本編の話

仕事部屋に戻ると、膝丸は既に席にいなかった。携帯端末を見れば、買い出しをしてから帰るので、先に出るとメッセージが届いていた。
少々寂しくも思うも、帰れば膝丸が料理を作ってくれると思うと心も足も弾む。
そんな風に浮き足立っていたせいか、髭切は家に戻るまでの道に何度か人にぶつかってしまったが、その程度で彼の中に生まれた高揚感が消えるわけもなかった。

「ただいま帰ったよ、弟。主」

マンションの扉を開け、中へと足を踏み入れる。奥へと呼びかければ、常なら膝丸がすぐさま顔を出すが、今日は居間に続く扉が開く気配がない。
火を使っているから目が離せないのだろうと、髭切は特に気にせずに靴を脱いで廊下へとあがる。
扉を開き、キッチンを覗き込むと、案の定膝丸は鍋の前に立って真剣な面持ちで中身をかき混ぜていた。

「弟、帰ったよ。今日は何を作っているんだい?」

だが、膝丸は鍋の方を向いたまま返事をしない。この距離で聞き取れないということはないはずだが、よほど難しい料理に挑戦しているのだろうか。
とはいえ、帰ってきて無視されるのもいい気持ちはしない。

「膝丸。ねえ、膝丸ってば」

普段は滅多に呼ばない、弟の今の呼び名を髭切は口にする。こうすると、膝丸はすぐさま振り向いて、嬉しそうに表情を緩ませるのだ。
今だって、どれほど料理に夢中になっても反応してくれるはずだと、髭切は思っていた。
だが、膝丸は振り向かない。まるで、髭切の声など聞こえていないように。
あるいは、まるで髭切の存在そのものに気付いていないかのように。

──魂を鬼に奪われたせいで、自分が消えちゃいそうになるって話があったはず。

星岡が端折った部分の話の一部が、不意に髭切の記憶の淵から蘇る。反射的に、髭切は膝丸の腕に手を伸ばし、ぐいと引っ張った。

「ねえ、弟」
「兄者!?」

果たして、膝丸はまるで突如髭切がそこに現れたかのように(ここ傍点)、目を丸くしてこちらを見ている。

「いつの間に帰ったのだ。全く気が付かなかったぞ」

足音を殺して入ってきたわけでもない。扉が軋む音、閉じる音、ただいま帰ったと呼びかける声。気付く要素など沢山あったはずだ。
なのに、膝丸は髭切に気が付かなかった。名前を呼ばれても、触れるまで、まるでそこにいないかのように。
思わず、膝丸の腕を握る手に力がこもる。弟の声がするのに、腹の底に凝る不愉快な感情が、耳を正常に機能させてくれない。

(──僕が、消えかけている?)

思い返せば、符合する部分はいくらでもある。
清麿は、お手洗いに立ち尽くしていた髭切にぶつかるまで気が付かなかった。
小狐丸は、呼びかけてもすぐに返事をしなかった。
星岡を探していたときも、通りがかった職員を文字通り『捕まえる』まで、彼は足を止めてくれなかった。
日向も、声をかけただけでは振り向かなかった。帰る途中、やけに人にぶつかったのは、道行く者が自分の存在に気が付いていなかったからだ。
ひょっとしたら、昨晩、膝丸に返事をしても彼がすぐに風呂場の扉の前から退かなかったのも、自分の存在が希薄になっているからかもしれない。

「兄者、どうかしたのか。顔色が悪いが」
「……ううん、何でも無い。弟の方こそ、顔の傷はいいのかい?」
「この程度、放っておいてもすぐに引く。手入れの申請も、直に通るだろう」
「それはよかった。じゃあ、僕は上着を片付けてくるから」

