本編の話

 まるで音という音を排斥しようとしているかのように、冷たい沈黙が辺りを支配している。そんな静かな廊下に、かつかつと靴音が響く。決して大きな音ではないが、通りがかる人の数が少ないせいで、それは殊更に際立って大きく聞こえた。
 もとより、ここは何某かの異常を抱えた者が滞在する施設――病院と世間で呼ばれているものに近い機能を有する場所だ。静寂が重んじられるのは、さもありなんと言うべきだろう。
 ふと、彼が顔を上げると、窓の向こう側に雨に煙る庭が目に入った。
 ぴたりと靴音が止む。音の主である青年――髭切が足を止めたからだ。
 梅雨ももう終わりに近づいているためか、来週からは晴れの予報が増えているとは聞いていた。だが、今日はしとしとと空が泣いているような雨が地面を濡らしている。
 そんな霧雨の向こう側に、空へ空へと伸びる大きな植物がいくつか庭に並んで植えられていた。その花の名が向日葵だということを、髭切はあの日の後に調べて知った。
 足を止めたついでに、窓の向こうにある光景をぼんやりと眺める。ゆるりと瞳を閉じると、それだけで、数日前の出来事が蘇っていくようだった。

 ◇◇◇

 白百合の景趣が崩壊を始め、自分たちもそれに巻き込まれてしまうのではと危惧した瞬間、再び景趣の風景は一変した。
 燃えるような夕焼けは、払暁を迎える前の静けさを湛えた薄青い空に。病的なまでに密集していた白百合は、ごく自然な色とりどりの百合の群生地に。
 それらの光景は、以前のように胸をかき乱すような不安を与えることはなく、代わりに訪れる者を慰めるような安心で満ちていた。
 何故、そんな風に突如空や生えている草木が変化したのか。その理由は、ひどく簡単だった。

「一種の賭けではあったさ。僕の予想に反して、お前さん達が存外早く巻き込まれてしまったからな」

 景趣から抜け出し、刀剣男士用の医務室で不調がないかを確認してもらった後。
 検査結果を待っている髭切を会議室まで呼び寄せて、髭切たちを景趣の中まで迎えにきた一文字則宗はそう語った。

「よく僕たちがいなくなったって気がつけたね」
「政府だって馬鹿じゃない。景趣の生還者に対して、人間以外の監視もちゃんとつけていたのさ」

 監視用に用意された式神や、電子機器の類に異常が見られたことで、則宗は髭切と膝丸が何らかの異常事態に巻き込まれたと、すぐに気がついたそうだ。
 予定外の事態の急変を鑑みて、彼は自分が準備していた切り札を切る選択をした。その切り札というのが――
 
「正しい景趣を正しい手順で実装して、不完全な形で作られたが故におかしくなった百合の景趣という概念を塗り替える。大本の原因がシステムの漏洩から生まれているのなら、それを正規の景趣で上書きしてしまえば正しい形に戻る――と僕は考えた」

 景趣のシステムには詳しくない髭切には、則宗の解決策は盲点だった。怪異を解決するとなると、どうしても内側に潜む敵を叩く方に考えが傾きがちだが、前提ごとひっくり返す荒技は流石の彼も想定外だ。

「それなら、異変が分かった時点で、勿体ぶらずに上書きしてしまえばよかっただろうに」
「馬鹿を言うんじゃない。本来、人工的とはいえ異界を作成する機能を持つ複雑なシステムだ。迂闊な作業をして、全国の景趣を扱う審神者に危害が及ぶようなことがあってみろ。僕の首が飛ぶどころの騒ぎじゃないんだぞ」

 則宗は深刻そうな顔で指摘するが、髭切にはどうもピンと来ない。
 唯一分かったことは、本来ならもっと後に予定されていた景趣システムの更新作業を、あの手この手を使って則宗が数時間後にまで短縮してくれたということだ。
 髭切たちが迷い込んだ先が『百合の景趣』という景趣システムが作った景趣の一つである以上、それを上書きするにはシステムの大本に触れる必要がある。
 必然的に、影響を与える範囲も尋常ではない。確かに失敗した場合、単に謝るだけでは済まないのだろう。後から知った話ではあるが、景趣システムに新しい景趣を追加するスケジュールはかなり先まで綿密に練られているようで、たとえ予定より早く完成したとしていても、前倒しされるようなことは本来許されないらしい。

