本編の話
宿屋から外に出ると、すっとした空気が髭切の鼻を通り抜けていった。民家の日当たりが悪いわけではないのだが、やはり屋内は空気が籠もりがちだ。
丁度今は、五月の上旬。吹き渡る風は程よく涼しく、日差しは活力を漲らせるには十分な暖かさで降り注いでいる。
「外に出てすっきりしたな、兄者。あそこにいると、鼻が馬鹿になってしまいそうだった」
「そうだね。何なんだろうね、あの臭い」
割り当てられた部屋を通り抜けた瞬間、また鼻をつまみたくなるような異臭に二振りは襲われた。長義に聞いた所、彼はもう慣れてしまったらしい。
「血の臭いではなかったな。だが、どこか生臭いような、饐えたような……」
「ごみの臭いかなあ? そこまで汚いとは思えなかったんだけどなあ」
「あるいは、都会とは異なる土地独特の臭いかもしれんな。俺たちは、土や緑には程遠い生活をしているだろう」
「それはあるかもね」
髭切と膝丸が日頃赴く仕事場の庁舎は山の近くに建てられているが、だからといって普段から山林に分け入っているわけでもない。
駅から自宅までは電車ないしは徒歩で通っているが、目に入るのは住宅街ばかりだ。辛うじて緑と呼べるのは、街路樹くらいだろう。
「二人とも、行くならさっさと行こう。様子のおかしい彼については、一応仲居に注意するようにしておいたけれど、いつまた暴れ出すか分からないからね」
先に歩いていた長義が、軽やかに手を振っているのが見えた。立ち止まっていても仕方ないのは事実なので、髭切と膝丸もその後を追う。
あれから、髭切は自身が所持している携帯端末で仕事場にいる鬼丸国綱に連絡を取ろうとしたが、どうやら電波を拾い損ねているようで、全く繋がらなかった。
民宿の備え付けられている電話を使えないかと交渉した所、そもそも電話はないと言われてしまった。
「この近辺、全く人が見当たらないねえ」
歩きながらぐるりと辺りを見渡していた髭切は、しみじみと呟く。漠然と景色を眺めているように見えて、実際は住人を探していたらしい。
「君たち、資料をちゃんと見てこなかったんだね。この辺りは、もう廃村になっている場所だよ。数ヶ月前のことだそうだけど、それより前から殆ど人はいなかったらしい」
あっけらかんとした調子の長義の言葉に、髭切は目を丸くする。
言われてみれば、畑はあるものの耕す人や作業を行っている人の姿がまるで目に入らない。休耕田だったとしても、まるで人がいないのは確かに不自然である。
建物の状態が悪くないために見逃してしまっていたが、廃村の集落といえば確かに納得できた。
「じゃあ、あの宿は?」
「俺たちがここに来る話を出したら、前の住民が期間限定で用意をしてくれたんだよ。従業員として、何名か人員の派遣もしてくれたんだ。あの仲居もその一人というわけだね」
もっとも、仲居を除いた者は、残ったのが長義たちだけだったからか、すでに帰ってしまっていた。本当は、長義も昨日の晩で帰るつもりだったからだ。
いくら政府がお金を出しているとはいえ、一人で民宿を切り盛りするのは決して楽とは言えないに違いない。なればこそ、早く事態を解決して、彼女を本来の生活に戻してやりたいと長義は考えていた。
そんな彼の人道的な考えなど知らぬように、髭切は緑ばかりの地平線を眺めて、目を細めている。
「こんな木と草しかないような場所に、本丸って建てるんだね」
「確かに都会からは離れているが、悪い所ではないと思うよ。気の流れも良いと、ここで儀式を執り行った者たちも言っていた。生き物が多いから、生命の活力がみなぎっているんじゃないかな」
長義の言う通り、同じ五月の昼でも都会とこの場所では、感じる空気が違う。生き物のざわめきがそこかしこで感じられるのは、ここならではなのだろう。
「生き物といえば、人なつっこい風変わりな獣がいてね。俺がここに来て、周りを確認している最中に迷子になってしまったんだが、俺を案内するように前を歩いてくれたんだ。おかげで宿に戻ることができてね。お礼に、俺からも昼ご飯を少し分けてやったんだよ。あれは、仕事場ではできない体験だったね」
よほど都会ではできない交流が嬉しかったのか、彼の言葉はここに来て初めて楽しげなものになっていた。
もっとも、聞き手である髭切と膝丸の反応は芳しくない。とはいえ、長義も彼らが相槌を打ってくれるとは思っていなかったので、これはお互い様だろう。
「他の髭切は、こういう所で暮らしているんだね」
刀剣男士は、元となる刀は一振りしかなくても、付喪神という形式をとっている以上、同じ刀剣男士を複数呼び出すこともできる。
同一の神様を別の異なる場所の神社でも祀るのと、同じ手法であるというのが通説だ。髭切の言う「他の髭切」とは、自分とは異なり、審神者に呼び出された髭切という意味を持っていた。
「髭切、君は本丸を見たことがないのかな」
長義に尋ねられ、髭切はふと口を噤む。見たことがないわけではない。だが、正直なことを言うのなら、彼は記憶に留めていなかった。
本丸の建物に案内され、中を歩いたことも数度くらいはあるはずだ、と頭では理解している。だが、思い出としては存在してない。
「……僕は、興味がなかったんだよね。弟以外のことには」
「自分が見聞きしたことなのに?」
「だって、どうでもよかったんだもの。僕らは物だ。敵を倒すための武器だ。それなら、刀が──物が何を見ようと、どこに行こうと、そんなの関係ないって思っていたから」
達観しているというには、あまりに無機質すぎる考え方だ。長義とて、刀剣男士ではあるが、そこまで周りのものを潔く切り捨てることはできない。
彼の脳裏に、ふと髭切が顕現して程ない頃の、ある日のやり取りが思い返される。
食堂で髭切を見かけ、よかったら一緒に食べないか、何なら奢りでも良いと誘ったときのことだ。
──いらないよ。どうせ、お腹は減らないもの。
まるでガラス玉のような瞳でこちらを見つめ、髭切は如何にも〈物〉らしい言葉を口にした。
