつつ真っ直ぐに歩いて行く。見慣れない客と思われてか、道行く人たちはたまにちらちらとこちらを見ていたが、特に声をかけられはしなかった。
主も歩みを進めながら、周囲をそっと観察する。以前、髭切や膝丸に連れられて行った『万屋』と似たような街並みだが、それに比べると店と呼べるものはそこまで多くない。最初見たときに店に見えた建物の殆どは、宿と店を兼任しているようだった。
「休める所、ないね」
「この場所は、誰かが泊まりにくるための場所なのかもしれぬな。たしか、先程会った女性もそう話していただろう。夜に客が来る、と」
「ホテル?」
「ああ、最近の言葉ではそのように言うのだったな。この雰囲気なら旅籠と呼称した方が似合うだろう」
「はたごって?」
「古い時代の宿だ。街道を行く者に宿と食事を振る舞い、代わりに金をもらう。そういう場所のことだ」
なるほど、と主は頷く。それなら、この場所は色々な旅籠がある場所なのだろう。
じっと観察してみれば、それぞれの違いも分かってくる。あちらの旅籠は部屋自体は小さいが、何やら良い匂いがする。対して反対側の店は軒先に提灯をいくつか吊していた。灯りがついたらきっと華やかになるに違いない。
「さて、この中で座って休めるような店があれば……」
薄緑がそこまで言いかけたときだった。視線を感じ、誰が見ているのだろうと主は周囲を見渡す。視線の持ち主はすぐに分かった。向かいからこちらへと歩いていた一つの人影が、やおら顔を上げ、こちらをまじまじと見つめていたのだ。
色の濃い髪の毛に、ぐるぐると何重にも巻いた襟巻きが特徴的な少年だ。主よりは年上だろうが、薄緑よりは明らかに見た目の年齢は年下だろう。
「あれ、やっぱりそうだ!!」
大きな声をあげて、少年は急にぱたぱたと駆け寄ってきた。近づかれると、彼がこれまた濃い色合いの着物を着ているのが分かる。腰にぶら下げた巾着が、勢いよく走ったせいで別の生き物のようにぶらぶらと跳ね回っていた。
「ねえ、そっちにいるのって刀剣男士の膝丸……だよね?」
突然薄緑の本来の名を告げた少年に、当の本人は困惑を顔に浮かべつつも、ゆっくりと頷き返した。
「やっぱり! 俺は信濃藤四郎。分かると思うけど、刀剣男士だよ」
その自己紹介を聞いて、主はただでさえ大きな瞳をまんまるにして、信濃藤四郎を見つめる。刀の神様は大人だけと思い込んでいたが、どうやらそうではないらしい。
「実は、もうちょっと行った先で雑貨屋みたいなことをしてるんだ。同じ刀剣男士に会うのって、すっごく久しぶりなんだ。良かったら、寄っていってくれない?」
主と薄緑は顔を見合わせ、暫くの沈黙の後、
「そこは、座って休める所はあるだろうか」
信濃と名乗った少年は、満面の笑顔でゆっくりと頷き返した。
***
信濃藤四郎が連れてきてくれたのは、雑貨屋と駄菓子屋を兼任しているような店だった。店先には日焼けしすぎてラベルが読めなくなった自販機が置かれており、その隣に腰掛けられる木製のベンチが設置されている。元は白かったらしい色が殆ど剥げ落ちているが、それがまた独特の味を出していた。
主が腰を下ろすと、ベンチはぎしぎしと軋んだ音を立てたが、流石に板が抜けるようなことはなかった。
「うすみどり、お疲れさま」
「ああ。お疲れ様だな」
主は自分の手にある綺麗な薄い色の瓶を額に当て、歩きづめで火照った体を冷ます。地下の氷室から取ってきたと信濃が言っていたそれには、大きく『ラムネ』と書かれたラベルが貼り付けられている。肝心の信濃は『大将に呼ばれた』と言い残して、今は席を外していた。
「空。もし疲れたのなら、遠慮無く言ってくれ。君が疲れて体調を崩すようなことがあったら、君の膝丸に合わせる顔がない」
「うすみどりは悪くないって、ちゃんとひざまるに言う」
「俺が悪い悪くないの問題ではなく、君が心配なのだ。恐らく、君の膝丸も似たようなことを言うだろうが」