「本当なら、お前さん達が景趣に調査しに行くのは数日後で、その間にシステムの更新に必要な手続きを片付けられるよう、僕から根回しをしようとしていたんだが……」
「ごめんね、ご破算にしちゃって」
「お前さん、口で言うほど悪いと思っちゃいないだろう」
「うん。だって、巻き込まれちゃったものは仕方ないからね。でも、君が何か用意をしてくれてたとは分かっていたし、それに結果的に僕らは最善をつかみ取ったと思うよ」

 長義の報告にあった雪雫という審神者『だった』者――異界に結びついた核たる存在が生き残っていた場合、正しい景趣で上書きをしたとしても、そのまま彼女に乗っ取られていた可能性も高い。そうなってしまったら、再度景趣を上書きしても解決できたかは難しいだろうとは、景趣作成に関わっていた南海太郎朝尊の言だ。
 異界そのものよりも明確に意思を持つ存在である彼女は、どれだけ上書きされても再び主導権を奪い返そうとするに違いない。そうして、いたちごっこが続いていただろう、と。
 他にも、則宗が技術者たちに聞いたところ、『コンピュータウイルスのように、百合の景趣を媒介に他の景趣にも広がっていく結果になっていたかもしれません』とのことだった。

「その女性について、少し聞いてもいいだろうか」
「なんだい。僕は彼女がおかしくなった後には直接会ってないから、大した話はできないと思うよ」

 髭切は気のない様子で、それでも返答はする。
 
「彼女は人間ではなかったと長義は報告していたようだったが、見た所これといった定義のある妖怪でもなかったのだろう? お前さんたちは、妖怪を斬れるという触れ込みだった気がするが、妖怪以外でも斬れるんだな、と思ってな」
「僕らはあやかし退治の刀だ。人に仇なす『人ではないもの』を斬って倒す逸話を持っている。だから、弟は彼女を消滅させられたんだろう。彼女が、人を害したから」
「……なるほど。つまり、雪雫は人間の敵になってしまったんだな」

 どこか沈痛な面持ちで、則宗は審神者の名を呟く。
 彼の手元にあった端末には、嘗て政府から監査を受けた際の彼女の様子が詳細に記されていた。書類の末尾にサインされた監査官の名を、一文字則宗はそっと指先で隠す。

(あれは二年前、か。陸奥守が折れた頃に会ったときは……まだ立っていられると思ったんだが)

 自分の評定は甘かったのだろう、と則宗は内心で独りごちた。

「それと、地蔵行平と一緒にいた人間のことだけど」

 既にこの件については、出会ってすぐに口頭で説明はしてある。則宗も覚悟をしていたのか、或いは救出のために忙しかったからか、一度頷いただけで何も言おうとはしなかった。
 だが、有耶無耶にしたままではよくないと、髭切は再び彼のことを話題にする。あわせて、ポケットから折れた打刀を取り出し、則宗の前に置いた。

「助けられることはできなかったんだ。人間の方も、地蔵が……正気を失った際に、自分で手に掛けてしまった、と」
「――そうか」

 はぁ、と漏れた息は、簡素な言葉と裏腹に酷く重い。

「地蔵行平は、何か言っていただろうか?」
「――『吾が自ら選んだ道だ。恨む必要も、悲しむ必要もない』」

 則宗は懐からハンカチを取り出し、折れた刀をそっと包む。ただの同僚に見せるにしては、深く昏い悲しみが彼の瞳に揺蕩っていた。
 包みを懐に戻してから、則宗は突き動かされるように、言葉を吐いた。

「……政府の上層部の一部は、百合の景趣を正式実装することに反対していたらしい」
「ん?」

 話が突如横に飛び、髭切は片眉を上げて疑問を顔に浮かべる。
 構わず、則宗は言葉を続けた。

「景趣の開発は許していたが、いざ正式投入となったら、確実に申請は凍結されていただろう。おかげで、勝手なことをするなと、僕も開発課も始末書を書かされる羽目になった」
「……あれ。でも、そうしたらあの百合の景趣が化け物染みた異界のまま残ることになるんだよね? その一部の人間は、それを知ってもなお、正式に実装したくなかったのかい。規則を破るから駄目ってことかな」

