本編の話

 爽快な夏の匂いを体全体で感じながら、一人の少年と一人の青年が行く。昨晩降った雨のおかげか、はたまた薄く残った雲のおかげか、今日の日差しは比較的穏やかだ。
 本日は絶好の散歩日和。僅かに涼しさを感じさせる風を肌で浴びながら、二人はゆるやかなペースで歩道を歩いていた。

「主、わざわざ付き合わなくても良かったのだぞ」

 頭二つ分小さな子供を主と呼んでいるのは、淡い髪色の青年――膝丸だ。少年こと主は、顔を上げて膝丸の方を見やる。
 前髪を片目で隠すような独特の髪型は、仕事以外のときも健在だ。実は少しかっこいいと思って一度真(ま)似(ね)しようと試みたが、前髪の長さが足りなくて挫折したのは密(ひそ)かな秘密となっている。

「外は室内より暑かろう」
「ちょっと暑いけど、風が気持ちいい。それに、部屋にいるのは……少し退屈だから」

 仕事で出かけている二振りの兄弟の留守を預かるため、少年が部屋にて留守番をしている時間はかなり長い。特に子供向けの玩具(おもちゃ)も本も多くない家の中では、すぐに暇になってしまう。最近は絵を描いたり、文字の練習をしたりと時間を潰す方法を模索していたが、たまの休日ぐらいは一緒に出かけたいと思っていた。
 無論、膝丸たちにとって迷惑ではないならばと注釈はつくが、隣に立つ青年は今のところ、こちらを疎んでいる様子はない。
 一人と一振りは、住居であるマンションから出て川沿いを歩き、適当な所で橋を渡り、今は反対側の並木道を散歩していた。春ならば花が咲き乱れて甘い香りを撒(ま)き散(ち)らしていたかもしれないが、今は夏。濃い色の葉たちが、道に薄らと影を落としていた。
 平日の午前中である時間帯に、この道を通る者は少ない。今も、のんびりと犬の散歩をしている主婦が一人と一振りの隣を通り過ぎていった。あたかも漂う空気がここだけ遅いかのように、長(のど)閑(か)な空気が満ちている。

「さて」

 それから数分して、膝丸と主は道ばたのベンチの前で足を止める。膝丸と散歩をするときは、大体いつもこの付近で主は休憩を挟んでいた。

「では、主。少し走り込んでくる。待っていてもらえるか」
「うん」

 主が休んでいる間、この周辺を何周か走りこむ。これが膝丸の習慣となっていた。
 体力を使う仕事であるため、いつでも動けるように体を慣らしておきたいらしい。
 膝丸に持たされたペットボトルを抱え、主はベンチに腰を下ろす。

「三十分ほどで戻る。退屈ならこの辺りで遊んでいても構わぬからな。では」

 それだけ言い残すと、膝丸は軽く屈伸や背伸びを挟んだ後に、軽快な足音を響かせて走っていってしまった。残された主は、特に何をするでもなく空を見上げる。
 昨日の雨を運んできた雲がまだ上空で滞留しているのか、今日は空の色が薄い。それでも、雲間から見える頭上の天蓋の色合いは春のときより幾らか濃く、夏がやってきたと教えてくれた。

「今日は、何を探そうかな」

 膝丸がこうして走っている間は、主は河川敷の草むらに入って虫を観察したり、踏まれていない葉っぱを集めたり、変わった形の石を並べたりして暇を潰している。
 今日は何をしようかと、キョロキョロと辺りを見渡した時だった。

「あれ」

 並木道の向こう側、道路を挟んだ先にある家々の間に見慣れないものができている。
 膝丸を待つ時間は常にこの付近を散策していたからこそ、すぐに主は異変に気がつくことができた。

「あそこ……あんな生け垣、あったっけ」

 隙間なく並び立つ家々の間に、整然とした生け垣ができている。竹を組み合わせて作られた格子状の塀に、それを覆い隠すように植えられた低木たち。つくり自体はよく見かけるものだが、問題は場所だ。

