本編の話

 己は大抵のことでは動じない性分らしいと、髭切は自覚していた。たとえ、突然目の前に時間遡行軍が現れても、息を呑みすらしないだろう。
 だが、現状はどうか。少なくとも、自分は酷く動揺しているらしいと判断せざるを得なかった。川に弟が飲み込まれて、冷静でいろという方がどだい無理な話だ。もし髭切の周りにこれ以上異変が起きていなかったのなら、彼も焦燥と行き場のない怒りのあまり、八つ当たりの一つや二つはしていたかもしれない。
 しかし、膝丸が消失した刹那、彼の瞳は視界の端にあるものを捉えていた。
 夕焼けの赤と影の黒の中に、薄らと滲む白。
 百合の花よりも大きな、明らかに人影と思しき存在。
 もしかしたら、膝丸を消し去った犯人ではないかと、髭切はすぐさまそちらへと駆け出す。百合の花を駆け抜ける、一陣の白い風。それが吹きすぎた後には、甘い香りが緩やかに後を追う。
 走りながらも、髭切の手は刀の柄にかかる。
 そして、急接近する影――人の形をしたそれの前で急制動をかけ、得物を突きつけた。

「あれは、お前の仕業?」

 端的な問いには、最低限の意味だけが込められている。唐突に向けられた凶器に対して、白い人影はゆっくりと振り返った。
 百合の白に比べれば、いくらか薄汚れた布。それを頭から被っているが故に、白い影に見えたのだろう。腰のベルトにさした一振りの刀が、彼が人ではなく刀剣の付喪神であると示していた。
 布の隙間から零れ落ちた髪は、夕日を受けて黄金色に輝いている。長く伸ばした前髪の下で、翡翠の双眸がゆっくりと瞬きを繰り返していた。
 その顔を目にして、

「……長義?」

 髭切の口から、探し人の名が零れ出る。
 瞳や髪の毛の色も、服装だってまるで違うのに、何故だかそう呼んでしまうほどに、彼は長義によく似ていた。
 しかし、一瞬の驚きが過ぎれば、先程の出来事がすぐさま蘇る。水面に沈んで消えた弟。彼の行方を知っているかもしれない存在の前で、今はただ驚いている場合ではない。

「お前が、弟を隠したの?」
「何の話だ」

 間髪入れず、素っ気ない返事があった。表情の変化は乏しく、嘘をついている様子はない。髭切は抜き放った刀を一旦下げ、まじまじと相手の様子を窺う。

(……僕らと同じように、迷い込んだ刀剣男士かな。花が咲いていない所から察するに、恐らくそれほど時間は経っていない)

 この景趣の怪異は、現在進行形で被害者を増やしている怪異だ。眼前の刀剣男士も、犠牲者の一振りなのだろう。

「……ちょっと、勘違いをしていたみたいだ。一応訊くけど、僕と同じくらいの背丈の、薄い緑色の髪をした刀剣男士を見なかったかい?」

 確認のために問いかけると、彼は暫し考え込むように口元に手を当てた。

「……そいつも、ここに?」
「うん。弟なんだけどね。ただ、ちょっとはぐれちゃって」
「そうか。悪いが、俺は見ていない。俺が見つけたのは、この人間だけだ」

 彼が体に纏っている布をずらした先、そこには小さな人影が隠れていた。小さなといっても、髭切よりも頭一つ分背が低いだけだが、身を縮ませていたので尚更小柄に見える。
 黄昏時に淡く光る銀の髪。紅白の熨斗に結わえられ、一つに結ばれた後ろ髪は、緩やかに背を流れ落ちている。服装は、上に着ているものこそ特に目立ったところのない無地の白い着物だが、足を包むのは一面の白百合の中でも一際映える紅の袴だ。幼さが僅かに残る顔には、どこか見覚えのある蒼と黒灰の双眸があった。

「おや、もしかして君は」

 白い衣に緋色の袴。その装束が、巫女装束であること自体は髭切も知っている。
 そして、長義は自分が親しくしていた巫女を追いかけて、姿を消したと噂されていたことを思い出す。そうすれば、答えは自ずから導き出された。

「あの……さっき、長義と言っていましたけれど、山姥切長義を知っているんですか」

 先に口を開いたのは、巫女の少女の方だった。

「山姥切長義?」
「うん、彼のことは知っているよ。君を追いかけて、今頃この中ののどこかにいるんじゃないかな」

 疑問を投げかける金髪の刀剣男士を横に、髭切は少女の反応から、やはり彼女が長義の探し人であると理解する。
 政府で行った景趣の実験とやらに参加した彼女が、運悪く怪異の景趣に迷い込んだのが、昨日のことだと聞いている。長義がその後を追ったものの、未だ合流は叶っていないようだ。代わりに、この見知らぬ刀剣男士に助けてもらったのだろうか。

(彼女は、僕らより長くここに滞在している。それでも花の兆候がないのは……時間は関係ないのか、或いは人間と刀剣男士は別なのか)

 にこやかに笑いかけながらも、髭切はいくつかの推論を並行して芽生えさせていく。どんなありえないと思えるような突拍子もない推測でも、可能性がある限りは無視はできない。

「俺がこの場所を彷徨っているとき、こいつを見かけて保護したんだ。あんたの知り合いか」
「僕の知り合いっていうより、長義の知り合いなんじゃないかな」

 髭切が再度長義の名を出すと、少女は悲しげに眉を顰めた。

「長義は、私を追いかけてきてしまったんですね」
「そうらしいよ? 僕も人づてに聞いただけだから、もしかしたら実は全然関係ないのかもしれないけれど」
「……いえ、何となく分かっていました」

