本編の話
***
「兄者、本当に申し訳ない!!」
「おや、どうしたんだい」
部屋に入ってきた髭切は、百面相の弟を見る羽目になっていた。
最初こそ、兄に出会えた喜びに顔を輝かせていた膝丸は、すぐさま顔を蒼くして、今度は布団に深々と頭を埋めて謝罪の意を示してみせていた。そのまま頭が起き上がってくる様子はない。
「……兄者に刀を向け、斬りかかったと聞いた」
「それを、お前は事実だと思うのかい?」
「違うのか?」
一縷の望みを得て、がばりと膝丸は顔を上げるが、
「いや、確かに僕はお前に斬りかかられたけれど」
兄にとどめを刺される形になってしまい、膝丸は再び項垂れる。
髭切にとって、主に出会うまで唯一気に掛けていた相手が弟の膝丸であるのと同じように、膝丸も髭切を己の世界においてもっとも重く見るべき人物として見做していた。
お互いが唯一無二の存在であるために、向ける感情の重さの比重も他人のそれとは大きく違う。そんな相手に斬りかかってしまったという事実は、膝丸の心を沈ませるには十分過ぎた。
「お前が正気じゃ無かったことには、気が付いているよ。あの花は理性を奪う効果もあったからね。きっと、そのせいで我を失ってしまったんだろう」
「そうかもしれぬが……すまなかった」
「うんうん。謝罪はもうお腹いっぱいだから、頭を上げてくれるかな?」
このままでは、折角顔を見に来たのに、頭を下げている弟の後頭部ばかり見ることになってしまう。髭切から許可を貰えたからか、膝丸は恐る恐る顔を上げた。
髭切が見る限り、弟の象牙色の肌に百合の花の名残はどこにもない。一見すると健康そのものであり、これから着替えて共に退院してもいいのではないかと思うほど、膝丸の様子は平素と何ら変わりなかった。
「体調はいいのかい?」
「ああ。気絶する前に百合の花を吐いてしまったが、あれ以後は一度も吐くような兆候はない。恐らくは、あの景趣の大本に繋がっていた者を俺が排除したことで、異変が取り除かれたのだろう」
「それならいいんだけど。お前はすぐに無茶をしてしまうから」
髭切はふ、と言葉を句切り、膝丸をじーっと見つめる。
自分と同色の瞳に、鏡合わせのようにそっくりの目鼻立ち。よくよく観察すると、表情にはほんの少しぎこちなさがある。恐らく疲労が残っているせいだろうが、ここで休み続けていれば、それも自ずと消えていくだろう。
「あの景趣は、一体何だったのだろうな。俺の所にも兄者が書いた報告書が届いていたが、結局何が原因かは判明しておらぬのだろう? 景趣のシステムに追加された本来の百合の景趣も、問題なく稼働していると聞く」
「たしかに原因ははっきりしていないんだけど、一応気になる部分があってね。丁度いいから、その話もしておこうか」
髭切は携帯端末を軽く操作して、膝丸にも見えるように、ホログラムを空中に表示する。そこには、今回の怪異が齎した被害が詳細に記されていた。
『刀剣男士三十四振りの刀剣破壊に関与している見込み。うち、審神者名〈雪雫〉の本丸に所属する全刀剣男士二十四振り。他八振りについては現在所属する本丸が判明しており、残り二振りについては、今回の景趣との関連を調査中。こちらについては、刀剣本体については現時点では見つかっておらず』
『死亡者は三名。政府に所属する職員二名。審神者が一名。一名は全身に百合の花を生やした状態で亡くなっていることを発見。一名は刀傷がつけられた状態で発見。審神者については、遺体は発見されず。調査員の証言により死亡と断定』
つらつらと並べられた文字の羅列を、膝丸ももう一度目で追う。
これは、事件の後に髭切と長義が受けた聴取や作成した書類、ならびに現在進められている調査を元にまとめられた報告書だ。膝丸も何度か目を通しており、昨晩確認したときより、調査中の刀剣男士の数が一振り減っている以外には目新しい事柄はない。察するに今も捜索が進み、新たに遺骸――刀の残骸が発見されたのだろう。
百合に完全に蝕まれて幽鬼のようになっていた刀剣男士は、景趣の影響が解けた後、人の姿を保てずに刀の状態で発見されていると連絡があった。そのせいで、景趣内に残った刀の捜索に難儀しているようだ。再顕現の知らせは未だ届いていないので、折れておらずとも、やはり魂は破壊されてしまったといったところだろう。
「ところで、これの何が気になるのだ?」
痛ましい事件ではあるが、今更確認し直すほどの情報もない。不思議に思って膝丸が問うと、髭切は死亡者三名の部分に指先を押し当てた。
「ここがおかしいんだよ」
「全身の百合の花を生やした状態で見つかった者は、俺たちを謀ろうとした女人のことであろう。刀傷がついた者とは、報告にあった地蔵行平が誤って殺害した職員で間違いあるまい」
前者についての殺害理由は、怪異と化した審神者が己の巣に招くための手駒とすり替えようと、事前にお目付役の彼女を排除したものと考えられる。後者については、怪異によって引き起こされた悲劇と言うしかない。
唯一審神者としての被害者である雪雫は、不運にも景趣に紛れ込んでしまい、弱っていた心が怪異に耐えきれずに狂気に墜ちた。結果、人の体すら残せずに散ってしまったが、彼女が死亡していたことは間違いないと、目撃者の長義も証言している。
「何か不自然な点があるのか?」
「うん。だって、この怪異が脅威として見られるようになったのって、話をしていたネットワーク上のやり取りで、とある投稿があったからだよね。景趣から、知り合いが戻ってこない――って」
無論、その知り合いが刀剣男士だったという可能性も大いにありうる。或いは、政府の職員や担当官のことを知り合いと表したのかもしれない。
だが、大概の審神者にとって『知り合い』という表現をするのは、特に審神者同士のやり取りでそのような呼称を使うのは、同じ審神者に対しての場合が多い。
そして、もし戻ってこないということが、即ち死を意味していたのなら。その『知り合い』が犠牲者として勘定されていなければおかしいと、髭切は語る。
「勿論、杞憂の可能性もあるけどね。ちょっとだけ気になったから、誰がその投稿をしたのか調べてほしいって一文字則宗に頼んでみたんだ」
「何か分かったのか?」
「うん。結構面白いことが」
百合の景趣について投稿されている場所――掲示板と呼ばれていたサイトは、審神者だけが情報をやり取りできる場所とされている。公的な場ではないものの、一応政府も管理しているサイトだ。そこに接続して投稿するには、審神者用に渡された端末を使わなければいけないように作られている。
これは、民間人が審神者の情報を覗き見るようなことがないように、或いは逆に審神者が民間人に情報を流せないようにするための処置らしい。
則宗から聞いた話によると、審神者用の端末にはそれぞれ個別の暗号が割り振られている。その結果、誰が投稿をしたのかを後から辿ることは、システム管理者からすると比較的容易であるそうだ。
たとえ審神者同士であったとしても、不適切な発言をした者を監視する意味合いも含めて、このようなシステムにしているのだろう。
