本編の話
代わり映えのない白の景色の中を、長義と膝丸は警戒しながら歩いて行く。
当座の目標として、長義は自分の尋ね人である志乃を、膝丸ははぐれてしまった兄の髭切を探そうとしていた。しかし、そのどちらも居場所は定かではない。
結果として、志乃は水辺で姿を消し、膝丸が髭切の前から消えた場所も川辺なので、川に沿って行こうという結論を二振りは導き出していた。
「この景趣がどうしてこうなったかを、君たちは知っているかい?」
黙ってばかりも何だから、と長義は膝丸へと話題を振る。
本来は率先して話そうとはしないのだが、今は情報を交差させて新たな打開策を模索したい状態だ。好き嫌いを言っている場合ではない。
「景趣を作成していた部署が、誤って外部に漏らしたから――ではないのか?」
「大本の発端は、君が教えてくれた通りなのだろう。俺も、その点については疑っていない。だが、最初に漏れた景趣は、本来安全なつくりだったはずだ」
少なくとも、体を百合で蝕むなどという、物騒な力は持っていなかったに違いない。
そもそも、付喪神の体を浸食して破壊するような代物を、政府の人間たちが作れるとは思えなかった。よしんば作れたとしても、どう間違っても景趣のシステムに混ぜようなどとは思わないだろう。
「君が話してくれた内容では、最初の頃は審神者もこの場所に辿り着き、その後に帰ってきたのだろう。幻の景趣を見た、と報告をする者がいるなら、帰ってきてなければ暢気にそんな話を流布できないだろうからね」
「だが、やがて帰らぬ者が現れた」
「ああ。帰らない知り合いがいた……という発言の後、不穏な連絡が相次いだのだろう? そこで、何か異変が起きたと考えるべきだろう」
景趣に辿り着いた先でとった行動が、景趣をおかしくしたのか。はたまた、景趣に怪しげなまじないでもかけて、危険極まりない場所へと変化させた誰かがいたのか。或いは、あやかしでも紛れ込んだのか。
長義が自分なりの推論を頭の中で整理していると、
「……俺たちと、一緒なのかもしれぬな」
「一緒?」
何か思いついたように、膝丸は呟く。
「ああ。以前、とある鏡に纏わる怪談が、実際に化け物を生むという現象を目にした。その怪談の内容自体は完全にでたらめだったが、怪物が封じられてるという話だけが一人歩きして、挙げ句の果てに」
「本当に、化け物を生み出した……と。なるほど、確かに俺たちと一緒だね」
山姥を斬ったと言われる逸話を持つ長義。
それに同じく、土蜘蛛を屠ったと言われる逸話を引き継ぐ膝丸。
彼らに限った話ではなく、刀剣男士は皆、事実かどうか定かではない逸話を受け継いで顕現する場合もある。
膝丸が本当に土蜘蛛を退治したのか、長義が山姥を殺めたのかは、本人たちの記憶の中ですら曖昧だ。あるのは、刻まれた記録だけ。だが、それらの逸話に纏わる特徴も、彼らの内側には宿っている。
「百合の景趣そのものは、害のある存在ではなかった。けれども、誰かが『一度入れば帰れない場』という逸話を与え、人々がそれを膨らまし、或いは恐怖した。故に、景趣は斯様な存在に変貌した……とは、考えられぬだろうか」
「逸話が生まれてから形になるまで、随分と早すぎるとは思うが……あり得ない話ではなさそうだね」
兄に従ってばかりいると思いきや、膝丸も存外考えてくれていたらしいと、長義は少しだけ彼への評価を訂正する。
「しかし、俺が言うのも何だが、自らに牙を剥くようなものを、好んで流布させたがるだろうか」
「さあ。人間は、怪談を面白がるような生き物だからね。程よい恐怖は、日常に対する丁度良い刺激になるのだそうだよ」
「兄者が怪談を話すと、俺の主は怖がっていたようだが」
「髭切から聞いていたが、君たちの主はまだ七つか八つの童なのだろう。怖がるのは当たり前じゃないか」
そんなことも知らないのか、と呆れかけると同時に、それも当然かとすぐに長義は諦める。政府の刀剣男士が子供と接する機会など、殆どないのだから。
「……そういえば、君はどうやってその子供と知り合ったんだい? 何故、主と呼ぶことに?」
話のついでに、長義は以前髭切から聞かされたときから気にかかっていたことを、膝丸に尋ねる。代わり映えのない景色に少しばかり飽きもきていたため、気分転換も兼ねた問いだった。
「彼は、兄者が連れてきたのだ。兄者に言われて、俺も主と呼ぶようになった」
「……なるほど。君らしいというか、何というか。主と呼ぶかどうかぐらい、髭切じゃなくて、自分で考えるようにしてはどうかな」
「確かに、俺は兄者に押し切られて、彼を主と定めた。そうでなければ、あのような子供を主にしようなどとは、思わなかっただろう。寧ろ、主など不要だと考えていたほどだ」
己が望むのは、片割れの兄のみ。
顕現したときから共に在る彼以外の存在を、膝丸は欲さなかった。
だが、と彼は続ける。
「……主は、俺の作った料理を『おいしい』と言った」
いきなり何を言い出すのかと、長義は眉を寄せるが、膝丸は頓着せずに言葉を続ける。
「刀として在るのが良いことであり、それ以上は必要ない。俺は顕現したときから、そのように自らの考えを定めていた。だが、主は俺たちのようには進めぬ。だから、彼に合わせて、足を止めたときがあった。その際に気が付いたのだ」
ふと見上げた空が青いことを。
桜の花が美しいということを。
口にした食べ物が、おいしいのだということを。
「刀として生きる以外のものが、俺にはあるのだと、主と共にいることで知った」
たとえば、兄が嬉しそうに笑う姿が好きだとか。
主が自分に何か送ろうと奮闘している姿は、少しばかり胸が暖かくなるとか。
そんな取るにたらない出来事は、足を止めてよく見れば、手放しがたい輝きを放っていた。
「故に、今、俺は主がいてよかったと感じている。彼のために、ここから戻らねばならないと」
辿々しさを残しながらも、膝丸は己の心を言葉として形にする。それを聞いた長義は、驚嘆から目を丸くして、膝丸を見つめていた。
「……なるほど。鋼は鋼以外にはなり得ないかと、思っていたが」
顕現直後に出会ったときのやり取りが、あまりに〈物〉らしい無味乾燥なものであったが故に、長義は二振りは人の心を持たぬ刀剣男士なのだろうと思い込んでいた。
休みもとらずに出陣していたと耳にして、やはり、と納得してしまうほどに、彼らは〈物〉として完成していた。
しかし、膝丸の今の言葉は明らかに、〈物〉であっては口にできない内容だ。
「無論、今は任務の最中だ。俺は刀としての役割を忘れるつもりはない。だが、言い換えれば、だからこそ、俺は刀としても主の元に戻るべきだ。帰らねば、主が悲しむだろう」
「へえ、君からそんな言葉を聞ける日が来るなんてね」
だけど、と長義は内心で付け足す。
膝丸は「主は悲しませたくない」と言ったが、それなら主以外の人間や刀剣男士はどうなるのだろうか。
たとえば、鬼丸や小狐丸といった同僚の気持ちを、彼は考えているのだろうか。
彼らが自分に対してどんな気持ちを向けているか、少しでも思いを巡らせたことはあるのだろうか。
(恐らく、君たちにとっては主以外の人間は、やはりどうでもいい対象なのだろう)
空の青さを知り、食べる楽しみを見いだすようになったらしいとは、長義も自らの目で見て把握している。
ようやく、人としての当たり前の五感を意識するようになったことは喜ばしい。
だが、だからと言って、二振りが自分に関わりのある人間や刀剣男士を等しく大事に思うようになったかと言えば、到底そんな風には見えない。
あるいは、今以上の変化を彼らが拒んでいるのかもしれない。生き方は、急に変えられるものではないのだから、それも仕方ないだろう。
「ところで、長義が探している人間も『主』なのか?」
「主……とは少し違う。志乃は……俺が探している彼女は、小さい頃から俺が面倒を見ていた子供だ。その縁で、付き合いが長い分、放っておけないだけだ」
「なるほど、古なじみの縁があって、ここまで追いかけてきたのか」
「他にも色々とあったけれど、大まかに言うとそうだね。本来なら、離れていても大体の居場所は分かるんだが、この異界では俺たちの知る常識は通用しないらしい」
長義の直感は、志乃が百合の景趣の中に留まっているだろうとは知らせてくれた。
だが、それ以上については、まるで何重もの幕に阻まれているかのように、はっきりとしない。恐らく生きているであろうと認識できることだけが、今は唯一の救いだった。
「長義、待ってくれ」
膝丸に制止を呼びかけられ、長義はぴたりと足を止める。
「どうしたんだい」
「……声が聞こえた気がする」
「声?」
長義も、膝丸のように耳をすませてみせる。すると、絹が裂けるような細い悲鳴が、刀剣男士として優れた聴覚を持つ長義の耳に、確かに届いた。
「あちらだ。急ぐぞ、膝丸!」
「ああ」
声の高さからして、悲鳴をあげているのは女性だ。ただ、長義の尋ね人である志乃の声かは、遠すぎてはっきりしない。
それでも、この景趣に迷い込んでいる人間がいるのなら、放っておくわけにはいかない。人間の歴史を守る――ひいては人間そのものを守る者として顕現されたが故の使命感が、長義を突き動かしていた。
***
「ねえ、山姥切国広」
主がいる方角へと歩いていた山姥切へ、髭切は呼びかける。
「何だ」
振り返らず、山姥切は答える。
一陣の風が、ゆるりと二振りの間を通り過ぎる。同時に、髭切の腕に数輪、百合の花が咲く。
もはや、この現象を目にしてから一時間ほどが過ぎていた。対処にも慣れたもので、髭切は百合の花を無造作に掴み、特に視認もせずにぶちぶちと引きちぎる。
「ここは――何だい?」
髭切が、そんな風に問うのも無理はない。
山姥切の後をついて、辿り着いた先。彼は、自らが感知している自分の主の気配を辿っていると志乃と髭切に伝えていた。
