本編の話
冷たい風が頬を撫でる感触に、彼はふと目を覚ます。体を覆う布は、外気をある程度遮断してくれるはずだが、その役割も微々たるものだったようだ。
「誰か、きたのか」
声を発しても、応答する者はいない。ただ、空虚に、終わらない夕焼け空の中へと消えていくだけだ。
座り込んだ姿勢からゆっくりと体を起こすと、固まっていた体が少し解れたような気がした。元より刀の身ではあるが、こうして人の体を得て、肉体も錆び付くのだと知った。
周りを見渡しても、自分の意識を覚醒させた気配は感じられない。視界に入るのは、先程出会った人間の子供が一人だけ。この場所を彷徨って疲れたのか、今は木に凭れて静かな寝息を立てている。
先程の気配は単なる勘違いか、はたまた直感が己に何者かの到来を告げたのか。
どちらだろうかと悩みかけ、すぐにどちらでもいいと、彼は自嘲混じりの笑みを浮かべる。
「誰が来ようと、俺は俺がすべきことだけを、するだけだ」
立ち上がると、妙に頭が涼しい。いつも頭に被っていた布がずり落ちてしまっていると気が付き、白い――かつては白かった、薄汚れた布を頭の上まで引っ張り上げた。
そうして、暗く陰ったお馴染みの視界が、己の元へと戻ってきた。
***
審神者という職業に就くことが、果たして幸せかどうかについては、意見が分かれるところではある。時間遡行軍という、ある種の凶悪な化け物に敵として狙われ、日夜いつ襲われるのかと冷や冷やしつつ本丸で暮らす日々を、単純に幸せとは表現しづらい。
だが、人によっては、本丸の日々はかけがえのない素晴らしいもののように思えるらしい。
政府の刀剣男士は決して知りえない、人と付喪神の交流。髭切は、それを羨ましいと感じたことはなかった。確かに、刀は人間と縁深い存在なのかもしれないが、そうでなくとも全力は振るえると確信できていた。
けれども、人間との暮らしはどういうものなのだろうかと、興味ぐらいは抱く。付喪神と接触した人間は、何を感じ、何を思うのか。
(そして、失った結果、何を得るのか――)
政府の転移装置を経由して、辿り着いた先――百合の景趣から辛くも生き延びた審神者の本丸は、とりたてて目立ったものはなかった。
平屋の建物は、人の気配こそ殆どしないものの、確かにこの場で生活が営まれていた痕跡が残っている。庭の草は伸び放題になっているが、嘗ては綺麗に手入れをされていたのだろう。その名残のように、鉢植えには雑草が伸び放題の中で、ぎっしりと夏の花が咲き誇っていた。
「たしか、聞いた話では、戻ってきた審神者は酷く衰弱していたから、その世話をしていた人間がいるらしいのだけど……」
「こちらの事情については、向こうからも説明は届いているはずだ」
庭の飛び石を伝うようにして玄関口に向かうと、向こう側から引き戸が開いた。
扉の向こう側には、薄く笑みを貼り付けた年配の女性が立っている。着物姿でにこやかに微笑みかける彼女は、さながら女中のようにも見えるが、恐らく彼女こそが世話係として派遣された女性だろう。
「お待ちしておりました。ご案内しますね」
簡単な挨拶を済ませてから、彼女は二振りを本丸の奥へと導く。
長く伸びた廊下を渡るときに、幾つもの襖が髭切の視界を通り過ぎていった。嘗て、この本丸にはそれだけの数の刀剣男士が暮らしていたという証拠だろう。主が帰らない部屋は、中途半端に調度品が残っているからこそ、漂った生活感が寂寥を増していた。
本丸ごと怪異に飲まれ、戻ってきたのは審神者が一人。
審神者だけでも無事だったことを、御の字と見るべきか。それとも、刀剣男士を失った審神者など使い物にならないと判じるべきか。
合理的な結論なら、髭切にも出せる。だが、残された審神者個人の主観に寄った考えは、彼にはできそうにもなかった。
女中めいた職員に案内された部屋で、二振りは用意された座布団の上に座る。
「じきに、お見えになると思いますので」
既に審神者の方にも話は通しているのか、彼女はそれだけ言うと、部屋の片隅に控えるかのように腰を下ろした。
茶の一つもないままで、漫然と部屋の中で待つのは退屈の一言に尽きる。髭切はぼんやりと周りを見渡し、部屋に置かれた家具を眺めていた。
「ねえ、弟」
「何だ、兄者」
「お前は、本丸で暮らしてみたいって思ったこと、あるかい?」
「ないな」
きっぱりとした答えは、髭切にも容易に想像できた内容だ。
「僕も、結局のところは、お前がいるならどこでもいいって返事になっちゃうかな」
暇つぶしの一環も兼ねて、せっかく本丸という場所に訪れたので、それに見合った話題を口にする。問い自体に大きな意味はない。二振りにとっては、単なる認識確認を行うためだけの問答に過ぎなかった。
「ただ、俺としては」
だが、髭切の予想に反して、膝丸の言葉は続く。
「兄者が選んだ、あの主の元にいるのは、悪くはないと感じているようだ」
「おや、随分と気に入ったんだね。確かに、彼は悪人ではないとは思うよ」
お互いが無茶をしすぎないように、帰るべき主人が必要だと思い、据え置いた仮初めの主人。それが誰であろうとよかったが、結果的に思った以上に上手く作用はしているらしい。
元々、張りぼての主に対して、あれこれ注文をつけるつもりはなかった。だが、彼が悪心を抱く人間ではないというのは、素直に良いことだと思えた。
「俺たちにとって帰るべき場所は、あの主の元だ。故に、本丸であろうとどこであろうと、暮らす場所は関係ない」
「それが、今のお前の答え?」
「……そうなるな」
自分でも少し意外だったのか、膝丸は己の考えを改めて噛み締めるように、慎重に答えてみせた。
本来の刀剣男士は審神者というただの人間一人に、その心を左右されるものらしい。ならば、膝丸の返事もそれに倣った結果なのだろうか。では、今からやってくる刀剣男士を失った審神者は、そんな刀たちにどんな感情を抱くのか。
任務に対する心構えと同時に、僅かな好奇心を覗かせていると、廊下の板を踏みしめる音が静かな部屋に響いた。
程なくして、すっと襖が開く。そこに立っていたのは、審神者と言われなければ素通りしてしまうような、どこにでもいるありふれた人間だった。
「はじめまして。ええと……政府から、来られたのですよね?」
吹けば飛びそうなほど、細い声。彼女が足を踏み入れた異界は、大きな疲労を彼女に強いたのだろうか。体は、未だ回復しきってないらしい。
肩ほどまでに伸ばした黒に近い栗色の髪は、蛍光灯の灯りを通しているためか、白にも見える。兄弟二振りを見つめる目は、まだ疲労の色を濃く残しており、どこか覇気がなかった。纏う衣服も、ゆったりとしたシルエットのワンピースであり、直近まで寝ていたのか、所々に皺も見受けられる。
「その通り。我々が政府から来た刀剣男士だ。今日は、先日までそちらが囚われていたという異界について、話を聞きに来た」
礼儀として一応立ち上がり、二振りは軽く一礼してみせる。彼女も微かに頭を下げたが、まだ体が本調子ではないためか、あたかもぼっきりと折れた植物の茎のようなお辞儀だった。
「どうぞ、楽にしてください。私も、少々無礼を見せるかもしれませんが、ご容赦くださいませ」
「ああ、その辺りは気にしないから、楽にしていていいよ」
