本編の話

***

聞き馴染みのある、兄の呼び声がする。だから、そちらに向かって歩を進めているというのに、まるでたどり着けそうもなかった。
周りの景色は、先ほどから同じような木々ばかりで、進んでいるのか戻っているのかも定かではない。

「いや、俺は本当に前に向かって進んでいるのか?」

おーい、と呼びかける声そのものは、間違いなく髭切の声である。しかし、肝心の姿は見えない。
薄緑の髪に指を差し込み、彼──膝丸は乱暴にぐしゃぐしゃと掻いた。その所作で今の状態が改善するわけではなかったが、少し頭はすっきりする。
闇雲に踵を返せば、自分がどこから来たかも分からなくなるような山道。その只中で、顎先に指を添えて膝丸は考えていた。
どうにも、思考がぼんやりとしている。今までもそうだったが、特に何も考えずに前へ進もう、進もうという気持ちだけが生まれている。

「闇雲に進んでも仕方ない。だが、兄者の声は向こうからずっとし続けている──いや、あれは本当に兄者の声か?」

聞き間違えかもしれないと、膝丸は耳をすます。もっとも、今は声は聞こえてこなかった。
普通なら、まず間違いなく髭切の声だと断言しただろう。だが、今は職員の身に起きた不可解な変化を調査しに来ている身だ。少し不思議なことが起きてもおかしくはない。
たとえば、兄によく似た声が山彦のように響く、とか。

(五感に頼らぬ方が、今はよさそうだ)

膝丸は足を止め、目を瞑る。木々のざわめき、鳥の鳴き声、涼しげな風と共に舞い込んできた草いきれ、足元から沸き立つ土の匂い、靴の裏で感じる地面の感触。それらを肌で感じ、耳で聞き取る。
どこかで誰かが木でも斬っているのか、コーン、コーンと幹を斧で叩くような音が響いている。まるで、急かすように。先に行けと言うかのように、叩く音の間隔は徐々に短くなっていく。
不意に、今度はゴーッという激しい音と共に、地面が揺れた。地震かと思い、目を開きかけるも、ぐっと堪える。
確かに足元は揺れていると伝えている。だが、

(俺の直感が、揺れていないと告げている)

刀を振るうための体として、刀剣男士は五感が優れている。だが、同じぐらい自身の第六感──要するに勘も、今この状態においては頼れる感覚の一つだ。
ふうと息を吐き、膝丸は目を開く。もし、本当に足の裏で感じていたような揺れがあったなら、まず間違いなく地割れが起きているはずだ。だが、眼前の地面は、光景は、目を瞑る前と変わらない。

「──なるほど、俺は謀られていたわけか」

兄の声も、そうなると本物かどうか極めて怪しい。そこまで分かってしまえば、もう膝丸は躊躇しない。
肩に背負っていた刀をしまっている布袋の紐をほどき、膝丸はその中に収まっていたものを鞘ごと掴み、引き出す。手の中に収まっているのは、新緑よりやや濃い緑を帯びた鞘におさまった、一振りの太刀だ。

「長義曰く、刃物を持ち出すものではないかもしれないが、先に手を出したのはそっちだからな。大目に見てもらおう──か!」

鞘から刀を抜き放ち、彼はその切っ先を地面に勢いよく突き刺す。
──瞬間、獣の咆哮が何重にも山間に谺した。


***


静寂の中、木々が風に弄ばれてざわざわと揺れる音だけが、やけに強く響く。
長義が思わず息を飲む音、そして目の前に立つ膝丸──否、膝丸の姿をした何かが軽く身じろぎをする。弾みで、下草が擦れてさらさらと揺れた。

「どうして分かったのかって、顔をしているね」

髭切は相変わらず背中の布袋に手を添えたまま、膝丸に似た何かを睨みながら言う。相対する彼は、明らかに驚愕を表面に出していた。

「本当に、膝丸じゃない……のか?」

長義の狼狽に、髭切は深く頷いて応じる。

「色々尋ねてみるといいよ。いや、そうまでしなくても、その布袋の中身を見せてもらえばいい。外見は真似できても、その中身だけは絶対に真似できないだろうから」

──そこにあるはずの、刀だけは。
髭切に指摘され、膝丸の姿をしたものは大きく肩を落とし、ゆっくりと首を横に振った。その仕草は、どこからどう見ても降参の意思を示す所作だった。
どうやら、正体がバレてもこちらに危害を加えようとは思っていないらしい。そのように予測して、長義は限界まで高めていた警戒のラインを僅かに引き下げる。

