本編の話
ふああぁあ、と大きな欠伸が口から漏れる。辛うじて手で隠してみたものの、音の幾らかは漏れてしまった。
「眠いのかい」
「うーん、少し」
涙のにじむ瞳を擦っている髭切は、声をかけてきた少年に生返事で答える。柔らかな笑顔は、髭切のそれと似ていた。
厚手の外套を着込んだような姿、越に吊した一振りの刀、藤色の癖毛は鍔のついた学生帽のような帽子で抑えている。彼の名は源清麿。髭切と同じく、刀剣男士の内の一振りだ。
「演練会場の警備は、比較的楽だからね。眠くなるのも仕方ないよ」
「そうだねえ。しかも、ここは静かだから」
彼らの立っている場所は、演練会場として用意された大型施設──その受付ホールにあたる場所だった。
ここから多くのホールや外に広がる敷地に繋がっており、山奥の辺鄙な土地に建てられていなければ、大きな大会を開くための競技場と思われていたことだろう。
審神者同士が交流し合い、本丸の刀剣男士たちが試合を行う場。
刀剣男士が、己の力を全力で振るい、己の全力を確かめるための場所。
それが、演練会場の役割である。
「演練を実際に見たことはあるかな?」
「参加もしたことはあるよ。人数が足りないからって、急遽頭数に入れられたんだ」
「へえ、それは興味深いね。結果はどうだったんだい?」
「うん。弟と僕で圧勝だったわけなんだけど、僕たちがずるをしたんだって食ってかかられてねえ」
当時のことを思い出し、髭切は目を細める。もっとも、懐かしめるような温かな記憶ではなかった。
「僕のことを悪く言うのは別に良かったんだけど、弟が卑怯な手を使ったって詰られるのは見ていられなくてね。刀剣男士をけしかけてきたから、僕も刀を抜いたら、それはそれは怒られてしまったんだよ」
「あはは……。まあ、僕らは基本、黙って人間の言うことを聞いていないといけない立場だからね」
「結局、左遷されちゃったよ。それまでは時間遡行軍の偵察を任務としていたんだけど、今は便利屋半分、鬼退治半分……かな?」
「そっちの方が楽しそうだね」
清麿は帽子に軽く手を当て、困ったように肩を竦めてみせる。
「そちらはどうなんだい?」
「僕も便利屋みたいなものだね。まだ顕現して間もないから、色々と勉強中の身なんだ。今日もその一環ということだよ」
どうやら、清麿は自分よりずっと顕現して日の浅い刀剣男士らしいと、髭切は彼への評価を改める。
膝丸が別の会場の警備を任されている以上、背中を預ける相手は彼になる。相手の力量は正しく測っておく必要があった。
「一本、手合わせしてみる? いい眠気覚ましになると思うんだ」
「また左遷されてしまうよ、髭切」
「……冗談のつもりだったんだけどなあ」
大真面目に指摘をされ、髭切は吊した刀に添えた手を下ろす。
昔はこうやって冗句でからかうようなこともなかったのだから、髭切なりの進歩とも言えたのだが、生憎清麿としては笑えない冗談だったらしい。
場を和ませるというのは、なかなかどうして難しく、高度なテクニックを求められる。
「でも、眠いのは本当でね」
再び、ふああぁ、と欠伸が漏れる。
「眠れなかったのかい?」
「というより……何だか妙な夢を見てしまって」
昨晩、風呂で溺れかけた髭切はそのまま床について、更に奇妙な夢と相対することになった。
真っ黒な世界に、自分がいる。そして、正面にも自分がいる。手を伸ばせば、正面の自分も同じ動きをしていた。
目の前に鏡があるのだと理解すると同時に、指先が鏡面に触れる。ぴったり重なった掌。向かい合う自分の琥珀色の瞳に、秋の稲穂を思わせる黄金の髪。
何の変哲もない、鏡あわせの自分を見つめている。だが、不意に鏡の向こうの自分が、こちらが動いていないのに動きを見せた。
「……それで?」
「笑っていたんだ。何だか、とても楽しそうに──嫌な笑い方で」
目を細め、口元を吊り上げ、鏡面向こうの髭切は笑ってみせていた。
普段、膝丸や主に見せているゆったりとした微笑みとは程遠い。その笑みに潜む意思は──明らかに、悪意に満ちていた。
「そこで、目が覚めちゃった。起きたら朝だったんだけど、妙に体が気怠くって。人の体って色々と面倒だね」
「それなら、こう……切り替えてしまったらどうだい?」
清麿の言う「切り替える」というのは、身体的疲労や眠気、五感の一部を意図的に遮断する行為のことだ。元々が鋼の刀剣男士なら、大体の個体ができる。
もっとも、人間性の欠落にも繋がるとは、髭切もここ最近まで日常的に行っていたためによく知っていた。
「そうしたつもりなんだけど……何だかちょっと、ふわふわしたままで」
「ふわふわ?」
「地に足がついていないような感じ? 雲の上を歩いているよう……って言えばいいかな」
「それは深刻だね。ああ、そうだ。それならちょっと顔を洗ってくるかい? 少しの間なら、警備が一振りでも大丈夫だと思うよ」
清麿に提案され、髭切は暫し悩んだものの、結局首を縦に振った。
演練会場は、確かに多くの審神者と刀剣男士が詰め寄るために、歴史を改変したい敵方に狙われると危険な場所ではある。だが、そのために警備も相当入念に行われていた。
結果として、髭切が顕現してから演練会場を敵が襲撃したという話は聞かない。
だからといって、気を緩めていい理由にはならないだろうが、寝ぼけ眼で敵に相対するのも決して褒められることではないはずだ。
