本編の話

 ――ことは一ヶ月前に遡る。
 そんな言葉から、則宗は切り出した。

「お前さんたちも知っているかもしれないが、景趣のシステムというのは、政府の端末にシステムの中心があって、ネットワークという網を伝い、審神者が持つ端末で呼び出せるつくりになっているそうだ」

 審神者たちは景趣呼び出し用の専用端末をちょっと触るだけで、美しい景色を収めた異界を、一時的に庭へと呼び出すことができる。審神者以外の人間には未だ馴染みはないが、政府に関わっている者なら、誰でも話ぐらいは聞いたことがある技術だ。さして珍しくもない。
 だが、このシステムにちょっとした不具合が起きた。それが、開発途中の百合の景趣が漏れてしまったというミスだった。
 開発途中とはいえ、景趣における異界としての機能は十分に持ち合わせている。安全機構も設けているし、害はない。ただ、細部に亘った調整をする前という段階であったために、その景趣はまだ開発途中とされていた。

「その流出した景趣を、何かの弾みで、とある審神者が見つけたらしい。審神者の間では、実装前の幻の景趣を発見したと、ちょっとした噂になった」

 どうやったら、幻の百合の景趣に辿り着けるのか。景趣の中はどのようになっているのか。
 ネットワーク上で、文字だけを介して匿名でやり取りする手段――俗に掲示板と呼ばれる意見交換場所では、この景趣の情報が飛び交った。
 本来なら、審神者間で有意義な情報を拡散する意図で用いられるが、こういった都市伝説じみた噂話も娯楽の一環として、話題になることはしばしばある。彼らの議論は、ことが自分たちにも馴染み深い景趣の話だったからか、そこそこに盛り上がった。
 景趣にはどうやって辿り着けるのか、というのは議題として一番注目を浴びていた。
 景趣を特定の順番で切り替えれば辿り着く、景趣を二十四時間起動し続けると切り替わる、或いは特定の刀剣男士に触らせれば行ける。
 嘘か真か。面白半分、興味半分の情報が行き交った。

「政府もこういう話は、全く管理していないわけじゃない。今話したことも、ネットワークに書かれた内容を、後からひきあげて確認したものだそうだ。そうやって、都市伝説染みた話が良い感じに盛り上がったところで」

 ――景趣から帰ってこなかった知り合いがいる、という話が突如現れた。

「それも、嘘なんじゃないの?」

 髭切の至極もっともな質問に、則宗も首肯で返す。

「真偽は、机上の議論では分からんものさ。だが、何せ実装前の景趣だ。不具合があったのかもしれない。本当に出られなくなるかもしれない。そんな風に、不安はじわじわと広まったらしい」
「実際は、どうだったのだ」

 もしかしてただの事故ではないのか、と膝丸は訝しそうに問う。

「おいおい、政府だって別に無能じゃないさ。開発中の景趣に人が紛れ込んでいるかどうかぐらい、ちゃんと調査はしている。景趣の管理をしている部署によれば、そんな迷子はいなかったそうだ」

 だが、管理者の言葉とは裏腹に、被害報告はじわじわと広がっていく。中には、本丸の刀剣男士の数が減っていて、縁側に百合の花が残っていたという、神隠しめいた報告まで登場し始めた。
 狂言か真実かは分からないが、そうなると百合の景趣の扱いも変わる。『一度見てみたい幻の景趣』という夢のある存在から一転、全く別の捉え方をされるのに、時間は必要なかった。
 即ち、〈迷い込めば出られない恐怖の場所〉へと。

「ただ、こういう展開になると、どうにも話はおかしな方向に転がりやすい。面白半分で恐怖を煽るもの、本当に巻き込まれたと思しきもの、ちょっとしたお祭りのような騒ぎようだ。ほら、人間の世界でもあるだろう。大地震が起きた後、動物園から猛獣が逃げたとか騒ぐような話さ。そうやって人を怖がらせるような嘘をつく奴は、どこにだっている。ただ、問題は――」

