本編の話
人の住む住宅街が賑やかになる時間帯はいつか。それは、朝と夜であると、主はこのマンションの一室で暮らすようになってから知った。
朝は近隣のマンションや同じマンション内でも、子供や働きに出る人が出たり入ったりするので、何かと騒がしい。夕方から夜にかけても、帰宅する学生たちや大人の声が賑やかだ。
だが、同居人の髭切と膝丸は、これらの活動時間帯を完全に無視して帰宅する。
「今日は、何時に帰るんだっけ」
先程作り置きの昼食を食べたので、お腹は空いていない。空調の効いた部屋も快適だ。ただ、彼らがいないと主はそこそこに暇だと思ってしまう。こればかりは、どうしようもない。
字の勉強だって、何時間もしているわけにもいかない。
ごろごろしていた寝室から居間に入り、主は机の書き置きを覗き込む。膝丸は帰りが夜になるが、髭切は昼頃に帰ると書かれていた。
「ひげきりが、帰ってくる」
帰ってきたら、彼はどんな話をするだろうか。それとも、疲れて寝てしまうだろうか。たしか、髭切は昨日の夕方から帰ってきていない。所謂、夜を通してのお仕事のはずだ。
彼が帰ってくるのが見えないかと、主はベランダの窓を開く。夏の日差しがカッと照りつけ、主の柔らかな肌を焼いた。
「もういいかーい」
どこかでかくれんぼでもしているのか、子供の声がはっきりと聞こえる。
マンションの五階という高さがあるにも関わらず、道の雑踏や車が通る音、子供の話し声などは意外と上にまでしっかりと聞こえてくる。音は上に上がるものなのだと、最近気が付いたほどだ。
それでも、昼下がりという時間帯もあって住宅街は閑散としている。背が低いのでベランダから直接覗き込むことはできないが、のぞき穴のような隙間から見える道路に人の気配は薄い。
夜は人通りが少ないから危ないという話はよく聞くが、こういう真昼間のエアポケットのような時間に何をしていても、存外誰も見ていないのではないかと主は思っていた。
「もういいかーい」
もう一度、呼びかけがする。返事はあるのかもしれないが、主の耳には届かなかった。誰と遊んでいるのかは知らないが、返事をしてあげればいいのにと、主は取り留めも無く思考を遊ばせる。
髭切と膝丸。刀の『つくもがみ』という、人間ではないらしい彼ら。しかし、主にとって、彼らは自分とは違う生き物だとは到底思えなかった。
確かに、主の知っている『普通』と違う所はあるかもしれないが、笑ったり怒ったり悲しんだりしている姿は、自分と何ら変わりない。
「……お腹が空く所も」
髭切も膝丸も体を動かす仕事をしているらしく、帰ってくると大体何か食べようと提案する。これから帰ってくる髭切も、もしかしたら何か食べようと提案するかもしれない。
「おやつ、買ってきてくれたらいいな」
淡い期待を抱いていると、再び「もういいかーい」と道路から声が聞こえた。どうやら、まだかくれんぼの鬼は動けていないようだ。
「まーだだよー」
小声で、主は返事をする。どうせ、かくれんぼの鬼には聞こえていまい。単なる暇つぶしのような返事だ。
その返事が終わるのを待っていたかのように、玄関がガタガタと揺れる音がした。髭切が帰ってきたのかと、主はベランダから部屋に戻り、窓を閉める。
「ひげきり?」
呼びかけること、数秒。しかし、髭切が入ってくる様子はない。
ドアを風が叩いたのだろうかと、主は廊下から玄関に向かう。しん、と静まりかえった玄関口には、人の気配は全くしなかった。
「気のせいかな」
そろーっと玄関口から離れると、再びガチャガチャと今度はドアノブが動いた。ぎくりとして、主はその場に硬直する。
やがて、今度はがりがりと鍵が押し込まれる軽い音がしたと同時に、がちゃりと施錠を表すつまみが回った。
ぎい、と軋みを上げて扉が開く。その向こう側にいたのは、
「ただいま。いやあ、今日も蒸し暑いねえ」
「……ひげきり?」
涼しげな半袖のシャツに、さらりとした淡い色合いをした薄手のショールをかけた髭切の姿が、そこにあった。
肩にかけている刀も含めて、いつも通りの仕事に向かう装いである。
「どうしたんだい。驚いたような顔をして」
「さっき、音がした」
「僕の足音かい?」
「……かも、しれない」
だが、髭切が鍵を差し込んで部屋に入ってくる前に、ドアが揺れた気がしたのは確かだ。髭切は施錠されていることを知っているだろうから、鍵を使う前に扉をがたがたさせる必要はない。
やはり風だろう、と主は一旦の結論を出す。
「それよりも、主。暑かったからアイス買ってきたんだけど、一緒に食べるかい?」
髭切はケーキを入れるのに使うような、真っ白の箱を主に見せた。主はぱちぱちと何度も瞬きをした後に、すぐさま首を縦に振る。先程まであったドアへの懸念など、すぐさま頭から吹き飛んでいた。
***
主が予想していたように、昼餉こそ食べたものの小腹が空いたからと言って、髭切はカップのアイスを机の上にいくつか並べた。以前、箱で買ってきたアイスが冷蔵庫に残ってはいるが、同じものばかりだと飽きるというのが髭切の言だ。