「それで、どこの審神者がそのような不審な投稿をしたのだ」
「個人情報になるから、対象者が誰かを僕らから調べるのには、もの凄く複雑な手続きが要るんだって。でもね、現在の使用状況だけはすぐに分かってね。それが、こういうことなんだよ」
髭切は則宗から今朝貰ったばかりの則宗の報告を、膝丸に突きつける。
「……何だ、これは。そんなことがあり得るのか?」
「普通はあり得ないよ。こういう状態になったら、端末は回収されるものだろう? 場合によっては、壊されちゃってるかも」
「この端末の位置を、こちらから確認できないのか?」
「探知は頼んでいるみたいだけど、どういうわけか逆探知が上手くいかないそうだ」
膝丸は兄が提示した情報を凝視する。
則宗の報告は、忙しいためかとても簡単な数行の文章だけだった。
『この投稿をした者の端末は、現在も使用されている正規利用端末の番号から除外されて欠番になっている。ちなみに、審神者の任を途中で抜けた場合は、除外されずに別の審神者がそのまま引き継ぐ。除外されるのは』
――審神者の任期中に、死亡した場合のみ。
「つまり、あの投稿は死人が書いたと? 幽霊と化した状態で、そこまでのことができるのか」
「そうだね、あり得なくはないかもしれない。或いは、死んだと思われてるけど、実は生きてたってことなのかもしれない。何かの誤りで、間違って死亡扱いになっているだけなのかもしれない。はたまた、時間遡行軍が端末を強奪して所持しているとか……その辺りの調査は、則宗に丸投げしてきたよ」
監査室はここまで深く調査をするための部署ではないと、則宗には散々渋い顔をされたのだが、髭切は素知らぬ顔でそれらの面倒ごとを全て彼に押しつけてきた。
それを言うなら、こちらだって怪異の調査が専門で、不審人物が端末を不正操作したかもしれない件などは完全に門外漢だ。
「兄者の言うように、端末の持ち主が別人にすり替わっているのかもしれないな。或いは、もし刀剣男士が生き残っていたのなら、死んだ審神者の端末を持ち出している可能性はあるのではないか」
「おお。それはありそうだね。後で聞いてみるよ」
主の遺品を持っていたとして、何故怪異現象に面白半分で首を突っ込んでいるのかは不明だが、可能性を潰して行くしか答えには行き着けないだろう。
何から何まですっきりしない怪異だったと、膝丸はぎゅうっと眉を寄せる。彼は暫く考え込む素振りを見せてから、
「……兄者、先日の鏡の件について、覚えているか」
「覚えてるよ。どこかの審神者が作った怪談が好事家の間で広まって、存在しないはずの鬼が鏡に潜んでいた話だよね?」
膝丸に問われるまでもなく、これも比較的最近の話だ。忘れたくても忘れられそうもない。何せ、刀剣男士と同じく、逸話が実像を得て襲いかかってくるという経験を髭切自身が体験したのだから。
「あのときも、大本の怪談を話した審神者は二、三年前に死亡したと聞いただろう」
「ああ、そういえば。もしかして、同じ審神者じゃないかって言いたいの?」
膝丸は無言で頷く。
二、三年前という言葉がどれほどまで正確かは分からないが、少なくともここ数年の間に亡くなった審神者の内の誰かが、ここ最近二振りが関わった怪異にやけに絡んでいる。これは何かの手がかりになるのではないかと、膝丸は予想していた。
「則宗の話によると、最初は百合の景趣はあくまでシステムが予定外に漏洩しただけだった。だが、この投稿があった頃からおかしさを帯び始めた――と話していた」
「順序が逆だと言いたいのかい?」
「ああ。この正体不明の誰かが『知り合いが戻ってこない景趣の物語』を広めたことで、今回の魔境の如き景趣が生み出されたとも言えないだろうか。さながら、あの鏡のときのように」
怪異が起きる原因は様々ではあるが、大体はそれらしい『切っ掛け』が存在することで生じる。
最近巻き込まれた例なら、祟り神に変じかけた古い山神が起こした神隠しや、山奥に古来から隠れ住む妖怪の如き存在が起こした憑きものの事件が代表的だ。
だが、この百合の景趣については、結局はっきりとした黒幕が見えなかった。
巻き込まれた当初は何らかの意思が介在しているように思えたが、あれは怪異に呑まれた雪雫の行動がもたらした結果であり、彼女を狂わせた存在そのものではない。
刀剣男士や人間すらも、百合の花で飲み込まんとした景趣。そんな景趣に変化した原因だけが、判然としない。
無論、土地自体が死や災厄を招くように変じる例はあるが、そのような場合は、大体そこで人死にが起きたとか、罰当たりなことをしたとかといった引き金がある。膝丸はその引き金を、このネットワークの海にぽつりと現れた不穏な投稿から見出していた。
「物語は語られる内に、実在する形を得た存在となる。そのことについては、刀剣男士という存在が証明している」
逸話から生み出された刀剣男士たちには、後世に生きる人々が脚色した物語も少なくない。それを〈本物〉ではないままに飲み込み、形と成している刀剣男士がいるのなら。
実際は害のない景趣であったとしても、今を生きる人々が語る物語により、〈本物〉の怪異になる可能性も、なきにしもあらずだ。
「ただ……所詮、語られたとしても一ヶ月かそこらが関の山だ。俺たちを構成するような逸話は、何十年、何百年と語られてきたもの。本来なら、このような与太話の一つだけでは、到底現実にまで影響を及ぼせるとは思えないが」
「どうだろうね。この前、僕が憑かれたときも、大本の怪談を知っている人自体は少なかったようだよ」
政府の庁舎にある鏡に対して『作られた』怪談に付き纏われから、まだ一ヶ月も経っていない。髭切はそのときのことを思い出して、少し顔を歪める。
「たとえば、何らかの手順さえ踏めば、人や年月に関係なく現実への影響を与える逸話を生み出せる……とは考えられないか?」
「審神者ならできるのかなあ。僕らを励起する力があるくらいだもの。人間によっては、刀剣男士の声を勝手に聞き出す子もいるみたいだからね」
髭切たちの顕現にも使われた政府権限による顕現も、結局のところ、システムに審神者の代替をさせているだけだ。そのシステムも、審神者の力を借りて起動しているようなので、物が持つ物語を引き出す力というものは、特定の人間が強く保持していることは自明の理である。
逸話が濃く、システムとして体系化されている刀剣男士という存在以外に対して、その力が適用できるかについては未だ不明瞭な分野ではあるが。
「それについても、調査事項としてあげておくしかあるまい。我々だけでは判断しかねる。審神者の持つ特性や能力については、人事部や開発課の担当だろう」
「そうだね。僕ができることは、結局この辺りまで。後は則宗や他の人たちに、地道に調べてもらうしかないかな」
適当な所で言葉を締めくくりつつも、髭切はこの件に関してはあまり調査が進まないのでは、少なくとも自分の元に結果の報告が来ることはないのではと危ぶんでいた。
則宗曰く、百合の景趣の怪異を歓迎する人間も少なからずいるらしい。そんな人間にとって、今回のような怪異を生み出した者は、排除すべき敵ではなく懐柔したい逸材になるのだろう。