主はラムネの蓋を口元にちょんと当てながら、膝丸が『心配』する様子を考える。
薄緑が言うところの『心配』が何を指すかは分かる。薄緑は、疲労のあまり風邪をひいたり熱を出したりしたら気の毒だと思って、心配してくれているのだろう。
だが、対して膝丸はどうなのだろうか。
不思議な世界に連れて行かれたときは助けに来てくれた。それが彼にとって当たり前のことなのだろう、とは承知している。しかし、膝丸が『風邪をひくから疲れないように』と言っている様子が、どうにも想像できない。ごく当たり前の発想のはずだが、主の中の膝丸と上手く結びつかないのだ。
「……そういう心配は、しないような気がする」
ひょっとしたら、刀の神様である膝丸は『疲れたら風邪をひく』という常識すら知らないのかもしれない。それならあり得そうだと納得していると、
「主の体調管理に無頓着なのか? そんな『俺』がいるとは、信じられないな」
「ご飯は作ってくれる」
「それは当然だ。君は子供なのだから、大人の姿をしている俺たちが庇護するのは義務のようなものだろう」
「ひご?」
「面倒を見るのは当たり前だ、と言っている」
そのやり取りに、主は膝丸と薄緑の相似を感じた。膝丸も分からない単語があったら、分かりやすい単語にかみ砕いてくれる。薄緑は膝丸に対して不満を抱いているようだが、主としては似たり寄ったりのように見えた。
「ひざまるは、いい人だよ」
「ああ。そこまでは否定しない。だが……顕現して日が浅いのかもしれぬな。人間が脆いということを、まだ理解してないのだろう。見識が浅い膝丸とともにいたら、君も苦労しそうだな」
主は唇を尖らせて、わざと会話を打ち切ってラムネの蓋と格闘し始めた。薄緑が良い人なのは分かるが、膝丸を悪く言われるのは嬉しくない。主なりの無言の反論だった。
暫く蓋を捻ったり小突いたりしていると、薄緑がその様子に気が付き、手を差し出してくれた。薄緑に瓶を渡すと、彼は蓋から何かを外し、取り出したパーツで蓋をぐいっと押した。すると、パシュッという小気味よい音と共に、液体の中にころんとビー玉が転げ落ちる。まるで魔法のような手つきだ。
「これで飲めるはずだ」
「う、うん」
いったい何が起きたのだろうと思いながら、主はラムネに口をあてて恐る恐る飲んでみる。口の中でぱちぱちと爆ぜる泡と共に、すっきりとした味が一息で広がり、主は目を丸くした。
この空間は春に近い気温だが、それでも歩き続ければ体から熱が生まれる。その熱を、ラムネは一口の間に押し流していってくれた。
「おいしい」
「ああ、冷たくて心地よいな」
薄緑もラムネの蓋を開けたようで、一息で半分ほどを飲み干している。薄緑も喉が渇いていたのだろう。中の液体を飲んだことによりできた空間を、ビー玉が涼しげな音を立てて行きつ戻りつしていた。
「君は先程部屋で留守番をしていると言っていたが、本丸の審神者ではないのか」
「さにわ、じゃないと思う。二人は『あるじ』って呼んでる」
「審神者ではなく、保護しているだけなのか……? 不思議な縁もあったものだな。何故、その膝丸の所に?」
薄緑の質問に、主はじっと考え込む。ラムネの中で揺蕩うビー玉を見つめつつ、彼は最初に彼らに出会ったときのことをなるべく正確に思い出そうとしていた。
「……はっきりは、分からないけど。沢山の大人の人がいる場所か、二人のところか、どっちがいいかって聞かれた。それで、二人がいいってぼくは言った」
「そうか。君が選んだことであったか。君は幼いのに、まるで大人のようにしっかりしているな」
どうして褒められたのかは分からないが、褒められるのは純粋に嬉しいので、主は口元を小さく緩ませた。笑っているのが見られるのが何だか恥ずかしくて、照れ隠しにラムネに口をつける。
「君の名は『空』というのだったな。名字は? 家族は何をしているのだ?」