 結果として、則宗の独断行動と、それに付き合った者たちのおかげで、百合の景趣という脅威は消えた。
 勝手に複雑なシステムを弄ったことについては、人間たちの言うところの『危機管理意識』とか『リスクの管理』とかいう部分に抵触するのかもしれない。だが、遅かれ早かれ実装しなければ危険だったのは事実だったのでは、と髭切は疑問を抱く。
 答えは、すぐに則宗が教えてくれた。

「ああ。つまり、残しておきたかったのさ」
「あんな危険極まりない場所を、わざわざ残したかったの?」

 政府の人間が何をしていようが、基本的にはどうでもいいと思っている髭切も、この意見には流石に柳眉を釣り上げる。
 髭切も膝丸も長義も、巻き込まれた志乃も、危うく帰れずに野垂れ死ぬか、化け物に変異するところだった。それを残しておきたいとは、どういうことか。

「無論、野放しにするつもりはなかっただろう。百合の景趣という怪異に辿り着く正しい方法を確立させ、普段はその方法を用いられないように、安全装置は用意して『活用』したはずだ」
「活用って……あんな刀剣男士を食らうだけのような場所、どう活用するっていうの?」
「いみじくも、お前さんが語ってくれた山姥切国広と同じさ」

 唯一、景趣の中でその身の安全を保障されて『しまっていた』刀剣男士。
 彼が選んだ道は、迷い込んだ刀剣男士が己の人格を保っていられる間に、刀として生涯を終わらせるという役目だった。彼が自らに課した役目はまるで、

「――処刑場。さしずめ、言うことを聞かなくなった刀剣男士や、不要になった人間を始末する都合のいい流刑地、というところか」

 景趣には入ることはできても、内側から出ていく手段がない。故に、処刑場且つ完璧な牢獄とも言える。
 外側から迷い込む切っ掛けすらない安全圏にいる人間たちにとって、得体の知れない怪異よりも、同じ時間と時代にいる刀剣男士たちの方が、より脅威に映る場合もある。そんなとき、刀剣男士を止める手段は今の次点では存在しない。一時的に術を用いて制御できたとしても、所詮は人の浅知恵。付喪神に対しては、時間稼ぎにしかならない。
 加えて、政府の刀剣男士は審神者が顕現した者と異なり、主という枷すら存在しないのだ。刀剣男士と人間の間は絆があると語る者もいるが、そんな絵空事を信じられない人間にとって、これほど恐ろしい存在はないだろう。

「不思議なものだね。僕らは、人間にとっては戦力じゃないのかい? 時間遡行軍を倒すのには、僕らの力が必要だというのに」
「その通り。僕もお前さんたちも、確かに戦力だ。優秀な武器で、だが同時に人間にとっては、諸刃の剣でもある……というわけだな」

 髭切はつまらなさそうに、小さく鼻を鳴らす。
 人間が多くの意見を内包しながら生きていることは知っているが、こうもあからさまであると、流石に嫌悪感は抱く。
 以前のように無視しないことを選んだ身としては、尚更。

「そんなわけだから、政府の人間――特に上の連中にとって、刀剣男士は命として勘定れない。この景趣を解決するためという名目でお前さん達は選ばれていたが、お前さんたちを使って制御の方法を掴めたら儲けものと思っていた輩もいただろう」

 もし彼らが失敗したのなら、同じように適当な刀剣男士を使って調査させればいい。そのような思惑を鬼丸は見抜いて、あれほど行かせるのを拒否していたのだろうかと、髭切は思い出す。
 考えてみれば、百合の景趣に関する任務が割り振られる前から、この件には関わらせまいという意思を鬼丸から感じていた。それほどまでに、今回の案件を管轄している者に鬼丸は強い不信を抱いていたということだ。

「仮に中に迷い込んだ者の救出任務があったとしても、地蔵行平は――僕の同僚は、確実に救出対象にあがらない。何故なら、彼は命として勘定されないから。だから、僕の方からお前さん達に個人的に頼ませてもらった」
「そういう理由で、わざわざ事情聴取の前に、ああして場を設けていたんだね」