「主は、何をしていたんだい?」
スプーンで大ぶりのカップアイスの縁を突き崩しつつ、髭切は主に問いかける。
「本、読んでた。あと、色々」
「色々?」
「寝てたり、外見てたり……絵、描いたり」
「長義から聞いたんだけど、主ぐらいの子供は遊び回ってるものじゃないの?」
長義というのは、髭切と膝丸の話に時々出てくる人だとは主も知っていた。きっと、彼らの仕事を一緒にしている友達のようなものなのだろう。
「遊び……も、少しは。でも、一人だから」
主の知っている遊びは、どれも一人でできるものではない。
かけっこも、鬼ごっこも、かくれんぼも、だるまさんが転んだも、昔やったときはいつも誰かが側にいた。それは親と呼べる人だったかもしれないが、今はそのことは考えるつもりはない。
「一人だとできないんだ」
「うん」
「じゃあ、僕らの所に来るかい?」
「えっ」
唐突な誘いに、主はびくっとする。
主にとって、外の世界は未知の世界だ。別に、外に出たことがないわけではない。先日は、落ち込む膝丸を励まそうと、河原に四つ葉のクローバーを探しに行ったこともあった。
けれども、余程の理由がない限り、ふらっと外に出て何かをするという気持ちにはなれない。外に出ようとしたら、ひどく怒られた││という経験が、少年の心に暗い影を落としていた。
「あー、でも、主を連れて行ったら、また鬼丸に何か言われちゃうかもなあ」
「…………そう、なんだ」
ふわふわと自由気ままに話題を切り替える髭切に、主は必死に思考を追いつかせる。毎度のことだが、彼の話題は聞き手が軌道修正しないと、雲のようにどこかへと行ってしまう。
それからも、髭切のころころ変わる話に、主は適当な相槌を打っていた。
膝丸が兄と別々の任務に行くと、露骨に嫌そうな顔をすること。それと同じくらい、長義という人が髭切を目にするだけで、何かに耐えるようなしかめ面をすること。
鬼丸という怖い顔の上司がいるのだが、彼が最近弁当を差し入れされているらしいこと。膝丸と夏の服をもっと買いに行こうと話をしていること。
話の半分以上が膝丸の話なのは、兄弟だからそういうものなのだろうと、主は特に気にしていなかった。
もっと言えば、膝丸の方が兄のことを話題にすることが多い。
「それで、今日は何だかとっても暑いなあって思ったから、アイスを買って帰ったんだよね」
「冷凍庫にも、まだ入ってるよ」
「あれも後で食べるから大丈夫。そうだ。これ、食べ終わったら、何か遊びをするかい?」
髭切の突然の申し出に、主はぱちぱちと高速の瞬きを繰り返す。一瞬、何かの聞き間違いか幻聴ではないかと思ってしまったほどだ。
「遊ぶ? ……ひげきり、と?」
「うん。とはいえ、僕は主の『遊ぶ』が何をすることかは、よく知らないんだけど」
途端に、主の頭の中にはぼんやりと様々な遊びが浮かんで消える。鬼ごっこに、だるまさん転んだに、かけっこ。ただ、この遊びは広い場所が必要だ。それに、大人の彼が本気で走ったら、主は到底太刀打ちできない。
そのとき、ふと先だっての呼び声を主は思い出した。
ベランダの向こうに響いた「もういいかい」というかけ声。あのかけ声を使った遊びなら、髭切とも互角に渡り合えるかもしれない。
「かくれんぼ……とかなら、ここでもできるかも」
「かくれんぼ?」
「片方が隠れて、鬼が探す遊び」
「鬼?」
髭切の片眉が、ひょいと持ち上がる。嫌悪というほど露骨ではないが、何かよくないものを見つけたときの表情だ。そういえば、彼らはお化け退治のような仕事をしていると、主は以前に教えてもらっていた。
ひょっとしたら、鬼もお化けの一つとして警戒しているのかもしれない。
「……ええと、見つける人のことを、鬼って言う。他の遊びでも、鬼は見つけたり、追いかけたりする人
「ふうん。まあ、確かに鬼は襲う側だものねえ」
何やら物騒なことを口にしてから、髭切は溶けかけの一欠片をひょいと口の中に放り込んだ。
***
「もういいかーい」
「まーだだ、よー」
玄関付近から聞こえる髭切に返事をしつつ、主は居間や寝室を右往左往する。かくれんぼをして遊んであげよう、という髭切の気ままな提案に乗ることにした主は、まず髭切に鬼をやってもらうことにした。
遊びを知らない彼に、いきなり隠れろと言われても面食らうだろう。それなら、自分が手本を見せようという気持ちで、主は慎重に隠れ場所を探す。
小柄な主の目線から見れば、部屋の隠れ場所は存外に多い。和室の押し入れに潜り込めば、押し入れを開かない限りは隠れていられる。寝室の毛布の中に身を潜めるのも、悪くないかもしれない。
居間の机の下、お風呂場の中と、主は適当な場所をいくつか行ったり来たりする。
いくつかの隠れる場所の候補を見つけた主は、髭切がちゃんと目を隠して数を数えているかを確認しに行った。その途中で、彼はぴたっと足を止める。
(そういえば……この部屋、入ったことなかった)
髭切たちと生活を始めてから、主は大体の部屋には足を踏み入れていた。和室に寝室に、ちょっとした家財と使うのかも分からない家電製品やら何やらを詰め込んだ倉庫のような部屋。