「いつからすり替わっていたのかな。俺は全く気がつかなかったよ
「神社に到着して、振り返った時には、もう入れ替わっていたね。道中ではぐれさせられたというところかな」
「──後学のために聞いておきたいんだが、どうして分かった?」

正体が露見したことにより逆に開き直ったのか、その存在は不愉快そうに眉を歪めて髭切に問う。
およそ膝丸が髭切に見せるとは思えない、腹の中に一物を隠していることがよくわかる顔だった。

「君がやけに僕の様子を伺っていたから。まるで、僕の機嫌を取ろうとするみたいにね。弟が、僕にそんな態度をとるわけがないから、すぐに何か違うって分かった」

こちらの隙を窺うような、あるいは何かを試すかのような視線。それは膝丸が自分に向けるはずのないものであり、故におかしいと感じたのだと、髭切は語る。

「それだけか」
「それだけだよ。いつもより口数は少ないようだったけど、弟は考え事を始めると難しい顔をしてだんまりしてしまうし、何を悩んでるのか、ここ最近はそういうことが多いから。そこは、不自然にはあたらなかったかな」

髭切は、にっこりと笑みを浮かべて膝丸の姿をしたものと対面する。顔は笑顔のはずなのに、どこか凄みがあると長義は感じていた。

「だから、僕はお前を一度も弟とは呼んでない。お前も、僕を兄者とは言わなかったからね」
「兄でもない物を、兄とは呼べまい。そこは、お互い様だろう」

髭切に対峙する膝丸──の顔をした者も、負けず劣らず牙を剥いて凄絶な笑みを浮かべる。その笑い方は、間に挟まれた長義から見れば、まるで獰猛な獣が威嚇し合っているように見えた。

「髭切。気が付いていたのなら、どうしてすぐに言ってくれなかったのかな」

非難するような目つきの長義に、髭切は先ほどの凄んだ笑みはどこへやら、つかみ所のない愛想笑いを浮かべ直して応じた。

「本当は、気付いた時点で、すぐに問い詰めてしまっても良かったんだけどね。ほら、長義が言っていたんじゃないか。僕たちは、お伺いをたてる側なんだって」

社に向かう道中で不思議なことが起きれば、その向かった先に纏わる何かが関わっているのではないか、と髭切は推測を打ち立てていた。
向かった先──すなわち神社。それは、神が住まう社だ。
そこに暮らすものが何かの意図で行っているのなら、ことを荒立てて宿で昏倒している職員の容態が悪化しても良くないと考えたのだと、彼は語る。

「そういう目に見えづらいけど僕らより高位のものに祟られるのは、もう懲り懲りだからね。何が不逞な行為と判断されるかも、僕には分からなかった。それに、弟が隠されていたから」

長義は、不意に背筋に寒気を覚える。弟が隠されていた、という言葉を発した瞬間、彼の言葉に微かな殺気を覚えていたからだ。

「彼にこれ以上苦難が降りかかるのは、避けたかった。あんな目に遭わせるのは、二度と御免だから」
(二度と……?)

それでは、一度は何かあったようではないかと長義は言いかけたが、髭切はすぐに殺気を引っ込めて己の推理を続ける。

「だから、一応様子見をしていたんだけど、どうにもあの社に来た後も、落ち着かない感じがしていてね。じゃあ、『違う』かなって」

拠点に辿り着いたのなら、多少でも気を緩めるかと思いきや、膝丸に化けたそれは寧ろ緊張した様子であり、長義の側から離れようとしなかった。
注意深く動向を探れば、髭切が二人から完全に目を離した瞬間、彼は長義をどこかに連れて行こうとした。しかも、こっそり後をつけて話を聞いた限りでは、頼みがあるのだと言うではないか。

「頼みがあるなら、取引ができるという事だよね。だから、文字通り尻尾も出してくれたことだし、こうして声をかけたというわけ」
「尻尾を出すような、童のような化け方を俺はしていない!」
「なるほど、君の変化(へんげ)は尻尾が出る可能性もあるんだね。どうもありがとう、自ら墓穴を掘ってくれて」

