本編の話

 人間が人間でないものに、意識を保ったまま同調するのは非常に困難だ。
 元々、人間は自然から外れて生きるようになってから、己の境界を明確に定めるようになった。結果、彼らは人ならざるものを受け入れられないように変化していった。
 そんな中でも、人ではない存在をその身に降ろしたり、或いは彼らの言葉に耳を貸したりできる者がいる。
 刀剣男士を顕現する力とは似て非なる力。審神者ですら、この才を意識的に活用できるまで高められる者は少ない。
 だが、彼女は――志乃は、その才を生まれながらにかなり高い資質として持っていた。逆に、審神者として刀剣男士を顕現する才には恵まれなかった。
 嘗ては、それを悲しんだこともあったが、今この時に限って言うならば、自分は人ではない者の言葉に耳を傾けられる存在でよかったと思えた。

(山姥切国広さんの声を、私が聞く――)

 髭切と山姥切国広の死闘は、開始して既に五分ほど経過している。その間、休憩もなしに剣戟が続いていた。
 だが、長くは保たないと誰に教えられずとも彼女は理解している。説明されるまでもなく、髭切の行動に鈍りが見え始めていたからだ。

(この景趣に迷い込んだ刀剣男士の方々には、体に花が咲いていく。咲きすぎてしまうと、あの地蔵行平さんみたいになってしまう)

 彼との別れはとても悲しかった。だからこそ、ここから皆を助ける方法を見つけなくてはならないと決めた。
 この異界において、唯一の例外である山姥切国広は、何かを隠している。
 故に、巫女として――人ではない者に耳を貸す才だけは秀でている自分が、彼の心に同調して、それを暴き出す。
 髭切に頼まれなければ、思いつきもしなかった荒技だ。本来、神様や力あるあやかしの声を聞くにしても、こんな風に相手の気持ちを盗み見るような真似はしない。文字通り、他人の心を土足で踏み荒らす所業となるからだ。
 だが、今だけはその禁を破る。

(ごめんなさい、国広さん。でも、髭切さんの言葉の方が、私は正しいと思うんです)

 ここから出る意思を強く固めた髭切。弟を折ると言われ、目の色を変えた姿は、大事な家族を守りたいと願う、兄としての当然の感情だ。
 それに、あの様子なら、山姥切国広は長義であろうと――彼にとっては縁深い刀である刀剣男士であろうと、見逃しはしないだろう。
 百合に邪魔されずに戦える山姥切国広だけが、この異界において非常に有利に立ち回れる。長義が弱いとは思わないが、きっと彼は押し負けてしまう。
 そんなことは、もうさせない。
 何より、山姥切国広にも、同胞を折るような真似をさせたくない。
 息を整え、一つ深呼吸。
 精神を集中させ、己の意識を現実より一段階高みへ引き上げる。
 人間の器から解き放ち、人とは異なる者――この場合は山姥切国広へと波長を合わせていく。
 声が聞こえる。

 ――彼だけは、彼だけは駄目。

 この声は、百合の花園に迷い込んだ時から聞こえた声だ。意図せずして、景趣の方にも波長が合ってしまったらしい。今までよりも、はっきりと頭に流れ込んでくる。

 ――今のうちに、折るしかない。折らねば、こいつも。

 次いで、別の声がする。こちらは、聞き馴染みのある山姥切の声だ。肉声ではなく、彼の意思が自分の中に入り込んでくる。

 ――折らなかったら、こいつも刀ではいられなくなる。刀剣男士の誇りを失い、この地獄を彷徨うだけの化け物になる。だから!

 一際強い意思と共に、金属同士がぶつかり合う鋭い音。
 暫くぎりぎりと刀と刀が鎬を削る音が響いたが――キィンという甲高い音と共に、虚空を一振りの太刀が舞った。それが、誰のものかを考える必要はない。

 ――俺が、折るしかないんだ!!