「顔を洗うなら、あっちにお手洗いがあったはずだよ。ここは僕一人で見ておくから、行ってきたら?」
「じゃあ、頼もうかな。あ、弟には内緒にしておいてくれるかい」
「あはは、勿論。代わりに、僕が何か失敗をしたら、水心子には黙っておいてくれるかな?」
清麿の言う『水心子』というのは、彼の友人である刀剣男士だ。警備が始まる前に顔合わせはしていたが、生真面目そうな雰囲気が弟に似ていると髭切も思っていた。
「そうだね。了解したよ」
清麿に軽く手を振り、髭切は彼の指し示すお手洗いへと向かう。
目的地であるお手洗いは、演練の真っ最中ということもあり、利用者はいなかった。
据え付けられた手洗い場の蛇口を捻り、流れ出た水で顔を洗うと、冷えた空気が頬を撫でていく。幸い、眠気もおさまってきた。
膝丸に持たされたハンカチで手や顔の水を拭い、髭切は顔を上げる。
大きな鏡に映し出された、戦装束姿の自分。白い上着に、片袖を覆う白い籠手。いつも通りの姿。だが、その顔だけは──笑っていた。
「え?」
笑っているつもりはないのに、鏡の自分だけ笑っている。
首を捻ってみせるも、鏡向こうの髭切の首は動かない。彼は笑い続けている。目を弓なりに細め、口角をゆっくりと吊り上げて。
「お前は──」
お前は、何だ。
唇が音を発するより先に、髭切の意識がぶつりと途切れた。
***
たとえば、駆動中の機械のコンセントを無理矢理抜いたかのようだと、髭切はぼんやりとした意識で思う。それほどまでに、唐突な意識の落ち方だった。
ただ、意識が落ちたと理解している自分はいる。まるで外側から己の体を眺めているように。
その不可解な感覚を、これまた俯瞰した視点で観測していた髭切は、己の体らしきものをぼんやりと自覚して周りを見渡す。
(……演練会場?)
ホールの向こう側に広がっている、広大な演習場という名の森。その一角に自分は立っているらしいと、髭切は理解する。
警備のために一通り、会場内は探索してまわったので、間違いはあるまい。
平穏な山奥の一幕に一瞬呆けてしまったが、髭切はこの事態が明らかに異常だと察知していた。何故なら、先ほどまで自分は確かに起きていたからだ。
「夢じゃない、よねえ」
無論、鏡を見て唐突に寝落ちした──と考えられなくもないが、直前までの記憶ははっきりしている。だからこそ、違うのではないかと推測を打ち立てられた。
鏡の向こうで笑っていた自分の鏡像を見間違いと断ずるには、気になる要素が揃いすぎている。更に思考を進めていくより先に、不意に誰かが怒鳴りつけるような声が聞こえ、髭切は思索を中断することになった。
「──不正を行ったのは、そちらの方だろう!!」
「俺の目で、そちらの刀剣男士は敗退と判断した! 審判もそのように告げていたのを、聞いていただろう」
膝丸の声だ。反射的に、髭切は弟の声がする方へと足を向ける。木々や草むらをかき分ける必要があったはずなのに、全く足をとられずに髭切は奥へと進めることができた。
まるで自分が透明人間になったような感覚も気になるが、今は弟が声を荒らげている理由の方が気になる。
「貴様が、あちらの審神者から賄賂を貰って、結果を改竄したのだろう!!」
「そのようなことをして、俺に何の利がある。試合の結果は、先ほど通達のあった通りだ。異論は認めん」
どうやら、演練結果に不満がある審神者が膝丸に因縁をつけているらしい。
膝丸は警備だけではなく、このように視界の悪い場における演練結果──誰が誰を討ち取ったかを記録する役も受け持っていたようだ。
審判役の職員が見当たらない所から察するに、職員自身は早々に立ち去り、残っていた膝丸が貧乏くじを引かされることになったのだろう。
「──くそっ」
木立をすり抜けるようにして、髭切は膝丸の姿を見つける。件の審神者らしき男と、その後ろには数振りの刀剣男士の姿が見えた。
どの刀剣男士も、いちように平坦な瞳をしている。物らしく、物として主に仕えることを選んだ刀剣男士の姿だと、髭切は直感で気付く。
審神者の方は、未だ納得できないという顔で膝丸を睨むと、
「ああ、そういえば、政府の刀剣男士は人間に手をあげてはならないという決まりになっていたんだったな」
何やら閃いたという顔をして、彼は膝丸の前に立つと、唐突に拳を振り上げた。
「貴様っ──!!」
髭切が声をあげても、彼の声も姿も今見えているものの目には映っていないようだ。主の横暴を、控える『物』たちは止めようとしない。膝丸も、規則に従わねばならない以上、顔を顰めるだけで黙って立っている。
鈍い殴打の音と共に、膝丸の頭が僅かに傾ぐ。
人間に殴られた程度の衝撃は、時間遡行軍に斬りつけられたものに比べれば大したものではない。だが、だからといって何も無いわけではない。痛みはあるし、腫れもする。
「──確かに、政府の刀剣男士が人間に直接手をあげることはできない」
膝丸は、ふん、と鼻を鳴らして続ける。
「だが、不要な怪我を負った理由は、申告する必要がある。貴様がどこの本丸の、何という名の審神者か、俺は知っている。後は、人間同士で好きにやっていればいい」
膝丸は踵を返して、残された審神者を無視して歩いて行く。その後ろを、彼には見えていないのだろうと思いながら、髭切は後を追う。気分はまるで亡霊のようだ。
