本編の話
ぱたん、と扉が閉まる音。そして、部屋から人が遠ざかる足音。それらを確認してから、主は小さく息を吐く。
辺りを見渡せば、その部屋には全くと言っていいほど何もなかった。
薄く床に積もった埃。日光を遮断するかのように閉められたカーテン。唯一の家具は壁に埋め込まれたような形のクローゼットだけで、その中に段ボール箱が詰め込まれているのは、先程髭切がそこを開いたから知っている。
髭切はその中から何かを取り出すと、部屋を出て行った。この部屋からは『いいよ』って言うまで絶対出ちゃだめだからね、という言葉と共に。
「使ってない部屋……なのかな」
それなら、髭切が鍵をかけたままにしているのは分かる。だが、今日かくれんぼのために、一つ一つの部屋を吟味するまで、主はこの部屋のことをすこんと頭から抜け落ちさせていた。
そのことが、ほんの少しだけ気にはなる。ここで暮らしてもう三ヶ月程度は経っていて、この部屋にいた時間は決して短くなかったというのに。
「……でも、思い出さないほうが、いい気もする」
頭の片隅で、それは不要な関心だと警告している自分がいる││ような気がする。故に、主はその場に立ち尽くしていた。
そのとき、不意にばたばたと何かが落ちたような音が響く。びくりとして音の発生源の方を見ると、クローゼットの扉が少し開いていた。どうやら、髭切が段ボール箱から何かを持ち出したとき、バランスが崩れてしまったらしい。
「戻しておかないと」
決して好奇心からではないと言い聞かせて、主はそろそろとクローゼットに近寄った。
***
「さてさて」
髭切は機械的に「まーだだよ」と返してから、居間へと戻る。いったい『鬼』はどこで呼びかけをしているのか、現時点では見当はつかない。
だが、彼が決してこちらを見ていないのは分かる。それが、約束事だ。
遊びであれ、ルールがあるのなら『こういうもの』はある程度守ろうとする。
髭切は居間から和室へと足を踏み入れ、刀掛けに置かれていた刀を手に取る。鯉口を切り、刀身に汚れがないことを確認してから、鞘を払う。刀身を解放した鞘は、そのまま刀掛けに戻しておき、その間にも「まーだだよ」は忘れない。
「声の感じから察するに、そこまでおどろおどろしい感じでもないものね」
それなら、刀剣男士『髭切』の敵ではあるまい。だが、規則に則って行動する必要はあるだろう。
怪異が生じた場合に注意しなければならないことは、その逸話と法則だ。先日の鏡に潜む鬼の一件で嫌というほど思い知らされた。
「かくれんぼの隠れる役になってしまったのなら、僕も隠れないとね」
部屋の中を暫く行ったり来たりした後に、髭切は和室のクローゼットを覗き込んだ。普段自分や弟の膝丸が着ている衣服が吊されている。その隙間に髭切は己の体をねじ込んだ。そうでもしないと、長身の彼には到底隠れられそうにもなかったからだ。
「さてさて、鬼さんは僕を見つけられるかな?」
クローゼットの扉をきっちりと閉めてから、髭切は朗々と声をあげる。
「もーういいよー!!」
***
どたどたどた、と子供が廊下を駆け回るような足音が突如として響き、主はクローゼットの前でびくりと震える。だが、その足音はすぐに部屋の前を通り過ぎていった。どうやら、お化けもこの部屋の存在自体に気づけていないらしい。
髭切から渡されたお守りの小刀をぎゅっと握りしめ、主は暫く扉を凝視する。もしかしたらお化けが入ってくるかもしれないという心配は杞憂だったようで、扉は沈黙を守り続けていた。
ふぅと息を吐き出し、主は改めて落ちている段ボールをクローゼットに押し込み直そうと、その場に屈んだ。
(そういえば、この部屋、どうして鍵がついてるんだろう。なんで、この部屋は内緒の部屋なんだろう)
髭切が鍵を管理しているのは分かったが、それなら何故膝丸には内緒なのか。二人は隠し事などしない仲だと思っていたが、そうではないのか。
(ひげきりが、ひざまるに知られたくないものを隠してる部屋……? 何だろう、宝物とかかな)
子供心としては、秘密の部屋という響きは純粋に好奇心をくすぐられる。足音が遠ざかったことで、先だっての不安もなくなり、気が緩んだせいもあるかもしれない。
出てはいけないと言われた以上、外に行くつもりは毛頭ないが、そうなると興味は部屋の内側に向かっていってしまうのは当然の帰結だった。
だが、髭切が何を隠したがるのかについては、全く想像すらできない。
自分が知っている限り、お金に関するものを大人は隠したがるものらしいが、自らを刀と称する彼らの場合はどうなのだろう。
彼らが金品に執着している姿を、主は見たことがなかった。子供の主に、何だか高そうな紙幣をぽんと預けることもあったぐらいだ。彼らにとって、お金はそこまで必要なものではないのだろう。
首を傾げつつ、主は床に落ちてしまった段ボールを手にとる。そして持ち上げようとして、彼は気が付いた。
(あれ、傷がついてる)
屈んだおかげで近づいた床面には、何かを引っ掻いたような傷があった。荷物が落ちたときに傷が残ったのだろうかと思ったが、日の光が殆ど差し込まない部屋であっても、床を凝視すると微妙な違和感を覚えた。
主はカーテンに駆け寄り、日差しを受け入れるためにそれを引く。そして、思わず息を飲んだ。
「……何、これ」
そこにはフローリングの模様とは全く異なる傷跡が、あちらこちらに刻まれていた。
まるで、何度も爪で引っ掻いたような傷跡が。
***
狭苦しいクローゼットの中で、髭切は息を殺して騒々しい足音に耳を傾ける。その間も、柄に手を添えるのは忘れない。
(部屋、荒らされていないといいなあ)
本来なら緊張を強いられる瞬間だったが、髭切は全く別のことを考えていた。もし、幽霊が土足であがってきているようなことがあったら、居間が汚れてしまう。
他人の家ならどうなろうと知ったことではないが、ここは自分と弟と主の家だ。自分の住処を好き勝手に乱されるのは、彼にとっては業腹の出来事だった。
