本編の話

「調べれば調べるほど、嘘か真か、曖昧になっていくような気がするな。無論、兄者が嘘をついているなどと俺は思っていないぞ」
「だけど、話と実情が食い違っているのも事実だよねえ」

髭切と膝丸は、資料室を出てからその足で仕事部屋にやってきた。
まだ六時半であるというのに、鬼丸の机には湯気を漂わせた茶が置かれている。どうやら、既に来ていて今は席を立っているらしい。
髭切と膝丸も自身の椅子に腰を下ろし、早速日向から得た情報や膝丸から見た鏡の様子について話をしていた。

「物語はあるのに、物はない。だけど、現象は起きている。火がないのに煙が上がっているみたいだね」
「隠されているわけでもなさそうだな。場所が異なる、器物が異なる例も考えてみたが、それなら、そもそも何も起きていないはずだ。兄者の言うように、物語だけが先走って残り続けているように感じられる」

普段なら、それでも問題ないと済む話だった。作り話が作り話とわかったところで、誰かが実害を受けるわけでもない。
元来怪談噺とはそんなものだ。
実在を確かめるために行動をする者は少なく、行動したところでそもそもが作り話なので、何も出てこない。
ごく稀に「本物」を引き当てることはあるが、その場合は相応の対処が速やかに取られる。
今回は、その本物かと思ったが、裏付けとなる物証だけが霞のように掴めない。

「でもねえ、弟。考えてみたんだけど、相手が鬼なら最終的に僕がすぱっと斬っちゃえばそれでお終いでしょう? 鏡の向こうにいるんじゃ斬れないけど、どうにか、こちら側に引きずり出してさ」
「しかし、兄者の話では、その鬼とやらと相対すると、兄者は動けなくなると言っていたではないか。それに、意識も俺の元に飛んでいってしまうとも。確かに、俺はここ数日、何度か兄者がすぐ側にいるように感じる瞬間があった」
「おや、その僕には気が付いてくれていたんだね。嬉しいなあ」

声をかけられて無視される状況に、密かに胸を痛めていた髭切としては、膝丸の言葉は素直に嬉しかった。こんな事態であるにも拘わらず、思わず微笑んでしまうほどに。

「兄者、喜んでいる場合ではないぞ。兄者の意識がない状態では、如何に兄者が鬼斬りの名刀とて腕を奮えないではないか」

膝丸の言うとおりではあるのだが、髭切は話をしながらあることを思いついていた。
鏡の向こうからこちらを覗く姿、手を伸ばそうとする相手の仕草。物語の全容を全て知ったわけではないが、恐らく彼の次なる行動は予測できている。

「……弟、今日から暫くは、僕の側にできる限り一緒にいてくれるかな」
「言われずとも、そうするつもりだ。任務が何であろうと、俺は梃子でも兄者の側から動かぬぞ」
「おお、頼もしいね。それでね、ちょっと相談なんだけど」

膝丸の側に歩み寄り、潜ませなくてもいい声を潜ませて、髭切は己の案を語る。膝丸の目がぎゅっと細まり、彼の眉間の皺が深くなるのが、髭切の目にははっきりと見て取れた。

「それは、確かに不意打ちかもしれないが、もし失敗すれば兄者を危険に晒すことになる」
「そのときは、こっちは頼むよ」

髭切は自分の机に立てかけてある刀袋──その内にしまわれている、本体を指さす。

「この人としての容れ物が最終的にどうなっても僕はいいけれど、こちらだけは譲れない」
「兄者」

咎めるような物言いに、髭切は肩を竦めて笑ってみせる。

「当然、こちらも譲る気はないのだけれどね。大丈夫だよ。弟は、僕をよく見ているだろう」
「無論だ。だが、いつ仕掛ける」
「向こうは僕の不意を討つのが好きみたいだから、出たとこ勝負になってしまうと思うよ。だからこそ、僕を見ていて」

膝丸は髭切の腕を掴み、ゆっくりと頷く。透き通った琥珀の瞳は、凜とした輝きを放って兄を見つめている。

「僕はここにいる。僕の体も、魂も」
「ああ。兄者は、ここにいる。俺の隣に」

言葉で確かめ合い、膝丸はもう一度微かに手に力を込めてから、髭切の腕を離した。
誓いめいたやり取りが済んだ頃を見計らったように、がらりと戸が開く。
姿を見せたのは、鬼丸国綱だ。今日も眼帯で片目を覆い、くすんだ白金色の髪に何本かヘアピンを挿すという風変わりな姿をしている。
鬼丸は部屋の中を見渡して、膝丸に目を留め、

「おい、蜘蛛切。一人とは珍しいな。兄の方はどこだ?」

髭切は、微かに息を飲む。
何度も繰り返した状況とはいえ、膝丸のすぐ後ろに立っているのに、鬼丸は自分の存在に気が付いていない。
世界から己だけ欠落しているような状況は、ちくちくと胸に突き刺さり、嫌な痛みを残していた。

「何を言っている。兄者はここにいるぞ」

膝丸も、髭切の心中を察していたのだろう。立ち上がり、髭切の背中を軽く叩く。
そのように他人に示されれば、どうやら認識してもらえるらしい。鬼丸は驚いたように目を微かに見開き、髭切に焦点を合わせた。

「……すまん。まだ、少し寝ぼけていたようだ」
「鬼丸も寝ることってあるんだね」
「お前は、おれを何だと思っているんだ」

髭切の軽口に、すかさず鬼丸が応酬を挟む。いつも通りのやり取りに、微かな安堵を髭切が胸の端で覚えていると、

「……鬼切、何かあったのか」

鬼丸が、じっとこちらを見据えている。炎に似た緋色の目を僅かに歪め、髭切の顔に浮かぶ些細な変化も見逃さないと言わんばかりに。

「いやいや、僕は別に何もしてないよ」
「それは、向こうから勝手に首を突っ込んできた──という意味か」

髭切は、笑みだけを返す。今起きている事態について、鬼丸に説明するつもりは髭切にはなかった。
話した所で、彼が何かできるとも思っていなかったし、下手に事態を大きくする意味も髭切には感じられない。それ以上に、己の弱みを先輩とはいえ他人に見せるつもりがなかった。弟はともかく、鬼丸は髭切にとって頼りたいと思える相手ではない。
しばし、髭切と鬼丸の間で無言の応酬が続き、先に根を上げたのは鬼丸の方だった。