髭切は一歩、膝丸の姿をした何かの元に近寄り、目を細めて笑う。
その微笑は、明らかに獲物を狩る狩人のそれである。しかもただ、彼は楽しんでいるのではない。

(これは、相当怒っている……のだろうね)

感情があからさまに表出している髭切を、長義は初めて見たが、これほどまでに激昂することもあるのかと正直驚いたほどだ。
自分が騙された側だというのに、膝丸に化けた何かを一瞬長義は気の毒に思う。それほどまでに、髭切の表情の裏に隠された怒りは大きそうだった。

「尻尾を出す化けるもの、ということは狐狸の類かな。狐か、狸か──まあ、どっちでも興味はないんだけど」
「……どちらでもない。俺たちのことを、人間は〈ムジナ〉と呼んでいた」

この返答は髭切にとっても予想外だったようで、微かに怒りの表情が驚きのものへと変わる。聞き慣れない単語に、首を捻っているようだ。

「髭切、彼に怒っても今は仕方ないだろう。刀を抜こうとするのはよさないか」
「だけど、彼は僕らを騙した。それに、弟の居場所も吐かせないといけないよね」
「俺は、君たちを助っ人として呼んだんだ。その俺の言葉を無視して勝手に動くというのなら、相応の報告を上層部にしなくてはいけなくなる。言いたいことは分かるね」

本丸の敷設という大事業において、たった一振りの刀剣男士の勝手な振る舞いが、後々に禍根を残すようなことがあってはならない。
そうでなくても、今は宿で眠っている一人の命運がかかっている場面でもある。関係者を徒に傷つけて、何もかもを台無しにしては元も子もない。
長義の警戒がどのような意図で発されたのかを察してか、髭切はようやく表面上の怒りは引っ込めてくれた。

「それで、ムジナくんとやら。俺に頼みというのは?」

気を取り直して長義が尋ねると、今度は膝丸の顔をしたもの──ムジナの方が戸惑ったような様子を見せた。

「騙していたのに、話を聞いてくれるのか」
「もし、君たちのせいで俺の仲間がおかしくなっているというのなら、君たちのお願いとやらを聞いて助力したら、取引の余地ができるだろう」

ここで、ムジナが「そんなことは知らない」と言っても、長義は彼の願いについて耳を貸すぐらいのことはしてやろうと思っていた。
持てるものは、与えねば。顕現した当初から刻まれた、一種の奉仕精神が長義にそのような選択をさせていた。
もっとも、ムジナもやはり思う所はあるらしい。気まずそうに目を逸らす仕草が、何よりも雄弁に彼が関係者だと語っている。

「僕は、そのまま斬ってしまった方が早いと思うんだけれど」
「髭切。ちょっと君は黙っていてくれないかな?」
「でも、実際退治したら全て解決するんじゃないのかな。後遺症は、残るかもしれないけれどね」
「残ったらまずいだろう。それに、呪詛の類は術者が死んで終わりとは限らない。周りに拡散する場合もあれば、残滓として残り続ける場合もあると聞いている」

長義の仕事は呪詛を取り扱うものではないが、それでも目に見えない不可思議な現象に関わる部署に所属するものとして、長義もこの程度は一通りの理解を得ていた。
中途半端に後腐れを残すぐらいなら、穏便な解決手段を長義が選んだのも、そういう理由からだ。

「俺が何もかもを解決できるとは思っていないが、まず話を聞かせてもらおうかな」
「そう言ってもらって助かる。君たちがかけたものである以上、俺ではどうにもならないと匙を投げていたんだ」
「……俺たちがかけた? 何を?」
「見た方が早い。ついてきてくれ」

