本編の話

 髭切が所属する退治課は、元々は人間だけで構成されていた部署だった。
 それが、人手不足の解決のため、刀剣男士にもいくらか仕事を任せようと決めたのが、ほんの一年前。
 結果、成果はそこそこに出ている。
 髭切自身、人間の言う『成果』の一端を担っていると自覚はしていた。
 だが、彼は己が上司と呼ばれる人間の下に仕えているという考えは持っていない。
 あくまで任務を与える者、与えられた任務をこなす者としての立場は弁えているが、言い換えればその程度の関係だ。そこに、上下関係から生まれる信頼や絆は存在しない。
 故に、彼は任務を終えた足で、『人間の上司』に桐箱に入れていた正体不明の呪物を押しつけ、最低限の経緯だけ説明すると、さっさと自身の仕事部屋へと向かった。
 刀剣男士と人間が仕事をする部屋をは、明確に分けられている。この課に刀剣男士を配属すると決めた際に決定されたらしい。
 大方、人間が『物』と共に仕事をするのを拒否したのだろうとは予想していたが、正直髭切にはどうでもよかった。

「ただいま戻ったよー」

 がらがらと引き戸を開き、髭切は中に足を踏み入れる。
 この庁舎の少々変わった点として、元は三階建ての木造校舎だったという特徴がある。
 審神者や刀剣男士、さらには怪異と称される物事の道理が通らない事物を扱っているために、近代的な建物よりは年季の入った建物の方が、何かと具合がいいらしい。
 閑話休題。
 入室した髭切を迎えたのは、二振りの刀剣男士だ。
 一振りは、白金色の髪に、緋色の目を片方だけ眼帯で隠した大柄の青年の姿をした刀剣男士。彼の名は、鬼丸国綱。現代で暮らす人々に倣い、今日もスーツを着ているが、相変わらず似合っているとは言い難かった。
 そしてもう一振りは、鬼丸とはやや趣の異なる、雪のような白い髪を高く一つに結い上げた青年だ。鬼丸とは微妙に色合いが違う紅の瞳は、狐のようにゆるりとつり上がった眼窩におさまっている。
 こちらは、鬼丸に比べると格式からは外れた普段着姿だ。もっとも、刀剣男士は現代に生きる人々から見ると顔かたちが整っているので、ただの半袖のワイシャツさえ、相応に値の張る品に見えるのだから不思議だ。

「おや、おかえりなさい、髭切。膝丸はまだ戻っていませんよ」

 まず声をかけたのは、後者の狐似の刀剣男士――小狐丸だ。

「そうみたいだね。じゃあ、帰りを待とうかな」

 自分の机に荷物を置き、髭切は用意されている椅子に腰掛ける。

「今日はどちらまで? 随分と早い帰りですね」

 かけている眼鏡の位置を片手で整えながら、小狐丸は問う。この眼鏡は、本人曰く仕事の気分を出すためにつけている伊達眼鏡だ。

「ちょっと上司に命じられて、審神者の本丸まで。毎晩起きる怪奇現象を解決してほしいんだって」
「それで、解決はできたのですか?」
「天井裏に、呪いの品っぽいものがあったから、それを持って帰っておしまい。まだ何かあるようなら、また言ってくるんじゃないかな」

 神経質な審神者なら、本当に事態が解決したかどうか確かめるため、一晩泊まり込んでほしいと、頼み込んでくる場合もある。しかし、髭切としては、任務の内容に含まれていない以上のことをするつもりは毛頭なかったために、今回は提案すらしなかった。

「ふむ、妙ですね」

 だが、小狐丸のこの反応は、髭切にとっては少々意外だった。

「妙って、何が?」
「どうして、そこに呪物があったのか、ですよ」
「古い建物に妙なものがある例なんて、いくらでもあるじゃないか」

 髭切自身、床下から出てきた骨壺や、庭に埋まっていた大量の人形といった事例には、何度か出くわしている。いちいち驚くほどのことではないと思っていたが、

「審神者に渡す建物が新築でない場合、そのような呪物が残っていないか、実際に人が住まう前に入念な確認をするはずなのですよ」
「見落としていたんじゃないの?」
「そうだとよいのですが……」
「内通者がいるんじゃないか、と言いたいんだろ」