(そんな風に、昔は思ってなかったんだけどねえ。住処なんて、とりあえず休める場所なら別にどこでも良かったはずなんだけど)
家に帰ることすら稀だった頃に比べれば、自分は随分とこの場所に愛着を抱くようになったらしい。今まではなかった感情だが、悪い気はしなかった。
感慨に耽っている一方で、クローゼット越しでも分かるほどの物音があちこちから響いてきていた。先程、髭切が鬼をしていたときは、もう一人の鬼役である彼に遠慮していたのだろうか。
食器棚を乱暴に開いた音。テーブルクロスをめくったのか、大きな布がはためいた音。電子レンジを力任せに開けた音、風呂場の戸を勢いよく叩く音。
子供らしい荒々しさの残る捜索に、部屋が破壊するのが先か、自分が見つかるのが先かと、別方向での憂いが髭切の仲で膨らんでいく。
その願いが天に通じたのか。
どたどた、という足音が、畳を踏みしめる掠れた音に変わる。い草の上を滑るように歩く音の後に、襖が開く静かな物音が数度。
そして。
ぴたり、と音が止む。
「…………」
沈黙を破ったのは、相手だった。かくれんぼの鬼である彼は、まるでここに隠れているのはお見通しと言わんばかりに、クローゼットの扉をばんばんと勢いよく叩く。
がたがたと軽く振動するほどの物音に対して、髭切は眉一つ動かさない。能面のように落ち着き払った顔で、がたがたと揺れる扉をクローゼットの内側から観察しているだけだった。
やがて、その振動は激しさを増していく。扉だけではなく、クローゼットそのものが激しく揺さぶられているかのように。
(ああ、なるほど。この存在は、別に遊びをしたいわけじゃないんだね)
地震でも起きているのではないかと思うほど、激しく揺さぶられたクローゼットの中でも、髭切の思考は凪いだ海のように静まりかえっていた。
(主の呼び声に反応して、この部屋で隠れている者を探しに来た。それは確かだ。だから、主がちゃんと隠れた後から探そうとした)
髭切が主とかくれんぼを始めなかったら、ひょっとしたらコレはいつまでも部屋に居座って遊びの始まりを待っていたかもしれない。或いは、対象がどこかに隠れたと判断した時点で、探しにやってきたか。
ともあれ、髭切はその存在自体には、己が鬼役に割り当てられたときから気が付いていた。ただ、姿がはっきりとは見えなかった。その存在が主を見つけ出そうとしたときに、ようやく実像を伴って見えたほどに希薄な存在だ。
(つまるところ、かくれんぼの鬼……なのかなあ。言葉通り、隠れている者を怖がらせる『鬼』だ)
遊びの中の鬼はあくまで比喩の表現ではあるが、この存在には悪意を感じる。見つけ出そうとする意欲ではなく、純然に人を脅かして怖がらせて、その恐怖の顔を見てを嗤いたいという悪意。それ故に、見つけた相手を怖がらそうとするのだろう。
(まあ、何でもいいから、早く開けてほしいんだけどね)
常人なら、この尋常ではない振動に震え上がっていただろう。しかし、生憎ここにいるのは、神経すらも鉄でできているような刀剣男士だ。この程度の振動で恐怖など覚えるわけがない。
やがて、ひとしきり揺れていたクローゼットは、まるで嵐が過ぎ去ったかのようにピタリと制止した。続けて、クローゼットが勿体ぶって、ぎい、と音を立てて開かれる。
陽光差し込む和室の中に、ソレはいた。
くすんだ黄色のシャツに、膝小僧が見えるような半ズボン。年の頃は、恐らくは主より少しだけ年上だろうか。
大きく開かれた目に白目はなく、ぽっかりと空いた黒い底なしの穴がこちらを見つめているかのようだった。
それは、明らかに人の限界を超えた大きさに口を開き、
『みーつけ』
た、と言おうとしたのだろう。
もし、その口に刀が突き刺さっていなければ。
「鬼が、いつだって見つけた側を嗤える立場だと思っているなら、大間違いだよ」
抜き身のまま隠れ持っていた太刀は、今は髭切の手で子供の姿をした怪異に突き立っている。相手の目は相変わらず真っ黒のままだったが、そこにもし感情があったなら、動揺が浮かんでいたことだろう。
「君は自分が鬼の役になったうえで、相手を見つけるときしか姿を見せなさそうだったからね。手っ取り早いから、君の遊びに付き合わせてもらったよ」
でも、と彼は続ける。
「遊びは、もうおしまいにしよう」
口に突き立てたそれを、髭切は紙でも切るかのように、ストンと下に落とす。肉も皮もない存在であるはずなのに、確かに何かを斬ったという手応えが刀ごしに伝わる。
子供の姿をしてそれは、驚いた表情でこちらを見たまま、まるで昼の日差しに溶けるように音もなく消えていった。
「人を怖がらせたいのなら、自分が追い詰められたときのことも、ちゃんと考えておかないと」
薄い笑みを口に引いた刀の付喪神は忠告めいた言葉を吐く。もっとも、その言葉は、もう『鬼』には聞こえていなかったであろうが。
***
部屋の中をよく観察すればするほど、その異様さは子供の主でも分かるほどに際立っていた。
詰め物で無理矢理隠そうとしているが、隠しきれない壁の陥没の跡。さながら、杭でも打ったような痕跡には、流石の主も声をなくした。画鋲の何倍もの深さで穿たれたその痕跡の意味は、主には理解できない。
更に、他にも部屋の壁には何かを貼り付けていたのか、接着剤の跡や、剥がした紙の跡が残っている。
「これって……あれを貼ってたかな」
主が見つめた先にあったのは、部屋の唯一の出入り口である扉だった。髭切が主をこの部屋に入れたとき、彼はクローゼットの中からある物を取り出した。
それは、主の目には七夕のお祭りで使う短冊に絵を描いたような代物で、今は扉にぺたりと貼り付けられている。髭切はその用途については話してくれなかったが、これのおかげで怖いお化けが入ってこなかったのだろうとは想像がつく。
(あの紙をいっぱい部屋に貼って、それに部屋の一部を壊して……傷もそれと関係がある?)
