本編の話

 自分に向かって挑みかかってくる、一振りの刀剣男士――髭切。
 本丸に彼と同じ刀はいなかったけれど、もしいたのなら、少しは自分も躊躇をしたのだろうか。そんなことを思い、ふ、と口の端を緩める。
 浮かび上がった笑みは、もう何度目になるか分からない自嘲の微笑だ。

(――何を今更)

 主が人の生を終え、人ではないナニカに変じ、自分だけがこの閉ざされた箱庭の中で唯一正気を保っていると自覚したとき。
 先だって目にした悲劇を――刀剣男士としての在り方すらねじ曲げられ、己が何者かも分からずに破壊されるなどという終焉を、同胞にこれ以上齎さないために、自分は残されたのだと知った。
 否、そう言い聞かせた。そうしなければ、耐えられなかった。
 折れた仲間たちの欠片を集め、ひときわ綺麗に花が咲いていた場所に突き立てていくたびに、心に罅が入っていくようだった。いっそ、自らの手で己を破壊してしまおうかと、何度も躊躇し、その度に足を踏み留めた。
 死を恐れたからか。
 或いは、あの本丸の中で唯一生き残った者としての意地か。
 自らの首を己の手で落とさなかった理由を、山姥切国広は見つけ出そうとしなかった。それを考えることに意味はないと、諦念で思考を停止させた。
 それから、迷い込んでくる刀剣男士を見かける度に、この墓場に誘い込んだ。申し訳ないという気持ちは、錆びついた心では十分に感じられなくなっていた。
 皮肉にも、本丸の中では一番弱かった自分が、決死の覚悟で決めたこの役目をこなしていく内に、確かに強さが身につけていった。
 その力で守るべき者は、もういないというのに。


 振るった己の得物は、相手に刃を届かせる前に空を薙ぐ。続けて、こちらを押さえ込もうとするかのように、相手の太刀が勢いよく打ち据えられる。
 ぎりぎりと金属同士の擦れ合う、嫌な音が響く。だが、刀剣男士の本気とは思えぬほど、その力は軽い。恐らく百合に蝕まれ、体に思うように力が入らないのだろう。

(早くしなくては)

 目の前の刀剣男士の理性がある内に、彼の心が壊れきってしまう前に、刀として破壊してやらねば。そんな矛盾めいた思考を違和感すら覚えずに受け止め、山姥切の打刀は勢いよく彼の得物を弾く。
 がら空きになった胴体。一歩踏み込んで刃を突き立てれば、或いは薙ぎ払えば、致命傷になる一撃を与えられる。
 さあ、あとほんの一歩。
 そのとき、

 ぷつん、と

 何かとても大事なものと繋がっていた糸が、切れた。

「…………!!」

 最早意識すらしていなかった。
 だから、切れたことで、初めて理解した。
 自分が己の首を落とさなかった理由。
 自ら幕を引くことができなかった原因。
 それは、

「ある、じ…………?」

 人として死んだはずなのに、それでも微かに生きていた審神者との縁が、まだ己の中に残っていたから。
 あたかも、諦めと絶望の沼に沈んでいく体を、引き留めようとするかのように。
 細い指で、そっと縋るかの如く。
 大人しく、気丈な性分のくせに、審神者としては一人前であろうと頑張っていた。
 陸奥守が折れたときも、皆の前では沢山涙を見せていたのに、唯一、山姥切国広の前では泣くまいとしていた。そして、この景趣に心を壊され、彼女は憂いと嘆きの日々から解放され、そして異形に囚われたのだと判断した。
 だから、彼女は死んだと、人として既に終わってしまったのだと思っていたのに。
 今の瞬間まで、気付かなかった。
 気付いたときには、もう――それは、終わっていた。


 鋭く空を断つ音がする。
 僅かに頭をもたげ、山姥切国広は見る。
 自分に迫る刃を。
 白い貴人のような、或いは鬼神のような形相の男が振り下ろす太刀を。
 体の中心を貫く、冷たい感触。
 それが己の中に宿る魂を、取り返しのつかないほどに壊し尽くしたと理解した瞬間。
 山姥切国広は、地面へと倒れていた。