刀剣男士すら、容易く機能停止に陥らせることができる化け物を生み出せるのなら。
この政府という組織において、かなり強力な武器になることは間違いないのだから。
(もっとも、もしそんな人間がいるなら、それはもう人間じゃなくて)
――怪異そのものと、言えるのだろうけれど。
***
髭切が帰った後、膝丸は翌朝の退院まで落ち着かない時間を過ごしていた。
兄に何の不備もなさそうだったことには安堵したが、彼一人で家事――特に調理を一任させるのは、非常に不安が残る。膝丸が不在と知った主は、久しぶりに惣菜が食べたいと髭切に提案したようだが、十中八九、膝丸がいない状態で髭切をキッチンに立たせることに不安を覚えたからだろう。
「家が無事だとよいのだが……」
人間らしい生活をしていなかった頃は、住む場所が刀剣男士用の寮から民間人の集合住宅に変わろうが、刀を掛ける台が変わる程度の意味しかないと思っていた。
だが、人並みの生活をするようになれば、何かと愛着も生まれる。髭切が自ら壊すようなことはしないが、うっかりでやらかす可能性はゼロとは言い切れない。なまじっか、弟であるが故に確信してしまう。
「明朝、帰参したら冷蔵庫の中の物を確認せねば……。暑くなってきたから、兄者が氷菓子ばかり食べていないか注意も必要だろう。それと」
所帯じみた心配をつらつらと考えているとき、ふ、と胸の辺りに違和感を覚える。
あたかも、体の中心にあたる箇所に、何か異物が紛れ込んでいるかのような不愉快な感覚だ。
気のせいだろうか、と思うよりも早く、喉の奥が不自然な痙攣をする。咄嗟に口を押さえ、膝丸は自分が身を横たえていた寝台から降り、スリッパをつっかける暇さえ惜しんで手洗い場に駆け込んだ。時刻は深夜に近く、手洗い場に人の姿はない。だが、今はそれが幸いと言えたかもしれない。
綺麗に清掃された洗面台に向かい、膝丸は体を折って口の中から湧き出ようとする異物を吐き出す。
「……っ、ぉえ、げほっ」
口の端から、唾液と共に落ちたのは白い洗面台の上でも尚鮮やかに咲く、白百合の花びら。それも一つ二つに留まらず、十や二十の花が積もっていく。
花びらが洗面台に溜まっていくのと引き換えに、命を削られているかのように、どっと疲労が押し寄せてきた。体は自身が鋼の塊であったことを思い出させるかの如く重くなり、頭はずきずきと痛む。
立っていることすら辛くなり、膝丸は洗面台にもたれ掛かるようにして崩れ落ち、それでもなお終わらない吐き気にぎゅっと目を瞑って耐えた。
(終わって、いなかったのか……?!)
視界を闇に閉ざして、じっと堪えていると、ゆっくりと不愉快な感覚が波が引くように遠ざかっていく。けれども、完全に消えたわけではない。遠くで響く潮騒のように、違和感は残り続けている。
いつまた、このように津波のように押し寄せる不快な感覚に押しつぶされるか、分かったものではない。そして、それが続けば、致命的なまでに自分が自分でなくなってしまうという予測も容易に立てられた。
(何故だ。百合の景趣は既に崩壊したはず。兄者や長義、それに迷い込んでいた人間にも身体の異常は見られていないと聞いている。何故、俺だけが――)
そこまで考え、膝丸は思い至る。
自分だけが、あの景趣の怪物を物理的に斬っていた。あまつさえ、首魁と深く繋がっていた女も斬った。それは奇しくも、長義が至った結論と全く同じ結論でもあった。
膝丸は、斬ったあやかしを元に名を変えたことがある刀。また、名そのものを何度も転々と変えられてきたという逸話は、己の本質が移り変わりやすいとも捉えられる。
即ち、斬れば斬るほど、斬った対象に己の本質へと関わることを許し、自らの体が変化を許容してしまうのだと、彼は思い出す。
無論、その確率は決して高くはないと、膝丸は『経験から』知っていた。あやかし退治の逸話は、大抵の有象無象の怪異の影響をはね除けてくれる。
だが、確率が高くないということは、ゼロでもないということも、よく分かっていた。しかも、今回は斬らずとも刀剣男士に影響を与えていた。冷静に考えれば、これほどまでに自分たちにとって毒となる怪異は他にあるまい。
膝丸にとってこれはもう根拠のない推測ではなく、半ば確信の域に達した回答だった。
(……知っていたはず、だったのだがな。つい、気が緩んでいたのか)
怪異を斬っても、必ずしも己の身に劇的な変化が起きるわけではないと、甘く見ていたのだろう。先だって、神隠しに巻き込まれたときも、斬ったもののせいで刀は一度黒く汚れた。だが、気が付いたら刀身は綺麗に戻っていた。だから、今回もその程度と軽視していたのかもしれない。
「ともあれ、兄者が同じ目に遭ってなければよいのだが」
髭切が斬ったのは、山姥切国広という刀剣男士だけだと聞いている。それなら、兄はきっと無事だろうと膝丸はひとまず安堵した。
体は相変わらず動けないほどに気怠く、自分がこのまま体の内側から花に変えられてしまうのでは、という懸念は残っている。少なくとも、今の状態で日常に戻ることはできまい。兄を心配させてしまうだろうし、彼の足を引っ張ってしまう。
「さて、どうしたものか……」
まだふらふらする頭に手をやり、洗面台を片手で掴むようにして、己を引っ張り上げるように足を動かして立とうとする。
このまま蹲っていても何も始まらない。だが、どうにかしたいが、どうにかする方法が分からない。それなら、どうにもならないこの現状で、最低限できることをしなければ。
洗面台の鏡の向こうでは、ふらふらと立ち上がる己の姿が映し出されていた。顔は蝋のように白く、十分に寝たはずなのに髪の毛の艶は失せ、瞳もどこか濁っているように感じる。兄が来たのが昼でよかった――などと、引き攣れた笑みを浮かべたときだった。
シュッと、蛇の威嚇するような音が。
耳元で響いた。
「!?」
反射的に耳に手をやると同時に、支えを失ったふらついた体が再び床へと落ちかける。空いていた片手で辛うじて受け身はとれたが、壁に強かに上体を打って、息が詰まる心地がした。
「蛇……か?」
施設に蛇が迷い込んできたのだろうか。しかし、ここは上の方の階であるし、蛇が出たら人間は大騒ぎするはずだ。
何よりも不思議なのが――何故か、その音が人の言葉を操っているように聞こえた。
「いや、気のせいだろう。ついに耳までおかしくなってしまったのか」
苦笑交じりに呟くと、再び蛇の威嚇音が鼓膜に響く。
音としては確かに蛇の鳴き声だ。耳はそのように理解している。
だが、どういう理由か。その音に潜む意思が、膝丸にははっきりと分かった。
「どうにかしてやろうか……と言っているのか?」
再び、蛇の小さな声。これは肯定の意思を伝えている。
いったい何故、そんな音が聞こえるのかは分からない。理由だって、皆目見当がつかない。けれども確かなのは、その声が今まさに悍ましい白百合へと変貌しようとしていた体をどうにかできるらしい、ということ。
(このままでは、主の元にも帰れない)
それでは、あの少年はきっと悲しむだろう。