よくよく見ると、ひっかき傷は床だけではなく、壁にもいくつか残されている。壁紙にはぞんざいに白い紙が貼り付けられていたので、ぱっと見ただけでは気が付かなかった。
その一つの端をそっと捲ってみると、そこにもまた、勢いよく引っ掻かれた跡がある。
「……動物を飼ってたのかな」
犬や猫なら、意図しない傷がついてもおかしくはない。しかし、あの髭切や膝丸が動物を飼育していたとも思えないし、何より飼っていたのなら家全体に傷が残っていないのは不自然だろう。
これではまるで、
(ここに閉じ込めてた……そんな感じがする)
先程まで、襖越しに邂逅したお化けの方が恐ろしく感じていたというのに、今は寧ろ、この不可解な傷跡が残る部屋の方に不信感を抱いてしまう。
クローゼットから転げ落ちた段ボールの中身すらも、悍ましい何かが封じてあるのではと想像してしまうほどだ。
ひとまず傷の検分を終えて、主はクローゼットの前に立つ。
(この落ちた段ボールを片付けるだけだから。そのためにやることだから)
勝手に開けたら怒られるかもしれない、という懸念はあった。しかし、自分が住んでいる家に関わることで、己が把握していないことがあるという不安と、僅かに芽生えた好奇心が、少年の背中を押した。
(きっと、大したことじゃない、はず)
せーの、と弾みをつけて、主はウォークインクローゼットの開きかけになっていた片側の扉を開く。
「わっ」
思わず声をあげたのは、クローゼットを開けたことで中から更に物が転げ落ちてきたからだ。どうやら、髭切はあれこれ乱雑に詰め込んで、無理矢理閉じていたらしい。
その落下物は、最初、蛇に見えた。だが、よくよく見れば、そこにあったのはぶつ切りになった、長さも不揃いな縄だった。それらの縄には、どれも白い菱形を連ねたような紙が結わえられている。
もし大人がここにいたのならば、それは切断されたものではなく、何かとてつもない力で引きちぎられたのではないかと思ったことだろう。
更に、扉を開いた弾みで奥から紙がひらひらと飛んできた。その一つを、主は背伸びをして捕まえる。
丁寧に皺を伸ばすと、それもまた、髭切が扉に貼っていった短冊に似た形の細長い紙だった。
「…………『丸』?」
紙には、漢字らしき文字が書かれている。だが、あまりに崩されているために、何と書かれているのかは主には分からない。
けれども、二つある文字のうち一つは画数が少なかったため、辛うじて『丸』という文字であるとは分かった。
「ひざ、まる?」
確信があったわけではない。ただ、連想ゲームのように思いついた言葉を口にしただけだった。
だが、言葉にした瞬間、にわかに目の前のものたちが違う意味を帯び始める。ぶつ切りにされた縄に、仰々しい文字が書かれた紙。加えて、床や壁の引っ掻き傷に杭のようなものを穿った跡。
何がここであったのかは、主には分からない。ただ、何かあったことだけは分かる。しかも、恐らく││膝丸に関わることで。
自分の帰る家として、ご飯を食べ、お風呂に入り、団欒をしていた部屋の隣で、嘗て何かがあった。あまり、平和的とは言えない何かが。
そのことが、じわじわと薄ら寒い予感として主の体を包んだとき、
「主、もう出てきても大丈夫だよ」
扉の外側から聞こえてきた声に、主はぎくりとした。今まで、髭切の声を聞いて、こんなにも緊張を覚えたことはなかった。
「主、聞こえているかい。もういいよー」
出てきてもいいという許しの言葉が、今は恐ろしく感じてしまう。この部屋の鍵を、髭切が持っていた。膝丸も主も素通りしてしまっていた部屋を、髭切は難なく感知していた。
否、既に最初から存在に気が付いていたのだろう。ならば、この段ボールに詰め込まれたものも、傷ついた部屋の一部についても、髭切は知っているのではないか。
聞いてみたい。
だが、聞いてはいけない気がする。
ぐるぐると二つの思考が行きつ戻りつしていると、
「何かあったのかい。入るよ」
ぎい、と軋みをあげて扉が開く。廊下の人工的な明かりが部屋に差し込み、開かれたクローゼットの扉が音もなく影を伸ばした。
「ひげきり、これは」
勝手に散らかしたことを怒られるかもしれない、という恐怖はある。だが、主にとっては、それは日常茶飯事の恐怖だった。
けれども、今はそれとは全く異なる恐怖を覚えている。
廊下の光を背に負った髭切の表情は、昼間だというのに影が落ちて、はっきりと見えない。けれども、彼の笑顔が、まるで火が消えたようにすぅっと消えるさまを、主は目にしてしまった。
それは、人が決して見せることのない、無機質な『刀』の顔だった。
「……まあ、片付けていかなかった僕の落ち度でもあるか」
気が付けば、髭切はいつものように笑みを口元に引いていた。だが、その笑みは本当に普段彼が見せている笑顔なのか。主には確証できるはずもなかった。
「それとも、君も懐かしくなっちゃったかな。僕が君を連れて来たとき、最初に入った部屋でもあるからね」
「え……」
主はきょとんとする。自分がこのマンションに連れてこられたとき、こんな部屋に入った覚えはない。手を引かれ、居間に案内されたような記憶が、この家に関する最初の記憶だ。
「主、どうかしたのかい」
「ぼく、ここには、今日が初めて」
辿々しく答えながらも、主は脳裏にもう一つの疑問を浮かべていた。
(ぼくは、いつ、ひげきりたちに会ったんだろう)