 ぼんやりと滲んだ視界に、薄らと人の顔が入り込む。空は永劫に終わらない夕日であり、きっと今も白百合たちを炎のように紅く染め上げているのだろう。

「国広さん、国広さん……っ」
「あるじ……?」

 はたはたと頬に零れていく、雨のような感触。泣いているのは、主には似ても似つかぬ子供だった。なのに、どこか親近感を覚えるのは、迷い込んだ彼女を見つけたとき、彼女が泣くまいと気を張ったような顔でこちらを見ていたからだろうか。
 たとえ人間とて、この景趣は容赦しない。進行は刀剣男士より遅いものの、いずれは百合に蝕まれていく。だから、この娘を発見してすぐに『解放』してやってもよかったのに。そうしなかったのは、彼女がどこか、主に似ていたからだろうか。

「髭切さん、どうして……どうしてっ」

 自分を殺そうとした相手にすら、こんな風に泣くのだから。やはり子供なのだな、と山姥切国広は僅かに唇を笑みの形に歪ませる。

「もう、いい」

 だけど、手にかけた彼を責める必要はないと言う。どうして、と今度はこちらに疑問が投げかけられた。

「……いいんだ。主が、いなくなったから」

 ああ、自分は何て馬鹿だったのだろう。
 あの子供は、この景趣から聞こえる声は、こう言っていると話していたではないか。

 ――彼だけは、だめ。

 それは、きっと、こんな情けない刀を、それでも守りたいと抗った、僅かに残った彼女の魂の叫びだったのだろう。
 呪いではなく。彼女は最期まで、山姥切国広という刀を守り続けようとしてくれていた。
 それだけのことだったのだ。

「……ありがとう。それだけ分かれば……もう、いい」

 口を動かすのすら億劫だ。体の末端から罅割れていくような感覚は、きっと今まで多くの仲間が体験したものと同じなのだろう。
 滲みすぎた視界は、最早何が映っているのかもはっきりしない。もし、死んだ先に行く所があるというのなら、恐らくは辿り着く先は皆とは違う所だろう。
 己の投げやりな衝動に、多くの刀や人を巻き込んだ。死して尚、自分を守ろうとした主の思いすら、今際の際でしか気づけないような不忠の臣だ。
 そんな自分には、誰も辿り着けないような、この花園とは似ても似つかぬ底なしの闇がお似合いだ。

 ――山姥切国広

 ああ、でも、そんなことを言っていたら、もっと「しゃんとしい」とあいつに叱られるだろうか。「お前の状況判断能力は買ってやる」と長谷部に言われたのは、何度目の出陣だっただろうか。「僕たちで山姥切さんの新しい布を用意しました」と、綺麗な織り目の入った布を前田たちに渡されて、困ってしまったこともあったっけ。
 それに、

 ――山姥切。次は何を育てようかしら。

 そんな風に、笑って彼女は誘うから。

「それなら、今度は――向日葵を」

 あいつが好きだった花を。
 あんたも好きだった花を。
 太陽のようなあの花は、きっとあんたを照らしてくれるだろうから。

 ***

 倒れ伏した刀剣男士の体に、細かな亀裂が入る。玻璃の器を割ったかのような涼やかな音が響き、人の輪郭を成していた彼は――山姥切国広は、光の砂へと変じていた。
 風にさらわれたそれは、拾い上げる暇もなく虚空へと消えていく。後に残されたのは、真っ二つに折れた打刀が一振りだけ。

「……終わったみたいだね」

 髭切は、その破片を手にとり、志乃に渡す。唇を噛んで多くの言葉を飲み込み、少女は刀を受け取った。
 どうして殺したのか、と非難こそしたものの、彼女とて髭切が意味も無く山姥切を破壊したなどと思ってはいない。ただ、誰かが彼に死を齎した存在を糾弾しなければ、あまりに彼に救いがない。それ故の、言葉だった。
 刀を注意深く袂に仕舞い、ふと顔を上げ、志乃は目を見開く。

「髭切さん、体が」
「どうしてだろうね。山姥切が完全に破壊される直前に、花が剥がれ落ち始めていたんだ。それに、周りも」

 髭切に促され、志乃も慌てて周囲を確認する。あれほど美しく咲いていた花たちは既に所々枯れ始め、青々と茂っていた木々も今や冬を迎えたかのように葉を落とし始めている。

「弟や長義が、もしかしたら景趣の鍵になるものを破壊してくれたのかな?」
「……そうかも、しれませんね」

 自分が助かるかもしれないと分かっても、志乃の声は暗い。
 山姥切国広と心の一部を同調させていた彼女には、破壊される直前の山姥切の感情も、幾らか流れ込んできていた。
 しかし、それを口にするつもりはない。今は、言葉にできる余裕もなかった。
 代わりに、先だってから気が付いていた、とあることについて彼女は話す。