(このままでは、刀として与えられた命令を成し遂げることもできない)
それは、膝丸という刀としては死に等しい。
(何より、兄者を――悲しませる)
もし、万が一、自分がこのまま朽ち果てるようなことがあれば。髭切の心はどうなってしまうのだろうか。
顕現したときから、ただお互いだけを見ていた。
唯一無二の二振一具として在り続けた。
自分が消えた後、代わりの『膝丸』など兄は求めないだろうし、その結果、兄の心がどれほどの悲しみを覚えるかは、自分のことのように想像できる。
ならば。
「よかろう。どうにかできるというのなら」
得体の知れない声と交わす約定に、不審に思う点はいくらでもある。
だが、こちらは刀の付喪神。名のある刀を依り代とした神である以上、約定を破ったとしても、こちらが優位に動けるという確信もあった。何せ、縁切りは刀の専売特許のようなものだ。
そんな傲岸不遜とも思える了承の言葉と共に、膝丸は周囲へ慎重に視線をやる。
てっきり声の主が姿を見せてくるかと思いきや、それらしき気配は感じられない。
「……やはり、気のせいか」
身体の不調のせいで、思いがけなく心まで弱って、自分に都合の良い声を聞いたような気がしてしまったのだろう。情けないことだと、膝丸は自分を叱咤する。
床にへたりこんでいたおかげか、少しだけ気分も良くなってきた。今のうちに部屋に戻り、体を休め、その後は――
「その後は……話すしかあるまい」
下手に隠し事をして、後からバレるようなことがあったら、それこそ兄は気づけなかった己を責めかねない。
だが、欲を言うならば、己にこのような災いが降りかかってなどいなければよかったのに。忌々しげに睨んだ洗面台には、不気味な百合の花びらが小さく降り積もっていた。
***
闇。暗闇。深淵よりもなお深く、意識の底よりも更に昏い場所。
黒一色の世界を、ずるずると腹ばいになり、道なき道を進んでいく。
草原か、或いは川底か、はたまた水面か。いずこかも定かではない、道なき道を滑るように行く体に足はない。しかし、体をうねらせればずるずると進むことができると自分知っている。
手足を使うよりも――否、手足など元々ない。自分にあるのは、己の身のみ。それだけで風のように駆け抜けられるのだ。
薄暗い草原でも通り過ぎているのか、或いは夜の闇が周囲を包んでいるのか。辺りには大したものも存在しておらず、奇妙に寒々しい光景が続いている。それも仕方ないと、今は先を急ぐ。
とはいえ、どれだけ早く進めても、景色が変わらないのはやはり面白みがない。少し飽きを感じ始めた頃、白いものがぽつんと奥に光っているのが目に見えた。
いったい、あれは何なのだろう。不思議に思っていると、まるで引き寄せられるように体も動く。音もなく、しかし確かにそれに近づいている。
接近したことで、眼前にあるものの正体を知る。
それは、純白の百合。一本、凜と美しく咲き誇るそれは、しかしどこか作り物めいていて、禍々しくもあった。
本能的に、忌避感を覚える。あれをどうにかしたい、と体が動く。
更に距離を詰めると、滴り落ちる蜜をこぼさんばかりに咲く百合がよく見えた。艶やかな白い花びらと、ぷんと香る甘い匂いは、どこか蠱惑的で、魅力溢れるご馳走にも見えた。
その百合に誘われるように、ひょいと体の上半分を持ち上げる。あたかも接吻するように顔を近づけ、そして――ぐわりと口を開き、一口で呑み込んだ。
食した。食らった。
美味くはないが、しかしまずくもない。だが、足りない。もっと欲しい。これでは、喉の渇きすら満たされようもなく、腹が満ちるにはほど遠い。
見た目は美しかったが、これはまがい物だ。偽りと虚飾で作り上げられた、即席の化け物だ。だから、食らったところで大して満たされないのだろう。
こんなものではなく、己の中で糧になるものが欲しい。もっと、もっと、もっと。
声が響いている。もっと、と強請る■■の声が、自分と重なっていく。
いや、これは、そもそも自分だったのだろうか。自分は、こんな手足もない体で素早く動けるような姿をしていただろうか。
疑問を感じるよりも濃く、もっと欲しいという声だけが頭を埋め尽くしていく。
そうしなければ、喉が渇いて仕方ない。
そうしなければ、腹が飢えて苦しい。
そうしなければ、そうしなければ。
この忌ま忌ましい軛から解放されないのだから――――。
***
「弟、僕が来る何時間前に準備をしていたんだい?」
「二時間前だ、兄者。やれ手続きだ何だと忙しくてな」
二時間も前に片付けるほどの荷物もなかろうに、と髭切は肩を竦める。だが、後はもう二振り揃って帰るばかりだと思うと、気分も少しずつ上向いてきてもいた。
「弟、本当に体の具合は良いんだね?」
「兄者は随分と慎重なのだな。明朝の検査でも問題はなく、明日には仕事に復帰しろと鬼丸から連絡もあった」
「忙しないねえ。まあ、大丈夫そうならいいけれど」
言いつつ、髭切はざっと膝丸へと視線を走らせる。血色の良い肌に、澄み切った琥珀色の瞳。若葉に似た薄緑色の髪は、長すぎる休息のせいか、今日は妙に艶々しているようにすら見える。本人の言う通り、何の問題もないだろう。
手荷物を片手に、髭切は膝丸と共に廊下へと出る。朝の日差しが窓から差し込み、白い廊下はきらきらと光っているようにも見えた。
さっさと外に出よう、と髭切は歩き出したが、すぐにぴたりと足を止める。隣にいた膝丸が、進行方向の反対側に目をやった状態で静止していたからだ。
「……どうかしたかい?」
「ああ、いや――そういえば、昨晩は夜更けに一度目が覚めたような気がしたな、と思い返していた」
「おや、それはまたどうして」
「寝ぼけていたのだろう。俺も殆ど覚えていない。大方、外が騒がしかったとか、そういう理由だろうな。このような施設では仕方あるまい」
病院である以上、急患が運ばれれば相応に人が行き交い、足音や話し声が耳につく。普段は静かな部屋で寝ている分、この手の騒音にはついつい敏感になりがちだと、膝丸は苦笑した。
「それなら、帰ってから一度休むかい?」
「いや、それよりもだ。厨が破壊されていないか、確認する必要がある」
「心外だね。僕が厨を破壊するかのような言い草じゃないか」
「……すまぬが、あまり否定できぬ」
不服そうな髭切に曖昧な微笑で応じる膝丸。百合の景趣という不可思議な異界に取り込まれ、一時はどうなるかと思いはしたが、結果的には全ての事柄を解決し、何事もなく日常に戻れた。
今はただその平穏を噛み締めていようと、髭切は朗らかに笑ってみせた。
かくして、百合の景趣に纏わる事件は、数多の報告書の中に埋もれていく。
景趣システムは本日も順調に稼働し、多くの審神者や刀剣男士の目を楽しませる。
嘗て景趣に関する不吉な噂が流れていたなんてことは、あっという間に忘却の彼方に押し流されていった。
最初に噂を流した者が誰か、などということも忘れて。
ネットワークの海は、今日も他愛のない雑談と、ちょっとした豆知識と、ささやかな小競り合いが行き交っている。
そうして、己の名も顔も伏せて人々が語る場で、今日もまた。
新たな逸話が、そっと芽を出した。