だが、この玄関をあがってすぐの所にある部屋には、足を踏み入れたことがない。いつも扉が閉まっていたというのもある。だが、そもそも主はこの部屋の存在を意識したことが殆どなかった。
まるで、そこが壁であるかのように、主はいつも素通りしていた。恐らく、膝丸もそうだ。髭切にとってはどうなのかは、後で聞けば分かるだろう。
(入れるのかな)
主はそろりと扉の取っ手に手をかける。だが、軽く力をかけても、取っ手が動く気配はなかった。
少し下を見れば、その理由は一目瞭然だった。どうやら、この部屋は外側から鍵がかけられるようになっているらしい。
ともあれ、鍵がかけられた部屋に入るのは不可能だ。主はここに入る選択肢を一旦棚上げする。
「もういいかーい」
「まだ、まーだだよ」
髭切の呼びかけに応じながら、主は再び奥の和室まで戻る。髭切が仕事終わりに刀掛けに置いた刀と、壁に沿うようにして置かれたクローゼットが彼を出迎えた。主は押し入れとクローゼットを暫く交互に見つめてから、押し入れを選ぶ。
クローゼットという服をかけた場所に体を潜り込ませることへの抵抗感が、主に二の足を踏ませた。あの二振りが服が汚れたといったことで怒るようには思えないが、困らせるのは本意ではない。それなら、押し入れに入る方が余程良い。
和室の襖の戸を開き、主は忍び足で中に入る。そこには、冬用の布団がいくつか布団用の収納ケースに入っていた。
昼であっても光が差さない上に、埃っぽい所もあるが、かくれんぼの間ぐらいなら我慢できないこともない。主なら身を屈めれば十分に入るだけの空間もある。
「よいしょ」
布団と襖の隙間に入るように体をねじ込み、開けた襖をそーっと内側から閉める。
外の気配を探るためにも、主は指先が入るぐらいの幅だけは残しておいた。見当違いな所を探す鬼を見ているのも、隠れる側の特権だ。
「もういいかーい」
「もういいよー」
返事をしてから、主は小首を傾げる。
(さっきの声、髭切の声と違ってたような)
***
髭切は自分の顔を覆っていた手を下ろし、周囲を見渡す。彼が今立っているのは、丁度玄関にあたる位置だ。主がこの辺りにいないだろうということは、最初から予想がついていた。
いくら目を隠していても、自分の周囲でうろうろされていては、髭切も流石に気が付く。
「この僕が、鬼役だなんてねえ」
たとえ役目の名前と分かっていても、不思議な心地だ。本来、自分は鬼を討った刀であったはずなのに。
感慨に耽りながら、髭切は部屋へとあがる。玄関の近くにある部屋には、いつものように鍵がかかっていた。ここに主が入ることはないだろうとは、髭切も承知していた。
「さてさて、どこに隠れたのやら」
キッチンを覗き、居間を一通り見渡した髭切は、そこでぴたりと足を止めた。目を眇め、彼は慎重に辺りの空気を読み取ろうとする。
耳の端を、たったったと子供が駆け回るようなような足音。それが、髭切が捉えたものの正体だった。
この部屋の隣は空き部屋になっている。上下共に、人は住まわせてないと、髭切は政府の者からこの部屋を宛がわれたときに聞いていた。だから、住居人の物音が響いたとは考えにくい。
怪異に絡む仕事をする以上、よからぬものを憑けて帰ってくるかもしれないから、と気を利かせてくれたおかげで、髭切たちは近所の騒音問題とはある程度無縁でいられた。
(まあ、それはともかくとして。僕らがいるから、普通は低位のあやかしは入ってこられないはずなんだけど)
髭切と膝丸というあやかし退治の刀は、それ単体だけで強烈な魔除けになる。幽霊がふらっとこの建物内に入るのは困難のはずだと、彼は思っていた。
(あるいは、この建物自体が曰くがある土地に建てられていた場合は別なのかな。まあいいや。今、気になるのは)
とっとっと、と軽やかな足音が廊下を響く。今度は、よりはっきりと。
「││何か、主が招いちゃったのかな」
普通は入れないような場所に、あやかしが入り込めた理由。考えられるとしたら、こちらが不注意で招いてしまった場合だ。
さてどうしたものかと、髭切は柳眉を顰める。
彼が思考している間にも、足音は不規則にあちらこちらを彷徨っていた。キッチンのフローリングに敷いたマットを踏みしめる柔らかな音。風呂場のタイルを踏みしめる、ぺちぺちという高い音。
そして。
││ざり、と。
足音は、畳のい草を踏んだ音に変わっていた。
***
かくれんぼは、鬼の方はともかくとして、隠れる方は存外に暇な遊びだ。何せ、隠れる側は見つからないことに主眼を置いているために、見つける側が来なかった場合、ひたすらに時間を持て余すことになる。
かといって、下手に動けば鬼に見つけられてしまう。それでは本末転倒だ。鬼が飽きて帰ろうものなら、残された側は置き去りにされてしまう。流石にそんな経験はした覚えがないが、もし髭切が飽きて探しにこなくなったらどうしよう、と主は薄らと不安を抱いていた。
(ちゃんと探しにきてるよね……?)