 妙に確信の籠もった物言いが気に掛かり、髭切は彼女へ視線を送る。

「分かっていたって?」
「薄らとですけど、ここに長義がいるって感覚がありました。もしかしたらって思ったんですけど……やっぱり、そうだったんですね」
「へえ、人間と刀剣男士ってそんな風に所在が分かるものなのかい?」
「当然だ。あんたは違うのか」

 今まで黙っていた金髪の刀剣男士は、不思議そうに問う。

「違うのかって言われても、僕は審神者に顕現されたわけじゃないもの」
「そうか」

 無口な性分なのか、青年との会話はすぐに終わってしまった。
 そういえば、名前すら聞いていなかったと髭切が思い至ると同時に、

「山姥切国広さんも、主さんを探しているんですよね? 一緒にここに来て、はぐれてしまったって」

 丁度良く、少女が青年を呼びかけてくれた。どうやら、彼の名前は山姥切国広というらしい。名前が長義に似ているが、それが彼の顔が長義に酷似している理由なのだろうか。

「ああ。……大体の居場所は、掴めている。だから、これから向かうつもりだったところに、あんたが来たんだ」
「そういうことだったんだね。じゃあ、僕も一応同行だけはしてもいいかい?」
「構わないが、あんたは弟を探しているんじゃないのか」
「それもそうだけど、則宗とか上の連中からは、この中に迷い込んだ者を助けるようにって頼まれてるからねえ」

 一度発見はしていたのに、見殺しにしましたというのは外聞が悪い。また悪評がたって、自分や弟に厄介な任務が押しつけられても困る。
 それに、弟の手がかりは今の所さっぱり見つかっていない。一振りであてもなく彷徨って、先程のように、不意打ちで化け物に出くわして手傷を負うのも御免だ。
 その分、山姥切国広の目的自体はどうでもいいが、彼やあの娘といった『目』が増えるのは髭切にとっては有り難かった。弟の所在に関する手がかりもないのだから、今の段階では彼らに付き合っても問題ない。

「……上の連中? あんた、もしかして政府の刀剣男士か」
「そうだよ。怪異を調査して退治する任務を引き受けていて、今はこの変な景趣の調査中……といっても、生還者に話を聞いている間に、巻き込まれちゃったんだけどね」
「戻ってこられた方がいるんですか?」

 少女の質問に、髭切は頷く。

「審神者が一人ね。だけど、話を聞いている間に辺りの様子がおかしくなって、気が付いたらここにいたというわけだよ。そういえば、君は長義と一緒に仕事をしている人間なんだよね」
「あ、はい。すみません、自己紹介がまだでしたね。私は、志乃といいます。時の政府で、審神者様や職員の方々のお手伝いをしています」

 そこまで言って、志乃は一度口を噤む。何故なら、髭切がずいと顔を寄せて、少女の色違いの瞳を見つめていたからだ。
 髭切としては、初対面の人間を観察するために近づいただけだが、刀剣男士が纏う独特の迫力に気圧されて、志乃は数歩後ずさった。
 暫くじろじろと無遠慮に眺めてから、髭切は今度は山姥切国広の方を見やる。

「さて、それじゃあ、君の主とやらを探しに行こうか。そっちの人間も、それでいいかい。それとも、君は一人で長義を見つけに行くかい?」
「いいえ。私は長義がどこにいるかは、具体的にはよく分かりませんし……国広さんの方を優先してください」
「助かる。主はこちらの方角にいるようだ。ついてきてくれ」

 ばさりと白布を翻し、山姥切国広は百合の花畑を歩き出す。だが、数歩もしないうちに彼はぴたりと足を止め、ふっと振り返った。

「そういえば、あんたの名前を聞いていなかったな。改めて……俺は、山姥切国広。あんたは?」
「源氏の重宝、髭切さ」

 よろしくという言葉を口にするより先に、髭切は腕に強烈な違和感を覚えた。
 たとえて言うなら、粘着テープを貼り付けられ、思い切り引っ張られたような痛みに近い。
 一体どうしたのだろうか、と不審に思い、普段は上着の陰に隠れている腕を軽く振る。
 そして、露わになった腕を目にして、髭切、そして志乃は大きく目を見開き、息を呑んだ。
 黒いシャツの上に咲く、一輪の白。
 もしそれが野原に花開いていたのなら、綺麗な花として微笑ましく見守れただろう。
 だが、その花は――白百合の花が咲くのは野原ではない。
 花が決して咲かない筈の場所。
 髭切の腕から、大輪の百合が、花びらを広げていた。

 ***

 終わらない黄昏時の中、右も左も白百合の花園という世界で、真っ先に欠落するのは何か。理性を喪失して狂人と化すか。或いは、現実感を失って夢か現か定かではない感覚に、身を彷徨わせるか。
 常日頃から、自分は冷静な判断ができる方だと自負している長義としては、また違う答えを弾き出していた。

「今、何時なんだろうね」

 真っ先に彼が自分から失われたと感じたのは、時間感覚だ。
 刀剣男士は、基本的には永遠すら生きられる存在と言われている。そのせいか、時間に対する感覚が常人と比べるとゆっくりしている者は多い。
 長義は、比較的流れる時間を意識しながら暮らしている方だが、全く変わらない空の下では、経過した時間を正しく認識できなくなってしまっても仕方ないと言えた。