「髭切さん。長義がどこにいるか、今なら……前よりはっきりと分かる気がします」
「おや、そうなのかい。これも、この景趣が壊れ始めたからかな?」
「それは、まだ分かりません」
「その調子で、弟の気配も掴めないかい?」

 志乃は困ったような笑顔で、ゆっくりと首を横に振る。どうやら、そんなに物事は上手くはすすまないようだ。
 ともあれ、髭切にとっては長義も要救出者である事実には変わりない。先に合流しようと促せば、志乃はすぐに頷くかと思いきや、髭切の体に視線を走らせて躊躇を顔に浮かべる。

「髭切さん、その、怪我が」

 体に生えていた百合の花が悉く消滅したため、露わになった髭切の体には、山姥切がつけた傷がいくらか残っていた。出血はそこまで酷くないが、傷であることに変わりはない。

「これを手入れするとしたら、どれぐらい時間がかかる?」
「大体、私の力なら五分か十分は必要だと思います」
「それなら後でいいや。もう百合も生えないようだから、何か襲ってきても対処できるだろう」

 今は自分の些末な軽傷よりも、はぐれた者との合流を急ぎたい。その意図を志乃も汲んでくれたようで、意を決して頷くと、

「こちらです」

 髭切は辺りをそれとなく警戒しながら、彼女の後を追う。
 木々の葉が落ち、百合たちも今や精彩を欠いて、枯れたような有様になっている。おかげで、今までの光景が嘘だったかのように、見晴らしはとても良くなっていた。
 歩き始めて十分も経たない内に、髭切は広くなった視界の端に、動くものを見つける。

「長義!!」

 志乃が呼びかけた先、そこにいたのは確かに灰色の外套を翻した青年──山姥切長義だ。
 そして、彼が今刀を向けている相手。
 それは、髭切の尋ね人でもある弟──膝丸だった。

 ***

 最初に感じたことは、己が内側から得体の知れない何かによって食われていくという気味悪さだった。どうにかそれを振りほどこうとしても、体は思うように動かない。為す術も無く、漂ってくる甘い香りと共に自分の一部が蝕まれていく。
 それでも、必死に拒もうとした。自分が何者かが分からなくなりかけ、藁にも縋る思いで名を思い出し、記憶を辿り、何とかして『自己』を留めようとした。

 ――こいつを、ここから追い出さねば。

 何がどうしてこうなったかすら、最早はっきりしなくなりつつある中で、ただ確かなのは、この不躾な侵入者は決して友好的な存在ではないということだ。

 ――何でもいい。何か、これを追い出す力を。

 必死に活路を見出そうと、それこそ『神』にでも頼る思いで藻掻いているとき、唐突にある記憶が頭の端で爆ぜる。

 ぼんやりと霧がかった道。季節は冬で、己は枯れた下草を踏みしめながら、山道を歩いていた。
 足を進めた先には、すり切れた縄が道を塞ぐようにかけられていた。
 ここから入ってはならないと示す境界線。縄に結ばれた、嘗ては白かっただろうと思われる、今はもう朽ち果てる寸前の紙垂。
 それが何を意味するか、分かってはいた。けれども、そこを越えねばならないと考えた。だから、自分はそれを――踏み越えた。
 縄が敷いた境界の向こうへと歩いた。奥へと向かった。只管、奥へと。
 何か理由があったかもしれない。だが、今はどうしても思い出せない。
 益々濃くなる霧の中、辿り着いた果ての果て。
 そこで――――

 ――■■■■■。■■■■■■■■■■。

 たぐり寄せた記憶は、ぷつりと途切れる。
 茫漠とした自己の中、彼が最後に目にしたのは、
 こちらを見据える蛇の双眸だった。

 ***

「くそ、正気を失ったか、膝丸!! 目を覚ませ!!」

 何度目になるか分からない呼びかけてみるも、返ってくるのはうなり声と蛇のような低い音のみ。同時に蛇の牙の如く、こちらに食らいついてくる太刀を、どうにか長義は己の得物で受け止める。

(百合のせいで暴走したのか……? しかし、あの審神者が完全に消滅した後、百合は全て効果を無くしているようだが)