自分の思い出を遡っていくと、最初に思い浮かぶのは大人たちの姿だ。神社の模型のようなものが飾られている部屋の中に、自分は立っていた。何故、自分がここにいるのかは、はっきりと覚えていない。
だが、立ち並ぶ大人たちの中で、髭切の顔だけが見覚えのある人だと思った。だから、彼に近づき、声をかけた。
それが、最初の出会い││だったはずだ。
「主、もしかして本当に?」
本当に何なのかは、主には分からない。彼にできることは、もう一度「ここは初めて」と繰り返すことだけだった。
「そっか。じゃあ……まあ、それでいいや。僕もあまり話はしたくないんだよね。いい思い出がないから」
髭切は主に近づき、彼が握っている紙を取り返す。主が声をあげる暇もないほど、その動きは曲芸師のように速やか且つ軽妙だった。
更に、髭切は落ちた縄を段ボール箱へ乱暴詰め込み、まとめてクローゼットの中に放り込んだ。ぴしゃりと扉が閉ざされた音だけが、やけに大きく響く。
「ひげきり、あの……あれって何?」
「さっき来てた奴のことなら、悪霊の類か、或いは『鬼』って言葉が一人歩きして形を得たものなんじゃないかな。僕はその手の考察は詳しくは知らないから。ともかく、主はあまり外の声に応えないようにね」
「うん……。それは、わかったけど。そうじゃなくて、さっきひげきりが……触ってたやつは」
「主、これは二度目のお願いになるんだけど」
主が何か言うより早く、髭切は主の腕を掴み、部屋の外に連れ出す。
抵抗する気はなかったが、もし抵抗したとしても引き摺り出されていたことだろう。
部屋の扉を閉めてから、髭切は主と目線が合うようにしゃがみこんだ。
「この部屋のこと、できれば忘れてもらえるかな。僕としても、なるべく見たくはないんだ。できれば、僕の記憶からも綺麗さっぱり消えてほしいぐらいに」
「ひざまるは」
「弟には何も言わないで」
間髪入れず挟まれた言葉の凄みは、髭切が持ち歩く刀よりも鋭く主の発言を遮った。
「僕はこの部屋のことを忘れる。だから、主も忘れて。いいね」
いつもの柔らかな空気など、どこにもない。彼にとって、それだけこの願いが切実なものだとは、彼の琥珀色の双眸を見ているだけでも容易に分かる。
「……忘れれば、いいの?」
「うん。とは言っても、完全に忘れることなんて無理だろうけどね。でも、この部屋なんて最初からなかった││そんな感じにしてもらえると、僕としては助かるよ」
できるかな、と髭切は主の目を覗き込んで頼む。普段は飄々とした彼の真剣な願い事。それを無視することなど、主にできるはずもない。
「……『ぼくは、この部屋を忘れる』。『最初から、ここには何もなかった』」
髭切の言葉をたどるように、自らに暗示をかけるような呟きを、少年は口にする。
そして。
ふ、と我にかえると、主の目の前には髭切が立っていた。廊下に立つ彼の顔は何かあったのか、少し険しい。いつもの笑顔はどうしたのだろうか。
何故、こんな『何もない』廊下に突っ立っているのだろう。そういえば、あのお化けはどこに行ったのだろうか。
歩き出した髭切の後を追って、主は居間まで戻る。
そこには子供の足跡がべったりとフローリングに残っていた。裸足で歩き回ったかのような足跡の群れに、主も髭切も思わず顔を歪める。
「そうじしないと」
「そうだねえ。走り回るだけ走り回っていったんだなあ、彼」
髭切は嘆息しながら、雑巾を探すために洗面所に向かおうと足を向け、振り返る。
「ああ、そうだ。主、さっきの部屋のことだけど。くれぐれも、弟には絶対何も言わないでくれる?」
主は髭切の言葉を聞いて、キョトンとした顔をした。
「さっきの部屋って?」
髭切の間に、一瞬奇妙な間隙が生まれる。そして、髭切は「なるほど」と小さく呟いてから、
「ううん、何でもない。主、倒れてるものとかあったら、元の位置に戻しておいてもらえるかい」
ソファから転げ落ちたクッションや、棚から落ちた本のいくつかを指さしてから、髭切は洗面所にしまわれた清掃用具を取り出し始めた。
髭切に言われた通り、クッションを軽く叩いてソファに戻し、床に落ちた本たちを棚に戻していく。
(……そういえば、ひげきりがお化け退治をしているとき、ぼくはどこに隠れていたのだろう)
浮かび上がった些細な疑問は、髭切に再び呼びかけられ、泡のように消えていった。
辺りを見渡せば、その部屋には全くと言っていいほど何もなかった。
薄く床に積もった埃。日光を遮断するかのように閉められたカーテン。唯一の家具は壁に埋め込まれたような形のクローゼットだけで、その中に段ボール箱が詰め込まれているのは、先程髭切がそこを開いたから知っている。
髭切はその中から何かを取り出すと、部屋を出て行った。この部屋からは『いいよ』って言うまで絶対出ちゃだめだからね、という言葉と共に。
「使ってない部屋……なのかな」
それなら、髭切が鍵をかけたままにしているのは分かる。だが、今日かくれんぼのために、一つ一つの部屋を吟味するまで、主はこの部屋のことをすこんと頭から抜け落ちさせていた。
そのことが、ほんの少しだけ気にはなる。ここで暮らしてもう三ヶ月程度は経っていて、この部屋にいた時間は決して短くなかったというのに。
「……でも、思い出さないほうが、いい気もする」