 則宗はそこで言葉を句切る。
 続きは、膝丸が引き取った。

「それが、現実だったということだな」

 嘘だったのなら、はた迷惑な妄言で済む。だが、そうでないからこそ、二振りがわざわざこうして呼び出され、則宗と顔をつきあわせている。

「ああ。被害の規模は広範且つ散発的で、小規模だった。だから、発覚に手間取った」

 刀剣男士が、本丸から一振り消えた。
 そんな報告が、審神者の補佐を直接行っている担当官に送られたとして、そのような場合、最初に考えられるのが『裏切り』だ。それが、もっとも可能性として危険な理由であるからだ。
 故に、時間遡行軍の侵入がなかったか、消えた刀剣男士に最近異変がなかったか、という調査が先行して行われた。

「そうこうしている内に、もっと大きな異変が起きた。とある審神者が、刀剣男士たち諸共、本丸に住んでいた者全員ごと消失したという怪奇現象だ。こうなってきたら、さすがに審神者の補佐をしている担当官と、その上司たちだけで取り扱える範囲から逸脱する」

 本丸ごとの離反も警戒して調査は進められたが、どうにも兆候らしきものは見つからない。ことここに至り、何かおかしいと察知した各地の支部は、他の部署の意見を聞くという結論を出した。
 ありとあらゆる方面からの捜査をしてほしいと本部の各部署に依頼がやってきて、ようやく髭切たちの所属する〈神秘怪異調査対策部〉も事態を知った。
 そして、彼らが導き出した答えが、この景趣の噂が原因ではないか、というものだった。
 景趣に関する不穏な話が出始めた頃と、刀剣男士の散発的な失踪の時期も合致する。
 現場に百合の花びらが残っていた、直前まで景趣の設定を変えている姿を見た、といった証言もあり、ほぼ確定だろうと絞り込めたのが数日前。

「そんなとき、唯一の生還者が現れた。それが、お前さんたちが事情を聞きに行ってほしい相手、というわけだ」

 ほい、と則宗は軽い調子でタブレット端末を二人の前に滑らせる。すかさず、膝丸が手にとり、髭切にも見えるように画面をホログラムで表示させる。
 宙に浮かび上がった映像には、一人の女性が映っていた。
 年の頃は二十代前半といったところか。肩につくほど長く伸ばした髪を一つにまとめ、線の細そうな肢体を着物で包んでいる。審神者としては、よく見かけるありきたりな姿だ。

「名前は〈雪雫〉。審神者としての仮名だそうだ。十八の頃に本丸を構え、成績はまずまず。最初の刀は陸奥守吉行で、その後も特に問題なく顕現を続け、出陣を繰り返していた」

 則宗の話を聞きつつ、膝丸は画面を操作する。そこには、彼女の来歴と本丸に顕現している刀や戦績が表示されていた。まずまず、という言葉通り、あげた成果は必ずしも良いものばかりではない。一年ほど前には、折れた刀もあったようだ。

「そして、気の毒にも、今回の事件に巻き込まれてしまった。さっき言っていた、本丸丸ごと消失した例というのは、彼女の本丸のことだ」
「唯一の生還者という言い方から察するに、共に消えた刀剣男士は帰ってこなかったということか」

 膝丸の質問に、則宗は沈痛な面持ちでゆっくりと頷き返した。

「刀剣男士だけが帰れないのか、それとも人間であっても、たまたま彼女だけが戻ってこれただけなのか」
「景趣に巻き込まれた審神者は、この人間だけかい?」
「今のところ、知る限りは。だけど、最初にあった『知り合いが消えた』って書き込みが本当なら、もう一人迷い込んでる可能性もある。今、その辺りの裏をとっているところだ」
「何だか、後手後手に回っている感じだねえ」
「どこも、自分の所で起きた異変は自分で解決したい。組織とは、そういうものさ」

 やれやれと則宗は肩を竦める。彼自身、組織のしがらみに何かと思う節はあるらしい。
 もっとも、しがらみ自体をそもそも無視している兄弟には、いまいちピンときていないようだった。