何気ない様子を装い、髭切は膝丸から手を離し、踵を返そうとした。だが、今度は髭切の腕が膝丸に掴まれ、彼は中途半端な姿勢のまま固まることになってしまった。

「……本当に、何でもないんだな」
「何でもないよ。ちょっと疲れちゃっただけ。ご飯、楽しみにしているよ」

するりと膝丸の手からすり抜けて、髭切は和室に向かう。
主は黙々とソファで本を読んでいる。きっと彼も声をかけたぐらいでは、気が付かないのだろう。
クローゼットの置かれている和室に向かい、髭切は羽織っていた薄手の上着を脱ぐ。
機械的に着替えを終え、開いたクローゼットの中のハンガーを手にとり、上着を引っかける。
何気ない、いつも通りの仕草で上着をクローゼットにしまい、扉を閉じようとして、髭切は見てしまう。
クローゼットの内側、そこに据え付けられている鏡を。

「あ──っ」

鏡の向こう側、映し出された髭切は笑っていた。およそ自分が浮かべるとは思えない、悪意が混ざった微笑を浮かべ、こちらへ手を伸ばそうとしている。
見つめ続けていては、また意識を強制的に切られるかもしれない。その間に、空となった体に鏡の向こうの自分──語られた物語曰く鬼が、何をするつもりなのか。想像するだけでも、嫌悪が湧き出てくる。

「……勝手な真似は、させないよ」

意識がふっと途切れかける寸前、髭切は腕を構え──その拳を、鏡に突き立てた。
パン、と何かが爆ぜたような甲高い音。浮上する意識と同時に、掌に鋭い痛みが走る。見れば、思った以上に力を込めて殴りつけたせいか、指にいくつか鏡の破片が突き立っていた。
鏡には、見るも無惨な亀裂が拳を突き立てた場所から放射状に広がっている。
だが、意識はある。痛みもある。だから、自分はここにいるのだと自覚を持てる。

「兄者、何かあったのか!?」

膝丸がこちらを呼ぶ声がする。それだけのことが──髭切がここにいると認識してくれるということが、今は何故だかとても安心する。
足音荒く和室に入ってきた膝丸は、クローゼット前の惨状を見て顔色を変えた。それもそうだ。兄が着替えに行くと言ったら、拳でクローゼットの鏡を割っているのだから、膝丸としては訳が分からないだろう。
亀裂の入った鏡に、髭切はそっと目をやる。映し出された髭切の顔を、罅が無残にもばらばらにしてしまっていたが、そこに映し出された髭切が勝手に違う行動をとる様子は見せていない。

「怪我をしているではないか! 兄者、ひとまず止血をしよう。ここでは危険だ。居間に戻ろう。主、救急箱を持ってきてくれるか」

てきぱきと指示を出す膝丸。彼に応じ、すぐさま十字の模様が入った箱を抱えてやってきた主。
膝丸に腕をひかれるようにして、髭切は居間に戻る。その間も彼は、先ほど目にした事象を考え続けた。
鏡から出てこようとするかのように、手を伸ばす鏡面側の自分。落ちかけた意識は、鏡を割れば何事もなく戻った。

(──綺麗な鏡に映っているときしか、干渉してこないのかな)

鏡の向こうのあやかしなら斬れまいと、小狐丸は言っていた。髭切が鏡を割った所で、その向こうにいる何者かに攻撃できたという実感はない。
つまるところ、先だって教えられた鏡に潜む鬼なるものは、鏡の中に潜んでいる状態では手出しができない。しかし、出てくるのを待っていては、先に意識を絶たれるだろう。
正確には、体から魂を追い出される──と言うべきか。

「兄者、傷が痛むのか?」

不意に弟の声が耳に割って入り、髭切は顔を上げる。気が付けば、髭切の手にはきっちりと包帯が巻かれていた。知らない間に、膝丸が手当をしてくれたのだろう。

「先ほどから、随分と表情が険しいが……」
「ああ……うん。そんなに痛くないから大丈夫だよ。あとで、手入れの申請を出さないとね」

刀剣男士の外傷は、審神者や然るべき術者による治癒を受けなければ根本的には塞がらない。
もっとも、多少の怪我は彼らの本分である戦闘に支障をきたさないので、この程度なら実は放っておいても問題はないと言えた。

「主、暫く和室には入らぬようにな。それで兄者、どうして鏡を?」

手当てが終われば、必然的にそんな問いがくることは、髭切にも予想できていた。さて、どう返そうかと髭切は悩む。
小狐丸や職員の間で広まっていた作り話めいた怪談が、実像を伴ってこちらに襲いかかってきている。そんな風に詳らかに全てを話してもよいのだろうか。
膝丸は、こちらをじっと見据えている。兄のためならば、文字通り己の命すら躊躇なく賭ける弟。彼に話せば、どういう行動に出るか、髭切にも未だ予測できない。
胸の奥で、不愉快な黒い感情がぐるぐると渦を巻いている。それを人は不安というのだろうか。或いは、恐怖と言うのだろうか。

(僕が、この鬼とやらを恐れている?)