 悲鳴めいた叫びと共に、志乃の心の奥に多くの景色が明滅して通り過ぎていく。
 雪崩のように己の内側に押し寄せる記憶と感情に、志乃は声にならない苦痛の声をあげた。

 ◇◇◇

 恐い、と叫ぶ少年の声。桃色の髪をしたあどけない笑みが似合う彼の顔は、今や恐怖と混乱で塗りたくられていた。なのに、どういうことか。その顔が徐々に笑みへと変わる。酷く穏やかで、同時にこの状況に全く似つかわしくない笑みに。
 主、逃げてくださいと言いながら、百合に覆われる青年の姿がよぎる。紫の長いコート上の上着に、黄金色のストラ。彼は、いつも自分に厳しくて、少し苦手な相手だった。
 お前が主を守るんだと命じられ、首を横に振った。俺にはできないと呟いたら、頬を張られた。
 その痛みを自覚するより早く、目の前の彼に背中を押された。無我夢中で、彼女の手をとって駆け出した。
 けれども、彼女は不意に足を止めた。彼女の心が折れてしまったのではないかと、自分は焦った。
 せめて、彼女だけは。彼女だけは、守らねばいけない。自分は彼に託されたのだから。ここに来るもっと前に、目の前であいつが折れたときから。

 ――山姥切国広。主を、頼む。

 太陽のように笑う男が、主の最初の刀が、折れる寸前に告げた言葉。
 だから、その日から、俺の誓いはたった一つになった。
 なのに、彼女はその場に頽れて――笑った。
 こんな状況だというのに、まるで幼子のように、とても面白い喜劇の一幕でも見たかのように、ころころと鈴を転がすかの如き声で笑った。
 笑って、笑って、笑い続けて、そしてこう言った。

「山姥切国広。私、わかりました」

 大きく見開いた瞳の片方は、白百合に食われて潰されていた。そんな状況であるというのに、彼女はとても楽しそうに、嬉しそうに微笑んで、

「これは、皆への、救いだったんです」

 何かを悟ってしまった彼女の体を、百合の花は慈悲深く、無慈悲に包み込んでいく。
 何が起きようとしているのかは分からない。けれども、たった一つ、これだけははっきりとしていた。
 ――唯一残っていた希望も、潰えてしまったということは。

 ◇◇◇

「――――ぃやああああぁああアアァっ!?」

 少女の命を削り取られていくような絶叫に、刀を弾き飛ばされて尻餅をつかされた髭切も、弾き飛ばした側の山姥切国広ですらも、思わず体を硬直させる。
 相手を無手の状態に追い込んだ、という余裕があったからか。先に、山姥切国広が志乃へと視線をやった。

「俺の思考に同調しすぎない方がいい。あんたが何をどう感じ取れるかは知らないが、常人なら正気ではいられないだろう」

 山姥切の言葉は、決して大袈裟なものではないようだ。その証拠に、志乃は体をくの字に折り、あたかも発作でも起こしているかの如く、僅かに痙攣しているようにすら見えた。

「……君は、何を見たんだい」

 山姥切に切っ先を突きつけられた状態でもなお、髭切は己の命令が齎した成果を寄越せと志乃に言う。
 少女の吐息はまるで全力疾走の後のように乱れていた。だが、それでも彼女は立ち上がった。もつれるような足取りで、少女は山姥切に躊躇無く駆け寄る。相手が凶器を持っていると分かっているのに、お構いなしだ。

「くにひろ、さん」

 山姥切の布にしがみつき、少女は言う。山姥切は、彼女を振りほどこうともせず、石のように冷えた目で見下ろす。構わず、志乃は唇を動かした。

「もう、やめてください。髭切さんを、折ろうとしたのは、結局は……地蔵さんと同じ、なんですよね」
「地蔵行平と同じ……?」

 髭切の問いへの返答代わりに、志乃は山姥切へと食らいつくように、どこか縋るような調子で彼に言う。

「国広さん以外の刀剣男士は、皆、この景趣に迷い込んで、花のせいでおかしくなってしまった。だから、あなたは、たった一人で何人もの……仲間を、折った。それは、皆が刀として折れたがったから」

