本編の話

 肌を通り抜けていく、程よい温度の風に目を細める。同様に風に靡く銀の髪を片手で抑え、彼――山姥切長義は目の前に続く光景を眺めていた。
 彼の眼前に広がる景色は、この世のものとも思えぬ絶景だ。
 足元から四方一帯に敷き詰められている、一面の白。風が吹き抜けるたびに、独特の紋様を一様に描いて揺れるそれは全て、白い花だった。

「景趣システムの試作とは聞いていたが、これはちょっとやりすぎではないかな?」

 膝から下が見えなくなるほど、びっしりと周囲を埋める白い花の正体は、百合の花だ。それら見つめて、長義は思わず苦笑を零した。
 ――景趣システム。
 それは、本丸内の庭に人工的な異界を現出させ、四季折々の風景を楽しむために用意された機能のことを指す。
 元々は、地域や地方によって四季の偏りが極端であったり、庭の手入れを苦手としたりする本丸向けに準備されたものらしい。
 システムを起動させれば、風光明媚な庭をすぐに手軽に楽しめるというのだから、重宝する者が続出するのも当然と言えよう。
 現在は、桜や紅葉といった木々を主流とした風景を用意しているが、これからは四季の花々を愛でる庭も造りたい。そんな技術者の要望から、今は花をデザインの中心に据えた庭を随時開発中と聞いていた。
 そして長義は今、この新作の景趣の試験運用に立ち会っている真っ最中だった。

「こちらの声は聞こえているんだろう? 百合の本数、もう少し減らした方が綺麗ではないかな。それに、色も白一色じゃちょっと物足りないね」

 耳につけているイヤホンマイクに片手を添え、通信の向こうにいる者へと呼びかける。

『多いのは良いことだと思ったのだが、違うのだろうか?』
「どうやら君は、美的な感覚が破綻しているらしい。わびさびの善し悪しについて、歌仙兼定にでも教えてもらったらどうかな」
『参考にしておくよ。歌仙兼定、だね』

 嫌味のつもりで放った言葉だったが、大真面目に受け止められてしまったようだ。
 まるで、いつもちらちらと視界に入ってくるあの兄弟達のようだ――とまで考えてから、長義はぶんぶんとかぶりを振る。

(本人たちがいないときまで、わざわざ考える必要はないだろう。ただでさえ、散々振り回されているんだからね)

 脳裏によぎった、とある刀剣男士二振りの顔を振り払い、長義は改めて周りを見渡す。
 百合の花が漂わせる、噎せ返るような甘い香りに、長義は鼻を軽く片手で押さえる。本数が多すぎるためか、甘ったるい香水を鼻面に吹き付けられたような心地すらしていた。
 空にはいくつか星が光っているが、本格的な日の出にはまだ遠い。さしずめ、午前四時か五時の頃合いだろうか。もっとも、これは景趣の外の時間帯を反映しているわけではない。時間帯の設定もシステムが定めているので、あくまで見た目だけの張りぼてだと聞いていた。
 元々は黄昏時に設定されていたのだが、白い百合を夕日に染め上げると、さながら炎が燃え盛っているようであり縁起が悪いからと、長義が変更させたのだ。

『刀剣男士としての意見は、大変参考になったよ。ところで、人間である彼女の意見も聞きたいんだが、近くにいないのかい?』
「ああ、それなら……」

 ぐるりと首を巡らせると、探している人物はすぐに見つかった。
 日が差し込む寸前の薄い闇の中、薄紫と夜の紺が溶け合う世界に、くっきりと映える朱。その色は、彼女が身につけている緋袴の色でもあった。
 真っ白の上衣と銀色に光る髪のせいで、ともすれば百合の花々に埋もれそうでもあるが、この赤があるおかげで彼女を見つけ出すこと自体は簡単だ。