だが、そこに、彼の言う『主』はいなかった。
代わりにあったのは、無造作に突き立てられた数え切れないほどの刀たち。
そのどれ一つとっても、真っ当な姿をしていない。
百合の花に蝕まれた打刀、短刀、太刀、大太刀、槍に薙刀。
白い花々がそれらに絡まり咲く姿は、さながら死人に着せる白装束のようだ。そんなものが花畑に何本も乱立している姿は、壮麗であると同時に背筋を寒くさせるものがある。
ただの人間が見たなら、ある種の芸術的趣向の作品と思うかもしれない。
しかし、審神者や刀剣男士が見たなら、この百合に蝕まれた『折れた』刀剣たちの光景は、
「まるで、ここは墓場みたいだ」
髭切は視線を周りに向け、己の見解を口にする。
そこにある武器たちは、どれも一様に折れて破損した姿だった。
ぼっきりと折れた短刀は短くなりすぎて、最早下草に殆ど紛れてしまっている。打刀や太刀、大太刀も、柄の作りや刀身の僅かなつくりの違いからしか見分けがつかないほどに、刀身が半ばで断たれてしまっている。槍や薙刀は、言わずもがなだ。
それら全てが、切っ先を土に埋め、墓標のように百合の花園に突き立っている。
そして、中心に屹立する山姥切国広は、依然として振り向かない。
「国広さんの主さんは、この下に眠っている……ということですか?」
漂い始めた不穏な空気を払拭しようと、志乃は辛うじて思いついた平和的な見解を口にする。
「そんなわけないよね。今がどういう状況か、君だって分かっているはずだ」
話している間にも、腹の辺りに咲こうとした花を髭切は再び引きちぎる。
「ここに留まれば、百合の花のせいで、あの地蔵行平のように僕らもおかしくなる。そんなときに、悠長に墓参りをするような刀剣男士が、いるわけがない」
山姥切国広は、振り返らない。彼は、何も答えようとしない。
ただ、その手が動き、腰の得物に手をかけたのは見えた。
鯉口を切る、涼やかな音。
そこにどんな意思が込められているかを、髭切は問わない。
問う代わりに、彼もまた、鞘から太刀を抜き放つ。
「最初に出会ったときから、少し気になっていたんだ。僕はここに来てすぐ、こうして花が咲き始めた。地蔵行平は数日間ここにいただけで、手に負えなくなるほど変化していた」
代わりに口にしたのは、己の見解。言いつつ、髭切は胸の辺りに咲き始めた百合の花を毟る。
最初こそ、一度に咲く百合の花も少なく、頻度も不規則だった。だが、歩き始めて一刻が過ぎたぐらいの頃には、この浸食の速度が増していると、髭切も気付かざるを得なくなった。
時間が経過するにつれ、一度に咲く花の数は増えていく。人間である志乃には変化が殆ど見られなかったが、それでも彼女の背中に数輪咲いていた所を見つけて、髭切はこっそり取り除いておく必要があった。
だというのに、
「ねえ、山姥切国広。君には、どうして花が咲かないんだい?」
山姥切国広の体には、花が一輪も咲いていない。
布に隠れて見えないだけかと思ったが、花が咲く際には本人にも皮膚が引っ張られるような感覚がある。なのに、彼は咲いた花を取り除く素振りを一度も見せていない。放置する危険性は、彼も重々承知しているはずだから、無視していると思えない。
そうなれば、考えられるのはただ一つ。
――この山姥切国広にだけは、百合の景趣の影響がない。
「俺だけが、どうして花を咲かせないか――だったな」
振り返った山姥切国広の片手には、一振りの打刀。切っ先を突きつけている理由など、最早問う必要もないだろう。
「それは、俺が、〈彼女〉に呪われているからだ」
「……え?」
疑問の音を発したのは志乃だ。
次いで何か言うより早く、山姥切の足が動く。こちらへの距離を詰め、彼は明確な敵意を露わにして、髭切へと襲いかかる。
「聞きたいことが、山ほど、あるんだけど――っ!」
髭切も、黙って斬られてやるつもりはない。腰の鞘から抜いた太刀で、横合いから迫る銀の一閃を受け止める。
耳によく馴染む、剣戟の音。
刃と刃をぶつけ、二振りの刀を間に挟み、琥珀と翡翠の視線がぶつかり合う。
「俺から話すことは、もう何もない」
「そっちの都合なんて、知らないな」
「あんたは、ここで刀として折れる。それだけだ」
「そんなこと、御免被るね。僕は帰るんだから」
ぎちぎちと金属がこすれ合う不快な音が響き、やがて何かの合図があったかのように、双方が同時に飛び退く。
(……まずいなあ)
口では山姥切国広に挑発的な言葉を投げかけながらも、髭切の内心には焦りが生まれつつあった。
刀を打ち合ったときに、微かに腹に感じた違和感。空いた片手をそちらにやれば、わざわざ見るまでもない。そこにも、百合の花が開いている。放置すれば、表面に浮かんだ根が体の奥底にまで伸びていくのだろう。そうして、いずれは地蔵行平のように、自らの理性と思考を喪失する。命のやり取りの間で、それは最早死と同義だ。
距離を置いたついでに、髭切は片手で忌ま忌ましい花を毟り取った。息を整え、改めて山姥切国広と正面から相対する。
「周りにある刀も、君が折ったのかい」
「そうだと言ったら?」
「随分と沢山折ったものだね。思わず、感心してしまった、よっ!」
今度はこちらから攻勢に出る。何度か刃を交える内に、刀剣男士として、髭切は嫌でも理解する。
(――強いな、彼は)
純粋に、この刀剣男士は戦い慣れている。時間遡行軍を相手にした数は、髭切も相当数だが、それとはまた別だ。
彼は、刀剣男士同士の殺し合いに、慣れている。
流石の髭切も、刀剣男士を頻繁に折るような機会には恵まれていない。
だが、山姥切国広は違うようだ。
彼の行動には躊躇も遠慮もなく、確実にこちらを折ろうという気持ちだけを宿して、戦いを続けている。
「君は、この景趣にいる刀剣男士や人間の処刑人ってところなのかな?」
本来、話している余裕などはないのだが、彼が〈何か〉を知ってこんな突拍子もない行動に出ているのなら、その〈何か〉は手がかりになるかもしれない。
果たして、山姥切は意外にも言葉を返してくれた。
「似たようなものだ。そこの人間も、あんたが折れた後に、俺が始末する」
「……弟も?」
「そういえば、そいつも紛れ込んでいるんだったな。なら、その弟も俺が折る」
「うん。今の言葉で――僕は貴様を折る理由ができた」
後ろから見守っている志乃が思わず背筋に寒気を覚えるほど、ぞっとするような低い声で、髭切は宣言する。
率先して折るつもりこそないものの、それと同時に、折らない理由も今の返事で消えた。いざとなったら、刺し違えてでも止めなくてはならない。
弟を――膝丸を失うなど、髭切にとっては、世界への反逆に等しい大罪だ。
「国広さん、どうして……そんなことを」
志乃の必死の問いも無視して、山姥切は髭切に肉薄する。白百合が咲き誇る胸部に、その上に咲いた百合ごと、浅く裂く。
右腕に数輪咲いた百合が、髭切の刀を動かす手が鈍らせ、防御を遅らせた。結果、軽傷であれ、傷を負わされる結果となった。
かといって、戦闘中に花を悠長に取り除く余裕はない。このままでは、じわじわ追い詰められるだけだろう。暗い未来を予想して、髭切は内心舌打ちした。
一度軽く後ろに下がり、山姥切から距離を置いてから、左の手で百合の花を千切る。しかし、千切ったそばから、また別の場所から花の蕾が膨らんでいく。
何か、この状況を動かす切っ掛けが欲しい。
百合の咲かない山姥切は、ほぼ確実にこちらが知らない何かを掌握している。それが、勝利への道筋になるかもしれない。
そこまで考えてから、ふと髭切はある案を思いつく。
「ねえ、後ろの君」
髭切に突然呼びかけられ、刀剣男士同士の戦いに巻き込まれぬよう下がっていた志乃は、ぴくりと肩を跳ねさせた。
「は、はい」
「君って、土地に宿るモノの声とかを聞けるって言ってたよね?」
こくこくと頷く志乃に、それなら、と髭切は提案する。
「彼の声も聞ける?」
切っ先を向けた相手は、今まさに殺し合いの真っ最中である山姥切国広だ。
「僕らは、人じゃない。付喪神だ。君にとっては、今まで聞いてきた神様やらあやかしやらと、大差ないだろう」
志乃に対して、今の髭切は背を向けているので、志乃がどんな表情を浮かべているかは分からない。
だが、気配なら分かる。彼女は、何か迷っているようだった。ほんの数時間とはいえ、自分が行動を共にした相手の心を、勝手にのぞき見るような真似は避けたい、と思ったのだろう。
「彼が何を隠しているか、暴いてくれないかな」
山姥切国広は「やめろ」とは言わない。ただ、何もかもを諦めた顔で、一振りと一人を見つめているだけだった。
「少し、集中する時間をください。今、国広さんが何を考えているかを、聞き取ってみます」
「任せたよ」
再びこちらに向かってきた山姥切を迎え撃つため、髭切も白百合だらけの大地を蹴る。
山姥切国広は、何かを知っている可能性が高い。
百合に唯一蝕まれない己を、自ら呪われていると口にした言動。
折れた刀たちを大量に集めたこの場所。
地蔵行平への介錯を、一切の躊躇なく遂行できた点も含めて、彼がこちらに打ち明けていない事柄が必ずあるはずだ。
(いつもなら、無視していたんだろうけど)
ことが、己と弟に関わることのなら、知らぬふりもできない。
刀を握る手には、また一輪、白百合が咲いた。
***
「危ない所を……ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる女性に、長義は「無事ならいい」と簡素な返事をする。
栗毛がかった髪に、周りの白百合にも負けないほどの白い肌。走り回っていたせいか、彼女の着物は所々乱れている。
長義たちが聞いた悲鳴の主は、今目の前にいる女性だった。