「この前来たときは、こんな物なかった……と思う」

 家の区画まるまる一つ分はありそうな幅の生け垣が、本来ぴったりと並んでいるはずの家の間にできている。あたかも家をよいしょと一区画分横にずらして、そこに生け垣をねじ込んだかのようだ。
 だが、この区域は正方形を組み合わせたような形になっているため、無(む)理(り)矢(や)理(り)隙間を作ることなどできない。そんな真似をしたら、別区画の家もずらさなくてはならず、住宅街がぐちゃぐちゃになってしまう。そもそも家を横に移動させるなどと、現実としてあり得ない。
 不思議なものを見かければ、俄(が)然(ぜん)興味も湧く。未知なるものは、少年の彼の心を惹(ひ)きつけてやまなかった。主は道路を慎重に渡り、生け垣に近づく。

「普通の葉っぱみたいだけど……」

 生け垣の葉っぱを手に取り、主は首を傾(かし)げる。もう少し調べてみようと屈(かが)んだり背伸びをしたりして観察していると、彼はあることに気が付いた。

「ここ、通れそう」

 垣根は低木に沿って植えられているため、草木が邪魔で入ることは困難に見えた。だが、一区画だけで枝葉が伸びていない部分がある。垣根の軸となっている竹格子自体は、隙間も多いつくりだ。子供一人が潜(くぐ)り抜(ぬ)けられるぐらいの隙間は十分にある。つまり、やろうと思えば、ここを生け垣の向こう側に行けると主は理解した。

(この生け垣の先、何があるんだろう……)

 好奇心に任せて、主は垣根の隙間に顔だけを突っ込んでみる。垣根の向こうに広がっていたのは、何の変哲もない道だ。同じような竹格子と低木を組み合わせた生け垣が延々と続いている。ひょっとしたら、玄関に続く長い通路なのかもしれない。
 不思議な家ができたものだと、暫(しばら)く覗(のぞ)き込(こ)んだままでいると、

「……ひざまる?」

 遙(はる)か遠く向こう側に、薄い色の髪の毛をした青年の姿。ちらりと見えた髪型は、片目を前髪で隠した特徴的なものだった。そんな髪型をしている人は、主の知る限り膝丸しかいない。彼も、こちらの道に迷い込んできたのだろうか。
 膝丸は周りを見渡すような素振りをした後、生け垣の陰に隠れて見えなくなってしまった。

「ひざまる、どこに行くの」

 せっかく彼を見つけたのだから追いかけてみようと、主は竹格子をくぐり抜けた。

 ***

 生け垣をもぐって通り過ぎたとき、主は何だか空気が変わったかのような印象を受けた。そして、それは間違いではなかった。
 夏独特の湿り気を帯びた瑞(みず)々(みず)しさと碧(あお)さが混ざった風ではなく、春の澄んだ花のように甘く、しかし僅かな冷たさと芳(かぐわ)しさを溶かした風が主の髪を揺らす。
 生け垣を潜った先には、覗き込んだときに見えていたように、垣根で囲まれた道が続いている。よく手入れをされた木々たちは、入念に敷居の向こうの存在を隠していた。
 暫く生け垣に沿って歩いて行くと、やがて生け垣は終わり、代わりに住居の塀に切り替わる。木でできた塀の途中に、小さな入り口があることに主は気が付いた。
 勝手口のようで簡素な板で作られた戸は、風によって静かに揺れている。大人でも屈めば通れるほどの大きさで、主なら屈まなくてもくぐり抜けられそうだった。

(鍵、かけられてない)

 軽く引くと、小さく軋(きし)む音をたてて戸は開いた。

「ひざまる」

 戸の向こう側から呼びかけてみても、返事はない。だが、主には何故(なぜ)かここにあの膝丸がいるように思えた。
 扉をくぐり抜け、段差を跨(また)いで中に入り――主は息を飲む。

「うわあ」

 思わずそんな声を口から零(こぼ)してしまうほどに、彼の眼前には見事に整えられた庭があった。どこからともなく引かれた水が川となり池となり、庭の真ん中を横断している。そこには淀(よど)み一つない。
 絶妙な配置で並べられた岩に、丁寧に剪(せん)定(てい)された木々。背の低い立木には、いくつかの名前も知らない花が咲いている。敷き詰められた砂利は白一色で、汚れは一切見受けられない。飛び石は綺(き)麗(れい)に掃き清められ、周りの苔(こけ)はふかふかの絨(じゅう)毯(たん)のように石と石の間を覆っていた。