刀剣男士は物であるが故に、確かに食事は必要としない。けれども、空腹を覚えないわけではない。食べないことにより、精神的な飢えを感じるのだ。だというのに、髭切は己の飢餓感すら、感じようとしていなかった。
あの日から、長義は彼らに対して──少なくとも、髭切に関しては、苦手意識を持つようになっていった。
「でも、空は青くて綺麗だなって気付いたんだ」
ふと、髭切はぽつりと呟く。それは長義への返答というより、独り言めいた言葉だった。
彼の言葉の真意を問うより先に、髭切は「それよりも」と話題を切り替えていく。
「長義、僕らはいったいどこに向かっているんだい?」
髭切に仕事のことに関する質問を受けて、長義も自身の気持ちを本来の任務へと向き先を戻す。今は髭切のことよりも、部屋で気絶している職員の異常の原因を突き止めるのが先だ。
「この地域一帯の産土神を祀っている神社だよ。俺たちの仕事はそこへの挨拶回りみたいなものだから、何か問題があったとしたら、そこしか考えられないだろう」
「なるほど。そういうものなんだね。ということは、これから神様の家に行くということかな」
「ああ。だから、君たちはなるべく失礼のないように頼むよ。既に俺たちがやり取りを交わしているとはいえ、君たちはこの場においては新参者だ」
髭切はのんびりとした声で「はーい」と返事をしたが、本当に分かっているのだろうかと長義は懐疑的な視線を送っていた。
膝丸の方はどうかと思いきや、彼は熱心に地図を広げている。どうやら、仲居から出かける前に近辺の地図を貰ったらしい。
携帯端末のアンテナは、相変わらず沈黙しているので、今はアナログな手段で道を把握しようとしているのだろう。
「そういえば、長義。君、本体の刀はどうしたの?」
髭切は長義の全身をざっと確認するように視線を動かしてから尋ねる。長義は何を今更と言わんばかりに呆れた気持ちを表すため息をつき、
「部屋に置いているよ。落ち着かないけれど、こういう場所で刃物を出すのはあまり良くないと先輩たちに言われていてね。神酒と一緒に、ずっと荷物の中さ」
山姥切長義とて、刀剣男士である。己の心臓部であり核でもある刀が側にないのは、正直落ち着かないだろう。その手は、常ならば刀を差している腰の辺りに無意識に添えられていた。
「それなら、僕たちも置いてきた方が良かったんじゃないかい」
髭切、そして膝丸の背には細長い布袋が提げられている。その中に彼らの本体たる太刀が収まっているのは言うまでもない。
「君たちは、彼の身に起きた異変を解決するために来たんだろう。些か横暴であるようには感じるが、荒事も時に必要かもしれない。そのとき、咄嗟に得物が抜けなかったら、君たちも困るだろう?」
「当然だ! そうでなかったとしても、己の本体を得体の知れない者が眠っている場所に、置いておけるわけがないだろう」
今まで黙っていた膝丸が、不意に口を開いてきっぱりと言い切る。その語調は、半ば勢い込んだものであり、長義は些か驚いた様子で膝丸を見つめていた。
膝丸の言い分はもっともだ。だが、彼の言葉にはもっと切羽詰まったものが混ざっているように感じられた。
「……そうだね。君の言うとおりだ」
彼の言葉に気圧されるように、長義は暫し沈黙を挟んでから同意する。
対照的に、髭切は何やら気に掛けるような顔つきで膝丸を見つめていたが、
「そら、先に進むのだろう。急がねば、また彼奴が目を覚ますぞ」
膝丸に急かされ、それ以上問うこともできず足を進め始めた。
人が離れてから、そこまで月日が経っていないのだろうが、畑や道の草は伸び放題になっている。恐らく村が終焉を迎える頃は、居住者の数は二桁もなかっただろう。
民宿の近くはここ数日で人通りがあったからか、下草が踏まれて歩きやすくなっていたが、奥に行けば行くほど人が歩くのには相応しくない道となっていく。長義の道案内がなければ、とうの昔に迷子になっていただろう。
そうして、三十分ほど歩き続け、ようやく髭切たちは苔むした石造りの鳥居の前へと辿り着いた。
「ほら、到着したよ。二人とも」
「何だか、山に飲み込まれているみたいだね。ねえ、弟」
髭切はしみじみと頷き、そして振り返る。そこには、地図をしまった膝丸が挑むような目つきで鳥居を見つめていた。
「ああ、全くその通りだな」
髭切は、目を軽く細めて髭切を見つめる。膝丸はその視線に気が付いていないようだった。
***
迷ってしまった。
彼は、立ち並ぶ木々を前にして、柄にもなく冷や汗をだらだらと流していた。
足元が悪いからと、目の前に見える二人の頭を追いかけるようにして歩いていたはずなのに。
彼らの話し声も、たしかに聞こえていたはずなのに。
「これでは、また──」
続く言葉を口にすると、あまりに自分が情けなく思えてくるので彼は口を閉ざす。胸中を占めていく無力感を、どうにか追い払い、彼は前を見据えた。
目の前にあるのは、延々と続く山道だ。今まで歩いていた道は確かに足元は悪かったが、このように木々の根が道に侵食しているような場所ではなかった。間違えても、岩が折り重なるようにできた道などなかった。
「どこにいるのだ、二人とも!!」
一度声を張り上げてみる。恐らく山彦しか帰ってこないのだと思っていたが、
「おーい」
小さく、聞き慣れた声が耳に入る。ほっと安堵する一方で、勝手に迷ってしまった自分の不甲斐なさに胃が引き絞られるような思いがした。
「慣れない所では、気を緩めてはならない。そういうことだな」
軽く頬を叩いて、活を入れる。ぼーっとしていたつもりではなかったが、いつの間にか集中が切れていたのだろう。
心を引き締め直し、彼は声の元へと歩き出した。
***
鳥居をくぐり抜けた先には、長い長い石段があった。見上げるほどの長さというわけではないが、なかなか上り始めても終わりは見えない。想像以上の長さに、刀剣男士である髭切も長義も、辟易し始めていた。
膝丸は疲れこそ顔に出していないものの、踊り場で休憩する旨を伝えるとすぐに腰を下ろしてしまう。口にせずとも、疲労は感じていたのだろう。
「石段、こんなに長かっただろうか……」