頭の片隅で、それは不要な関心だと警告している自分がいる││ような気がする。故に、主はその場に立ち尽くしていた。
そのとき、不意にばたばたと何かが落ちたような音が響く。びくりとして音の発生源の方を見ると、クローゼットの扉が少し開いていた。どうやら、髭切が段ボール箱から何かを持ち出したとき、バランスが崩れてしまったらしい。
「戻しておかないと」
決して好奇心からではないと言い聞かせて、主はそろそろとクローゼットに近寄った。
***
「さてさて」
髭切は機械的に「まーだだよ」と返してから、居間へと戻る。いったい『鬼』はどこで呼びかけをしているのか、現時点では見当はつかない。
だが、彼が決してこちらを見ていないのは分かる。それが、約束事だ。
遊びであれ、ルールがあるのなら『こういうもの』はある程度守ろうとする。
髭切は居間から和室へと足を踏み入れ、刀掛けに置かれていた刀を手に取る。鯉口を切り、刀身に汚れがないことを確認してから、鞘を払う。刀身を解放した鞘は、そのまま刀掛けに戻しておき、その間にも「まーだだよ」は忘れない。
「声の感じから察するに、そこまでおどろおどろしい感じでもないものね」
それなら、刀剣男士『髭切』の敵ではあるまい。だが、規則に則って行動する必要はあるだろう。
怪異が生じた場合に注意しなければならないことは、その逸話と法則だ。先日の鏡に潜む鬼の一件で嫌というほど思い知らされた。
「かくれんぼの隠れる役になってしまったのなら、僕も隠れないとね」
部屋の中を暫く行ったり来たりした後に、髭切は和室のクローゼットを覗き込んだ。普段自分や弟の膝丸が着ている衣服が吊されている。その隙間に髭切は己の体をねじ込んだ。そうでもしないと、長身の彼には到底隠れられそうにもなかったからだ。
「さてさて、鬼さんは僕を見つけられるかな?」
クローゼットの扉をきっちりと閉めてから、髭切は朗々と声をあげる。
「もーういいよー!!」
***
どたどたどた、と子供が廊下を駆け回るような足音が突如として響き、主はクローゼットの前でびくりと震える。だが、その足音はすぐに部屋の前を通り過ぎていった。どうやら、お化けもこの部屋の存在自体に気づけていないらしい。
髭切から渡されたお守りの小刀をぎゅっと握りしめ、主は暫く扉を凝視する。もしかしたらお化けが入ってくるかもしれないという心配は杞憂だったようで、扉は沈黙を守り続けていた。
ふぅと息を吐き出し、主は改めて落ちている段ボールをクローゼットに押し込み直そうと、その場に屈んだ。
(そういえば、この部屋、どうして鍵がついてるんだろう。なんで、この部屋は内緒の部屋なんだろう)
髭切が鍵を管理しているのは分かったが、それなら何故膝丸には内緒なのか。二人は隠し事などしない仲だと思っていたが、そうではないのか。
(ひげきりが、ひざまるに知られたくないものを隠してる部屋……? 何だろう、宝物とかかな)
子供心としては、秘密の部屋という響きは純粋に好奇心をくすぐられる。足音が遠ざかったことで、先だっての不安もなくなり、気が緩んだせいもあるかもしれない。
出てはいけないと言われた以上、外に行くつもりは毛頭ないが、そうなると興味は部屋の内側に向かっていってしまうのは当然の帰結だった。
だが、髭切が何を隠したがるのかについては、全く想像すらできない。
自分が知っている限り、お金に関するものを大人は隠したがるものらしいが、自らを刀と称する彼らの場合はどうなのだろう。
彼らが金品に執着している姿を、主は見たことがなかった。子供の主に、何だか高そうな紙幣をぽんと預けることもあったぐらいだ。彼らにとって、お金はそこまで必要なものではないのだろう。
首を傾げつつ、主は床に落ちてしまった段ボールを手にとる。そして持ち上げようとして、彼は気が付いた。
(あれ、傷がついてる)
屈んだおかげで近づいた床面には、何かを引っ掻いたような傷があった。荷物が落ちたときに傷が残ったのだろうかと思ったが、日の光が殆ど差し込まない部屋であっても、床を凝視すると微妙な違和感を覚えた。
主はカーテンに駆け寄り、日差しを受け入れるためにそれを引く。そして、思わず息を飲んだ。
「……何、これ」
そこにはフローリングの模様とは全く異なる傷跡が、あちらこちらに刻まれていた。
まるで、何度も爪で引っ掻いたような傷跡が。
***
狭苦しいクローゼットの中で、髭切は息を殺して騒々しい足音に耳を傾ける。その間も、柄に手を添えるのは忘れない。
(部屋、荒らされていないといいなあ)
本来なら緊張を強いられる瞬間だったが、髭切は全く別のことを考えていた。もし、幽霊が土足であがってきているようなことがあったら、居間が汚れてしまう。
他人の家ならどうなろうと知ったことではないが、ここは自分と弟と主の家だ。自分の住処を好き勝手に乱されるのは、彼にとっては業腹の出来事だった。
(そんな風に、昔は思ってなかったんだけどねえ。住処なんて、とりあえず休める場所なら別にどこでも良かったはずなんだけど)
家に帰ることすら稀だった頃に比べれば、自分は随分とこの場所に愛着を抱くようになったらしい。今まではなかった感情だが、悪い気はしなかった。
感慨に耽っている一方で、クローゼット越しでも分かるほどの物音があちこちから響いてきていた。先程、髭切が鬼をしていたときは、もう一人の鬼役である彼に遠慮していたのだろうか。