 政府に任せていては見捨てられる命を拾ってきてもらうため、同じ刀剣男士のよしみを最大限に活かして、一文字則宗は髭切たちに救出を依頼した。
 結果的にそれは叶わなかったが、長義や志乃の救出はできた。今はそのことを喜ぶしかない。

「正しい景趣に置き換わった今なら、安全に内部の探索もできる。目下、臨時の調査部隊が組まれて、遭難者たちを捜索しているところだ。折れた刀剣男士の破片も、怪異の影響が薄いものは、審神者の元に返すことができるだろうと聞いている」

 迷い込んだ刀剣男士の数を正確に把握しているわけではないが、山姥切国広が折った刀の数は二十をゆうに超えていた。彼らの亡骸が無事に主の元に戻れば、彼のしてきたことも少しは意味を持つのだろうか。
 百合に完全に浸食されたが破壊はされていない刀剣男士たちが、景趣が消えたことでどうなったのかについては、後々分かるだろう。だが、一度壊され尽くした魂が蘇るとは思えない。体が残っていても、廃人のように壊れた魂があるだけでは、もはや刀剣男士とは言えまい。
 それらの後処理に関する情報を則宗から教えてもらいながら、髭切は鈍った思考で現実をゆっくりと受け止めていく。正直なところ、一挙に色々な出来事が起きすぎて、今は自分の感情はおろか、肉体の状態すら正確に掴めている自信がなかった。
 はっきりと頭に浮かび上がっているのは、弟は無事だろうかという懸念と、主の元に返らねばという確固たる思いだけだ。

「お前さんも今日は疲れているだろう。手入れの申請は僕の方でしておいた。検査結果を貰ったら、手入れ部屋に行くといい」
「うん。助かるよ」

 半ば機械的にお礼を口にしたと同時に、髭切の持つ携帯端末に検査終了の連絡が届いた。

 ◇◇◇

 霧雨を眺めながら、髭切はその後のことを思い返す。
 結局、髭切の検査は特に問題なしという結果だった。穢れや瘴気の類が滞留している様子もなく、そのまま通常の負傷と同じように手入れ部屋に通されて、軽い治療を受けた。
 だが、膝丸は目覚めなかった。彼は帰還後、意識を失った状態で検査をされたようだった。結果については、こちらも異常なし。長義の話では百合の花を吐いたそうだが、意識を失ってからは何かを吐く様子もなければ、我を無くして暴れる様子も見せなかった。ただ、こんこんと眠り続けていた。

(……あの時よりは、まだましなんだろうけど)

 本音を言うならば、髭切は彼が目を覚ますまでは側にいたかった。
 しかし、家に残している主は、髭切たちがこんな事件に巻き込まれているなどとは知らない。帰宅しなければ彼も困るだろうと思い、後ろ髪を引かれるような思いで髭切は自宅に戻った。
 幸い、その日の深夜に膝丸が意識を取り戻したと鬼丸経由で連絡があり、携帯端末を使って声も聞けた。おかげで、心配で眠れない夜を過ごすという経験はせずに済んだ。
 そしてあの事件から三日後にあたる今、髭切は政府の衛生管理施設に訪れていた。暫く様子を見るからと入院させられている膝丸の元へ、お見舞いに行くためだった。
 思った以上に長く物思いに耽ってしまったと、髭切はふいと窓から視線を逸らし、

「おや」
「髭切さん。お久しぶりです」

 丁度顔を向けた先に、蒼と黒灰の瞳を見つけ、髭切は声を漏らす。
 廊下に立っていたのは、ゆったりとしたパジャマを着た少女――志乃だった。出会ったときは高く結っていた銀髪も、今はほどかれ、背中の上を流れている。

「君も入院中だったのかい」
「はい。念のため、体に異常が残ってないかと調べてもらっていました。長義は昨日退院したんですが、膝丸さんは、もう一日はかかりそうとのことです」