百合の怪物に変じた――恐らくは、かつて刀剣男士『だった』と思しき存在に襲われていた彼女が、助けを求めて叫んだ声が、二振りの耳に届いたのだ。
先に辿り着いた膝丸がまず怪物を切り捨て、後からやってきた長義が彼女を保護した。
最初こそ、化け物に襲われた恐怖で、声もなく震えていたが、彼女は膝丸の姿を見ると、
「先程、本丸に来ていた……?」
「ああ、そうだ」
「ということは、君が膝丸の話していた審神者か」
例の本丸を訪問していた髭切と膝丸は、百合の景趣にいつの間にか迷い込んでしまっていたが、どうやら彼女も被害者の一人となってしまっていたらしい。
そして、どうにか落ち着きを取り戻した彼女は、二振りへと感謝の言葉を述べた。
簡単な自己紹介を長義と交わした審神者――雪雫は、不安げに周りを見渡している。また怪物が襲ってこないか、警戒しているのだろう。
(それにしても……少し違和感があるな)
何をどうとは言えないが、長義は雪雫が膝丸の話していた事情聴取相手と知ってから、微かな引っかかりを覚えていた。
けれども、それが何かを突き詰めるより先に、膝丸が口火を切る。
「君は、兄者を見かけてはいないか」
「膝丸、君はもう少し段取りというものは知らないのか」
他に訊くことがあるだろうと、長義は軽く咳払いをする。だが、優先順位としては、長義も今は志乃を早く見つけたいと思っている点に変わりはない。
「実は、俺も知り合いとはぐれてしまっていてね。髭切と、他に君より少し若い年頃の少女を見かけなかっただろうか」
「いいえ、見てません。何が何だか分からず、歩き回っていただけなので……」
申し訳なさそうに眉を下げ、彼女は小さく俯く。彼女が手がかりを持っていないからといって、責めるつもりもないので、長義は「気にしないでいい」とすぐに話題を切り替えようとした。
だが、長義が次の質問をするより早く、膝丸が言葉を挟む。
「君は、本丸からここに迷い込む可能性があると知っていたのか」
「いいえ。まさか、こんなことになるなんて……私も、どうしてまたここに来てしまったのか、分からないんです」
「そうか。一度怪異に関わった者は、再び怪異に引きずられやすいとも聞く。君に起きたのも、似たような現象だろう」
言いながら、膝丸は雪雫の様子をざっと観察する。少し着物が乱れている以外は、目立った外傷もないのは、不幸中の幸いと言えよう。
長義の身に起きている百合の花の浸食が雪雫には見られないのは、彼が刀剣男士で、彼女が人間だからかもしれない。最初に本丸で出会った職員が、どうしてあのような状態になったのかは不明だが、人間に限って考えるなら、その浸食は生還が可能な程度には緩やかの場合もあるらしい。或いは、人の体質によっては浸食自体起きないのかもしれないと、膝丸は考える。
「君も早くこの景趣を出たいだろう。俺たちの知り合いを探しながらになるが、同行してもらってもよいだろうか。今は、協力した方がいい」
今度は、長義が彼女を案じるような言葉をかけた。
膝丸は、対人折衝についてはかなり難がある、と長義は判断していた。不必要に不安を煽るような発言をして、彼女を怖がらせるのはよくない。雪雫の精神的な部分を考慮して、長義は殊更に人好きのされそうな笑みを浮かべて提案する。
幸い、これが功を奏したようで、彼女も色白の頬を僅かに安堵で緩める。
「はい。もちろん、構いません。……でも、皆、帰ることを考えているんですね」
「無論だ。このような花ばかりの場所にいても、仕方あるまい」
膝丸は、雪雫の呟きをにべもなく切り捨てる。
不穏当な発言だが、彼女が刀剣男士を全て失った審神者と思えば、今の諦めに似た言葉も致し方ないか、と長義は捉えていた。彼女には、帰ったところで出迎えてくれる仲間がいないのだから。
「ここは花だけが咲いていて、静かで、争いもない……。まるで、桃源郷のような場所なのに」
「君はどうか知らないが、俺たちは花に蝕まれて、その果てに朽ちるらしい。そんな場所に長居は無用だ」
「本丸の生活は楽しいのですけど、誰かが怪我をして、傷ついて、歴史を守るために苦しんで……審神者も、刀剣男士も悲しい思いをしてばかり。皆が、穏やかに幸せに暮らせるような場所があれば」
膝丸の発言が聞こえなかったのか、それとも自分の世界に入り込んでしまったのか。少女は独り言を誰に向けるでもなく呟いている。
膝丸の話の中でも、彼女の情緒は安定から程遠そうだとは聞いていた。壊れた心は、この世界にある種の安らぎがあると、感じてしまっているのかもしれない。
「まあ、そのように考えたくなるのも、不思議ではないね」
長義は適当な相槌を打ちながら、もし自分がかつてのように監査の仕事についていたなら、今の発言は「不可」の評定をつけていたな、と思う。無論、正気であればの話だ。
仲間を失い、自らをも蝕んだであろう異界に再び囚われ、常識を保ったままでいろと言うのは酷だろう。
「俺には分からんがな。刀は戦いにいくものだ。花に囲まれて飾られることなど、何の意味もない」
それよりも、と膝丸は改めて雪雫の正面に相対する。身長差のある彼らの場合、当然の結果だが、膝丸は彼女を見下ろす形になった。
「あのときの話で、途中になってしまった質問がある。今、聞かせてもらいたいのだが」
膝丸が何を言いたいのかを察して、長義も一振りと一人の会話に耳を傾けなおす。
「君は、如何様にしてこの景趣から脱出したのか。それを問いたい」
「脱出……ですか?」
どういう理由か、彼女は不思議そうに数度瞬きをする。まるで、膝丸の言葉の意味を測りかねているかのようだ。
「ああ。君はこの景趣から唯一生還した。ここから抜け出て、元いた場所に戻る必要を教えてもらいたい」
「構いませんが、でも、どうして」
そこまで彼女が言いかけた瞬間、不意に激しい咳の音がけたたましく言葉を遮った。
雪雫がまた体調を崩した――のではない。
体をくの字に折り、己の喉元に手を当て、命を削るような勢いで咳き込んでいるのは――膝丸だった。
「膝丸!?」
すかさず駆け寄った長義は、急いで膝丸の様子を観察する。彼の体に百合が咲いた様子は見られない。
百合の花は体の表面に咲き、思考を曖昧にさせるような効果はあるが、このような病を引き起こしたような兆候は見せないはずだ。
なら、何が原因か。
長義が思考している間にも、膝丸の咳は勢いを増していく。がくりと膝をつき、体をくの字に折り、あたかも体に取り込んだ何かを異物として吐き出そうとしているかのようだった。
臓腑がひっくり返ったような気持ち悪さに、膝丸は反射的に口を押さえるも、しかし腹の中からせりあがった何かを飲み込むことができず、
「――っ、げほっ、がはっ」
口という狭い出入り口から、ごぼりとそれは吐き出される。
唾液や粘液が混ざったそれは、およそ人の喉を通るには不釣り合いな物体――まず、百合の花びらが数枚、そして丸々形が整った花そのものまでが、まるで彼の喉から咲いたように落ちていった。
「膝丸、大丈夫か!?」
今の状態は、およそ『大丈夫』から程遠い。膝丸は長義に向けて何か言おうとしたが、更なる吐き気の増大に、碌な言葉も発せられなかった。
喉を軽く抑えても、そこに何かある感触はない。なのに、気管の隙間から咲き出でるように、はらはらと口から花びらが落ちていく。
あまりに日常からかけ離れた、退廃的且つ危機感を煽る光景に、長義も雪雫も瞬時言葉を失う。
そうしている間にも、花と共に体力や気力も吐き出してしまったかのように、膝丸の視界が霞む。怪我をしたわけでもないのに、意識が朦朧として、思考自体が鈍っていく。
「膝丸、少し体を動かす。いいか」
長義の呼び声に、膝丸は僅かに首を縦に振る。宣言通り、体が異動する感覚と同時に、背が硬い物に触れた。恐らく、木に凭れ掛けさせてもらったのだろう。
「いったい、これは……何が起きているんだ。このような現象を見たことは、君はあるか?」
「いえ、私の刀剣男士も……こんな風に、体の内側から変化するようなことはありませんでした」
長義の問い、それに雪雫の回答。膝丸が聞き取れたのは、そこまでだった。
気持ち悪さは一旦収まったものの、体が何かに蝕まれていく。その感覚に引きずられていくように、膝丸の意識はぷっつりと途切れた。
膝丸の目が閉じられたのを確認して、長義は慌てて彼の体に手を添える。幸い、刀剣破壊がされたわけではないようで、まだ浅い息遣いが唇から漏れていた。
「大丈夫でしょうか」
「あまり大丈夫には見えないね。どうやら、酷く衰弱しているようだ。しかし、どうして百合の花が肌に咲くのではなく、体の内側から?」
疑問を口にしながら、長義は己の考えを整理していく。
彼の把握している限り、百合の景趣に迷い込んだ刀剣男士に起きる現象は、表面に花が咲き、やがては正気を奪うというもののはずだ。怪物のように見境無しに人を襲うようになるのは、本能だけでしか行動出来なくなってしまうからだろう。
確かに、最終的には全身を花で蝕まれるようだが、膝丸の表面はまだ殆ど花は咲いていない。それに、同様の事象を雪雫は今まで見ていないと言う。
経験や情報にない事態が発生した原因。他の刀剣男士がしていなくて、膝丸だけがしている行動があったのだろうか。
そこまで、一分足らずで考えた長義の脳裏に、ふと合流した直後の膝丸が話した内容が思い出される。
(髭切と別れる前、彼は百合の怪物を斬ったと話していた。それに、先程も彼女を助けようと、彼が化け物になった刀剣男士を斬った)
長義は、己の腰に吊った刀へと目をやる。
己は、山姥を斬った逸話を持つ刀。そして、膝丸があやかしを斬った逸話は有名だ。
その逸話により、名を変えたと伝えられるほどに。
「まさか……」
化物を斬って化け物の名を冠するようになり、名前を転々としてきた刀。
ならば、この百合の景趣が生み出した怪物を斬ったのなら――?