暗い所でじっとしていると、耳が普段より良くなったような気がする。そのおかげか、髭切がフローリングの床を踏みしめ、僅かに軋ませる音を耳が拾っていた。彼は今、居間を探し回っているのだろう。
数分ほど間を置いて、今度はその足音が畳を踏む音に変わる。主の心臓は、見つかるかもしれないという状況に、高揚と緊張が合い混ざった高鳴りを響かせていた。
(ひげきりは、見つけられるかな)
足音は、遠ざかったり近くなったりを繰り返している。髭切にしては小刻みな足音に聞こえるのは、彼が歩幅を狭めて歩いているからだろうか。
探し回る髭切の様子を窺おうと、主は少しばかり開けていた襖の隙間に顔を近づける。だが、角度が悪いのか、髭切の姿は見当たらない。
一分ほど経った後に、ぴたりと足音が止んだ。次いで、主は襖の向こうに気配を感じていた。きっと、髭切の気配だろう。襖の隙間からも、誰かの影が見てとれた。
だが、不意に隙間が真っ暗になる。今までぼんやりと見えていた景色が、突如照明が消えたかのように黒に染まった。
「…………?」
最初、主はそれが何かが分からなかった。だが、瞬きを数度繰り返し、彼は理解する。
「││││!!」
それは、目だ。
白目すら全て埋めるような黒々とした目が、じーっとこちらを見つめている。襖の隙間に瞳を押しつけ、こちらを探している。
一瞬遅れて、体中の産毛が全て逆立つような寒気に襲われた。慌てて襖の奥に逃げ込もうとしても、所詮は押し入れの中。背中はすぐに押し入れの最奥にぶつかってしまう。
ず、ずず、と襖が開いていく。その向こうに何がいるかなど、主派に到底想像できない。ただ、突然のことへの驚きと、未知に対する不可解な恐怖が体中に満ちていた。
焦らすかのように、ゆっくりと動いていた襖。しかし、突如それが勢いよく開け放たれる。
「││ひげ、きり?」
開かれたその先にいたのは、髭切だった。すぱん、と開かれた襖の向こうでは、見慣れた青年がこちらを見て微笑んでいる。
「主、みーつけた」
かくれんぼの鬼としての勝利宣言に、主はぽかんとしてしまった。あの正体不明の目を見た瞬間、自分がかくれんぼをしていたことすら、一瞬頭の中で吹き飛んでいたからだ。
「これで、主が負けたことになるんだよね?」
「う、うん……ぼくの、負け」
「よし、それならこれは僕の勝ちだね」
鬼である髭切に見つけられてしまったのだから、これは敗北と言って遜色ない。髭切はきょろきょろと辺りを見渡してから、言葉を続ける。
「もう一度、やってみようか。今度も僕が鬼で」
そこまで髭切が言いかけたときだった。
││もういいかーい。
言葉の間隙を縫うように、子供の声が響く。間延びをした、子供らしい甲高い声。無論、主の声ではない。
││もういいかーい。もういいかーい。
こちらを急き立てるように、もう一度呼びかけが続く。きゃらきゃらと笑い声が間に挟まれているものの、愛嬌というよりも、こちらをからかっているように聞こえた。
「まあだだよ」
返事をしたのは髭切だった。すると、もういいかいの連呼がぴたりと止む。だが、これであの謎の呼びかけが止まるとは、主には到底思えなかった。
「主、この家に誰か入れた?」
髭切の質問に、主はぶんぶんと首を横に振る。その間にも、正体不明の呼びかけがどこから来るのかと、主は不安げに周囲に視線をやっていた。無論、姿はどこにもない。
「じゃあ、何か呼びかけに応じたことはなかった?」
「ない……あ、でも」
言いながら、主は顔面蒼白になっていく。それは、単に自分が原因ではないかと気が付いたからではない。それを口にすることで、髭切の怒りを買うのではないかということへの恐れだった。
「でも?」
「でも……外で、かくれんぼをしてる子供みたいな声がして。それで、もういいかいって言ってたから、まだだよって」
「ああ、なるほどね。そのせいで、こっちに来ちゃったのか」
髭切は合点がいったと頷くが、主には彼がどんな理屈で納得しているかは分からない。彼にとって重要なことは、髭切にとって迷惑なことを自分がしてしまったのではないか、そのせいで叱られるのではないか、ということへの懸念だけだった。
ぶるぶる震えている主の頭に、髭切の手が伸びる。反射的に主が目を瞑るも、その手は彼の頭に載せられただけだった。
「ひげきり、さっきの声は」
「うん。多分、かくれんぼがしたいお化けが来ちゃったみたいだね」
お化けと聞いて、髭切はびくりと肩を跳ねさせる。襖ごしに目を合わせてしまった、あの黒々とした目の正体は、髭切のいう『お化け』なのだろう。そう聞くと、主もすんなりと納得できた。
「じゃあ、かくれんぼの続きをしないとね。鬼は、あの誰かさんで、逃げるのは僕ら。主は、絶対誰にも見つけられないような場所に隠れてもらえるかな」
「見つけられないような場所って……?」
「お化けでも入ってこられないような場所」
そんなことを言われても、主には皆目見当がつかない。髭切が見つけられない場所なら何となく想像もつくが、お化けでもとなるとまた話は別だ。もし、あの真っ黒の目の持ち主がお化けだというのなら、あんな恐ろしいものから逃げられるものなど、なさそうに思えた。
そこまで考えて、ふと主は思い出す。
「鍵がかかってた、あの場所は?」
玄関をあがってすぐの所にある扉。あそこには鍵がかかっているから、幽霊でも入れないのではないかと主には思えた。