 思索している間にも、遠慮無く膝丸の猛攻は続く。右から左から、時に下から抉るように突き出される凶器を回避するのは、至難の業だ。
 膝丸は怪異退治の任務を任されるまでは、第一線で時間遡行軍と渡り合っていた刀剣男士だ。当然、実戦経験も豊富であり、監査官として前線からは一歩退いていた長義との技量の差は、明瞭に存在する。しかも、こちらが本気で攻撃しないというハンデつきでは、長義の腕も更に鈍らざるを得ない。
 そんな針を通すような死線の渡り合いは、いつまでも続きはしない。元々、長義は昨晩からこの景趣に潜り込み、未だ志乃の安全も分からず、精神的に疲弊も重なっていた。その上で、化け物染みた膂力を持った男に、全力で打ち据えにこられてはたまったものではない。
 指先に走った、微かな震え。刀剣男士の力がいくら協力といえども、拭いきれない疲労が得物を振るう力を僅かに鈍らせる。
 ほんの僅かな隙だ。だが、刀剣男士としても、付喪神というあやかしとしても、全力でこちらに挑むモノには十分過ぎる隙だった。

「――っ、こちらの気も知らずに……!!」

 受け止めきれずに、膝丸の太刀が長義の胴体を掠める。縦に入った傷は、幸いそこまで深くない。しかし、勝利の天秤はたったそれだけの傷で大きく傾く。
 じんじんと響く痛みは、己の集中を削ぐ。意識的に痛みを押さえつければ、今度は己の限界が分からなくなってしまう。事態が解決した状態で、こんな所で自らの全力を振り絞った挙げ句に倒れたくはなかった。
 そんなことを悩んでいる間にも、膝丸は太刀を構え直し、的確にこちらの喉笛を切り裂く算段を立てている。
 上段から、一歩踏み込むと同時に振り抜かれる太刀。躱さねば、或いは受け止めねば、と理解はしている。けれども、一筋の傷は予想以上に蓄積した疲労を悪化させる効果があったらしい。

(間に合わないっ!!)

 相手の攻撃に対処するための動作は分かっているのに、体がそれに追いつかない。今度こそ己の体に刃が食い込むと、覚悟を決めて歯を食いしばり、

「そこまでだよ」

 聞き馴染みのある声と共に、銀の光が視界の端で煌めく。とん、と体を軽く押され、上体が傾ぎ、そのまま長義は後ろに倒れ込む。だが、体を強かに打ち付けるより先に、

「長義!!」

 一人の少女の声が、彼の耳を打った。振り向かなくともそこに誰がいるかを、彼はその声で知る。

「――志乃。無事……だったんだね」
「はい。髭切さんと……国広さんに、助けてもらいましたから」

 伝えられた名に対して思うところはあったが、すかさず長義は顔を跳ね上げさせ、己を斬ろうとしていた相手へと注意を払う。戦いの舞台から一時的に降ろされたとはいえ、相手はまだすぐ側にいる。気を抜いている場合ではない。
 長義の視線の先では、今まさに、髭切が膝丸へ刃を突きつけていた。



「弟、僕だよ」

 つい先程まで刀を向け合い、命の奪い合いを演じていたと思えない気軽さで、髭切は声をかける。
 普段なら、ただこれだけの言葉で、自分が向かい合っている者が何かに気が付いただろうに。

「…………」

 眼前の膝丸は、こちらを睨むばかりでまるで答えない。漏れ出るのは、微かなうなり声。同時に、空気が鋭く通り抜けるような、蛇の威嚇に似た音。
 たったそれだけの振る舞いが、髭切の心に小さな傷を作る。

「本当は、こうならないでほしかったんだけどね。主の力だけじゃ、貴様を完全に抑えきるのは難しかった……ってことか」

 独り言を呟き、状況を認識する。
 目の前には、明らかに正気を失っている刀剣男士が一振り。名は膝丸。他ならぬ、自分の弟刀だ。
 景趣はじわじわと変化は始めているが、その結果として何が起きるはまだ分からない。このまま抜け出せるかは不明だが、もし抜け出せたとしても、今の状態の膝丸を人がいる場所に連れて行くのは危険だ。だから、結局とれる選択は一つだけ。