 割って入った低い声は、この部屋の上座に位置する机で、黙々と仕事している鬼丸からだ。

「内通者?」
「審神者に害を成す物体を、そうと知られぬように隠した。本丸の建物を修復した業者か、はたまた本丸に招かれた客人の誰かか。後で、開発課の奴にも連絡しておく。本丸の監視網に引っかかっているかもしれん」
「そうなると、本丸に入ってきた者たちを全員調査しなければ、この件は解決しないでしょうねえ。髭切殿、あなたの報告書も、今回は自分できちんと書く必要がありそうですよ」
「僕は、弟みたいに沢山文字を書くのは苦手なんだけどなあ」

 不満を零しながらも、髭切は自身の端末を起動する。
 髭切はこのような事務作業が嫌いで、頻繁に弟に代筆を頼んでいた。だが、小狐丸や鬼丸の言いようでは、こればかりは自分で全て考えねばならないだろう。
 仕事の都合上、報告書作成ぐらいはできないわけではないが、楽しいと思える作業でもない。案の定、数行の文字を入力した時点で、髭切の指は止まってしまった。

「そういえば、膝丸殿はどちらに行かれているのか、ご存じですか?」
「今日は、管理課の方でお祓いのお手伝いだって。夕方には終わるって言ってたから、終わったら一緒に帰るよ」
「相変わらず仲がよろしいようで」
「それなら、先にお前に訊いておきたいことがある」

 小狐丸と交わしていた雑談に、不意に鬼丸の声が割って入る。

「鬼切。長義と話をしたいんだが、お前から話を通しておいてくれるか」
「それは、今すぐに?」
「いや、明日でもいい。ただ、明日の朝には頼む」
「うん、いいよ。でも、どうして僕なんだい?」

 尋ねた髭切に対し、今度は鬼丸の方が目を見開く。

「どうしても何も、お前は長義と親しいだろ」
「別に、親しくはないよ」

 髭切にとっては、山姥切長義は単なる腐れ縁の域を出ない刀剣男士だ。知り合いではあるが、率先して共にいたいと思うような相手でもない。
 たしかに、顔見知りではある。けれども、それ以上ではないというのが髭切の意見だった。

「……ここに初めて顔を見せに来たとき、お前はあいつの顔を覚えていたように見えたが」
「古くからの知り合いではあるからね」

 髭切にとって、長義はそれだけの存在だと強固に主張する。鬼丸も特に深入りしようとせず、すんなりと話の矛先を下げた。

「管理課の者に用ですか、鬼丸殿」
「いや、山姥切長義は元々監査官だっただろう。その縁で、少し尋ねたいことがある」

 それだけだ、と鬼丸は会話を打ち切り、肝心の要件については小狐丸に話さなかった。小狐丸も目を眇めて鬼丸を見やるだけで、自分の仕事に戻る。
 暫く、それぞれがキーボードを叩く音だけが響く。しかし、すぐに打鍵音の一つがぴたりと止む。
 案の定、集中力が続かなかった髭切は、手を止めて席を立っていた。その足で、彼は給湯室に向かう。

「髭切殿、ついでに私にもお茶を」

 小狐丸の要望を聞き入れ、髭切は二つ分の湯呑みを棚から取り出す。
 ヤカンに水を注ぎ、見よう見まねでコンロを用いて点火。火力が安定していることを確かめてから、髭切はヤカンを火にかけた。

「そういえば、今日行った先の本丸で、妙な噂話を聞いたんだよね」
「噂話ですか?」
「うん。えーっと、入ったら戻ってこられない百合の景趣――だって」
「おや、それはまた、本来の景趣とは随分かけ離れた噂ですね」

 ヤカンに入れる茶葉を取り出していると、後ろに気配を感じた。振り返れば、小狐丸がぬっと給湯室に顔を覗かせている。彼の上背は髭切を上回るため、髭切は自然と視線を上に向ける形になった。

「そんなに変なのかい?」
「ええ。特定の風景のみを現出する異界を作り出すという意味では、景趣は摩訶不思議な印象が強いのですが、技術者の者が言うには、あのシステムはマヨイガを元にしているそうですよ」
「マヨイガ……って、何?」
「古くから北の国に伝わる……髭切殿? 何をされているのです?」

 髭切は、湯呑みの中に直接茶葉を入れようとしていた。小狐丸は慌てて髭切から茶葉を取り上げ、急須を代わりに用意する。
 何やら雲行きが怪しいからと、残りは自分がやると言わんばかりに、小狐丸はテキパキとお茶の準備を始めた。

「それで、どこまで話しましたかな。ええと……そう、北の国です。北の国には、こんな伝承があるそうです」

 ぴーっとヤカンが笛を鳴らし、小狐丸はコンロの火を止める。その間にも彼の口は動く。

「とある旅人が迷った先に、無人の家に辿り着く。そこで快適な時間を過ごした後、無事に家に帰るが、先日迷い込んだ先の家を再び見つけることはできなかった、という話です。他にも、この幻の家の物品を持って帰ると、幸運が訪れるとも言われているそうですよ」