「志乃、そちらはどうかな」

 長義に呼びかけられ、彼女はくるりと振り返る。
 年の頃はまだ十代半ばの年若い娘だ。長義と揃いの銀の髪は高く結われ、その結び目から垂れる和紙でできた髪飾り――熨斗(のし)で隠されている。
 瞳の片方は海のように蒼く、もう片方は夜のような漆黒を宿している。両眼の色が違う双眸をぱちくりとさせている少女の姿は、年相応のあどけなさを残していた。
 彼女の名は志乃。長義と同じ部署に所属する、人間の職員の一人だ。

「あ、ええと……どう、というのは?」
「忘れてしまったのかな。今日、俺たちは試作の景趣を体験して、その所感を技術者に伝えるためにここに来ているんだよ。俺は、刀剣男士の代表として。君は、人間の代表として」

 先だって、その技術者に向かって話しかけた語調よりはいくらか柔らかく、長義は少女へと声をかける。

「ああ、そうだった! ここを、こうして……あ、はい。聞こえてます。ええと、百合の花はすごく綺麗なんですけれど、やっぱり色が少なくて物足りない気がします。それに――」

 通信が繋がったのだろう。眼前の風景について思うところを、志乃と呼ばれた娘は緊張の混じった声音で伝え始める。
 彼女の様子を横目に眺めながら、こんな任務なら悪くないかと山姥切長義は肩の力を抜き、朝ぼらけの空を見上げていた。ちかちかと瞬く明けの明星は、作り物の天蓋と分かっていても美しい。
 日が昇り始める一瞬を留め置いたような空から、今度は地上の花園へと視線を戻す。
 まさにこの世のものとも思えぬ景色の中に、一人立っている少女の姿は、特段に優れた容貌を持っていなくても、花々たちが存分にその魅力を引き立てていた。もっとも、当の本人はそんなことは考えてもいないのだろうが。

「それと、泉がありますよね。あれは、すっごく綺麗なので、私は残しておいてほしいです。百合の花の香りもちょっと濃かったので……でも嫌いではなかったので、あとは種類や本数を整えていくと、もっともっと良くなると思います」

 志乃と呼ばれた少女は、任された仕事に対して十全に応えようと、必死に己の五感が受けた感覚を言葉にしている真っ最中だった。
 長義の所属する部署――霊地管理課に所属する巫女である彼女の仕事は、本来このようなものではない。
 常ならば、彼女は全国各地の霊地に赴き、その土地を貸してくれと頼む人間と、依頼を受ける側である〈人ならざるもの〉との間で、橋渡しをするのが仕事だ。
 何故、そんな仕事をしているのか。
 それは、霊地を必要としている人間が現在多数要るからだ。
 刀剣男士――刀の付喪神である彼らを率いて、歴史を変えようとする不埒者と戦う者。審神者と呼称される彼らが暮らす場所は、それに相応しいだけの物理的な広さだけでなく、霊的な守りも求められる。
 そんな場所を用立てるのは、彼らの補助を行う〈時の政府〉の役割だ。
 長義も志乃と呼ばれる少女も、政府の職員の一人であり、彼らの所属する課は、土地に纏わる霊的なことに関する雑事を一手に引き受けていた。
 景趣に関する調査も、広い視野で見れば〈土地〉がらみの話といえる。故に、こうして試験運用に付き合っているのだが、結果として長義は今の状況を、それなりに楽しんでいた。

(志乃も、喜んでいるようだからね。あちこち休む暇も無く出張するよりは、政府庁舎の片隅で、技術者の試験を手伝うぐらい、お安いご用だ)

 言葉にしつつも、長義は目を細めて志乃という名の少女を見守っていた。その視線は、単なる同僚に向けるにしては、些か優しすぎるものでもある。
 山姥切長義にとって、あの巫女装束姿の少女とは決して浅くない縁がある。
 たとえて言うなら、家族のような、友人のような、或いは――兄妹のような。
 諸事情があって、物心つくかつかないかの頃合いに、長義は彼女の面倒を見ていた。その役割自体は、志乃の成長と共に終わるはずだった。
 だが、今もこうして、刀剣男士にとって出世街道と言われる監査官の職を蹴って、出世とは程遠い霊地管理課に長義は所属している。それもこれも、ひとえにあの年端もいかぬ子供が、そこで働いていると知ったからだ。