「手に負えないと思ったらおれに言え。話ぐらいなら聞く」

鬼丸は手短に助言だけ残し、席に腰を下ろす。湯気が消えた茶に手を伸ばし、一息で半分ほど飲み干す姿を、見るともなしに髭切はじっと見据えていた。

「何だ、気が変わって話そうとでもいうのか」
「ううん。そのつもりはないんだけど……」

鬼丸国綱という刀剣男士のことを、髭切はよく知らない。自分たちより先に、このチームにいた。
怪異を排除するために刀剣男士の力を借りると決まったのは、ここ最近の話である。実際に刀剣男士が有用かどうか試験運用されていた時代から、鬼丸はここにいるとは聞いていた。
簡単に言えば、髭切と膝丸の先輩にあたる。その割には、同輩の小狐丸に比べてやけに自分は彼から声をかけられているようだ。

「鬼丸って、僕らによく話しかけてくるよね。何か理由でもあるのかい」

思ったことは、そのまま隠しも誤魔化しもせずに問う。それが、髭切のやり方だ。
果たして、鬼丸はわざとらしいまでに目を逸らし、

「部隊長としての役割を果たしているだけだ」

ぶっきらぼうに、そう述べるだけだった。これ以上尋ねても、何も返事はなさそうだと、代わりに彼は別の話題を振る。

「そういえば、今日って僕らの任務は何なんだっけ?」
「それぞれ個別に護衛の任が来ていた」

途端に、髭切と膝丸はそっくりの渋面を作った。今この状況で、お互いが離れるようなことがあっては困る。やはり事情をいくらか話そうかと、髭切が前言を翻しかけたとき、

「だが、おれの方で代わりの人員を用意する。お前らは、小狐丸が送ってきた資料を見ておけ。今度、一週間ほど出張してもらうからな」

同時に、膝丸の端末に電子通信の文面が届く。
添付されているファイルには、大量のメモやら風景の写真やらが収まっていた。まだ資料としての体裁を整えていない、現地から直接届いた情報である。

「ありゃ、いいのかい。そんな楽な仕事で」
「楽をさせたいわけじゃない。ただ、今のお前らにはその方が都合がいいんだろ。何だか知らないが、さっさと解決してこい」

鬼丸が示した不器用な親切を、髭切たちが有り難く受け取ることにしたのだった。

***

幸か不幸か、髭切も膝丸も特段何事も起きずにその日を過ごしていた。
人気がないタイミングを見計らい、意図的に手洗い場の鏡や通路に設置されている鏡面を覗き込んだこともあったが、結果は梨の礫だ。
こちらが身構えているときには、やはり相手も身を潜めているようである。膝丸は「正々堂々と向かってこないとは、卑怯者め」と、不満そうだった。
そんな弟の姿を見ていると、幾らか気も紛れる。改めて、膝丸に相談をしてよかったと、髭切は今日という日を過ごしながら何度も実感していた。
そうこうしている内に時は過ぎ、黄昏時というには些かまだ日の高い午後四時頃。髭切と膝丸は、複数のファイルを抱えて階段を一段一段上がっていた。

「返却が必要な資料、こんなに溜めてしまっていたんだねえ。日向から督促がきていてびっくりしたよ」
「……兄者、他人事のように言っているが、兄者が借りっぱなしにしたものも多数あるのだぞ」

正確には、髭切が持ち出した上で返さなかったものが大半だ。そして、髭切は都合の良いことに、そのことを全て忘却の彼方に追いやっていた。
報告は丁寧に書かねばならない都合上、先人の知恵を借りるために資料を持ち出すのは、悪いことではない。だが、彼はいざ完成してしまうと、作成に使った資料の存在を綺麗さっぱり忘れてしまうのである。

「まあまあ、いいじゃないか。こうしてちゃんと返しに行くわけだから」
「今後、貸し出してもらえなくなったら、困るのは兄者なのだからな」
「いやあ、それは確かに困ってしまうねえ。あとで、日向の好きそうな物でも送っておこうか」

流れるように、賄賂を送って誤魔化そうと算段をつける髭切。話している間にも、二振りは資料室のある階に辿り着いていた。
ふと、外を見やるとどんよりとした雨雲が見える。ほぼ黒に近い雲が、沈みかけていた太陽を覆い隠しており、おかげで外は夜のように暗くなっていた。

「これは、一雨きそうだねえ」
「そうだな。このままでは雨が入ってしまうか」

校舎として使われていた頃の名残として、光を取り込めるように、廊下の窓は通常の建物より大きな造りになっている。
結果、晴れているときは問題ないが、雨が降れば、雨粒が吹き込んできて廊下を濡らしてしまうという欠点を抱えていた。
膝丸が、窓に手をかけ閉めていく様子をちらと見てから、髭切はふと窓へ視線をやり──
その場に、凍り付いた。

「──っ!」

ここ数日晴れていたから、窓は開け放たれており、失念してしまっていた。
──外が暗いとき、窓ガラスには、自分が映し出されているということに。
咄嗟に身を引こうにも、足が地面に張り付いたように動かない。声が出ない。向かい合っている己の顔が、驚いている自分自身の顔から、ゆっくりと笑みの形で歪んでいく。
膝丸は、もう一つ向こう側の窓を閉めているのだろうか。首も動かせないから、分からない。
いつものように意識が落ちるのかと思ったが、どういうわけか、己の感覚だけははっきりと保っている。

(そういえば、魂を奪うって最初聞いていたけれど……それなら、確かに僕の体から追い出してしまっては、話と矛盾するね)