それこそ、馬鹿馬鹿しい。鬼は、自分が退治するものであり、己に恐怖を与えるものではない。
そう考えると、膝丸に助力を乞うのは、鬼を己では討てないと情けなく自己申告するようなものではないかと感じてしまった。

「ちょっと、角度が悪くてたまたま当たっただけだよ。大丈夫。片付けは僕がしておくから、弟は夕飯を作っていなよ。お腹、すごく空いているんだ」

平常心を装い、膝丸へ微笑みかける。兄が大丈夫と言い張れば、弟は強く否定してこないと、髭切は長年の経験から推察できていた。
果たして、膝丸は予想通りキッチンに戻り、髭切は座っていたソファから腰を上げ、和室へと向かおうとした。

「……ひげきり、あの」

主は立ち上がりかけた髭切の服の裾を掴み、空色の瞳で髭切の双眸を見つめ、

「鏡割ったのって、鏡のひげきりが違うことをしたから?」

髭切は目を見開く。そして、同時に気付く。風呂の中で寝てしまったとき、髭切は主が膝丸と会話している光景を目にしていた。
主は鏡像の髭切が違う動きをしていると、膝丸に話している。
恐らく、膝丸はただの見間違えだろうと、気にも留めていないだろうが、もしまたあの話を主が持ち出したら、膝丸はすぐに気付くだろう。

「主、それは内緒にしておいてくれるかな」

主は、頼まれれば言うことを素直に聞く。まるで、それが己に課せられた使命の如く、従順に従う。
だが、彼の瞳には明らかに納得していないという気持ちが滲み出ていた。

「僕は大丈夫だよ。本当さ」

主は、ゆっくりと首を横に振る。髭切はそれ以上は主に構わず、和室へと入っていった。


***


それから二日ほど、髭切は鏡を見ないように心がけて日々を過ごしていた。
だが、彼の努力を嘲笑うように、髭切の周囲にはそこかしこに鏡があった。
窓ガラス、洗面台、ショーウィンドウに端末の液晶。鏡面に映った自分の全てが笑みを見せるわけでもなく、その殆どがいつもと変わらぬ己が映し出されているだけだ。
しかし、時たまこちらを見て笑いかける鏡像──もとい、鏡に潜む鬼の姿を目にする。
割れば解決すると分かってはいるものの、見ればひやりとすることに変わりない。
もっとも、相手も鏡面を割られたことが衝撃だったのか、相手も慎重になっているようで、意識が強制的に落ちる感覚は、演練会場以来一度もない。

(だからといって、解決したわけでもないよね。相変わらず、僕は認識されにくくなっているようだもの)

主と共に、雨上がりの道を歩きながら髭切は思う。今日は髭切だけが休暇を貰ったので、膝丸に頼まれて買い出しに出かけていた。
少し先を、主が小走りで駆けている。どうやら、雨で濡れた道を歩くのが楽しいらしい。
あれから、髭切は注意して他人が自分に対して、どう振る舞っているかを観察していた。その結果、声をかけただけや姿を目にしただけでは、髭切という存在に相手が気付いてくれないことに気が付いた。
一方で、触れさえすれば、髭切がそこにいるとは気が付く。一度気が付いたら、少し離れても存在を意識してくれているらしい。
だが、自宅に帰ってきたとき、暫く席を離れて戻ってきたとき、扉を開けたぐらいで気付かれないことが格段に増えた。