(人間なら、空腹の感覚で判断するのだろうか……。空腹は感じないようにしてしまったから、その辺りが少しぼやけてしまったようだね)

 元が鋼である以上、普段感じている触覚や空腹感も、あくまで人間の物真似をしているだけだ。不必要とあれば、意識的に排除もできる。
 感じる必要のない空腹で倒れては元も子もないと、この緊急事態において、長義も飢えや渇きの感覚は己の肉体から取り除いていた。
 右を見て、左を見て、敵影がないことを確認してから、長義は歩みを進める。
 己の目の前から消えた少女を追いかけ、情報を集め、不可思議な景趣について知ったのは、事件が起きた日の夜。その足で開発課まで向かい、試験用に置かれていた景趣敷設の装置を勝手に使い、あれこれ試した結果、ここに自ら足を踏み入れた。

「入ってすぐに、彼女がここにいると分かっただけでもいいが、しかしこのまま闇雲に探していて見つかるものなのか」

 そこまで独り言を口にした瞬間、ぴり、と肌に鈍い痛みが走る。痛みの元である二の腕を見やると、そこには一輪の白い百合の花が咲こうとしていた。すかさずそれを掴み、ぶちりと引き抜く。
 大体数時間ほど前から、この花が体のどこかで芽吹き、花開くようになっていた。引っ張っても、今は僅かな痛みだけで引き抜けるが、いずれ引き抜けなくなる時が来るのではないかと危惧はしている。
 体の他の箇所に百合が咲いていないか確認して、ほっと一息を吐く。時間遡行軍と相対する際とは異なるが、常に警戒を強いられている感覚は、決して望ましいものではない。
 そのとき、彼の耳は水が流れるような音を捉えた。

「川があるのだろうか」

 消えた少女は、泉の中に引きずりこまれるようにして姿を消した。ならば、同じ水場の近くにいる可能性はありうる。
 足を速めてそちらに向かうと、果たしてすぐに、緩やかな川の流れを発見できた。
 川縁に近寄り、彼は周囲を見渡す。しかし、残念ながら、少女がいた痕跡や気配はそこからは感じられなかった。

「仕方ない。ここを起点に周囲を散策していこう」

 川の水面に視線を落とし、そこで長義は停止する。ある部分だけ、川の底が不自然に黒々としている。さながら、そこだけ底なし沼にでも変貌しているかのようだ。
 異界である以上、何が起きてもおかしくはない。幸い、川幅は長義の歩幅で歩いても数歩分の広さだ。もし何かが飛びかかってきたとしても、刀を振るう猶予は残されている。
 数歩後ろに下がり、長義は腰に吊した己自身でもある刀を抜き放つ。
 同時に、ばしゃん、と水の跳ねる派手な音。そこから現れたのは、

「……手?」

 長義の言葉が示すとおり、そこには皮手袋に包まれた手が突き出ていた。まるで何かを探すように藻掻いていた手を、長義は訝しげに見つめる。けれども、数秒後には何かに気が付いたかのように目を見開き、川の手の元へと駆け寄った。
 躊躇なく、彼はその手をしっかと掴む。手の持ち主は、長義の手を握り返し、そしてずるりと水面から引き出されたのは、

「膝丸、君、こんな所で何をしているんだ!?」

 明らかに人間が一人入れる空間などなかったのに、膝丸は水底から引き上げられた。
 奇妙な点はそれだけではない。川から姿を見せたというのに、彼の顔や額にいくらか水がかかっている程度で、大して濡れてすらいないようだった。

「貴様、山姥切長義か。兄者を見ていないか?」
「そんな登場をしておいて、開口一番、君はそれしか言わないんだね。髭切は見てないよ。そもそも、君たちはどうしてここに」
「任務として、こちらの景趣の調査を依頼されることとなった。景趣から生還した者がいると教えられて、その者の話を聞いていたのだが」

 ことの経緯を膝丸が説明していくと、長義は柳眉を寄せて口元に指先を当て、考え込み始めた。

「……その本丸自体が、既に異界に呑まれてたと?」
「或いは転送装置自体が狂っていた可能性もあるが、ともかく、俺の知る限りの情報は今話した内容が全てだ」

 長義は膝丸の言葉を頭の中で反芻する。
 監査室の刀剣男士に促され、唯一の生存者の元に向かったはいいが、気が付いたら外の景色が百合の景趣に切り替わっていた。本丸は跡形も無く消え、百合の只中に紛れ込んだ遭難者が二名に増加。
 決して手放しに喜べる状態ではないが、考えなしに飛び込んだ状況から比べると、いくらか進展もある。

「君たちが言うように、この景趣を形作る存在――黒幕らしい者がいる可能性はあると思うよ。そちらを招き入れる手段といい、人間のふりをした人形を使った点からも、何らかの意思を感じられる」
「ならば、やはりそれを斬ればいいのだな」

 考え方が『斬る』一辺倒で偏りがちなのは、この兄弟の悪癖だが、今の状況においては、決して悪手ではあるまい。
 長義は再び脇腹に鈍い痛みを感じ、そこに咲いた白百合の花を機械的に毟り取る。

「長義、今のものは何だ。君の体から、生えてきたように見えたが」
「……君が話してくれた、あの審神者の言葉通りだよ。ここに長くいると、体に花が咲いていく。この景趣内を探索しているとき、全身を花に覆われたまま、ふらふらと彷徨っている者も見かけた」
「それは、俺たちが出会った怪物か」
「いや、君の説明を聞く限り、それは怪物ではなかったのだろう? 刀剣男士の体を蝕むこれは、そのうち俺たちの理性も奪うようだね」