 ここは、刀としての矜持すら容赦なく奪っていく異界。戦で折れるという当たり前の末路すら、この場所は与えてくれない。
 道理で、地蔵行平への介錯に拘っていたのかと、髭切は納得する。
 だから、代わりに山姥切国広がそれを与えた。戦の中で死ねないなら、せめて自分と戦い、刀として終わらせようと決意した。

「つまり、ここにある折れた刀は、君が折った……いいや、介錯した刀剣男士たちの残骸か」

 本丸の仲間だけではないだろう。髭切をわざわざここに誘い込み、戦いを仕掛けてきた様子から察するに、単純に迷い込んだ刀剣男士たちも山姥切は『見捨て』なかった。
 仲間たちと同じ末路を迎えると知っていた彼は、彼らが景趣に食われる前に、先んじて戦いを挑み、刀としての終わりを突きつけた。中途半端に生かしていては、結局は、地蔵行平や、来た当初に出会った化け物のような末路を、迎えさせるだけだと分かっていたから。

「もう、こんなことはやめてください……。あなたの心は、たくさん、たくさん、血を流して、苦しんでいました……!!」

 それが、志乃が見て取った感情なのだろう。景趣の脱出や現状の打開に関する情報ではなかったことを、髭切は内心で苦々しく思っていた。
 彼女の言葉に感じる所があったのか、山姥切は髭切から視線を逸らし、しがみついている娘に視線をやる。

「だが、他にどんな手がある」

 志乃に己の心を覗かれたと分かってか、開き直ったように山姥切国広は言う。

「俺たちがここに迷い込み、たったの三日で本丸の半分以上の仲間がおかしくなった。そのどれもが、刀としての誇りを捨てさせられ、主や俺たちを斬ろうとして、仲間に殺され、破壊された。その光景を見て、主は」

 主は、狂った。
 主は、自分が置かれたこの状況を、『救い』という形で理解してしまった。
 己の正気を狂気へと捧げ、そして自ら花に蝕まれていたにも拘わらず、まるで得がたい祝福のようにそれを受け入れ――

「彼女は、俺の前で花に呑まれて死んだんだ……!」
「……えっ?」

 髭切は思わず驚きの声を漏らす。
 なら、自分が本丸に赴いた先で出会った彼女は誰だったのか。彼女は、一人で『生還』したのではなかったのか。
 答えは、続けて山姥切が語ってくれた。

「俺はそれを見て、絶望して……気を失った。そして、次に目を覚ましたとき、死んだはずの主がいた。だが、それはもう彼女ですらなかった。このわけの分からない空間が、主すらも、傀儡にしてしまった」
「……彼女は、あなたに言いました。『刀剣男士たちも人も、皆が花になってしまえばいい』と。そうすれば、悲しいこともなくなるから。それに」

 志乃の唇が僅かに震える。
 土足で相手の心を覗き見る失礼を重ねた上に、ここまで言ってしまってよいのかという逡巡。しかし、もし自分が彼の心から距離を置けば、山姥切はこの死刑執行人の役割に縛られ続けだろう。
 だから、彼女は選んだ。

「陸奥守のように、折れる刀もいなくなる――と、彼女は言いました。でも、陸奥守さんの望みは、きっとそんなものじゃない! あなたがこんな悲しい役割に縛られることだって、望んでないはずです。こんな救い方、決して認めないはずです!」

 憶測ではあったが、今は彼を止めたかった。損得勘定を抜きにして、ただ、目の前の刀剣男士の心にできた傷に触れ、寄り添いたいと願った。
 出会ってまだ数時間しか経っていない相手ではあったが、自分でも不思議なぐらい、志乃は彼に対して強く同情の念を抱いていた。だが、