「長義さん、何か分かったんですか?」
「いや、まだ確証は持てない。あくまで推測に過ぎないからね」
「そうですか。もし分かったら、教えてください。こんな状況、私も初めてで……どうしたら膝丸さんのようになるのか、気になりますので」
「……そうだね」
長義は、じっと雪雫の横顔を見つめる。彼女は膝丸の様子が気になるのか、意識がない彼の顔をしゃがんで覗き込んでいた。
彼女の様子を眺めていた長義は、不意に刀の柄に手を添え、得物を抜き放つ。
「長義さん?」
「敵の気配がした。少し様子を見てくる。君は、膝丸を見ていてくれないかな。何かあったら、すぐに呼んでくれ」
口早にそれだけ伝えると、長義は灰色の外套を翻して、立ち並ぶ木々の中へと姿を消した。
小鳥すら囀らない、生き物が死に、花だけが咲き乱れる異界。
その中で、一人の女性はすっくと立ち上がる。
彼女の傍らには、百合を吐き出した後、気絶したままの刀剣男士が一振り残されていた。
「……可哀想に。こんなにも苦しんで、痛そうで、それでもまだ花になりきれてないなんて」
膝丸を見つめる女性の瞳には、慈愛の念が込められていた。たとえるなら、風邪で寝込んだ子供を看病する母親のような。
血の気が失せた象牙色の肌に手を伸ばし、彼女はそっと膝丸の頬に触れる。触れた頬に、ずるりと百合の花が芽吹き、音もなく咲いた。
「ここにいれば、いつか花になれる。折れることもなく、ただ野辺に咲く白百合として静かに過ごしていける」
彼女の手が膝丸から離れる。その間にも、独り言めいた言葉は続く。
「戦うこともなく、穏やかに、暮らしていける。ここが、私が見つけた楽園。桃源郷。全てが花で満たされた夢の園」
謳うようにつらつらと言の葉を並べていた彼女は、ふと膝丸に瞳の焦点をあわせる。
「とっても仲が良さそうな兄弟だったから、本当は、二人同時に咲いてもらう方が喜んでもらえると思ったのだけれど……でも、このまま苦しむよりはいいですよね」
気絶した膝丸は、当然返事ができない。しかし、彼女はまるで同意の言葉を貰ったかのように、うんうんと頷いてみせる。
そこに、何か悪巧みをしているような負の感情はない。
あるとしたら、それは、ただただ相手を思いやる慈悲だけだ。
「苦しみながら咲くことは、本意ではないの。痛みも無く、安らかに、静かに、ありのままを受け入れる。それが」
祈り、或いは誓いに似た言葉を紡ぎ、彼女は慈愛の微笑と共に膝丸に触れ――ようとした。
「それが、君の本心か」
彼女の首筋に、ひやりと冷たい感触。
それは、彼女にとっては縁がない冷たさであると同時に、かつては馴染みのある感触でもあった。切っ先を突きつけられたことこそなかったものの、手入れの際に刀にそっと触れた経験は幾度かあったような気がする。
目線を僅かにずらせば、予想通り、銀色に光る一振りの打刀。
背後から首筋に刃を添えられると気が付いて、しかし彼女は薄く笑い、切っ先が浅く皮膚を抉るのも構わずに、ゆるりと振り返った。
「そう。それが――私の願い」
振り返った先、海の蒼の瞳を持つ青年が立っている。整った面差しは、自分もよく知っている誰かに似ていた気がした。
ただ、彼の瞳は夏の木々を思わせる緑で、その表情はもっと自信なさげなことが多かった。
彼は、ある日を境に、いつも申し訳なさそうに、こちらを見つめるようになった。
その理由も分かっていた。
彼は、自分に罪があると思いこんでいるのだろう。だから、もう気にしなくていいよと伝えたくて――
「おかしな話だ。君の本丸の刀剣男士たちは、この景趣の犠牲者だと、膝丸から聞かせていたんだが?」
思索が、彼の問いによって途切れた。
「犠牲者? おかしな話ですね。彼らは、救われたんです。花に囲まれ、もう戦いに駆り出され、傷つく必要もなくなっただけ」
そうだ。犠牲になってなどいない。
だって、彼らは最初こそ別の存在になることを怯えていたけれど、やがて、徐々に己に咲いた花を受け入れていったのだから。
秋田藤四郎も。前田藤四郎も。へし切長谷部も。岩融も。骨喰藤四郎も。
「その果てに、理性も奪われ、化け物にするのが君の救済なのかな。随分と、身勝手な救済もあったものだ」
何を言われているのかが、よく分からなかった。
花になれば、何も考えなくて済む。物言わぬ美しい花として咲いてしまえば、もう皆は悲しい思いをしなくていいんだと、変化していく彼らを見て、自分は気がついた。
――理解した。
この景趣のある意味を、理解したのだ。
だから、花になるのは良いことだ。
その先も、きっと良いことに違いない。
でも、ならば、この記憶は何だろう。
翡翠の瞳をした誰かが、目の前にいる誰かによく似た彼が、泣いていた気がする。正気に返ってくれと、手を握られた気がする。
本丸で、最後に顕現した刀剣男士。
本丸の中では一番新しく来た刀剣男士で、皆に歓迎され、可愛がられて、自分も弟みたいな気持ちで彼のことを見ていて――だから、自分は、あのとき。
長義の目の前で、ふっと女性の瞳が弓なりに歪み、笑みの形に変ずる。こちらを見据える瞳は、中途半端に見開かれ、そこには最早理性など感じられない。
あるとしたら、触れてはならない領域に踏み込んだ人間の狂気。
情緒不安定などという、半端で優しい言葉では片付けられない。
(あれは、完全に――狂っている)
長義が浅く裂いた、彼女の首筋。
そこからは、血の一滴が溢れ――だが、それはすぐに白い花びらへと形を変える。
もとより、彼女は『生還』などしていなかったのだろう。
「これは、救済ですよ。花になってしまえば、何も感じずに済むのですから。心も無くなって、悩む必要もなくなる。戦いに出て、折れてしまうこともない。終わらない時の中で、永遠を生きられる。そういうものが、救いなのでしょう?」
「なるほど。君は、そのような思考に行き着いたんだね。助からないと思って気がふれてしまったのか、それとも」
契機は、景趣に迷い込む前から、どこかにあったのかもしれない。
膝丸が話した報告では、この審神者は刀剣男士を一振り失っている。それは、審神者の心にとって消えない傷になるだろうとは、長義にも容易に推測できた。
政府の人間からしたら、たかが一振りの刀剣男士だ。髭切や膝丸も、同様に判断したのだろう。彼らは依然として、自分と兄弟刀以外の事柄について疎いようだから。
だが、長義はその名を聞いたとき、つい審神者の心情に憐憫を抱かずにはいられなかった。
「陸奥守吉行を――初期刀を失って、そんな刹那的な救済論に、遅かれ早かれ辿り着いてしまう道の途中にいた、ということかな」
どの審神者にとっても、本丸の成立に寄り添った刀が持つ意味は大きい。
長義は人間ではなく刀剣男士ではあるが、それでも、己が顕現した直後に最も深く関わった人間――志乃に対する感情は、他の同僚とは比べものにならないほど強いと自覚している。
「気の毒に、とは思うよ。初期刀に加えて他の仲間まで、こんな形で失うのは、君にとって決して本意ではなかっただろう」
薄く罅が入った心が、完全に砕けてしまったとしても仕方ない。できるならば、この憐れな被害者が被害者のままであってほしかった。
しかし、既に答えは出ている。
雪雫と名乗った、審神者『だった』ナニカは、薄らと浮かべた笑顔で表情を固定したまま、こちらを見つめている。
「敵の気配がしたと言っていましたが、もう斬ってしまったのですか」
「ああ、あれはハッタリだよ。どうにも、出会ったときから君の様子が気になっていてね。膝丸の話を聞く限り、君は目の前で刀剣男士を大量に失った。それなら、普通の人間は恐怖と失意の内にいるはずだ」
たとえ、審神者がある程度特異な環境に身を置く人間とはいえ、訓練された者であったとしても、花に蝕まれて死ぬ仲間を見て平静でいられるわけがない。
事実、膝丸の報告でも、彼女は情緒不安定のようだったと聞かされていた。
「君の精神が揺らいでいると話は聞いていたから、最初はそのせいかと思っていたけれどね。だが、たとえそうであっても、おかしいんだよ」
長義とて、超常現象の一つや二つは体験している。人間の心を持って顕現している彼であっても、この状況に多少の嫌悪と恐怖は覚えた。しかし、
「君は、冷静すぎたんだ。トラウマを刺激されて狂乱する様子もなければ、怪物に襲われたというのに涙一つ浮かべていない。だから、少しカマをかけさせてもらった」
単に正気を完全に失い、その結果狂った平静を保っているのか。それとも――この現象そのものに対して味方している何者なのか。
膝丸に対する反応も、心配しているというより、寧ろ興味深い現象を観察しているように見えてならなかった。故に、敵味方の判断をするために、意識のない膝丸を差し出して、長義は様子を見ることにした。そして、案の定、彼女はその餌に食いついた。
「君が大本の黒幕とまでは思っていない。君が迷い込む前から、この不気味な景趣は存在していたようだからね。けれども、君は少なからず結びついてしまったらしい。今俺たちがいる、異界の中枢に」
人間としての彼女が変異したのか。それとも人の体としてはもう死んでいるのか。
それすらも定かではないが、少なくとも、彼女が本丸に帰ってきたときは、既に彼女自身が『百合の景趣』という怪異そのものに、かなり近い存在になっていたのだろう。
丁度、刀の本体と刀剣男士としての肉体がそれぞれ別にあるように、異界は己を理解して狂気に墜ちた人間を、己の一部として取り込んだと推測できる。
「君が人間なら、助けるのが俺の役目だと思っていた。だが、遅すぎたようだ」
ここまで変じた『化け物』を救う意味はない。寧ろ、これは膝丸と討ち取らんと話し合っていた、怪異そのものを象る中核の存在に近い。
いくら、見た目はただの女性であったとしても。百合に覆われた刀剣男士が刀剣男士とは最早呼べない存在になり果てていたのと同じように、彼女も人間とは呼べないだろう。
切り捨てればいい、とは頭で理解していた。
だが、同時に柄を握る手に僅かな緊張が走る。
悪意をこちらに向けるでもなく、無防備な人間を斬ることへの、ほんの僅かな躊躇。
「そうですか。――残念です」
それは、致命的な数秒の時間を、化け物に与えた。
「――!」