「……山姥切長義も、この正体不明の景趣にいるのかな」

 頭の中で一通りの整理を終えた髭切は、ぽつりと言葉を漏らす。話を結びつけていけば、幸か不幸か、自分たちが関わることになる任務は、長義が迷い込んだ場所と一致するらしい。もし調査をするなら、彼と出くわす可能性もあるだろう。
 髭切の独り言を聞き取ったのか、則宗はぴくりと眉を動かした。

「長義? それは、去年までここにいた長義のことか?」
「うん、多分そうだと思うよ。何でも、知り合いの人間が、百合の景趣の実験をしていた最中に消えたらしくって」
「その者を探しているのか、今朝も庁舎に来てないそうだ」

 髭切と膝丸が、自分の知る限りの情報を伝えると、則宗は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。額に手を当て、「何をやってるんだ」とか「それも仕方ないか」などと幾つか独り言を口から零してから、長々と息を吐き出した。諦めと納得が入り交じった吐息は、吐き出してもなお、その場に重く滞留しているかのようだ。

「術式開発課に侵入していた長義は、やっぱりあの長義だったか。まったく、あの坊ちゃんは……」
「ん、それは初耳なんだけど」

 髭切が反応したからか、則宗は「ここだけの話だが」と声を潜ませ、

「昨晩、開発課の方に侵入者があったそうでな。扉のセキュリティを解析した所、無断で入ってきたのは山姥切長義らしい」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、やっぱりその人間を探しに行こうとしたんだね」
「だが、百合の景趣とやらは、行こうと思って行けるものなのか?」

 膝丸の疑問も、もっともだった。
 則宗がまとめてくれた情報では、あくまで百合の景趣はいつ出くわすか分からない、法則のない存在だったはずだ。行く目的はあっても、行く先である景趣の方に、そう易々と入れるものなのだろうか。

「行ける方法は、ないわけじゃない……らしい」

 膝丸の問いに、則宗は歯切れの悪い言葉で返す。

「お前さん達のお仲間が纏めてくれた内容によると、ネットワーク上では初期に様々な『入り方』について議論されていたそうだ。時間、場所、景趣を敷設する方角……。それらを片っ端から試せば、一つぐらいは正解を引き当てられたんだろうさ」

 下手な鉄砲、数打ちゃ当たるとは言い得たものだ。長義は知り合いの娘が消えてから、それこそ死に物狂いで情報を集め、一晩でそこまで行き着いたのだろう。

(ただ、逸りすぎている気もするけれどね。彼らしくもない)

 髭切なら、単なる知り合いが消えたぐらいで、そのような危ない場所に足を踏み入れようとは思わない。情報を集め、任務として命令が下れば動くが、それ以上の関わりをしようとは考えもしなかった。
 長義は、決して向こう見ずな性格ではない。先月、行動を共にしたときも、彼は彼なりに自らがとるべき行動を踏まえていた。他者へと助けを求める柔軟さも持ち合わせ、髭切たちと違って、周りからの評価にも最大限注意を払っている。
 そんな彼にしては珍しい、短慮な行動。何か他の者の意図があるのだろうか、と髭切は考え、

(……でも、僕も弟が消えたなら、同じことをするのだろう)

 主ならともかく、弟が姿を消したなら、自分も冷静な判断ができる自信がない。
 長義にとって、消えた人間は、それ程までに大事だったというだけの話なのだろう。飛び込めば最後、帰ってこられるかも怪しい場所に、自ら足を踏み入れてしまうほどに。

「何はともあれ、俺たちはその奇怪な景趣から帰ってきた生存者から、話を聞きに行く。その後、長義についてどうするかについては、この件を取りまとめている者が判断するだろう」

 則宗が語った情報を簡単にまとめ、膝丸は今後の指針を打ち出す。髭切としても、現状は予定通り動くしかあるまいと頷き返した。
 髭切たちに当面与えられた任務は、事情聴取までに一旦留まっている。先程、鬼丸と話していた者の態度では、自分たちが受け持つ可能性は高いが、まだ必ずそうだとは言い切れない。
 しかし、則宗はゆっくりと首を横に振る。