髭切は腰を下ろしながら、彼女を労っているような言葉を吐く。実際のところ、疲れている様子の審神者に気遣ったのではなく、髭切は単に本当に気にしていないだけだった。
無論、そんなことはつゆ知らず。審神者の女性は、紙のように白い顔に僅かな笑みを浮かべ、ゆるりと座る。正座ではなく、足を投げ出すような楽な姿勢をとっていた。
人目がない方が話しやすいと思ったのか、同席していた職員は審神者の女性と入れ替わるように席を立つ。残された一人と二つの間に、一瞬の静寂が生まれ、職員が襖を閉じる音がやけに強く響いた。
女性は暫し二振りを見てから、やがてやや億劫そうに口を開いた。
「私は、審神者の『雪雫』と申します。ええと……それで、私はどんな話をすればよいのでしょうか」
「単刀直入に聞こうか。君は、どのようにして怪異現象に巻き込まれ、どうやって戻ってきたんだい?」
髭切の問いかけは、人間の理解を超えた異界に迷い込み、一人で帰ってきた人間に向ける言葉としては直接的すぎた。
だが、彼女は泣き崩れることもなく、怯えを見せもせず、気丈にも笑みを浮かべて答える。
「景趣を切り替えたとき、本当に偶然に辿り着いたんです。今年は花があまり綺麗に咲かなくて、だから景趣で楽しもうかと思って。向日葵は、陸奥守が好きな花でしたから、彼も喜ぶだろうと」
「それで、百合の景趣になっていたというわけか」
余計な話は不要とばかりに、膝丸が兄の後を追って言葉で切り込む。雪雫と名乗った女性は、鷹揚に首を縦に振った。
「とても見事な景色でした。一面に、白百合が咲いていて……。空は夕暮れ時で、燃えるように紅くて……でも、ほんのりと紫色で。噂では、運の良い人は百合の景趣というものに稀に出くわすとは耳にしていたので、面白そうだから探検しようと、皆で散歩に出かけて……」
どこか夢見心地の様子で語っているのは、その景趣が刀剣男士の喪失を慰めるほどに美しかったからか。或いは、異界に魅入られて精神に異常をきたしたのか。
どちらにしても、今必要なのは景趣の美しさに対しての美辞麗句ではなく、そこで何が起きたかだ。髭切が視線で続きを促すと、彼女は色の薄い唇を、再びゆるりと動かし始める。
「山姥切は、百合を摘んでくると言ってました。そういうことに使うと話したから……なのでしょうね。私は、そんな風に抱え込まなくていいと伝えたのですが。陸奥守は、やるべきことをやっただけなのだからと」
「どうして、君たちは帰れなかったんだい?」
また話が脱線しかけていると、髭切は軌道修正を図る。どうやら、彼女は気丈な性分というよりは、異界で過ごした何日間の間に心の均衡をいくらか崩してはいるようだ。冷静に見えているようで、思考能力は酷く乱れているのか、すぐに別の話を始めようとするのは、そのせいだろう。
「帰れなかった理由、ですか? それは……本丸が、なくなっていたからです」
「なくなっていた?」
鸚鵡返しに問う膝丸に、雪雫は笑みを貼り付けたまま頷く。
「ええ。本丸が、丸ごと消えていました。ちょっと散歩に出かけて、皆が本丸に背を向けて百合に見入っていて、ふと振り返ったら、もうなかったんです」
「それで、君たちはどうしたのだ」
「皆で、出口を探し回っていました。前田と秋田は、私を安心させようと側にいました。他の刀剣男士は、出口を探して歩き回って……でも、歩けども歩けども、あるのは百合の花畑ばかり。まるで、桃源郷のように美しい光景が続いて――」
謳うような口ぶりで、彼女は自らが見てきたものを話す。さながら、お伽噺でも語り聞かせているかの如く。
「そのうち、花が咲いたのです」
「百合の花は、そこら中に咲いていたんじゃなかったのかい?」
「いいえ、咲いたのは」
彼女はすっと腕を持ち上げ、髭切と膝丸を指さした。
彼女の白い指は、血の気がない。それでいて、妙に滑らかな肌をしていた。
「咲いたのは、刀の方に」
告げた言葉はあまりにあっさりとしていて、二振りは何を言われたのか理解できなかった。けれども、そんな二振りを置いて彼女は話を続ける。
「一つ、二つ、花が咲くごとに少しずつ動けなくなっていく。毟っても、引き抜いても、根を張って、心も体も……私はそのとき、気が付いたんです。理解したんです」
一拍、息を置いてから、彼女は言葉を続けようとした。
――しかし、代わりに音になったのは、ごほごほという咳の音。
何かが体に障ったのか、軽い咳から、まるで体の内から何かを吐き出すかのように、咳は激しさを帯びていく。流石に様子が変だと感じ、二振りが立ち上がり、彼女に近づいたときだった。
「帰って、ください」
呼吸すらも苦しそうな息遣いの中、彼女は咳に紛れて言葉を漏らす。
「早く……帰って」
「……え?」
髭切が言葉の真意を深く問うより早く、すっと襖が開く。部屋に入ってきたのは、先程も目にした、女中のような姿をした職員の女性だった。
この発作的な体調不良には慣れているのか、特段驚いた様子を見せもせず、彼女は審神者の女性に近づく。雪雫という名の通り、ただでさえ白い彼女の顔は、最早血の気がないを通り越して幽鬼のようにすら見えた。
「少々、ここでお待ちください。彼女を一度休ませる必要がありますので」
「ああ、そうした方がいいだろう」
このまま咳き込まれた状態で、話をさせるわけにもいかない。膝丸がすぐに同意の首肯を返すと、職員は審神者の娘を支えるようにして、部屋を後にする。ぴったりと襖を閉じる音だけが、咳に紛れてやけにはっきりと響いた。
「あの体調の崩し方は、百合の景趣に入った後遺症のようなものなのだろうか」
「そうかもしれないね。僕らが平気でも、人間は脆いから、ああやって体へ異変をもたらしてしまうとも考えられるよ」
「どちらにせよ、肝心のことは聞けなかったな」
迷い込んだ発端となった事象や、景趣の中で起きた現象について聞き出せたのは、収穫と言えるだろう。
だが、彼らにとって重要なのは帰る手段の方だ。唯一の帰還者なら、それが分かるのではと思ったが、そこに行き着くまでに退場されてしまうのは予想外だった。
少しの間待つようにと言われた以上、二振りも無断で部屋を出るような真似はせず、じっと座布団の上に腰を下ろして、彼女が戻ってくるのを待っていた。
しかし、時計の針がいくら進んでも、彼女が再び姿を見せる気配はない。気が付けば、既に三十分もの時間を部屋の中で過ごしていた。
「……体調が回復しないうなら、ここは一度出直そうか」
髭切の提案を受けて、膝丸もすぐさま頷く。待てど暮らせど戻ってこないなら、仕切り直すのも一つの策だ。持ち帰った情報を精査すれば、何か新たな光明を見いだせるかもしれない。
そうと決まれば話は早い。座布団から立ち上がった二振りは襖を開いて、外に出ようとして、
「何か用か」
膝丸が尋ねた先、そこには審神者の介助をしていた女性職員が立っていた。淡々とした代わり映えのない表情で、彼女はこちらを見上げている。
「こちらでお待ちください」
「しかし、話を聞かせる者が倒れていては、聴取にならないだろう。そちらにも事情があるのだろうから責めはしないが、こちらとて時間は有限なのだ」
「そういうわけだから、一度帰りたいんだけど、いいよね?」
理屈や道理から外れたことは、頼んでいない。彼女がすぐに頷くだろうと、二振りは予想していた。だが、職員はその場を微動だにせず、二振りを見つめ続けている。