「ああ、あそこね……。まあ、いいか。確かに怪異相手に閉じこもるにはうってつけだ」
髭切も納得してくれたようで、うんうんと頷く。次いで、和室にある刀掛けに向かった髭切は、自分の本体である太刀の側に置かれていたものを手にとった。
それは、主の小さな手でも握れそうな、小ぶりの刀が置かれている。正確には祭事用の鉾鈴に似たそれを手に取ると、髭切はぞんざいな手つきで主に渡した。
「……これって」
「お守り。一応、何かあったときのためにね」
続けて、彼は時折「まーだだよ」と返しながら、居間に据え付けられた戸棚に向かう。引き出しのいくつかを開いた後、髭切はその中から鍵を取りだした。
今度は件の部屋に向かい、鍵を差し込む。鍵はすんなりと錠の中に収まり、ガチンという軽い音と共に扉は開いた。
「弟には、この部屋のことは内緒ね」
「……うん」
その理由が何故かを、主は聞かない。単に、自分が世話になっている相手には逆らわないという、物心ついた頃から染みついた思考があったからもある。
だが、たとえそれがなかったとしても主は聞けなかっただろう。
こちらに向けて薄く微笑む髭切の凄みは、質問をしようとする心を挫くのに十分過ぎるものだった。
朝は近隣のマンションや同じマンション内でも、子供や働きに出る人が出たり入ったりするので、何かと騒がしい。夕方から夜にかけても、帰宅する学生たちや大人の声が賑やかだ。
だが、同居人の髭切と膝丸は、これらの活動時間帯を完全に無視して帰宅する。
「今日は、何時に帰るんだっけ」
先程作り置きの昼食を食べたので、お腹は空いていない。空調の効いた部屋も快適だ。ただ、彼らがいないと主はそこそこに暇だと思ってしまう。こればかりは、どうしようもない。
字の勉強だって、何時間もしているわけにもいかない。
ごろごろしていた寝室から居間に入り、主は机の書き置きを覗き込む。膝丸は帰りが夜になるが、髭切は昼頃に帰ると書かれていた。
「ひげきりが、帰ってくる」
帰ってきたら、彼はどんな話をするだろうか。それとも、疲れて寝てしまうだろうか。たしか、髭切は昨日の夕方から帰ってきていない。所謂、夜を通してのお仕事のはずだ。
彼が帰ってくるのが見えないかと、主はベランダの窓を開く。夏の日差しがカッと照りつけ、主の柔らかな肌を焼いた。
「もういいかーい」
どこかでかくれんぼでもしているのか、子供の声がはっきりと聞こえる。
マンションの五階という高さがあるにも関わらず、道の雑踏や車が通る音、子供の話し声などは意外と上にまでしっかりと聞こえてくる。音は上に上がるものなのだと、最近気が付いたほどだ。
それでも、昼下がりという時間帯もあって住宅街は閑散としている。背が低いのでベランダから直接覗き込むことはできないが、のぞき穴のような隙間から見える道路に人の気配は薄い。
夜は人通りが少ないから危ないという話はよく聞くが、こういう真昼間のエアポケットのような時間に何をしていても、存外誰も見ていないのではないかと主は思っていた。
「もういいかーい」
もう一度、呼びかけがする。返事はあるのかもしれないが、主の耳には届かなかった。誰と遊んでいるのかは知らないが、返事をしてあげればいいのにと、主は取り留めも無く思考を遊ばせる。
髭切と膝丸。刀の『つくもがみ』という、人間ではないらしい彼ら。しかし、主にとって、彼らは自分とは違う生き物だとは到底思えなかった。
確かに、主の知っている『普通』と違う所はあるかもしれないが、笑ったり怒ったり悲しんだりしている姿は、自分と何ら変わりない。
「……お腹が空く所も」
髭切も膝丸も体を動かす仕事をしているらしく、帰ってくると大体何か食べようと提案する。これから帰ってくる髭切も、もしかしたら何か食べようと提案するかもしれない。
「おやつ、買ってきてくれたらいいな」
淡い期待を抱いていると、再び「もういいかーい」と道路から声が聞こえた。どうやら、まだかくれんぼの鬼は動けていないようだ。
「まーだだよー」
小声で、主は返事をする。どうせ、かくれんぼの鬼には聞こえていまい。単なる暇つぶしのような返事だ。
その返事が終わるのを待っていたかのように、玄関がガタガタと揺れる音がした。髭切が帰ってきたのかと、主はベランダから部屋に戻り、窓を閉める。
「ひげきり?」
呼びかけること、数秒。しかし、髭切が入ってくる様子はない。
ドアを風が叩いたのだろうかと、主は廊下から玄関に向かう。しん、と静まりかえった玄関口には、人の気配は全くしなかった。
「気のせいかな」
そろーっと玄関口から離れると、再びガチャガチャと今度はドアノブが動いた。ぎくりとして、主はその場に硬直する。
やがて、今度はがりがりと鍵が押し込まれる軽い音がしたと同時に、がちゃりと施錠を表すつまみが回った。
ぎい、と軋みを上げて扉が開く。その向こう側にいたのは、
「ただいま。いやあ、今日も蒸し暑いねえ」
「……ひげきり?」
涼しげな半袖のシャツに、さらりとした淡い色合いをした薄手のショールをかけた髭切の姿が、そこにあった。
肩にかけている刀も含めて、いつも通りの仕事に向かう装いである。
「どうしたんだい。驚いたような顔をして」
「さっき、音がした」
「僕の足音かい?」
「……かも、しれない」
だが、髭切が鍵を差し込んで部屋に入ってくる前に、ドアが揺れた気がしたのは確かだ。髭切は施錠されていることを知っているだろうから、鍵を使う前に扉をがたがたさせる必要はない。