「いや、十中八九、お前さんたちはこの件に関わらなくてはいけなくなる」

 彼の言葉が、すっと二人の間に切り込みを入れる。
 揃って向けられた彼らの剣呑な視線を意に介さず、則宗は淀みなく言葉を紡ぐ。

「長義や他の者はともかく、お前さんたちは絶対、必ず、百合の景趣に足を踏み入れざるを得なくなるだろうさ。十中八九じゃなく、十割の確率と言ってもいい」
「鬼丸は反対していたようだけど。でも、何やらそういう話になりつつはあるみたいだね」
「我らにあやかし退治の逸話こそあれど、異界を打ち払うような逸話はないぞ」

 拒否するつもりはないが、できない可能性が高いという前提については、先に提示しておく必要がある。もし、過大な期待をされていたら、勝手に落胆されても困るからだ。
 そんな彼らの正論に対して、則宗はひらひらと軽く手を振ってみせた。まるで、その反論は予想できたとでも言わんばかりに。

「ここからは、僕の独り言になるんだが」

 則宗はわざとらしく二振りから目線を逸らし、大きな『独り言』を口にする。

「僕の聞いた話によると、一年ほど前に、上の連中に対してちょっとした問題を起こした刀剣男士二振りがいたらしい。非難はあったそうだが、結果的に彼らはとある課に異動――まあ、実質は左遷された」

 則宗の切り出した内容を耳にして、髭切の眉がぴくりとはねた。膝丸も、唇を僅かに噛む。

「そんな『聞き分けの悪い刀剣男士』、本来はさっさと排除するに限るんだが、使いようもあると庇った者がいたそうだ。慈悲深い人間もいたものだな」

 則宗が話したように、聞き分けの悪い――即ち、命令した者の言うことを聞かない刀剣男士は政府において疎まれやすい。なまじっか、人間より強力な力を持つ者である以上、そして審神者という安全装置もない故に、制御できないと分かれば、処分しなければ寧ろ危険だからだ。

「刀剣男士は特に理由もなく、刀解するわけにもいかない。最近は、やれ人権問題だ、倫理規定が、と対外的な横やりも入りやすくてな。しかし、それを面白く思わない者もいる。問題を起こした二振りのうち、どちらでもいい。今後、一度でも不穏な噂が耳に届こうものなら」

 則宗は、そこでちらりと膝丸を見つめる。まるで、彼がその『不穏な噂』そのものでもあるかのように。

「つまり、体よく僕らを排除したい連中の思惑が混ざっている、と?」

 だが、則宗が何か言うより先に、機先を制するように髭切の言葉が割って入った。
 則宗は目を細め、無言で笑ってみせる。彼の微笑が何を指すかは、髭切にも分かっていた。

(一年前……確かに僕らが今の部署に回された頃だね。あの頃のこと、あまり覚えてないからなあ)

 物らしく、特段周囲の評価など気にせずに振る舞っていたために、合理的な思考のみで行動していた頃の記憶――特に弟が関わらない記憶は、どうでもいいものとしてしまっていた。膝丸とて、兄に関連すること以外のことは、殆ど覚えていないだろう。
 ともあれ、今は、目の前の刀剣男士が何を目的としているかを読み取ろうと、髭切は必死に思考を巡らせる。
 一文字則宗。監査室の刀剣男士。
 彼は、ただの伝言役に選ばれたわけではないのだろう。
 上からの圧力をより明確な形で示しに来た『敵』か。
 それとも善意で二振りを庇おうと思って行動する、鬼丸と同じような『味方』か。

(或いは、そのどちらもでない、か)

 敵なら排除すればいい。
 味方なら放っておけばいい。
 しかし、第三者というのは厄介だ。場合によっては、敵にも味方にもなり得る。

「そんなことを聞いたら、僕らが逃げ出すとは考えないのかな?」
「お前さんたちは、それで逃げ出すような性格でもないだろう?」

 質問に質問で返される。そして、それは正解でもあった。
 髭切も膝丸も、自分たちの眼前に困難が突きつけられたとしても、退くような性格はしていない。但し、自分に限ってであり、片割れについては退かせようとすることも多い。