「あんたに、何が分かるっ!!」

 低く押し殺した声には、今まで平坦に均していた感情を表出させた分だけの怒りが露わになっていた。

「陸奥守は、俺を庇って折れた! 主は、陸奥守を信じていた。主にとって陸奥守は、特別な刀だった。そんなあいつを、俺のせいで、主から奪ってしまったんだ……!」

 最早、山姥切の刀は髭切を眼中に収めてすらいなかった。自分に縋る少女を振り払うように、ばさりと強く布が翻る。
 突き飛ばされるような形になった志乃は、思わず尻餅をつく。その首筋には、刀の切っ先。それを辿れば、怒りとも悲しみとも言えない感情で顔を歪ませた山姥切が、志乃を見下ろしていた。
 彼の口の端は奇妙に引き攣り、今までの落ち着いた様子はどこへやら、歪な笑みが浮かんでいる。或いは、今までの鉄面皮は全てこれを押し隠すものだったのかもしれない。凶器を眼前に突きつけられながら、志乃はそんなことを思う。

「だから、主は、俺だけは皆のように連れて行ってくれない! 花に変えて終わらせてくれない!! 解放してくれない!! それは、今も彼女は――死んで傀儡になってからもなお、俺を許していないからだ!!」

 血を吐くような叫びは、仲間に庇われ、生き残ってしまった負い目からか。
 それとも、この終わりのない花園に閉じ込められ、心をすり減らした末に行き着いた結論だったのか。

「一振りだけ、他の連中のように花にも変えられず、永劫この地を彷徨わされている。それならせめて、これ以上他の奴らが、皆のように、自分を失って折れていくことのないように――」

 陸奥守吉行という刀が折れ、守るべき主が怪異に心も体も奪われ、仲間すらも全員朽ち果てた。
 その果てに、唯一正気を保ってしまった山姥切国広の導き出した答え。

「俺が、お前達を、正しく終わらせる――!!」

 それは、景趣の中で安らかな尊厳ある死を送る、処刑人としての道。自らが定めた道を否定すれば、それは今まで己の両手を血に染めた所業を否定することも同じ。
 故に、山姥切はもう止まれない。
 振り上げた刀は、無抵抗の子供に向けて、真っ直ぐに死を与えんと振り下ろされ――

「話が長すぎるよ、山姥切国広」

 金属同士がぶつかり合う、涼やかな音。
 それは、神楽鈴を思わせるような、美しく――だが、どこか悲しく聞こえた。
 山姥切国広と志乃の間に滑り込んだ白い影。片手が持つ太刀は大きく振りかぶられた後で、それが少女へと向けられた凶器を弾いたのだと分かる。
 他の誰でもない。山姥切国広が志乃へと捲し立てていた隙に、髭切が体勢を立て直し、間に割って入ったのだ。

「髭切さん、その体……っ」
「ああ、うん。あまり……よくないね。今でも、集中していないと何を考えていたかすら分からなくなってしまいそうだ」

 髭切の半身は、半分以上は百合の花で埋め尽くされていた。なまじっか服が白い分、輪郭が曖昧になって、ともすれば花畑の中に溶けていきそうだ。

「だけど、まだ弟のことは覚えている」

 それだけがあれば、髭切にとっては十分過ぎる。
 体は鉛のように重くとも、戦いのために意識を研ぎ澄ませることすら難しくとも、刀を振るうことならできる。
 髭切に割って入られたせいで、山姥切国広は数歩後ずさる。だが、それだけだ。彼は倒れたわけでもなければ、戦意を失ったわけでもない。
 こちらを見つめる翡翠の目は、出会ったときとは打って変わって、己の行く道のみを信じようと誓う危険な光が宿っていた。

「僕を刀として折ってくれるんだろう。見てないで、かかってきなよ」
「大人しく、そこで倒れていれば、よいものを――っ!!」

 山姥切が吼える。まるで、魂を削り取り、血を吐くような叫びだった。
 構わず、髭切は彼に肉薄する。数度刃が衝突し、その度に鈴を鳴らすような澄んだ音が響く。
 ひゅっと勢いよく横に振られた一閃を躱し損ない、髭切の纏う装束が浅く斬れる。ぱっと飛び散った赤が地に落ちるより早く、上段から叩きつけるように髭切は相手の刃を押さえ込みにかかる。
 しかし、予想以上に思う方向へ力を入れられない。入れようとした先から虚脱感に襲われ、呆気なく山姥切は得物を上へと打ち上げ、髭切の太刀を弾く。

(しまった――!)