「ひざまる?」

 もう一度、呼びかけてみる。だが、返事はない。それでも、ひょっとしたらこの庭に――或(ある)いは庭の更に向こうに見える家に入っていったのかと、主は飛び石を伝って奥へと向かう。
 庭に面して建てられている家は、家屋について大して詳しい知識を持たない主であっても相当に広くて豪華だと思える大きさがあった。今まで見てきたどの部屋よりも、きっとこの家の方が大きいに違いない。年季を感じさせるが決しておんぼろではない柱、丁寧に磨かれた玄関口の格子戸、庭を眺められるためか広々とした廊下に続く縁側。
 その縁側の端に座っている人間に、主は見覚えがあった。

「いた、ひざまる!」

 飛び石をぴょんぴょんと歩いて、主は膝丸へと駆け寄る。しかし、近寄っていくにつれ、主は彼の姿に違和感を覚えた。
 髪型も顔も確かに膝丸であるというのに、彼の服装はランニングのための運動着ではなく、黒の薄手のシャツに濃灰色のズボンという彩度の低い姿をしている。彼の手元には、上質そうな風呂敷で包まれた見覚えのない荷物があった。
 着替えたのだろうかと、構わずに近寄る。主に気が付いた膝丸は、ぱちぱちと素早く瞬(まばた)きを繰り返した。その様子は、見慣れない虫や生き物を見つけたあどけない子供のようにも思えた。こんな顔を膝丸はしただろうかと、思うより早く、

「君は誰だ? この家の子供か?」

 そんな言葉が無造作に投げかけられた。
 突然他人行儀な言葉を、確かに知人だと思っていた相手からぶつけられて、主は思わずぺたりとその場にしゃがみこんでしまった。膝に力が入らなくなって、立つことが急に困難になってしまった。
 それほどまでに、膝丸に『知らない人』扱いを受けたことが、主には衝撃的だった。
 短い間とはいえ、二ヶ月近くほぼ毎日顔を合わせていたというのに、膝丸は目の前に立つ自分を忘れてしまったのだろうか。それとも、忘れたふりをして遠ざけようとしているのだろうか。

「ひざまる、じゃないの」
「俺の名前を知って……いや、だが君とは初対面のはずでは」
「しょたいめん、じゃない」

 本当はもっと大声を出して否定したかったが、膝丸が本当に自分を毛嫌いしている可能性を一瞬考えてしまい、声が尻すぼみになる。何だか喉の奥が熱くなって、目までちりちりと痛くなってきた。口をきゅっと引き結ぶのが難しくなって、呼吸が浅く乱れていく。
 いったい自分はどうしてしまったのだろうか。膝丸は何でこんな意地悪を言うのだろう。目の熱さに耐えかねて何度も瞬きをしていると、ぱたぱたと濡(ぬ)れたものが落ちていった。

「ああ、いや、すまない! 別に君を泣かせるつもりでは」
「泣かせ……?」

 言われて、初めて主は自分が泣いていると自覚した。こんな風に涙を流したのはいつぶりだろうか。主は自分の頬(ほお)に落ちる水滴を手で掬(すく)い、思わず今の状況も忘れてしげしげと眺めてしまった。

「恐らく、君は『俺ではない別の膝丸』と間違えてしまったのだろう。不安にさせてすまなかった」
「どういう、こと」

 眉根を寄せ、心配そうにこちらを見ている少し明るい色の瞳。片目を覆う薄い色の長い前髪。見慣れた顔ではあるはずだ。だが、この膝丸は何か違うと主も分かってきた。
 彼の瞳は、どこか柔らかい光を帯びている。稚(いとけな)いと言ってもいい。それは、自分がよく知る膝丸とは違う顔だ。
 膝丸なのに、膝丸じゃない。一体何が起きているのかと主が混乱していると、

「君は、刀剣男士については知っているか」
「ひざまるが刀の神様なのは、知ってる」
「それなら話が早い。刀剣男士には、同じ名前だが違う個体が存在するのだ。言いたいことは、分かるか?」

 ちっとも分からないので、主は首を横に振る。膝丸は顔に手を当て、困ったという感情を態度で示した。それもまた、主の膝丸が決してとらないような『らしくない』素振りだ。

「それなら……そうだな。例えば、そっくりの見た目をした猫が二匹いたとする。周りの人間から見たら、その猫たちは全く同じ個体に見えるかもしれない。見分けもつかないだろう。しかし、猫の視点から見たら、相手と自分は違う生き物だ。それと同じような感じなのだが……」