長義は手で団扇を作って、軽くひらひらと扇ぎつつぼやく。長義の私服姿はスーツに近く、当然通気性も悪い。運動をすれば、熱が籠もるのは必定だった。
「大変だねえ。でも、ほら。長めはいいよ」
髭切の言うように、軽い登山並みの登頂をしたおかげで、相応の絶景が二振りの前には広がっていた。
木々の隙間を掻い潜るように見えるのは、緑一色の平原。点々と立ち並ぶ、嘗ての住人の住処すらも、この景色の前では程よいアクセントになっている。
「ほら。あそこが本丸を建てる予定地なんだ」
長義が指さした先は、丁度神社の向かいから少しずれた場所だった。茶色い地面が見えているのは、草がそこだけ取り除かれたからだろう。
「思ったより小さいんだね」
「いや、もっと本当は広がっていくはずだよ。本丸という建物は、どうしても大所帯になるから、普通の家をいくつも繋げた大きさが必要になるらしい」
「それは、また随分と豪勢なものだな。たかだか家一つのために、ここまで土地を変えるとは」
割って入ったのは膝丸の声だ。彼もまた、眼下に広がる光景をどこを注視するでもなく漠然と見下ろしていた。
「それが求められている以上、俺たちは応えるしかない。それに、ここから完全に人の手が無くなれば、こういう場所は荒れ果てていくだけだろう」
自己弁護じみた言い分になったとは思うが、今の長義の中には、それしか持ち合わせている返事がない。
「まあ、僕はともかくとして、こんなにもあれこれ心配をする長義みたいな刀剣男士もいるわけだから、このまま誰もいなくなって、寂れていくままにするよりはいいんじゃない?」
まさか髭切から賛同が貰えるとは思っていなかったので、長義は片眉をあげて驚きを露わにした。
髭切は踊り場の上に立ち、琥珀色の澄んだ瞳で石段の向こうを見つめる。その視線の先には、淡くもあり、濃くもある緑の波がずっと続いている。
「この場所がどうなろうが、僕としてはどうでもいいかなって思うんだけれどね」
やはりそういうことを言うのかと、長義が諦めにも似たため息をつこうとしたときだった。
「だけど、ふと足を止めたとき、広がる緑を僕は綺麗だなって思う。これが人とそうでないものが積み上げてきたもので、人がいなくなったら、この綺麗な風景も無くなるのかなって思ったら、それは少し──寂しい、のかなあって」
長義は海色の瞳を丸くして、髭切を見つめる。
弟以外のことには興味がなかったと彼は語った。物で、武器だから、何を見ようとどこに行こうと、そんなの関係ないと思っていた、と。
(思っていた──? じゃあ、今は違うのか?)
恐らくは眠ることすらも、物であるから必要ないと否定してきていたのではないか。そんな邪推をしてしまうような素振りを見せていた髭切に、いったいどんな心境の変化があったのか。
「……驚いたね。君がそんな詩的なことを考えているとは、思わなかったよ」
無難な言葉を、髭切へと投げかける。膝丸も兄の発言に驚いたのか、その双眸が大きく見開かれていた。
「君は仕事一辺倒の刀剣男士で、ただ刀としてあれば良いと思っているものだと、俺は考えていた」
だからこそ、彼を苦手としていたと言ってもいい。膝丸も髭切の影響を受けてか、同じような思考に染まっているようで、二人あわせて自分から遠ざけたいと思ったのは、そういう理由からだった。
髭切は長義の言葉を受けて、あっけらかんとした調子で笑う。
「今でもそう思っているよ。刀は、振るわれなくちゃ意味がない。僕らには仕えなくてはならない者はないけれど、幸い斬るものは僕らを管理している者が用意してくれる。僕はそれに添って、粛々と斬っていけばいい。だけどね」
髭切は目を細めて、空を仰ぎ見る。その向こうにある何かを、探るように。
「真っ直ぐ歩き続けていたら、ある日僕らはぽっきりと折れてしまうだろう。そう、思ったんだ。先に壊れちゃったのは、弟の方だったんだけどね」
自分のことが話題に出たからか、膝丸は髭切とは対照的に俯いてしまった。構わず、髭切は言葉を続ける。
「そんなとき、立ち止まった景色も綺麗だって教えられたんだよね。今の僕らの主に」
刀として何かを斬り、討ち果たすだけが正しいあり方だと思っていた。それが望ましい姿だと信じていたと、髭切は語る。
けれども、自分たちはどうやらそれ以外を感じることもできたらしい。見上げた空が、美しいことを知った。緑の中で語らう瞬間が、楽しいことを知った。
(休まなきゃ見えないこともある。そういうものだよね、主)
今は側にいない主へそっと呼びかけてから、髭切は視線を地上へと戻す。
眼下に広がる皐月の緑に目を細め、これもまた美しいものなのだと鋼の心に刻みつける。
「だから、僕らは主に感謝しているんだよ。きっと、弟もそうなんじゃないかな」
髭切はうんと背伸びをして、それから大きく息を吐き出した。膝丸は、兄の言葉に思うことがあってか、黙したまま答えない。
じっと、兄と同じ景色を目に焼き付けてから、
「この景色は、このままあると思うのか」
誰に問うでもない形で、膝丸は呟いた。
「あることを望むものがいる限り、俺はそうしたいと思っているよ。君の兄の言うように、ここは良い場所だから」
誰のものでもない問いを拾い上げ、長義は呟く。膝丸は瞑目したまま、それ以上何も語らなかった。
***
踊り場から本殿までの石段は、途中までの長さが何だったのかと思うほどに短く、あっさりと三つの人影は頂上へと辿り着いた。
古びた石畳の上には、落ち葉が取りのけられており、続く先には小さな社がある。廃棄された村の神社なら、もっと朽ち果てているものかと思いきや、存外丁重に掃き清められていた。
「少し古びてはいるけれど、結構綺麗だね」
髭切がそのように語ると、長義が呆れたような声音で、
「挨拶に来たのに、汚いままにしておくわけがないだろう」
肩を竦める彼に、髭切は「それもそうだね」と頷き返した。
「来たばかりの頃は、もっと落ち葉やら雑草やらで荒廃した空気を纏っていたからね。参道も本殿の周りも、一通りは掃除しておいたんだよ」
「それなら、ここにくるまでの道も綺麗にしておいてくれたら、楽だったんだけどなあ」