「……まあ、他の者に無視されるのは、どうでもいいんだけどね」

鬼丸や、名も知らない職員が髭切の隣を素通りしていっても、特に気にはならない。
寧ろ、今までの自分も似たような態度をとっていたので、今更何を言っているんだという気持ちもある。
だが、膝丸に呼びかけても気付いてもらえなかった、あの夜。あの瞬間に感じた、底なしの穴に足を踏み出しかけたような心地は、そう簡単には拭えない。
先を行く主が、水たまりを避けて蛇行しながら歩いているのが見える。足元に視線を落とすと、さざなみ一つ立っていない水面に、己の姿が映し出されていた。
何気なく、鏡面のような水面を見つめ、再び顔を上げようとして、

(──あれ、動けない)

足元に釘でも打ち込まれたかのように、足が動かない。指先一つ、動かせない。瞬きもできない。なのに、水面に映し出された己は、ゆっくりと膝を曲げ、こちらを鏡面越しに覗き込んでいる。
うっそりとした、不気味な笑みを口に引いて。
普段は何事にも余裕を以て接する髭切も、こればかりは頭の片隅で警鐘が鳴り響いているのを自覚せずにはいられなかった。
水面の向こう側にいる髭切が手を伸ばしている。そこまで視認した瞬間、

(あ、また)

電気のスイッチを切ったように、意識が切れた。


膝丸の背中が、ぼんやりと見える。鬼丸と、庁舎の仕事部屋で何事か話している彼の姿が、くっきりと鮮明に浮かび上がる。
夢ではない。恐らく、また体を残して魂だけでさまよい出ているのだと、髭切はもう分かっていた。

「こんなことしている場合じゃない。戻らないと」

戻らなければ、あの空っぽの中身がない自分はどうなるのだろうか。映し出された向こう側の存在に手を出され、そして──奪われるのだろうか。
小狐丸は魂を攫うと言っていたが、奪われるのは体の方かもしれない。あるいは、両方か。どちらにせよ、髭切としては到底看過しがたい行為だ。

「膝丸、聞こえてる? 膝丸!!」

膝丸の側に寄り、大きな声を出しても、当然彼には聞こえていない。肩に触れようにも伸ばした手は空を掴むばかりで、気付いてもらえようがない。
己の失態に歯がみしようにも、既に遅きに失している。万事休すかと思った瞬間、髭切は思い出した。

「そうだ、僕と一緒に主がいたから、もしかしたら」

あの場には、少し先を歩いている主がいる。彼なら、髭切の異変に気付いてくれるのではないか。そこまで考え、髭切は思わず苦笑いを零す。

「……彼には、何もしなくていいとか、言っていたのにね」

主に多くを求めるつもりはなかった。それは事実だ。だが、今、自分の器を守ってくれる者がいるかもしれないと思えたおかげで、閉ざされかけた視界に一筋の光明が差し込んだような心地になっている。
彼の心に灯が灯ったのを待っていたかのように、不意に視界がぐらりと揺れた。


「ひげきり、ひげきりっ」

ぱしゃぱしゃと水の跳ねる音がする。その音に誘われるように、意識がふっと戻ってくる。
視界には、目映い雨上がりの道。黒く濡れた歩道は、夜闇をそのまま写し取ったかのように鈍く光っていた。
ぱしゃり、と再び軽やかな水音が響く。視線を下にずらすと、髭切より頭二つ分小さな少年が、水たまりに足を突っ込んで立っていた。

「ひげきり」
「うん。僕だよ。……ありがとう」

数日前に鏡を割ったときと同じように、主が映し出された向こう側の世界を乱してくれたおかげで、どうやら幽体離脱のような状態から戻って来られたようだ。
主が意図してやったのか、やっていないのか、それについては問う必要もない。恐らく、もう主は気が付いていると髭切は察していた。

「……僕、さっき、どんな感じになってた?」
「ぼーっと、していた。遠くを見ているみたいな、でも何も見ていないみたいで……空っぽな、感じ」

少年は訥々と語ってから、不安を微かに覗かせつつ髭切を見つめていた。

「空っぽかあ。じゃあ、目当ては体の方かな……?」
「ひげきり」

考えを纏めようとしている髭切の袖を、主が軽く引いている。彼にしては珍しい行動だと、髭切は思考を中断して主へと視線を落とす。

「ひげきり、ここにいる?」
「……僕は、ここにいるよ。大丈夫」

だが、主は首をぶんぶんと横に振る。彼は、頑なに髭切が「大丈夫ではない」と主張している。
髭切がクローゼットの鏡を割った日から、主は注意深く髭切の表情を見つめていた。
そのことを、髭切自身は気がついていたが、彼が余計なことを言わない限りは沈黙を選んでいた。