「兄者、本当に申し訳ない!!」
「おや、どうしたんだい」
部屋に入ってきた髭切は、百面相の弟を見る羽目になっていた。
最初こそ、兄に出会えた喜びに顔を輝かせていた膝丸は、すぐさま顔を蒼くして、今度は布団に深々と頭を埋めて謝罪の意を示してみせていた。そのまま頭が起き上がってくる様子はない。
「……兄者に刀を向け、斬りかかったと聞いた」
「それを、お前は事実だと思うのかい?」
「違うのか?」
一縷の望みを得て、がばりと膝丸は顔を上げるが、
「いや、確かに僕はお前に斬りかかられたけれど」
兄にとどめを刺される形になってしまい、膝丸は再び項垂れる。
髭切にとって、主に出会うまで唯一気に掛けていた相手が弟の膝丸であるのと同じように、膝丸も髭切を己の世界においてもっとも重く見るべき人物として見做していた。
お互いが唯一無二の存在であるために、向ける感情の重さの比重も他人のそれとは大きく違う。そんな相手に斬りかかってしまったという事実は、膝丸の心を沈ませるには十分過ぎた。
「お前が正気じゃ無かったことには、気が付いているよ。あの花は理性を奪う効果もあったからね。きっと、そのせいで我を失ってしまったんだろう」
「そうかもしれぬが……すまなかった」
「うんうん。謝罪はもうお腹いっぱいだから、頭を上げてくれるかな?」
このままでは、折角顔を見に来たのに、頭を下げている弟の後頭部ばかり見ることになってしまう。髭切から許可を貰えたからか、膝丸は恐る恐る顔を上げた。
髭切が見る限り、弟の象牙色の肌に百合の花の名残はどこにもない。一見すると健康そのものであり、これから着替えて共に退院してもいいのではないかと思うほど、膝丸の様子は平素と何ら変わりなかった。
「体調はいいのかい?」
「ああ。気絶する前に百合の花を吐いてしまったが、あれ以後は一度も吐くような兆候はない。恐らくは、あの景趣の大本に繋がっていた者を俺が排除したことで、異変が取り除かれたのだろう」
「それならいいんだけど。お前はすぐに無茶をしてしまうから」
髭切はふ、と言葉を句切り、膝丸をじーっと見つめる。
自分と同色の瞳に、鏡合わせのようにそっくりの目鼻立ち。よくよく観察すると、表情にはほんの少しぎこちなさがある。恐らく疲労が残っているせいだろうが、ここで休み続けていれば、それも自ずと消えていくだろう。
「あの景趣は、一体何だったのだろうな。俺の所にも兄者が書いた報告書が届いていたが、結局何が原因かは判明しておらぬのだろう? 景趣のシステムに追加された本来の百合の景趣も、問題なく稼働していると聞く」
「たしかに原因ははっきりしていないんだけど、一応気になる部分があってね。丁度いいから、その話もしておこうか」
髭切は携帯端末を軽く操作して、膝丸にも見えるように、ホログラムを空中に表示する。そこには、今回の怪異が齎した被害が詳細に記されていた。
『刀剣男士三十四振りの刀剣破壊に関与している見込み。うち、審神者名〈雪雫〉の本丸に所属する全刀剣男士二十四振り。他八振りについては現在所属する本丸が判明しており、残り二振りについては、今回の景趣との関連を調査中。こちらについては、刀剣本体については現時点では見つかっておらず』
『死亡者は三名。政府に所属する職員二名。審神者が一名。一名は全身に百合の花を生やした状態で亡くなっていることを発見。一名は刀傷がつけられた状態で発見。審神者については、遺体は発見されず。調査員の証言により死亡と断定』
つらつらと並べられた文字の羅列を、膝丸ももう一度目で追う。
これは、事件の後に髭切と長義が受けた聴取や作成した書類、ならびに現在進められている調査を元にまとめられた報告書だ。膝丸も何度か目を通しており、昨晩確認したときより、調査中の刀剣男士の数が一振り減っている以外には目新しい事柄はない。察するに今も捜索が進み、新たに遺骸――刀の残骸が発見されたのだろう。
百合に完全に蝕まれて幽鬼のようになっていた刀剣男士は、景趣の影響が解けた後、人の姿を保てずに刀の状態で発見されていると連絡があった。そのせいで、景趣内に残った刀の捜索に難儀しているようだ。再顕現の知らせは未だ届いていないので、折れておらずとも、やはり魂は破壊されてしまったといったところだろう。
「ところで、これの何が気になるのだ?」
痛ましい事件ではあるが、今更確認し直すほどの情報もない。不思議に思って膝丸が問うと、髭切は死亡者三名の部分に指先を押し当てた。
「ここがおかしいんだよ」
「全身の百合の花を生やした状態で見つかった者は、俺たちを謀ろうとした女人のことであろう。刀傷がついた者とは、報告にあった地蔵行平が誤って殺害した職員で間違いあるまい」
前者についての殺害理由は、怪異と化した審神者が己の巣に招くための手駒とすり替えようと、事前にお目付役の彼女を排除したものと考えられる。後者については、怪異によって引き起こされた悲劇と言うしかない。
唯一審神者としての被害者である雪雫は、不運にも景趣に紛れ込んでしまい、弱っていた心が怪異に耐えきれずに狂気に墜ちた。結果、人の体すら残せずに散ってしまったが、彼女が死亡していたことは間違いないと、目撃者の長義も証言している。
「何か不自然な点があるのか?」
「うん。だって、この怪異が脅威として見られるようになったのって、話をしていたネットワーク上のやり取りで、とある投稿があったからだよね。景趣から、知り合いが戻ってこない――って」
無論、その知り合いが刀剣男士だったという可能性も大いにありうる。或いは、政府の職員や担当官のことを知り合いと表したのかもしれない。
だが、大概の審神者にとって『知り合い』という表現をするのは、特に審神者同士のやり取りでそのような呼称を使うのは、同じ審神者に対しての場合が多い。
そして、もし戻ってこないということが、即ち死を意味していたのなら。その『知り合い』が犠牲者として勘定されていなければおかしいと、髭切は語る。
「勿論、杞憂の可能性もあるけどね。ちょっとだけ気になったから、誰がその投稿をしたのか調べてほしいって一文字則宗に頼んでみたんだ」
「何か分かったのか?」
「うん。結構面白いことが」
百合の景趣について投稿されている場所――掲示板と呼ばれていたサイトは、審神者だけが情報をやり取りできる場所とされている。公的な場ではないものの、一応政府も管理しているサイトだ。そこに接続して投稿するには、審神者用に渡された端末を使わなければいけないように作られている。
これは、民間人が審神者の情報を覗き見るようなことがないように、或いは逆に審神者が民間人に情報を流せないようにするための処置らしい。
則宗から聞いた話によると、審神者用の端末にはそれぞれ個別の暗号が割り振られている。その結果、誰が投稿をしたのかを後から辿ることは、システム管理者からすると比較的容易であるそうだ。
たとえ審神者同士であったとしても、不適切な発言をした者を監視する意味合いも含めて、このようなシステムにしているのだろう。