 異形の存在に関わるまいと、遠巻きに眺めていて正解だったと、長義は内心で呟く。姿はどうあれ、刀剣男士と真正面から戦うのは、支援が得られない状況では危険を冒すことにしかならない。
 体のつくりや思考そのものまでが、花が咲くごとに無理矢理変えられているような不快感がある。変わり果てた様子から鑑みるに、この変化は杞憂ではないのだろう。

「君は大丈夫なのか」
「さあ。今の所は、軽く引っ張ればすぐに取れる。大して傷もない。しかし、これが育つ速度が取り払う速度を上回ったなら」

 その時に何が起きるかは、膝丸も想像できたのだろう。恐らく彼の脳裏には、自分が斬った怪物の姿がよぎっているに違いない。
 単なる破壊衝動の赴くままに行動して、膝丸たちを襲ったのか。それとも、

(辛うじての矜持として、刀剣男士として刀剣男士に討たれたいと願ったか)

 武器として生まれたモノの誇りだというのなら、膝丸が『彼』を折ったことを一概には責められないだろう。

「ともかく、今は君のいう首魁を討つこと、そして俺の知人を探すことを優先したいんだが、君はどうする予定なのかな」
「俺は兄者との合流を優先したい。無論、首魁がどこかに潜むのなら、それを先んじて見つけた場合は、無論討ち取るつもりだ」
「それで、肝心の髭切の居場所を君は知っているのか?」

 長義に尋ねられ、膝丸はゆっくりと首を横に振る。

「そっちはどうなのだ」
「……いや。普段なら、もう少し気配が分かるんだが、この景趣の中では掴みきれていない」
「首魁の居場所について、心当たりは」
「あるわけがないだろう。今、君からその話を聞いたところなんだからね」
「存外、当てずっぽうなのだな。考えなしに、ここに踏み込んだのか」

 膝丸の物言いに、長義はじろりと彼を睨み付ける。

「仕方がないだろう。そこまで調べていたら、時間が経ちすぎてしまう。その間に、志乃が怪我でもしたらどうするんだ」
「ただの知り合いの人間のために、か」
「ただの知り合いじゃないさ。君には、分からないだろうけれどね」

 幾らかの嫌味を込めて、長義は膝丸に言葉のナイフを投げつける。
 膝丸にとって重要なのは、髭切だけのはずだ。だから、『ただの人間』のために身を擲つ気持ちが理解できないのだろう。
 しかし、予想に反して、膝丸はゆっくりと首を横に振る。

「……俺も、主を守護するために、奔走した経験はある。俺の主はただの人間だが、刀は主を守るのが役割だ。長義の考えも、そういうことなのだろう?」
「――それは、違うね」

 やや辿々しさの残る膝丸の結論に対して、長義はぴしゃりと否定の言葉を返した。
 長義が何を言いたいのか分からないのか、膝丸は意表を突かれた顔で長義を見つめ返していた。

「俺と君では『助ける』という言葉の意味合いが異なる。君は今、刀の役割があるから助けると言った。俺は、そうじゃない」

 胸元に咲き始めた白百合を毟り取り、長義はぐしゃりとそれを握りつぶす。目が痛くなるほどの白を睨み付けながら、

「俺は、志乃が志乃だから――彼女が、彼女だから助けたいと思った。それは、主であろうが何だろうが、関係ない」

 役目や存在意義とは違う、心から生まれた衝動。やはりというべきか、膝丸は長義の言葉の真意を理解していないようだった。
 不服そうな膝丸を尻目に、長義はばさりと外套を翻し、先を行く。
 己の尋ね人を、或いはこの異界を破壊するための黒幕を求めて。

 ***

 見知らぬ者と百合だらけの異界を歩くという、奇妙な行軍が続く。その道中、会話は殆どなかった。髭切は、必要なとき以外で喋る理由が分からないという考えの持ち主であり、山姥切国広は無口な性分らしく、歩き始めてからずっと口を閉ざし続けている。
 結果として、間に挟まれた常人の感覚を持つ志乃だけが、時折何か言いたげに、二振りの様子をちらちらと忙しなく見つめていた。

「あの」

 流石に、これ以上無言の圧力をかけられても困ると思ったのか、志乃は足を止めずに、会話の切っ掛けとなる声を発する。

「何か用かい」

 応じたのは、髭切だった。単に、自分の方が彼女に近い位置に立っていたため、自分が呼びかけられたと考えたからだ。

「……その、ええと……髭切さんって、以前、私、お会いしたことがある気がするんですが」
「ああ、そういえば弟が言っていたね。僕が庁舎の窓から落っこちてのびていたとき、君が手入れをしてくれたんだっけ」

 今まで黙っていた髭切が、ごく普通に返事をしてくれたことで安心したのか、志乃は少しだけほっとした表情を見せる。彼の口の端に浮かんだ笑顔も、彼女の安堵には一役買っていた。

「はい、そうです。膝丸さんが大層血相を変えて、誰でもいいから兄者を助けてくれと言われましたので」
「あはは、なるほど。弟らしいや。でも、長義は『手続きもなしに手入れを頼むな』って怒っていたみたいだけど、君はよかったのかい?」
「私も後から長義に叱られました。だけど、お兄さんが倒れたら心配って気持ちも、よく分かりましたので……。私にも、双子の姉妹がいるんです」
「へえ、そう。弟は心配性だなあっていつも思ってるんだけど、あの時は助けられたね」