膝丸の姿をしたムジナなるものは、地面から張り出した根に躓くこともなく、更に奥地へと軽々とした足取りで分け入る。その先には小さな斜面があり、そこには深々と掘られた穴があった。
獣の巣穴と思しき場所で彼は足を止め、微かに口を開き、口笛のような音を立てる。すると、返事らしき微かな口笛もどきの応答がしたと思うと、ひょこりと一匹の獣がそこから顔を出した。
顔は狸とイタチを足して割ったような愛嬌のあるものであり、胴もイタチのようにやや細長い。その毛は、まるで雪のように真っ白だった。今は、腹巻きのように大きな葉っぱがぐるりと巻き付けてある。
見たこともない生き物に、髭切と長義は思わず数度瞬きを繰り返し、これが幻覚ではないことを確かめずにはいられなかった。
白い獣は顔こそ覗かせたものの、髭切と長義の姿に驚いたのか、すぐに身を引っ込めようとした。
だが、膝丸の姿をしたムジナが小声で何かを囁くと、おずおずとその体を地面に横たえる。その息はよくよく見れば粗く、毛もいくらか抜け落ちてはげ上がっている部分があった。

「病……とは少し違う気がするね。これは?」
「先日、君たちと共にいた人間が、彼女に向けて何か石のようなものを投げつけたそうでね。それ以来、傷は塞いでも熱が一向に下がらないんだ。何かの呪詛の類ではと長は言っていたが、俺では皆目見当もつかない」

弱り切ったように言う彼が、白い獣の腹に巻かれていた葉を退けると、そこには確かに固いものが当たったような打ち身傷があった。

「ねえ、長義。君の話していた人間は、行きずりの獣に石を投げるような者なのかい」
「いや、そんなことはないはずだが」
「じゃあ、ぶつけられるようなことをしたってことかな? それなら、自業自得だよね」

髭切のさっぱりとした物言いに対し、ムジナは何も答えない。その沈黙が、何よりも明確な肯定だった。

「……幼い子供たちが暮らしている巣穴に、ずかずかとやってくる無礼なまれびとを近寄らせたくなかった。だから、やってきた者を迷わせたのだと聞いている。だが、それの何が悪いんだ」

ムジナの言い訳染みた返答に対する反応は、まるで真逆だった。髭切は興味なさそうに目を伏せ、長義は顎先に指を当てて考え込むような素振りを見せていた。

「無礼も何も、この土地の神様だったかにお伺いはたてたんじゃないの?」

髭切が長義に尋ね、彼はすぐさま頷いた。そのやり取りを目にした瞬間、ムジナは再び攻撃的な獣らしい表情を顔に浮かべる。

「君たちが礼を尽くして接したのは、俺たちではない。俺たちに関係ないものに礼をいくら尽くそうが、それは俺たちに対しての礼にはならないだろう」

頼みがあると下手に出てはいるものの、その部分だけは譲れないと言わんばかりに、彼は否定を重ねる。
その頑なな態度は、髭切にも長義にも、どこか見覚えがあるものでもあった。

「──ああ、なるほど。そういうことか」

己の意思を決して曲げず、自らの信じた正しさを主張するもの。仕事場に戻れば、そのような誇りを掲げた同胞たちはいくらでもいる。

「君もまた、神様だったってことかな?」


***

獣の轟きが止んだかと思いきや、膝丸は少し開けた場所に立っていた。辺りにあるのは小さな木製の社だけで、それ以外は見飽きるほど目にしていた木々が並んでいる。
足元に視線を落とすと、自分のものと思しき足跡がぐるぐると社の周りを行きつ戻りつしていた。

「同じところを歩かされていたのか」

何らかの術に嵌まり、兄たちとはぐれて行ったり来たりを繰り返していたのだろう。その足跡を辿るように、膝丸は社へと近づく。
社といえども、神社で目にするような建物とは大きく異なる。両手で持ち上げられそうな小ぶりの木箱をそれらしく装飾した──と表現した方が、恐らく近いだろう。
あと数歩で正面に辿り着くというところで、膝丸は小さな社の陰から覗いている存在に気が付いた。

「……何だ、あれらは」

最初、膝丸はそれを野生のイタチか狸の類かと思った。だが、よくよく見てみたらそれは、どちらとも言えない顔立ちをしている。
耳は小さく丸く、毛並みは土に似た茶褐色だ。体そのものは小さく、顔立ちにもどことなくあどけなさが残っている。成長した個体を見たわけではないが、間違いなく子供だろう。
それが三匹ほど、膝丸の様子をのぞき見るように社の陰から顔を覗かせていた。その仕草は、まるで子供が興味のあるものを、遠巻きにじっと見つめる姿によく似ていた。
見つめ合うこと数秒。やがて、