「あの連中が聞いたら、それこそ理解できないという顔をされそうだ」

 刀として、戦うこと以外は意味のないことだと言い張っていた、とある兄弟の刀剣男士を思い出して、長義は苦笑いする。それでも、彼は己の考えを変えるつもりは、毛頭なかった。

「ねえ、長義! こっち来て、すっごく綺麗な泉があるの!!」

 こちらに向けてぱたぱたと手を振る志乃へ、長義も軽く手を上げて応じる。近寄ると、彼女が百合に囲まれた小さな泉の側に立っていると分かった。先程話していた泉とは、このことなのだろう。
 ひょいとその場に屈んだ彼女は、さざなみ一つ立てていない水面に手を翳し、感慨深そうに言う。

「長義の目と同じ色をしていて、とっても綺麗だったから、これは残しておきたいって頼んだの。長義は、この百合の景趣、どう?」

 仕事の最中だというのに、彼女は長義に砕けた口調で話しかけている。公私混同だよ、と窘めつつも、長義はぐるりと辺りを見渡した。

「悪くはないね。ただ、一面の百合畑というのも芸が無いから、木が生えていてもいいんじゃないかな。この空なら、奥まった森の霊地――という趣向もどうだろう」
『それはいいね。採用させてもらっても構わないかな』
「ご自由に。いいだろう、志乃」

 丁度、泉に手を浸していた志乃は、ひょいと顔を上げてにっこりと頷き返す。
 だが、不意に、その顔が曇った。

「……志乃?」
「あれ、今、誰かが握り返してきたような」
「握り返す? 何が?」
「えっと、私の手を」

 長義の方に半身を捻りつつ、そこまで志乃が言いかけたときだった。
 ずるり、と彼女の上体が、泉へと傾ぐ。
 否、彼女が泉の中へと引きずり込まれていく――!

「志乃!!」

 何かまずいことが起きていると、反射的に長義は少女の体を掴もうとした。
 だが、彼が動くより早く、彼女の姿は微かな水音を立てて泉に落ち、そのまま水鏡の向こう側へと消えていった。
 まるで、泉の中に眠る『何か』が、志乃の手を掴み、一気に引き込んだかのように。

「志乃!? どこへ行ったんだ、志乃!!」

 何度呼びかけても、返事はない。躊躇わずに泉へと手を突っ込んでも、そこにあるのは地面の冷たい感触だけ。そのまま泉の中に足を踏み入れても、彼の膝にすら到底届かない水位であり、到底人間一人が沈めるような深さはない。案の定、水中に少女の姿は見つけられなかった。

「聞こえるか、今すぐ景趣を停止しろ! 志乃が――同行していた人間が、俺の目の前から」

 続く言葉を口にすることを、己の本能が忌避していた。言ってしまったら、本当に目の前に起きている事象が事実だと、確定されてしまうような気がした。
 だが、言わねば通信の向こうにいる人間へ事情を説明できない。
 一呼吸置いてから、彼は告げる。

「俺の目の前から……消えた。至急、捜索を開始してくれ」

 長義の言葉が聞こえたのか、百合の花が延々と咲き乱れる光景は陽炎のように消え失せ、代わりに無機質なだだっ広いガラス張りの空間に長義は立っていた。
 試験が始まる前、この空間に景趣を出現させると聞いていたので、認識自体に相違はない。だが、どれだけ辺りを見渡しても、泉の中に消えた少女の姿はなかった。
 動揺が頭を占めるより早く、長義は部屋の自動ドアを押し開けるように通り抜け、景趣の調整に付き合っていた刀剣男士――南海太郎朝尊の元へと大股で向かう。
 片手で数えられるほどの歩数で、彼の元に辿り着いた長義は、