「弟、今、わざと殴らせたでしょ」
膝丸の言った通り、怪我をしたら手入れをするために申請を行うときに、負傷理由も明瞭にする必要がある。
私闘や命令違反の場合は、危険因子として手入れは後回しにされるし、出陣や調査の場合はすかさずに手配される。
そして、あのように不当に誰かに手をあげられた場合は、当然犯人を報告するのも彼らの義務だ。
冷静そうに見えて、実はかなり怒っていたなと、髭切は膝丸の気持ちを分析していた。
「腹が立つのは分かるけど、それでお前が怪我をするのは、兄として嬉しくないなあ」
聞こえていないとは分かっていても、言葉は先んじて飛び出てしまうものだ。髭切が懇々と説教をしていると、
「兄者こそ、似たようなことがあったら、同じ選択をしたのではないか?」
不意に膝丸が振り返り、髭切に向かって声をかけた。だが、すぐに怪訝そうに眉根を寄せ、首を捻り、
「……俺は何を言っているんだ? 兄者は、今は受付ホールの警備をしているはずだ」
「弟、僕の声が聞こえるのかい? 僕は今、一体どうなっているんだい?」
だが、膝丸はそれ以上は髭切に声をかけるような素振りは見せず、背中を向けてしまった。後を追いかけようとした瞬間、不意に体が揺れ、そして。
***
「うわ、ごめん」
視界がぐらっと揺れる。どうにも足元が覚束なく、思わず尻餅をつきそうになるが、一歩足を後ろに下げて何とか姿勢を保った。
真正面にある鏡には、驚いた顔の己が映し出されている。その側には、藤色の髪をした少年が、これまた驚愕の顔でこちらを見つめていた。
「清麿?」
「大丈夫かな。そこにいる気配がしなくて、ぶつかってしまったよ」
髭切は口早に「平気だよ」と返事をして、周りを見渡す。
流しっぱなしになっている蛇口。入ったときとはほぼ変わらないお手洗いの光景。恐らく、意識が落ちてから長い時間が経過したわけではなさそうだ。
「君の帰りが遅かったから、様子を見に来たんだ。覗き込んだときは、いる気配が全くしなかっんだけれど、水の流れる音がしたから念のために中まで覗いて確認しようとして」
「君に聞きたいことがあるんだ。僕は、ここで何をしていたのかな」
先ほど目にした膝丸の光景が、視界に焼き付いて離れない。
もしあれが夢ではなく、自分の精神のようなものだけが体から抜け出ていたというのなら、残った体がどうなっていたのだろうか。
果たして、清麿は顎先に指を当て、困ったように眉を寄せ、
「それが……君にぶつかるまで、ここにいるって気付かなかったんだよね」
「え? そういえば、覗き込んだときはいる気配がしなかったって言っていたね」
清麿とて刀剣男士だ。新参者ではあるにしても、隠れているわけでもない髭切がいるかいないかぐらいは、すぐに察知して然るべきだ。
だが、彼は鏡の前にいたはずの髭切を「ぶつかるまで気が付かなかった」と言っている。
「ただ、ぶつかった直後……つまり、今になってしまうけれど、君は鏡を見たまま突っ立っていたよ」
「どんな顔で?」
「ぼーっとしていたかな? すぐに、気が付いたようだったけど……そうだね、まるで魂が抜けているみたいな」
髭切は目を見開く。清麿はただの比喩で言ったのだろうが、髭切は昨日小狐丸から聞いた話を急速に思い出していた。
──鏡の前でうっかり眠って隙を見せると妖怪が取り憑いてしまい、それからずっと鏡の中から取り憑いた相手に迫り続け、いずれはその者の魂を抜き取ってしまう。
そんな馬鹿な、と一笑に付した怪談だ。小狐丸自身、実在する妖怪とは思っていなかったのだろう。
だが、あの日から髭切はやけに膝丸の夢を見ていた。先だっても、この演練会場の一角にいる膝丸の夢を見ている。いや、あれは夢ではない──はずだ。
「清麿。鏡に映っていた僕は何をしていた?」
髭切は、らしくもなく鋭い声で清麿に尋ねる。突然の奇妙な質問だったが、清麿は大真面目に考える素振りを見せてから、
「……ごめん。そこまでは確認していないな」
申し訳なさそうに言う清麿に、髭切は簡単に言葉を残してお手洗いから出る。
今すぐにでも膝丸に会いに行きたい気持ちはあるが、本日の任務はまだ終了していない。勝手に持ち場を長時間離れたら、それこそまた左遷されてしまうかもしれない。
「体調が良くないなら、管理の職員に連絡しようか?」
「いや、いいよ。ちょっと、ぼーっとしただけだから」
後を追いかけてきた後輩にひらひらと軽く手を振り、髭切は平気であることを強調する。
体調不良で任務を辞退した、などというのは髭切としては許しがたい甘えにも感じられたし、何よりそんな姿を膝丸に知られたくはない。
彼にとって望ましい兄の姿をいつでも示したいのだと、髭切は固く決意していた。故に、途中退却などはあり得ない。
「大丈夫、僕は平気だよ」
***
その日、任務を終えて髭切は膝丸と合流してすぐ、弟の顔の様子を確認した。あの審神者に殴られた部分が、微かに赤くなっている。
腫れは既に引いており、膝丸自身特に気にした素振りも見せていなかったので、普段なら見落としていただろう。
「……ねえ、弟」
庁舎に戻り、仕事部屋に報告を置きに向かう途中、髭切は足を止めて膝丸に問う。
「その頬、どうしたの?」