「そこまでは俺たちも管轄外だ」
にべもなく断られ、髭切は不服そうに口をへの字に曲げた。
職員の変調がここに端を発している可能性が高いというのなら、当たりをつけてきた以上、ただちらっと見て終わりにもできない。
髭切は長義のいる本殿の裏側に回り、それらしい不可思議なものがないか散策を始めた。
神社といえど、神主が常駐している社とは異なり、木製の小さな本殿の他に建物らしい建物はない。
不思議に思って尋ねると、社務所や倉庫は、全て麓で管理して、祭事の際に必要な物だけ運ぶようにしていたらしいと、長義は髭切に説明してくれた。
「生き物の気配も、あまりしないね」
「この場所は開けすぎているからね。山林で暮らす生き物にとっては、丸裸になっているようで落ち着かないんじゃないかな」
獣だけでなく、鳥もここにはあまり近寄っていないようだ。都会の鳩だらけになっている神社を思い出し、髭切は思わず苦笑いを浮かべる。どうやら、住む場所が違えば、社に集うものも大きく変わってくるらしい。
ただ、そのおかげだろうか。社に漂う空気は澄み渡っており、悪い空気が混じっているようには到底思えなかった。
何か粗相をされた痕跡もなければ、怒りや恨みのような黒い感情も髭切の直感は感じ取っていない。
「誰かに怒っているのなら、もう少し何か感じるものだけどね」
人間のように霊感と言えるものがあるかは不明だが、刀剣男士もまた人ならざるものであるが故に、人ではないものの気配に対する波長が合いやすいのだろうと、かつて鬼丸は語っていた。
刀剣男士の中でも合いやすいもの、合いづらいものがいるとのことだったが、髭切はその中においては、比較的敏感な方ではあるらしい。
弟も同様の直感を持っていることは、髭切も何度かよく似た経験を経て知っていた。
「多分、ここが原因じゃなさそうなんだよね。じゃあ、何が切っ掛けなんだろう」
淀みもなく清浄な気が満ちている社から、邪念が飛んでいるとは到底思えない。首を傾げながら、髭切は本殿の正面へと戻ってくる。
「ねえ、長義──……長義?」
声をかけてみたものの、全く返事がなく、髭切はきょろきょろと辺りを見渡す。
朽ちかける寸前の賽銭箱の向こう、本殿の扉には御神体祀る場を外界から隔てるために設置された格子戸がある。無論、その奥に長義はいない。彼の側にいた膝丸の姿も、だ。
「君、長義ともう一人を知らないかい? って聞いても、答えなんてないのだろうけど」
髭切が声をかけたのは、本殿の両側に建てられていた小さな石像だ。狐を模した像であるので、恐らくはここの神使なのだろう。無論、ただの石が返事をするわけもない。
さて、どうしたものか。彼が顎先に指をあて、考え込もうとした矢先、ふと視界の端で動くものを捉えた。
「──おや、やっと動き出してくれたね」
彼は揺れる茂みの向こうに目をやり、やがて歩き始めた。
***
「おい、膝丸。君は一体どこに行くつもりなんだ」
やや苛立った様子を垣間見せつつ長義が尋ねても、先を行く薄緑の髪をした青年は黙したまま語らない。
先ほどまで本殿の正面や、そこに続く石畳を観察して、何か異変は起きてないかと探し回っていた長義だったが、不意に膝丸に、
「実は気になるものを見つけたのだが、ついてきてくれるか」
と、頼まれてしまい、それならばと彼の後を追ってみたのだが、肝心の膝丸は先ほどから黙して何も語らない。
言われるがままに、神社から続いている森へと獣道を使って分け入っていったはいいが、山の木々が延々と続いているだけだ。
本殿も既に木々の向こうに隠れて見えなくなっており、これ以上土地勘もないのに奥に行くのは危険だと、長義は警戒していた。
「当てずっぽうで言っているのなら、いい加減にしてくれないかな。俺はこれでも本気で困っているんだ」
髭切同様、膝丸も人間味が些か欠けている部分がある。髭切の方は、いくらか心の機微というものを理解しかけているようだが、膝丸もそうだという保証はない。
彼の思いつきだけで行動されて、時間を悪戯に消費させられるのは困ると、長義が声を荒らげかけたときだった。
「あの人間を助けるために、か」
「そうだよ。俺にとっては、あまり面識はないとはいえ、同僚であることには変わりない」
長義の言葉を聞いて、膝丸は不意に足を止める。振り返った彼の目には、どういう理由か、怒りが混じっているように長義には見えた。
そんな人間的な感情の揺らぎが、彼の目に宿っている所を、長義は初めて目撃した。
「君は、悪い人ではないと思っている。だが、善人すぎるあまり、見る目を曇らせているようだな」
「そんなことを言われる筋合いはないね。それより、膝丸。君はいったい、俺をどこに連れていきたいのかな。適当なことを言って俺をからかっているなら、本気で俺は怒るよ」
先ほどまでの落ち着き払った態度をかなぐり捨て、長義は眦を釣り上げて、膝丸へ詰め寄る。
山姥切長義として、彼は顕現してから多くの人間に関わってきていた。だからこそ、例え然して知り合いとも言えない間柄の相手であっても、親身に接し、その上で幾らかの絆を得られる体験を彼は繰り返してきていた。
故に、このように人命を気にしないような態度をとられれば、当然怒りにも駆られる。
だが、膝丸はまるで意に介した様子は見せなかった。食ってかかる長義を見据え、彼は一つ息を吐く。
「頼みがあるんだ」
「頼み?」
「騙すような真似をして、すまなかったとは思っている。だが、あちらの彼はどうにも金物の臭いが強すぎる。妙に近寄りがたい空気も出していた。だが、君ならば」
「待て。いきなり、なんの話をしているんだ」
突如訳の分からないことを膝丸に言われ、長義が目を白黒させていると、
「それなら、僕からもいいかな」
不意に、長義の背後から声がした。振り向くまでもなく、長義はその声の主が誰かを知っている。
咄嗟に身を翻せば、そこには太刀を隠している布袋の紐に手をかけ、薄い笑みを浮かべている髭切が立っていた。
「君が何を頼もうとしているのか、僕にも聞かせてほしいな。それと」
髭切は、布袋越しに己の本体たる刀の柄に手をかけて問う。