「志乃は、見つかったのか」

 しかし、無言で朝尊は首を横に振る。

「通信が切れてしまっている。こちらがどれだけ呼びかけても、応答はない。生命反応もこちらで常に把握していたんだが、突然ぱったりと途絶えてしまったね。つまり、文字通り」
「消えた、と言いたいのか」
「そうとしか考えられない。長義くん、最後に彼女を見たのは君だろう。先程の通信までの間に何があったか、そのときの状況を聞いてもいいだろうか」

 朝尊に近くの椅子に座るように促されても、長義は腰を落ち着けて話す気など到底なれなかった。ともすれば、今すぐ走り出して、どこかへと消えた少女の行方を探りたい衝動にかき立てられていると、彼自身が自覚していた。
 たとえ、政府にとっては大した存在ではなかったとしても、長義にとって彼女は浅からぬ縁のある者だ。
 たとえて言うなら、家族のような、友人のような。
 或いは――兄妹のような。

「……何やら色々と思う所はあるようだけど、こういうときこそ、冷静になるべきだ」

 朝尊の言葉が、がたがたに崩れた思考回路をゆっくりと整えてくれる。深呼吸を数度してから、先程の光景を説明しようとした。
 そのとき、

「だから、百合の景趣については、もっと慎重になった方がいいと言ったんだ」
「だが、あれはあくまで噂だろう。審神者たちが、バグで漏れた景趣をたまたま目にして、勝手に話しているだけなんだから、慎重になる方が馬鹿らしいさ」

 調査を進めている技術者たちの会話を小耳に挟み、長義はつかつかと靴音を立ててそちらに向かう。

「今、何と言ったのかな」

 胸ぐらを掴んで揺さぶりたい衝動を必死に抑えながら、長義は暴れ狂う感情を鎮めつつ、問う。
 彼らに八つ当たりしても仕方ないとは分かっていたが、彼の中の理性は未だ危うい所を行きつ戻りつしていた。

「いやね、ここで開発していた試作段階の百合の景趣が、システムのネットワーク経由で外部に漏れてしまったみたいなんだ。それをたまたま景趣を操作して見つけてしまった審神者が、色々と面白おかしく噂し合っているんです」
「見かけたら運がいいとかもあったけど、やっぱりこういうのは、如何にもな感じがあるもんだからね。入ったら二度と帰っては来られない景趣だとか何とか……俗に言う都市伝説ってやつだよ。無論、我々の作った景趣は、そんな怪談めいたものじゃないんだけども」

 そのことは、長義自身も承知している。景趣のシステムについては、監査官をしていた頃に何度か実物も目にしていた。
 審神者の本丸に張られた結界や、万屋への転移と同じように、術式としての整えられた技術の結晶だとは彼も重々理解している。
 だが、それなら何故、彼女は目の前から消えたのか。
 合理的なはずのシステムに、突如割り込んだ道理の通らぬ現象。
 しかし、今はその事態の解明よりも、一刻も早く志乃の行方を掴みたいという気持ちが先走る。

「バグだろうが何だろうが、どうでもいい。……すぐに、彼女を見つけてくれ」

 何かの手違いで、近くの部屋に転移されていたということであってほしい。長義は縋るように、心の中で祈りを捧げていた。
 だが、結局、景趣の開発者たち総出の捜索にも拘わらず、何時間経っても長義のもとに吉報は訪れなかった。

 ***

「――ああ、そこに隠れているみたいだね」

 ぴたりと足を止め、ふわりとした金髪を持つ青年――髭切という名の刀剣男士は、眼前の襖を勢いよく開く。
 一見すると、そこには布団や段ボール箱がぎゅう詰めになっているだけの、一般的な押し入れだった。
 けれども、髭切が敷居をまたいだ瞬間、埃っぽい空気が確かにざわめく。

「上か」

 首を上に向け、押し入れの上部の収納空間に足をかけた瞬間、視界が何やら白いものに覆われる。
 慌てず、彼は片手に握っていた得物であり本体でもある刀の柄を、ごつんと天井にぶつけた。すると、ずるずると白いものが消え――否、それらは天井に引きずり込まれていく。
 距離を置いたことで分かったが、それは押し入れの天井から生えている、無数の白い腕だった。さながら、獲物を巣に招き入れるかのような動きは、ただ見ているだけでも背筋に寒気を覚えさせる。