「ああ、言っていなかったか。今日の任務中に、難癖をつけてきた審神者に手をあげられてな。顔も名も覚えているから、後で手入れを頼む際にしっかりとその件については伝えるつもりだ」
彼の言い分も、怪我の場所も、あの一瞬意識が落ちた瞬間に目にした光景と合致している。偶然ではない。あれは、夢ではないと髭切は確信した。
意識が落ちたときに見ている膝丸の様子は、まず間違いなく、その瞬間の彼そのものなのだろう。夢ではなく、髭切の意識──ないしは魂と呼ぶものだけが外に飛び出て、迷い出た挙げ句、膝丸の元に行き着いているらしい。
「すまない、兄者に隠していたつもりではなかったのだが」
「ああ、知っていたからそれはいいよ。あまり、無茶はしないでもらいたいけれど」
言ってから、髭切は思わず口を引き結ぶ。あの場にいたのは、不埒な審神者とその刀剣男士、そして膝丸だけだ。膝丸が他の者に言いふらしていない限り、髭切が本来知るはずがない情報である。
「……知っていたとは、いったいどういうことだ?」
「ああ、うん。弟がもめているのを聞いていた者がいてね、心配で僕の所にまでわざわざ教えに来てくれたんだよ」
「そういうことか。ともあれ、俺はこの件を報告しに行く。兄者はどうする? 俺を待っているか?」
「そうだねえ。ちょっと小狐丸に話があるから、僕も一緒に行こうかな」
膝丸と他愛のない雑談を繰り広げながら、髭切は思考を目まぐるしく回転させていく。魂が迷い出て、膝丸の元に向かうのはおかしくはない。元々、髭切と膝丸は二振で一具と言われているような刀だ。
己の片割れには、否応なく惹きつけられるものだろう。
(もし、小狐丸の話が本当だとして……でも僕はまだ完全に魂が抜き取られているわけではなさそうだった。こうして、今は歩いて話しているし、体もちゃんと動かせている)
しかし、だからといってこのままにしていいとも思えない。故に小狐丸から、先だって教えられた怪談をより詳しく聞こうと髭切は考え、今こうして彼らの仕事部屋へと向かっていた。
幸い、小狐丸はまだ残って、何やら荷物の準備をしていた。聞いた所によると、暫く遠出の調査をするように命じられたらしい。
「小狐丸、ちょっといいかな?」
膝丸がせっせと報告書や申請書を作り上げているのを確認してから、髭切は小狐丸に声をかける。だが、小狐丸は荷造りに必死になっているのか、振り返ろうともしない。
「小狐丸ってば」
ちょんちょんと体をつつくと、小狐丸は初めてこちらに気が付いたように、驚いた顔で髭切を見つめる。
「おや、帰っていたのですか。どうしたのですか?」
「えっとねえ、この前教えてもらった話、あったでしょう。あれ、もうちょっと詳しく聞きたいんだけど」
できる限り固有名詞をぼかしたのは、膝丸が同じ部屋にいるからだ。髭切の弟は、妙な所で勘が鋭い。その上、兄の身に危険が迫っていると知ると、無鉄砲になることがある。
彼に徒に心配をかけないために、できるだけこの事態を髭切は一人で解決するつもりでいた。
「髭切殿に興味を持っていただけたのは大変嬉しく思いますが、生憎私はあれ以上の話は覚えていないのです。私に教えてくれた者に、直接尋ねた方が早いかと思いますよ」
「それは誰だい?」
「霊地管理の課に所属していた事務員の者です。確か名前は……星岡、とか言っていましたかな。女性の者でした」
「その人、今会えるかな?」
あまりに不躾なお願いだとは承知しているが、事態を曖昧にしたまま日々を過ごすのを髭切は良しとする性格ではない。
「彼女なら、まだ管理課の方に残っていると思いますよ。今晩、私と共に出立する調査員たちの中に名前が含まれていましたから。話を通しておきましょうか?」
「お願いするよ」
小狐丸は自分の携帯端末を用いて、手早く件の職員に要件を伝えてくれた。三十秒ほどのやり取りの後、小狐丸は髭切に向き直り、
「しかし、随分と急ですね。何かあったのですか?」
まさか、本当に魂が抜け出ているとか、鏡の向こうにいる自分の様子が変だとかは、ここで語るわけにはいかない。視界の端にいる膝丸は、今は手を止めて髭切の様子をそれとなく窺っていた。
「いや、知り合いに話したら詳しく知りたがっていてね」
「ほう、それはそれは。その方に私も是非、お目にかかりたいですね」
適当に愛想笑いで誤魔化してから、髭切は膝丸に「ちょっと出かけてくる」と言葉を残して仕事部屋を後にした。これ以上、小狐丸と話していては色々と余計な方向に話が転がっていきそうだったからだ。
霊地管理課──通称管理課は、あの山姥切長義も所属している課だ。庁舎の二階の半分は、この課の仕事部屋になっている。
階段を駆け上がり、適当な職員を捕まえて「星岡という女性職員はどの部屋にいるか」と尋ねたら、怪訝そうな顔をされながらも、すぐに髭切を彼女の元へと連れて行ってくれた。
「あっ、あなたが小狐丸さんが言ってた髭切さん? 私が小狐丸さんに教えた話を、もっと詳しく聞きたいって言っているんだっけ」
二十代半ばぐらいの、黒髪を短く揃えた快活そうな女性が、案内された髭切を出迎えた。黒縁の眼鏡の奥に覗く茶色の瞳は、好奇心できらきらと輝いている。
髪の毛に結ばれた赤い紐飾りが特徴といえば特徴だろうか。恐らく、霊的なお守りなのだろう。
「そうそう。小狐丸は『鏡の中にいた妖怪が、寝ている人の隙をついて取り憑いて魂を攫っていく』とだけ話していたのだけれど、何だか簡潔すぎる気がしてね」