「弟を、どこに隠したのかも、教えてもらえると嬉しいね」
丁度今は、五月の上旬。吹き渡る風は程よく涼しく、日差しは活力を漲らせるには十分な暖かさで降り注いでいる。
「外に出てすっきりしたな、兄者。あそこにいると、鼻が馬鹿になってしまいそうだった」
「そうだね。何なんだろうね、あの臭い」
割り当てられた部屋を通り抜けた瞬間、また鼻をつまみたくなるような異臭に二振りは襲われた。長義に聞いた所、彼はもう慣れてしまったらしい。
「血の臭いではなかったな。だが、どこか生臭いような、饐えたような……」
「ごみの臭いかなあ? そこまで汚いとは思えなかったんだけどなあ」
「あるいは、都会とは異なる土地独特の臭いかもしれんな。俺たちは、土や緑には程遠い生活をしているだろう」
「それはあるかもね」
髭切と膝丸が日頃赴く仕事場の庁舎は山の近くに建てられているが、だからといって普段から山林に分け入っているわけでもない。
駅から自宅までは電車ないしは徒歩で通っているが、目に入るのは住宅街ばかりだ。辛うじて緑と呼べるのは、街路樹くらいだろう。
「二人とも、行くならさっさと行こう。様子のおかしい彼については、一応仲居に注意するようにしておいたけれど、いつまた暴れ出すか分からないからね」
先に歩いていた長義が、軽やかに手を振っているのが見えた。立ち止まっていても仕方ないのは事実なので、髭切と膝丸もその後を追う。
あれから、髭切は自身が所持している携帯端末で仕事場にいる鬼丸国綱に連絡を取ろうとしたが、どうやら電波を拾い損ねているようで、全く繋がらなかった。
民宿の備え付けられている電話を使えないかと交渉した所、そもそも電話はないと言われてしまった。
「この近辺、全く人が見当たらないねえ」
歩きながらぐるりと辺りを見渡していた髭切は、しみじみと呟く。漠然と景色を眺めているように見えて、実際は住人を探していたらしい。
「君たち、資料をちゃんと見てこなかったんだね。この辺りは、もう廃村になっている場所だよ。数ヶ月前のことだそうだけど、それより前から殆ど人はいなかったらしい」
あっけらかんとした調子の長義の言葉に、髭切は目を丸くする。
言われてみれば、畑はあるものの耕す人や作業を行っている人の姿がまるで目に入らない。休耕田だったとしても、まるで人がいないのは確かに不自然である。
建物の状態が悪くないために見逃してしまっていたが、廃村の集落といえば確かに納得できた。
「じゃあ、あの宿は?」
「俺たちがここに来る話を出したら、前の住民が期間限定で用意をしてくれたんだよ。従業員として、何名か人員の派遣もしてくれたんだ。あの仲居もその一人というわけだね」
もっとも、仲居を除いた者は、残ったのが長義たちだけだったからか、すでに帰ってしまっていた。本当は、長義も昨日の晩で帰るつもりだったからだ。
いくら政府がお金を出しているとはいえ、一人で民宿を切り盛りするのは決して楽とは言えないに違いない。なればこそ、早く事態を解決して、彼女を本来の生活に戻してやりたいと長義は考えていた。
そんな彼の人道的な考えなど知らぬように、髭切は緑ばかりの地平線を眺めて、目を細めている。
「こんな木と草しかないような場所に、本丸って建てるんだね」
「確かに都会からは離れているが、悪い所ではないと思うよ。気の流れも良いと、ここで儀式を執り行った者たちも言っていた。生き物が多いから、生命の活力がみなぎっているんじゃないかな」
長義の言う通り、同じ五月の昼でも都会とこの場所では、感じる空気が違う。生き物のざわめきがそこかしこで感じられるのは、ここならではなのだろう。
「生き物といえば、人なつっこい風変わりな獣がいてね。俺がここに来て、周りを確認している最中に迷子になってしまったんだが、俺を案内するように前を歩いてくれたんだ。おかげで宿に戻ることができてね。お礼に、俺からも昼ご飯を少し分けてやったんだよ。あれは、仕事場ではできない体験だったね」
よほど都会ではできない交流が嬉しかったのか、彼の言葉はここに来て初めて楽しげなものになっていた。
もっとも、聞き手である髭切と膝丸の反応は芳しくない。とはいえ、長義も彼らが相槌を打ってくれるとは思っていなかったので、これはお互い様だろう。
「他の髭切は、こういう所で暮らしているんだね」
刀剣男士は、元となる刀は一振りしかなくても、付喪神という形式をとっている以上、同じ刀剣男士を複数呼び出すこともできる。
同一の神様を別の異なる場所の神社でも祀るのと、同じ手法であるというのが通説だ。髭切の言う「他の髭切」とは、自分とは異なり、審神者に呼び出された髭切という意味を持っていた。
「髭切、君は本丸を見たことがないのかな」
長義に尋ねられ、髭切はふと口を噤む。見たことがないわけではない。だが、正直なことを言うのなら、彼は記憶に留めていなかった。
本丸の建物に案内され、中を歩いたことも数度くらいはあるはずだ、と頭では理解している。だが、思い出としては存在してない。
「……僕は、興味がなかったんだよね。弟以外のことには」
「自分が見聞きしたことなのに?」
「だって、どうでもよかったんだもの。僕らは物だ。敵を倒すための武器だ。それなら、刀が──物が何を見ようと、どこに行こうと、そんなの関係ないって思っていたから」
達観しているというには、あまりに無機質すぎる考え方だ。長義とて、刀剣男士ではあるが、そこまで周りのものを潔く切り捨てることはできない。
彼の脳裏に、ふと髭切が顕現して程ない頃の、ある日のやり取りが思い返される。
食堂で髭切を見かけ、よかったら一緒に食べないか、何なら奢りでも良いと誘ったときのことだ。
──いらないよ。どうせ、お腹は減らないもの。
まるでガラス玉のような瞳でこちらを見つめ、髭切は如何にも〈物〉らしい言葉を口にした。
刀剣男士は物であるが故に、確かに食事は必要としない。けれども、空腹を覚えないわけではない。食べないことにより、精神的な飢えを感じるのだ。だというのに、髭切は己の飢餓感すら、感じようとしていなかった。