 髭切が知りたがっていると思ってか、志乃は先んじて今回百合の景趣に関わった者たちの情報を伝えてくれた。

「膝丸さん、『兄者にこんな姿を見せられない』って、ぶつぶつ言ってるみたいですよ。看護師さんから教えてもらいました」
「来るのが遅くなってしまったなあって思ったけど、来ない方が良かったのかな?」
「口ではそう言ってましたが、扉が開く度にちょっと期待しているような目をしているので、待ち焦がれているんじゃないでしょうか」

 志乃の言葉を聞いて、膝丸の様子がありありと髭切の脳裏に描かれる。引き戸の開く音を耳が捉える度に、寝転がっている寝台から飛び起きようとする姿が目に浮かぶようだ。

「それなら、早く行ってあげようかな」

 事件が終わってから報告をまとめるのに時間がかかったせいで、彼が目覚めてからまだ一度も顔を見せられていない。膝丸がそんな落ち着きのない様子を見せているのも、髭切が携帯端末以外で連絡をしないせいもあるのだろう。
 教えてもらった膝丸の部屋に向かおうと、髭切が再び歩き出しかけたときだった。

「髭切さん、あの」

 呼び止める志乃の声を耳にして、髭切はぴたりと足を止める。

「……髭切さんは、大丈夫ですか」
「検査の結果なら僕も問題なかったよ。事件の後に一番早く復帰したのは僕だからね」
「そうじゃなくて」

 何が言いたいのかと、髭切は一度振り返る。寝間着姿の少女は、身に纏っている寝間着の薄い生地の端をぐっと掴み、何かを堪えているような顔で髭切を見つめていた。

「髭切さんは、山姥切国広さんを……折りました」
「そうだね。そのことを責めたいのかい?」

 人間という生き物は、すぐに物事が生じた原因を見誤る。彼女も同じように、情に流されて自分を非難するつもりなのだろうか。
 髭切が冷めた目で見ていると、彼女は予想に反して、ゆっくりと首を横に振った。

「それは……分かっています。仕方ないことだったって。ああしてくれていなければ、国広さんはずっと苦しいままでした。それに、私も髭切さんも、きっと長義も、膝丸さんも、皆殺されていました」

 山姥切国広の心をその身で受け止めたからこそ、髭切の選択が間違いであると志乃には言えなかった。もし時間がもっとあったなら、彼の痛みに寄り添う可能性もあったのかもしれないが、それはあり得ない『もしも』だ。

「私が聞きたいのは、髭切さんのことです。髭切さんは……髭切さんの心は、痛くなっていませんか」
「……心?」

 彼女が何を言いたいのか分からず、髭切は鸚鵡返しに問う。

「国広さんは、おかしくなってしまった仲間の皆さんを刀として死なせるために、彼らの介錯を手伝っていました。それ自体は……良いことだったのか、悪いことだったのか、私には分かりません」

 死に場すら失ってしまった彼らに、正しく刀としての終わりを与える死神として、山姥切国広は自らの存在を定義づけた。そうして折られた刀たちにとって、山姥切国広の行いが正しく救いになったのかは、折られた本人が最早語れぬ以上、分かるわけもない。
 髭切も、彼が成したことが正しかったのか間違っていたのか、今はもう断言できなかった。

「だけど、国広さんは苦しんでいました。悲しんでいました。そのことだけは、分かるんです」

 あの瞬間、山姥切の隠し事を暴くために彼の心の欠片と同調した志乃は、彼が折れてからもなお、その懊悩を引きずっている。故に、彼女は思い悩んだ。

「だから、同じように、結果的に国広さんを折ってしまった髭切さんも……辛くないのかなって」

 地蔵行平を介錯したときにも、志乃は髭切に似たようなことを尋ねた。髭切自身、随分と淡泊な返事をしたと覚えている。

 ――僕は、割り切るとか割り切らないとかの問題じゃないだろうね。
 ――そういう考え自体が、生まれないんじゃないかなって。
 ――だから、ただ敵を倒すのと同じように、僕も誰かの首を何も感じずに落とすのだろう。

 実際、山姥切を斬ったことを志乃のように悲しみ、悼もうという考えには至らなかった。百合の景趣に囚われていた刀を、刀として終わらせたのだという気持ちだけが髭切の中に残っている。そこには感慨も何もないと思っていたが、