食器棚を乱暴に開いた音。テーブルクロスをめくったのか、大きな布がはためいた音。電子レンジを力任せに開けた音、風呂場の戸を勢いよく叩く音。
子供らしい荒々しさの残る捜索に、部屋が破壊するのが先か、自分が見つかるのが先かと、別方向での憂いが髭切の仲で膨らんでいく。
その願いが天に通じたのか。
どたどた、という足音が、畳を踏みしめる掠れた音に変わる。い草の上を滑るように歩く音の後に、襖が開く静かな物音が数度。
そして。
ぴたり、と音が止む。
「…………」
沈黙を破ったのは、相手だった。かくれんぼの鬼である彼は、まるでここに隠れているのはお見通しと言わんばかりに、クローゼットの扉をばんばんと勢いよく叩く。
がたがたと軽く振動するほどの物音に対して、髭切は眉一つ動かさない。能面のように落ち着き払った顔で、がたがたと揺れる扉をクローゼットの内側から観察しているだけだった。
やがて、その振動は激しさを増していく。扉だけではなく、クローゼットそのものが激しく揺さぶられているかのように。
(ああ、なるほど。この存在は、別に遊びをしたいわけじゃないんだね)
地震でも起きているのではないかと思うほど、激しく揺さぶられたクローゼットの中でも、髭切の思考は凪いだ海のように静まりかえっていた。
(主の呼び声に反応して、この部屋で隠れている者を探しに来た。それは確かだ。だから、主がちゃんと隠れた後から探そうとした)
髭切が主とかくれんぼを始めなかったら、ひょっとしたらコレはいつまでも部屋に居座って遊びの始まりを待っていたかもしれない。或いは、対象がどこかに隠れたと判断した時点で、探しにやってきたか。
ともあれ、髭切はその存在自体には、己が鬼役に割り当てられたときから気が付いていた。ただ、姿がはっきりとは見えなかった。その存在が主を見つけ出そうとしたときに、ようやく実像を伴って見えたほどに希薄な存在だ。
(つまるところ、かくれんぼの鬼……なのかなあ。言葉通り、隠れている者を怖がらせる『鬼』だ)
遊びの中の鬼はあくまで比喩の表現ではあるが、この存在には悪意を感じる。見つけ出そうとする意欲ではなく、純然に人を脅かして怖がらせて、その恐怖の顔を見てを嗤いたいという悪意。それ故に、見つけた相手を怖がらそうとするのだろう。
(まあ、何でもいいから、早く開けてほしいんだけどね)
常人なら、この尋常ではない振動に震え上がっていただろう。しかし、生憎ここにいるのは、神経すらも鉄でできているような刀剣男士だ。この程度の振動で恐怖など覚えるわけがない。
やがて、ひとしきり揺れていたクローゼットは、まるで嵐が過ぎ去ったかのようにピタリと制止した。続けて、クローゼットが勿体ぶって、ぎい、と音を立てて開かれる。
陽光差し込む和室の中に、ソレはいた。
くすんだ黄色のシャツに、膝小僧が見えるような半ズボン。年の頃は、恐らくは主より少しだけ年上だろうか。
大きく開かれた目に白目はなく、ぽっかりと空いた黒い底なしの穴がこちらを見つめているかのようだった。
それは、明らかに人の限界を超えた大きさに口を開き、
『みーつけ』
た、と言おうとしたのだろう。
もし、その口に刀が突き刺さっていなければ。
「鬼が、いつだって見つけた側を嗤える立場だと思っているなら、大間違いだよ」
抜き身のまま隠れ持っていた太刀は、今は髭切の手で子供の姿をした怪異に突き立っている。相手の目は相変わらず真っ黒のままだったが、そこにもし感情があったなら、動揺が浮かんでいたことだろう。
「君は自分が鬼の役になったうえで、相手を見つけるときしか姿を見せなさそうだったからね。手っ取り早いから、君の遊びに付き合わせてもらったよ」
でも、と彼は続ける。
「遊びは、もうおしまいにしよう」
口に突き立てたそれを、髭切は紙でも切るかのように、ストンと下に落とす。肉も皮もない存在であるはずなのに、確かに何かを斬ったという手応えが刀ごしに伝わる。
子供の姿をしてそれは、驚いた表情でこちらを見たまま、まるで昼の日差しに溶けるように音もなく消えていった。
「人を怖がらせたいのなら、自分が追い詰められたときのことも、ちゃんと考えておかないと」
薄い笑みを口に引いた刀の付喪神は忠告めいた言葉を吐く。もっとも、その言葉は、もう『鬼』には聞こえていなかったであろうが。
***
部屋の中をよく観察すればするほど、その異様さは子供の主でも分かるほどに際立っていた。
詰め物で無理矢理隠そうとしているが、隠しきれない壁の陥没の跡。さながら、杭でも打ったような痕跡には、流石の主も声をなくした。画鋲の何倍もの深さで穿たれたその痕跡の意味は、主には理解できない。
更に、他にも部屋の壁には何かを貼り付けていたのか、接着剤の跡や、剥がした紙の跡が残っている。
「これって……あれを貼ってたかな」
主が見つめた先にあったのは、部屋の唯一の出入り口である扉だった。髭切が主をこの部屋に入れたとき、彼はクローゼットの中からある物を取り出した。
それは、主の目には七夕のお祭りで使う短冊に絵を描いたような代物で、今は扉にぺたりと貼り付けられている。髭切はその用途については話してくれなかったが、これのおかげで怖いお化けが入ってこなかったのだろうとは想像がつく。
(あの紙をいっぱい部屋に貼って、それに部屋の一部を壊して……傷もそれと関係がある?)