だが、その問いに空の手がぴくりと止まった。見上げた先、薄緑の瞳に悪意はない。ただ純粋に、こちらを案じているのだと分かる。それでも主は『家族』という言葉に、そこから連想される大人達の姿に、隠しきれない忌避を感じてしまう。
(うすみどりは、ひざまると同じ神様だから、家族を知らないんだ)
考えてみれば、膝丸の側には大抵髭切がいた。話をすれば五分に一度は『兄者』という単語が飛び出るほどだ。だが、薄緑は膝丸と『同じだけど違う自分』と説明してくれたが、『兄者』――つまり髭切のことは何も言っていない。ひょっとしたら、薄緑には兄がいないのかもしれない。
だからこその好奇心であり、彼はこちらを虐めているつもりではないのだと言い聞かせ、主は深呼吸をした。春の香りが口の中のラムネの残り香と溶け合い、動揺しかけた心が落ち着く。
「名字は……高瀬だったけど、もう変わったとか聞いてた。家族は……」
そこで主は口を噤んでしまう。保護者であった彼女が今何をしているか、主は知らない。長らく家を空けて戻ってこなかった様子から察するに、自分の子供のことなどとうに忘れてどこかに行ってしまったのだろう。もう一人の父親と呼べる存在については、記憶自体があやふやだ。
「家族は……よく知らない。今はひげきりとひざまるが家族」
口にすれば、これは主にとってしっくり来る考え方だった。髭切と膝丸の『主人』というのは、彼らにとって偉い存在なのだろうとは主も薄々分かっていた。物語の中では、年下の地位の高い子供に頭を下げる大人もいたので、あれのような感じなのだろう。
だが、髭切は口では『主』と言うが、あまり『主』を重要視しているようにも思えない。そういう気安い関係は主人と家来と呼称するよりかは、家族と表した方が親しみやすい。
「友人ではなく、家族……か」
「うん。友達は……いないから」
そこで、ふと口を閉ざす。確かに思い出す限りでは、自分に友達と呼べる者はいない。家の外で遊んでいた頃であっても、相手の顔色を窺いがちな自分は揶揄われるばかりで、いじられることはあっても、一緒にはしゃぐ機会は限られていた。
だが、一度だけ。初めて会ったというのに、しかも『彼』の方が年上だったのに、大人のように丁寧に向き合ってくれた子供がいた気がした。あれは、いつのことだっただろうか。
ふと視線を感じて顔を上げると、薄緑がこちらを労るような視線で見ていた。友達も血の繋がった家族もいないと話したせいで、無用な心配をさせてしまったのかもしれない。
「でも、昔は友達も家族もいた。だから、えっと……大丈夫」
自分でも何が大丈夫なのか分からないが、目の前の彼を不安にさせるのはひどく申し訳ない気がして、形にもなっていない言い訳染みた言葉を口にしてしまった。主の気遣いを察してか、薄緑もそれ以上は詮索しなかった。
「うすみどりは、どんなことをいつもしてるの」
当たり障りのない質問のはずだったが、薄緑は目を瞑って考え込んでいる素振りを見せた。両手で包むように持ったラムネ瓶の上を、落ち着きなく指が行き交っている。
「今は……何とも言えぬな。捜し物をしながら、同居人の世話をしている」
あまり言いたくないことだったのか、薄緑の言葉は大層歯切れが悪い。薄緑にとっては嫌な話題だったのだろうかと、主はすかさず「ごめん」と呟く。なまじっか膝丸と顔は同じなために、ついつい遠慮が無くなってしまった。
彼の様子に気が付いたのか、薄緑は慌てて取りなすように言葉を続ける。
「む、昔は色々とすることがあったのだぞ。畑で作物の手入れをして、家の掃除をして、たまに料理を作って……だな」
目を細めて思い出を語る薄緑の横顔は、とても楽しそうであるのに、どこか寂しそうだ。まるで、その思い出はもう二度と戻ってこないとでも言わんばかりに。
「猫が家に忍び込んできたこともあったのだ。これがまた、自分が迷子であるというのに傲岸不遜な猫でな。我が物顔で俺の布団を奪っていく始末だ。君は猫を飼ったことはあるか」