「ここの天井、板が外れそうだね。ねえ、君、これって外してもいいかい? このまま上の様子を確認したいんだけど」

 こんこん、と髭切は押し入れの天井を、再び得物の柄で小突く。

「あーもう、一思いにやっちゃって! というかさっきの何!? すっごい気持ち悪い奴がいたよね!?」

 同席している者は、大袈裟なぐらい怯えた声を出している。彼の名は、確か大和守安定だったか。
 近侍として紹介されていたが、この落ち着きのなさから察するに、顕現したのは最近なのだろう。本人も警戒のために帯刀はしていたが、ふわふわとした黒いポニーテールの髪をぶんぶんと揺らすことの方が、今は忙しいらしい。
 ともあれ、同席者を無視して、髭切は押し入れにつまっていた布団や荷物の幾らかを、景気よく外に追い出していく。そうしないと、自分が天井裏に上がれないからだ。
 髭切一振り分ならどうにか入れる空間を作ってから、天井板を刀の持ち手で勢いよく突き上げる。外れた板もぽいっと外に置き、彼はよいしょと天井裏に体を引き上げた。
 そうして屋根と居住空間の隙間に潜り込んだ髭切は、想像以上に広い空間に少しばかり驚きを見せる。

「さて、さっき見えた手の原因は、どこにあるかな」

 蜘蛛の巣だらけの天井裏をぐるりと見渡し、そして髭切は見つける。
 ぞんざいに投げ込まれた、新聞紙で丸められた何か。古びて茶色く日焼けしている紙の上には、いかにも何かあると示すかのように、札が数枚貼り付けられている。
 だが、札といえど所詮は紙。経年劣化に耐えられなかったのか、数枚は剥がれ落ちていた。

(更に剥がしてこの場で退治するっていうのは、流石に怒られるよねえ)

 ここ最近は、上司の鬼丸に何度も「余計なものは斬るな」と注意されている。
 その理由も分からないでもないが、大抵の怪しい存在は斬れば解決するのも事実だ。故に、髭切としては、さっさと斬って後顧の憂いを断った方がよいのではないかと思う場面も多い。

「ねえ、外にいる君。ここに呪物みたいなものがあったんだけど、この場で中身を出すのと、封じ直して持ち帰るのと、どっちがいい?」

 念のために尋ねると、げーっという声が下から聞こえてきた。つくづくあの刀剣男士は行動が大袈裟だ。

「あのさ、政府から来た刀剣男士なんだから、ばっさり退治とかできないの?」
「とりあえず、封印を解いて斬ってみることならできるよ」

 もっとも、封印を解いたら何が出てくるかは知らないけれど、と髭切は内心で付け足す。

「えーっと……主に聞いてくる。ねえ、主ー!!」

 どたどたという足音を聞き流しながら、髭切は天井裏から押し入れを経由して、部屋へと足をつける。行きとは異なり、今はあの怪しい呪物も小脇に抱えている。
 程なくして、再度落ち着きのない足音が響いてきた。勢い余って部屋を通り過ぎそうになっていたが、急制動をかけて戻ってきた大和守は、

「それ、封印して、できれば持って帰ってほしいって」

 そう言われてしまったら、髭切もこの場で退治しようとは言えない。

「じゃあ、封印し直して持ち帰るよ。中から何が出てきたかについては、後でそちらにも連絡するね」
「それ、あまり聞きたくない情報だなあ」

 不平を漏らす大和守を無視して、髭切は押し入れの前に放置していた鞄から札を取り出す。ここに来る直前に持たされていたもので、大抵の良くないものなら封じられるはずだと、太鼓判が押されている一品だ。
 次いで、彼は鞄の側に転がしてあった桐箱の中に、呪物をぽいと放り込む。あまりにぞんざいな扱いに、同席していた大和守の方が面食らっていたぐらいだ。
 蓋を閉め、もう一枚札を貼り付け、ついでに注連縄に似た作りの紐でもう一度縛っておく。
 正体不明の品に対しては、どれだけやってもやりすぎることはない。それが彼の所属する課――神秘怪異調査対策部退治課の方針だ。
 