やはり風だろう、と主は一旦の結論を出す。
「それよりも、主。暑かったからアイス買ってきたんだけど、一緒に食べるかい?」
髭切はケーキを入れるのに使うような、真っ白の箱を主に見せた。主はぱちぱちと何度も瞬きをした後に、すぐさま首を縦に振る。先程まであったドアへの懸念など、すぐさま頭から吹き飛んでいた。
***
主が予想していたように、昼餉こそ食べたものの小腹が空いたからと言って、髭切はカップのアイスを机の上にいくつか並べた。以前、箱で買ってきたアイスが冷蔵庫に残ってはいるが、同じものばかりだと飽きるというのが髭切の言だ。
「主は、何をしていたんだい?」
スプーンで大ぶりのカップアイスの縁を突き崩しつつ、髭切は主に問いかける。
「本、読んでた。あと、色々」
「色々?」
「寝てたり、外見てたり……絵、描いたり」
「長義から聞いたんだけど、主ぐらいの子供は遊び回ってるものじゃないの?」
長義というのは、髭切と膝丸の話に時々出てくる人だとは主も知っていた。きっと、彼らの仕事を一緒にしている友達のようなものなのだろう。
「遊び……も、少しは。でも、一人だから」
主の知っている遊びは、どれも一人でできるものではない。
かけっこも、鬼ごっこも、かくれんぼも、だるまさんが転んだも、昔やったときはいつも誰かが側にいた。それは親と呼べる人だったかもしれないが、今はそのことは考えるつもりはない。
「一人だとできないんだ」
「うん」
「じゃあ、僕らの所に来るかい?」
「えっ」
唐突な誘いに、主はびくっとする。
主にとって、外の世界は未知の世界だ。別に、外に出たことがないわけではない。先日は、落ち込む膝丸を励まそうと、河原に四つ葉のクローバーを探しに行ったこともあった。
けれども、余程の理由がない限り、ふらっと外に出て何かをするという気持ちにはなれない。外に出ようとしたら、ひどく怒られた││という経験が、少年の心に暗い影を落としていた。
「あー、でも、主を連れて行ったら、また鬼丸に何か言われちゃうかもなあ」
「…………そう、なんだ」
ふわふわと自由気ままに話題を切り替える髭切に、主は必死に思考を追いつかせる。毎度のことだが、彼の話題は聞き手が軌道修正しないと、雲のようにどこかへと行ってしまう。
それからも、髭切のころころ変わる話に、主は適当な相槌を打っていた。
膝丸が兄と別々の任務に行くと、露骨に嫌そうな顔をすること。それと同じくらい、長義という人が髭切を目にするだけで、何かに耐えるようなしかめ面をすること。
鬼丸という怖い顔の上司がいるのだが、彼が最近弁当を差し入れされているらしいこと。膝丸と夏の服をもっと買いに行こうと話をしていること。
話の半分以上が膝丸の話なのは、兄弟だからそういうものなのだろうと、主は特に気にしていなかった。
もっと言えば、膝丸の方が兄のことを話題にすることが多い。
「それで、今日は何だかとっても暑いなあって思ったから、アイスを買って帰ったんだよね」
「冷凍庫にも、まだ入ってるよ」
「あれも後で食べるから大丈夫。そうだ。これ、食べ終わったら、何か遊びをするかい?」
髭切の突然の申し出に、主はぱちぱちと高速の瞬きを繰り返す。一瞬、何かの聞き間違いか幻聴ではないかと思ってしまったほどだ。
「遊ぶ? ……ひげきり、と?」
「うん。とはいえ、僕は主の『遊ぶ』が何をすることかは、よく知らないんだけど」
途端に、主の頭の中にはぼんやりと様々な遊びが浮かんで消える。鬼ごっこに、だるまさん転んだに、かけっこ。ただ、この遊びは広い場所が必要だ。それに、大人の彼が本気で走ったら、主は到底太刀打ちできない。
そのとき、ふと先だっての呼び声を主は思い出した。
ベランダの向こうに響いた「もういいかい」というかけ声。あのかけ声を使った遊びなら、髭切とも互角に渡り合えるかもしれない。
「かくれんぼ……とかなら、ここでもできるかも」
「かくれんぼ?」
「片方が隠れて、鬼が探す遊び」
「鬼?」
髭切の片眉が、ひょいと持ち上がる。嫌悪というほど露骨ではないが、何かよくないものを見つけたときの表情だ。そういえば、彼らはお化け退治のような仕事をしていると、主は以前に教えてもらっていた。
ひょっとしたら、鬼もお化けの一つとして警戒しているのかもしれない。
「……ええと、見つける人のことを、鬼って言う。他の遊びでも、鬼は見つけたり、追いかけたりする人
「ふうん。まあ、確かに鬼は襲う側だものねえ」
何やら物騒なことを口にしてから、髭切は溶けかけの一欠片をひょいと口の中に放り込んだ。
***
「もういいかーい」
「まーだだ、よー」
玄関付近から聞こえる髭切に返事をしつつ、主は居間や寝室を右往左往する。かくれんぼをして遊んであげよう、という髭切の気ままな提案に乗ることにした主は、まず髭切に鬼をやってもらうことにした。
遊びを知らない彼に、いきなり隠れろと言われても面食らうだろう。それなら、自分が手本を見せようという気持ちで、主は慎重に隠れ場所を探す。
小柄な主の目線から見れば、部屋の隠れ場所は存外に多い。和室の押し入れに潜り込めば、押し入れを開かない限りは隠れていられる。寝室の毛布の中に身を潜めるのも、悪くないかもしれない。
居間の机の下、お風呂場の中と、主は適当な場所をいくつか行ったり来たりする。