「それで、どこの審神者がそのような不審な投稿をしたのだ」
「個人情報になるから、対象者が誰かを僕らから調べるのには、もの凄く複雑な手続きが要るんだって。でもね、現在の使用状況だけはすぐに分かってね。それが、こういうことなんだよ」
髭切は則宗から今朝貰ったばかりの則宗の報告を、膝丸に突きつける。
「……何だ、これは。そんなことがあり得るのか?」
「普通はあり得ないよ。こういう状態になったら、端末は回収されるものだろう? 場合によっては、壊されちゃってるかも」
「この端末の位置を、こちらから確認できないのか?」
「探知は頼んでいるみたいだけど、どういうわけか逆探知が上手くいかないそうだ」
膝丸は兄が提示した情報を凝視する。
則宗の報告は、忙しいためかとても簡単な数行の文章だけだった。
『この投稿をした者の端末は、現在も使用されている正規利用端末の番号から除外されて欠番になっている。ちなみに、審神者の任を途中で抜けた場合は、除外されずに別の審神者がそのまま引き継ぐ。除外されるのは』
――審神者の任期中に、死亡した場合のみ。
「つまり、あの投稿は死人が書いたと? 幽霊と化した状態で、そこまでのことができるのか」
「そうだね、あり得なくはないかもしれない。或いは、死んだと思われてるけど、実は生きてたってことなのかもしれない。何かの誤りで、間違って死亡扱いになっているだけなのかもしれない。はたまた、時間遡行軍が端末を強奪して所持しているとか……その辺りの調査は、則宗に丸投げしてきたよ」
監査室はここまで深く調査をするための部署ではないと、則宗には散々渋い顔をされたのだが、髭切は素知らぬ顔でそれらの面倒ごとを全て彼に押しつけてきた。
それを言うなら、こちらだって怪異の調査が専門で、不審人物が端末を不正操作したかもしれない件などは完全に門外漢だ。
「兄者の言うように、端末の持ち主が別人にすり替わっているのかもしれないな。或いは、もし刀剣男士が生き残っていたのなら、死んだ審神者の端末を持ち出している可能性はあるのではないか」
「おお。それはありそうだね。後で聞いてみるよ」
主の遺品を持っていたとして、何故怪異現象に面白半分で首を突っ込んでいるのかは不明だが、可能性を潰して行くしか答えには行き着けないだろう。
何から何まですっきりしない怪異だったと、膝丸はぎゅうっと眉を寄せる。彼は暫く考え込む素振りを見せてから、
「……兄者、先日の鏡の件について、覚えているか」
「覚えてるよ。どこかの審神者が作った怪談が好事家の間で広まって、存在しないはずの鬼が鏡に潜んでいた話だよね?」
膝丸に問われるまでもなく、これも比較的最近の話だ。忘れたくても忘れられそうもない。何せ、刀剣男士と同じく、逸話が実像を得て襲いかかってくるという経験を髭切自身が体験したのだから。
「あのときも、大本の怪談を話した審神者は二、三年前に死亡したと聞いただろう」
「ああ、そういえば。もしかして、同じ審神者じゃないかって言いたいの?」
膝丸は無言で頷く。
二、三年前という言葉がどれほどまで正確かは分からないが、少なくともここ数年の間に亡くなった審神者の内の誰かが、ここ最近二振りが関わった怪異にやけに絡んでいる。これは何かの手がかりになるのではないかと、膝丸は予想していた。
「則宗の話によると、最初は百合の景趣はあくまでシステムが予定外に漏洩しただけだった。だが、この投稿があった頃からおかしさを帯び始めた――と話していた」
「順序が逆だと言いたいのかい?」
「ああ。この正体不明の誰かが『知り合いが戻ってこない景趣の物語』を広めたことで、今回の魔境の如き景趣が生み出されたとも言えないだろうか。さながら、あの鏡のときのように」
怪異が起きる原因は様々ではあるが、大体はそれらしい『切っ掛け』が存在することで生じる。
最近巻き込まれた例なら、祟り神に変じかけた古い山神が起こした神隠しや、山奥に古来から隠れ住む妖怪の如き存在が起こした憑きものの事件が代表的だ。
だが、この百合の景趣については、結局はっきりとした黒幕が見えなかった。
巻き込まれた当初は何らかの意思が介在しているように思えたが、あれは怪異に呑まれた雪雫の行動がもたらした結果であり、彼女を狂わせた存在そのものではない。
刀剣男士や人間すらも、百合の花で飲み込まんとした景趣。そんな景趣に変化した原因だけが、判然としない。
無論、土地自体が死や災厄を招くように変じる例はあるが、そのような場合は、大体そこで人死にが起きたとか、罰当たりなことをしたとかといった引き金がある。膝丸はその引き金を、このネットワークの海にぽつりと現れた不穏な投稿から見出していた。
「物語は語られる内に、実在する形を得た存在となる。そのことについては、刀剣男士という存在が証明している」
逸話から生み出された刀剣男士たちには、後世に生きる人々が脚色した物語も少なくない。それを〈本物〉ではないままに飲み込み、形と成している刀剣男士がいるのなら。
実際は害のない景趣であったとしても、今を生きる人々が語る物語により、〈本物〉の怪異になる可能性も、なきにしもあらずだ。
「ただ……所詮、語られたとしても一ヶ月かそこらが関の山だ。俺たちを構成するような逸話は、何十年、何百年と語られてきたもの。本来なら、このような与太話の一つだけでは、到底現実にまで影響を及ぼせるとは思えないが」
「どうだろうね。この前、僕が憑かれたときも、大本の怪談を知っている人自体は少なかったようだよ」
政府の庁舎にある鏡に対して『作られた』怪談に付き纏われから、まだ一ヶ月も経っていない。髭切はそのときのことを思い出して、少し顔を歪める。
「たとえば、何らかの手順さえ踏めば、人や年月に関係なく現実への影響を与える逸話を生み出せる……とは考えられないか?」
「審神者ならできるのかなあ。僕らを励起する力があるくらいだもの。人間によっては、刀剣男士の声を勝手に聞き出す子もいるみたいだからね」
髭切たちの顕現にも使われた政府権限による顕現も、結局のところ、システムに審神者の代替をさせているだけだ。そのシステムも、審神者の力を借りて起動しているようなので、物が持つ物語を引き出す力というものは、特定の人間が強く保持していることは自明の理である。
逸話が濃く、システムとして体系化されている刀剣男士という存在以外に対して、その力が適用できるかについては未だ不明瞭な分野ではあるが。
「それについても、調査事項としてあげておくしかあるまい。我々だけでは判断しかねる。審神者の持つ特性や能力については、人事部や開発課の担当だろう」
「そうだね。僕ができることは、結局この辺りまで。後は則宗や他の人たちに、地道に調べてもらうしかないかな」
適当な所で言葉を締めくくりつつも、髭切はこの件に関してはあまり調査が進まないのでは、少なくとも自分の元に結果の報告が来ることはないのではと危ぶんでいた。
則宗曰く、百合の景趣の怪異を歓迎する人間も少なからずいるらしい。そんな人間にとって、今回のような怪異を生み出した者は、排除すべき敵ではなく懐柔したい逸材になるのだろう。