「弟、一緒に帰ろう」

 何てことのない、いつも通りの呼びかけと共に、髭切は刀を構える。
 山姥切と戦った傷は残っているが、弟のためならば、その程度何するものぞ。
 すっと息を整える。痛みや倦怠感を、全て己から切り離す。
 自分は鋼だ。一振りの太刀、ただそれだけだ。
 だから、痛みなどない。疲労もない。必要なのは、敵を倒す力のみ。
 嘗ての己は、そのように振る舞っていた。今も同じようにすればいい。それが、自分の全力を出すための最短の道だ。
 膝丸が踏み出すより早く、髭切は己の足を前へと動かしていた。膝丸の太刀筋が蛇のように滑らかで流れていくような動きならば、髭切のそれは、正面きって相手に食らいつく狼に似ている。
 まずは一刀。弟の力量なら十分過ぎるぐらい知っているが、今の状態で全力を出し切っているのかを把握する。

(これが、正真正銘本当に弟が本気を出しているなら、敵わなかっただろう)

 数度刀同士が触れあい、膝丸の袈裟斬りを危うい所で回避し、代わりに牽制の一刀を混ぜながら髭切は思考する。
 もし、膝丸が十全の状態でこちらと向き合っていたのなら、山姥切との戦いで受けた傷や疲労が、勝利の天秤を大きく傾けていたに違いない。
 ただ、常に膝丸と背中を預けて戦い、時に手合わせをしていた髭切としては、今の彼の動きはいつもに比べて精彩が欠けていると感じ取っていた。
 こちらに対する剥き出しの敵意は目を瞠るものがあるが、言い換えればそれだけだ。敵を誘うような挑発的な動きもなく、故に次に何をしようとしているのかが髭切には読みやすい。普段から弟の姿を目にしているおかげで、僅かな手首の返しや首の向け方一つで先の行動が分かる。

「おいで。暴れ足りないのなら、僕が相手になるよ」

 膝丸にそのように呼びかけ、髭切は鍔迫り合いにもつれ込んだ刃を一旦引く。膝丸の眉がぎりっとつり上がり、蛇の威嚇の如き音が再び漏れる。
 こちらの出方を窺っているようだが、迷うより進むが先と判じたのか。数歩踏みだし、間合いに入ったと同時に、大きく振りかぶって一刀。髭切の首筋に吸い込まれるように届きかける刃を、

「残念、はずれ」

 軽く首を傾け、髭切はひょいと躱す。ほんの数秒タイミングがずれれば。彼の喉笛は確かに刃が貫いていただろう。その証拠に髭切の淡い金髪が、ぱっと散っていた。
 ゆらりと相手の一撃を回避し、攻撃の際に生ずる隙につけ込むように、髭切は太刀を片手で返す。懐に滑り込むように叩き入れた一撃は、もし刃を外にしていたのなら、確実に胴体を切り裂いていただろう。
 屈んだ髭切の頭上から、微かな呻き声。腹を峰で強打された、膝丸の苦悶が口から漏れ出た声だった。

「今はお眠り。……目覚めた時には、いつものお前でありますように」

 そのまま髭切は姿勢を戻し、腹を打たれた衝撃で体を折り曲げかけていた膝丸の首筋に、一切の迷いなく、人間なら骨が折れるのではないかという勢いで太刀を振り下ろした。
 峰とはいえ強烈すぎる痛打に、さしもの膝丸も耐えきれなかったのだろう。彼の体は前に傾き、どさりと派手な音をたてて地に伏す。

「……あんなに強く打って、大丈夫なのか」

 戦闘の終わりを感じ取ったのか、長義が膝丸の様子を窺いながら髭切に問う。

「僕の弟だもの。これくらいの攻撃で折れたりしないよ」
「いや、そういう問題じゃないんだが」

 長義はそこまで言いかけたが、言うだけ無駄かと口を噤む。
 今は、そんなことよりも気にするべき事柄がある。髭切も同じことを思ったのか、気絶した膝丸を抱え起こしながら、周りを見渡した。

「百合の花が、枯れていっているようだけど、長義はこれの原因について知っているかい?」
「手短に言うと、この景趣の大本に繋がっていた人間を、膝丸が……排除した。君たちが事情を聞きに行ったという審神者の女性だよ」
「おや、そうだったのかい。ああ、つまり彼の主は彼女だったというわけか」

 髭切は山姥切国広が最期まで気にしていた〈主〉の存在は、あの雪雫と名乗る審神者だったのだろうと推測する。もっとも、怪異に繋がるような形で変貌した人間を、それでも主人として扱えるのかについては、髭切には判断しかねる事柄だった。