 自分でも良いたとえ話ではないと思っているのか、膝丸に似た彼の言葉は尻すぼみになる。だが、主には彼の言いたいことが何となく分かった。
 見た目がたとえよく似ていたとしても、この膝丸と自分が共に過ごしていた膝丸は異なる神様なのだろう。同じような見た目の猫に全く同一の名前をつけたところで、二匹の猫が一匹になるわけではないのと同じように。
 それに、目の前の膝丸は明らかに主の知る膝丸とは何かが違う。話し方も見た目も、声までもそっくりなのに、それ以外の言葉にできない差がそこにはあった。

「じゃあ、人違い?」
「ああ。分かってくれて助かった」
「ここは、こっちのひざまるの家?」

 てっきりそうなのかと思いきや、もう一振りの膝丸は首を横に振る。

「ここは俺の家ではない。知人に買い物を頼まれて、歩いていたら、いつの間にかここの近くに辿(たど)り着(つ)いていたのだ。そのまま更に彷徨っていたら、この家の者に出会って、今は少しだけ休ませてもらっている」

 それなら自分も彼に倣って休もうと、主は膝丸の隣に腰掛ける。己のよく知る膝丸とは別の膝丸と分かっていても、彼の隣は居心地がいい。
 都会のくぐもった空気はここにはなく、代わりに草と土の香りが辺りを満たしていた。ひときわ強く吹いた風が木々をざわつかせ、主の髪を靡(なび)かせていく。

「君、名は何と言う」
「空(そら)」
「そうか。良い名だな。遙か向こうにまで広がる、蒼(そう)穹(きゅう)を表す名か」

 その言葉を聞いて、ストンと主の中で腑(ふ)に落ちるものがあった。理解した、と言ってもいい。
 自分の知る膝丸と、目の前の膝丸の違い。それは、彼らの性格の差だ。態度から滲(にじ)み出(で)る内面が違うとでも言うべきか。その違いを人は個性と呼ぶのかもしれない。
 主の膝丸は、こんな風に見知らぬ子供に微(ほほ)笑(え)んだりしない。春に咲く桜のような笑い方はしない。主のよく知る彼の笑みはもっと力強く、芯があり、獣のような力強さに満ちている。対して、目の前の彼は柳のようにしなやかで、それでいて、どこか――壊れそうな笑顔を浮かべていた。

「えっと……ひざまる、じゃなくて、でも、ひざまるで……?」
「呼びづらいのなら、好きに呼べばいい。元より、名は転々としてきた身だ。蜘(く)蛛(も)切(きり)に吼丸(ほえまる)、それに薄(うす)緑(みどり)とも呼ばれてきたか」
「じゃあ、うすみどり」

 不思議な響きだと思いながら、主は口の中で『うすみどり』という単語を繰り返す。さながら、綿菓子のように柔らかく甘い単語のように主には思えた。

「うすみどりも迷子?」
「迷子なのかもしれないな。少なくとも、俺が普段使う道にこのような家はなかったはずだ」
「ぼくも。家と家の隙間に塀があった」
「君もそうなのか。だとすると、ここはこの世のものではないのかもしれないな……」

 何やらぶつぶつと考えを口にしている薄緑を余(よ)所(そ)に、主はきょろきょろと辺りを見渡す。体を捻(ひね)った先、背後に広がる部屋には足の短い上等そうな机が置かれ、床の間には風情のある掛け軸が掛けられていた。調度品は最低限しかないが、そのどれもが品のよいものだと幼い主でも分かる。まるでパズルのピースが噛(か)み合(あ)っているかのように、家財の一つ一つが部屋と調和を保っていた。
 そんな奇妙な完成された空間に心を奪われていたからか。主は、近づいてくる足音に気が付かなかった。

「あら、この部屋が気に入ったの」

 横から声をかけられ、主はばっと勢いよく振り返る。視線の先に立っていたのは、淡い緑の着物を着た女性だった。落ち着きのある物腰や声から察するに年の頃は四十か、ひょっとすると五十にも見える。だが、彼女の瞳はまるで十代の娘のように輝いていた。

「ごめんなさい。勝手に入って」
「あら、いいのよ。どうせお客様が来るのは夜だもの。そちらのお兄さんにも、休んでいったらって声をかけたのは私の方だし」

 きゃらきゃらと、せせらぎのような笑い声が辺りに響く。薄緑も主を安心させるように頷(うなず)いた。

「おきゃくさま?」
「そう、ここは宿だからね。前にいた管理人がどっか行っちゃったから、私が代わりに引き継いでずっとここにいるのよ。さてさて、若い人たち。お腹(なか)は空(す)いてない?」