「それに、たとえ逃げたところで、首根っこを引っ掴んででも連れ戻されるだろうさ。その場合は、適当な罪状でも被せて消すのが容易になるから、向こうとしては一石二鳥か」
「怪異を前にして、そんな私情をあれこれ巡らせるなんて、随分余裕があるよねえ」

 則宗に言っても仕方の無い話ではあるが、髭切としては半ば呆れすら感じていた。
 それだけ、命令を出している人間にとっては、怪異など『どうでもいいこと』なのだろう。或いは、彼らにとっては、歴史改変に対する戦いすらも、自らの地位を得るための手段に過ぎないのやもしれない。

「そいつについては、僕も同感だ」
「それで、一文字則宗。君は僕らにどうしてほしいんだい? こんなことを言ってきた理由がないとは、言わせないよ」

 笑顔は僅かも崩さずに、髭切は微笑みを浮かべ続けている則宗に問いかける。傍らに座る膝丸は、黙ってこの微笑の応酬を見守っていた。

「なるほど。お前さんと話すのはこれが初めてだが、どうやら気が合いそうだ」
「僕は君みたいな性格の刀剣男士は、好きになれそうにないな」
「年寄りを、そう邪険に扱うもんじゃないさ。無論、顕現した年という意味でだぞ?」

 わざとらしくおどける仕草も、参った参ったと凝ってもいない肩を揉んでみる仕草も、先程までの順序立てて物事を説明していた冷静な面影は殆どない。或いは、これが素なのかもしれない。

「僕のお願いは単純だ。実は、数日前に僕らの課に所属する一人の人間と刀剣男士が、とある本丸の監査に行って、そこで消息を絶っている。監査先の本丸で、景趣のメンテナンスもついでに実施していたようだが……これが何を意味するかは分かるだろう?」

 頷きこそしなかったが、髭切にも則宗が何を言いたいかは理解できた。恐らく、何らかの引き金を引いて、彼らも百合の景趣に迷い込んだのだろう。

「その彼らを見つけ出し、できるなら保護してほしい。ああ、それと長義についても頼みたい。何せ、あいつは僕の後輩なんでね」
「そんなに気がかりなら、君も手伝ってくれてもいいんだよ」

 一人だけ安全圏にいて、上からあれこれとお願いばかりされるのは、理屈は通っていても、いい気分にはならない。
 それとなく、髭切が針の如き言葉を投げかけてみると、

「僕には僕で、外側からやらなくてはならないことがあるんでね。詳しくはまだ言えないが、お前さん達にとっても、事件の解決のためにも、必要なことだ」

 髭切と則宗の間に、静かに火花が飛び散る。則宗の側には、この状態でもなお伏せている札を持っているのは明らかだ。
 だが、根掘り葉掘り聞いたところで、相手はのらりくらりと躱していくだけだろう。老獪さの方では、本人の言うように一歩先んじているのは間違いない。

「兄者、どうするつもりだ。俺は正直あまり気が進まんが……」
「そうだねえ。でも、背を向けて知らんぷりをさせてもらえる状況でもないらしい」

 嫌だと言い張り続けても、髭切たちを守る主人はいない。好き勝手にやっていた時期があったのは事実であるし、その間に恨みの一つや二つ買っていたのではと問われれば、「まあそうかもね」と返すぐらいの覚えは薄らある。
 髭切たちにとってどうでもいいと思っていたことも、人間にとってはそうではなかった。そのツケを、予定外の形で支払わされそうになっているというだけの話だ。

「僕たちがそれでも嫌だと言ったら、君はどうなるのかな?」

 髭切が尋ねても、則宗は笑みを一寸たりとも崩さない。つくづく、やりづらい相手だ。
 沈黙すること、十数秒。
 髭切は大きく息を吸い、長々と吐き出した。

「――仕方ない」

 結局、こういう言葉で己の不満を宥めるしかない。
 仕方ない。どうしようもない。しょうがない。
 それでも、あやかし退治の刀としての矜持はあるし、それに先ほど思ったこともある。