「こちらでお待ちください」
四つ並ぶ琥珀の瞳を前に、淡泊な台詞を繰り返す。彼女の声音は、先程と全く同じだった。
寸分違わず、少しの狂いもなく、全て同じ調子の声だった。
「だから、俺たちは」
「待って、弟。何か変だ」
髭切は気色ばむ膝丸を下がらせ、女性を睥睨する。並の人間なら、たとえこちらに手を出さないと分かっていても、微かに動揺を見せてしまうだろう。そんな殺気染みた視線を受けてもなお、彼女は動かない。
「こちらでお待ちください」
「――お前、何?」
髭切の問いかけに、兄が何を言いたいのか察した膝丸も息を呑む。
静寂。そして、
「こちらでお待ちください」
「人じゃないようだね。ひょっとしたら、出会ったときからかな?」
「こちらでお待ちください、こちらでお待ちくださいこちらでお待ちくださいこここちちちらららででで」
壊れた機械のように同じ音だけを繰り返す様子は、最早正常な人間の発する言葉ですらなかった。音の機関銃の如き声の羅列は、常人なら心胆を寒からしめるに違いなかっただろう。しかし、髭切はこの程度では動じない。
「待たないよ。人でもない、意思もない傀儡の言葉を聞くつもりはない」
女性を押しのけて外に出ようと、彼女の肩を掴んだ瞬間。
――百合が、咲いた。
髭切が触れた彼女の腕から、彼女の全身を喰らい尽くすように、びっしりと百合の花が咲き乱れる。人の姿をした百合の花の塊は、すぐにその形を保てず、ばさばさと花びらをこすれ合わせて廊下に散らばっていった。
「膝丸、そっちの障子を開けて。早く!」
「ああ」
片手に残った一輪の百合を、髭切はぐしゃりと握りつぶす。噎せ込むような甘やかな香りは、いまや危険を帯びた匂いだ。
「兄者!!」
弟が呼ぶ声に気が付き、髭切は踵を返して庭に面した廊下に出る方の障子を見やる。
膝丸が開け放ったそこには、庭があった。しかし、来た当初に目にしていた、少しばかり荒れ果てた素朴な庭とは似ても似つかない。
――辺りを覆うのは、一面の白。
雪原の白よりも尚壮麗なそれは、白百合の群生地だ。所々に立つ木々は枝葉を伸ばし、天蓋を緩やかに包む。隙間から差し込む日差しは、夕暮れどきの柔らかな光であり、日の当たる場所の白百合は燃えているようにも見えた。
「……もう少し、警戒しておくべきだったかな」
庭に足を一歩踏み出す。すぐ後を膝丸が追いかけてくるのが、足音で分かった。
「怪異に巻き込まれた者は、怪異を寄せる――っていうこともあるとは聞くけど、まさかこれほどとは思わなかったよ」
原因があの審神者自身にあったのか、それともこの本丸にあったのか。或いは庭か、はたまたその全てだったのか。今となっては分かりようもない。
「巻き込まれてしまった、ということか」
「そうみたいだね。それに、もう帰る道も残ってないようだ」
振り返った髭切が見つめた先、そこには先程まで自分たちがいた部屋はおろか、本丸そのものが霞のように消え失せていた。まさに、あの雪雫と名乗った審神者が語ったように、『ふと振り返ったら、もうなかった』と表すのがぴったりと言えよう。
家があった跡地には、一面の百合の花畑以外に何かが転がっていた。まずはそれから確認するのが先決と、髭切は百合たちをかき分けながら、それに近づく。
「――っ、これはまた……面妖な」
そこには、髭切すら思わず息を呑むものがあった。
「これは、人の体を苗床にしているのか……?」
膝丸の言葉が、彼らが目にしたものの全てを語っていた。
あの審神者の元に訪れたのだろう、一人の職員の成れの果て。彼らの足元にはあったのは、彼女の亡骸――のように見えた。
実際、それを遺体と表現していいかどうかは、二振り以外の人間や刀剣男士が見ても、躊躇していただろう。膝丸が口にした『苗床』という単語が、目の前の人間がどんな状況であるかを端的に表していた。
真っ白の百合が、横たわった遺体から、隙間なくびっしりと生えている。あまりに密集しているため、根が体に張っているのか、それとも地中から伸びた百合が彼女の体を突き破って現れたのかすら、はっきりしない。
「あの審神者は、刀の方に百合が咲いたと言っていた。何かの比喩かなって思ったけど、どうやらありのままを話していたようだね」
文字通り、百合が体に咲いたのだろう。根を張り、茎を伸ばし、葉を広げていく――ただし、それらは地ではなく、人や付喪神の体の上からというのが通常と大きく異なる点だ。
目の前で倒れている憐れな犠牲者が、一体どんな感情を抱いてこの地で果てたのか。幸か不幸か、その顔すらも百合の花に埋め尽くされ、定かではなかった。
「兄者、この人間が怪異に喰われたのなら、直前まで会っていたのは、怪異が化けたものか」
「そうかもね。そんな風に意思を持つものなら、多少御しやすくはあると僕は思うよ」
怪異現象にも、ある程度の種類分けができる。幽霊や妖怪は、その中でも自我の赴くままに行動する分、まだ扱いやすい。思考がある以上、それに基づく行動も予想できるからだ。
だが、単なる事象――たとえば、通りがかったら、その後悪いことを引き起こすというような事象だけの存在については、因果関係も立証しづらい上に、対処法も判然としない。何もかも手探りで調査する必要を考えれば、思考を持って行動する化け物の方が対処はしやすいと言えた。
「では、あの審神者は?」
「……怪異が化けたのか、或いは本当にただの犠牲者か。話し方が少し危うかったけど、普通、こんな物を見たら、正常でいられる人間の方が少ないだろうね」
髭切は、自分の足元に横たわる、明らかに通常では起こりえない死に方をしている女性を見やる。まして、目の前で共にいた刀剣男士がこんな果て方をしたのなら、正気でいられる方が寧ろおかしいだろう。
(異界に行ったにも関わらず、何とも思ってなさそうな僕らの主は、随分と肝が太かったってことだねえ)
この異常な地から、遙か遠くにいる主に少しばかり思いを馳せる。
とはいえ、いつまでもここに佇んでいるわけにもいかない。髭切は腰に吊った刀に手を添え、くるりと辺りを見渡す。よくよく見れば、一面の百合畑の中にも、木々が疎らな所、花が少ない所があり、何より微かな水音が髭切の耳に届いていた。
「この場所は、何だか嫌な空気で満ちているな」
「匂いのことかい?」
「違う。何と言えばいいのだろうな。妙に乾いていて、そのくせ異常であるという事柄だけが、やけに強調されているというのだろうか」
膝丸が以前迷い込んだ異界には、空気の中に異界の主たる存在の感情が滲んでいた。他者を慈しむ気持ち、同時に混じり合ったやるせない怒りや悲しみが混ざり合い、異界に溶け込んでいた。
だが、ここにはそれすらないと膝丸は言う。
――異質、異様、あるいは異形。
この空間そのものに意思があるようで、しかし無機質なからくりを相手にしているような寒々しさも混ざっている。言葉にし難い薄気味悪さは、刀剣男士だけでなくとも容易に感じられるだろう。
「間違っても、神域の類ではないということは確かだね。さて、思いがけなく準備もなしに迷い込んでしまったわけだけれど、僕らは何をするべきだろうか」
「遅かれ早かれ、任務としてここには送り出されていた。情報の不足はあるが、それはあの雪雫とかいう審神者を探し出して、聞くしかあるまい」