硬直しながらも、どこか冷静になりながら髭切は考える。その間にも、鏡面の向こう側にいる己が境へと無造作に手を伸ばす。
もし髭切が同じことをしていたとしても、伸ばした手は鏡にぶつかるだけだっただろう。しかし、鏡像の髭切の手は──境を越えた。
まるで、鏡などそこにないかのように、手が実像の側へと姿を見せる。
こちら側に出てきた手は、髭切の手よりもずっと白く、生気がない。あたかも死人のような手であり、同時に人の手のそれより遙かに大きい異形の形をしていた。
だが、作り物ではない証拠に、こちらに突き出た腕は確かに窓の側で立ち尽くしている髭切を掴もうとしている。

(このままだと──)

直感で、髭切は悪い方向に事態が進んでいると悟る。具体的に何が起こるか想像はできないが、良くないということだけは明瞭に理解している。
だが、動揺は少ない。瞬きすらできない瞳で、彼は己の体に触れんとする屍蝋じみた腕を見つめていた。
諦めたのではない。
ただ、彼は待っていた。

「兄者!!」

声が聞こえる。
続けて、パンッと何か固い物が割れる甲高い音。それは、クローゼットのガラスを割ったときの音によく似ている。パリパリと硬質な破片が散る音を、耳が拾い上げている。
その意味を考えるより早く、こちらに伸びていた腕がびくりと、引きつけを起こしたように跳ね、止まる。
視界の端、己の鏡像に亀裂が走っている。理由を問う必要はない。
体に走っていた硬直が解ける。だが、腕が消える様子もない。この好機を逃す理由は、髭切にはない。

「ありがとう、弟。おかげで、ようやく捕まえられる」

髭切は躊躇せずに、こちらに伸びていた腕を己の腕で掴んだ──捕まえることが、できた。
鏡像を斬れないのなら、向こうがこちらに出てきたときを捕まえればいいだけのこと。
相手が臆病で一部しか姿を見せないというのなら、引きずり出せばいい。
間髪入れず、背に負ったままの刀袋に手をかける。
同時に、掴んだ腕を、強引にこちら側へと引っ張り出す──!

「おやおや、この時代でここまで醜悪な鬼を目にすることになるとは」

片手で器用にも刀を抜くと同時に、髭切の周囲にふわりと桜が舞う。
瞬きする間もなく、彼の服装は仕事用に着ていた普段着ではなく、白い礼装のような形の上着に白いズボンに切り替わっていた。肩に舞い降りた上着は、ふわりと舞い広がり、白鳩の翼を思わせる。。
髭切という刀剣男士における、戦装束。戦うための装いに姿を変え、髭切は凄絶な笑みを浮かべて己が引きずり出した相手を見下ろす。
屍蝋に似た皮膚は、どうやら腕だけではなかったらしい。鏡の向こうでは髭切そっくりの姿をしていたが、こちら側に現れた姿は、一言で言えば醜悪な造作のマネキンとでも言うべきだろう。
血の気のない肌に、頬まで避けた口からは鋭い牙のようなものが見える。ぎらぎらと輝く眼は、血のように赤い。
立てばその背丈は髭切を上回るほどに大柄なのだろうが、生憎髭切が乱暴に引きずり出したせいか、今は廊下に転がってしまって無様な醜態をさらしている。

「じゃあ、鬼退治の時間だよ──!!」

足で現れた化け物の頭を勢いよく踏みつけ、間髪入れず、髭切は己の本体たる刀身を勢いよく突き刺す。
見た目の割に、微かな手応えが髭切に伝わる。構わず、彼は突き立った太刀を化け物の体を斜めに引き裂くように、勢いよく振り抜いた。
鬼のあげる苦悶の絶叫が、辺りに響く。暫く身悶えを続けたかと思いきや、やがてそれは微かに震え──パンッと風船を割ったような甲高い破裂音を残して、消えた。
まるで紙風船を割ったかのように、あっさりと、まるで最初から何も存在していなかったかのように。
ひょっとしたら、消えたように見せかけて攻撃してくるのではと髭切は身構えたが、それらしき物が襲ってくる気配はない。

「……何だか、しっくりこないな」

髭切は軽く太刀を払う。刀身には、血一つついていない。あれほど確かに、何かを斬った手応えはあったのに、残った痕跡は割れた鏡だけだ。

「兄者、大事ないか!!」

膝丸の声に、髭切は一旦思索を止めて、刀を軽く払って鞘に戻した。駆け寄ってきた膝丸も、髭切と同じように戦装束の姿になっている。
万が一のために、戦闘を行えるように十全な状態になっておいたのだろう。

「平気だよ。怪我もない。それよりも、さっきの鬼、弟も見たんだよね」
「ああ。白い形の人に似た化け物だろう」

膝丸も目にしたなら、髭切だけが見た幻覚という可能性はあり得ないだろう。
けれども、妙に手応えのないことがどうにも気にかかって仕方が無い。まるで、斬った死体が忽然と消えたかのような違和感を覚える。

「ともあれ、これで解決したと考えていいのだろうか。少なくとも、今、俺は兄者を感知できているぞ」
「うーん、こればかりはどうにも言えないけれど」

髭切は、側にある窓ガラスを覗き込んでみる。
外では雨が降り出したようで、外側のガラスには無数の水滴がついていた。その中に映し出された己の顔が、歪むような兆候は見られない。

「多分、一件落着じゃないかな」

髭切は窓ガラスから顔を離し、軽く背を凭れ掛けさせながら膝丸に笑いかけてみせる。その背後のガラスは、膝丸が割ったせいで勢いよく亀裂が走っていた。
髭切が朝、膝丸に頼んだこと。それは、向こう側にいる鬼がこちらに手を出そうとしたとき、ガラスを割って動きを止めてほしいということだった。

「恐らく、アレはこちらに出てこようとするときに、境である鏡や水面を乱されたら出てこられなくなってしまうんだろうね。それなら、本格的にこちら側に姿を出しているときに乱されたら、鏡の中にも逃げられなくなってしまうんじゃないかって思って」
「つまり、兄者が動けぬ代わりに、俺に境目となる鏡や水面を乱しておいてほしいというのか」
「そういうことだね。出てきている一部を弟が斬ってもいいんだけど、殺気を感知して中途半端な形で逃げられても困るもの。まあ、僕が囮になって、お前が引きずり出して斬ってしまってもいいんだけど」