仕事の合間に怪談話を教えてくれと押しかけているのに、彼女は嫌な顔一つせずににこにこと髭切の話を聞いてくれていた。恐らく、生粋の『怖い話』が好きなタイプの人間なのだろう。
「そっかあ。それだけだったら、随分と面白みのない怪談に聞こえるね。それで、そんな簡素な話のわけがないって私まで確認しに来たわけだ」
どうやら、彼女の中ではそういうことになっているらしい。訂正して話が拗れても嫌なので、髭切は笑顔で頷くに留めて置いた。
「あれって、実はこの庁舎がまだ学校として使われていた頃の怪談って体裁で話が始まっていてね。えーっとね」
そう言って、彼女は髭切へと語り始める。
昔、この古めかしい木造庁舎は小学校として使われていた。今でこそ多くの大人がひしめき合っているが、ここは子供たちが学業に勤しむ場だったのである。
そして、学校というのは、怖い話や怪談の温床にもなる。学校の怪談とか七不思議と言われるものだ。
その中の一つに『図書室の鏡の前で寝てはいけない。寝たら鬼に取り憑かれて、魂を抜かれてしまう』というものがあった。
「鬼?」
「そう、鬼。先にネタばらししちゃうと、鏡に封印されている鬼が悪さをするっていう話なのよね」
鬼という単語を聞いて、髭切は背に負った刀袋の肩紐に無意識に手をかけた。
「それで、本当に鏡の前で寝た人間はいたのかい?」
「話の中ではね。一人の女子生徒が、そうとは知らずにうっかり寝てしまって、大変な目に遭うの」
うたた寝をしてしまっていた彼女は、家に戻ってから鏡に映る自分だけが、自分がしていないはずの挙動をするようになったと気が付いた。
毎回ではないが、ふとした弾みにその事象は起きる。顔を上げているはずなのに、鏡の自分は俯いている。歯ブラシを持つ手が逆になっている。笑ってもいないのに、鏡の向こうの自分だけが笑いかけている。
その奇妙な現象は夢にまで現れるようになり、彼女は学校の七不思議を思い出して、自分は恐ろしい妖怪に取り憑かれたのだと気が付いた。
「……彼女はその後、どうなったんだい?」
髭切が先を促すと、不意に星岡は眉を顰めて、必死に思いだそうとするかのように顔を顰める。
「ええと確か……細かい所は忘れちゃったんだけど、魂を鬼に奪われたせいで自分が消えちゃいそうになるって話があったはず。結局、学校の卒業生に鏡に封じられた鬼を追い払う呪文を教えてもらって、それを夢の中で唱えて助かりましたってオチだったよ」
彼女も、小狐丸同様にうろ覚えだったのだろう。申し訳なさそうな苦笑いを浮かべて、髭切に頭を下げる。
「実はね、これって私の先輩が教えてくれた話なんだよね。だから、私も詳細まではきちんと覚えていなくって」
「その先輩は、今どこにいるんだい?」
「彼なら、今は警備の部署に配属されているはず。そんなに先が気になる?」
髭切は無言で首を縦に振る。星岡が端折った所こそ、髭切としては大いに気になる箇所だったのだから、そこが有耶無耶にされて良しと言えるわけがない。
「うーん、一応連絡はしてみるね。髭切さん、携帯端末の電話番号、教えてもらえる?」
髭切は彼女に連絡先を教えながら、先ほど彼女が語った内容を頭の中で反芻する。
鏡の向こうの、自分と異なる行動をする存在。不意に意識が落ちる感覚は、魂を奪われる云々に絡んでいると考えてもいいだろう。
自分が消えそうになるという話については、まだ何を具体的に指しているかはっきりとしていないが、いい意味があるとは思えない。
「さっきの話の鏡って、資料室にある鏡のことだよね」
念のための確認として髭切が尋ねると、星岡は「そうだよ」と軽い調子で頷いた。
「でも、こういうのって要するにただの作り話だからさ。あの鏡に鬼なんて封じられていないと思うよ」
「そりゃあ、そんな鬼がいたら僕がばっさり斬っているだろうからねえ」
鬼を斬った逸話を持つ髭切は、すぐさまそのように反論してみせる。そういえば、つい最近似たような会話をしたような気がすると、髭切は記憶の糸を辿った。
折しも、件の鏡の前で居眠りをした直後、小狐丸と交わした会話がそのようなものだったはずだ。
──鏡の向こうのあやかしでは、髭切殿も斬れますまい。
髭切は、無意識に今は刀を吊っていないにも関わらず、腰へとそっと手を添えていた。
***
星岡は、自身の先輩宛てに言づてをするように、別部署の人間に頼んでくれた。何でも、彼は長期休暇をとっていて、暫く庁舎に顔を見せていないらしい。
戻り次第、髭切の携帯端末に連絡をする段取りにしておいてくれたようだ。
「髭切さんって、そういうお話に拘る刀剣男士なんだね。ちょっと意外だなあ」
どうやら、髭切は星岡の中で「怪談マニア」の称号を得てしまったらしい。ここまで執着すれば、普通はそう考えるものだろう。
もっとも、わざわざ何度も言われるまでもなく、髭切も彼女の話を「よくある作り話」と思っていた。
幽霊や神様の類なら、髭切も相対したことがある以上、存在しないとは言わない。
だが、こういった怪談は、古くから伝えられているあやかしの類とは性質が異なると、髭切は思わずにはいられなかった。
(具体的に、何が違うとははっきり言えないのだけれどねえ……。物語として、整いすぎてるからかな?)