「これで、多分大丈夫だよ。審神者にも、そう伝えておいてくれる?」
「任せて。おーい、主ー」

 再び、どたどたと足音をたてて立ち去る彼を見送ってから、髭切はふぅ、と息を吐き出した。
 髭切は刀剣男士の身ではあるが、審神者によって顕現されたものではない。彼は審神者を補佐している――或いは、審神者を管理している〈時の政府〉に使役される身である。
 とはいえ、本人はその境遇に不満など抱いてはいなかった。そもそも、近頃までは、不満を感じる『心』を意識していなかったからだ。彼にとっては、片割れでもあり弟でもある対の刀剣男士だけが、唯一感情を揺さぶる存在であり、それ以外は『どうでもいい』の一言で片付けられた。
 鋼として戦い、戦い、いつか折れる日まで戦い続けること。
 それが髭切にとって己を構成する全てだ。いや、全てだった。
 だが、とある事件を経て、髭切も少しばかりは外界に対して興味を持つようになった。その結果、今までの暮らしが刀剣男士としては歪んでいる部分もあったと、彼も見つめ直してはいた。
 歪みの最たるものとして、主の不在があげられる。政府権限の顕現で生じた刀剣男士には、仕えるべき審神者の主はいない。あの大和守のように、髭切は審神者へ刀を捧げる機会に恵まれなかった。

「でも、僕にも主はいるからね」

 刀を捧げる主がいなければ、いつか自分たちは良くない終わり方を迎えるだろう。
 捨て身になって行動できるということは、裏を返せば、引き際を知らないと言い換えられるからだ。
 自分はそれでもいいが、弟をそんな終わらせ方で失いたくない。故に、髭切は考えた。
 自分には、守るべき主がいる。ただこれだけの認識を心の中核に据え置けば、刀剣男士である自分たちは、無茶な行動に出ずに済むのではないか。
 思案の末、髭切は自分にとって最も都合の良い存在を、主として据えることにした。成り行き上とはいえ、それが年端もいかぬ子供であったのも、結果的に良かったかもしれない。守る者がか弱ければか弱いほど、自分たちは慎重に行動するし、ひいてはそれは己を守ることにも繋がるのだから。

「あ、よかった。まだいた。あのさ、主から伝言。時間があるなら、お菓子でもどうかって」

 戻ってきた大和守は、呪物を片手に抱えている相手に対して、暢気にもお茶を勧めてきた。新人とはいえ、妙な所が図太い刀剣男士らしい。
 だが、髭切はゆっくりと首を横に振る。大和守と同じ刀剣男士の身ではあるが、髭切は政府の刀剣男士であり、用が済んだなら、さっさと帰ってこいと言われている。
 どれだけ自分の主を勝手に擁立しようと、結局髭切の使い手は政府という組織だ。彼らの命令に応じるのが、今の髭切の役割である現実に変わりは無い。
 本丸のような大きな建物も与えられず、現代を生きる人々が暮らすような小さな部屋で過ごすことになったとしても、任務の都合上不規則な生活を強いられようと、それも命令である以上は従わねばならない。
 とはいえ、髭切自身はその程度の現状には、特に不満とも感じていなかった。
 だからこうして、どこの誰とも知らぬ審神者の本丸に派遣され、本丸内で起きる怪現象の調査をしろと命じられても、またかと思っただけだ。

「じゃあ、適当に包んできたやつ、あげるよ。あー、これで夜な夜な金縛りに遭ったり、誰かがのしかかってくる感覚に怯えたりしなくていいって思うと、ほっとする」
「そんなことになっていたのかい?」
「そんなことどころじゃないよ! 主なんか寝られなくて、目の下にこんなクマができちゃって」