何てことのないように、少女は長義の刀に手を添える。
瞬間、全身を駆け巡る悪寒に、長義は思わずたたらを踏んだ。自分の持つ本体たる刀に手が触れられた瞬間、百合の花が切っ先から半分を一息の間に埋め尽くした。
同時に、左足のつま先から腰ほどまでの位置を、大量の針でつつかれたような痛みが走る。見るまでもなく、己の足は大輪の百合に覆われていた。
あまりに一息の間に起きた事柄が多すぎて、思考の処理が追いつかない。否、そもそも処理することすら拒んでいる。
このまま、花になってしまってもいいのではないか、と考えてしまっている己が、思考能力を奪おうとしている。それも、間違いなく百合の影響だろう。
「いいわけがないだろう! くそっ」
悪態をつき、長義は右手で花々を数輪引きちぎる。そうしなければ、このまま為す術も無く花を受け入れてしまいそうだった。
だが、花を半分ほど毟り取った所で、顔を上げた長義は大きく目を見開く。
未だ意識を失ったままの膝丸の側にいた『化け物』は、先程の続きをするかのように、膝丸へと手を伸ばしていた。
その手が触れただけで何を齎すかは、数秒前に己の身で嫌というほど知ったばかりだ。
「おい、やめろ!!」
まるで、眠っている子供を撫でる母親のように、嘗て審神者であった女の手が膝丸の首筋に指先を添える。
一輪、二輪と異様な速度で彼の輪郭が花に呑まれかけたとき、
――白の世界に、パッと紅が散った。
当座の目標として、長義は自分の尋ね人である志乃を、膝丸ははぐれてしまった兄の髭切を探そうとしていた。しかし、そのどちらも居場所は定かではない。
結果として、志乃は水辺で姿を消し、膝丸が髭切の前から消えた場所も川辺なので、川に沿って行こうという結論を二振りは導き出していた。
「この景趣がどうしてこうなったかを、君たちは知っているかい?」
黙ってばかりも何だから、と長義は膝丸へと話題を振る。
本来は率先して話そうとはしないのだが、今は情報を交差させて新たな打開策を模索したい状態だ。好き嫌いを言っている場合ではない。
「景趣を作成していた部署が、誤って外部に漏らしたから――ではないのか?」
「大本の発端は、君が教えてくれた通りなのだろう。俺も、その点については疑っていない。だが、最初に漏れた景趣は、本来安全なつくりだったはずだ」
少なくとも、体を百合で蝕むなどという、物騒な力は持っていなかったに違いない。
そもそも、付喪神の体を浸食して破壊するような代物を、政府の人間たちが作れるとは思えなかった。よしんば作れたとしても、どう間違っても景趣のシステムに混ぜようなどとは思わないだろう。
「君が話してくれた内容では、最初の頃は審神者もこの場所に辿り着き、その後に帰ってきたのだろう。幻の景趣を見た、と報告をする者がいるなら、帰ってきてなければ暢気にそんな話を流布できないだろうからね」
「だが、やがて帰らぬ者が現れた」
「ああ。帰らない知り合いがいた……という発言の後、不穏な連絡が相次いだのだろう? そこで、何か異変が起きたと考えるべきだろう」
景趣に辿り着いた先でとった行動が、景趣をおかしくしたのか。はたまた、景趣に怪しげなまじないでもかけて、危険極まりない場所へと変化させた誰かがいたのか。或いは、あやかしでも紛れ込んだのか。
長義が自分なりの推論を頭の中で整理していると、
「……俺たちと、一緒なのかもしれぬな」
「一緒?」
何か思いついたように、膝丸は呟く。
「ああ。以前、とある鏡に纏わる怪談が、実際に化け物を生むという現象を目にした。その怪談の内容自体は完全にでたらめだったが、怪物が封じられてるという話だけが一人歩きして、挙げ句の果てに」
「本当に、化け物を生み出した……と。なるほど、確かに俺たちと一緒だね」
山姥を斬ったと言われる逸話を持つ長義。
それに同じく、土蜘蛛を屠ったと言われる逸話を引き継ぐ膝丸。
彼らに限った話ではなく、刀剣男士は皆、事実かどうか定かではない逸話を受け継いで顕現する場合もある。
膝丸が本当に土蜘蛛を退治したのか、長義が山姥を殺めたのかは、本人たちの記憶の中ですら曖昧だ。あるのは、刻まれた記録だけ。だが、それらの逸話に纏わる特徴も、彼らの内側には宿っている。
「百合の景趣そのものは、害のある存在ではなかった。けれども、誰かが『一度入れば帰れない場』という逸話を与え、人々がそれを膨らまし、或いは恐怖した。故に、景趣は斯様な存在に変貌した……とは、考えられぬだろうか」
「逸話が生まれてから形になるまで、随分と早すぎるとは思うが……あり得ない話ではなさそうだね」
兄に従ってばかりいると思いきや、膝丸も存外考えてくれていたらしいと、長義は少しだけ彼への評価を訂正する。
「しかし、俺が言うのも何だが、自らに牙を剥くようなものを、好んで流布させたがるだろうか」
「さあ。人間は、怪談を面白がるような生き物だからね。程よい恐怖は、日常に対する丁度良い刺激になるのだそうだよ」
「兄者が怪談を話すと、俺の主は怖がっていたようだが」
「髭切から聞いていたが、君たちの主はまだ七つか八つの童なのだろう。怖がるのは当たり前じゃないか」
そんなことも知らないのか、と呆れかけると同時に、それも当然かとすぐに長義は諦める。政府の刀剣男士が子供と接する機会など、殆どないのだから。
「……そういえば、君はどうやってその子供と知り合ったんだい? 何故、主と呼ぶことに?」
話のついでに、長義は以前髭切から聞かされたときから気にかかっていたことを、膝丸に尋ねる。代わり映えのない景色に少しばかり飽きもきていたため、気分転換も兼ねた問いだった。
「彼は、兄者が連れてきたのだ。兄者に言われて、俺も主と呼ぶようになった」
「……なるほど。君らしいというか、何というか。主と呼ぶかどうかぐらい、髭切じゃなくて、自分で考えるようにしてはどうかな」
「確かに、俺は兄者に押し切られて、彼を主と定めた。そうでなければ、あのような子供を主にしようなどとは、思わなかっただろう。寧ろ、主など不要だと考えていたほどだ」
己が望むのは、片割れの兄のみ。
顕現したときから共に在る彼以外の存在を、膝丸は欲さなかった。
だが、と彼は続ける。
「……主は、俺の作った料理を『おいしい』と言った」
いきなり何を言い出すのかと、長義は眉を寄せるが、膝丸は頓着せずに言葉を続ける。
「刀として在るのが良いことであり、それ以上は必要ない。俺は顕現したときから、そのように自らの考えを定めていた。だが、主は俺たちのようには進めぬ。だから、彼に合わせて、足を止めたときがあった。その際に気が付いたのだ」
ふと見上げた空が青いことを。
桜の花が美しいということを。
口にした食べ物が、おいしいのだということを。
「刀として生きる以外のものが、俺にはあるのだと、主と共にいることで知った」
たとえば、兄が嬉しそうに笑う姿が好きだとか。
主が自分に何か送ろうと奮闘している姿は、少しばかり胸が暖かくなるとか。
そんな取るにたらない出来事は、足を止めてよく見れば、手放しがたい輝きを放っていた。
「故に、今、俺は主がいてよかったと感じている。彼のために、ここから戻らねばならないと」
辿々しさを残しながらも、膝丸は己の心を言葉として形にする。それを聞いた長義は、驚嘆から目を丸くして、膝丸を見つめていた。
「……なるほど。鋼は鋼以外にはなり得ないかと、思っていたが」
顕現直後に出会ったときのやり取りが、あまりに〈物〉らしい無味乾燥なものであったが故に、長義は二振りは人の心を持たぬ刀剣男士なのだろうと思い込んでいた。
休みもとらずに出陣していたと耳にして、やはり、と納得してしまうほどに、彼らは〈物〉として完成していた。
しかし、膝丸の今の言葉は明らかに、〈物〉であっては口にできない内容だ。
「無論、今は任務の最中だ。俺は刀としての役割を忘れるつもりはない。だが、言い換えれば、だからこそ、俺は刀としても主の元に戻るべきだ。帰らねば、主が悲しむだろう」
「へえ、君からそんな言葉を聞ける日が来るなんてね」
だけど、と長義は内心で付け足す。
膝丸は「主は悲しませたくない」と言ったが、それなら主以外の人間や刀剣男士はどうなるのだろうか。
たとえば、鬼丸や小狐丸といった同僚の気持ちを、彼は考えているのだろうか。
彼らが自分に対してどんな気持ちを向けているか、少しでも思いを巡らせたことはあるのだろうか。
(恐らく、君たちにとっては主以外の人間は、やはりどうでもいい対象なのだろう)
空の青さを知り、食べる楽しみを見いだすようになったらしいとは、長義も自らの目で見て把握している。
ようやく、人としての当たり前の五感を意識するようになったことは喜ばしい。
だが、だからと言って、二振りが自分に関わりのある人間や刀剣男士を等しく大事に思うようになったかと言えば、到底そんな風には見えない。
あるいは、今以上の変化を彼らが拒んでいるのかもしれない。生き方は、急に変えられるものではないのだから、それも仕方ないだろう。
「ところで、長義が探している人間も『主』なのか?」
「主……とは少し違う。志乃は……俺が探している彼女は、小さい頃から俺が面倒を見ていた子供だ。その縁で、付き合いが長い分、放っておけないだけだ」
「なるほど、古なじみの縁があって、ここまで追いかけてきたのか」
「他にも色々とあったけれど、大まかに言うとそうだね。本来なら、離れていても大体の居場所は分かるんだが、この異界では俺たちの知る常識は通用しないらしい」
長義の直感は、志乃が百合の景趣の中に留まっているだろうとは知らせてくれた。
だが、それ以上については、まるで何重もの幕に阻まれているかのように、はっきりとしない。恐らく生きているであろうと認識できることだけが、今は唯一の救いだった。
「長義、待ってくれ」
膝丸に制止を呼びかけられ、長義はぴたりと足を止める。
「どうしたんだい」
「……声が聞こえた気がする」
「声?」
長義も、膝丸のように耳をすませてみせる。すると、絹が裂けるような細い悲鳴が、刀剣男士として優れた聴覚を持つ長義の耳に、確かに届いた。
「あちらだ。急ぐぞ、膝丸!」
「ああ」
声の高さからして、悲鳴をあげているのは女性だ。ただ、長義の尋ね人である志乃の声かは、遠すぎてはっきりしない。