髭切はそこで、すぅっと目を細め、口の端を微かに吊り上げ、

「鬼が相手なら、僕が討たなきゃ気が済まなくてねえ」

そういうわけで、膝丸は髭切が不審な動きを見せ、相手が本格的に姿を見せた瞬間を見逃さないように注意するため、共に行動をしていたのだった。
結果的に、無事に自分で鬼退治を完遂できて、髭切はとても満足げな笑顔を浮かべている。膝丸としても、兄が納得しているのならそれで良いかと思っていた。
軽く髭切がもたれかかっている窓には、先だっての不可思議な兆候は見られない。窓の向こうに広がっている庭も、先だっての邂逅が嘘のように静まりかえっている。

「結局、あいつは魂が欲しかったのか、それとも僕の全てが欲しかったのか、いまいちはっきりしなかったけれどね」
「人を恐怖させ、襲うものを討つ。それが俺たちの役割だ。詳細など気にする必要はあるまい」
「それもそうかも──」

ね、という言葉が、最後まで続かなかった。
背後からピシリ、と硬質な音が響いているのを髭切の耳は拾う。
同時に、パァン!! と耳を劈く破裂音。髭切の背後、亀裂の入った窓ガラスが弾け、破片が宙を舞う。

「兄者!!」

がくんと、髭切の体が窓の向こうへ傾ぐ。まるで、誰かに引っ張られたように。
縁に破片を残しただけの、ただの窓枠から、虚空の向こうへと。
彼の体が落ちていく。
急激な浮遊感。急速に遠ざかっていく、膝丸の顔。
突如空に投げ出されて驚きはしたものの、すぐさま髭切は落下死ながらも周囲に目をやった。
自分と共に落ちていく、幾ばくかの破片。その中でも大ぶりの一欠片に映し出された己の顔が、奇妙に歪んで映っている。恐らくは、悔しげな顔とでも表すべきなのだろう。

「道連れのつもりかい? 力の一部を残していくなんて、本当に臆病な鬼だね」

髭切は手を伸ばし、その破片を掴む。鏡面の向こう側、己とは似ても似つかぬ怯えを顔に映し出しているのは、この先起きることを予測してだろうか。

「じゃあね。もう、かくれんぼはお終いにしよう」

力を込めてぐしゃりと、破片を握りつぶす。ガラス片を握りつぶす硬質な感触に、髭切は何か柔らかな生きたものが潰れる手応えを感じ──
同時に、全身を強く地面に打ち付けた衝撃に顔を顰める。

(ああ、痛いなあ、もう……)

人間なら、背中からこの高さで落ちれば即死を免れなかっただろう。刀剣男士であるが故に、ただ痛いと思うだけで済んでいる。
だが、着地の準備もせずに落ちた衝撃は、予想以上に大きかったらしい。頭がぼうっとしている。
顔に打ち付ける雨が鬱陶しくて、起き上がりたいのに、手が、足が、動かない。頭の裏が濡れている。打った衝撃で、出血してしまったのだろうか。

「おい、何か上から落ちてきたぞ!」
「人間じゃないのか、あれ!」

人の声がする。同時に、再び地面に何か落ちた音。兄者、という呼び声からして、膝丸が三階から飛び降りてきたのだろう。

「おい髭切、君、こんな所で何をしているんだ!?」

どこかで聞いた覚えのある声がする。目だけを辛うじて動かすと、雨の中、銀色に輝く光と、海に似た蒼の双眸が見えた。
それが誰か理解するより先に、髭切の意識は今度こそプツリと途切れた。

***

眩しすぎる灯が、目蓋の裏に広がる闇に突き刺さっている。痛みに似た感覚に、思わず目蓋に力を込める。続いて耳が機能を回復したようだ。
誰かの話し声が聞こえる。音を拾っても、言語の意味がまだ理解できない。思ったより損傷が大きかったようだと、髭切はまだ定まらない意識の中で思う。
目をゆっくりと開くと、白い天井が見える。頭に微かな違和感があるが、体に痛みはない。

「気絶している間に、手入れをされたのかな?」

声も、難なく出すことができた。ゆっくりと体を起こすと、白いカーテンが周囲に見える。足元には、髭切が普段持ち歩いている刀を入れる袋と簡単な荷物が入った小さな鞄が置かれている。
髭切は知らないことだが、ここは嘗て保健室として使われていた場所であり、今は救護室として機能していた。
白い布団に白いシーツと、白一色で整えられた世界の中をくるりと見渡す。続けて、髭切は軽く首や肩を動かし、己が十全に動くことを確認する。
再び、カーテンの向こう側から声が響く。覚醒を始めた頭は、今度こそ彼らの言葉の意味を正しく聞き取ってくれた。

「もう手入れは不要だと言っているんだ。あとは寝かせておけば回復する。大体、俺たちが高所から落ちたぐらいで折れるわけがないと、君は知っているだろう」
「だが、兄者はまだ眠っている。手入れが足りないのではないか」
「頭の傷も手の切り傷も塞いだのは、俺がこの目で見ている。これ以上、彼女の手を煩わせるつもりなら、正式に申請を出すんだね」

膝丸と言い争っているのは、山姥切長義のようだ。彼の言い分を読み解く限り、膝丸は長義の手を借りて、髭切の手入れを行ったようだ。

「弟ー、僕ならもう起きてるよ」

膝丸の心配を払拭するために声をかける。果たして、荒っぽい足音と共に、ベッドの周囲を囲っていた白いカーテンが引かれ、膝丸が慌ただしく姿を見せた。

「兄者、無事か。痛む所はないか」
「ないよ。ただ、頭が少し変な感じがするね。何かつけているのかい?」
「念のため、包帯を巻いているから、そのせいだろう。大事ないと思うが、祓を施した包帯を使った。何か邪なものが侵入してきても、追い払ってくれるだろう」
「弟って、何というか……過保護だよね」
「兄者の身を案じているだけだ」