「……どうだろうね」

 何かを諦め、けれども最期に見えた僅かな希望に縋るように薄く笑った刀の顔を思い出すと、体の中心に小さな痛みがよぎる。
 丁度、刀に罅が入ったかの如き、細やかな――しかし、忘れられない痛みが。

「たとえ彼が折れたことで、僕の心とやらに傷が残ったとしても」

 あのどうしようもない袋小路に囚われ、抜け出す道を失った者に引導を渡したということが、髭切という太刀に何か爪痕を残したというのなら。

「僕は、それを背負っていくよ」

 刻み込まれた傷跡を、無視はしない。
 嘗てなら、どうでもいいものと割り切れた。自分が同胞を折ることになったとしても、それが任務ならば、とすんなり受け流していただろう。
 だが、今の髭切にとっては。己の心というものの輪郭を掴み、受け入れている今となっては。それは、捨てられない物語の一つだ。

「……皆さんは、やはり強いんですね」

 静かに微笑む少女の顔には、まるで自らに言い聞かせているようでもあった。きっと彼女はまだ、この件を割り切れていないのだろう。
 自分のように強くなればいいのに、とまでは髭切は思わない。人間は人間で、刀剣男士は刀剣男士だ。一緒にはなれない。
 だけども、違う道を進むことは、悪ではないだろう。

「じゃあ僕はそろそろ行くよ。弟が待ちくたびれて迎えに来ちゃうかもしれないから」
「あ、その膝丸さんなんですけど」

 今度は少し慌てたような調子で、志乃は再度髭切を呼び止める。
 だが、呼び止めたは良いが、彼女は言うべきか否かをひどく迷っているようだった。

「弟がどうかしたかい?」
「私の勘違いかもしれないですし、今はもう、全然聞こえないんですけど」

 彼女はきゅっと唇を噛んだ後に、意を決して髭切に言う。

「あのとき、膝丸さんから、何か声が聞こえたんです。あれは、まるで」

 そこまで口にしかけた瞬間、志乃は口を噤んだ。
 ぴんと立てられた髭切の人差し指が、彼女の唇をそっと塞いでいたからだ。その仕草が指す意味を知らないほど、志乃も愚かではない。

「それは、内緒にしておいてくれるかな」

 髭切の瞳に、ゆらりと濃く深い影が宿る。
 出会ったときから、穏やかさと苛烈さを秘めた彼の瞳は、今はその身と同じく怜悧な刃の鋭さを保ち、志乃の色違いの瞳を射貫いていた。
 ぴんと張り詰めた糸の如き、重たい緊張。間違った答えをすれば、己の命が奪われてもおかしくないほどに。
 やがて、彼女はゆっくりと頷いたが、瞳は雄弁に「いいんですか」と尋ねていた。

「……うん。今はまだ、余計なことをしたくないんだ。だから、君と僕の秘密にしておくように」

 言葉自体は柔らかではあったが、有無を言わさぬ語調に、志乃はただただ黙って首を縦に振るしかなかった。

 ***

 倦怠感が少し残る瞳をゆっくりと押し広げると、しゃりしゃりという澄んだ音と、寝台の傍らに座る人影が見えた。

「……兄者?」

 反射的に呟くと、人影が立ち上がり、片手に持った何かをずいっと眼前に突き出した。
 すっと香る甘酸っぱい匂いに、至近距離からもはっきり分かる黄色い果肉。これは、林檎という名の果実だ。
 そんな取り留めのないことを考えながら、彼――膝丸は、首を微かに捻る。

「君の兄でなくて、悪かったね」

 鼻に押しつけるような勢いで皿を突き出され、流石に辟易して、膝丸は眉を顰めた。
 上体を起こすと、寝台の隣に腰を落ち着け直した青年――山姥切長義が真っ先に目に入った。
 周囲を見渡せば、まず見えたのは大きく開かれた窓。陽光が取り入れやすいように、窓自体が全体的に大きめに作られた施設のようで、燦々とした日差しが膝丸のいる病室を照らし出していた。
 今回の被害者の中で、膝丸の異変が原因不明且つ他に類例がないため、彼だけは他の面々と異なり個室での入院となっていた。おかげで、寝台と文机、暇つぶし用のテレビや端末以外は大して物もないがらんとした場所に、こうして一振りで過ごす羽目になっている。