 髭切が会話を続けてくれたことで、志乃は彼に対する評価を『見知らぬ刀剣男士』から『長義の知り合い且つ感じのよい刀剣男士』へと改める。
 もっとも、髭切は単に善意から彼女に愛想を振りまいているわけではない。この非常事態において、手入れの才を持つ者が手近な所にいるのは好都合だ。故に、ある程度は好意的に接しているだけだった。

「ああ、そういえば。出会ったときから気になっていたんだけど、君、随分と長義の気配が強いんだね」

 ついでに気になっていた点を聞き出そうと、今度は髭切自ら話題を振る。
 志乃と対面した時、髭切は彼女の気配に違和感を覚えていた。だから、まじまじと観察をしてみたのだが、違和感の理由は分からなかった。
 明らかに人間の子供であるのに、纏う空気に自分たち――即ち、刀剣男士と似たものが混ざっているとでも言えばいいか。その理由を知りたくて、髭切は自分が感じていた所感を口にする。

「まるで、君の中に長義が混ざっているみたいだよ。どうして、そんな感じになっているんだい?」

 志乃は答えるべきか悩んでいるようだったが、所詮は十と少ししか生きていない身。すぐに考えは行き詰まり、結局彼女は一分ほど間を空けて話し始めた。

「髭切さんはご存じかと思いますが、霊地管理課では、様々な土地に宿る神様やあやかしの皆様に、本丸や演練の場として土地を借りられないか、転移装置を敷設してよいか、などのお伺いをする役目があります」
「政府は、そんなこともしているのか」

 横から割り込んできたのは、先を行く山姥切国広だった。歩きながらも、彼らの話に興味を持ったらしい。

「はい。ただ、土地に宿るモノが良くないものの場合もあって、私がお手伝いしたときに出会ったモノも……あまり友好的ではない方でした」
「それを追い払うために、長義が君に力を貸したというところかな?」
「そんな感じです。恐らく、それ以来、彼の気配が私に混ざってしまったんだと思います」

 彼女の言うように、娘の髪は長義に似た銀であり、彼女の片目は不自然なまでに蒼い。まるで、彼女を浸食していくかのように。
 軽く二の腕に痛みを感じ、髭切は機械的に再び咲きかけた百合の花を毟り取る。
 体を蝕むという点では、この花の方が遙かにタチが悪いが、志乃の均衡を欠いた両眼の色合いも、髭切には百合の花と大差ないように思えた。単に力を貸しただけでは、恐らくはそこまで混ざり合うことはないだろう。だが、根掘り葉掘り聞くほどの興味もない。

「あんた、土地や本丸について詳しいのか」

 山姥切国広の質問に、志乃は小さく頷く。

「……一年中花が咲く本丸というものを、知っているか」
「花が咲く、ですか? 景趣を設定したり、庭を丁寧に手入れをしたりすれば、花は咲くと思いますが」
「そういうわけではない。桃源郷のように……常に春なのだそうだ。それと、出陣も殆どないと」
「出陣がないなんて、僕なら退屈で折れてしまいそうな場所だねえ」

 軽口のつもりで髭切は言ったが、山姥切国広から鋭い視線を投げつけられ、髭切は一度ゆっくりと瞬きをする。

「あんたは、政府の刀だから、そんなことが言えるんだろう。……仲間が、折れた経験がないから」
「知り合いが、折れたことならあるよ」

 怪異を退治する部署に行く前、髭切は長らく時間遡行軍たちが出現の兆候を見せた時代の先行調査をしていた。敵に気付かれないよう、小規模の出陣であるために、当然のこととして危険度も高い。同じ任務に就いている者が、知らぬ間に姿を消した回数など、両手では数え切れないほどだ。
 髭切は、単に事実を事実として述べただけだったが、山姥切国広は違う形で受け止めたらしい。彼は小さく息を呑むと、

「……すまない」

 小声で、それだけ呟いた。

「気にしていないからいいよ」

 言葉通り、髭切は折れた仲間たちのことなど、これっぽっちも気にしていない。顔すら覚えていないのだから、今更気にしようがない。
 もし今の自分が対面したら、また違う感情を抱くのかもしれないが、過去は過去で今は今だ。拘泥したところで、破壊された物が戻るわけでもない。

「それよりも、そこの童。君が霊地管理課の巫女なら、この『土地』に宿るモノの声も聞こえるんじゃない?」

 黒幕が土地に根ざした何かなら、そこから思考を読み取れるかもしれない。
 山姥切国広と髭切、二振りの刀剣男士の注目を浴びて、少し緊張したような面持ちで志乃は答える。

「ちょっとだけ、声は聞こえているんです。でも、言葉の意味がよく分からなくて」
「へえ、何て言っているんだい?」
「『彼はだめ』って。今はただ、それだけを繰り返してます」

 すみませんと、頭を下げる志乃。声が聞こえるということは、やはり何者かの意思があるらしいと髭切は推理する。

「俺はそんなものは聞いた覚えがないが、人間の耳にだけ聞き取れる音なのか」
「いえ、音として耳に入る声とは違うんです。頭の中に響くというか、勝手に入り込んでくるというか」
「そういえば、そんな格好をしているってことは、審神者と似たような役割なのか」

 山姥切国広は改めて志乃の姿を確認して、指摘する。志乃は、おずおずと頷いた。
 審神者と巫女は厳密には違うのだが、今この場においては、人ならざる者の声を聞く者としては同類であると判断したようだ。