 あたためた湯呑みにお茶をつぎながら、小狐丸は言葉を続ける。

「つまり、人間にとって友好的な異界です。故に、景趣は一種のマヨイガとして作られていると、私は聞いております」
「そういうものなんだねえ」

 それなら『帰れないマヨイガ』というのは、存在の定義自体がどこか歪んでいるように聞こえた。たとえて言うなら、底の抜けた湯呑みのようなものだろうか。
 本来の機能が、前提から失われている景趣。そんな存在は、確かに大和守が尋ねた通り、退治課が調査すべき怪異の一つかもしれない。

「じゃあ、そのうち僕らが派遣されたりするのかなあ」
「それはない」

 和やかな空気を割る低い声。通りの良い声は、いつも髭切に苦言を呈する上司の声でもあった。淹れてもらったお茶を片手に、仕事机に戻りかけていた髭切は、声の主である鬼丸に思わず視線を向ける。

「どうしてだい?」

 髭切の問いに深い意味はなかった。すすんで調査してみたいとも思わないし、用がないなら自ら首を突っ込もうとも考えない。
 ただ、鬼丸は普段から不確定なことを断定的に先んじて言うような性格はしていない。
 故に、何故、まだ調査の依頼すら来ていない段階で、こんなにはっきりと言葉にするのかと、髭切は疑問に思っていた。
 そして、鬼丸は――答えなかった。
 黙したまま、彼は髭切から、目を逸らした。
 髭切も、それ以上は彼に問うこともなく、淹れてもらったばかりのお茶を自席でゆっくり味わう。
 薄緑の茶は少し濃く、喉の奥に流れていってもなお、髭切の舌に僅かな苦みを残していった。

 ***

 ふんわりと鼻をかすめるのは、醤油を焦がしつけたような香ばしい香り。ふんふんと微かに鼻をひくつかせると、後を追って、じゃーっという油で何かを炒める音が響く。
 自宅に戻ってきた髭切は、共に帰ってきた弟に夕飯作りを任せて、ソファの上でごろりと寝転がっていた。そのままうつらうつらしていたが、夕飯の匂いにつられて、ぱちりと目が開く。くるりと寝返りを打つと、ソファにもたれて座っている主の小さな頭が見えた。

「主、お腹空いたねえ」
「うん」

 こちらを向いて、主は小さく頷き返す。髭切が数ヶ月前、縁あって『主』として任命した子供も、今ではこの生活に慣れたらしい。
 以前に比べたら、隅に座ってじっとしていることは減ったようで、今日も玄関先の辺りで兄弟を出迎えていた。それでも、相変わらず口数は控えめだ。
 髭切も、無理に何か話させようなどとは思っていない。故に、喋りたいときに髭切が勝手に話しかけ、主がそれに答えるようなやり取りが、現状は多かった。

「そういえばねえ、今日、桜を見たんだよ」
「さくら?」

 主は不思議そうに髭切を見つめる。彼の空色の瞳は、桜の上空に広がっていた蒼穹を、髭切に思い出させた。

「桜が、今咲いてる?」
「ええっとね、景趣で作ったものなんだって。幻の桜だから本物じゃないんだけど、薄い桃色で、ふわふわって花びらが散って……とても綺麗だったよ」

 主に伝えようと、髭切は握りしめた拳を主の前に差し出し、ぱっと五指を開く。
 まるで、髭切の手から花びらが湧き出したかのように、主はまじまじと彼の掌を見つめていた。

「弟も、きっと気に入ると思ったんだ。この国では、桜を見ながら宴をする習慣があるんだよね。景趣の桜でもいいから、花見をするのも良さそうだなあ」

 主も賛成してくれているようで、首を小さく縦に振っている。
 目蓋を閉じれば、脳裏に焼き付いて離れない満開の桜が、髭切の視界の裏でちらちらと舞う。その桜を眺めながら、弟と主と一緒に、ちょっとした料理をつまむ。
 おいしいものを食べれば幸せな気分になると、髭切は既に知っている。それなら、見ているだけでも心奪われる光景も合わされば、より多幸感に包まれるのではないか。

「どんな料理を持っていけばいいかなあ。主は、何か良い案はあるかい」
「……おべんとうなら、おにぎり、とか」
「おべんとう、ってなんだい?」
「外で食べる……ごはん。え、と……これくらいの箱のなかに入れて持ってく」