もしあの話が本当なら、退治の方法が容易く伝わるとも思えないし、子供たちが学ぶ場である学校に鬼を封印した鏡を置いていくのも不自然だ。
それでも、念のためと髭切は更に階段を上がって資料室に向かう。夕日が差し込むような時間に、わざわざ足を向けるものもいないようで、室内は見るも鮮やかな朱色に見事に染め上げられていた。
真っ赤なシャツに黒いズボン姿の少年──日向正宗が、端末片手に資料の確認をしている姿が見える。
「やあ、こんにちは」
声をかけても、日向は熱中しているのか、端末を凝視している。ちょんちょんと肩をつつくと、少年はびくりと体を小さく跳ねさせ、それから慌てて振り向いた。
「びっくりしたよ、髭切さん。こんな時間にどうしたの?」
「あそこの鏡について聞きたいんだけど」
髭切が昨日午睡を満喫していた机の後ろ、壁に掛けられている古めかしい装飾の鏡を彼は指さした。
「鏡? 何でまた鏡を?」
話題になったついでに、髭切と日向は並んで鏡の前に立つ。夕日を浴びて、綺麗に磨かれた鏡面は光り輝いているようにも見えた。
鏡には髭切の顔も映っているが、鏡像の髭切が勝手に動くようなことはなかった。
「日向って、この資料室に配属されてから長いんだよね。これって、いつ頃から置いてあるか知っているかい?」
「うーん、備品の管理簿を探せば書いてあるかもしれないね。でも、ここが校舎だった時代に置かれているものは、そのまま使っているから、その時代のものは記録が残ってないかもしれない」
「それでいいよ。ちょっと確認しておいてくれないかな」
管理簿に記載がなければ、この鏡が学校の怪談として語られていた鏡と同じものだとはっきりする。今はそれで十分だ。日向と適当な会話を交わしながら、髭切は内心で次の手について考え始めていた。
「眠いのかい」
「うーん、少し」
涙のにじむ瞳を擦っている髭切は、声をかけてきた少年に生返事で答える。柔らかな笑顔は、髭切のそれと似ていた。
厚手の外套を着込んだような姿、越に吊した一振りの刀、藤色の癖毛は鍔のついた学生帽のような帽子で抑えている。彼の名は源清麿。髭切と同じく、刀剣男士の内の一振りだ。
「演練会場の警備は、比較的楽だからね。眠くなるのも仕方ないよ」
「そうだねえ。しかも、ここは静かだから」
彼らの立っている場所は、演練会場として用意された大型施設──その受付ホールにあたる場所だった。
ここから多くのホールや外に広がる敷地に繋がっており、山奥の辺鄙な土地に建てられていなければ、大きな大会を開くための競技場と思われていたことだろう。
審神者同士が交流し合い、本丸の刀剣男士たちが試合を行う場。
刀剣男士が、己の力を全力で振るい、己の全力を確かめるための場所。
それが、演練会場の役割である。
「演練を実際に見たことはあるかな?」
「参加もしたことはあるよ。人数が足りないからって、急遽頭数に入れられたんだ」
「へえ、それは興味深いね。結果はどうだったんだい?」
「うん。弟と僕で圧勝だったわけなんだけど、僕たちがずるをしたんだって食ってかかられてねえ」
当時のことを思い出し、髭切は目を細める。もっとも、懐かしめるような温かな記憶ではなかった。
「僕のことを悪く言うのは別に良かったんだけど、弟が卑怯な手を使ったって詰られるのは見ていられなくてね。刀剣男士をけしかけてきたから、僕も刀を抜いたら、それはそれは怒られてしまったんだよ」
「あはは……。まあ、僕らは基本、黙って人間の言うことを聞いていないといけない立場だからね」
「結局、左遷されちゃったよ。それまでは時間遡行軍の偵察を任務としていたんだけど、今は便利屋半分、鬼退治半分……かな?」
「そっちの方が楽しそうだね」
清麿は帽子に軽く手を当て、困ったように肩を竦めてみせる。
「そちらはどうなんだい?」
「僕も便利屋みたいなものだね。まだ顕現して間もないから、色々と勉強中の身なんだ。今日もその一環ということだよ」
どうやら、清麿は自分よりずっと顕現して日の浅い刀剣男士らしいと、髭切は彼への評価を改める。
膝丸が別の会場の警備を任されている以上、背中を預ける相手は彼になる。相手の力量は正しく測っておく必要があった。
「一本、手合わせしてみる? いい眠気覚ましになると思うんだ」
「また左遷されてしまうよ、髭切」
「……冗談のつもりだったんだけどなあ」
大真面目に指摘をされ、髭切は吊した刀に添えた手を下ろす。
昔はこうやって冗句でからかうようなこともなかったのだから、髭切なりの進歩とも言えたのだが、生憎清麿としては笑えない冗談だったらしい。
場を和ませるというのは、なかなかどうして難しく、高度なテクニックを求められる。
「でも、眠いのは本当でね」
再び、ふああぁ、と欠伸が漏れる。
「眠れなかったのかい?」
「というより……何だか妙な夢を見てしまって」
昨晩、風呂で溺れかけた髭切はそのまま床について、更に奇妙な夢と相対することになった。
真っ黒な世界に、自分がいる。そして、正面にも自分がいる。手を伸ばせば、正面の自分も同じ動きをしていた。
目の前に鏡があるのだと理解すると同時に、指先が鏡面に触れる。ぴったり重なった掌。向かい合う自分の琥珀色の瞳に、秋の稲穂を思わせる黄金の髪。
何の変哲もない、鏡あわせの自分を見つめている。だが、不意に鏡の向こうの自分が、こちらが動いていないのに動きを見せた。
「……それで?」
「笑っていたんだ。何だか、とても楽しそうに──嫌な笑い方で」
目を細め、口元を吊り上げ、鏡面向こうの髭切は笑ってみせていた。
普段、膝丸や主に見せているゆったりとした微笑みとは程遠い。その笑みに潜む意思は──明らかに、悪意に満ちていた。
「そこで、目が覚めちゃった。起きたら朝だったんだけど、妙に体が気怠くって。人の体って色々と面倒だね」