「審神者も、あんたみたいなことはできるのか」
「多分、そのような方はあまり多くないと思います。皆さんは、かなり人に近い形をとっているので、ある程度『人』の制約に縛られているようですから」
「……ままならないな」
「主さん、早く見つかるといいですね」

 声音に大きな変化はないが、山姥切国広の声には落胆の気配があった。
 そんな彼に月並みの励まししかできないが、少しでも二振りに協力して、はぐれた人たちと合流しよう。志乃が内心で息巻いた刹那、

「止まれ」
「そこにいる者、出てきなよ」

 山姥切国広の制止の言葉に、志乃はぴたりと足を止める。弛緩していた空気は瞬時に引き締まり、ピンと張った糸のような緊張が辺りを包む。
 髭切の誰何に答えるかのように、木々の隙間からよたよたとこちらに歩み寄る人影。
 それを確認した刹那、髭切より早く、山姥切国広が得物を抜いた。鞘を刃が走る金属質な音と同時に、彼が駆け出す。

「国広さん、待ってください!」

 志乃の呼び止めなど聞かず、一陣の白い風のように山姥切国広は駆ける。

(随分と、行動が迅速だね)

 髭切もすぐさま、彼の後を追う。
 山姥切から一拍遅れて、髭切は得物を抜く。もし、膝丸が対峙したような、百合に蝕まれた刀剣男士の成れの果てなら、相手はそれなりの技量を持っているはずだ。
 山姥切の振るう銀の刃が、一切の躊躇なく敵へと穿たれる。
 金属同士のぶつかり合う、涼やかで、しかし聞くだけでも肌が切れそうな鋭い音。
 彼の打刀は、さながら獣の如く相手に食らいつく。一振り、二振り、敵へと刻み込むような連撃に、髭切が余計な手出しを挟む暇などない。
 山姥切の一刀が敵の首を落とさんと、屈んだ敵の上をとり、上段から刃を閃かせた瞬間、

「国広さん、その人は、刀剣男士です――っ!!」

 少女の悲鳴めいた制止が、二振りの刃の間を割る。
 何を今更と髭切は思うが、この少女がまだ百合と混ざった刀剣男士を目にしていないのなら、今の反応も致し方ないと言えようか。
 しかし、過たず、山姥切国広の刃は相手の首を通り過ぎていく。
 志乃が息を呑む、ひゅっと鋭い音。
 けれども、予想に反して首は落ちず、ただ鈍い音だけが響いた。
 ――峰打ち。
 そう気が付くと同時に、敵の体がぐらりと傾ぐ。
 刀剣男士の渾身の痛打は、同じ刀剣男士相手であっても、意識を奪うのに十分の力を持つようだった。

「こいつは刀剣男士だ。それぐらい、もう知っている」

 そして、山姥切は打刀を軽く振り、冷然と答える。彼は、志乃に言われるまでもなく、既にこの状況を理解しているようだった。
 相手に近寄れたおかげで、刃を向けてきた刀剣男士の姿が、よりはっきりと髭切の瞳に映る。以前会ったものより、浸食は浅いのか、まだ彼の体の半分ほどは、百合を咲かせずに済んでいた。
 人の肌にしてはやや青白さの伴った白い肌は、百合のせいか死人のように血の気が薄い。青みがかった細い銀の髪が、一房花の合間に零れ落ちていた。着ている服は、黒い洋装のようだ。この白百合とあわさると、見る人が見れば、西洋の喪服のようにも見えただろう。
 幸か不幸か、顔の半分こそ百合の苗床とされていたが、もう片側はまだ浸食はされていないようだった。

「見覚えのない刀剣男士だね」

 転がっている刀剣男士に切っ先を向けつつ、髭切は呟く。

「俺は見覚えがある。以前、俺の本丸に同じ者が顔を見せていた」

 山姥切国広も、同様に刀を構えたまま言う。

「へえ、そうなんだ。名前は何ていうんだい?」
「――地蔵行平」

 山姥切は、己が気絶させた相手の――地蔵行平の横倒しになっている体を片手で掴み、仰向けにさせる。
 彼が握っている刀には、びっしりと百合の花が咲いていた。そこから伸びた葉や根までが刀身に蔓延り、明らかに異常だと分かる姿をしていた。なまじっか、刀であると認識できる程度の形は残っている分、歪さも強調されてしまう。髭切も、反射的に顔を歪めた。

「ねえ、その地蔵行平とやら。君、もう起きているんだろう?」

 髭切に呼びかけられ、それでも目蓋は動かない。しかし、微かに体が揺れたことは髭切にも分かった。

「寝たふりかい? それとも、このまま折られるのを待っているのかな」
「えっ」

 志乃は驚きの声を漏らしたが、山姥切の声は微動だにしない。
 山姥切も髭切も、刀を収めてはいない。倒れたこの刀剣男士も、それには気が付いているだろう。隙をついて襲おうという程の敵意は感じられず、かといって、助けを乞うような必死さもない。
 あるとしたら、それは――諦めだ。
 一瞬の沈黙。そして、瞑られていた瞳が微かに震えながら開く。

「分かっているのなら、話は早い。手間をかけさせて、しまうことになるが……頼める、だろうか」
「うーん……。別に僕はそれでもいいんだけど」
「待ってください。そ、そんなの、よくないです」