(長義がいないこの場所は、ちょっと退屈そうだものね)

 別の課であるというのに、何かと口を挟んでくる、あの小うるさい刀剣男士。
 顕現してすぐに、道案内をされただけの関係。
 手合わせを、幾らかしたこともあっただけの繋がり。
 たまたま共に行動をしただけの縁。
 それだけの奇妙な結びつきを何と言うのかは知らないが、このままぶっつりと途切れさせてしまうのも、何となく嫌だと髭切は思う。膝丸も同感なのか、小さく頷き返してくれた。
 けれども、と髭切は内心で付け足し、言葉として形にする。

「できるなら、弟はここで待っていてもらいたいんだけど」
「何を言うか、兄者。俺を置いて、一振りで行くつもりか。もしや、俺の腕を侮っているのか」

 膝丸の返事は、聞く前から大体予想はできていた。そうだよね、と相槌を打って一旦は前言を撤回するものの、内心としては気がかりであることに変わりない。

「そういうわけだから、一文字則宗。僕らに事態の解決の任が下されたのなら、そのまま引き受けるよ」
「それは助かる。いやあ、帰ってこられない景趣の任なんて、断られるかと冷や冷やしたもんだが、よかったよかった」
「手がかりを与えるために、わざわざ事情聴取前に、色々と必要な情報を集めてくれていたんでしょ? はなから、こちらが断る理由を削いでおいて、白々しいったら」

 そもそも、鬼丸と交渉していた職員は、生存者への事情聴取は監査室からの申し出と言っていた。その申し出事態が、目の前の刀剣男士から与えられた助言の可能性は高いだろう。
 上層部が頭ごなしにこちらに命令を下し、地位と立場を振りかざして首を縦に振らせているとしたら、眼前の刀はまるで逆の手法をとっている。即ち、善意と人情と救済措置でできた線路を敷き、そちらに誘導するというやり方だ。

「それに、まだ色々と考えているんでしょう? 教えてくれないのは、その考えは、ここで働く人間たちの考えに沿わないものだからかな」
「うはは、こりゃ手厳しい。でも、それなら尚更、僕からは何も言えんさ」

 豪快に笑いながらも、則宗の目は笑っていない。けれども、髭切はある種の信頼は彼から感じていた。
 別に、一文字則宗という刀剣男士の人柄を信用しているわけではない。彼の言動の端々から、彼は己の『仲間』に対して、どうにかして助けたいという強い気持ちが滲み出ていた。
 それなら、仲間を助けに行く自分たちに害を成すことは、この件に関してはないだろうという、合理的な考えから導き出した答えだった。

「それに、お前さんたちが頑張ってくれれば、僕からも上の連中に、お前さんたちを邪険に扱うなと口添えできるだろう? こう見えて、僕はそれなりに顔が広いんだ」
「ああ、それはいいね。是非とも頼むよ」

 周りの評価など正直どうでもいいが、今回のように妙な圧力をかけられるのは嬉しくない。それなら、多少大袈裟に褒められるぐらいが、丁度いいのかもしれない。
 話に結論が出て、髭切と膝丸は則宗たちから実用的な情報――今回の事情聴取に向かう先の本丸の座標や、生存した審神者の容態などについて教えてもらった。
 そして、部屋に入ってから実に一時間ほど経ってから、髭切と膝丸は席を立ったのだった。

 ***

 会議室の扉を二振りがくぐり抜けるのを確認してから、一振りの刀剣男士がそろりと会議室の中に足を踏み入れる。防音機能が与えられた結界内は、一歩歩くのも躊躇うほどに静まりかえっていた。

「おお、坊主。茶を汲むのにいったい何分かかってるんだ? もう客人たちは帰ったぞ」
「会議室の向こう側にまで、凍り付いた空気が流れてきてんのに、茶なんか出せるわけないっつーの。はい、これ」