きっぱりと言い切ってから、膝丸は近くの椅子を引っ張ってきて髭切のベッド近くに腰を下ろした。

「僕って、どれぐらい意識を失っていたの?」
「大体、一時間半ほどだ。今が十七時半だからな」
「おお、意外とぐっすり寝ていたんだね」
「ぐっすり寝ていた、ではないぞ。いったい、何があったのだ。やはり、アレはまだ滅んではいなかったのか」

髭切は膝丸に話を振られて、自分が握りつぶした破片の向こうに潜む存在を思い出す。鏡面の向こうの存在には手出しをできないかと思ったが、本体の大本を断った以上、最早絞りかす以下の存在だったのだろうか。
どちらにせよ、あの化け物の影響はもう自分にはないだろうと髭切は感じていた。

「最後の悪あがきに、ちょっと引きずられただけだよ。手入れのおかげで、体の方もすっきりしているし、そろそろ仕事に戻ろうかな」
「今日の仕事については、もう切り上げていいと鬼丸から先ほど連絡があった。兄者も疲れているだろう。家に戻って──」

そこまで膝丸が言いかけたとき、ピピピと甲高い電子音が辺りに響く。この無味乾燥な着信音は、髭切の携帯端末が発信源だった。
誰からだろうかと、髭切は鞄の中に入れていた携帯端末を取り出し、通話ボタンを押す。

「もし、退治課の髭切だよ。誰かな?」

問いかけると、ざわざわという人の話し声と、相手が軽く息を飲む音、そして、

「あー……えーっと、星岡って者から、怪談噺を聞きたがっている刀剣男士がいるって言づてがあったんだが、あんたたちであってるかい?」

***

膝丸は最初、もう聞かなくてもいいのではないかと、髭切に主張した。兄の負傷を気遣っての言葉だとは、わざわざ確認するまでもない。
だが、髭切としては、今回の一件で納得できない部分もあった。
曰くありげの物語に、曰くのない物体。しかし、確かに姿を見せた鬼らしき異形。だが、斬ったあとの手応えは薄い。
それらの不可解な事柄の理由を知れるのなら、聞いて損はないと髭切は膝丸を説き伏せた。

電話の主は警備室から電話を掛けてきていたので、髭切たちはまずそちらに向かった。
警備員たちは、庁舎の内部を普段から見回り、外部から不審人物が来ていないか見張りをする役割を負っている。
一見して彼らの仕事は、一般的な警備員と大差なく見える。だが、大きな差としては、その警備員の中に刀剣男士も混ざっているという点だ。
警備部署の事務室に向かうと、話が通っていたようで、すぐに二振りは部屋の隅に座っている男性の元に案内された。
くたびれたくせっ毛に、目尻にいくつか皺を刻んだ男は、ぱっと見た限りではどこにでもいる中年男性にしか見えない。首から下げた名札には、掠れた文字で波田と記されていた。

「いやあ、まさか本当に来るとは思わなかったよ。刀剣男士が怪談噺如きに興味があるとは思わなかったなあ」
「怪談噺如きだとは思っていたんだけどねえ、ちょっと色々気になって」

実体を伴って姿を見せた件については伏せて、髭切は目の前の男に微笑みかける。
今回の件について、人為的な策謀は絡んでいないだろうと髭切は思っていたが、しかし万が一ということもある。

「まあ、立ち話もなんだ。まだ時間もあるし、ちぃっと場所、移すか」

波田は気さくな調子で、二振りを部屋の片隅にある休憩スペースへと案内した。夕刻という絶妙な時間のためか、利用者はいない。
銀色の髪をした小さな子供──恐らく刀剣男士が、ソファの片隅でうつらうつらしているのが見えるだけである。

「それで、星岡からちょっと聞いていたんだが、鏡鬼の話が聞きたいんだっけか?」
「かがみおに?」
「そのまんまだよ。鏡の中に潜む鬼。だから、鏡鬼。本当はキョウキって名前にした方が、狂気と絡んで面白いんじゃないかって、俺は言ったんだが、あいつは鏡鬼でいいと」
「待ってくれ。この話の出所は、あなたではないのか」

膝丸は怪訝そうに波田に問う。波田はおや、と眉を持ち上げてから、ゆっくりと首を横に振った。

「いやいや、違うさ。この話は、以前、旧庁舎の資料室の資料を借りたいって言ってきた奴を案内したときに、そいつから聞かせてもらったんだ」
「部外者の人間ということか。だが、何故そんな者がこの建物の怪談を知っている」
「部外者じゃあないさ。何せ、彼は審神者だからな」

髭切と膝丸は揃って微かに息を飲む。
審神者。それは、物に込められた祈りを励起させ、人の形を与える者。
刀剣男士という存在を確立させるために欠かせない存在であり、審神者に顕現された刀剣男士の多くは、呼び出した審神者を主とする。
主と結びつきを得た刀剣男士は、より一層強い力と心を得ると言われている。
ここにいる髭切と膝丸は、審神者が行う顕現の儀をシステム的に組み上げた術式で顕現しているため、審神者を主とはしていない。
だが、全く気にならないといえば嘘になる。