「長義、君はもう大丈夫なのか」
「俺は簡単な検査だけだったよ。あの女性が亡くなってから、百合の花は俺たちを解放していたし、そうなってしまったら通常の状態とは何ら変化はなかったようだからね」

 話ながらも、長義は小刀で林檎の皮を剥いている。器用にも林檎で兎を作ってから、彼は皿に並べ、爪楊枝を刺した状態で膝丸に差し出した。

「何だこれは」
「何だじゃない、見舞いの品だ。君は黙って食べていればいい」

 兎の形に切られた林檎に、膝丸は遠慮無く爪楊枝を突き刺す。暫く角度を変えて眺めてから、ひょいと口に入れて咀嚼すること数度。ごくりと飲み込んだ彼は、開口一番に、

「普通だな。他にもっと趣向を凝らしたらどうだ」
「見舞われる方が図々しく要望を出すんじゃない。それでも、上等な品なんだからね」
「第一、何故俺の見舞いに来るのが兄者でなくて貴様なのだ」
「そんなこと、俺の知ったことじゃない」

 軽口というにはややレベルの低い会話を続けてから、長義は大袈裟なため息をわざとらしく吐き出す。

「一応、君は俺を助けてくれた。だから、まあ……これでも感謝をしてやってもいいと思ってだな」
「何の話だ?」
「何の話だ、じゃない! 君があの審神者を――」

 殺してくれたから、という言い方は流石にできず、長義は言葉を彷徨わせた挙げ句、

「あの審神者を……解放してくれたから、結果的に俺はあれ以上、百合に襲われずに済んだ。志乃も俺の在り処を辿ることができた。そして、皆が助かった。君が一番の功労者と言ってもいい」

 人間の形をした彼女を前にして、長義は躊躇してしまった。無抵抗の、こちらへの悪意のない人間を斬り殺すには、長義は覚悟を決めるのに時間を要しすぎた。
 ほんの数秒とはいえ、そのせいで膝丸すらも危うく化け物にされるところだった。

(……たとえ、あの娘が憐れな被害者だったとしても、俺は迷うべきじゃなかった)

 山姥切国広という、唯一辛うじて正気を保っていた刀を、審神者は最期まで案じ続けていた。志乃から聞いた話も組み合わされば、彼女は崩壊した意識の中でも、山姥切国広が無事であるようにと願い続け、彼を守っていたのだと分かる。
 ひょっとすれば、志乃がこちらに呼び寄せられた理由も、彼女の側に居た『山姥切長義』という刀が原因だったのかもしれないと、長義は推理していた。
 体を失い、魂すらも変質した状態でありながらも、山姥切国広という刀に対して、彼女は強い執着を抱いていた。そんな中、水鏡を通して正常な試験中の景趣と歪んだ景趣が重なったとき、その感情が衝動的に動いた。

(山姥切国広は、俺を写した刀だ。業腹ではあるが、顔も気配も似通っているだろう。正気でなかったあの娘は、俺と山姥切国広を見間違えたのかもしれない)

 山姥切国広と共にいる少女を見つけた審神者の娘は、在りし日の己をそこに見出して、志乃を引き寄せたのかもしれない。或いは、長義を引き寄せようとして、誤って志乃の手を掴んだ可能性もある。
 全ては推測に過ぎない。けれども、決してあり得ないと笑い飛ばせないほどには根拠もある。だが、それとこれとは別だ。
 他人への哀れみを、己の過ちの理由にしていいわけがない。

「すまない。俺の優柔不断のせいで、君に負担を強いた」

 結局の所、こうして膝丸の元に来たのも、助けてもらった感謝と同じくらい、自分の不甲斐なさを詫びたい気持ちが強かったのだろう。認めたくはないが、だからといって意地を張る方がみっともない。