 まるで、ここを狙ってくれと言わんばかりに、がら空きになった胴体。普段なら、蹴りの一つでも食らわせて距離を無理矢理置かせるのに、足が動かない。
 一撃貰うのを承知で、髭切は跳ね上がった右腕に、花に塗れて殆ど動かない左手を添える。狙うは大上段からの袈裟斬り。相手の攻撃に一拍遅れてしまうが、今はその痛みを受け入れて、

「……!?」

 刀を振るう腕は止めない。だが、髭切は瞳を見開く。
 山姥切国広が、動いていない。
 髭切の刀を弾いた姿勢で、不自然に前のめりになったまま、硬直してしまっている。
 何か罠が。
 或いは、策が。
 そんな危惧すらも、時既に遅し。
 勢いよく振り下ろした一刀は、過たずに、一振りの刀剣男士の体を、深々と切り裂いた。

「国広さんっ!!」

 彼の名を呼ぶ娘の声。それをかき消すように、花びらたちの中へと、一振りの男の影が落ちる音が響く。
 振り下ろされた刃に対して、無抵抗のまま受け入れた彼の横顔滲むのは、驚愕と――僅かな安堵。目が痛くなるほど白い百合に、紅い紅い花が、音も無くゆっくりと咲き広がっていった――。


 ***


 眼前に飛び散った赤が、何を示すのか。冷静に考えればすぐに分かることなのに、長義は目の前の状況を理解するのに、数秒の時を要した。
 この景趣の元凶と結びついたと思しき、一人の人間。かつて被害者であり、そして今は、加害者に転じて、膝丸を手にかけようとしていた女。
 彼女の胸に深々と突き立てられ、背からその切っ先を覗かせている一振りの太刀。
 それらの事柄を指し示すのに、難しい言葉は必要ない。
 膝丸が――女を、刺した。
 ただ、それだけのことだ。

「……膝丸?」

 百合を吐き出し、気を失っていた彼を、長義は戦力として勘定していなかった。
 だが、彼とて刀剣男士の一振りだ。自分が害されると分かっていたら、攻勢に転じるのも当然と言えるだろう。
 ずぶりと突き立った太刀は、ダメ押しのように、更に深く刺し入れられた後に、あっさりと抜かれる。しかし、肉に刃が突き刺さったと思えぬほど、命が一つ終わったにしては、響いた音は軽かった。
 それも当然と言えようか。彼女が撒き散らした血は、地面に落ちるより早く、百合の花びらとなって風に流されていく。その傷跡も、人ならば当然あるべき真っ赤な肉ではなく、花びらを詰め込んだ人形のように、白々としている。
 先程感じたように、彼女はとうの昔に『人間』であることを放棄していた。
 恐らく、膝丸が突き刺した結果、彼女の怪異としての側面に致命的な損傷を受け、それが負傷として形になったのだろう。

「あ、れ……わたし、どう、して……」

 よたよたと、数歩後ろに下がり、まるでただの人間の女のような、ごく普通の驚愕を彼女は顔に浮かべる。項垂れているために表情ははっきり見えないが、自分へと凶器を突き立てた膝丸を、彼女は呆然と見つめていた。
 続けて、ふらりと体を傾がせ、未だ上体を起こしきっていない長義へと、彼女の頭が動く。そして、長義を目にした瞬間、彼女の瞳は大きく見開かれた。