 志乃が素早く首を横に振る。だが、髭切は彼女の意見を無視して、己の問いを優先する。

「君は、監査官の地蔵行平なんだよね?」

 微かに、彼の顎先が上下に動く。

「それは困ったね。君を助けるように、僕は一文字則宗に頼まれてきたんだ。君と、あと君と一緒にいた人間のことを」

 彼から依頼された事項の内の一つ。それが、監査に行ったまま行方をくらました、とある刀剣男士と人間の救出だ。その刀剣男士の名が『地蔵行平』だとは、則宗から教えられていた。

「一応、頼まれている以上は、君を斬っておしまい――とはしたくないんだよね」
「則宗、か……。あやつは、いつもそうだったな……。しかし、今の吾の状況を見れば、分かるだろう」

 片手だけを使って、地蔵は上体を起こす。既に、百合に覆われた手は動かないのだろう。
 髭切も山姥切国広も、依然として刀は彼に突きつけたままだった。それでも、まるで動じずに、地蔵は彼らを見つめている。

「詳しくは知らないけれど、ここにいると花が体に咲いてしまうらしいね。そして、花はあまり僕らにとって良くないものらしい。さっきも、明らかに理性のなさそうな刀剣男士に襲われたよ」
「その通り。この花は、どうやら心を壊す物であるらしい。……先程、吾と一緒にいた人間について、話していただろう」
「そうだね。そういえば、その人間はどこに?」
「――吾が、斬った」

 周りからそれらしい気配を感じないと思っていたが、そういうことだったか。
 髭切にとってはある程度予想できた事柄ではあったが、志乃にとっては想像の範囲外だったのだろう。固く握りしめた少女の拳は、動揺で小さく震えていた。
 山姥切国広の方はというと、先にこちらに流れ着いた身であるからか、表情を全く動かしていない。

「花の浸食が増えていったと同時に、吾の体が勝手に動いていた。彼も、既に正気は失いつつあったが……。まさか、命あるもの全ての救済の願いを持って顕現した吾が、救済どころか、奪うことになろうとは」

 地蔵の自嘲めいた発言は、髭切には分かりがたい言葉だった。
 勝利――即ち、誰かを死地に追いやった結果を武勲と称する時代の逸話が、髭切には宿っている。故に、地蔵の言葉は一般的には『優しい』と評されると理解していても、受け入れられそうにもなかった。ただ、彼が己の矜持に反する行いをしてしまい、このまま在り続けても、自我を失うのだろうということだけは分かった。
 嘗ての己なら、それがどうした、と思うこともできただろう。
 任務だからと、引きずってでも連れて帰る手段を考えていたかもしれない。
 だが、今なら、『もし』と、自分に照らし合わせて思考できる。
 もし、自分が見境なしに敵を襲うだけの化け物に成り果てるなら。
 弟すら分からないまま、彼を斬りつけてしまうような存在に変じるのなら。

「それは――君にとって、地獄のような時間となるのだろうね」

 地蔵行平は、無言で首肯する。
こちらに刀を向けられて、彼が言い訳もせずに迎撃した理由は、自らの死に場所を求めてか、或いは話し合う理性すら、気絶するまで失せていたのか。どちらにせよ、この刀剣男士が最終的に導き出した答えが、あの諦めを露わにした姿だったのだろう。

「髭切さん、まさか本当に!?」

 志乃は驚いたような顔で髭切を見つめているが、髭切としては当たり前すぎる結論だった。
 この異界は、刀剣男士たちの持って生まれた誇りさえ、容易に踏みにじっていく。体も本体も、人でも刀でもない何かに変貌させられ、それでもまだ生きろというのは寧ろ酷だ。

「待ってください。もしかしたら、助かる方法がどこかにあるかも」
「無理だ。助かることはない。最後まで進行を目にしたことはあったが、そのどれもが、理性を失い襲いかかってきた」

 答えたのは、山姥切国広だ。彼も、この空間で似たような死を目にしたからだろうか。表情には、陰りも揺らぎも見られない。ただ、言葉は少しだけ早口になっていた。

「こんな、こんな……痛そうで、辛そうな姿のまま、終わりにしないといけないなんて」
「そこにいるのは、人間……のようだな。安心するとよい。これは、痛みは感じない。……いっそ、不気味なほどに」

 破壊される前に伝えておこうと思ってか、地蔵は花に半分浸食された唇をゆっくり動かし、言葉を語る。

「人に咲くものはどうかは知らないが……吾らに咲く花に、悪意はない。蝕まれて、よりはっきりと分かった。この花にあるのは、戦いに赴く吾らを悲しみ、慈しみ、愛する思いだけ。それに全てを呑まれると、何も考えられなくなってしまう」
「その結果、どうして人を襲うことになるんだろうね」
「俺たちの存在意義に、『戦い』は大きく関わっている。何も考えられなくなるということは、その存在意義に忠実になること……なのかもしれない。結果、見境なしに誰かを襲ってしまうのか。或いは、まだ変化してない者を、よかれと思って取り込もうとした結果がこうなのか」

 山姥切の推論に、髭切は「なるほど」と頷く。一見矛盾した行動のようにも見えるが、その実、嫌な形ではあるものの筋は通っているらしい。

「ここから外に出られないのも、皆を守りたいから……ということですか?」
「そうかも、しれぬな」

 志乃と地蔵が話している内にも、彼の肌の上では、百合の花が一つ二つと数を増やしていく。その速度は、髭切の体に咲いたときのものより早い。瞬きを数度している間に、十以上の花が蕾をほころばせていた。
 地蔵の手が、刀へと伸びようとしているのを、髭切は視界の端で捉える。地蔵自身が気付いていない様子から察するに、無意識なのだろう。自我と行動が乖離しかけている証拠だ。今話している彼の意思も、長くは保つまい。