「あいつ、刃物持ってるよ」
「刃物持ってる、おっかねえやつだぞ」
「でも、おいらにはおむすびくれたぞ。でっかいおむすびだ」
「貴様らに、握り飯をやった覚えはないが」

膝丸が会話に割って入ると、二匹は膝丸の声に驚いたように社の陰に引っ込んでしまった。獣が喋ること自体は、今まで喋る狐狸に何度か出くわしてはいるので、今更驚きはしない。
隠れずにいた一匹──おむすびをくれたと主張した獣だけが、とてとてと物怖じせずこちらに近づいてくる。

「道のところで、あんたがくれたぞ。こーんな大きいおむすびだった。見たこともない魚が入ってて、うまかった」
「ちびすけだけずるいぞ、おれもほしい」
「あたしもあたしも!」

一匹が主張したためか、先ほどまでは逃げ腰は何だったのか、引っ込んでいた獣たちまでもが、わらわらと社の陰から姿を見せる。そのどれもが、膝丸に期待の視線を送っていた。

「道のところで、握り飯を……まさか」

膝丸は思い出す。この集落跡に来てすぐ、髭切と共に昼ご飯を食べようとしたときのことを。
あのとき、自分は誤って袋からおにぎりを落っことしてしまった。斜面に転がり落ちたのを拾おうと探しに行ったのに見つからなかったのは、この小さな獣たちが自分たちの贈り物と勘違いして、持っていってしまったからだろう。

「まさか貴様らは、握り飯をまた貰うためだけに俺を迷わせたのか」
「うん! でっかいあんちゃんも、そうしてくれたら助かるって、おれたちに言ってたから!」
「とっても、とっても、がんばったんだから!! 地面もごーって揺れたみたいにしたんだよ!!」

邪気のない子供たちの返事に、膝丸はその場で項垂れた。
化かされた自分が言える立場ではないが、あまりに馬鹿馬鹿しい理由だったからだ。
人を騙す悪いあやかしどもとして、斬り捨ててしまおうかと、一瞬膝丸は考える。だが、同時に彼は悩んでしまってもいた。

(この獣どもは、ただ俺から美味いものを貰えると期待して、こうしているのだろう)

山では滅多に食べられない、人の手が加わった料理。それを食べたいと願う心を、無碍にはできない。
ふと、一ヶ月ほど前のことを思い出す。
髭切が、主を連れて来た日のことだ。突然、見知らぬ人間を主と呼ぶようにと髭切に言われ、膝丸はそのとき、ひどく困惑した。だが、困惑したのは膝丸だけではなく、主も同じようだった。
髭切に振り回された者同士、思う所もあって、膝丸は彼のために万屋で団子を買い与えた。主が髭切と膝丸、二振りと一緒に食べたそうにしていたので、結局三人で肩を並べて食べた。
腰を落ち着けて、任務のことも戦いのこともいっとき忘れ、口にした団子は──とても、おいしかった。
それまで、何を口にしても『食べた』という実感しか得られなかったというのに。

(おいしいの意味を、俺はあのとき知ったのだ。空が、青いことも。目に映る光景のそこかしこに、美しさがあることも)

刀剣男士として、斬れと言われたものを斬るだけの日々では得られなかったものを、あの日膝丸は知った。
全く同じではないものの、目の前の獣が抱く輝きは、あのときの自分によく似ている。だからこそ、彼らを斬り伏せる選択肢から、膝丸はそっと目を逸らす。

(かつての俺ならば、このようなことで躊躇などしなかっただろうに)

問答無用で退治して、それで全てを終わりにしていたに違いない。膝丸という刀は、あやかしを討ち、敵を斬るもの。それだけの存在だと自分を定めていた。
髭切がそうしていたからもあるし、刀としての生き方以外を膝丸は知らなかったからもある。そもそも彼は、知ろうとも、望もうとも思わなかった。
けれども、今は。

(主に、無抵抗の獣を殺したというのは、流石に言いづらいからな)

きっと、彼は何も言わないだろう。
主は、ひどく無口だ。何を考えているかも、顔には出さない。まるで、凍り付いてしまった水面を見つめているかのように、その表情は滅多なことで揺るがない。
けれども、彼は何も感じないわけではない。出かける膝丸と髭切を見つめる瞳は、微かにこちらを案じている気持ちを覗かせている。
そんな彼に、何があったのかを話せるような己でありたい。いつしか、そんな風に考える自分が、膝丸の中で自然に生まれていた。