それでも、この景趣に迷い込んでいる人間がいるのなら、放っておくわけにはいかない。人間の歴史を守る――ひいては人間そのものを守る者として顕現されたが故の使命感が、長義を突き動かしていた。
***
「ねえ、山姥切国広」
主がいる方角へと歩いていた山姥切へ、髭切は呼びかける。
「何だ」
振り返らず、山姥切は答える。
一陣の風が、ゆるりと二振りの間を通り過ぎる。同時に、髭切の腕に数輪、百合の花が咲く。
もはや、この現象を目にしてから一時間ほどが過ぎていた。対処にも慣れたもので、髭切は百合の花を無造作に掴み、特に視認もせずにぶちぶちと引きちぎる。
「ここは――何だい?」
髭切が、そんな風に問うのも無理はない。
山姥切の後をついて、辿り着いた先。彼は、自らが感知している自分の主の気配を辿っていると志乃と髭切に伝えていた。
だが、そこに、彼の言う『主』はいなかった。
代わりにあったのは、無造作に突き立てられた数え切れないほどの刀たち。
そのどれ一つとっても、真っ当な姿をしていない。
百合の花に蝕まれた打刀、短刀、太刀、大太刀、槍に薙刀。
白い花々がそれらに絡まり咲く姿は、さながら死人に着せる白装束のようだ。そんなものが花畑に何本も乱立している姿は、壮麗であると同時に背筋を寒くさせるものがある。
ただの人間が見たなら、ある種の芸術的趣向の作品と思うかもしれない。
しかし、審神者や刀剣男士が見たなら、この百合に蝕まれた『折れた』刀剣たちの光景は、
「まるで、ここは墓場みたいだ」
髭切は視線を周りに向け、己の見解を口にする。
そこにある武器たちは、どれも一様に折れて破損した姿だった。
ぼっきりと折れた短刀は短くなりすぎて、最早下草に殆ど紛れてしまっている。打刀や太刀、大太刀も、柄の作りや刀身の僅かなつくりの違いからしか見分けがつかないほどに、刀身が半ばで断たれてしまっている。槍や薙刀は、言わずもがなだ。
それら全てが、切っ先を土に埋め、墓標のように百合の花園に突き立っている。
そして、中心に屹立する山姥切国広は、依然として振り向かない。
「国広さんの主さんは、この下に眠っている……ということですか?」
漂い始めた不穏な空気を払拭しようと、志乃は辛うじて思いついた平和的な見解を口にする。
「そんなわけないよね。今がどういう状況か、君だって分かっているはずだ」
話している間にも、腹の辺りに咲こうとした花を髭切は再び引きちぎる。
「ここに留まれば、百合の花のせいで、あの地蔵行平のように僕らもおかしくなる。そんなときに、悠長に墓参りをするような刀剣男士が、いるわけがない」
山姥切国広は、振り返らない。彼は、何も答えようとしない。
ただ、その手が動き、腰の得物に手をかけたのは見えた。
鯉口を切る、涼やかな音。
そこにどんな意思が込められているかを、髭切は問わない。
問う代わりに、彼もまた、鞘から太刀を抜き放つ。
「最初に出会ったときから、少し気になっていたんだ。僕はここに来てすぐ、こうして花が咲き始めた。地蔵行平は数日間ここにいただけで、手に負えなくなるほど変化していた」
代わりに口にしたのは、己の見解。言いつつ、髭切は胸の辺りに咲き始めた百合の花を毟る。
最初こそ、一度に咲く百合の花も少なく、頻度も不規則だった。だが、歩き始めて一刻が過ぎたぐらいの頃には、この浸食の速度が増していると、髭切も気付かざるを得なくなった。
時間が経過するにつれ、一度に咲く花の数は増えていく。人間である志乃には変化が殆ど見られなかったが、それでも彼女の背中に数輪咲いていた所を見つけて、髭切はこっそり取り除いておく必要があった。
だというのに、
「ねえ、山姥切国広。君には、どうして花が咲かないんだい?」
山姥切国広の体には、花が一輪も咲いていない。
布に隠れて見えないだけかと思ったが、花が咲く際には本人にも皮膚が引っ張られるような感覚がある。なのに、彼は咲いた花を取り除く素振りを一度も見せていない。放置する危険性は、彼も重々承知しているはずだから、無視していると思えない。
そうなれば、考えられるのはただ一つ。
――この山姥切国広にだけは、百合の景趣の影響がない。
「俺だけが、どうして花を咲かせないか――だったな」
振り返った山姥切国広の片手には、一振りの打刀。切っ先を突きつけている理由など、最早問う必要もないだろう。
「それは、俺が、〈彼女〉に呪われているからだ」
「……え?」
疑問の音を発したのは志乃だ。
次いで何か言うより早く、山姥切の足が動く。こちらへの距離を詰め、彼は明確な敵意を露わにして、髭切へと襲いかかる。
「聞きたいことが、山ほど、あるんだけど――っ!」
髭切も、黙って斬られてやるつもりはない。腰の鞘から抜いた太刀で、横合いから迫る銀の一閃を受け止める。
耳によく馴染む、剣戟の音。
刃と刃をぶつけ、二振りの刀を間に挟み、琥珀と翡翠の視線がぶつかり合う。
「俺から話すことは、もう何もない」
「そっちの都合なんて、知らないな」
「あんたは、ここで刀として折れる。それだけだ」
「そんなこと、御免被るね。僕は帰るんだから」
ぎちぎちと金属がこすれ合う不快な音が響き、やがて何かの合図があったかのように、双方が同時に飛び退く。
(……まずいなあ)
口では山姥切国広に挑発的な言葉を投げかけながらも、髭切の内心には焦りが生まれつつあった。
刀を打ち合ったときに、微かに腹に感じた違和感。空いた片手をそちらにやれば、わざわざ見るまでもない。そこにも、百合の花が開いている。放置すれば、表面に浮かんだ根が体の奥底にまで伸びていくのだろう。そうして、いずれは地蔵行平のように、自らの理性と思考を喪失する。命のやり取りの間で、それは最早死と同義だ。
距離を置いたついでに、髭切は片手で忌ま忌ましい花を毟り取った。息を整え、改めて山姥切国広と正面から相対する。
「周りにある刀も、君が折ったのかい」
「そうだと言ったら?」
「随分と沢山折ったものだね。思わず、感心してしまった、よっ!」
今度はこちらから攻勢に出る。何度か刃を交える内に、刀剣男士として、髭切は嫌でも理解する。
(――強いな、彼は)
純粋に、この刀剣男士は戦い慣れている。時間遡行軍を相手にした数は、髭切も相当数だが、それとはまた別だ。
彼は、刀剣男士同士の殺し合いに、慣れている。
流石の髭切も、刀剣男士を頻繁に折るような機会には恵まれていない。
だが、山姥切国広は違うようだ。
彼の行動には躊躇も遠慮もなく、確実にこちらを折ろうという気持ちだけを宿して、戦いを続けている。
「君は、この景趣にいる刀剣男士や人間の処刑人ってところなのかな?」
本来、話している余裕などはないのだが、彼が〈何か〉を知ってこんな突拍子もない行動に出ているのなら、その〈何か〉は手がかりになるかもしれない。
果たして、山姥切は意外にも言葉を返してくれた。
「似たようなものだ。そこの人間も、あんたが折れた後に、俺が始末する」
「……弟も?」
「そういえば、そいつも紛れ込んでいるんだったな。なら、その弟も俺が折る」
「うん。今の言葉で――僕は貴様を折る理由ができた」
後ろから見守っている志乃が思わず背筋に寒気を覚えるほど、ぞっとするような低い声で、髭切は宣言する。
率先して折るつもりこそないものの、それと同時に、折らない理由も今の返事で消えた。いざとなったら、刺し違えてでも止めなくてはならない。
弟を――膝丸を失うなど、髭切にとっては、世界への反逆に等しい大罪だ。
「国広さん、どうして……そんなことを」
志乃の必死の問いも無視して、山姥切は髭切に肉薄する。白百合が咲き誇る胸部に、その上に咲いた百合ごと、浅く裂く。
右腕に数輪咲いた百合が、髭切の刀を動かす手が鈍らせ、防御を遅らせた。結果、軽傷であれ、傷を負わされる結果となった。
かといって、戦闘中に花を悠長に取り除く余裕はない。このままでは、じわじわ追い詰められるだけだろう。暗い未来を予想して、髭切は内心舌打ちした。
一度軽く後ろに下がり、山姥切から距離を置いてから、左の手で百合の花を千切る。しかし、千切ったそばから、また別の場所から花の蕾が膨らんでいく。
何か、この状況を動かす切っ掛けが欲しい。
百合の咲かない山姥切は、ほぼ確実にこちらが知らない何かを掌握している。それが、勝利への道筋になるかもしれない。
そこまで考えてから、ふと髭切はある案を思いつく。
「ねえ、後ろの君」
髭切に突然呼びかけられ、刀剣男士同士の戦いに巻き込まれぬよう下がっていた志乃は、ぴくりと肩を跳ねさせた。
「は、はい」
「君って、土地に宿るモノの声とかを聞けるって言ってたよね?」
こくこくと頷く志乃に、それなら、と髭切は提案する。
「彼の声も聞ける?」
切っ先を向けた相手は、今まさに殺し合いの真っ最中である山姥切国広だ。
「僕らは、人じゃない。付喪神だ。君にとっては、今まで聞いてきた神様やらあやかしやらと、大差ないだろう」
志乃に対して、今の髭切は背を向けているので、志乃がどんな表情を浮かべているかは分からない。
だが、気配なら分かる。彼女は、何か迷っているようだった。ほんの数時間とはいえ、自分が行動を共にした相手の心を、勝手にのぞき見るような真似は避けたい、と思ったのだろう。
「彼が何を隠しているか、暴いてくれないかな」
山姥切国広は「やめろ」とは言わない。ただ、何もかもを諦めた顔で、一振りと一人を見つめているだけだった。
「少し、集中する時間をください。今、国広さんが何を考えているかを、聞き取ってみます」
「任せたよ」
再びこちらに向かってきた山姥切を迎え撃つため、髭切も白百合だらけの大地を蹴る。
山姥切国広は、何かを知っている可能性が高い。
百合に唯一蝕まれない己を、自ら呪われていると口にした言動。
折れた刀たちを大量に集めたこの場所。
地蔵行平への介錯を、一切の躊躇なく遂行できた点も含めて、彼がこちらに打ち明けていない事柄が必ずあるはずだ。
(いつもなら、無視していたんだろうけど)
ことが、己と弟に関わることのなら、知らぬふりもできない。
刀を握る手には、また一輪、白百合が咲いた。