刀剣男士すら、容易く機能停止に陥らせることができる化け物を生み出せるのなら。
この政府という組織において、かなり強力な武器になることは間違いないのだから。
(もっとも、もしそんな人間がいるなら、それはもう人間じゃなくて)
――怪異そのものと、言えるのだろうけれど。
***
髭切が帰った後、膝丸は翌朝の退院まで落ち着かない時間を過ごしていた。
兄に何の不備もなさそうだったことには安堵したが、彼一人で家事――特に調理を一任させるのは、非常に不安が残る。膝丸が不在と知った主は、久しぶりに惣菜が食べたいと髭切に提案したようだが、十中八九、膝丸がいない状態で髭切をキッチンに立たせることに不安を覚えたからだろう。
「家が無事だとよいのだが……」
人間らしい生活をしていなかった頃は、住む場所が刀剣男士用の寮から民間人の集合住宅に変わろうが、刀を掛ける台が変わる程度の意味しかないと思っていた。
だが、人並みの生活をするようになれば、何かと愛着も生まれる。髭切が自ら壊すようなことはしないが、うっかりでやらかす可能性はゼロとは言い切れない。なまじっか、弟であるが故に確信してしまう。
「明朝、帰参したら冷蔵庫の中の物を確認せねば……。暑くなってきたから、兄者が氷菓子ばかり食べていないか注意も必要だろう。それと」
所帯じみた心配をつらつらと考えているとき、ふ、と胸の辺りに違和感を覚える。
あたかも、体の中心にあたる箇所に、何か異物が紛れ込んでいるかのような不愉快な感覚だ。
気のせいだろうか、と思うよりも早く、喉の奥が不自然な痙攣をする。咄嗟に口を押さえ、膝丸は自分が身を横たえていた寝台から降り、スリッパをつっかける暇さえ惜しんで手洗い場に駆け込んだ。時刻は深夜に近く、手洗い場に人の姿はない。だが、今はそれが幸いと言えたかもしれない。
綺麗に清掃された洗面台に向かい、膝丸は体を折って口の中から湧き出ようとする異物を吐き出す。
「……っ、ぉえ、げほっ」
口の端から、唾液と共に落ちたのは白い洗面台の上でも尚鮮やかに咲く、白百合の花びら。それも一つ二つに留まらず、十や二十の花が積もっていく。
花びらが洗面台に溜まっていくのと引き換えに、命を削られているかのように、どっと疲労が押し寄せてきた。体は自身が鋼の塊であったことを思い出させるかの如く重くなり、頭はずきずきと痛む。
立っていることすら辛くなり、膝丸は洗面台にもたれ掛かるようにして崩れ落ち、それでもなお終わらない吐き気にぎゅっと目を瞑って耐えた。
(終わって、いなかったのか……?!)
視界を闇に閉ざして、じっと堪えていると、ゆっくりと不愉快な感覚が波が引くように遠ざかっていく。けれども、完全に消えたわけではない。遠くで響く潮騒のように、違和感は残り続けている。
いつまた、このように津波のように押し寄せる不快な感覚に押しつぶされるか、分かったものではない。そして、それが続けば、致命的なまでに自分が自分でなくなってしまうという予測も容易に立てられた。
(何故だ。百合の景趣は既に崩壊したはず。兄者や長義、それに迷い込んでいた人間にも身体の異常は見られていないと聞いている。何故、俺だけが――)
そこまで考え、膝丸は思い至る。
自分だけが、あの景趣の怪物を物理的に斬っていた。あまつさえ、首魁と深く繋がっていた女も斬った。それは奇しくも、長義が至った結論と全く同じ結論でもあった。
膝丸は、斬ったあやかしを元に名を変えたことがある刀。また、名そのものを何度も転々と変えられてきたという逸話は、己の本質が移り変わりやすいとも捉えられる。
即ち、斬れば斬るほど、斬った対象に己の本質へと関わることを許し、自らの体が変化を許容してしまうのだと、彼は思い出す。
無論、その確率は決して高くはないと、膝丸は『経験から』知っていた。あやかし退治の逸話は、大抵の有象無象の怪異の影響をはね除けてくれる。
だが、確率が高くないということは、ゼロでもないということも、よく分かっていた。しかも、今回は斬らずとも刀剣男士に影響を与えていた。冷静に考えれば、これほどまでに自分たちにとって毒となる怪異は他にあるまい。
膝丸にとってこれはもう根拠のない推測ではなく、半ば確信の域に達した回答だった。
(……知っていたはず、だったのだがな。つい、気が緩んでいたのか)
怪異を斬っても、必ずしも己の身に劇的な変化が起きるわけではないと、甘く見ていたのだろう。先だって、神隠しに巻き込まれたときも、斬ったもののせいで刀は一度黒く汚れた。だが、気が付いたら刀身は綺麗に戻っていた。だから、今回もその程度と軽視していたのかもしれない。
「ともあれ、兄者が同じ目に遭ってなければよいのだが」
髭切が斬ったのは、山姥切国広という刀剣男士だけだと聞いている。それなら、兄はきっと無事だろうと膝丸はひとまず安堵した。
体は相変わらず動けないほどに気怠く、自分がこのまま体の内側から花に変えられてしまうのでは、という懸念は残っている。少なくとも、今の状態で日常に戻ることはできまい。兄を心配させてしまうだろうし、彼の足を引っ張ってしまう。
「さて、どうしたものか……」
まだふらふらする頭に手をやり、洗面台を片手で掴むようにして、己を引っ張り上げるように足を動かして立とうとする。
このまま蹲っていても何も始まらない。だが、どうにかしたいが、どうにかする方法が分からない。それなら、どうにもならないこの現状で、最低限できることをしなければ。
洗面台の鏡の向こうでは、ふらふらと立ち上がる己の姿が映し出されていた。顔は蝋のように白く、十分に寝たはずなのに髪の毛の艶は失せ、瞳もどこか濁っているように感じる。兄が来たのが昼でよかった――などと、引き攣れた笑みを浮かべたときだった。
シュッと、蛇の威嚇するような音が。
耳元で響いた。
「!?」
反射的に耳に手をやると同時に、支えを失ったふらついた体が再び床へと落ちかける。空いていた片手で辛うじて受け身はとれたが、壁に強かに上体を打って、息が詰まる心地がした。
「蛇……か?」
施設に蛇が迷い込んできたのだろうか。しかし、ここは上の方の階であるし、蛇が出たら人間は大騒ぎするはずだ。
何よりも不思議なのが――何故か、その音が人の言葉を操っているように聞こえた。
「いや、気のせいだろう。ついに耳までおかしくなってしまったのか」
苦笑交じりに呟くと、再び蛇の威嚇音が鼓膜に響く。
音としては確かに蛇の鳴き声だ。耳はそのように理解している。
だが、どういう理由か。その音に潜む意思が、膝丸にははっきりと分かった。
「どうにかしてやろうか……と言っているのか?」
再び、蛇の小さな声。これは肯定の意思を伝えている。
いったい何故、そんな音が聞こえるのかは分からない。理由だって、皆目見当がつかない。けれども確かなのは、その声が今まさに悍ましい白百合へと変貌しようとしていた体をどうにかできるらしい、ということ。
(このままでは、主の元にも帰れない)
それでは、あの少年はきっと悲しむだろう。