「猫は、飼ったことない。布団を取りに来るんだ」
「ああ。毛が長くて、耳の先や足の先の色が濃い、まるで獅子のような猫だった。毛触りだけはよい猫だったから、よく撫でたものだ」
口では何だかんだ言いながら、薄緑はその猫を気に入っていたのだろう。嬉しそうに語る顔は、先程よぎった寂しさを覆い隠していた。
「ぼくの家は、動物を飼っちゃ駄目って言われてたから」
「都会の住宅はそうであるらしいな。俺のいた家は山にほど近かったから、獣がよく通っていった。狸にイタチに……ああ、そうだ。河童もいた」
「河童は、作り話じゃないの」
「君にとってはそうかもしれないが、俺は本当に会ったのだ。それに、こんな場所にいては作り話とも言えなくなるだろう」
薄緑の言う通り、このベンチに腰を下ろすまでに明らかに人間ではない生き物たちが通っていった。二足歩行をしていることぐらいしか、共通点はないだろう。主は薄緑に対してこくこくと首を縦に振り、同意を示した。
続けて、ラムネをもう一口と思って傾けてみるが、中身は空になってしまったようで、中のビー玉が涼しげな音を立てるだけだった。ラムネ瓶を振ると、カラコロと気持ちのいい音が瓶の中に響く。何だかその音が気に入って、主は何度か瓶を振って楽しんでいた。
「それが欲しいのか?」
どうやら振っている姿を見て、中のビー玉が欲しいと思ったらしい。しかし、飲み口に固定されている形状の蓋は、飲む分には問題ないだけの穴が空けられているが、ビー玉が通り抜けるには些か道が小さすぎる。
「貸してくれ。この程度なら何とかなる」
薄緑はしっかりはまっていた蓋に手をかけると、暫く格闘した後に蓋を引き剥がしていた。ぐにゃりとへし曲げられた蓋を見るに、相当な力をかけて無理矢理剥ぎ取ったらしい。
主の手の上にぽんと載せられたビー玉は、美しく透き通っていた。それを覗き込むと、周りの景色がぐんにゃりと曲がって見えた。ビー玉を光に翳したり手の上に転がしたりして遊んでいると、
「お待たせー、二人とも! ごめんね、大将が何があったかって根掘り葉掘り聞いてきてさ」
姿を見せたのは、薄緑と主を案内してきた信濃藤四郎と名乗った少年だった。その片手には、主たちに渡してくれたラムネが一本ある。
「すまない、君の主を驚かせてしまったか」
「いいよ。大将は知りたがりなんだ。外の世界のこと、全て知っておかないと不安で仕方ないんだよ」
大将、と信濃が呼んでいるのは、彼の主人なのだろうと主は何となく理解する。刀剣男士と名乗る刀の神様には、それぞれ『主』という人間がいる決まりでもあるらしい。
自分がよく知る髭切と膝丸の主は、勿論己のことである。薄緑の主は『遠くにいる』と本人が話していた。そして信濃の主は、今は店の奥に引っ込んでしまっている。
「それよりもさ、二人はどうやってここに来たの? ここ、そんなに簡単に入れないとは思うんだけど」
「ぼくは、垣根をくぐってきた」
「俺はふらりと歩いていたら、いつの間にか辿り着いていたのだ」
なるほど、と信濃はもっともらしく頷く。
「信濃藤四郎。ここは、ある種の異界であると認識しているが、それは相違ないか」
「うーん……まあ、そうだね。俺たちの知ってる向こう側とこっち側は、ちょっと別の世界かな。限りなく近いけど決して交わらないお隣さん、みたいな」
「そうか。ここから出る方法については?」
何やら難しい話になってきたと思っていた主だったが、薄緑のこの問いだけはすぐに理解できた。頭をもたげて、主も信濃に注目する。
「出られる人も、いることはいるみたいだよ。でも……確実な方法は、俺もよく知らないんだ。だけど、ここもそんなに悪い所じゃないよ?」
「それでは困る。俺はやらなければならないことがある。この子供も、家に帰さねば」
ベンチを蹴るようにして立ち上がり、薄緑は必死さを声に滲ませて信濃に問いかける。彼の突然の挙動に、主は目を丸くした。今まで主という子供の前では見せられなかった動揺が、刀の神様という同胞を見つけて表に露出してしまったようだった。