「──握り飯は、今は持っていない」

えー、という子供たちの落胆の声が何重にもこだまする。

「だが、確か飴を持ってきていたはずだ。それでいいか」

落ち込んでいた子供たちの顔が、一斉にぱぁっと輝く。あやかしに懐かれるのはどうなのか、と思うが、純真な眼差しをわざわざ曇らせる必要もない。
膝丸が手近な岩に腰を下ろすと、刃物を怖がったことなどもう忘れたかのように、わあっと子供たちは膝丸の足元へと集まった。
丁度、ポケットに突っ込んだままになっていた三つのあめ玉を、袋ごと獣らに渡す。彼らは子供の歓声に似た甲高い声をあげて、器用に袋をむしり始めた。

「貴様たちは、一体何者なんだ」
「あたしたちは、ムジナだよ」
「人間たちは、そう呼んでたらしいよ」

膝丸が問うと、飴玉の一つを手に抱えた獣──もとい、ムジナが答えた。

「ご飯くれるなら、道案内もするっておっとうが言っていたよ」
「でも最近は誰もくれないってなあ」
「そうそう、いっつもそう言ってる。誰も見つけてくれないんだって。でも、ちゃんと仕事をしたら、気が付いてくれる人もいるって、あんちゃん言ってたよ」
「おむすびの兄ちゃんの前も、きらきらした銀色の髪の兄ちゃんが、道案内のお礼にご飯をくれたって言ってたぞ」

そこまで聞いて膝丸は目を丸くする。きらきらした銀色の髪──間違いなく、それは山姥切長義のことだろう。
ふと顔を上げると、小さな木製の社が膝丸の視界に入る。光の加減か、その社に置かれている石像が、先ほどより膝丸の目にはよく見えた。

「そうか。あれは──そういうことか」

そこにあった石像は、狸ともイタチとも言えない奇妙な形をした獣を象っている。
そして、その像と同じものを、膝丸は知っていた。
おにぎりをうっかり落としたあの場所に置かれていた石像。それは、丁度社に置かれているものと、全く同じといってもよかった。

「道の境にある石の像……か」

石像がただの飾りではないだろうとは、膝丸にも予想がつく。
ならば、もしかしたら、と彼は考える。
思考に耽る膝丸を余所に、子供のムジナが飴玉を齧る音が、静かに山の中に響いていた。

***

「君もまた、神様だったってことかな?」

髭切は悠然と笑みを浮かべつつ、問う。
頑なに己の正しさを誇示し続ける姿。それは、人ならざるもの且つ格のあるものがとる態度であり、付喪神であっても本質は変わらない。
己の矜持を簡単に曲げず、挑みかかるムジナの態度は、髭切自身の基本的な考え方の傾向によく似たものでもあった。

「──そう呼ばれることもあったな」

ムジナの返事に、長義は声をなくす。
まさか、訪れた先に二柱の形の違う神様がいるなど、想像していなかったのだろう。
片方にだけ礼儀を尽くして、片方は無視するやり方は、怒りを買っても仕方ない。挙句仲間を傷つけられでもしたら、祟るのは道理である。
やがて、どうにか思考に結論を出したのか、長義は立ち上がり膝丸の姿をしたムジナへと頭を下げた。

「それは、確かに俺たちの落ち度なのだろうね。非礼は詫びよう」
「俺たちの在り方は、人間どもの言う所の妖怪にも近い。妖怪に下げる頭などない──とは、お前は言わないんだな」
「ああ。時代が移ろえば価値観も考え方も変わる。俺も、似たようなものだからね。だから、俺は君たちを別に蔑むつもりはない。そこにいる者の手当も、俺のできる限りでやってみせよう。だから、彼──今、宿にいる俺の仲間には、もう手を出さないでもらえるだろうか」

長義なりに示した最大限の譲歩を、ムジナは試すような瞳でじっと見つめている。
これがもし、長義個人だけに関わる問題なら、確かに「下げる頭などない」と突っぱねてしまうのも、一つの手段としてはあり得た。
だが、この問題は長義一人で解決できるものではない。頭を下げて事態が丸く収まるなら、いくらでも長義は下げるつもりでいた。畜生に下げる頭などない、などという安っぽいプライドは、もう捨てている。