「少し長かったんだが、結構面白かったからな。俺もこの手の話は好きだから、携帯にメモしておいたんだよ。確か……ああ、あった」

暫く携帯端末を操作してから、波田は宙空に画面を浮かび上がらせる。
そこには、在りし日に審神者が語ったという物語が綴られていた。

***

この庁舎がまだ小学校として使われている頃の話。今の資料室、嘗ての図書室にある鏡にはある噂があった。
曰く、図書室の鏡の前で寝てはいけない。寝たら鬼に取り憑かれて、魂を抜かれてしまう。
だが、よくある怖い話だと誰も本気では取り合っていなかった。
そんなある日、一人の女子生徒がそうとは知らずにうっかり鏡の前で居眠りをしてしまう。
それからというもの、彼女は鏡に映る自分が自分とは異なる動きを勝手にしている姿を目にしてしまう。
自分は笑ってもいないのに、鏡の向こうは笑っている。コップを持つ手が逆になっている。気にしすぎるあまり、彼女は鏡の向こうにいる自分がこちらに迫ってくる夢まで見てしまう。
不気味に思っていた頃、更に彼女は周囲の様子がおかしくなっていることに気が付く。皆が自分を無視しているのだ。
てっきり虐められているのかと思いきや、彼らに悪意があるように見えず、ただ単純に自分の存在に気付いていないのだと彼女は気付く。
まだ教室に残っているのに、鍵を閉められそうになる。自室にいるのに、誰もいないと思われて電気を家人に消される。
そんな事態が続き、彼女は鏡の向こうがこちらに迫る夢もあわせて、鏡に潜む鬼が自分の存在そのものを喰っているのではないか、魂を抜かれるとはそういうことではないかと、考えるようになる。

彼女は必死になって、鏡の話を調べた。学校の歴史の資料を読みあさり、卒業生にも手当たり次第に連絡をとった。
やがて、彼女は手がかりを知っている卒業生に行き会う。彼は、何十年も前の卒業生であり、今は学校の用務員をしている男だった。
彼が昔、近所の年寄りから聞いた話によると、その鏡には嘗てこの辺りにあった村で悪逆の限りを尽くしていた恐ろしい鬼を封じているのだと言う。
鬼の肌は死人のように白く、背丈は大柄な男よりもなお大きく、裂けた口には鋭い牙が何本も生えていた。
その鬼はただ暴力的なだけではなく、あやしげなまじないを使って人を食らったり化けたりして、人々を震え上がらせた。鬼は、人々が恐怖するさまを糧に、益々力を強めていった。
困った村人は、行きずりの僧侶に鬼を退治してほしいと助けを乞うた。
三日三晩の死闘の末、僧侶は鬼の体を滅することには成功したが、鬼の魂を消すことは叶わず、霊験あらかたな鏡に封じた。
僧侶は鏡を丁寧に扱うように言ったが、長い時が過ぎるにつれ、人々は僧侶の言葉を忘れ、鏡はひょんなことから学校で使われるようになってしまった。

鬼は未だに自分の体の代わりとなるもの、そして己の力を強めるための魂を求めている。
そして、隙を見せた人間に取り憑いて、恐怖を糧に成長してこの世に返り咲く日を虎視眈々と狙っている。
もし、鬼に取り憑かれたのなら、嘗て鏡を封じるときに僧侶が用いたおまじないである「アギョウサンサギョウゴ」と唱えれば、鬼は取り憑いた相手を僧侶と勘違いして去っていく。
女生徒も同じように鏡の自分に唱えると、それからは鏡の自分が勝手に動くことも、周りに無視されることもなくなったという。

***

怪談というには、些か物語めいた話を最後まで読み終わってから、髭切と膝丸はちらりとお互いに目配せをした。
勝手に鏡の中で動き回る虚像。消えていく存在。そして、語られている化け物の見た目は、記憶の中のものと一致している。

「じゃあ、鬼は鏡に残り続けていたということだね。でも、あの資料室の鏡って、最近購入されたものだって聞いていたのだけど、その辺りは話が捻れて伝わってしまったのかな」

髭切は僅かに身を乗り出して、波田へ問いかける。
彼の話では、追い払う方法しか伝わっていないから、鬼が留まっているのは不思議ではない。だが、鏡が新しいものであるという点についての不整合の説明にはなっていない。
波田は髭切の問いを聞いて、どういうわけか、きょとんとした顔をしていた。そして、

「はは、あっはっはっはっは! いや、まさか、真面目なお刀様がたが怪談噺を気にするなんて、一体どういう風の吹き回しかと思ったら、何だ、そういうことか!」

不意に大笑いを始めた彼に、髭切と膝丸は揃って眉を顰める。
彼らとしては、つい先ほど例の鬼に襲われたのだから、笑われて不愉快に思うのは当然だった。

「何がおかしい。あやかしが潜むようなものを、それと知りながら放置しておくなど──」
「いや、そんなもの、いるわけないに決まっているじゃないか」

男は未だに笑いの余韻を残しつつ、ひらひらと手を振ってみせる。

「だけど、いたからこそ、そのような怖い話として残っているとは考えられないかな」

気色ばむ膝丸を軽く片手で宥め、髭切は波田に静かに問いかける。
だが、波田は頑なに首を横に振り、

「いやいや、万が一にもそれはあり得ないんだ。話の最後にあった〈アギョウサンサギョウゴ〉って言葉の意味、よーく考えてみるといい」

兄弟は与えられた問いに、それぞれ大真面目に取り組んでみたが、どう頭を捻っても聞き慣れない単語の羅列としか感じられない。
降参の意味を込めて、再び波田の方を見やると、

「アギョウっていうのはあ行……つまり、ひらがなのあ行のことだ。サギョウもそうだな。それで、あ行の三番目、さ行の五番目を繋げて読むと分かる」

髭切と膝丸は、それぞれ律儀にも指を折り数え、そして同時に琥珀の双眸を見開く。

「〈う〉〈そ〉?」
「……つまり、この話は全て嘘であり、作り話だと言いたいのか」
「その通り。あの物語は、俺が案内した審神者さんが、即興で考えた怪談さ。何で怪異の資料なんて見たがるのかって俺が聞いたら、昔からこういう話が好きで、自分で創作したこともあるって言うもんでね」

案内された資料室の中、綴られた怪異たちを纏めた資料を前にして、審神者である青年は少年のように目を輝かせていた。
それは、波田のようにただ怖い話を読んで楽しむだけでなく、より深く惹きつけられ、その深淵に触れてみたいと願う者の姿でもあった。
そんな彼を前にしていたからこそ、波田はつい、彼に言ってしまった。