「則宗にも頼まれていたし、ここに迷い込んだ者を見つけ出して、彼らを救出しつつ、脱出方法を探るといったところだね。これは、大仕事になりそうだなあ」
「もっと分かりよい方法もあるぞ」
膝丸も腰の刀に手を添え、不敵な笑みを浮かべてみせる。
「へえ、たとえばどんな?」
「兄者が言っていたのだぞ。この場所を制御する意思ある者が存在するのなら、それを討てばいいまでのこと。さすれば、異界も消失するだろう」
「ああ、それはいいね。斬って、それでおしまい。うん、僕好みの展開だ」
そうと決まれば善は急げと、髭切と膝丸は本丸があったと思しき場所から歩き出す。この場に長居すれば、百合の花に蝕まれる可能性がある以上、長居は避けたかった。
周囲の景色は百合だらけのため、ともすれば方向感覚が狂ってしまいそうになる。幸い、髭切は水音を聞き取っていたので、それを目印に歩を進めていた。
歩き始めて十分もしない内に、二振りは小さな川へと辿り着いた。大股で行けば三歩ほどで渡りきれるような川幅であり、流れも緩そうだ。透き通った水からは底が薄ら見えるが、水中を泳ぐ魚は見当たらない。それも、異界であるが故だろうか。
夕日を受けてきらきら輝く水面を横目に、二振りは川縁を進んでいく。
「……静かだな」
「そうだね。ここ、全く生き物の気配がしないみたいだ」
髭切の指摘する通り、森の中にはつきものの小さな生き物の気配が、この異界からはまるで感じられなかった。あるのは、ただ百合の花と木々のみ。
景趣として愛でるには良いのかもしれないが、人を飲み込む異界として見れば、不気味さを強調していくようにも思える。
「生きている者がいるとしたら、それは迷い込んだ刀剣男士や人間……かもね」
「ならば、あれはどちらであろうな」
膝丸はぴたりと足を止め、先を行く髭切に注意を促す。
「おや、お前も偵察のための注意力が、以前より上がったみたいだね」
「褒めるのは後にしてくれ。どうやら、人影のようだ」
木々の隙間から、垣間見える黒い影。よたよたと覚束なく歩く姿は、怪我をしているのか、はたまた百合に蝕まれているからか。
髭切は腰に吊った刀に手を添え、警戒心を最大限まで引き上げ、身構える。ここは兄に任せようと、膝丸は周りをそれとなく見渡し始め、
「兄者、後ろだ!!」
膝丸の鋭い声。
弾かれたように髭切が振り返るよりも早く、眼前にあった人影がぱっと消える。同時に、白い何かが休息に彼に迫る――!
前に見た敵影は囮で、背後から別に肉薄していたものがいた。そう髭切が気付くより先に、膝丸は彼の腕を掴み、己の背後へと押しやる。
一瞬走る、銀光。膝丸が刀を抜き、急接近した何者かの一撃を受け止める。鋭い金属音。それは、向けられた得物の材質を如実に示している。
しかも、この聞き慣れた甲高い音は。
(剣戟……!?)
髭切が音の意味を理解するより早く、彼は己の視界に飛び込んだ者の正体に息を呑む。
先程見かけた女性の亡骸が、静かな百合の苗床と表すのなら、こちらは百合の怪人とでもいうべきか。全身に咲き乱れる百合の花は、その何者かの体をすっかり埋め尽くしてしまって、顔すらも定かではない。だが、行動だけを見るなら、下手に付けいれば拮抗が崩れると思うほどに隙がない。
「兄者、下がっていてくれ!!」
膝丸も、相手の力量は正確に測れているのだろう。故に、今は一対一で相手取ると宣言する。
突如割り込んできた化け物めいた人影の手が持つ、一振りの武器。細長いそれにも、百合の茎が巻き付き、形よい白い花を咲かせている。だが、それは見目を楽しむものではないと、操り主の行動が何よりもはっきりと教えてくれた。
振り下ろされた相手の得物を受け止める度に、鋭く空気を割る金属音。刀同士を打ち合う際に生じるそれは、百合に紛れていたとしても、それが『刀』であると示していた。
「この程度のあやかし、恐るるに――足らずっ!!」
ばしゃり、と川の水音が跳ねる。敵に押しやられたかのように膝丸の立ち位置がずれ、彼が川の中に足を踏み入れたからだ。
敵はそれを追い込めたものと判断したようで、より懐に飛び込もうと肉薄する。
だが、膝丸は唇の端を釣り上げて、それを待ち構えていた。
「かかったな」
自ら突っ込んできた敵に向かって、膝丸は切っ先を下げて構え、一歩足を踏み出す。姿勢を低くして、蛇の如くするりと相手の懐を掻い潜り、得物を振るう。
さっと一撫でしたかのような浅い斬り――のように見えるほど、その動きに無駄はなく、故に肉を断つ音すらも、この景色に合わせたかのように静かだった。
数多の葉と花を斬り裂いた先に、刃ごしにも僅かに伝わる肉を断つ感触。その更に奥にある核のようなものに、刃先が届いたと思った瞬間、
――パキンッ
金属が割れるような、どこか悲しくも澄んだ音が響く。
血すらついていない刀を軽く振るい、膝丸は今己が討ち取ったばかりの相手を見つめる。百合が鬱蒼と茂った体では、いったい何が起きているのかは定かではない。
けれども、予想はできた。
パキパキと、硬質なものに走る亀裂の音。それが何を意味するか。
「弟。恐らく、この化け物は……いや、彼は」
髭切が全てを言うより早く、金属が割れる音は幾重にも重なり――ふつりと、途切れた。瞬間、鈴を鳴らすような涼やかな音と共に、人の輪郭をしたものが崩れ落ちる。それを象っていた百合の花も、後を追うようにばさばさと地面に落ちていく。
ふっと通り過ぎた風が百合たちを吹き散らかし、そして後に残ったのは
――一振りの、折れた刀だった。
「兄者、これは」
「殆ど原形を留めていないようだったけれど、さっき襲ってきた者は、僕らと同じような存在だったのだと思うよ」
「なるほど。刀に咲く花か」
審神者の娘が語った内容こそ聞いていたが、その非現実的な内容にぴんときていない部分もあった。
だが、今ならはっきりと分かる。
いったい、彼女が何を伝えようとしていたのかが、この上なく明瞭に、この折れた刀が教えてくれていた。
「回避する方法がないのなら、急がないとね。さっさと親玉を見つけてしまおう」
髭切はくるりと弟へ背を向け、周りを見渡す。何かまた接近してくる者がいないかを探ろうと歩き始め、すぐに彼は違和感を察知する。
「弟。どうしたの」
後ろをついてくると思った膝丸の気配が、背後から感じられない。再び体を膝丸の立つ川へと向け、髭切は膝丸が何やら奇妙なことをしていると気が付く。
彼は、川の中程に立ったまま、己の足に手をかけて、ぐいぐいと引っ張ろうとしているように見えた。その仕草はまるで、川底に靴がくっついて脱げなくなっているような、奇異な行動だった。
もしや、川底に何か潜んでいるのだろうか。訝しみながら、そちらに近づくと、膝丸も兄の動きを感じ取り、
「すまない。足が」
彼が何か言いかけた瞬間、その体がずるりと『下』に下がる。
「……!?」
まるで川底に突如大きな穴が空いたかのように、膝丸の体の下半分が川の中へと引きずりこまれていく。
「膝丸!!」
思わず、声を荒らげて、髭切は手を伸ばした。
膝丸も、異変に気が付いてはいるのだろう、必死の思いを顔に滲ませ、兄へと手を伸ばす。
指がもう少しで届く。
そう思った刹那、
「兄者――」
彼の言葉が終わりきるより早く、その姿は完全に水中へと、消えていった。