よくよく見ると、ひっかき傷は床だけではなく、壁にもいくつか残されている。壁紙にはぞんざいに白い紙が貼り付けられていたので、ぱっと見ただけでは気が付かなかった。
その一つの端をそっと捲ってみると、そこにもまた、勢いよく引っ掻かれた跡がある。
「……動物を飼ってたのかな」
犬や猫なら、意図しない傷がついてもおかしくはない。しかし、あの髭切や膝丸が動物を飼育していたとも思えないし、何より飼っていたのなら家全体に傷が残っていないのは不自然だろう。
これではまるで、
(ここに閉じ込めてた……そんな感じがする)
先程まで、襖越しに邂逅したお化けの方が恐ろしく感じていたというのに、今は寧ろ、この不可解な傷跡が残る部屋の方に不信感を抱いてしまう。
クローゼットから転げ落ちた段ボールの中身すらも、悍ましい何かが封じてあるのではと想像してしまうほどだ。
ひとまず傷の検分を終えて、主はクローゼットの前に立つ。
(この落ちた段ボールを片付けるだけだから。そのためにやることだから)
勝手に開けたら怒られるかもしれない、という懸念はあった。しかし、自分が住んでいる家に関わることで、己が把握していないことがあるという不安と、僅かに芽生えた好奇心が、少年の背中を押した。
(きっと、大したことじゃない、はず)
せーの、と弾みをつけて、主はウォークインクローゼットの開きかけになっていた片側の扉を開く。
「わっ」
思わず声をあげたのは、クローゼットを開けたことで中から更に物が転げ落ちてきたからだ。どうやら、髭切はあれこれ乱雑に詰め込んで、無理矢理閉じていたらしい。
その落下物は、最初、蛇に見えた。だが、よくよく見れば、そこにあったのはぶつ切りになった、長さも不揃いな縄だった。それらの縄には、どれも白い菱形を連ねたような紙が結わえられている。
もし大人がここにいたのならば、それは切断されたものではなく、何かとてつもない力で引きちぎられたのではないかと思ったことだろう。
更に、扉を開いた弾みで奥から紙がひらひらと飛んできた。その一つを、主は背伸びをして捕まえる。
丁寧に皺を伸ばすと、それもまた、髭切が扉に貼っていった短冊に似た形の細長い紙だった。
「…………『丸』?」
紙には、漢字らしき文字が書かれている。だが、あまりに崩されているために、何と書かれているのかは主には分からない。
けれども、二つある文字のうち一つは画数が少なかったため、辛うじて『丸』という文字であるとは分かった。
「ひざ、まる?」
確信があったわけではない。ただ、連想ゲームのように思いついた言葉を口にしただけだった。
だが、言葉にした瞬間、にわかに目の前のものたちが違う意味を帯び始める。ぶつ切りにされた縄に、仰々しい文字が書かれた紙。加えて、床や壁の引っ掻き傷に杭のようなものを穿った跡。
何がここであったのかは、主には分からない。ただ、何かあったことだけは分かる。しかも、恐らく││膝丸に関わることで。
自分の帰る家として、ご飯を食べ、お風呂に入り、団欒をしていた部屋の隣で、嘗て何かがあった。あまり、平和的とは言えない何かが。
そのことが、じわじわと薄ら寒い予感として主の体を包んだとき、
「主、もう出てきても大丈夫だよ」
扉の外側から聞こえてきた声に、主はぎくりとした。今まで、髭切の声を聞いて、こんなにも緊張を覚えたことはなかった。
「主、聞こえているかい。もういいよー」
出てきてもいいという許しの言葉が、今は恐ろしく感じてしまう。この部屋の鍵を、髭切が持っていた。膝丸も主も素通りしてしまっていた部屋を、髭切は難なく感知していた。
否、既に最初から存在に気が付いていたのだろう。ならば、この段ボールに詰め込まれたものも、傷ついた部屋の一部についても、髭切は知っているのではないか。
聞いてみたい。
だが、聞いてはいけない気がする。
ぐるぐると二つの思考が行きつ戻りつしていると、
「何かあったのかい。入るよ」
ぎい、と軋みをあげて扉が開く。廊下の人工的な明かりが部屋に差し込み、開かれたクローゼットの扉が音もなく影を伸ばした。
「ひげきり、これは」
勝手に散らかしたことを怒られるかもしれない、という恐怖はある。だが、主にとっては、それは日常茶飯事の恐怖だった。
けれども、今はそれとは全く異なる恐怖を覚えている。
廊下の光を背に負った髭切の表情は、昼間だというのに影が落ちて、はっきりと見えない。けれども、彼の笑顔が、まるで火が消えたようにすぅっと消えるさまを、主は目にしてしまった。
それは、人が決して見せることのない、無機質な『刀』の顔だった。
「……まあ、片付けていかなかった僕の落ち度でもあるか」
気が付けば、髭切はいつものように笑みを口元に引いていた。だが、その笑みは本当に普段彼が見せている笑顔なのか。主には確証できるはずもなかった。