***
「危ない所を……ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる女性に、長義は「無事ならいい」と簡素な返事をする。
栗毛がかった髪に、周りの白百合にも負けないほどの白い肌。走り回っていたせいか、彼女の着物は所々乱れている。
長義たちが聞いた悲鳴の主は、今目の前にいる女性だった。
百合の怪物に変じた――恐らくは、かつて刀剣男士『だった』と思しき存在に襲われていた彼女が、助けを求めて叫んだ声が、二振りの耳に届いたのだ。
先に辿り着いた膝丸がまず怪物を切り捨て、後からやってきた長義が彼女を保護した。
最初こそ、化け物に襲われた恐怖で、声もなく震えていたが、彼女は膝丸の姿を見ると、
「先程、本丸に来ていた……?」
「ああ、そうだ」
「ということは、君が膝丸の話していた審神者か」
例の本丸を訪問していた髭切と膝丸は、百合の景趣にいつの間にか迷い込んでしまっていたが、どうやら彼女も被害者の一人となってしまっていたらしい。
そして、どうにか落ち着きを取り戻した彼女は、二振りへと感謝の言葉を述べた。
簡単な自己紹介を長義と交わした審神者――雪雫は、不安げに周りを見渡している。また怪物が襲ってこないか、警戒しているのだろう。
(それにしても……少し違和感があるな)
何をどうとは言えないが、長義は雪雫が膝丸の話していた事情聴取相手と知ってから、微かな引っかかりを覚えていた。
けれども、それが何かを突き詰めるより先に、膝丸が口火を切る。
「君は、兄者を見かけてはいないか」
「膝丸、君はもう少し段取りというものは知らないのか」
他に訊くことがあるだろうと、長義は軽く咳払いをする。だが、優先順位としては、長義も今は志乃を早く見つけたいと思っている点に変わりはない。
「実は、俺も知り合いとはぐれてしまっていてね。髭切と、他に君より少し若い年頃の少女を見かけなかっただろうか」
「いいえ、見てません。何が何だか分からず、歩き回っていただけなので……」
申し訳なさそうに眉を下げ、彼女は小さく俯く。彼女が手がかりを持っていないからといって、責めるつもりもないので、長義は「気にしないでいい」とすぐに話題を切り替えようとした。
だが、長義が次の質問をするより早く、膝丸が言葉を挟む。
「君は、本丸からここに迷い込む可能性があると知っていたのか」
「いいえ。まさか、こんなことになるなんて……私も、どうしてまたここに来てしまったのか、分からないんです」
「そうか。一度怪異に関わった者は、再び怪異に引きずられやすいとも聞く。君に起きたのも、似たような現象だろう」
言いながら、膝丸は雪雫の様子をざっと観察する。少し着物が乱れている以外は、目立った外傷もないのは、不幸中の幸いと言えよう。
長義の身に起きている百合の花の浸食が雪雫には見られないのは、彼が刀剣男士で、彼女が人間だからかもしれない。最初に本丸で出会った職員が、どうしてあのような状態になったのかは不明だが、人間に限って考えるなら、その浸食は生還が可能な程度には緩やかの場合もあるらしい。或いは、人の体質によっては浸食自体起きないのかもしれないと、膝丸は考える。
「君も早くこの景趣を出たいだろう。俺たちの知り合いを探しながらになるが、同行してもらってもよいだろうか。今は、協力した方がいい」
今度は、長義が彼女を案じるような言葉をかけた。
膝丸は、対人折衝についてはかなり難がある、と長義は判断していた。不必要に不安を煽るような発言をして、彼女を怖がらせるのはよくない。雪雫の精神的な部分を考慮して、長義は殊更に人好きのされそうな笑みを浮かべて提案する。
幸い、これが功を奏したようで、彼女も色白の頬を僅かに安堵で緩める。
「はい。もちろん、構いません。……でも、皆、帰ることを考えているんですね」
「無論だ。このような花ばかりの場所にいても、仕方あるまい」
膝丸は、雪雫の呟きをにべもなく切り捨てる。
不穏当な発言だが、彼女が刀剣男士を全て失った審神者と思えば、今の諦めに似た言葉も致し方ないか、と長義は捉えていた。彼女には、帰ったところで出迎えてくれる仲間がいないのだから。
「ここは花だけが咲いていて、静かで、争いもない……。まるで、桃源郷のような場所なのに」
「君はどうか知らないが、俺たちは花に蝕まれて、その果てに朽ちるらしい。そんな場所に長居は無用だ」
「本丸の生活は楽しいのですけど、誰かが怪我をして、傷ついて、歴史を守るために苦しんで……審神者も、刀剣男士も悲しい思いをしてばかり。皆が、穏やかに幸せに暮らせるような場所があれば」
膝丸の発言が聞こえなかったのか、それとも自分の世界に入り込んでしまったのか。少女は独り言を誰に向けるでもなく呟いている。
膝丸の話の中でも、彼女の情緒は安定から程遠そうだとは聞いていた。壊れた心は、この世界にある種の安らぎがあると、感じてしまっているのかもしれない。
「まあ、そのように考えたくなるのも、不思議ではないね」
長義は適当な相槌を打ちながら、もし自分がかつてのように監査の仕事についていたなら、今の発言は「不可」の評定をつけていたな、と思う。無論、正気であればの話だ。
仲間を失い、自らをも蝕んだであろう異界に再び囚われ、常識を保ったままでいろと言うのは酷だろう。
「俺には分からんがな。刀は戦いにいくものだ。花に囲まれて飾られることなど、何の意味もない」
それよりも、と膝丸は改めて雪雫の正面に相対する。身長差のある彼らの場合、当然の結果だが、膝丸は彼女を見下ろす形になった。
「あのときの話で、途中になってしまった質問がある。今、聞かせてもらいたいのだが」
膝丸が何を言いたいのかを察して、長義も一振りと一人の会話に耳を傾けなおす。
「君は、如何様にしてこの景趣から脱出したのか。それを問いたい」
「脱出……ですか?」
どういう理由か、彼女は不思議そうに数度瞬きをする。まるで、膝丸の言葉の意味を測りかねているかのようだ。
「ああ。君はこの景趣から唯一生還した。ここから抜け出て、元いた場所に戻る必要を教えてもらいたい」
「構いませんが、でも、どうして」
そこまで彼女が言いかけた瞬間、不意に激しい咳の音がけたたましく言葉を遮った。
雪雫がまた体調を崩した――のではない。
体をくの字に折り、己の喉元に手を当て、命を削るような勢いで咳き込んでいるのは――膝丸だった。
「膝丸!?」
すかさず駆け寄った長義は、急いで膝丸の様子を観察する。彼の体に百合が咲いた様子は見られない。
百合の花は体の表面に咲き、思考を曖昧にさせるような効果はあるが、このような病を引き起こしたような兆候は見せないはずだ。
なら、何が原因か。
長義が思考している間にも、膝丸の咳は勢いを増していく。がくりと膝をつき、体をくの字に折り、あたかも体に取り込んだ何かを異物として吐き出そうとしているかのようだった。
臓腑がひっくり返ったような気持ち悪さに、膝丸は反射的に口を押さえるも、しかし腹の中からせりあがった何かを飲み込むことができず、
「――っ、げほっ、がはっ」
口という狭い出入り口から、ごぼりとそれは吐き出される。
唾液や粘液が混ざったそれは、およそ人の喉を通るには不釣り合いな物体――まず、百合の花びらが数枚、そして丸々形が整った花そのものまでが、まるで彼の喉から咲いたように落ちていった。
「膝丸、大丈夫か!?」
今の状態は、およそ『大丈夫』から程遠い。膝丸は長義に向けて何か言おうとしたが、更なる吐き気の増大に、碌な言葉も発せられなかった。
喉を軽く抑えても、そこに何かある感触はない。なのに、気管の隙間から咲き出でるように、はらはらと口から花びらが落ちていく。
あまりに日常からかけ離れた、退廃的且つ危機感を煽る光景に、長義も雪雫も瞬時言葉を失う。
そうしている間にも、花と共に体力や気力も吐き出してしまったかのように、膝丸の視界が霞む。怪我をしたわけでもないのに、意識が朦朧として、思考自体が鈍っていく。
「膝丸、少し体を動かす。いいか」
長義の呼び声に、膝丸は僅かに首を縦に振る。宣言通り、体が異動する感覚と同時に、背が硬い物に触れた。恐らく、木に凭れ掛けさせてもらったのだろう。
「いったい、これは……何が起きているんだ。このような現象を見たことは、君はあるか?」
「いえ、私の刀剣男士も……こんな風に、体の内側から変化するようなことはありませんでした」
長義の問い、それに雪雫の回答。膝丸が聞き取れたのは、そこまでだった。
気持ち悪さは一旦収まったものの、体が何かに蝕まれていく。その感覚に引きずられていくように、膝丸の意識はぷっつりと途切れた。
膝丸の目が閉じられたのを確認して、長義は慌てて彼の体に手を添える。幸い、刀剣破壊がされたわけではないようで、まだ浅い息遣いが唇から漏れていた。
「大丈夫でしょうか」
「あまり大丈夫には見えないね。どうやら、酷く衰弱しているようだ。しかし、どうして百合の花が肌に咲くのではなく、体の内側から?」
疑問を口にしながら、長義は己の考えを整理していく。
彼の把握している限り、百合の景趣に迷い込んだ刀剣男士に起きる現象は、表面に花が咲き、やがては正気を奪うというもののはずだ。怪物のように見境無しに人を襲うようになるのは、本能だけでしか行動出来なくなってしまうからだろう。
確かに、最終的には全身を花で蝕まれるようだが、膝丸の表面はまだ殆ど花は咲いていない。それに、同様の事象を雪雫は今まで見ていないと言う。
経験や情報にない事態が発生した原因。他の刀剣男士がしていなくて、膝丸だけがしている行動があったのだろうか。
そこまで、一分足らずで考えた長義の脳裏に、ふと合流した直後の膝丸が話した内容が思い出される。
(髭切と別れる前、彼は百合の怪物を斬ったと話していた。それに、先程も彼女を助けようと、彼が化け物になった刀剣男士を斬った)
長義は、己の腰に吊った刀へと目をやる。
己は、山姥を斬った逸話を持つ刀。そして、膝丸があやかしを斬った逸話は有名だ。
その逸話により、名を変えたと伝えられるほどに。
「まさか……」
化物を斬って化け物の名を冠するようになり、名前を転々としてきた刀。
ならば、この百合の景趣が生み出した怪物を斬ったのなら――?