「……確証はないけど、可能性の話だけならしてもいい。だけど、俺はあまりお勧めできないんだ」
薄緑の必死の形相に思う所があったのか、信濃は朗らかな少年の顔を捨て、冷静な刀の神様としての断片を見せながら薄緑に向かい合う。
「この通りを行くと、来た人のお願いを聞いてくれるお店があるんだ。いつからやってるのかは知らないけど……気が付いたら、そんな店ができていた。俺とか近所の人は、願い事屋さんとか、占い師さんとか呼んでる。その人は、客のお願いと足りないものとかを言い当ててくれる。それ以外にも、お願いがあったら大体のことは叶えてくれる」
「そのお店の人が、道を知ってる?」
主の問いかけに、信濃は「ちょっと違う」と答えた。
「道を知りたいって言ったら、教えてくれるかもしれないってこと。だけど、騙されないように注意しないといけない」
「騙される?」
「その人、願いを叶える代わりに対価を持っていっちゃうんだ。もしかしたら、人じゃないかもしれない。だから、代わりに何を求められるかをちゃんと聞かないと」
信濃はぐるりと振り返り、駄菓子屋の店の奥を見つめる。彼の『大将』がいるはずの場所を。
「……思いがけない結果になってしまう。そんなはずじゃなかったのにって言っても、もう遅いんだ」
信濃の声音はいつになく真剣で、ラムネを渡してくれたときの人当たりのいい笑顔はどこにもなかった。彼の大将が何を求め、代わりに何を渡したのか。安易に聞くのは憚られるほどに空気は張り詰めていた。
「あ、でも、それさえちゃんと守れば、対価に見合った分だけのお願いは叶えてくれるって評判だよ。それ以外でここから出る道をすぐに答えられる人はいないと思う」
「つまり、危ない橋を渡るしかないということだな」
「そういうことだね。もし行くなら、夜になる前がいいよ」
信濃は薄緑に空を見るように促す。来たときは太陽が中天を半ば過ぎた頃だったのに、今は半ば西に傾き続けている。微かに滲む夕焼けの気配は、一日の終わりが近いことを示唆していた。
「夜になったら『お客様』が来るから」
信濃が意味深に告げた言葉に、主も薄緑も反応に迷う。少し前に世話になった女性も、夜には『お客様』が来ると話していた。
「その客人とは何者なのだ」
「色んなものだから、俺も何とも言えないよ。俺の店は宿じゃないし。でも、その『お客様』のおかげで、村の方にいる人たちは土地が豊かになるみたいだし、俺たちもいくつか面白いお菓子を分けてもらってる。それに、この空間が外から乱されることもない」
信濃は通りへと視線をやって、目を細める。彼につられて、薄緑と主もそちらへと視線を送った。
「ここは色んな悪いものから守られた場所なんだ。雨は降るけど嵐は来ない。晴れたとしても干上がるほどじゃない。居心地のいい楽園を作って、そこでゆっくり過ごしたい『誰か』が、ここを整えてくれる。そういう風にして、昔から続いてる場所なんだ」
それが誰かは分からないけれど、と信濃は付け足す。本当は信濃は知っているんじゃないか、と主は彼の横顔を見て思う。分からないと言った彼の言葉は、どこかとってつけた感じがした。
「だけど、その『誰か』はその分ここで好きにしていいって不文律がある。だから、出て行くなら『彼ら』が来る前がいいよ。『彼ら』は、新しい者は目聡く見つけるから」
信濃は薄緑と主を両方に視線を送って、にこりと笑った。
ふと、主は思い出す。垣根を潜った先にいた女性は『連れてこられた』と話していた。ここでは、そういう風に元いた場所から連れてきたり戻してきたりが、当然のように行われているのかもしれない。
「忠告痛み入る。空、どうやらあまりゆっくりはできないようだ」
薄緑に促され、主もベンチから飛び降りる。今度は迷わずに、彼の手をとることができた。