 彼女から、一人と一振りの前にお盆が差し出される。盆の上には湯気を立てている少し熱そうなお茶の入った湯(ゆ)呑(の)みと、如(い)何(か)にも柔らかそうな饅(まん)頭(じゅう)に似た菓子が載った皿があった。まるで機を読んだかのように、主の腹がぐーと音を鳴らす。

「いいのよ。どんどん食べていって。今日のお客様も、お酒を飲みに来るけど甘いものは食べてくれないだろうし」

 にこりと笑いかける女性。その姿は、在りし日の彼女の姿を主に思い出させた。
 まだ、彼女が自分の手を引いてくれた頃のことを。夕焼けを浴びながら、四つ葉のクローバーを教えてくれた頃のことを。
 思わず、ふらりと手が伸びる。饅頭は如何にも美(お)味(い)しそうだったし、空腹には耐えかねていた。饅頭の一つを手にとろうと、その指先が触れかけた刹那、

「待て」

 薄緑の手が、主と饅頭の間に割って入る。

「先程から思っていたのだが……ご婦人よ。君に尋ねたいことがある」

 宿の女将(おかみ)である彼女を見据え、薄緑はゆっくりと言葉を口にした。

「ここは、現世(うつしよ)ではない世界なのか?」
「うつしよ?」
「つまり、あちら側……俗に黄泉や異界、神域と呼ばれる領域ではないのか」

 薄緑の言いたいことは殆(ほとん)ど分からなかったが、何やら普段と違う世界に迷い込んでいるのではないかと心配しているとは、主にも何となく伝わった。
 自分たちが普段暮らしている場所とは異なる空気。風の匂い。似たような経験は、したことがある。子供の姿をした神様に誘われたときのことは、まだはっきりと記憶に残っていた。

「あら、すぐにそういうことを尋ねてくるなんて珍しいわね。もしかして学者さん?」
「違う。だが、主……いや、知り合いがこの手の不思議について、調べるのが好きな性分だったのでな。マヨイガの類か、はたまた死者の国か、或いはどこぞの社に祭られた物好きな神の悪戯(いたずら)か……と思案していたところだ」

 薄緑がそこまで一気に捲(まく)し立(た)てると、女将は「まあ凄(すご)い」と手を合わせて素直に賞賛を口にした。

「でも、どれも似ているようでどれも違うわ。ここは……何と言うのかしらね。普段は『こちら側』『あちら側』と呼び分けていることが多いんだけど。私や他の人たちは、ここは外から外れてゆっくりするところ、のんびりと肩の力を抜いて息抜きをするための場所って思っているわ」
「のんびりと、いきぬき……?」

 曖昧な表現の仕方が気になって、主は思わず鸚(おう)鵡(む)返しで問う。
 彼女の言うように、この家の周りを漂う空気はどこか優しい。春の夕暮れ時のような、夏の夜のような、肩の荷を下ろしてほっと一休みしたくなるような温かさに満ちている。

「そう、のんびりと息抜きをする。色々なしがらみが嫌になってしまった人がふらりと辿り着いたって話も聞くし、そうじゃなくて何故かよく分からないけど来てしまった人もいたわね。あと、ここにくるお客様たちが、気に入ったから連れてきたって人も」

 最後の例は誘拐ではないかと主も薄緑も思ったが、彼女は別に悪いことのようには語らなかった。まるで、ちょっとその辺で猫を拾ってきたかのような簡単な物言いは、彼女にとってそれが日常だと彼らに教えていた。

「それで、その者らは帰れたのか」
「さあ。すぐいなくなってしまった人もいるし、いつまでも残っている人もいる。私みたいに長くここにいる人たちは、運命みたいなものが決まってたんだろうって言うのだけれどね」
「それでは困る。俺は戻って、やらねばならないことがあるのだ」
「ぼくも」

 実際、主がやらなくてはいけないことは無いのだが、自分が行方不明になれば膝丸は必ず自分を探すだろうとは分かっていた。
 以前、鳥居の向こうに広がる不思議な世界につれて行かれたとき、膝丸はあれほど必死になって追いかけてきたのだから、今回だって同じことになるに違いない。