「ひげきりは『自分とひざまるが頑張りすぎないように気をつけたいから、主としていてほしい』ってぼくに言った」

唐突に、主は数週間前に髭切が彼に語って聞かせた言葉を、彼なりにかみ砕きながら言葉にした。
そんなことも言ったな、と髭切も思い返す。
お互いがお互いを守りたいと願ってしまうので、どうしても髭切と膝丸だけでは歯止めが利かず、後先を省みない行動をしてしまいがちだ。
だからこそ、互いを守りたいあまりに自分を蔑ろにするという事態を避けたいと思い、主という緩衝材を用意した。その役割を、主は主なりに正しく認識しているようだ。

「……でも、ひげきりは、一人で頑張りすぎてる」
「いやいや、そんなに頑張りすぎてないよ。僕は大丈夫」
「だいじょうぶ、じゃない……と、思う」

断定の形で言い切らなかったのは、主を見据える髭切の瞳が、酷く冷めたものになっていたからだ。透き通った琥珀に似た目は、平坦に整えた感情で主を睥睨している。普通の人間なら、思わず身を竦めてすごすごと引き下がっていただろう。
けれども、主は髭切の予想に反して、言葉を続ける。

「最近、ひげきり、ひざまると話していても、悲しい顔をしてる。ひざまるも、少し、気付いている」

髭切は柳眉を微かに歪め、目を伏せる。膝丸に対しては、完全に平静を装っているつもりだったが、やはり弟は察知してしまっているようだ。
だったら尚更、彼をこの事態から遠ざけねば、と髭切は思う。弟が先走って大変なことを仕出かさない内に、事態を一振りで解決せねばいけない、と。

「ひげきりの大変なこと、ぼくじゃ、何もできないけれど、ひざまるなら、ひげきりが相談したら何かできるかもって」
「……それは駄目だよ。弟は、僕のことになると一人で突っ走ってしまう。僕はもう、膝丸がおかしくなる姿は見たくない」
「ひげきり?」

主の声に、髭切は応えない。彼の思考は今、数ヶ月前の思い出の中を揺蕩っていた。膝丸が忘れてしまった、数ヶ月間のことを。
不意に、ぐいぐいと服の袖を引かれて、髭切は我に返る。主は、髭切の冷たい視線を目にしても一歩も退かずに、髭切を見つめ返していた。
その小さな手は震えている。そのか細い足もまた、膝が笑い出して今にも崩れ落ちそうだ。けれども、主はまだ髭切を見つめている。

「……ひげきりは、ぼくに、主になれって言った。二人だけだと、頑張りすぎてしまうからって。それは、ひげきりも……じゃないの」

膝丸が突っ走りすぎないようにと、髭切が用意した楔。
彼を主に据えると決めたとき、髭切は自分もいずれ無茶をして倒れてしまうだろうと頭では理解していた。だからこその、安全装置が必要だ、と。
けれども、いざ自分が無茶をする側に回ったとき、結局一人で頑張りすぎているのではないかと、主は問いかけている。
しかし、と同時に思う。
膝丸の姿を思い出すと、おいそれと彼に相談してはいけないという考えが芽生えてしまう。

「さっきも言ったよね。弟は、僕のことになると、少し向こう見ずになる。自分が壊れてもいいって、全力で走っていってしまう。残された僕の気も知らずに」
「……ひざまるは、ひげきりを置いてかないよ」
「どうだろう。主は知らないだろうけど、前例もあったんだよ」
「でも、ひざまるは、『兄者は俺を置いていかない』って言ってた」