「それなら、こう……切り替えてしまったらどうだい?」
清麿の言う「切り替える」というのは、身体的疲労や眠気、五感の一部を意図的に遮断する行為のことだ。元々が鋼の刀剣男士なら、大体の個体ができる。
もっとも、人間性の欠落にも繋がるとは、髭切もここ最近まで日常的に行っていたためによく知っていた。
「そうしたつもりなんだけど……何だかちょっと、ふわふわしたままで」
「ふわふわ?」
「地に足がついていないような感じ? 雲の上を歩いているよう……って言えばいいかな」
「それは深刻だね。ああ、そうだ。それならちょっと顔を洗ってくるかい? 少しの間なら、警備が一振りでも大丈夫だと思うよ」
清麿に提案され、髭切は暫し悩んだものの、結局首を縦に振った。
演練会場は、確かに多くの審神者と刀剣男士が詰め寄るために、歴史を改変したい敵方に狙われると危険な場所ではある。だが、そのために警備も相当入念に行われていた。
結果として、髭切が顕現してから演練会場を敵が襲撃したという話は聞かない。
だからといって、気を緩めていい理由にはならないだろうが、寝ぼけ眼で敵に相対するのも決して褒められることではないはずだ。
「顔を洗うなら、あっちにお手洗いがあったはずだよ。ここは僕一人で見ておくから、行ってきたら?」
「じゃあ、頼もうかな。あ、弟には内緒にしておいてくれるかい」
「あはは、勿論。代わりに、僕が何か失敗をしたら、水心子には黙っておいてくれるかな?」
清麿の言う『水心子』というのは、彼の友人である刀剣男士だ。警備が始まる前に顔合わせはしていたが、生真面目そうな雰囲気が弟に似ていると髭切も思っていた。
「そうだね。了解したよ」
清麿に軽く手を振り、髭切は彼の指し示すお手洗いへと向かう。
目的地であるお手洗いは、演練の真っ最中ということもあり、利用者はいなかった。
据え付けられた手洗い場の蛇口を捻り、流れ出た水で顔を洗うと、冷えた空気が頬を撫でていく。幸い、眠気もおさまってきた。
膝丸に持たされたハンカチで手や顔の水を拭い、髭切は顔を上げる。
大きな鏡に映し出された、戦装束姿の自分。白い上着に、片袖を覆う白い籠手。いつも通りの姿。だが、その顔だけは──笑っていた。
「え?」
笑っているつもりはないのに、鏡の自分だけ笑っている。
首を捻ってみせるも、鏡向こうの髭切の首は動かない。彼は笑い続けている。目を弓なりに細め、口角をゆっくりと吊り上げて。
「お前は──」
お前は、何だ。
唇が音を発するより先に、髭切の意識がぶつりと途切れた。
***
たとえば、駆動中の機械のコンセントを無理矢理抜いたかのようだと、髭切はぼんやりとした意識で思う。それほどまでに、唐突な意識の落ち方だった。
ただ、意識が落ちたと理解している自分はいる。まるで外側から己の体を眺めているように。
その不可解な感覚を、これまた俯瞰した視点で観測していた髭切は、己の体らしきものをぼんやりと自覚して周りを見渡す。
(……演練会場?)
ホールの向こう側に広がっている、広大な演習場という名の森。その一角に自分は立っているらしいと、髭切は理解する。
警備のために一通り、会場内は探索してまわったので、間違いはあるまい。
平穏な山奥の一幕に一瞬呆けてしまったが、髭切はこの事態が明らかに異常だと察知していた。何故なら、先ほどまで自分は確かに起きていたからだ。
「夢じゃない、よねえ」
無論、鏡を見て唐突に寝落ちした──と考えられなくもないが、直前までの記憶ははっきりしている。だからこそ、違うのではないかと推測を打ち立てられた。
鏡の向こうで笑っていた自分の鏡像を見間違いと断ずるには、気になる要素が揃いすぎている。更に思考を進めていくより先に、不意に誰かが怒鳴りつけるような声が聞こえ、髭切は思索を中断することになった。
「──不正を行ったのは、そちらの方だろう!!」
「俺の目で、そちらの刀剣男士は敗退と判断した! 審判もそのように告げていたのを、聞いていただろう」
膝丸の声だ。反射的に、髭切は弟の声がする方へと足を向ける。木々や草むらをかき分ける必要があったはずなのに、全く足をとられずに髭切は奥へと進めることができた。
まるで自分が透明人間になったような感覚も気になるが、今は弟が声を荒らげている理由の方が気になる。
「貴様が、あちらの審神者から賄賂を貰って、結果を改竄したのだろう!!」
「そのようなことをして、俺に何の利がある。試合の結果は、先ほど通達のあった通りだ。異論は認めん」
どうやら、演練結果に不満がある審神者が膝丸に因縁をつけているらしい。
膝丸は警備だけではなく、このように視界の悪い場における演練結果──誰が誰を討ち取ったかを記録する役も受け持っていたようだ。
審判役の職員が見当たらない所から察するに、職員自身は早々に立ち去り、残っていた膝丸が貧乏くじを引かされることになったのだろう。
「──くそっ」
木立をすり抜けるようにして、髭切は膝丸の姿を見つける。件の審神者らしき男と、その後ろには数振りの刀剣男士の姿が見えた。
どの刀剣男士も、いちように平坦な瞳をしている。物らしく、物として主に仕えることを選んだ刀剣男士の姿だと、髭切は直感で気付く。
審神者の方は、未だ納得できないという顔で膝丸を睨むと、
「ああ、そういえば、政府の刀剣男士は人間に手をあげてはならないという決まりになっていたんだったな」
何やら閃いたという顔をして、彼は膝丸の前に立つと、唐突に拳を振り上げた。
「貴様っ──!!」
髭切が声をあげても、彼の声も姿も今見えているものの目には映っていないようだ。主の横暴を、控える『物』たちは止めようとしない。膝丸も、規則に従わねばならない以上、顔を顰めるだけで黙って立っている。
鈍い殴打の音と共に、膝丸の頭が僅かに傾ぐ。