ただ、川が流れる音だけが静かな異界に響き渡る。
あたかも、最初から膝丸がいなかったかのように。
「誰か、きたのか」
声を発しても、応答する者はいない。ただ、空虚に、終わらない夕焼け空の中へと消えていくだけだ。
座り込んだ姿勢からゆっくりと体を起こすと、固まっていた体が少し解れたような気がした。元より刀の身ではあるが、こうして人の体を得て、肉体も錆び付くのだと知った。
周りを見渡しても、自分の意識を覚醒させた気配は感じられない。視界に入るのは、先程出会った人間の子供が一人だけ。この場所を彷徨って疲れたのか、今は木に凭れて静かな寝息を立てている。
先程の気配は単なる勘違いか、はたまた直感が己に何者かの到来を告げたのか。
どちらだろうかと悩みかけ、すぐにどちらでもいいと、彼は自嘲混じりの笑みを浮かべる。
「誰が来ようと、俺は俺がすべきことだけを、するだけだ」
立ち上がると、妙に頭が涼しい。いつも頭に被っていた布がずり落ちてしまっていると気が付き、白い――かつては白かった、薄汚れた布を頭の上まで引っ張り上げた。
そうして、暗く陰ったお馴染みの視界が、己の元へと戻ってきた。
***
審神者という職業に就くことが、果たして幸せかどうかについては、意見が分かれるところではある。時間遡行軍という、ある種の凶悪な化け物に敵として狙われ、日夜いつ襲われるのかと冷や冷やしつつ本丸で暮らす日々を、単純に幸せとは表現しづらい。
だが、人によっては、本丸の日々はかけがえのない素晴らしいもののように思えるらしい。
政府の刀剣男士は決して知りえない、人と付喪神の交流。髭切は、それを羨ましいと感じたことはなかった。確かに、刀は人間と縁深い存在なのかもしれないが、そうでなくとも全力は振るえると確信できていた。
けれども、人間との暮らしはどういうものなのだろうかと、興味ぐらいは抱く。付喪神と接触した人間は、何を感じ、何を思うのか。
(そして、失った結果、何を得るのか――)
政府の転移装置を経由して、辿り着いた先――百合の景趣から辛くも生き延びた審神者の本丸は、とりたてて目立ったものはなかった。
平屋の建物は、人の気配こそ殆どしないものの、確かにこの場で生活が営まれていた痕跡が残っている。庭の草は伸び放題になっているが、嘗ては綺麗に手入れをされていたのだろう。その名残のように、鉢植えには雑草が伸び放題の中で、ぎっしりと夏の花が咲き誇っていた。
「たしか、聞いた話では、戻ってきた審神者は酷く衰弱していたから、その世話をしていた人間がいるらしいのだけど……」
「こちらの事情については、向こうからも説明は届いているはずだ」
庭の飛び石を伝うようにして玄関口に向かうと、向こう側から引き戸が開いた。
扉の向こう側には、薄く笑みを貼り付けた年配の女性が立っている。着物姿でにこやかに微笑みかける彼女は、さながら女中のようにも見えるが、恐らく彼女こそが世話係として派遣された女性だろう。
「お待ちしておりました。ご案内しますね」
簡単な挨拶を済ませてから、彼女は二振りを本丸の奥へと導く。
長く伸びた廊下を渡るときに、幾つもの襖が髭切の視界を通り過ぎていった。嘗て、この本丸にはそれだけの数の刀剣男士が暮らしていたという証拠だろう。主が帰らない部屋は、中途半端に調度品が残っているからこそ、漂った生活感が寂寥を増していた。
本丸ごと怪異に飲まれ、戻ってきたのは審神者が一人。
審神者だけでも無事だったことを、御の字と見るべきか。それとも、刀剣男士を失った審神者など使い物にならないと判じるべきか。
合理的な結論なら、髭切にも出せる。だが、残された審神者個人の主観に寄った考えは、彼にはできそうにもなかった。
女中めいた職員に案内された部屋で、二振りは用意された座布団の上に座る。
「じきに、お見えになると思いますので」
既に審神者の方にも話は通しているのか、彼女はそれだけ言うと、部屋の片隅に控えるかのように腰を下ろした。
茶の一つもないままで、漫然と部屋の中で待つのは退屈の一言に尽きる。髭切はぼんやりと周りを見渡し、部屋に置かれた家具を眺めていた。
「ねえ、弟」
「何だ、兄者」
「お前は、本丸で暮らしてみたいって思ったこと、あるかい?」
「ないな」
きっぱりとした答えは、髭切にも容易に想像できた内容だ。
「僕も、結局のところは、お前がいるならどこでもいいって返事になっちゃうかな」
暇つぶしの一環も兼ねて、せっかく本丸という場所に訪れたので、それに見合った話題を口にする。問い自体に大きな意味はない。二振りにとっては、単なる認識確認を行うためだけの問答に過ぎなかった。
「ただ、俺としては」
だが、髭切の予想に反して、膝丸の言葉は続く。
「兄者が選んだ、あの主の元にいるのは、悪くはないと感じているようだ」
「おや、随分と気に入ったんだね。確かに、彼は悪人ではないとは思うよ」
お互いが無茶をしすぎないように、帰るべき主人が必要だと思い、据え置いた仮初めの主人。それが誰であろうとよかったが、結果的に思った以上に上手く作用はしているらしい。
元々、張りぼての主に対して、あれこれ注文をつけるつもりはなかった。だが、彼が悪心を抱く人間ではないというのは、素直に良いことだと思えた。
「俺たちにとって帰るべき場所は、あの主の元だ。故に、本丸であろうとどこであろうと、暮らす場所は関係ない」
「それが、今のお前の答え?」
「……そうなるな」
自分でも少し意外だったのか、膝丸は己の考えを改めて噛み締めるように、慎重に答えてみせた。
本来の刀剣男士は審神者というただの人間一人に、その心を左右されるものらしい。ならば、膝丸の返事もそれに倣った結果なのだろうか。では、今からやってくる刀剣男士を失った審神者は、そんな刀たちにどんな感情を抱くのか。
任務に対する心構えと同時に、僅かな好奇心を覗かせていると、廊下の板を踏みしめる音が静かな部屋に響いた。
程なくして、すっと襖が開く。そこに立っていたのは、審神者と言われなければ素通りしてしまうような、どこにでもいるありふれた人間だった。
「はじめまして。ええと……政府から、来られたのですよね?」
吹けば飛びそうなほど、細い声。彼女が足を踏み入れた異界は、大きな疲労を彼女に強いたのだろうか。体は、未だ回復しきってないらしい。
肩ほどまでに伸ばした黒に近い栗色の髪は、蛍光灯の灯りを通しているためか、白にも見える。兄弟二振りを見つめる目は、まだ疲労の色を濃く残しており、どこか覇気がなかった。纏う衣服も、ゆったりとしたシルエットのワンピースであり、直近まで寝ていたのか、所々に皺も見受けられる。
「その通り。我々が政府から来た刀剣男士だ。今日は、先日までそちらが囚われていたという異界について、話を聞きに来た」
礼儀として一応立ち上がり、二振りは軽く一礼してみせる。彼女も微かに頭を下げたが、まだ体が本調子ではないためか、あたかもぼっきりと折れた植物の茎のようなお辞儀だった。
「どうぞ、楽にしてください。私も、少々無礼を見せるかもしれませんが、ご容赦くださいませ」
「ああ、その辺りは気にしないから、楽にしていていいよ」
髭切は腰を下ろしながら、彼女を労っているような言葉を吐く。実際のところ、疲れている様子の審神者に気遣ったのではなく、髭切は単に本当に気にしていないだけだった。