あの子供たちが集う社で膝丸が口にしていた言葉を、必死に思い返し、主は髭切に伝える。

「『兄者の隣には、俺がいなければならない』って」

髭切は、小さく息を飲む。己より頭二つ分小さい少年の瞳の奥に、弟の薄緑の影が、琥珀色をした瞳が、こちらを見つめているような気がした。
膝丸は、きっぱりと言ったのだろう。
推測ではなく、可能性ではなく、絶対の信頼を以て、髭切は己を置いていかないと主の前で告げたに違いない。
それほどまでに、強い信頼を弟は掲げている。対する自分は、どうなのだろうか。弟が兄に向けた絶対の信頼に、応じられる兄でいただろうか。

「……そうだね。僕は、弟を見くびっていたのかもしれない」

決して、膝丸のことを弱いとか、守ってやらなくては、と思っていたわけではない。そのような柔らかな関係は、自分たちの中にはない。
だが、弟という存在が隣から消える瞬間を思うと、自分の体がばらばらになったような喪失感に襲われる。
足元が崩れ落ちて、真っ暗な世界に落ちていくような虚無が、体の中に広がっていくようにすら感じる。

「僕は、自分がどうかなることには、あまり怖いとか、不安だって気持ちにはならないんだよね」

ぽつり、と髭切はここ数日で感じた言葉を、音としていく。

「勿論、あんな鬼だか何だかはっきりしないものに、翻弄されているというのは、当然僕としては不愉快なわけではあるのだけど、でもそれ以上に──僕は」

自分の存在に気付かず、通り過ぎていく弟。呼びかけても、触れなければその存在を認識すらしてくれない膝丸の姿。
己の体が得体の知れないものに狙われているとか、魂だけで外にさまよい出ているとか、そんなことすらどうでもいいと思ってしまった。

「僕は、弟に、いないものみたいに扱われる方が、胸が痛くて」

これではまるで、彼にもたれかかってしまっているようで、そんな言葉は弟には聞かせられない。けれども主なら、黙ってほしいと言ってくれれば、彼は沈黙を守ってくれるから。
いつもとは違う、少しくしゃくしゃに崩れた笑顔で、髭切は己の心情を吐き出す。

「膝丸に、気付いてもらえない方が、いっとう──嫌みたいなんだ」

惣領としてではなく、源氏の重宝としてではなく、ただの膝丸の兄としての言葉を。

「……家族に、気付いてもらえないのは、悲しいことだと、ぼくも思う」

主も、瞳をゆるりと閉じて、嘗ての日々を思い出す。彼女に、いないもののように扱われ続けていた日々を。
暫しの沈黙を経て、髭切はふっと軽く息を吐き出し、

「弟に、相談してみるよ。ちゃんと、二人で、頑張りすぎないぐらいに頑張って、何とかしてこようかな」
「うん」
「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫だよ。僕は源氏の重宝、髭切さ。弟と一緒なら、どんなものだって斬ってみせるよ」

主の頭をわしゃわしゃと撫でてから、髭切は携帯端末を取り出し、慣れた手つきで最も通話回数の多い相手へと電話をかける。すぐに「兄者か?」という声が聞こえてきた。

「あのね、お前に話したいことがあるんだ。今日、少し早く帰ってこられるかな」

すかさず応じる膝丸。動揺もせずに、こちらの言葉を待つ姿に、この数ヶ月の間で想像以上の成長を彼もしていたのではと、髭切は言葉を交わしながら喜ばしく思う。

「ちょっと……相談したいことがあって」

自分にとっては、口馴染みのなさすぎる言葉だ。それでも、すかさずに了承してくれる膝丸の声に、髭切は確かな頼もしさを感じていた。
二振一具の重宝。ならば、二振り揃えば、敵はなし。
今なら、どんな存在でも容易く退けられるに違いないという思いが、髭切の心にはっきりと浮かび上がっていた。


***

翌朝、髭切と膝丸はいつもよりずっと早い時刻に、庁舎へと辿り着いていた。
昨晩帰ってきた膝丸に、ことの経緯の一切合切を打ち明けたところ、まずはその鏡を見たいと言われたため、こうして予定より早くやってきたのである。

「ねえ、弟。いつまで僕の腕を掴んでいるんだい」
「俺が兄者に気付かないなどと、そんなことがあってはならない。こうして掴み続けていれば、少なくとも気付かないなどということにはならないだろう」