「君の考えでは、この異界を作っている存在を排斥すれば助かる……という意見だったらしいが、俺たちはここから脱出できるのかな」
「うーん、どうだろうねえ」

 話している間にも、百合の花はまるで時計を早送りしているかのように、鮮やかな白から瑞々しさを欠いた茶色に変色していく。そこにあるのは、確かに景趣の終焉だが、それなら今ここにいる自分たちはどうなってしまうのか。

「一緒に僕らも異界と共に消えたりして」
「言い出したのは君じゃなかったか?」

 冷たさを帯びた長義の視線に、髭切はわざとらしく肩を竦めて応じる。

「冗談だよ。こういう場合、気が付いたら元の場所に戻っているって場合が多いんだけど……。前も、弟がそう話していたし」

 だが、以前膝丸や主が迷い込んだ異界とは勝手が違うのか、周りの景色が見知ったものに変わる要素はない。それどころか、この世の終わりのような退廃した光景にますます近づいていくほどだ。
 このまま、暫く歩いてみるか。それとも、ここに座して様子を窺い続けるか。
 二振りが顔を見合わせ、己の意見をそれぞれ口にしようとしたときだった。

「あっ」

 声をあげたのは、大人しく様子を見守っていた志乃だった。

「志乃、どうかしたのかな」
「……空気が、変わりました」

 彼女が呟いた刹那、枯れた百合や木々を揺らしていた風が、ぴたりと止まる。
 空も、大地も、景趣に宿っていた全ての命あるもの──或いは命を模したまがい物たちが、時を止めたように停止した。
 呼吸をすることもできないほどの沈黙。そして、

 ――世界が、切り替わる。

 瞬きの間に、黄昏時の夕日は瞬く間に太陽が消え、とっぷりとした夜になり、続けて静謐な蒼を残した払暁の直前の空へと移り変わっていく。
 枯れていた木々たちは、再び時計を高速で進めたかのように枝葉を伸ばし、青々とした葉を広げた。もっとも、光源の乏しい空では、木々の葉も濃紺に沈んでしまっていたが。
 続けて、髭切の鼻をふわりと甘い香りが掠めていく。足元を見やれば、先程までは茶色く水気のない花びらを見せていた百合が、新たに芽吹き始めていた。
 一瞬警戒するも、この花はあの百合とは違うと髭切はすぐに悟る。志乃もそう思ったのか、屈んで花びらにそっと指先で触れてみせた。

「長義、この百合……何だか、見ているとほっとします」
「ああ。まるで、普通の景趣に咲いているような……そんな空気を纏っている」

 長義の言葉に呼応するかのように、百合の蕾は膨らみ、静々と開く。周りを見渡せば、そこには白百合だけではなく、薄い桃色や黄色がかった百合の花たちが、あちらこちらに花開き始めていた。
 ここに来てすぐ目にした白百合とは異なり、病的なほどの密集はしていない。それどころか、あちらは黄色、あちらは桃色と所々に塊を作って咲く姿は、自然のそれに近いように感じられた。
 瞬きを数度繰り返す間に、黄昏時の空と白百合の群生地は消え、代わりに薄青い空気に包まれた山奥の秘境の如き風景に彼らは囲まれていた。

「待てよ。この風景、もしや」

 長義は空を見上げ、木々や百合の花々を眺め、そこに既視感を覚えていた。昨日、景趣の試験に付き合ったとき、長義や志乃の意見を聞いて調整を施した景趣が、まさにこんな光景ではなかったか。
 そのことを髭切に話そうと、長義が髭切の方を見やったとき、

「無事間に合ったようでよかったよ。ろくな試験もせずにシステムを更新するなんて、何が起きるものかと冷や冷やさせられたよ」
「やあ、お前さんたち。思ったよりも元気そうじゃないか」

 乱立している木の隙間から姿を見せた、二つの人影。白い上着に真っ赤なストールをかけたような出で立ちの金髪の刀剣男士――一文字則宗と、濃紺のインバネスコートを羽織った眼鏡をかけた刀剣男士――長義と共に景趣の試験に立ち会っていた南海太郎朝尊だ。
 見知った政府の刀剣男士たちの姿。そして、何やら訳知りらしい彼らの様子を見て、ようやく自分たちの知っている世界が繋がったと、二振りと一人は安堵した。
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