「そう。それなら、あまり長居させちゃいけないわね。このお菓子は食べた所でここから出られなくなるってわけでもないから、気にせず食べてもらっていいわよ。不安なら、無理にとは言わないけれど」

 女性に饅頭を示され、主は再び饅頭に視線を注ぐ。薄緑は今度は彼が食べようとするのを妨害せずに、黙って様子を見守っていた。
 ゆっくりお食べと促され、主はおずおずと指を饅頭に伸ばす。まだほんのりと暖かなそれを口に運ぶと、甘くてとろりとした餡(あん)が口の中に溶けていった。

「うすみどり、これ、おいしい」

 食べたらどうかと促すと、彼は困ったような笑い方をした。その笑顔は、やはりどこか触れたら壊れそうな笑い方に見えた。
 薄緑も、勧められるままに饅頭を一つ手にとって口に含む。彼の頬は確かに食べていると分かる程度には動いているが、美味しさに喜ぶような仕草は見られなかった。彼の口に合わなかったのだろうか。
 一つ飲み込んでから、薄緑は女性に続けて問う。

「君は、ここからすぐ出る方法を知らないか」

 だが、彼女はゆっくりと首を横に振るだけだった。

「生(あい)憎(にく)、私は知らないわ。もっと町の方に行けば、そういうことを知ってる人もいるかもしれないけれど」
「町があるのか」
「ここ、一応は郊外に値する場所なのよ。そうは見えないかもしれないけれど、静けさを売りにした宿だからね。裏には温泉もあるの。町に行くなら、この宿を出て真(ま)っ直(す)ぐ行ったら直に商店街みたいな通りに出るわ。それが、私が町と呼んでいる所」
「他には?」

 興味本位で主は彼女に問う。ついでに、彼の手は三つ目の饅頭を手にとっていた。

「あとは、もっと先に里山と麓に村があるとは聞いているわ。ここに迷い込んで出る方法が分からない人や、出るつもりもない人が集まって、町の人やお客様向けの作物を作ってるそうよ。私は会ったこともないのだけれど」
「お客様って、どんな人?」
「お客様はお客様よ。人であったり、そうでなかったり、人であることを止めた人だったり」

 その説明はあまりに抽象的で、主には到底分からなかった。ただ、人のようで人ではないものについては心当たりはある。

「つくもがみ、も?」
「そうね。付喪神の方もいらっしゃるわ。狐(きつね)に狸(たぬき)、天(てん)狗(ぐ)にムジナ。他にも色々。神様だったり妖怪だったり、もっと分からない何かだったり」
「君もそうなのか」

 薄緑の問いかけに、女性は思わせぶりな微笑を浮かべてみせた。

「さあ、どうでしょう。前にここに住んでた方に連れてこられて、何となくこの場所で暮らして、もう何年になるかしら。そうなってくると元々がどうだったかなんて、どうでもよくなってしまうわ」

 そんな風に達観できるものなのだろうか、と主は首を傾げる。けれども、どこかで納得している自分もいた。
 髭切と膝丸に連れられて、今の部屋で暮らすようになって数ヶ月。保護者である彼女と過ごしていたアパートの部屋の日々も、あの頃は毎日のように降りかかっていた嫌な出来事も、何だか遠くの物語のように思えるときがある。彼女にとっても、過去の出来事は『物語』になってしまったのだろう。

「この場所は、いつからこうなのだ」
「いつからなんて、私にも、きっと誰にも分からないわ。ただ、昔からこういう場所はあった、というだけのこと。ここ以外にもあるのかもしれないし、ないのかもしれない。そんなに気になるの?」
「いや、そういうわけではないのだが」

 薄緑の言葉は歯切れが悪く、何か気になるけれど聞いて良いか躊(ちゅう)躇(ちょ)しているようにも見えた。暫く言葉を迷わせてから、意を決したように彼は顔を上げる。

「俺の知っている所で……似たような場所があるのだ。こんな風に平穏で、何事もなく日々が永遠と続いていく場所があって、それで気になったのだが」
「あら、そう。それは、きっと素敵な場所なのでしょうね」
「…………ああ」

 薄緑はそこで会話を終わらせ、何か悲しいことでもあったかのように項(うな)垂(だ)れていた。
 お腹が空いてしまったのだろうかと、主はお皿の饅頭を彼に渡そうとして、ぎょっとする。美味しいからとついつい食べていたせいで、饅頭はもう一つしか残っていなかった。どうりで、先程から腹の虫が静かなわけだ。