「それなら、ここにある鏡をネタに、一つ披露してもらえないかって言ったんだよ。たまたまその時、彼が手に持っていた資料に記されていたのが、死体が魂を求めて彷徨う話だったからかね。それと混ぜて、あんな即興の怪談を語ってくれたのさ」

いったいどんな言葉を口にすればいいか分からず、髭切と膝丸はただ黙って男の言葉を聞くことしかできなかった。
目にした光景は、あれほどまでに〈本物〉だったのに、男が懐かしそうに語る思い出は〈物語〉の中の一幕に過ぎない。
虚構と現実。虚像と実像。鏡のこちら側と向こう側。
嘘と本当が入り交じり、この数日のやり取りすら、実は悪い夢だったのではないかと思うほど、己の認識が曖昧になっていく。
思わず、髭切は隣に座る膝丸の手を掴んでいた。そうしなければ、自分という存在すら、物語の一つとして消えてしまうのではないかと思えてならなかった。

「だから、これは嘘の話だ。あんた方が心配するような、本物ではないことは、俺が保証する。ま、ここまで本気になって信じてくれたって知ったら、あいつも浮かばれるんじゃないかな」
「浮かばれる?」

不意に飛び出てきた不吉な単語に、髭切は反射的に波田の言葉を反復する。

「その審神者さん、三年ぐらい前だったかなあ。時間遡行軍に襲撃されて、そのときに亡くなったらしいんだよ」

***

「納得できん」

膝丸の絞り出すような低い声に、髭切は返事こそなかったものの、内心では全く同じ気持ちを抱いていた。
髭切たちが目にした異形は、どうやら、どこぞの審神者が語って聞かせた内容だったらしい。
無論、審神者が実際にあった内容を交えて語った可能性もある。だが、それなら日向が見せてくれた鏡の購入記録が新しい理由が解決しない。
全てがただの作り話であるとすれば、筋は通る。だが、髭切が体験したあの数日間の出来事の理由としては、筋が通らなくなってしまう。

「ただの勘違いにするには、色々とありすぎたものね」

髭切の刀には、まだあの鬼を斬った感触が僅かに残っている。頭に巻かれた包帯が、三階から落ちた現実を雄弁に語っている。
それら全てを、ただの悪い夢として一蹴できるわけがない。
憤然としている膝丸を、適当に宥めながら、髭切と膝丸は仕事部屋に向かっていた。帰るにしても、一応鬼丸に一言残しておこうかと思ったからだ。
部屋の中では、鬼丸が本日の任務を終えて戻ってきたようで、机に座って端末のキーボードを拙い手つきで叩いている。

「無事そうだな、二人とも」

扉を開けてすぐに、鬼丸は言った。膝丸だけでなく髭切も見据えて、はっきりと。
彼の反応を見て、髭切は確かに一連の事態は解決したのだと納得する。鬼丸が、何を言わずとも髭切の存在を認識していたからだ。

「鬼切。何やら上の階でお前が窓ガラスを割ったと苦情が来ていたが、本当にやったのか」
「割ったのは僕じゃなくて弟だよ。ああ、でも、僕が割った部分もあったかな」

鬼丸は片眉をひくつかせて、何か言いたげな顔をしていたが、結局長いため息に全ての感情を込めるに留めていた。

「詳しくは、後で報告しろ。あと、管理課の長義に後で菓子折でも持っていっておけ。大層な剣幕でこちらに来ていたぞ」
「そういえば弟、長義に僕の手入れを頼んだのかい?」

髭切は、後ろで涼しい顔をしている膝丸に問う。

「ああ。たまたま通りがかった長義の隣にいた者が、手入れができる者だったのでな。その力を借りたのだ」
「横紙破りだと、長義の方は怒り心頭だったがな。蜘蛛切、管理課にいる巫覡は、本来手入れの担当をしている者とは別枠になっている。安易に手を借りるのはよせ」
「そうだったのか」

だが、もしまた髭切か己が負傷して手近な者にいるのなら、彼らは規則など無視して手入れを依頼するだろう。何を言われずとも、鬼丸にはその程度のことは容易に推測できた。

「そうだ、鬼丸。帰る連絡をするついでにちょっと聞きたいんだけど」

髭切は鬼丸の元に一歩詰め寄り、気軽な調子で鬼丸に尋ねる。

「怪談噺が先にあって、それが実体を伴って本当の怪異になるってことは、あり得るの?」

今回の一件は、平たく言えば話だけが先行して存在し、結果として後から現象や実体を得たということになる。
火の無い所に煙は立たないというが、煙ばかりがあがっているような事象だ。そんなあべこべなことがあり得るのか、先達の鬼丸なら何か知っているのではと、髭切が問うと、

「可能性としては、あり得るだろう。実例もあるからな」
「実例? 例えば?」

鬼丸は、無言で自分を指さした。続けて、ごつごつとした指がそれぞれ髭切と膝丸を指す。

「刀剣男士。刀剣に纏わる〈逸話〉を具現化し、形を成したもの。おれたち自身がそうだ」

あったかどうかも定かでない物語を核として、実体を伴った存在。刀剣男士の中には、そういった経緯を持つ者が数多いる。
鬼を斬ったと言われる髭切も、実際に鬼を斬ったかどうかなど、誰も証明はできない。蜘蛛のあやかしを斬ったと語られる膝丸にしてもそうだ。
鬼丸も、夢に現れる鬼を斬った物語を負っているために、その見た目は戦の際に鬼のように変じる。だが、鬼丸国綱という刀が鬼を斬った証拠など、今となっては誰も証明できない。
ただ、物語だけが先行して存在する。この刀には、こういう逸話があるという願いだけが収束し、それを元に審神者は刀剣男士を顕現する。

「こんな怪談があったら怖かろうという願いが、実体を伴って現象となったと思しき例は、ここ近年増えている。刀剣男士という存在が公になって、刀剣男士なんていうものがいるのなら、怪談も実在するのではと思われやすくなったからかもな」