無論、そんなことはつゆ知らず。審神者の女性は、紙のように白い顔に僅かな笑みを浮かべ、ゆるりと座る。正座ではなく、足を投げ出すような楽な姿勢をとっていた。
人目がない方が話しやすいと思ったのか、同席していた職員は審神者の女性と入れ替わるように席を立つ。残された一人と二つの間に、一瞬の静寂が生まれ、職員が襖を閉じる音がやけに強く響いた。
女性は暫し二振りを見てから、やがてやや億劫そうに口を開いた。
「私は、審神者の『雪雫』と申します。ええと……それで、私はどんな話をすればよいのでしょうか」
「単刀直入に聞こうか。君は、どのようにして怪異現象に巻き込まれ、どうやって戻ってきたんだい?」
髭切の問いかけは、人間の理解を超えた異界に迷い込み、一人で帰ってきた人間に向ける言葉としては直接的すぎた。
だが、彼女は泣き崩れることもなく、怯えを見せもせず、気丈にも笑みを浮かべて答える。
「景趣を切り替えたとき、本当に偶然に辿り着いたんです。今年は花があまり綺麗に咲かなくて、だから景趣で楽しもうかと思って。向日葵は、陸奥守が好きな花でしたから、彼も喜ぶだろうと」
「それで、百合の景趣になっていたというわけか」
余計な話は不要とばかりに、膝丸が兄の後を追って言葉で切り込む。雪雫と名乗った女性は、鷹揚に首を縦に振った。
「とても見事な景色でした。一面に、白百合が咲いていて……。空は夕暮れ時で、燃えるように紅くて……でも、ほんのりと紫色で。噂では、運の良い人は百合の景趣というものに稀に出くわすとは耳にしていたので、面白そうだから探検しようと、皆で散歩に出かけて……」
どこか夢見心地の様子で語っているのは、その景趣が刀剣男士の喪失を慰めるほどに美しかったからか。或いは、異界に魅入られて精神に異常をきたしたのか。
どちらにしても、今必要なのは景趣の美しさに対しての美辞麗句ではなく、そこで何が起きたかだ。髭切が視線で続きを促すと、彼女は色の薄い唇を、再びゆるりと動かし始める。
「山姥切は、百合を摘んでくると言ってました。そういうことに使うと話したから……なのでしょうね。私は、そんな風に抱え込まなくていいと伝えたのですが。陸奥守は、やるべきことをやっただけなのだからと」
「どうして、君たちは帰れなかったんだい?」
また話が脱線しかけていると、髭切は軌道修正を図る。どうやら、彼女は気丈な性分というよりは、異界で過ごした何日間の間に心の均衡をいくらか崩してはいるようだ。冷静に見えているようで、思考能力は酷く乱れているのか、すぐに別の話を始めようとするのは、そのせいだろう。
「帰れなかった理由、ですか? それは……本丸が、なくなっていたからです」
「なくなっていた?」
鸚鵡返しに問う膝丸に、雪雫は笑みを貼り付けたまま頷く。
「ええ。本丸が、丸ごと消えていました。ちょっと散歩に出かけて、皆が本丸に背を向けて百合に見入っていて、ふと振り返ったら、もうなかったんです」
「それで、君たちはどうしたのだ」
「皆で、出口を探し回っていました。前田と秋田は、私を安心させようと側にいました。他の刀剣男士は、出口を探して歩き回って……でも、歩けども歩けども、あるのは百合の花畑ばかり。まるで、桃源郷のように美しい光景が続いて――」
謳うような口ぶりで、彼女は自らが見てきたものを話す。さながら、お伽噺でも語り聞かせているかの如く。
「そのうち、花が咲いたのです」
「百合の花は、そこら中に咲いていたんじゃなかったのかい?」
「いいえ、咲いたのは」
彼女はすっと腕を持ち上げ、髭切と膝丸を指さした。
彼女の白い指は、血の気がない。それでいて、妙に滑らかな肌をしていた。
「咲いたのは、刀の方に」
告げた言葉はあまりにあっさりとしていて、二振りは何を言われたのか理解できなかった。けれども、そんな二振りを置いて彼女は話を続ける。
「一つ、二つ、花が咲くごとに少しずつ動けなくなっていく。毟っても、引き抜いても、根を張って、心も体も……私はそのとき、気が付いたんです。理解したんです」
一拍、息を置いてから、彼女は言葉を続けようとした。
――しかし、代わりに音になったのは、ごほごほという咳の音。
何かが体に障ったのか、軽い咳から、まるで体の内から何かを吐き出すかのように、咳は激しさを帯びていく。流石に様子が変だと感じ、二振りが立ち上がり、彼女に近づいたときだった。
「帰って、ください」
呼吸すらも苦しそうな息遣いの中、彼女は咳に紛れて言葉を漏らす。
「早く……帰って」
「……え?」
髭切が言葉の真意を深く問うより早く、すっと襖が開く。部屋に入ってきたのは、先程も目にした、女中のような姿をした職員の女性だった。
この発作的な体調不良には慣れているのか、特段驚いた様子を見せもせず、彼女は審神者の女性に近づく。雪雫という名の通り、ただでさえ白い彼女の顔は、最早血の気がないを通り越して幽鬼のようにすら見えた。
「少々、ここでお待ちください。彼女を一度休ませる必要がありますので」
「ああ、そうした方がいいだろう」
このまま咳き込まれた状態で、話をさせるわけにもいかない。膝丸がすぐに同意の首肯を返すと、職員は審神者の娘を支えるようにして、部屋を後にする。ぴったりと襖を閉じる音だけが、咳に紛れてやけにはっきりと響いた。
「あの体調の崩し方は、百合の景趣に入った後遺症のようなものなのだろうか」
「そうかもしれないね。僕らが平気でも、人間は脆いから、ああやって体へ異変をもたらしてしまうとも考えられるよ」
「どちらにせよ、肝心のことは聞けなかったな」
迷い込んだ発端となった事象や、景趣の中で起きた現象について聞き出せたのは、収穫と言えるだろう。
だが、彼らにとって重要なのは帰る手段の方だ。唯一の帰還者なら、それが分かるのではと思ったが、そこに行き着くまでに退場されてしまうのは予想外だった。
少しの間待つようにと言われた以上、二振りも無断で部屋を出るような真似はせず、じっと座布団の上に腰を下ろして、彼女が戻ってくるのを待っていた。
しかし、時計の針がいくら進んでも、彼女が再び姿を見せる気配はない。気が付けば、既に三十分もの時間を部屋の中で過ごしていた。
「……体調が回復しないうなら、ここは一度出直そうか」
髭切の提案を受けて、膝丸もすぐさま頷く。待てど暮らせど戻ってこないなら、仕切り直すのも一つの策だ。持ち帰った情報を精査すれば、何か新たな光明を見いだせるかもしれない。
そうと決まれば話は早い。座布団から立ち上がった二振りは襖を開いて、外に出ようとして、
「何か用か」
膝丸が尋ねた先、そこには審神者の介助をしていた女性職員が立っていた。淡々とした代わり映えのない表情で、彼女はこちらを見上げている。
「こちらでお待ちください」
「しかし、話を聞かせる者が倒れていては、聴取にならないだろう。そちらにも事情があるのだろうから責めはしないが、こちらとて時間は有限なのだ」
「そういうわけだから、一度帰りたいんだけど、いいよね?」
理屈や道理から外れたことは、頼んでいない。彼女がすぐに頷くだろうと、二振りは予想していた。だが、職員はその場を微動だにせず、二振りを見つめ続けている。
「こちらでお待ちください」