「それと、弟もちゃんと返してほしいな。もっとも、弟が獣の技に惑わされたままでいるとは、僕は思っていないのだけれど」

念のために、と髭切も後から付け足す。

「君の弟なら、俺たちの住処に迷い込んでいるはずだ。俺の弟妹が大層彼のことを、気に入っていたようだからな。怪我などはさせていないと誓おう。暫く経てば、麓まで案内するようにも言っている」

はて、気にいるようなことを弟はしていたのただろうか、と髭切は思ったが、一旦は沈黙を選んだ。何があったかは、後で本人に聞けば分かることだ。

「もとより、君たちが信頼に足るものかどうかを確かめるために、一時的にすり替わって様子を見たかっただけだ。傷つけるつもりはない」

ムジナは、髭切の疑問には答えた。だが、長義の頼みには何も返事をしなかった。
長義からの刺すような視線に気が付いたのだろう。ムジナは、決まりが悪そうに目を逸らした。

「俺が、あの人間をどうこうしているわけじゃないんだ。俺たちの長が彼女の負傷に憤って、勝手に先走って行動をしてしまった。彼は俺よりも力が強いし、地位も高いから俺の言葉も聞いちゃくれない。彼が憑いたなら、そう簡単に離れてはくれないだろう」

騙すような真似をしたとはいえ、元は誠実な性格なのだろう。彼は、すまない、と小声で付け足した。膝丸の姿をしているせいか、その仕草はまるで本人がしているのではと思うほど、膝丸本人によく似ていた。

「なら、どうすればいい。何もできず、このままおかしくなった彼を連れて帰れとでも?」

長義の言葉に、苛立ちと微かな怒りが混じる。下手には出ているが、長義自身、彼の身を案じているのもまた確かなのだろう。
髭切は彼らのやり取りを黙って聞いていたが、

「なら、君たちが苦手なものを近くに置いたりしたら、悪さをするのを止めてくれるかな」

彼が尋ねると、ムジナは暫く考え込んでから「多分」と答えた。

「それなら、僕だけでも何とかなりそうだね。長義、君はこっちの白い獣の手当てをしてあげて。僕はその手の術とか呪いの類は門外漢だからね。僕は、僕のできることをしてくるよ」
「してくるって何を」
「そんなに難しいことじゃないよ」

髭切は長義たちに背を向けつつ、言う。

「ただの、憑き物落としさ」



小さくなっていく淡い金髪の青年の背中を見送り、長義は長々とため息をつく。頭の端が鈍く痛むのは、きっと気のせいではないだろう。
続けて、眼前に立つ、未だ膝丸の姿をしているムジナを、じとっとした目で睨み付けた。

「君はいつまで、そんな格好をしているんだい。いくら中身は違うと分かっていても、人を騙し続けているのは無礼なのではないかな」

長義の指摘を受けて、ムジナはくるりと踵を返して木陰へ姿を隠す。
程なくして、そこには白と茶の毛を混ぜ合わせた、狸とイタチを混ぜ合わせたような、奇妙な風貌の生き物が姿を見せていた
その独特のまだら模様を見て、長義は微かに目を見開く。

「君はもしかして、俺が迷っていたとき、道を案内してくれた……?」

ムジナは首を縦に振り、先ほどよりもずっと小さくなった歩幅で長義に近づいた。

「だから、君は信頼できるものではないかと思った。俺の本来の役割に対し、あるべき形で応じてくれたから」

道に迷うものがいるなら、その者が向かう先へ案内をする。案内をしてくれたお礼に、幾ばくかの食べ物を与える。どこにでもよく伝わっている、昔話のようなやり取りこそを、ムジナは望んでいるようだった。

「人が減り、俺たちの姿を見られる者も少なくなっていった。人は、信じる者しか見ようとしない。俺たちの存在そのものを、信じる者が減ってしまったんだ」

元々、表舞台から既に下がった神なのだろうと長義は推測する。長義が辿り着いた社が、ムジナの本来の居場所ではないのは明白だ。
恐らく、信仰を集める舞台からは、遙か昔に彼らは降りてしまっている。それでも、人々の語らう物語の一つに、彼らの存在はあったのだろう。