「それとも、君も懐かしくなっちゃったかな。僕が君を連れて来たとき、最初に入った部屋でもあるからね」
「え……」
主はきょとんとする。自分がこのマンションに連れてこられたとき、こんな部屋に入った覚えはない。手を引かれ、居間に案内されたような記憶が、この家に関する最初の記憶だ。
「主、どうかしたのかい」
「ぼく、ここには、今日が初めて」
辿々しく答えながらも、主は脳裏にもう一つの疑問を浮かべていた。
(ぼくは、いつ、ひげきりたちに会ったんだろう)
自分の思い出を遡っていくと、最初に思い浮かぶのは大人たちの姿だ。神社の模型のようなものが飾られている部屋の中に、自分は立っていた。何故、自分がここにいるのかは、はっきりと覚えていない。
だが、立ち並ぶ大人たちの中で、髭切の顔だけが見覚えのある人だと思った。だから、彼に近づき、声をかけた。
それが、最初の出会い││だったはずだ。
「主、もしかして本当に?」
本当に何なのかは、主には分からない。彼にできることは、もう一度「ここは初めて」と繰り返すことだけだった。
「そっか。じゃあ……まあ、それでいいや。僕もあまり話はしたくないんだよね。いい思い出がないから」
髭切は主に近づき、彼が握っている紙を取り返す。主が声をあげる暇もないほど、その動きは曲芸師のように速やか且つ軽妙だった。
更に、髭切は落ちた縄を段ボール箱へ乱暴詰め込み、まとめてクローゼットの中に放り込んだ。ぴしゃりと扉が閉ざされた音だけが、やけに大きく響く。
「ひげきり、あの……あれって何?」
「さっき来てた奴のことなら、悪霊の類か、或いは『鬼』って言葉が一人歩きして形を得たものなんじゃないかな。僕はその手の考察は詳しくは知らないから。ともかく、主はあまり外の声に応えないようにね」
「うん……。それは、わかったけど。そうじゃなくて、さっきひげきりが……触ってたやつは」
「主、これは二度目のお願いになるんだけど」
主が何か言うより早く、髭切は主の腕を掴み、部屋の外に連れ出す。
抵抗する気はなかったが、もし抵抗したとしても引き摺り出されていたことだろう。
部屋の扉を閉めてから、髭切は主と目線が合うようにしゃがみこんだ。
「この部屋のこと、できれば忘れてもらえるかな。僕としても、なるべく見たくはないんだ。できれば、僕の記憶からも綺麗さっぱり消えてほしいぐらいに」
「ひざまるは」
「弟には何も言わないで」
間髪入れず挟まれた言葉の凄みは、髭切が持ち歩く刀よりも鋭く主の発言を遮った。
「僕はこの部屋のことを忘れる。だから、主も忘れて。いいね」
いつもの柔らかな空気など、どこにもない。彼にとって、それだけこの願いが切実なものだとは、彼の琥珀色の双眸を見ているだけでも容易に分かる。
「……忘れれば、いいの?」
「うん。とは言っても、完全に忘れることなんて無理だろうけどね。でも、この部屋なんて最初からなかった││そんな感じにしてもらえると、僕としては助かるよ」
できるかな、と髭切は主の目を覗き込んで頼む。普段は飄々とした彼の真剣な願い事。それを無視することなど、主にできるはずもない。
「……『ぼくは、この部屋を忘れる』。『最初から、ここには何もなかった』」
髭切の言葉をたどるように、自らに暗示をかけるような呟きを、少年は口にする。
そして。
ふ、と我にかえると、主の目の前には髭切が立っていた。廊下に立つ彼の顔は何かあったのか、少し険しい。いつもの笑顔はどうしたのだろうか。
何故、こんな『何もない』廊下に突っ立っているのだろう。そういえば、あのお化けはどこに行ったのだろうか。
歩き出した髭切の後を追って、主は居間まで戻る。
そこには子供の足跡がべったりとフローリングに残っていた。裸足で歩き回ったかのような足跡の群れに、主も髭切も思わず顔を歪める。
「そうじしないと」
「そうだねえ。走り回るだけ走り回っていったんだなあ、彼」
髭切は嘆息しながら、雑巾を探すために洗面所に向かおうと足を向け、振り返る。
「ああ、そうだ。主、さっきの部屋のことだけど。くれぐれも、弟には絶対何も言わないでくれる?」
主は髭切の言葉を聞いて、キョトンとした顔をした。
「さっきの部屋って?」
髭切の間に、一瞬奇妙な間隙が生まれる。そして、髭切は「なるほど」と小さく呟いてから、
「ううん、何でもない。主、倒れてるものとかあったら、元の位置に戻しておいてもらえるかい」
ソファから転げ落ちたクッションや、棚から落ちた本のいくつかを指さしてから、髭切は洗面所にしまわれた清掃用具を取り出し始めた。
髭切に言われた通り、クッションを軽く叩いてソファに戻し、床に落ちた本たちを棚に戻していく。
(……そういえば、ひげきりがお化け退治をしているとき、ぼくはどこに隠れていたのだろう)
浮かび上がった些細な疑問は、髭切に再び呼びかけられ、泡のように消えていった。