あの日から、長義は彼らに対して──少なくとも、髭切に関しては、苦手意識を持つようになっていった。
「でも、空は青くて綺麗だなって気付いたんだ」
ふと、髭切はぽつりと呟く。それは長義への返答というより、独り言めいた言葉だった。
彼の言葉の真意を問うより先に、髭切は「それよりも」と話題を切り替えていく。
「長義、僕らはいったいどこに向かっているんだい?」
髭切に仕事のことに関する質問を受けて、長義も自身の気持ちを本来の任務へと向き先を戻す。今は髭切のことよりも、部屋で気絶している職員の異常の原因を突き止めるのが先だ。
「この地域一帯の産土神を祀っている神社だよ。俺たちの仕事はそこへの挨拶回りみたいなものだから、何か問題があったとしたら、そこしか考えられないだろう」
「なるほど。そういうものなんだね。ということは、これから神様の家に行くということかな」
「ああ。だから、君たちはなるべく失礼のないように頼むよ。既に俺たちがやり取りを交わしているとはいえ、君たちはこの場においては新参者だ」
髭切はのんびりとした声で「はーい」と返事をしたが、本当に分かっているのだろうかと長義は懐疑的な視線を送っていた。
膝丸の方はどうかと思いきや、彼は熱心に地図を広げている。どうやら、仲居から出かける前に近辺の地図を貰ったらしい。
携帯端末のアンテナは、相変わらず沈黙しているので、今はアナログな手段で道を把握しようとしているのだろう。
「そういえば、長義。君、本体の刀はどうしたの?」
髭切は長義の全身をざっと確認するように視線を動かしてから尋ねる。長義は何を今更と言わんばかりに呆れた気持ちを表すため息をつき、
「部屋に置いているよ。落ち着かないけれど、こういう場所で刃物を出すのはあまり良くないと先輩たちに言われていてね。神酒と一緒に、ずっと荷物の中さ」
山姥切長義とて、刀剣男士である。己の心臓部であり核でもある刀が側にないのは、正直落ち着かないだろう。その手は、常ならば刀を差している腰の辺りに無意識に添えられていた。
「それなら、僕たちも置いてきた方が良かったんじゃないかい」
髭切、そして膝丸の背には細長い布袋が提げられている。その中に彼らの本体たる太刀が収まっているのは言うまでもない。
「君たちは、彼の身に起きた異変を解決するために来たんだろう。些か横暴であるようには感じるが、荒事も時に必要かもしれない。そのとき、咄嗟に得物が抜けなかったら、君たちも困るだろう?」
「当然だ! そうでなかったとしても、己の本体を得体の知れない者が眠っている場所に、置いておけるわけがないだろう」
今まで黙っていた膝丸が、不意に口を開いてきっぱりと言い切る。その語調は、半ば勢い込んだものであり、長義は些か驚いた様子で膝丸を見つめていた。
膝丸の言い分はもっともだ。だが、彼の言葉にはもっと切羽詰まったものが混ざっているように感じられた。
「……そうだね。君の言うとおりだ」
彼の言葉に気圧されるように、長義は暫し沈黙を挟んでから同意する。
対照的に、髭切は何やら気に掛けるような顔つきで膝丸を見つめていたが、
「そら、先に進むのだろう。急がねば、また彼奴が目を覚ますぞ」
膝丸に急かされ、それ以上問うこともできず足を進め始めた。
人が離れてから、そこまで月日が経っていないのだろうが、畑や道の草は伸び放題になっている。恐らく村が終焉を迎える頃は、居住者の数は二桁もなかっただろう。
民宿の近くはここ数日で人通りがあったからか、下草が踏まれて歩きやすくなっていたが、奥に行けば行くほど人が歩くのには相応しくない道となっていく。長義の道案内がなければ、とうの昔に迷子になっていただろう。
そうして、三十分ほど歩き続け、ようやく髭切たちは苔むした石造りの鳥居の前へと辿り着いた。
「ほら、到着したよ。二人とも」
「何だか、山に飲み込まれているみたいだね。ねえ、弟」
髭切はしみじみと頷き、そして振り返る。そこには、地図をしまった膝丸が挑むような目つきで鳥居を見つめていた。
「ああ、全くその通りだな」
髭切は、目を軽く細めて髭切を見つめる。膝丸はその視線に気が付いていないようだった。
***
迷ってしまった。
彼は、立ち並ぶ木々を前にして、柄にもなく冷や汗をだらだらと流していた。
足元が悪いからと、目の前に見える二人の頭を追いかけるようにして歩いていたはずなのに。
彼らの話し声も、たしかに聞こえていたはずなのに。
「これでは、また──」
続く言葉を口にすると、あまりに自分が情けなく思えてくるので彼は口を閉ざす。胸中を占めていく無力感を、どうにか追い払い、彼は前を見据えた。
目の前にあるのは、延々と続く山道だ。今まで歩いていた道は確かに足元は悪かったが、このように木々の根が道に侵食しているような場所ではなかった。間違えても、岩が折り重なるようにできた道などなかった。
「どこにいるのだ、二人とも!!」
一度声を張り上げてみる。恐らく山彦しか帰ってこないのだと思っていたが、
「おーい」
小さく、聞き慣れた声が耳に入る。ほっと安堵する一方で、勝手に迷ってしまった自分の不甲斐なさに胃が引き絞られるような思いがした。
「慣れない所では、気を緩めてはならない。そういうことだな」
軽く頬を叩いて、活を入れる。ぼーっとしていたつもりではなかったが、いつの間にか集中が切れていたのだろう。
心を引き締め直し、彼は声の元へと歩き出した。
***
鳥居をくぐり抜けた先には、長い長い石段があった。見上げるほどの長さというわけではないが、なかなか上り始めても終わりは見えない。想像以上の長さに、刀剣男士である髭切も長義も、辟易し始めていた。
膝丸は疲れこそ顔に出していないものの、踊り場で休憩する旨を伝えるとすぐに腰を下ろしてしまう。口にせずとも、疲労は感じていたのだろう。
「石段、こんなに長かっただろうか……」
長義は手で団扇を作って、軽くひらひらと扇ぎつつぼやく。長義の私服姿はスーツに近く、当然通気性も悪い。運動をすれば、熱が籠もるのは必定だった。