「くに、ひろ……?」

 彼女の呼んだ者の名は、長義にとっては忌ま忌ましい名であった。
 己の写しとして生まれたのに、大本となった自らの逸話を食いかねない、とある刀剣男士の名。
 ――山姥切国広。
 長義自身、よく知っている。山姥切国広の顔は、嫌というほど自分に酷似しているということに。

「俺は、山姥切国広じゃ」
「くにひろ、よかった……くにひろ、くにひろ」

 言葉を発しながらも、こちらに向かってくる彼女の足取りは、酷く覚束ない。たった数歩歩くだけのことに命を燃やしているかのように、一歩進むだけで彼女の輪郭がほどけ、花となって消えていく。
 こちらへ歩む女を、もはや審神者では――人間ではなくなったはずの存在を斬り捨てるのは、とても簡単だ。
 手に握った打刀を構え、一刀のもとに斬り伏せる。
 たった数秒。
 ほんの数歩。
 ただそれだけのことを、山姥切長義は――しなかった。

「国広、あなたは……無事なのね」

 既に足すらも輪郭を保てなくなったのか、どさりと倒れ込みながらも、女は──嘗て雪雫と名乗った審神者の娘は、心底安堵したような顔で長義に向かって話しかける。
 彼女に視線を合わせるため、しゃがみこんだ長義の蒼の双眸に、女性の瞳が映り込む。
 彼女の目には、最早あの禍々しいまでの狂気は宿っていなかった。ただ、その目が現実を見ていないことも、また明らかではあった。

「……よかった。あなただけは、あなただけは駄目だと、思って、いたから……」

 大事な初期刀を戦いで失い、おかしな怪異に本丸の仲間を丸ごと奪われ、自らも正気を投げ出したというのに。
 それでもこの人間にとって、自身の全てが終わる瞬間であってもなお、最期まで案じる者がいた。
 具体的に彼女に何があったかは知らない。自分や志乃を巻き込み、こんな状況に追い詰めた怒りもある。
 だけれども、彼女の瞳はあまりに普通だった。
 ごく、一般的な、ありふれた娘の目。
 そこに宿るのは、ただ、相手を慈しみ、案じる思いだけ。

「――ああ。俺は、無事だ」

 故に、そんなか細い願いを、長義は無碍にできなかった。

「だから――あんたは、もう、休め」

 柄でも無く、憎たらしい相手の真似をしてしまうほどに。

「……ねえ、国広」

 もはや、風と殆ど溶け合ってしまうような細い声で、彼女は言う。

「次は、何を育てよう、かしら」
「それなら、今度は……」

 ――――。

 自分でも知らない間に、長義の唇は動いていた。
 長義の言葉を聞き、彼女は嬉しそうに目を細め、頷き――

 ひとひらの、風が吹く。
 するりと通り抜けた風は、彼女の体を象る花びらを、優しくどこかへと攫っていった。


 どこか呆然とした様子で、長義は己の体を見やる。先程まで、己の意識を奪わんとしていた不愉快な感覚はあっさりと消え、体に根付いていた花々も、次々に茶色く枯れ、瘡蓋が剥がれ落ちるように消え去っていた。

「終わった……のか?」

 周りの百合の花畑に変化はないが、怪異の中核と結びついた存在を排除したことは、この景趣の根幹に大きな損害を与えられたようだ。

「膝丸。君は無事か」

 同じく、枯れかけの百合の花に埋もれるようにして、木に凭れたままの膝丸へと長義は駆け寄る。
 否、正確には駆け寄ろうとした。

「!?」

 正面からぶつけられたのは、明瞭な敵意。膨れ上がった殺気は、さながら刀剣男士の宿敵でもある時間遡行軍に浴びせるものに近い。
 だが、今長義の前に立つのは、化け物でもあやかしでもない。