「話は、もういいか」

 地蔵の背後に回り、山姥切国広は静かに問う。彼が地蔵の後ろに立った理由は、今更考える必要もないぐらいに明らかだ。

「……そこの刀剣男士。髭切、といったか則宗に伝えてくれ。吾が自ら選んだ道だ。恨む必要も、悲しむ必要もない、と」
「うん、承知した。――山姥切。君に任せていいかい」
「ああ」

 微かに目を伏せる彼の背後、山姥切は打刀を大きく振りかぶる。
 今度こそ、峰ではなく、真っ直ぐに首へと刃が振り下ろされ――

「――畢、竟…………成……」

 細い声を残して、人の形をしたモノの首が落ちる――と思うより早く、百合に蝕まれた彼の全身に亀裂が走る。ぱきり、と金属質な何かがひび割れる音に続き、シャーンという鈴を振るような音色が響く。
 目の前にいた人の姿をしていたものの体は、ガラス片の如くばらばらに砕け散った。
 後に残ったのは、砂とも硝子片とも似た細やかな粒の塊だけ。
 そして、百合に塗れた刀は、真っ二つに折れていた。

「……あの刀剣男士は、これで救われたんでしょうか」
「さあ。救われたと君が思いたいなら、そう思えばいいんじゃないかな」

 髭切の返答は、ぞんざいなものだった。彼としては、別に志乃を傷つけようとしての発言ではない。
 地蔵にとって、死が救いだったのか、或いは言葉だけの強がりだったのかは、もう今となっては分からないことだ。同じ刀剣男士の髭切とて、折れた者の考えまでは想像できない。

「山姥切さんは、大丈夫ですか」
「大丈夫とは、何の話だ」
「その……そんな風に、介錯をして、辛くないのかって。それに、髭切さんも、お仲間が……」
「俺よりも、あんたの方が大丈夫じゃない顔をしているようだが?」

 山姥切は軽く刀を振り、鞘に本体を収める。その仕草に迷いは一切ない。刀剣男士としての覚悟が決まっているのか、慣れた手順を淡々とこなしているようにしか見えなかった。

(僕は、こんな風に冷静でいられるのだろうかね)

 流石に、髭切もこのような形で介錯をした経験はない。そのとき、自分が山姥切のように顔色一つ崩さず落ち着いていられるかどうかは、未知数だ。
 ただ、少なくとも、志乃のように動揺を顔に出すことはないだろう。事実、則宗の知り合い――同じような政府に所属するの刀剣男士が、こうして眼前で折れる姿を目にしたのに、心は薙いだままだった。
 折れた地蔵行平の本体――刀の破片を拾い上げ、ズボンのポケットの中に入れておく。則宗には、これを見せて、手遅れだったと伝えるしかあるまい。
 山姥切が辺りに不審なものがないことを確認し、再び歩き出す。その後も、志乃も髭切も無言でついていく。先程までは会話を繋ごうとしていた志乃も、流石にあの光景を見てから何か言う気力はなかったらしい。

「髭切」

 黙り続けている志乃の代わりではないだろうが、口を開いたのは山姥切の方だった。

「なんだい」
「あんたは、ああいうことをした経験はあるのか」
「ないよ。君は随分と冷静なんだなあ、と思っていたところ」
「なら、もし求められたらどうする」

 山姥切国広は先を歩いているため、その表情は読めない。どういう意図で、今の問いかけが生まれたのかは、推測できそうにもなかった。

「僕は刀だからね。求められれば介錯もするだろうさ」
「……割り切っているんだな」
「君もそうだと思っていたんだけど。まあ、僕は、割り切るとか割り切らないとかの問題じゃないだろうね」

 どういうことだ、と問いが投げかけられる。

「そういう考え自体が、生まれないんじゃないかなって。だから、ただ敵を倒すのと同じように、僕も誰かの首を何も感じずに落とすのだろう」
「そんなことは……ないと、思います」

 おずおずと声を発したのは志乃だった。まだ平静には程遠く、唇も僅かに震えているが、己の言葉を必死に形にしようと、声を発する。

「うまく、言えませんが……心を持って顕現されたのだから、きっと気付かないだけで、どこかに傷は残ってしまうんだと思います。皆さんは強いから、それでも平気なのかも、しれませんが」
「……傷、ねえ」

 自分にそんなものがあるのかと、髭切は己に問いかける。
 己の心という存在を、意識して外に向け始めたのは、つい最近だ。だからこそ、傷をつけられた経験も、まだ自分にはないのかもしれない。
 山姥切は答えない。介錯に手慣れた様子の彼の心にも、傷は残っているのだろうか。あるとしたら、それは彼に何を齎すのだろうか。

「あんたは俺のことを案じているようだが、何も問題は無い。あんた達人間と違って、俺たちは刀剣男士だ」

 故に、心だって鋼で出来ていると、彼は言いたいのだろうか。
 それ以上は語らず、山姥切はずんずんと奥へと向かう。その先に、きっと彼の主がいるのだろう。だからこそ、山姥切は障害に対して躊躇をしないのかもしれない。

(それが、主のいる刀の強さか)

 自分も、彼と同じ強さをいつか得るのだろうか。
 ふと、そんなことを思いながら、髭切も足を前へと進めた。
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