 主は手で小さな箱を示してみせる。どうやら、持ち運び用の容器の中に入れて料理を持っていくことを、お弁当と言うらしい。ふんふんと頷いて、髭切は続いてもう一つ気になった事柄について問う。

「おにぎりっていうのは、鬼を斬るからおにぎりなのかい?」
「えっ」

 突如そんなことを尋ねられ、主は困ったように視線をあちこち彷徨わせる。
 少年の瞳には、分からない質問に対する戸惑いだけではなく、何やら怯懦に近い感情も交ざっていた。
 回答ができないと怒られると思ってか、主は質問に答えられない場合、時折こういう表情を見せる。無論、髭切は答えが誤っていたからといって、叱るつもりはないし、叱った覚えもない。

「……そうかもしれないし、違うかも」
「そっかあ。ねえ、弟はおにぎりって知ってる?」
「兄者、また突然何を言い出しているのだ」

 カウンター越しに、薄緑の髪をした青年の顔がひょいと現れる。端正な面差しは兄のそれとそっくりだったが、きりっとつり上がった眉や目元に、兄との僅かな差が見受けられた。

「お花見なら、お弁当におにぎりを入れたらどうかって、主が言ってるんだ」
「この時期に花見の対象になるような花は、咲いていないぞ」
「勿論そうなんだけど、景趣を使えば花見もできるじゃないか。桜の花、お前も好きだろう?」
「景趣というのは、異界を作る機能のことだろう? ……俺は、あまり好かぬな」

 キッチンから姿を見せた膝丸は、その両手に今日の夕飯が載った大皿を抱えていた。
 今日は鶏肉を焼いたようで、電灯の光を受けて艶々と輝く表面の上には、ぱらりと刻んだねぎがかけられている。こういう料理を照り焼きというのだったかと、髭切は以前膝丸が語った蘊蓄を思い返す。

「ひざまる、桜、嫌い?」

 ソファの側から膝丸の足元にやってきた主は、首をぐいと上に向け、膝丸へと話しかける。

「嫌い……というよりは、異界にある桜は不気味に思わざるを得ない。忘れたのか。君も先日、酷い目に遭ったところではないか」

 膝丸が話しているのは、先月起きた、とある落ちぶれた神が引き起こした神隠しの事件についてだった。ある種の異界に閉じ込められた膝丸と主は、異形へと変じた神に追い回され、帰還した後も暫く休暇を必要としていた。
 その異界の中には、一際見事な桜の大木が植わっていた。
 桜に罪はないが、事件当時の光景が瞳に焼き付いているために、膝丸は異界の桜という存在そのものに対して、嫌な気持ちになってしまうらしい。

「……そういえば、そうだった」
「神隠しを『そういえば』で片付けられるとは、君は随分と肝が太いのだな」
「ひざまるが、たすけてくれたから」

 寧ろ、主としては恐いこともあったが、膝丸に助けられた方に思い出の比重があるらしい。そのため、彼は桜に対しても特段悪い思い出は持っていないと、首をふるふると横に振っている。

「弟が嫌いなら、桜じゃなくてもいいけどね。花ならいくらでもあるだろう?」
「兄者は、何か食べる口実を見つけたいだけなのではないか?」
「それも嘘じゃないけどね。でも、僕が綺麗だなって思ったものを、お前や主と一緒に見たいとも考えてはいるよ」

 本当だよ、と言い張る髭切を、膝丸は疑い半分の目でじっと見つめる。一方、主は今度は髭切の元に駆け寄り、何度か言葉に迷う素振りを見せてから、

「ひげきりが、きれいって思うもの?」
「因みに、それはどんなものになるのだ」

 口を動かしながら、膝丸はてきぱきと夕餉の準備を進める。
 彼にとって、あくまでこの会話は、食卓の準備が整うまでの暇つぶしに過ぎないのだろう。

「さっき言ったみたいに、桜が咲いている景色とか、この前見た山の緑とか……うーん、後は何だろう。弟はどうなんだい?」
「さてな。兄者の言うように、桜も美しいとは感じるようだ。後は……」

 ちらりと、膝丸は主を見やる。曇りない青空を思わせる少年の瞳と、一瞬ぱちりと目線を交差させてから、

「空も良いな。特に、晴れ渡った空は尚のこと」
「じゃあ、晴れた日に花を見ながらお花見だね。何だかよく分からないけど、えーっと……おにぎりっていうものも持っていこうよ」
「結局そこに行き着くのか。あと、おにぎりは米を握った糧食だ。携帯に適した形まで握り固めているから、おにぎりと名付けられているのだろう」