「あの、これ」

 それなら尚(なお)のこと、これだけは彼に食べてもらわねばと、主は薄緑に饅頭を差し出す。

「ん、いや……いいのだ。あまり、腹が空かなくてな。気を遣わせてしまってすまない。君が食べてくれ」
「うん……」

 だが、主は饅頭を手に持ったまま、唇をきゅっと引き結んで、食べようとはしなかった。勿(もち)論(ろん)、食べようと思えば食べられるが、後で薄緑が空腹になったと言い出してしまったらと思うと、迂(う)闊(かつ)に平らげてしまっていいのかと躊躇してしまう。
 すると、主の逡(しゅん)巡(じゅん)を見抜いたかのように、女性が懐から手拭いと小さな巾着を取り出した。

「それなら、今は包んで持っていけばいいわ。こうしておけば、好きなときに食べられるでしょう?」

 手早く彼女は饅頭を手拭いに包(くる)むと、巾着へと滑り込ませた。
 主の手にぽんと載せられた巾着は、きらきら光る糸が織り込まれた、ほんのりと淡い色が美しい布でできていた。

「さて、お二人さんはこれからどうするつもり?」

 休憩が一段落ついた頃合いを待っていたのだろう。彼女からの問いかけに、一人と一つはすぐさま答えた。

「家に、帰らないと」
「この場所を出る方法を探すつもりだ」

 女性は目を細め、二人の背中を押すかのように静かに頷いてみせた。

 ***

 戻れないと女性は話していたが、自分が出てきた場所を主は覚えている。だから、そこに向かえばいいかと簡単に考えていた。

「ない……」

 しかし、主が通り抜けてきた生け垣に抜け穴はなかった。塞がれてしまったのだろうかと、無理矢理手をねじ込んだり顔を突っ込んでみたりして、主は生け垣の向こうに繋(つな)がる景色を確かめる。そして、愕(がく)然(ぜん)とした。

「道が、あったのに」

 生け垣の向こうは、散歩道沿いの道路があったはずだ。しかし、まるで誰かが生け垣を全く別の場所に置き直しでもしたかのように、その先に繋がるのは延々と続く鬱(うっ)蒼(そう)と茂った森だけだった。
 目の前にある森は、一朝一夕でできたとは思えない。きっとこの場所に最初からあった森なのだろう。森の中を漂う空気は、あの女性のいた家で感じた空気と非常によく似ていた。

「ここから君は来たのか」
「うん。でも、道がない」
「……彼女の言うように、一筋縄では出られないようだな。何か手順が必要なのか、それともここを支配している者の気(き)紛(まぐ)れなのか」

 何やら難しいことを言い始めた薄緑を前にして、主はただ黙って俯(うつむ)くことしかできない。通っただけの道が知らない所に繋がっていた場合の対処法など、主に分かるわけもなかった。

「ああ、すまない。心配させてしまったな。大丈夫だ。必ず君を君の『膝丸』の元に送ろう」

 黙りこくってしまった主を見て、不安がらせてしまったと思ったのだろう。薄緑は主に視線を合わせるかのようにしゃがみこみ、主の知る膝丸なら到底見せないような、優しげな笑みを浮かべた。
 そんな彼の姿を見ていると、こちらもただ立ち止まってばかりはいられないと思えるから不思議だ。己の心を奮い立たせ、主はぐい、と顔を上に上げた。

「手を繋いでも良いか」

 立ち上がった薄緑に問われて、主はきょとんとする。膝丸は用がない限り、手を繋ごうなどとは誘わない。膝丸と薄緑は別人だと分かっていても、彼の口からそのように願われるのは違和感しかなかった。

「……うん」

 拒む理由もなし。頷くと、主の手にそろりと膝丸の手が重なり、軽く握られる。手の質感や、少しごつごつした指は膝丸のものによく似ている。だが、膝丸は決してこのような握り方はしないだろう。
 彼の触れあい方は、まだ少しぎこちない。たとえるなら、壊れやすい置物にどれぐらいの強さで触れればいいか試しているかのようで、触れられる主もたまに緊張することがある。
 だが、薄緑にはそれらの緊張が殆どない。きっと、彼は幼い子供に触れる機会が多かった『膝丸』なのだろう。
 彼の大きな手に引かれながら、主と薄緑は優しくもどこか不思議で隔絶された世界を歩き始めた。
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