「大変だねえ。でも、ほら。長めはいいよ」
髭切の言うように、軽い登山並みの登頂をしたおかげで、相応の絶景が二振りの前には広がっていた。
木々の隙間を掻い潜るように見えるのは、緑一色の平原。点々と立ち並ぶ、嘗ての住人の住処すらも、この景色の前では程よいアクセントになっている。
「ほら。あそこが本丸を建てる予定地なんだ」
長義が指さした先は、丁度神社の向かいから少しずれた場所だった。茶色い地面が見えているのは、草がそこだけ取り除かれたからだろう。
「思ったより小さいんだね」
「いや、もっと本当は広がっていくはずだよ。本丸という建物は、どうしても大所帯になるから、普通の家をいくつも繋げた大きさが必要になるらしい」
「それは、また随分と豪勢なものだな。たかだか家一つのために、ここまで土地を変えるとは」
割って入ったのは膝丸の声だ。彼もまた、眼下に広がる光景をどこを注視するでもなく漠然と見下ろしていた。
「それが求められている以上、俺たちは応えるしかない。それに、ここから完全に人の手が無くなれば、こういう場所は荒れ果てていくだけだろう」
自己弁護じみた言い分になったとは思うが、今の長義の中には、それしか持ち合わせている返事がない。
「まあ、僕はともかくとして、こんなにもあれこれ心配をする長義みたいな刀剣男士もいるわけだから、このまま誰もいなくなって、寂れていくままにするよりはいいんじゃない?」
まさか髭切から賛同が貰えるとは思っていなかったので、長義は片眉をあげて驚きを露わにした。
髭切は踊り場の上に立ち、琥珀色の澄んだ瞳で石段の向こうを見つめる。その視線の先には、淡くもあり、濃くもある緑の波がずっと続いている。
「この場所がどうなろうが、僕としてはどうでもいいかなって思うんだけれどね」
やはりそういうことを言うのかと、長義が諦めにも似たため息をつこうとしたときだった。
「だけど、ふと足を止めたとき、広がる緑を僕は綺麗だなって思う。これが人とそうでないものが積み上げてきたもので、人がいなくなったら、この綺麗な風景も無くなるのかなって思ったら、それは少し──寂しい、のかなあって」
長義は海色の瞳を丸くして、髭切を見つめる。
弟以外のことには興味がなかったと彼は語った。物で、武器だから、何を見ようとどこに行こうと、そんなの関係ないと思っていた、と。
(思っていた──? じゃあ、今は違うのか?)
恐らくは眠ることすらも、物であるから必要ないと否定してきていたのではないか。そんな邪推をしてしまうような素振りを見せていた髭切に、いったいどんな心境の変化があったのか。
「……驚いたね。君がそんな詩的なことを考えているとは、思わなかったよ」
無難な言葉を、髭切へと投げかける。膝丸も兄の発言に驚いたのか、その双眸が大きく見開かれていた。
「君は仕事一辺倒の刀剣男士で、ただ刀としてあれば良いと思っているものだと、俺は考えていた」
だからこそ、彼を苦手としていたと言ってもいい。膝丸も髭切の影響を受けてか、同じような思考に染まっているようで、二人あわせて自分から遠ざけたいと思ったのは、そういう理由からだった。
髭切は長義の言葉を受けて、あっけらかんとした調子で笑う。
「今でもそう思っているよ。刀は、振るわれなくちゃ意味がない。僕らには仕えなくてはならない者はないけれど、幸い斬るものは僕らを管理している者が用意してくれる。僕はそれに添って、粛々と斬っていけばいい。だけどね」
髭切は目を細めて、空を仰ぎ見る。その向こうにある何かを、探るように。
「真っ直ぐ歩き続けていたら、ある日僕らはぽっきりと折れてしまうだろう。そう、思ったんだ。先に壊れちゃったのは、弟の方だったんだけどね」
自分のことが話題に出たからか、膝丸は髭切とは対照的に俯いてしまった。構わず、髭切は言葉を続ける。
「そんなとき、立ち止まった景色も綺麗だって教えられたんだよね。今の僕らの主に」
刀として何かを斬り、討ち果たすだけが正しいあり方だと思っていた。それが望ましい姿だと信じていたと、髭切は語る。
けれども、自分たちはどうやらそれ以外を感じることもできたらしい。見上げた空が、美しいことを知った。緑の中で語らう瞬間が、楽しいことを知った。
(休まなきゃ見えないこともある。そういうものだよね、主)
今は側にいない主へそっと呼びかけてから、髭切は視線を地上へと戻す。
眼下に広がる皐月の緑に目を細め、これもまた美しいものなのだと鋼の心に刻みつける。
「だから、僕らは主に感謝しているんだよ。きっと、弟もそうなんじゃないかな」
髭切はうんと背伸びをして、それから大きく息を吐き出した。膝丸は、兄の言葉に思うことがあってか、黙したまま答えない。
じっと、兄と同じ景色を目に焼き付けてから、
「この景色は、このままあると思うのか」
誰に問うでもない形で、膝丸は呟いた。
「あることを望むものがいる限り、俺はそうしたいと思っているよ。君の兄の言うように、ここは良い場所だから」
誰のものでもない問いを拾い上げ、長義は呟く。膝丸は瞑目したまま、それ以上何も語らなかった。
***
踊り場から本殿までの石段は、途中までの長さが何だったのかと思うほどに短く、あっさりと三つの人影は頂上へと辿り着いた。
古びた石畳の上には、落ち葉が取りのけられており、続く先には小さな社がある。廃棄された村の神社なら、もっと朽ち果てているものかと思いきや、存外丁重に掃き清められていた。
「少し古びてはいるけれど、結構綺麗だね」
髭切がそのように語ると、長義が呆れたような声音で、
「挨拶に来たのに、汚いままにしておくわけがないだろう」
肩を竦める彼に、髭切は「それもそうだね」と頷き返した。
「来たばかりの頃は、もっと落ち葉やら雑草やらで荒廃した空気を纏っていたからね。参道も本殿の周りも、一通りは掃除しておいたんだよ」
「それなら、ここにくるまでの道も綺麗にしておいてくれたら、楽だったんだけどなあ」
「そこまでは俺たちも管轄外だ」
にべもなく断られ、髭切は不服そうに口をへの字に曲げた。