四つ並ぶ琥珀の瞳を前に、淡泊な台詞を繰り返す。彼女の声音は、先程と全く同じだった。
寸分違わず、少しの狂いもなく、全て同じ調子の声だった。
「だから、俺たちは」
「待って、弟。何か変だ」
髭切は気色ばむ膝丸を下がらせ、女性を睥睨する。並の人間なら、たとえこちらに手を出さないと分かっていても、微かに動揺を見せてしまうだろう。そんな殺気染みた視線を受けてもなお、彼女は動かない。
「こちらでお待ちください」
「――お前、何?」
髭切の問いかけに、兄が何を言いたいのか察した膝丸も息を呑む。
静寂。そして、
「こちらでお待ちください」
「人じゃないようだね。ひょっとしたら、出会ったときからかな?」
「こちらでお待ちください、こちらでお待ちくださいこちらでお待ちくださいこここちちちらららででで」
壊れた機械のように同じ音だけを繰り返す様子は、最早正常な人間の発する言葉ですらなかった。音の機関銃の如き声の羅列は、常人なら心胆を寒からしめるに違いなかっただろう。しかし、髭切はこの程度では動じない。
「待たないよ。人でもない、意思もない傀儡の言葉を聞くつもりはない」
女性を押しのけて外に出ようと、彼女の肩を掴んだ瞬間。
――百合が、咲いた。
髭切が触れた彼女の腕から、彼女の全身を喰らい尽くすように、びっしりと百合の花が咲き乱れる。人の姿をした百合の花の塊は、すぐにその形を保てず、ばさばさと花びらをこすれ合わせて廊下に散らばっていった。
「膝丸、そっちの障子を開けて。早く!」
「ああ」
片手に残った一輪の百合を、髭切はぐしゃりと握りつぶす。噎せ込むような甘やかな香りは、いまや危険を帯びた匂いだ。
「兄者!!」
弟が呼ぶ声に気が付き、髭切は踵を返して庭に面した廊下に出る方の障子を見やる。
膝丸が開け放ったそこには、庭があった。しかし、来た当初に目にしていた、少しばかり荒れ果てた素朴な庭とは似ても似つかない。
――辺りを覆うのは、一面の白。
雪原の白よりも尚壮麗なそれは、白百合の群生地だ。所々に立つ木々は枝葉を伸ばし、天蓋を緩やかに包む。隙間から差し込む日差しは、夕暮れどきの柔らかな光であり、日の当たる場所の白百合は燃えているようにも見えた。
「……もう少し、警戒しておくべきだったかな」
庭に足を一歩踏み出す。すぐ後を膝丸が追いかけてくるのが、足音で分かった。
「怪異に巻き込まれた者は、怪異を寄せる――っていうこともあるとは聞くけど、まさかこれほどとは思わなかったよ」
原因があの審神者自身にあったのか、それともこの本丸にあったのか。或いは庭か、はたまたその全てだったのか。今となっては分かりようもない。
「巻き込まれてしまった、ということか」
「そうみたいだね。それに、もう帰る道も残ってないようだ」
振り返った髭切が見つめた先、そこには先程まで自分たちがいた部屋はおろか、本丸そのものが霞のように消え失せていた。まさに、あの雪雫と名乗った審神者が語ったように、『ふと振り返ったら、もうなかった』と表すのがぴったりと言えよう。
家があった跡地には、一面の百合の花畑以外に何かが転がっていた。まずはそれから確認するのが先決と、髭切は百合たちをかき分けながら、それに近づく。
「――っ、これはまた……面妖な」
そこには、髭切すら思わず息を呑むものがあった。
「これは、人の体を苗床にしているのか……?」
膝丸の言葉が、彼らが目にしたものの全てを語っていた。
あの審神者の元に訪れたのだろう、一人の職員の成れの果て。彼らの足元にはあったのは、彼女の亡骸――のように見えた。
実際、それを遺体と表現していいかどうかは、二振り以外の人間や刀剣男士が見ても、躊躇していただろう。膝丸が口にした『苗床』という単語が、目の前の人間がどんな状況であるかを端的に表していた。
真っ白の百合が、横たわった遺体から、隙間なくびっしりと生えている。あまりに密集しているため、根が体に張っているのか、それとも地中から伸びた百合が彼女の体を突き破って現れたのかすら、はっきりしない。
「あの審神者は、刀の方に百合が咲いたと言っていた。何かの比喩かなって思ったけど、どうやらありのままを話していたようだね」
文字通り、百合が体に咲いたのだろう。根を張り、茎を伸ばし、葉を広げていく――ただし、それらは地ではなく、人や付喪神の体の上からというのが通常と大きく異なる点だ。
目の前で倒れている憐れな犠牲者が、一体どんな感情を抱いてこの地で果てたのか。幸か不幸か、その顔すらも百合の花に埋め尽くされ、定かではなかった。
「兄者、この人間が怪異に喰われたのなら、直前まで会っていたのは、怪異が化けたものか」
「そうかもね。そんな風に意思を持つものなら、多少御しやすくはあると僕は思うよ」
怪異現象にも、ある程度の種類分けができる。幽霊や妖怪は、その中でも自我の赴くままに行動する分、まだ扱いやすい。思考がある以上、それに基づく行動も予想できるからだ。
だが、単なる事象――たとえば、通りがかったら、その後悪いことを引き起こすというような事象だけの存在については、因果関係も立証しづらい上に、対処法も判然としない。何もかも手探りで調査する必要を考えれば、思考を持って行動する化け物の方が対処はしやすいと言えた。
「では、あの審神者は?」
「……怪異が化けたのか、或いは本当にただの犠牲者か。話し方が少し危うかったけど、普通、こんな物を見たら、正常でいられる人間の方が少ないだろうね」
髭切は、自分の足元に横たわる、明らかに通常では起こりえない死に方をしている女性を見やる。まして、目の前で共にいた刀剣男士がこんな果て方をしたのなら、正気でいられる方が寧ろおかしいだろう。
(異界に行ったにも関わらず、何とも思ってなさそうな僕らの主は、随分と肝が太かったってことだねえ)
この異常な地から、遙か遠くにいる主に少しばかり思いを馳せる。
とはいえ、いつまでもここに佇んでいるわけにもいかない。髭切は腰に吊った刀に手を添え、くるりと辺りを見渡す。よくよく見れば、一面の百合畑の中にも、木々が疎らな所、花が少ない所があり、何より微かな水音が髭切の耳に届いていた。
「この場所は、何だか嫌な空気で満ちているな」
「匂いのことかい?」
「違う。何と言えばいいのだろうな。妙に乾いていて、そのくせ異常であるという事柄だけが、やけに強調されているというのだろうか」
膝丸が以前迷い込んだ異界には、空気の中に異界の主たる存在の感情が滲んでいた。他者を慈しむ気持ち、同時に混じり合ったやるせない怒りや悲しみが混ざり合い、異界に溶け込んでいた。
だが、ここにはそれすらないと膝丸は言う。
――異質、異様、あるいは異形。
この空間そのものに意思があるようで、しかし無機質なからくりを相手にしているような寒々しさも混ざっている。言葉にし難い薄気味悪さは、刀剣男士だけでなくとも容易に感じられるだろう。
「間違っても、神域の類ではないということは確かだね。さて、思いがけなく準備もなしに迷い込んでしまったわけだけれど、僕らは何をするべきだろうか」
「遅かれ早かれ、任務としてここには送り出されていた。情報の不足はあるが、それはあの雪雫とかいう審神者を探し出して、聞くしかあるまい」
「則宗にも頼まれていたし、ここに迷い込んだ者を見つけ出して、彼らを救出しつつ、脱出方法を探るといったところだね。これは、大仕事になりそうだなあ」