「長義さん、何か分かったんですか?」
「いや、まだ確証は持てない。あくまで推測に過ぎないからね」
「そうですか。もし分かったら、教えてください。こんな状況、私も初めてで……どうしたら膝丸さんのようになるのか、気になりますので」
「……そうだね」
長義は、じっと雪雫の横顔を見つめる。彼女は膝丸の様子が気になるのか、意識がない彼の顔をしゃがんで覗き込んでいた。
彼女の様子を眺めていた長義は、不意に刀の柄に手を添え、得物を抜き放つ。
「長義さん?」
「敵の気配がした。少し様子を見てくる。君は、膝丸を見ていてくれないかな。何かあったら、すぐに呼んでくれ」
口早にそれだけ伝えると、長義は灰色の外套を翻して、立ち並ぶ木々の中へと姿を消した。
小鳥すら囀らない、生き物が死に、花だけが咲き乱れる異界。
その中で、一人の女性はすっくと立ち上がる。
彼女の傍らには、百合を吐き出した後、気絶したままの刀剣男士が一振り残されていた。
「……可哀想に。こんなにも苦しんで、痛そうで、それでもまだ花になりきれてないなんて」
膝丸を見つめる女性の瞳には、慈愛の念が込められていた。たとえるなら、風邪で寝込んだ子供を看病する母親のような。
血の気が失せた象牙色の肌に手を伸ばし、彼女はそっと膝丸の頬に触れる。触れた頬に、ずるりと百合の花が芽吹き、音もなく咲いた。
「ここにいれば、いつか花になれる。折れることもなく、ただ野辺に咲く白百合として静かに過ごしていける」
彼女の手が膝丸から離れる。その間にも、独り言めいた言葉は続く。
「戦うこともなく、穏やかに、暮らしていける。ここが、私が見つけた楽園。桃源郷。全てが花で満たされた夢の園」
謳うようにつらつらと言の葉を並べていた彼女は、ふと膝丸に瞳の焦点をあわせる。
「とっても仲が良さそうな兄弟だったから、本当は、二人同時に咲いてもらう方が喜んでもらえると思ったのだけれど……でも、このまま苦しむよりはいいですよね」
気絶した膝丸は、当然返事ができない。しかし、彼女はまるで同意の言葉を貰ったかのように、うんうんと頷いてみせる。
そこに、何か悪巧みをしているような負の感情はない。
あるとしたら、それは、ただただ相手を思いやる慈悲だけだ。
「苦しみながら咲くことは、本意ではないの。痛みも無く、安らかに、静かに、ありのままを受け入れる。それが」
祈り、或いは誓いに似た言葉を紡ぎ、彼女は慈愛の微笑と共に膝丸に触れ――ようとした。
「それが、君の本心か」
彼女の首筋に、ひやりと冷たい感触。
それは、彼女にとっては縁がない冷たさであると同時に、かつては馴染みのある感触でもあった。切っ先を突きつけられたことこそなかったものの、手入れの際に刀にそっと触れた経験は幾度かあったような気がする。
目線を僅かにずらせば、予想通り、銀色に光る一振りの打刀。
背後から首筋に刃を添えられると気が付いて、しかし彼女は薄く笑い、切っ先が浅く皮膚を抉るのも構わずに、ゆるりと振り返った。
「そう。それが――私の願い」
振り返った先、海の蒼の瞳を持つ青年が立っている。整った面差しは、自分もよく知っている誰かに似ていた気がした。
ただ、彼の瞳は夏の木々を思わせる緑で、その表情はもっと自信なさげなことが多かった。
彼は、ある日を境に、いつも申し訳なさそうに、こちらを見つめるようになった。
その理由も分かっていた。
彼は、自分に罪があると思いこんでいるのだろう。だから、もう気にしなくていいよと伝えたくて――
「おかしな話だ。君の本丸の刀剣男士たちは、この景趣の犠牲者だと、膝丸から聞かせていたんだが?」
思索が、彼の問いによって途切れた。
「犠牲者? おかしな話ですね。彼らは、救われたんです。花に囲まれ、もう戦いに駆り出され、傷つく必要もなくなっただけ」
そうだ。犠牲になってなどいない。
だって、彼らは最初こそ別の存在になることを怯えていたけれど、やがて、徐々に己に咲いた花を受け入れていったのだから。
秋田藤四郎も。前田藤四郎も。へし切長谷部も。岩融も。骨喰藤四郎も。
「その果てに、理性も奪われ、化け物にするのが君の救済なのかな。随分と、身勝手な救済もあったものだ」
何を言われているのかが、よく分からなかった。
花になれば、何も考えなくて済む。物言わぬ美しい花として咲いてしまえば、もう皆は悲しい思いをしなくていいんだと、変化していく彼らを見て、自分は気がついた。
――理解した。
この景趣のある意味を、理解したのだ。
だから、花になるのは良いことだ。
その先も、きっと良いことに違いない。
でも、ならば、この記憶は何だろう。
翡翠の瞳をした誰かが、目の前にいる誰かによく似た彼が、泣いていた気がする。正気に返ってくれと、手を握られた気がする。
本丸で、最後に顕現した刀剣男士。
本丸の中では一番新しく来た刀剣男士で、皆に歓迎され、可愛がられて、自分も弟みたいな気持ちで彼のことを見ていて――だから、自分は、あのとき。
長義の目の前で、ふっと女性の瞳が弓なりに歪み、笑みの形に変ずる。こちらを見据える瞳は、中途半端に見開かれ、そこには最早理性など感じられない。
あるとしたら、触れてはならない領域に踏み込んだ人間の狂気。
情緒不安定などという、半端で優しい言葉では片付けられない。
(あれは、完全に――狂っている)
長義が浅く裂いた、彼女の首筋。
そこからは、血の一滴が溢れ――だが、それはすぐに白い花びらへと形を変える。
もとより、彼女は『生還』などしていなかったのだろう。
「これは、救済ですよ。花になってしまえば、何も感じずに済むのですから。心も無くなって、悩む必要もなくなる。戦いに出て、折れてしまうこともない。終わらない時の中で、永遠を生きられる。そういうものが、救いなのでしょう?」
「なるほど。君は、そのような思考に行き着いたんだね。助からないと思って気がふれてしまったのか、それとも」
契機は、景趣に迷い込む前から、どこかにあったのかもしれない。
膝丸が話した報告では、この審神者は刀剣男士を一振り失っている。それは、審神者の心にとって消えない傷になるだろうとは、長義にも容易に推測できた。
政府の人間からしたら、たかが一振りの刀剣男士だ。髭切や膝丸も、同様に判断したのだろう。彼らは依然として、自分と兄弟刀以外の事柄について疎いようだから。
だが、長義はその名を聞いたとき、つい審神者の心情に憐憫を抱かずにはいられなかった。
「陸奥守吉行を――初期刀を失って、そんな刹那的な救済論に、遅かれ早かれ辿り着いてしまう道の途中にいた、ということかな」
どの審神者にとっても、本丸の成立に寄り添った刀が持つ意味は大きい。
長義は人間ではなく刀剣男士ではあるが、それでも、己が顕現した直後に最も深く関わった人間――志乃に対する感情は、他の同僚とは比べものにならないほど強いと自覚している。
「気の毒に、とは思うよ。初期刀に加えて他の仲間まで、こんな形で失うのは、君にとって決して本意ではなかっただろう」
薄く罅が入った心が、完全に砕けてしまったとしても仕方ない。できるならば、この憐れな被害者が被害者のままであってほしかった。
しかし、既に答えは出ている。
雪雫と名乗った、審神者『だった』ナニカは、薄らと浮かべた笑顔で表情を固定したまま、こちらを見つめている。
「敵の気配がしたと言っていましたが、もう斬ってしまったのですか」
「ああ、あれはハッタリだよ。どうにも、出会ったときから君の様子が気になっていてね。膝丸の話を聞く限り、君は目の前で刀剣男士を大量に失った。それなら、普通の人間は恐怖と失意の内にいるはずだ」
たとえ、審神者がある程度特異な環境に身を置く人間とはいえ、訓練された者であったとしても、花に蝕まれて死ぬ仲間を見て平静でいられるわけがない。
事実、膝丸の報告でも、彼女は情緒不安定のようだったと聞かされていた。
「君の精神が揺らいでいると話は聞いていたから、最初はそのせいかと思っていたけれどね。だが、たとえそうであっても、おかしいんだよ」
長義とて、超常現象の一つや二つは体験している。人間の心を持って顕現している彼であっても、この状況に多少の嫌悪と恐怖は覚えた。しかし、
「君は、冷静すぎたんだ。トラウマを刺激されて狂乱する様子もなければ、怪物に襲われたというのに涙一つ浮かべていない。だから、少しカマをかけさせてもらった」
単に正気を完全に失い、その結果狂った平静を保っているのか。それとも――この現象そのものに対して味方している何者なのか。
膝丸に対する反応も、心配しているというより、寧ろ興味深い現象を観察しているように見えてならなかった。故に、敵味方の判断をするために、意識のない膝丸を差し出して、長義は様子を見ることにした。そして、案の定、彼女はその餌に食いついた。
「君が大本の黒幕とまでは思っていない。君が迷い込む前から、この不気味な景趣は存在していたようだからね。けれども、君は少なからず結びついてしまったらしい。今俺たちがいる、異界の中枢に」
人間としての彼女が変異したのか。それとも人の体としてはもう死んでいるのか。
それすらも定かではないが、少なくとも、彼女が本丸に帰ってきたときは、既に彼女自身が『百合の景趣』という怪異そのものに、かなり近い存在になっていたのだろう。
丁度、刀の本体と刀剣男士としての肉体がそれぞれ別にあるように、異界は己を理解して狂気に墜ちた人間を、己の一部として取り込んだと推測できる。
「君が人間なら、助けるのが俺の役目だと思っていた。だが、遅すぎたようだ」
ここまで変じた『化け物』を救う意味はない。寧ろ、これは膝丸と討ち取らんと話し合っていた、怪異そのものを象る中核の存在に近い。
いくら、見た目はただの女性であったとしても。百合に覆われた刀剣男士が刀剣男士とは最早呼べない存在になり果てていたのと同じように、彼女も人間とは呼べないだろう。
切り捨てればいい、とは頭で理解していた。
だが、同時に柄を握る手に僅かな緊張が走る。
悪意をこちらに向けるでもなく、無防備な人間を斬ることへの、ほんの僅かな躊躇。
「そうですか。――残念です」
それは、致命的な数秒の時間を、化け物に与えた。
「――!」
何てことのないように、少女は長義の刀に手を添える。
瞬間、全身を駆け巡る悪寒に、長義は思わずたたらを踏んだ。自分の持つ本体たる刀に手が触れられた瞬間、百合の花が切っ先から半分を一息の間に埋め尽くした。
同時に、左足のつま先から腰ほどまでの位置を、大量の針でつつかれたような痛みが走る。見るまでもなく、己の足は大輪の百合に覆われていた。
あまりに一息の間に起きた事柄が多すぎて、思考の処理が追いつかない。否、そもそも処理することすら拒んでいる。
このまま、花になってしまってもいいのではないか、と考えてしまっている己が、思考能力を奪おうとしている。それも、間違いなく百合の影響だろう。
「いいわけがないだろう! くそっ」
悪態をつき、長義は右手で花々を数輪引きちぎる。そうしなければ、このまま為す術も無く花を受け入れてしまいそうだった。
だが、花を半分ほど毟り取った所で、顔を上げた長義は大きく目を見開く。
未だ意識を失ったままの膝丸の側にいた『化け物』は、先程の続きをするかのように、膝丸へと手を伸ばしていた。
その手が触れただけで何を齎すかは、数秒前に己の身で嫌というほど知ったばかりだ。
「おい、やめろ!!」
まるで、眠っている子供を撫でる母親のように、嘗て審神者であった女の手が膝丸の首筋に指先を添える。
一輪、二輪と異様な速度で彼の輪郭が花に呑まれかけたとき、
――白の世界に、パッと紅が散った。