人の願いは、時に思わぬ形で現実を侵食する。慈悲の心を持って神隠しを行っていた童女の神が、子供を攫う恐ろしい存在として語られたが故に変貌したように。
ならば、鏡に鬼が潜むと語り続ければ、ありもしない鬼が姿を見せる可能性は、ゼロとは言えないだろう。

「もっとも、これは、ただのおれの仮説だ。実際は、単なる与太話が、そこまですぐに現実に現れるとは思えん。……なんだ、二振り揃って鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「いや、ちょっと……思う所があっただけだよ」

髭切は鬼丸に軽く別れの挨拶だけを告げて、膝丸の腕を軽く引き、部屋を立ち去った。

***

「……兄者」
「弟、考えすぎない方がいいよ」
「しかし」
「今、自分はあの鬼と同じようなものじゃないか、とか考えているだろう?」

膝丸は、ぴたりと足を止める。自宅のあるマンションの廊下の途中で、髭切と膝丸は向かい合う。どこかで遠く、サイレンが鳴り響いている音が、やけに強く耳に響いた。
ざわりと沸き立つ六月の風は、少しの湿り気を帯びて髭切たちの体を通り過ぎていく。

「逸話から生まれたのが俺たちなら、本質的には同じだろう。謂わば、あの鏡につけられた逸話が顕現したようなものだ」
「だとしても、あれは僕が退治した。鬼退治は僕の本分だからね。できることなら、本物の鬼退治をしてみたかったけれど──」

髭切はそこまで言って、ふと口を噤む。

「まあ、今はそれはいいや。僕らは誰彼構わず害を成すような存在ではないし、あれとは違うよ。それでも、まだ何か気がかりなのかい?」

膝丸がどこか遠くを見るような目をしていることに気が付き、髭切は問う。膝丸は、マンションの廊下から見える、色とりどりの街々の灯りを見つめ、

「──いや、ただ俺たちは、何なのだろうと少し思っただけだ」

刀であるということを、疑念に思ったことなど今まで一度もなかった。
刀の付喪神として人の器を得ても、本質的には一振りの鋼だ。敵を斬り、あやかしを斬り、ときに持ち主を守る存在。それが、己なのだと、今まで疑ったことはなかった。
だが、ここ数ヶ月で彼らは変化を得て、改めて目にしたものの存在を意識させられた。
山に住まい、人と共に生きる在り方で己を確立させていた獣の姿をした神の一柱。
町に集い、人の願いによって己の存在を変質させられた貴きもの。
そして、誰かが作り上げた噺によって形を得て、罠に嵌まったものを無作為に襲った物語の鬼。
ならば、刀剣男士は如何様な存在と言えようか。

「まあ、細かいことは、今はいいんじゃないかな。僕にとって大事なのは、そういう小難しいことじゃないんだ」

振り返った膝丸に、髭切は黄昏時の光を浴びながら微笑んでみせる。
美しくもあり、恐ろしくもあり、見る人間に畏怖の念を感じさせる笑顔で、彼は何てことのないように、

「お前がいて、主がいる。僕は、それだけでいい」

主を掲げずに呼び出され、戦う道具として振るわれ続けてきた。
本来の逸話には、もっと違う願いも込められていたのかもしれないが、今の彼には縁のない遠い祈りだ。
己が何なのか、などと考えても、刀以外の在り方を知ったばかりの身では、答えなど到底すぐには出てこない。
だから、今は己が求める存在だけを明瞭にする。
髭切の言葉に応じるように、膝丸は彼の手をとる。人の体を得たがために与えられた熱が、髭切の手にもやんわりと伝わってきた。

「そうだな。兄者がいて、主がいる。今は俺も、それだけでよい」

互いに顔を見合わせ、微かに過った不安を払拭するように、彼らは笑う。
嘗て源氏の重宝と伝えられ、その逸話で以て顕現された二振りは、まるでただの兄弟のように暫く笑い合っていた。


玄関の鍵を開き、中に入ると、居間の扉がゆっくりと開く。頭二つ分小さい位置にある小さな人影に、二振りはようやく口に馴染んだ言葉を告げる。

「ただいま、主」
「ただいま帰参した、主」

小さな少年の姿をした主は、まだぎこちなさの残る足取りで駆け寄ってくる。
そうして、今日もまた、いつも通りの二振りと一つの物語が始まった。


***


数年前のある日、黄昏時の資料室。その片隅に設置されている鏡の前に、背の高い青年が立っていた。彼の傍らには、小さな少年の姿がある。
見た目はただの子供に見えるが、その実体は短刀から顕現した刀剣男士だ。ぼさぼさの青い髪に、鋭い目つきが特徴で、確か名は小夜左文字といったかと、彼らを案内してきた男は思う。

「──こんな感じでどうだろう」
「いやあ、面白い噺を聞けて良かったよ。即興とはとても思えないね」
「あまり褒められた趣味ではないんだけどね。昔は、色々と考えてネットに流していたなあ」

青年は軽く肩を竦めて、苦笑いを浮かべる。猫のようにつり上がった瞳に、短く切った紺に近い黒髪の青年は、ともすれば夜闇を歩く黒猫にも見えた。

「そんじゃ、資料の貸し出し手続きに行こうか」
「ああ、頼むよ。本丸で読むのが楽しみだ」

自ら語るだけあって、彼自身、不可思議な噺に興味があるのだろう。浮き足立つ様子を隠しきれず、その足取りは軽い。
だが、不意に青年はぴたりと足を止め、案内人である男に問う。

「あのさ。この部屋って、模様替えの予定とかないよね?」

鏡が吊されている場所は、書架と書架の間の通り道であり、背丈ほどもある書架の影が青年を黒く覆っている。そのせいで、まるで彼の姿が影から滲み出ているように見えた。

「いんや、多分ないと思うぞ。こんなでっかい棚、動かすのも大変そうだからなあ」
「それも、確かにそうだね」

青年は、傍らに立つ自身の刀剣男士にしか聞こえないような、小さな声でそっと漏らす。

「それなら、良かった」


***

物が語るは、物語。
ならば、幻が語れば、それは一体、何となるのだろうか。





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