「俺たちは人を化かす。人は化かされて『ああ化かされちまった』と言って、ほかの人々に語る。あるいは、今度はやられるもんかと俺たちをとっちめる。そういうやり取りがずっとずっと昔には、あったんだ」

地面に横たわっている白いムジナに鼻面を押し当て、寄り添うようにして彼は語り聞かせる。長義の知らない、この土地だけの歴史を。

「人は減った。山から人は遠くなっていく。俺たちが化かす相手もいなくなってしまった。いざ化かす相手が来たというのに、結局こうやって見抜かれてしまった。まったく、先祖が聞いたら何というのやら」
「……変わっていくのは、何もこの辺りばかりじゃない。俺たち刀だってそうだよ」

長義は、白ムジナの側に屈み、傷口にそっと手を当てた。苦しそうに小さく声をあげている姿が、宿で眠っている職員の姿──そして、長義にとっては忘れられない別の誰かの存在と重なる。
白ムジナの傷口には、何かの薬草をすりつぶしたものが塗られていた。それが血止めとなっているおかげで、傷自体はこのまま放っておいても問題なさそうだ。

「かけられている術自体は、大したものじゃなさそうだ。おおかた、もののけに化かされたと思って、調伏のための念でも込めたかな。この程度なら、形代に移してこちらで始末しておくよ」

長義は荷物を下ろし、その中から白い紙で切り取られた人の形をした札を取る。彼の所属する部署ではよく使われる、身代わりのための形代だ。
もし、真っ当な呪詛返しなどしてしまったら、今度は彼が守るべきだった職員の方に呪いが飛んできてしまう。かと言って、刀の付喪神である長義には、穢れや念を祓う力はない。
ならば、せめて今は移動させて、然るべき方法で後から処分するのが妥当だろうと彼は結論を出していた。
形代を傷口にあてれば、予想通り、真っ白だったそれは、まだらに黒く染まっていく。

「君は、呪い師ではないのか」

ムジナに問われ、長義は微かに首を傾げる。

「先ほど、変わっていくのは俺たち刀だって、と話していた」
「ああ、そうだね。俺は山姥切長義。刀の付喪神だよ」

長義は座ったままでも己の胸に手を当て、誇り高くその名を告げる。すると、ムジナは大層驚いたのか、全身の毛を逆立てて数歩長義から距離を置いた。

「そんなに驚くことかな。てっきり、もう気付いているものかと思ったよ」
「あの金色の奴からは嫌な臭いがしていたが、君自身はそこまで臭いが濃くなかったから……てっきり、臭いがうつっただけなのかと」
「刀は苦手かな」

長義の疑問に対し、ムジナは申し訳なさそうに視線を地面に落とす。
自分の仲間を助けてくれと頼んでおきながら、その存在を苦手とするのを大っぴらにはしたくないと思っているのだろう。そんな不器用な生真面目さを、長義は好ましいと感じていた。

「山のものは金っ気のあるものを嫌がるものが多いらしいね。そんな君たちに、こんなことを頼むのは申し訳なくはあるのだが」

すっかり黒く染まった形代を、厳重に封を施した封筒に放り入れ、荷物にしまってから、長義は真剣な眼差しで目の前の獣に相対する。

「どうか、この土地を、歴史を守る戦いを行う俺たち刀の付喪神のために、貸していただけないだろうか」

長義は、ゆっくりと己の頭を小さな獣へと下げる。
先ほどの簡素な謝罪とは異なり、それは単なる詫びとは異なる気持ち──畏敬の念を込めた振る舞いだった。
彼の真摯な気持ちに応じるように、ムジナは後足だけで立ち上がり、人間のように小さく頭を下げ返す。

「この地は、もう死んでいくばかりだった。君たちが暮らし、土地を生き返らせてくれるのなら──俺は、君たちを受け入れる。俺たちの仲間にも、そう伝えよう」
「助かるよ」

頭を上げた長義は、目の前に立つ小さな獣を前にして、目を僅かに見開く。
先ほどまで、愛嬌のある姿をしていると思っていたムジナが、威風堂々とした山の風を背負うもののように感じられたからだ。
──いや、これこそがこの獣の本来のあり様なのではないか。
長義はふと、そんなことを思ったのだった。
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