 憎まれ口を叩きながらも、青年はお盆の上にあった小さな湯呑みを則宗の前に置く。則宗はハタハタと手を団扇代わりにして扇ぎながら、よく冷えた麦茶をぐいと呷った。

「随分と長く話してたみたいだけど、何をそんなに話してたのさ」
「色々と頼み事だ。先日の地蔵行平と新米の職員が消えた件、それに僕の後輩も巻き込まれているらしい件。形はどうあれ、どちらも引き受けてくれた」
「ふーん、よかったじゃん」

 適当な相槌を打ちながら、青年は目の前の男をじっと見つめる。
 一文字則宗の表情は、いつも薄ら浮かべた笑顔や自信満々の態度に隠されて、何を考えているのかはっきりしないことが多い。今も、こうして言葉こそ交わし合っているが、腹の底は読めないままだ。

「俺さ、さっきあの二振りとちょっとだけ会話したんだけど」

 お盆を握る手に僅かに力を込め、青年は少しばかり視線を彷徨わせる。

「何か、話はしているんだけど、あんまり俺のことに興味はないっていうか……話している相手のことを、まるで気にかけてないって感じがした」
「ああ、そうだろうな。その点は噂通りだったさ」

 則宗の脳裏には、風の噂で流れてきた情報が一つ一つ蘇っていく。
 休みを一切とらず、出陣を重ね続ける、異様な刀剣男士。管理する上司の方が、先に音を上げたという話もあったぐらいだ。監査室に所属していた頃、山姥切長義は彼らの話を聞いて、何度も顔を顰めていた。
 刀剣男士として同じ存在ではあるのに、どこか他よりも無機質で、関わりたくないと思わせる冷たさを宿している。食事もとらず、睡眠も不要として、疲労などないかのように働いていると知れば、それを己と同一の存在として受け入れたくないと思うのも、当たり前と言えよう。
 以前、どこかの宴の会場で時間遡行軍の襲撃を受けた際、要人の護衛より遡行軍の討滅を優先したようで、随分と上の連中の反感を買ってしまったようだとも聞いていた。

(本人達にとっては、馬耳東風――なんだろうが)

 だが、だからこそ安心はできた。
 他ならぬ、合理的に物事に対処できる相手だからこそ、利害を理解して行動してくれる。ある意味、感情的な存在よりずっと話を通しやすい。

「あんな連中に、大事なこと頼んでよかったの?」
「ああいう連中だからこそいいんだ。あの二振りは、自分の背中に負うものがないんだろう。失うものがない存在は強い。それもまた、事実ではあるのだろうさ」

 青年は則宗の言いたいことが伝わらなかったのか、不思議そうに首を傾げていた。
 則宗は「うはは」と豪快に笑う。それは、辺りに残る不穏な空気を、無理矢理吹き飛ばそうとするかのような笑いだった。

 ***

「兄者。もう一度訊くが、よもや俺を置いていこうなどとは、考えていないだろうな」

 後ろからかけられた声に、髭切はぴたりと足を止める。ぐるりと振り返った先では、膝丸がぎゅっと眉を寄せ、しかめ面に近い顔で髭切を見つめていた。

「あの者の話では、危険な任務の可能性が高い。生存して戻ってきた人間もいるようだが……だからといって、軽視していい理由にはならぬ」
「弟が僕についてきたとして、僕もお前も帰れなくなったとしたら」

 髭切は、自分でも逃げ腰だと思うような言葉を口にする。だが、今は、敢えてそうする必要があった。

「主は、どうするの?」

 二振りの帰りを待って、小さな部屋に留まり続けている少年。主という役割を与えた少年は、仮初めの主人ではあるが、守らねばならない相手であることも確かだ。

「僕ら二振りとも帰ってこなかったら、主は誰が守るんだい」

 自分たちが無謀な道へと踏み出さないために、向こう見ずにならないために、髭切はあの少年を『用意』した。
 今の自分たちの暮らしを継続させたい。それなら、どちらか片方でも欠けてはいけない。だから、主を理由にした。彼のために、無茶はできないという安全装置を心に据え付けた。
 それを、弟を危難から遠ざける理由に使うのは詭弁かもしれないが――ともあれ、髭切はゆっくりと首を横に振る。