職員の変調がここに端を発している可能性が高いというのなら、当たりをつけてきた以上、ただちらっと見て終わりにもできない。
髭切は長義のいる本殿の裏側に回り、それらしい不可思議なものがないか散策を始めた。
神社といえど、神主が常駐している社とは異なり、木製の小さな本殿の他に建物らしい建物はない。
不思議に思って尋ねると、社務所や倉庫は、全て麓で管理して、祭事の際に必要な物だけ運ぶようにしていたらしいと、長義は髭切に説明してくれた。
「生き物の気配も、あまりしないね」
「この場所は開けすぎているからね。山林で暮らす生き物にとっては、丸裸になっているようで落ち着かないんじゃないかな」
獣だけでなく、鳥もここにはあまり近寄っていないようだ。都会の鳩だらけになっている神社を思い出し、髭切は思わず苦笑いを浮かべる。どうやら、住む場所が違えば、社に集うものも大きく変わってくるらしい。
ただ、そのおかげだろうか。社に漂う空気は澄み渡っており、悪い空気が混じっているようには到底思えなかった。
何か粗相をされた痕跡もなければ、怒りや恨みのような黒い感情も髭切の直感は感じ取っていない。
「誰かに怒っているのなら、もう少し何か感じるものだけどね」
人間のように霊感と言えるものがあるかは不明だが、刀剣男士もまた人ならざるものであるが故に、人ではないものの気配に対する波長が合いやすいのだろうと、かつて鬼丸は語っていた。
刀剣男士の中でも合いやすいもの、合いづらいものがいるとのことだったが、髭切はその中においては、比較的敏感な方ではあるらしい。
弟も同様の直感を持っていることは、髭切も何度かよく似た経験を経て知っていた。
「多分、ここが原因じゃなさそうなんだよね。じゃあ、何が切っ掛けなんだろう」
淀みもなく清浄な気が満ちている社から、邪念が飛んでいるとは到底思えない。首を傾げながら、髭切は本殿の正面へと戻ってくる。
「ねえ、長義──……長義?」
声をかけてみたものの、全く返事がなく、髭切はきょろきょろと辺りを見渡す。
朽ちかける寸前の賽銭箱の向こう、本殿の扉には御神体祀る場を外界から隔てるために設置された格子戸がある。無論、その奥に長義はいない。彼の側にいた膝丸の姿も、だ。
「君、長義ともう一人を知らないかい? って聞いても、答えなんてないのだろうけど」
髭切が声をかけたのは、本殿の両側に建てられていた小さな石像だ。狐を模した像であるので、恐らくはここの神使なのだろう。無論、ただの石が返事をするわけもない。
さて、どうしたものか。彼が顎先に指をあて、考え込もうとした矢先、ふと視界の端で動くものを捉えた。
「──おや、やっと動き出してくれたね」
彼は揺れる茂みの向こうに目をやり、やがて歩き始めた。
***
「おい、膝丸。君は一体どこに行くつもりなんだ」
やや苛立った様子を垣間見せつつ長義が尋ねても、先を行く薄緑の髪をした青年は黙したまま語らない。
先ほどまで本殿の正面や、そこに続く石畳を観察して、何か異変は起きてないかと探し回っていた長義だったが、不意に膝丸に、
「実は気になるものを見つけたのだが、ついてきてくれるか」
と、頼まれてしまい、それならばと彼の後を追ってみたのだが、肝心の膝丸は先ほどから黙して何も語らない。
言われるがままに、神社から続いている森へと獣道を使って分け入っていったはいいが、山の木々が延々と続いているだけだ。
本殿も既に木々の向こうに隠れて見えなくなっており、これ以上土地勘もないのに奥に行くのは危険だと、長義は警戒していた。
「当てずっぽうで言っているのなら、いい加減にしてくれないかな。俺はこれでも本気で困っているんだ」
髭切同様、膝丸も人間味が些か欠けている部分がある。髭切の方は、いくらか心の機微というものを理解しかけているようだが、膝丸もそうだという保証はない。
彼の思いつきだけで行動されて、時間を悪戯に消費させられるのは困ると、長義が声を荒らげかけたときだった。
「あの人間を助けるために、か」
「そうだよ。俺にとっては、あまり面識はないとはいえ、同僚であることには変わりない」
長義の言葉を聞いて、膝丸は不意に足を止める。振り返った彼の目には、どういう理由か、怒りが混じっているように長義には見えた。
そんな人間的な感情の揺らぎが、彼の目に宿っている所を、長義は初めて目撃した。
「君は、悪い人ではないと思っている。だが、善人すぎるあまり、見る目を曇らせているようだな」
「そんなことを言われる筋合いはないね。それより、膝丸。君はいったい、俺をどこに連れていきたいのかな。適当なことを言って俺をからかっているなら、本気で俺は怒るよ」
先ほどまでの落ち着き払った態度をかなぐり捨て、長義は眦を釣り上げて、膝丸へ詰め寄る。
山姥切長義として、彼は顕現してから多くの人間に関わってきていた。だからこそ、例え然して知り合いとも言えない間柄の相手であっても、親身に接し、その上で幾らかの絆を得られる体験を彼は繰り返してきていた。
故に、このように人命を気にしないような態度をとられれば、当然怒りにも駆られる。
だが、膝丸はまるで意に介した様子は見せなかった。食ってかかる長義を見据え、彼は一つ息を吐く。
「頼みがあるんだ」
「頼み?」
「騙すような真似をして、すまなかったとは思っている。だが、あちらの彼はどうにも金物の臭いが強すぎる。妙に近寄りがたい空気も出していた。だが、君ならば」
「待て。いきなり、なんの話をしているんだ」
突如訳の分からないことを膝丸に言われ、長義が目を白黒させていると、
「それなら、僕からもいいかな」
不意に、長義の背後から声がした。振り向くまでもなく、長義はその声の主が誰かを知っている。
咄嗟に身を翻せば、そこには太刀を隠している布袋の紐に手をかけ、薄い笑みを浮かべている髭切が立っていた。
「君が何を頼もうとしているのか、僕にも聞かせてほしいな。それと」
髭切は、布袋越しに己の本体たる刀の柄に手をかけて問う。
「弟を、どこに隠したのかも、教えてもらえると嬉しいね」