「膝丸、君、一体何が」
「――――ッ!!」

 返答の代わりに響いたのは、シューッと低く漏れる蛇のような音。次いで、長義の鼻先に鋭い痛みが走る。

「……何のつもりかな」

 反射的に身を引いていなかったら、今頃長義の鼻は落ちていたことだろう。丁度、はらはらと零れ落ちた彼の銀髪と同じように。一条紅く走った鼻っ柱への傷が、何が起きたかを明瞭に語っていた。
 ゆらりと立ち上がった彼の手には、一振りの太刀。他の何物でもない、それは膝丸の本体でもある太刀だ。
 彼の瞳は、先程百合を吐いて憔悴しきったことが嘘のように、炯々とこちらを睨んでいる。縦に鋭く割れた瞳孔は、常の落ち着いた琥珀色ではなく、光の加減のせいか、妖しく光っているようにも見えた。
 食いしばった歯から漏れているのは、およそ人の言葉では聞き取れない、蛇が威嚇するような声だけ。常軌を逸した状態であるとは、一目見ただけで分かった。

「膝丸、聞こえていないのか! もう、脅威は去った。君が」

 言葉が終わりきるより早く、姿勢を低くして、滑り込むように太刀が振られる。警戒をしていたため、今回は怪我をせずに、その一撃を受け止めることができた。

(何だ、この力!?)

 だが、そこにかけられた力ときたら、まるで本気でこちらを折りに来ていると思えるほどに重い。
 単純な力比べではこちらが不利になると悟り、素早く長義は膝丸の得物を弾く。技量を用いて距離を置くことこそできたが、危うく力任せで押し切られる所だった。

「膝丸、正気になれ!! それとも、君はまだ百合の影響を受けているのか!!」
「シャァァアアアアアッ!!」

 返事代わりに送られたのは、喉が裂けるのではと思うほどの激しい叫びと、鋭い刺突だった。その速さときたら、突かれると思ったときには、既に眼前に銀の先端が迫っていたほどだ。

「ちっ……!」

 小さく舌打ちをしながら、長義はどうにか顔だけを逸らす。頬にぱっと一筋の熱が走る。けれども、今はそれにかかずらっている場合ではない。
 幸い、相手が真っ直ぐ突っ込んでくれたおかげで、己の立ち位置を少しずらすだけで死角に回り込むことができた。くるりと得物の打刀を掌で返し、峰を向けながら、長義は勢いよく一撃を叩き込まんとする。

「多少痛くても、後から文句を言うんじゃない……よっ!?」

 声の末尾は、驚愕によって上ずってしまった。
 長義が振るった峰打ちは、膝丸の体には届かなかった。正確には、狙った箇所には届かなかった。何故なら、長義の得物を、膝丸はその手で掴んでいたからだ。
 僅か一秒にも満たない時間のやり取りだというのに、彼は反応してみせた。その反射の早さへの驚きもさることながら、刀剣男士によって振るわれている刀を掴もうとする考え自体に、長義は驚愕を通り越して恐怖に近い念を抱いていた。

(気が立って一時的に我を失っているだけで、そんなことができるのか……!?)

 タイミングが悪かったら、自分の指が落ちかねないような荒技を平気で実行に移せる。その思考の異常さに、長義は戦慄しかけていた。
 長義が一瞬硬直している間にも、膝丸の五指は長義の打刀を手で掴み、そのままぎりぎりと力をかけていた。刀剣男士の素手の力で、刀剣男士の本体である刀が破壊できるかは未知数だ。だが、長義は反射的に膝丸の足を払い、姿勢を崩した隙に己の本体を彼から奪い返した。

「いったい、何なんだ! 何が起きているんだ……っ!!」

 先程、審神者だった女性が死んだことで、全ては片付いたのではなかったのか。
 事実、長義の周りに咲いている百合の花園は、少しずつその瑞々しさを失いつつあるというのに。
 枯れかけの百合の花園の中、蛇の声を漏らしながら、仲間であったはずの刀剣男士がこちらを睨んでいる。
 そこにあるのは怒りでも悲しみでもない。
 或いは、狂気ですらない。
 純粋な敵意。殺意。
 研ぎ澄まされた、いっそ禍々しいとも思える気配に、長義は背筋に冷たいものを感じていた。
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