「やっぱり、お前は家に戻った方がいいよ。僕が行けば、それでことは片付くんじゃないかな。則宗だって、悪いようにはしないだろうし」
「兄者」

 髭切と揃いの瞳が、何かを探るようにこちらを見つめている。
 薄緑の前髪で隠され、片目しか露わになっていなくとも、澄んだ琥珀の目は髭切の心を嫌な方向に揺らす。

「……少し、気になっていたのだが」

 ずい、と一歩前に踏み出し、彼は言う。

「則宗は、不穏な噂が一度でも耳に入ったら、と話したとき、俺の方を見ていたな。それに、今朝、俺が長義の様子を聞きに行った際も、人間たちは俺たちを警戒しているようだった」
「ああ、何だか避けられていたよね。則宗も言っていたけど、僕らも昔の部署では派手に色々としていたから、血なまぐさい奴だとでも思われたんじゃない?」
「あれは、俺たちではなく『俺』を見ていたのではないか」

 髭切の表情は笑顔で固定されてしまったかのように、微動だにしない。凍り付いた笑顔のまま、彼の口だけが流暢に動く。

「お前、今の部署に来た頃、あやかしなど恐るるに足らずって、僕の分の仕事もとっちゃってたじゃないか。そういうのが、良く思われなかったんじゃない?」
「……ああ。確かに、兄者の任務も俺が引き受けるようにしていた。結果、兄者に迷惑をかけてしまったようだな」
「そうそう。年が終わるくらいの頃だったかなあ。過労でお前がずっと眠ってしまって、それで――」
「本当に、それだけだったのか?」

 髭切は、間髪入れずに頷く。

「それだけだよ」

 まるで、それ以外の意見は聞き入れないとでも言わんばかりに、深々とした首肯を返す。

「三ヶ月ほどかな、お前はしばらく眠って休んでいた。本当にそれだけさ。それで、主の件だけど」

 話の主導権を自分で握り、髭切はくるりと話題を切り替える。
 余計な言葉を差し挟む余裕など与えるつもりもなさそうで、膝丸は不服そうな気持ちを視線に乗せて睨む。だが、先程の話題は戻ってはこなかった。
 ならば、と膝丸も別方向から言葉を切り返す。

「主のことならば、俺たち二振りが無事に戻ればよいだけの話だ」

 確証はないはずなのに、確たる自信を持って膝丸は告げる。言葉にして宣言したなら、必ず帰られると信じているかのように。

「それとも、兄者は最初から負けると思っているのか」

 煽るような物言いに、髭切の薄い唇が僅かに歪む。
 そんな風に言われたら、黙って引き下がるわけにもいかない。だが、膝丸に良いように誘導されているのが気に食わない。そんな彼の気持ちが、あからさまに滲み出ていた。

「……まさか」
「それに、今回の件も既に生還者の審神者がいる。その者から情報を聞き出せば、解決の糸口も自ずと見つかるだろう」

 殊更に恐れる必要もないと強調して、挑発するような笑みを兄へと向ける。髭切も、やがて観念したかのように、肩を竦めてみせた。

「分かった。弟の言う通りの部分もあるからね。則宗や鬼丸たちは、大袈裟に話しているけれど……大したことではないのかもしれないし」

 怪異に対して、楽観視するのは危険だと髭切も重々承知していた。だが、不必要に怯えれば、意思を持つ怪異ならばその隙につけ込んでくる。
 まして、物語が自らの形の根幹になる〈刀剣男士〉という存在は、己が語る物語も自身に影響を及ぼす可能性も十分にありうる。

「では、例の生存者とやらの元に向かおう。転送装置の利用許可は下りているのだろう?」
「うん。あの監査官の刀剣男士、仕事だけはかなり早いみたいだ」

 何はともあれ、生存者から事情を聞いてから。
 一旦はそのように結論づけ、二振りは次なる目的地へと一歩を踏み出した。
19/31ページ
スキ