いくつかの隠れる場所の候補を見つけた主は、髭切がちゃんと目を隠して数を数えているかを確認しに行った。その途中で、彼はぴたっと足を止める。
(そういえば……この部屋、入ったことなかった)
髭切たちと生活を始めてから、主は大体の部屋には足を踏み入れていた。和室に寝室に、ちょっとした家財と使うのかも分からない家電製品やら何やらを詰め込んだ倉庫のような部屋。
だが、この玄関をあがってすぐの所にある部屋には、足を踏み入れたことがない。いつも扉が閉まっていたというのもある。だが、そもそも主はこの部屋の存在を意識したことが殆どなかった。
まるで、そこが壁であるかのように、主はいつも素通りしていた。恐らく、膝丸もそうだ。髭切にとってはどうなのかは、後で聞けば分かるだろう。
(入れるのかな)
主はそろりと扉の取っ手に手をかける。だが、軽く力をかけても、取っ手が動く気配はなかった。
少し下を見れば、その理由は一目瞭然だった。どうやら、この部屋は外側から鍵がかけられるようになっているらしい。
ともあれ、鍵がかけられた部屋に入るのは不可能だ。主はここに入る選択肢を一旦棚上げする。
「もういいかーい」
「まだ、まーだだよ」
髭切の呼びかけに応じながら、主は再び奥の和室まで戻る。髭切が仕事終わりに刀掛けに置いた刀と、壁に沿うようにして置かれたクローゼットが彼を出迎えた。主は押し入れとクローゼットを暫く交互に見つめてから、押し入れを選ぶ。
クローゼットという服をかけた場所に体を潜り込ませることへの抵抗感が、主に二の足を踏ませた。あの二振りが服が汚れたといったことで怒るようには思えないが、困らせるのは本意ではない。それなら、押し入れに入る方が余程良い。
和室の襖の戸を開き、主は忍び足で中に入る。そこには、冬用の布団がいくつか布団用の収納ケースに入っていた。
昼であっても光が差さない上に、埃っぽい所もあるが、かくれんぼの間ぐらいなら我慢できないこともない。主なら身を屈めれば十分に入るだけの空間もある。
「よいしょ」
布団と襖の隙間に入るように体をねじ込み、開けた襖をそーっと内側から閉める。
外の気配を探るためにも、主は指先が入るぐらいの幅だけは残しておいた。見当違いな所を探す鬼を見ているのも、隠れる側の特権だ。
「もういいかーい」
「もういいよー」
返事をしてから、主は小首を傾げる。
(さっきの声、髭切の声と違ってたような)
***
髭切は自分の顔を覆っていた手を下ろし、周囲を見渡す。彼が今立っているのは、丁度玄関にあたる位置だ。主がこの辺りにいないだろうということは、最初から予想がついていた。
いくら目を隠していても、自分の周囲でうろうろされていては、髭切も流石に気が付く。
「この僕が、鬼役だなんてねえ」
たとえ役目の名前と分かっていても、不思議な心地だ。本来、自分は鬼を討った刀であったはずなのに。
感慨に耽りながら、髭切は部屋へとあがる。玄関の近くにある部屋には、いつものように鍵がかかっていた。ここに主が入ることはないだろうとは、髭切も承知していた。
「さてさて、どこに隠れたのやら」
キッチンを覗き、居間を一通り見渡した髭切は、そこでぴたりと足を止めた。目を眇め、彼は慎重に辺りの空気を読み取ろうとする。
耳の端を、たったったと子供が駆け回るようなような足音。それが、髭切が捉えたものの正体だった。
この部屋の隣は空き部屋になっている。上下共に、人は住まわせてないと、髭切は政府の者からこの部屋を宛がわれたときに聞いていた。だから、住居人の物音が響いたとは考えにくい。
怪異に絡む仕事をする以上、よからぬものを憑けて帰ってくるかもしれないから、と気を利かせてくれたおかげで、髭切たちは近所の騒音問題とはある程度無縁でいられた。
(まあ、それはともかくとして。僕らがいるから、普通は低位のあやかしは入ってこられないはずなんだけど)
髭切と膝丸というあやかし退治の刀は、それ単体だけで強烈な魔除けになる。幽霊がふらっとこの建物内に入るのは困難のはずだと、彼は思っていた。
(あるいは、この建物自体が曰くがある土地に建てられていた場合は別なのかな。まあいいや。今、気になるのは)
とっとっと、と軽やかな足音が廊下を響く。今度は、よりはっきりと。
「││何か、主が招いちゃったのかな」
普通は入れないような場所に、あやかしが入り込めた理由。考えられるとしたら、こちらが不注意で招いてしまった場合だ。
さてどうしたものかと、髭切は柳眉を顰める。
彼が思考している間にも、足音は不規則にあちらこちらを彷徨っていた。キッチンのフローリングに敷いたマットを踏みしめる柔らかな音。風呂場のタイルを踏みしめる、ぺちぺちという高い音。
そして。
││ざり、と。
足音は、畳のい草を踏んだ音に変わっていた。
***
かくれんぼは、鬼の方はともかくとして、隠れる方は存外に暇な遊びだ。何せ、隠れる側は見つからないことに主眼を置いているために、見つける側が来なかった場合、ひたすらに時間を持て余すことになる。
かといって、下手に動けば鬼に見つけられてしまう。それでは本末転倒だ。鬼が飽きて帰ろうものなら、残された側は置き去りにされてしまう。流石にそんな経験はした覚えがないが、もし髭切が飽きて探しにこなくなったらどうしよう、と主は薄らと不安を抱いていた。
(ちゃんと探しにきてるよね……?)