 最初の質問にも律儀に答えてから、膝丸は「支度ができたぞ」と髭切を呼ぶ。
 鶏肉を照り焼きにした料理に、茄子を味噌と一緒に軽く和えたもの、新鮮な野菜を使ったサラダに白米が整然と並ぶ。空腹を刺激する香りに、髭切はぱぁっと顔を輝かせた。
 戦い以外の生活にも気を遣うようになってから、兄弟は自分たちが食べる料理も、できる限り美味しいと思う品を用意するように注力していた。
 結果、膝丸が料理の道に目覚め、こうして時間があるときは自ら作ってくれている。髭切としても、弟が手ずから用意してくれる料理が好きで、帰宅後の楽しみの一つに数えているほどだ。

「そういえば、弟。百合の景趣の話って知ってる?」

 食前の挨拶を済ませてから、食べ始めて数分後。
 ご飯をもぐもぐと咀嚼しつつ、髭切は今日聞いたばかりの噂について尋ねる。膝丸はゆっくりと首を横に振り、彼の真似をするかのように主も首を横に振っていた。

「政府が用意した、新たな景趣か?」
「ううん。審神者の間で噂になっている『呪われた景趣』だって。入ったら出られないって話だから、如何にもだよねえ」
「景趣自体が一種の異界だからな。不具合で出られなくなることが、そういう風に噂になってもおかしくはあるまい」
「噂って、変に尾鰭がつくと厄介なことになるからね」

 皿から飴色に輝く鶏の照り焼きを摘まみ上げ、髭切は口に含む。膝丸が、兄のためにと調整してくれた味をじっくり味わいたいところだが、自分が口火を切った話題のせいで、今はそんな気分にもなれない。

「でられないばしょ?」
「主が隠された場所も、そういう所だったんだっけ」
「うん。出口がなかった」
「でも、そういうのって、神様が作るものだよね。今回の話とは少し違うかも。僕も任務であちこち行かせられているけど、異界にはまだあまり縁がないなあ。弟は?」

 茶碗に差し込まれようとしていた膝丸の箸が、そこでぴたりと止まる。思い出すためか、暫し瞑目してから、彼は口を開いた。

「俺もそのような場所は……いや、あれは、どこかの山だったか? 確か奥に分け入って、それから、何か……」

 ふ、と膝丸の声がどこか虚ろなものになる。まるで、どこか遠くを見つめているかのように、いつの間に髭切ではなく宙空の一点に視線を定め、彼は淡々と言葉を紡ぐ。

「縄を跨いだ先には、藪があった。更に奥には川があって、それを辿ると、その先に」

 ――その先に。
 さながら、今そこに立っているかのように、膝丸は過去の己が歩いた道について、話を続けようとしたが、

「ま、まあ、とにかくっ」

 膝丸の言葉を断ち切るかのように、不自然に大きな髭切の声が割って入る。
 髭切にしては珍しい声の張り方に、膝丸も我に返ったようで、驚いた顔で兄を見ていた。

「今回は、あくまで政府が用意した景趣の問題みたいだから……多分、何か異常があったとしてもすぐ解決するよ」
「……そうだな。どのみち、俺たちは下された任務をこなしていくのみだ」
「うんうん。あ、弟。ご飯のおかわり、今日はしてもいいかい?」
「構わぬが、後でもう一度炊くのを忘れぬようにな。朝に食べる飯がなくなってしまう」
「はいはい。弟は、お代わり要る?」

 結局膝丸の茶碗も預かって、髭切はいそいそと席を立つ。二振りには小食と知られている主は、自分用の小さい茶碗を片手に髭切を見送っていた。
 彼の姿がキッチンへと消えたのを確かめてから、主はそろりと膝丸の様子を窺う。不躾にじっと見つめられ、膝丸も流石に彼の視線に気が付いたようだった。

「何か俺の顔についているか、主」
「……ううん」

 ふるふると首を横に振ってから、主は鶏の照り焼きに興味があるかのように、視線を皿へと落とした。
 だが、彼はしっかりと覚えていた。
 何やら山の話を始めたとき、膝丸の瞳がいつもとは違う気配を漂わせていたことを。

(気のせい、だと思う)

 たまたま光の加減か何かで、そう見えただけなのだろうと、主は己に言い聞かせる。
 髭切が、ご飯を山のように盛り付けて席についた頃には、主も先程の件はすっかり忘れており、食卓にはいつもの団欒が戻ってきていた。
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