(このままでは、刀として与えられた命令を成し遂げることもできない)
それは、膝丸という刀としては死に等しい。
(何より、兄者を――悲しませる)
もし、万が一、自分がこのまま朽ち果てるようなことがあれば。髭切の心はどうなってしまうのだろうか。
顕現したときから、ただお互いだけを見ていた。
唯一無二の二振一具として在り続けた。
自分が消えた後、代わりの『膝丸』など兄は求めないだろうし、その結果、兄の心がどれほどの悲しみを覚えるかは、自分のことのように想像できる。
ならば。
「よかろう。どうにかできるというのなら」
得体の知れない声と交わす約定に、不審に思う点はいくらでもある。
だが、こちらは刀の付喪神。名のある刀を依り代とした神である以上、約定を破ったとしても、こちらが優位に動けるという確信もあった。何せ、縁切りは刀の専売特許のようなものだ。
そんな傲岸不遜とも思える了承の言葉と共に、膝丸は周囲へ慎重に視線をやる。
てっきり声の主が姿を見せてくるかと思いきや、それらしき気配は感じられない。
「……やはり、気のせいか」
身体の不調のせいで、思いがけなく心まで弱って、自分に都合の良い声を聞いたような気がしてしまったのだろう。情けないことだと、膝丸は自分を叱咤する。
床にへたりこんでいたおかげか、少しだけ気分も良くなってきた。今のうちに部屋に戻り、体を休め、その後は――
「その後は……話すしかあるまい」
下手に隠し事をして、後からバレるようなことがあったら、それこそ兄は気づけなかった己を責めかねない。
だが、欲を言うならば、己にこのような災いが降りかかってなどいなければよかったのに。忌々しげに睨んだ洗面台には、不気味な百合の花びらが小さく降り積もっていた。
***
闇。暗闇。深淵よりもなお深く、意識の底よりも更に昏い場所。
黒一色の世界を、ずるずると腹ばいになり、道なき道を進んでいく。
草原か、或いは川底か、はたまた水面か。いずこかも定かではない、道なき道を滑るように行く体に足はない。しかし、体をうねらせればずるずると進むことができると自分知っている。
手足を使うよりも――否、手足など元々ない。自分にあるのは、己の身のみ。それだけで風のように駆け抜けられるのだ。
薄暗い草原でも通り過ぎているのか、或いは夜の闇が周囲を包んでいるのか。辺りには大したものも存在しておらず、奇妙に寒々しい光景が続いている。それも仕方ないと、今は先を急ぐ。
とはいえ、どれだけ早く進めても、景色が変わらないのはやはり面白みがない。少し飽きを感じ始めた頃、白いものがぽつんと奥に光っているのが目に見えた。
いったい、あれは何なのだろう。不思議に思っていると、まるで引き寄せられるように体も動く。音もなく、しかし確かにそれに近づいている。
接近したことで、眼前にあるものの正体を知る。
それは、純白の百合。一本、凜と美しく咲き誇るそれは、しかしどこか作り物めいていて、禍々しくもあった。
本能的に、忌避感を覚える。あれをどうにかしたい、と体が動く。
更に距離を詰めると、滴り落ちる蜜をこぼさんばかりに咲く百合がよく見えた。艶やかな白い花びらと、ぷんと香る甘い匂いは、どこか蠱惑的で、魅力溢れるご馳走にも見えた。
その百合に誘われるように、ひょいと体の上半分を持ち上げる。あたかも接吻するように顔を近づけ、そして――ぐわりと口を開き、一口で呑み込んだ。
食した。食らった。
美味くはないが、しかしまずくもない。だが、足りない。もっと欲しい。これでは、喉の渇きすら満たされようもなく、腹が満ちるにはほど遠い。
見た目は美しかったが、これはまがい物だ。偽りと虚飾で作り上げられた、即席の化け物だ。だから、食らったところで大して満たされないのだろう。
こんなものではなく、己の中で糧になるものが欲しい。もっと、もっと、もっと。
声が響いている。もっと、と強請る■■の声が、自分と重なっていく。
いや、これは、そもそも自分だったのだろうか。自分は、こんな手足もない体で素早く動けるような姿をしていただろうか。
疑問を感じるよりも濃く、もっと欲しいという声だけが頭を埋め尽くしていく。
そうしなければ、喉が渇いて仕方ない。
そうしなければ、腹が飢えて苦しい。
そうしなければ、そうしなければ。
この忌ま忌ましい軛から解放されないのだから――――。
***
「弟、僕が来る何時間前に準備をしていたんだい?」
「二時間前だ、兄者。やれ手続きだ何だと忙しくてな」
二時間も前に片付けるほどの荷物もなかろうに、と髭切は肩を竦める。だが、後はもう二振り揃って帰るばかりだと思うと、気分も少しずつ上向いてきてもいた。
「弟、本当に体の具合は良いんだね?」
「兄者は随分と慎重なのだな。明朝の検査でも問題はなく、明日には仕事に復帰しろと鬼丸から連絡もあった」
「忙しないねえ。まあ、大丈夫そうならいいけれど」
言いつつ、髭切はざっと膝丸へと視線を走らせる。血色の良い肌に、澄み切った琥珀色の瞳。若葉に似た薄緑色の髪は、長すぎる休息のせいか、今日は妙に艶々しているようにすら見える。本人の言う通り、何の問題もないだろう。
手荷物を片手に、髭切は膝丸と共に廊下へと出る。朝の日差しが窓から差し込み、白い廊下はきらきらと光っているようにも見えた。
さっさと外に出よう、と髭切は歩き出したが、すぐにぴたりと足を止める。隣にいた膝丸が、進行方向の反対側に目をやった状態で静止していたからだ。
「……どうかしたかい?」
「ああ、いや――そういえば、昨晩は夜更けに一度目が覚めたような気がしたな、と思い返していた」
「おや、それはまたどうして」
「寝ぼけていたのだろう。俺も殆ど覚えていない。大方、外が騒がしかったとか、そういう理由だろうな。このような施設では仕方あるまい」
病院である以上、急患が運ばれれば相応に人が行き交い、足音や話し声が耳につく。普段は静かな部屋で寝ている分、この手の騒音にはついつい敏感になりがちだと、膝丸は苦笑した。
「それなら、帰ってから一度休むかい?」
「いや、それよりもだ。厨が破壊されていないか、確認する必要がある」
「心外だね。僕が厨を破壊するかのような言い草じゃないか」
「……すまぬが、あまり否定できぬ」
不服そうな髭切に曖昧な微笑で応じる膝丸。百合の景趣という不可思議な異界に取り込まれ、一時はどうなるかと思いはしたが、結果的には全ての事柄を解決し、何事もなく日常に戻れた。
今はただその平穏を噛み締めていようと、髭切は朗らかに笑ってみせた。
かくして、百合の景趣に纏わる事件は、数多の報告書の中に埋もれていく。
景趣システムは本日も順調に稼働し、多くの審神者や刀剣男士の目を楽しませる。
嘗て景趣に関する不吉な噂が流れていたなんてことは、あっという間に忘却の彼方に押し流されていった。
最初に噂を流した者が誰か、などということも忘れて。
ネットワークの海は、今日も他愛のない雑談と、ちょっとした豆知識と、ささやかな小競り合いが行き交っている。
そうして、己の名も顔も伏せて人々が語る場で、今日もまた。
新たな逸話が、そっと芽を出した。