髭切がした〈相談〉の中で、一番深く膝丸が後悔していた事項は、髭切が側にいたのに気付かず無視してしまっていた、という状況だったらしい。
髭切としては、寧ろ異常に気づけた切っ掛けになったのだから、そこまで落ち込まなくていいと言いたかったのだが、膝丸としては到底許しがたい過ちだったようだ。
結果、今はこうして腕まで掴まれて歩く羽目になっている。正直、少し歩きづらい。

「僕から触りに行けばいいだけの話じゃないか。それに、一度気が付いたら側にいる限りはちゃんとお前も僕に気が付いていたよ」
「しかし、兄者」
「もし戦闘が必要になったなら、片手が塞がっているのは危険だよ。それぐらい、弟にも分かっているだろう?」

至極もっともな意見を投げかけると、膝丸は不承不承納得したようで、髭切から手を離した。それでもいつもより幾らか距離が近い。
常より近くに見える薄緑の髪を視界に収めながら、髭切は資料室に辿り着いた。
鏡を覗く危険性は髭切も重々承知しているので、部屋の中に入るも、髭切はカウンターの辺りを見渡すだけで、鏡には背を向けるように徹底していた。
ぼうっと辺りを見渡していると、カウンター奥の管理室から日向正宗が姿を見せる。案の定、こちらを素通りしていくが、髭切も慣れたもので、すかさず彼の服の袖をカウンター越しに摘まんだ。

「うわっ、びっくりした。髭切、やけに今日は早いんだね。捜し物かな」
「ちょっとした探検だよ。弟が、鏡を見たいって言っていてね」

今まで聞いていた怪談噺と現在の状況を鑑みれば、恐らくあの話は作り話だけではないだろう。
伝わっていく過程で、適当に改変や創作は加えられているかもしれないが、鏡に封じられた鬼という根幹だけは揺るがないだろうと髭切は考えていた。
だからこそ、鏡越しに取り憑いた摩訶不思議な存在が、こちらに影響を及ぼしているに違いない。

「鏡といえば、この前、あの鏡がいつの頃のものかって聞いていたよね。一応、調べておいたよ」
「ありがとう。学校時代のものだったかい?」

鏡に封じられた鬼ならば、まず間違いなく古い時代のものだと髭切は確信を抱きながら、日向に問う。
日向は手にしていたタブレット端末を起動し、宙空に映像を映し出した。いくつか操作を経てから、彼は一つ頷き、

「十年ほど前のものだね。備品をまとめて購入する際に、ここの前の管理者が購入したみたいだよ。古い見た目はしているけど、ただアンティークっぽくしているだけの新品だったみたいだ。こういう仕事をしていると、顕現してもいないのに、付喪神が出てきても困るから、わざと新品のものを用意したんだろうね」

髭切は、一度瞬きをして思わずじっと日向を見つめてしまった。少年らしいあどけなさの残る顔には、当然嘘を言っているような様子は微塵もない。

「……本当に?」
「うん。この奥にいる資料室の管理人の人にも聞いたから、間違いないと思うよ。彼は、当時の管理者の部下だったそうだから」
「じゃあ、その前はあそこの柱に何かなかった?」
「この前模様替えしたときに、あの鏡も一時的に外したんだけど、柱には鏡以外の穴も跡もなかったよ。他のものは掛けていなかったんじゃないかな。それがどうかしたの?」

髭切は、何も言えずに日向を見つめることしかできなかった。
怪談噺の大枠は作り話であっても、発端となる鏡だけは本物だろうと思っていた。ならば、それに蓄積されるだけの逸話なり経緯なりがあるに違いないと、予想していた。
なのに、日向はそんなものはないという事実を、この上なくはっきりさせていく。だが、髭切の身に襲っている異常は、虚構のものではないと、髭切が誰よりよく知っている。
事実と物語。現実と虚像。鏡の向こうと、こちら側。
自分は一体何を信じればいいのか、髭切は足元に立つ地面すら崩れていくような感覚に襲われながら、その場に暫し立ち尽くしていた。
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