暗い所でじっとしていると、耳が普段より良くなったような気がする。そのおかげか、髭切がフローリングの床を踏みしめ、僅かに軋ませる音を耳が拾っていた。彼は今、居間を探し回っているのだろう。
数分ほど間を置いて、今度はその足音が畳を踏む音に変わる。主の心臓は、見つかるかもしれないという状況に、高揚と緊張が合い混ざった高鳴りを響かせていた。
(ひげきりは、見つけられるかな)
足音は、遠ざかったり近くなったりを繰り返している。髭切にしては小刻みな足音に聞こえるのは、彼が歩幅を狭めて歩いているからだろうか。
探し回る髭切の様子を窺おうと、主は少しばかり開けていた襖の隙間に顔を近づける。だが、角度が悪いのか、髭切の姿は見当たらない。
一分ほど経った後に、ぴたりと足音が止んだ。次いで、主は襖の向こうに気配を感じていた。きっと、髭切の気配だろう。襖の隙間からも、誰かの影が見てとれた。
だが、不意に隙間が真っ暗になる。今までぼんやりと見えていた景色が、突如照明が消えたかのように黒に染まった。
「…………?」
最初、主はそれが何かが分からなかった。だが、瞬きを数度繰り返し、彼は理解する。
「││││!!」
それは、目だ。
白目すら全て埋めるような黒々とした目が、じーっとこちらを見つめている。襖の隙間に瞳を押しつけ、こちらを探している。
一瞬遅れて、体中の産毛が全て逆立つような寒気に襲われた。慌てて襖の奥に逃げ込もうとしても、所詮は押し入れの中。背中はすぐに押し入れの最奥にぶつかってしまう。
ず、ずず、と襖が開いていく。その向こうに何がいるかなど、主派に到底想像できない。ただ、突然のことへの驚きと、未知に対する不可解な恐怖が体中に満ちていた。
焦らすかのように、ゆっくりと動いていた襖。しかし、突如それが勢いよく開け放たれる。
「││ひげ、きり?」
開かれたその先にいたのは、髭切だった。すぱん、と開かれた襖の向こうでは、見慣れた青年がこちらを見て微笑んでいる。
「主、みーつけた」
かくれんぼの鬼としての勝利宣言に、主はぽかんとしてしまった。あの正体不明の目を見た瞬間、自分がかくれんぼをしていたことすら、一瞬頭の中で吹き飛んでいたからだ。
「これで、主が負けたことになるんだよね?」
「う、うん……ぼくの、負け」
「よし、それならこれは僕の勝ちだね」
鬼である髭切に見つけられてしまったのだから、これは敗北と言って遜色ない。髭切はきょろきょろと辺りを見渡してから、言葉を続ける。
「もう一度、やってみようか。今度も僕が鬼で」
そこまで髭切が言いかけたときだった。
││もういいかーい。
言葉の間隙を縫うように、子供の声が響く。間延びをした、子供らしい甲高い声。無論、主の声ではない。
││もういいかーい。もういいかーい。
こちらを急き立てるように、もう一度呼びかけが続く。きゃらきゃらと笑い声が間に挟まれているものの、愛嬌というよりも、こちらをからかっているように聞こえた。
「まあだだよ」
返事をしたのは髭切だった。すると、もういいかいの連呼がぴたりと止む。だが、これであの謎の呼びかけが止まるとは、主には到底思えなかった。
「主、この家に誰か入れた?」
髭切の質問に、主はぶんぶんと首を横に振る。その間にも、正体不明の呼びかけがどこから来るのかと、主は不安げに周囲に視線をやっていた。無論、姿はどこにもない。
「じゃあ、何か呼びかけに応じたことはなかった?」
「ない……あ、でも」
言いながら、主は顔面蒼白になっていく。それは、単に自分が原因ではないかと気が付いたからではない。それを口にすることで、髭切の怒りを買うのではないかということへの恐れだった。
「でも?」
「でも……外で、かくれんぼをしてる子供みたいな声がして。それで、もういいかいって言ってたから、まだだよって」
「ああ、なるほどね。そのせいで、こっちに来ちゃったのか」
髭切は合点がいったと頷くが、主には彼がどんな理屈で納得しているかは分からない。彼にとって重要なことは、髭切にとって迷惑なことを自分がしてしまったのではないか、そのせいで叱られるのではないか、ということへの懸念だけだった。
ぶるぶる震えている主の頭に、髭切の手が伸びる。反射的に主が目を瞑るも、その手は彼の頭に載せられただけだった。
「ひげきり、さっきの声は」
「うん。多分、かくれんぼがしたいお化けが来ちゃったみたいだね」
お化けと聞いて、髭切はびくりと肩を跳ねさせる。襖ごしに目を合わせてしまった、あの黒々とした目の正体は、髭切のいう『お化け』なのだろう。そう聞くと、主もすんなりと納得できた。
「じゃあ、かくれんぼの続きをしないとね。鬼は、あの誰かさんで、逃げるのは僕ら。主は、絶対誰にも見つけられないような場所に隠れてもらえるかな」
「見つけられないような場所って……?」
「お化けでも入ってこられないような場所」
そんなことを言われても、主には皆目見当がつかない。髭切が見つけられない場所なら何となく想像もつくが、お化けでもとなるとまた話は別だ。もし、あの真っ黒の目の持ち主がお化けだというのなら、あんな恐ろしいものから逃げられるものなど、なさそうに思えた。
そこまで考えて、ふと主は思い出す。
「鍵がかかってた、あの場所は?」
玄関をあがってすぐの所にある扉。あそこには鍵がかかっているから、幽霊でも入れないのではないかと主には思えた。
「ああ、あそこね……。まあ、いいか。確かに怪異相手に閉じこもるにはうってつけだ」
髭切も納得してくれたようで、うんうんと頷く。次いで、和室にある刀掛けに向かった髭切は、自分の本体である太刀の側に置かれていたものを手にとった。
それは、主の小さな手でも握れそうな、小ぶりの刀が置かれている。正確には祭事用の鉾鈴に似たそれを手に取ると、髭切はぞんざいな手つきで主に渡した。
「……これって」
「お守り。一応、何かあったときのためにね」
続けて、彼は時折「まーだだよ」と返しながら、居間に据え付けられた戸棚に向かう。引き出しのいくつかを開いた後、髭切はその中から鍵を取りだした。
今度は件の部屋に向かい、鍵を差し込む。鍵はすんなりと錠の中に収まり、ガチンという軽い音と共に扉は開いた。
「弟には、この部屋のことは内緒ね」
「……うん」
その理由が何故かを、主は聞かない。単に、自分が世話になっている相手には逆らわないという、物心ついた頃から染みついた思考があったからもある。
だが、たとえそれがなかったとしても主は聞けなかっただろう。
こちらに向けて薄く微笑む髭切の凄みは、質問をしようとする心を挫くのに十分過ぎるものだった。