 身振り手振りで恐ろしさを表現しようとしているらしいが、生憎本人がそこまで恐怖を感じさせる姿をしていないためか、ちっとも怖いとは感じられなかった。もっとも、髭切は『怖い』と怪異に対して思ったことは、殆どない。
 安堵した反動か、興奮して舌ばかり動かす大和守に、適当な所で「もう帰らないといけないから」と会話を一刀両断し、髭切は玄関へと向かう。
 肩には鞄、片手には呪物、もう片方の手には大和守が持ってきてくれたお菓子の入った袋がある。まさに、様々な意味において大漁と言っていいだろう。
 案内されたときとは逆の順序で、髭切はすたすたと廊下を行く。右へ左へと角を曲がり、縁側を通り抜けようとして、

「――おや」

 視界の端を、ひらりと薄紅色の花が舞う。
 ふと花びらが舞い降りてきた方を見やり、彼は息を呑んだ。
 思わず声をなくすほどの、満開の桜。白に近い薄い紅色は、さながら花嫁のヴェールのようだと、詩人なら表現しただろう。
 だが、髭切にはこの絶景を言葉で表すための字句を持ち合わせていなかった。故に、彼はただただ呼吸を止め、眼前に広がる美しい桜を瞳に焼き付ける。
 終わりなく舞い散る花びらは雪に似ているが、風に弄ばれてくるりくるりと踊る姿は、あたかも舞をひとさし舞っているかのよう。
 庭の端にあるのは枝垂れ桜のだろうか、大きな花房を幾重にも垂れ下げている。樹の下に立てば、恐らく四方を桜の花々に囲まれることになろう。

「……綺麗だね」

 嘗てなら、素通りしていた景色。
 だが、今なら美しいと感じられる光景。
 あたかも夢の世界のようで、どこか現実味の薄いそれを、髭切は飽きることなく眺め続けていた。

「主、景趣をまた変えたみたいなんだ」
「景趣?」
「うん。政府が用意してくれた、庭の風景を切り替える装置みたいなものなんだって。本当にそこに桜があるわけじゃないけど、そこにあるように見せてるんだ。桜はもう散っちゃう季節だけど、これならいくらでも見ていられるから」

 大和守の言う通り、既に暦は六月を迎えており、桜はとうに葉桜になっている。それなのにこうして見事な桜吹雪が見物できるのは、これが幻であるが故だろう。

「こうしておくと、一年中春みたいなんだよね。主は、この風景みたいに、ずっと穏やかに暮らしたいなんて言ってたっけ」
「それは、僕は同意しかねるなあ。戦いがない日々なんて、人でいうなら死んでいるも同然だよ」

 刀は振るわれてこそ、刀であるというのが髭切の持論だ。
 桜を眺めてのんびりとした時を過ごすのも悪くはないが、そればかりでは彼の存在する意味が無くなってしまう。

「僕も半分は同感だね。あ、そうだ。髭切さんって、政府の刀なんだよね?」
「そうだよ。それがどうかしたの?」
「じゃあ、百合の景趣の噂って知ってる?」

 好奇心旺盛な子犬のように、蒼穹と同じ色合いの瞳をきらきらと輝かせ、大和守は問う。

「景趣を、ある決まった順番に切り替えていくと、まだ装置に備わっていない未知の景趣が現れるんだって。審神者たちの間で、ちょっとした噂になっているんだよね」
「そうなのかい? でも僕らはその手の技術的なことは、全く分からないからなあ」

 髭切の所属する神秘怪異調査対策部には、いくつかの課が存在する。
 しばしば仕事の協力を求められる霊地管理課の他に、開発課というものもあり、審神者が用いる装置はこちらの管轄になっている。故に、髭切はシステムに関することは完全に門外漢だった。
 そのことを伝えるつもりで、髭切は首を横に振ったのだが、大和守は「そうじゃなくて」と言葉を続ける。

「その百合の景趣って、入ったら出られない呪われた景趣って言われているんだよね。こういうのって、君の仕事じゃないの?」

 髭切は僅かに瞠目したが、すぐに薄く笑みを浮かべ、

「さあ、どうだろうね」

 曖昧な言葉で、大和守の問いかけをはぐらかしたのだった。
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