「もっと分かりよい方法もあるぞ」
膝丸も腰の刀に手を添え、不敵な笑みを浮かべてみせる。
「へえ、たとえばどんな?」
「兄者が言っていたのだぞ。この場所を制御する意思ある者が存在するのなら、それを討てばいいまでのこと。さすれば、異界も消失するだろう」
「ああ、それはいいね。斬って、それでおしまい。うん、僕好みの展開だ」
そうと決まれば善は急げと、髭切と膝丸は本丸があったと思しき場所から歩き出す。この場に長居すれば、百合の花に蝕まれる可能性がある以上、長居は避けたかった。
周囲の景色は百合だらけのため、ともすれば方向感覚が狂ってしまいそうになる。幸い、髭切は水音を聞き取っていたので、それを目印に歩を進めていた。
歩き始めて十分もしない内に、二振りは小さな川へと辿り着いた。大股で行けば三歩ほどで渡りきれるような川幅であり、流れも緩そうだ。透き通った水からは底が薄ら見えるが、水中を泳ぐ魚は見当たらない。それも、異界であるが故だろうか。
夕日を受けてきらきら輝く水面を横目に、二振りは川縁を進んでいく。
「……静かだな」
「そうだね。ここ、全く生き物の気配がしないみたいだ」
髭切の指摘する通り、森の中にはつきものの小さな生き物の気配が、この異界からはまるで感じられなかった。あるのは、ただ百合の花と木々のみ。
景趣として愛でるには良いのかもしれないが、人を飲み込む異界として見れば、不気味さを強調していくようにも思える。
「生きている者がいるとしたら、それは迷い込んだ刀剣男士や人間……かもね」
「ならば、あれはどちらであろうな」
膝丸はぴたりと足を止め、先を行く髭切に注意を促す。
「おや、お前も偵察のための注意力が、以前より上がったみたいだね」
「褒めるのは後にしてくれ。どうやら、人影のようだ」
木々の隙間から、垣間見える黒い影。よたよたと覚束なく歩く姿は、怪我をしているのか、はたまた百合に蝕まれているからか。
髭切は腰に吊った刀に手を添え、警戒心を最大限まで引き上げ、身構える。ここは兄に任せようと、膝丸は周りをそれとなく見渡し始め、
「兄者、後ろだ!!」
膝丸の鋭い声。
弾かれたように髭切が振り返るよりも早く、眼前にあった人影がぱっと消える。同時に、白い何かが休息に彼に迫る――!
前に見た敵影は囮で、背後から別に肉薄していたものがいた。そう髭切が気付くより先に、膝丸は彼の腕を掴み、己の背後へと押しやる。
一瞬走る、銀光。膝丸が刀を抜き、急接近した何者かの一撃を受け止める。鋭い金属音。それは、向けられた得物の材質を如実に示している。
しかも、この聞き慣れた甲高い音は。
(剣戟……!?)
髭切が音の意味を理解するより早く、彼は己の視界に飛び込んだ者の正体に息を呑む。
先程見かけた女性の亡骸が、静かな百合の苗床と表すのなら、こちらは百合の怪人とでもいうべきか。全身に咲き乱れる百合の花は、その何者かの体をすっかり埋め尽くしてしまって、顔すらも定かではない。だが、行動だけを見るなら、下手に付けいれば拮抗が崩れると思うほどに隙がない。
「兄者、下がっていてくれ!!」
膝丸も、相手の力量は正確に測れているのだろう。故に、今は一対一で相手取ると宣言する。
突如割り込んできた化け物めいた人影の手が持つ、一振りの武器。細長いそれにも、百合の茎が巻き付き、形よい白い花を咲かせている。だが、それは見目を楽しむものではないと、操り主の行動が何よりもはっきりと教えてくれた。
振り下ろされた相手の得物を受け止める度に、鋭く空気を割る金属音。刀同士を打ち合う際に生じるそれは、百合に紛れていたとしても、それが『刀』であると示していた。
「この程度のあやかし、恐るるに――足らずっ!!」
ばしゃり、と川の水音が跳ねる。敵に押しやられたかのように膝丸の立ち位置がずれ、彼が川の中に足を踏み入れたからだ。
敵はそれを追い込めたものと判断したようで、より懐に飛び込もうと肉薄する。
だが、膝丸は唇の端を釣り上げて、それを待ち構えていた。
「かかったな」
自ら突っ込んできた敵に向かって、膝丸は切っ先を下げて構え、一歩足を踏み出す。姿勢を低くして、蛇の如くするりと相手の懐を掻い潜り、得物を振るう。
さっと一撫でしたかのような浅い斬り――のように見えるほど、その動きに無駄はなく、故に肉を断つ音すらも、この景色に合わせたかのように静かだった。
数多の葉と花を斬り裂いた先に、刃ごしにも僅かに伝わる肉を断つ感触。その更に奥にある核のようなものに、刃先が届いたと思った瞬間、
――パキンッ
金属が割れるような、どこか悲しくも澄んだ音が響く。
血すらついていない刀を軽く振るい、膝丸は今己が討ち取ったばかりの相手を見つめる。百合が鬱蒼と茂った体では、いったい何が起きているのかは定かではない。
けれども、予想はできた。
パキパキと、硬質なものに走る亀裂の音。それが何を意味するか。
「弟。恐らく、この化け物は……いや、彼は」
髭切が全てを言うより早く、金属が割れる音は幾重にも重なり――ふつりと、途切れた。瞬間、鈴を鳴らすような涼やかな音と共に、人の輪郭をしたものが崩れ落ちる。それを象っていた百合の花も、後を追うようにばさばさと地面に落ちていく。
ふっと通り過ぎた風が百合たちを吹き散らかし、そして後に残ったのは
――一振りの、折れた刀だった。
「兄者、これは」
「殆ど原形を留めていないようだったけれど、さっき襲ってきた者は、僕らと同じような存在だったのだと思うよ」
「なるほど。刀に咲く花か」
審神者の娘が語った内容こそ聞いていたが、その非現実的な内容にぴんときていない部分もあった。
だが、今ならはっきりと分かる。
いったい、彼女が何を伝えようとしていたのかが、この上なく明瞭に、この折れた刀が教えてくれていた。
「回避する方法がないのなら、急がないとね。さっさと親玉を見つけてしまおう」
髭切はくるりと弟へ背を向け、周りを見渡す。何かまた接近してくる者がいないかを探ろうと歩き始め、すぐに彼は違和感を察知する。
「弟。どうしたの」
後ろをついてくると思った膝丸の気配が、背後から感じられない。再び体を膝丸の立つ川へと向け、髭切は膝丸が何やら奇妙なことをしていると気が付く。
彼は、川の中程に立ったまま、己の足に手をかけて、ぐいぐいと引っ張ろうとしているように見えた。その仕草はまるで、川底に靴がくっついて脱げなくなっているような、奇異な行動だった。
もしや、川底に何か潜んでいるのだろうか。訝しみながら、そちらに近づくと、膝丸も兄の動きを感じ取り、
「すまない。足が」
彼が何か言いかけた瞬間、その体がずるりと『下』に下がる。
「……!?」
まるで川底に突如大きな穴が空いたかのように、膝丸の体の下半分が川の中へと引きずりこまれていく。
「膝丸!!」
思わず、声を荒らげて、髭切は手を伸ばした。
膝丸も、異変に気が付いてはいるのだろう、必死の思いを顔に滲ませ、兄へと手を伸ばす。
指がもう少しで届く。
そう思った刹那、
「兄者――」
彼の言葉が終わりきるより早く、その姿は完全に水中へと、消えていった。
ただ、川が流れる音だけが静かな異界に響き渡る。
あたかも、最初から膝丸がいなかったかのように。