「生憎、俺は意識を失っていたからな。謝罪されたところで、俺には実感がない」

 しかし、長義の謝罪を膝丸はすげなく受け流す。
 膝丸の認識している記憶は、あくまで自分が百合を吐いた所で途切れている。その後の経緯は、全て人づてから教えてもらった情報だけだ。
 我を失って刀を振り、挙げ句の果てに兄に止められたと聞いて、膝丸はそのまま病院を抜け出して髭切の元に向かって詫びようとする衝動をどうにか抑える必要があった。
 あまりの不甲斐なさに、顔から火が出るどころの騒ぎではない。考えれば考えるほどに、己の失態を勝手に脳裏で描いてしまい、頭を抱えて叫び出したくなってしまう。
 だから、自分が責められこそすれ、謝られるようなことをされた実感は膝丸にはなかった。

「それに、もし労いの言葉をかけるなら、俺よりも兄者にした方が良い。兄者は、長義がいないと退屈だとぼやいていたからな。長義の無事を案じていたのだろう」

 膝丸としても、長義がもしこのまま戻ってこなかったら、何となく嫌だという気持ちはあった。しかし、それは何となくの領域を出ず、つまるところ理由の分からない感情であるが故に、膝丸は敢えて髭切の名だけを出した。

「……髭切が、俺のことをそんな風に?」

 この言葉は、長義にとっては劇薬と同等の効果があったらしい。彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をすると、ぶつぶつと小言で何か呟き始めた。
 そこには「何か企んでいるのか」とか「また面倒ごとを押しつけるつもりか」などという言葉が含まれていたが、膝丸は無視することにした。
 暫く考え込んでいた長義は、やがて膝丸の方に向き直ると、

「とにかく、君の行動で俺は助かった。その感謝の念は、はっきり伝えておく。感謝する、膝丸」

 刀剣男士として、或いは一つの心ある者として、長義は自分が誰によって助けられたかは自認している。だからこそ、今は感謝の念を明瞭に示す。
 生憎、肝心の膝丸は相変わらず首を傾げていた。こればかりは流石にどうしようもないので、長義は適当な所で謝礼の言葉を切り上げる。
 折良く、カツカツと部屋に近づく靴音を長義の耳は捉えた。その音を誰がたてているか、分からないほど愚かでもない。

「俺はこれで失礼するよ。兄弟水入らずの時間を邪魔したくないからね」

 手短に別れの挨拶を告げると、長義はがらりと引き戸を開く。戸の向こうには予想通り、見慣れた琥珀色の瞳に金糸の髪を持つ青年が立っていた。

「……髭切、俺が行方不明になっていた間、気に掛けてくれたそうだね」

 言うべきか言わざるべきかを瞬時迷い、結局長義は後顧の憂いにするよりは、と自ら口火を切る。

「――ありがとう。今回は、助かった」

 それでも、真正面から礼を述べるのは何だか癪なので、長義は聞こえるか聞こえないか分からないぐらいの小声で簡潔な言葉を並べると、さっさとその場を去ることを選んだ。
 髭切の視線を背中で感じつつも、長義は見ないふりをしてずんずんと廊下を行く。
 正直なところ、彼らについては顕現したときから頭を抱えさせられた数の方が多かった。先日の任務の件でも乱暴な解決をしていたし、更にその前は無茶な勤務で上司の肝を冷やさせ、ついでに監査の仕事をしていた長義の頭も悩ませた。
 あの兄弟とは、積極的な関わりを持ちたくなかった。遠巻きに眺めておくぐらいが吉だと思っていたほどだ。

「だけど、助けられた恩を忘れるほど、俺は愚かでもない」

 山姥切長義という、己の名にかけて。
 あるいは、この地に顕現して過ごした十数年の歳月に誓って。
 固定観念に縛られて、他人を不当に低く評価するような真似はしないと決めているのだから。
 
 特に行き先も決めずに廊下を歩いていると、自分と同じ銀の髪をした少女が、ソファに座って休んでいる姿が目に入った。こちらに気が付いて、頬を緩める姿を見ただけで、長義の心はほっと安堵で緩む。

(彼女を守るために、協力してくれたのは事実だ。それなら以前よりは、邪険にして遠ざけるような真似は、少しだけ、ほんの少しだけ控えてもいいかもしれない)

 そんな考えを取り留めも無く浮かべてから、長義は手を振る娘に向けて、軽く片手をあげた。

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