人間に殴られた程度の衝撃は、時間遡行軍に斬りつけられたものに比べれば大したものではない。だが、だからといって何も無いわけではない。痛みはあるし、腫れもする。
「──確かに、政府の刀剣男士が人間に直接手をあげることはできない」
膝丸は、ふん、と鼻を鳴らして続ける。
「だが、不要な怪我を負った理由は、申告する必要がある。貴様がどこの本丸の、何という名の審神者か、俺は知っている。後は、人間同士で好きにやっていればいい」
膝丸は踵を返して、残された審神者を無視して歩いて行く。その後ろを、彼には見えていないのだろうと思いながら、髭切は後を追う。気分はまるで亡霊のようだ。
「弟、今、わざと殴らせたでしょ」
膝丸の言った通り、怪我をしたら手入れをするために申請を行うときに、負傷理由も明瞭にする必要がある。
私闘や命令違反の場合は、危険因子として手入れは後回しにされるし、出陣や調査の場合はすかさずに手配される。
そして、あのように不当に誰かに手をあげられた場合は、当然犯人を報告するのも彼らの義務だ。
冷静そうに見えて、実はかなり怒っていたなと、髭切は膝丸の気持ちを分析していた。
「腹が立つのは分かるけど、それでお前が怪我をするのは、兄として嬉しくないなあ」
聞こえていないとは分かっていても、言葉は先んじて飛び出てしまうものだ。髭切が懇々と説教をしていると、
「兄者こそ、似たようなことがあったら、同じ選択をしたのではないか?」
不意に膝丸が振り返り、髭切に向かって声をかけた。だが、すぐに怪訝そうに眉根を寄せ、首を捻り、
「……俺は何を言っているんだ? 兄者は、今は受付ホールの警備をしているはずだ」
「弟、僕の声が聞こえるのかい? 僕は今、一体どうなっているんだい?」
だが、膝丸はそれ以上は髭切に声をかけるような素振りは見せず、背中を向けてしまった。後を追いかけようとした瞬間、不意に体が揺れ、そして。
***
「うわ、ごめん」
視界がぐらっと揺れる。どうにも足元が覚束なく、思わず尻餅をつきそうになるが、一歩足を後ろに下げて何とか姿勢を保った。
真正面にある鏡には、驚いた顔の己が映し出されている。その側には、藤色の髪をした少年が、これまた驚愕の顔でこちらを見つめていた。
「清麿?」
「大丈夫かな。そこにいる気配がしなくて、ぶつかってしまったよ」
髭切は口早に「平気だよ」と返事をして、周りを見渡す。
流しっぱなしになっている蛇口。入ったときとはほぼ変わらないお手洗いの光景。恐らく、意識が落ちてから長い時間が経過したわけではなさそうだ。
「君の帰りが遅かったから、様子を見に来たんだ。覗き込んだときは、いる気配が全くしなかっんだけれど、水の流れる音がしたから念のために中まで覗いて確認しようとして」
「君に聞きたいことがあるんだ。僕は、ここで何をしていたのかな」
先ほど目にした膝丸の光景が、視界に焼き付いて離れない。
もしあれが夢ではなく、自分の精神のようなものだけが体から抜け出ていたというのなら、残った体がどうなっていたのだろうか。
果たして、清麿は顎先に指を当て、困ったように眉を寄せ、
「それが……君にぶつかるまで、ここにいるって気付かなかったんだよね」
「え? そういえば、覗き込んだときはいる気配がしなかったって言っていたね」
清麿とて刀剣男士だ。新参者ではあるにしても、隠れているわけでもない髭切がいるかいないかぐらいは、すぐに察知して然るべきだ。
だが、彼は鏡の前にいたはずの髭切を「ぶつかるまで気が付かなかった」と言っている。
「ただ、ぶつかった直後……つまり、今になってしまうけれど、君は鏡を見たまま突っ立っていたよ」
「どんな顔で?」
「ぼーっとしていたかな? すぐに、気が付いたようだったけど……そうだね、まるで魂が抜けているみたいな」
髭切は目を見開く。清麿はただの比喩で言ったのだろうが、髭切は昨日小狐丸から聞いた話を急速に思い出していた。
──鏡の前でうっかり眠って隙を見せると妖怪が取り憑いてしまい、それからずっと鏡の中から取り憑いた相手に迫り続け、いずれはその者の魂を抜き取ってしまう。
そんな馬鹿な、と一笑に付した怪談だ。小狐丸自身、実在する妖怪とは思っていなかったのだろう。
だが、あの日から髭切はやけに膝丸の夢を見ていた。先だっても、この演練会場の一角にいる膝丸の夢を見ている。いや、あれは夢ではない──はずだ。
「清麿。鏡に映っていた僕は何をしていた?」
髭切は、らしくもなく鋭い声で清麿に尋ねる。突然の奇妙な質問だったが、清麿は大真面目に考える素振りを見せてから、
「……ごめん。そこまでは確認していないな」
申し訳なさそうに言う清麿に、髭切は簡単に言葉を残してお手洗いから出る。
今すぐにでも膝丸に会いに行きたい気持ちはあるが、本日の任務はまだ終了していない。勝手に持ち場を長時間離れたら、それこそまた左遷されてしまうかもしれない。
「体調が良くないなら、管理の職員に連絡しようか?」
「いや、いいよ。ちょっと、ぼーっとしただけだから」
後を追いかけてきた後輩にひらひらと軽く手を振り、髭切は平気であることを強調する。
体調不良で任務を辞退した、などというのは髭切としては許しがたい甘えにも感じられたし、何よりそんな姿を膝丸に知られたくはない。
彼にとって望ましい兄の姿をいつでも示したいのだと、髭切は固く決意していた。故に、途中退却などはあり得ない。
「大丈夫、僕は平気だよ」
***
その日、任務を終えて髭切は膝丸と合流してすぐ、弟の顔の様子を確認した。あの審神者に殴られた部分が、微かに赤くなっている。
腫れは既に引いており、膝丸自身特に気にした素振りも見せていなかったので、普段なら見落としていただろう。
「……ねえ、弟」
庁舎に戻り、仕事部屋に報告を置きに向かう途中、髭切は足を止めて膝丸に問う。
「その頬、どうしたの?」
「ああ、言っていなかったか。今日の任務中に、難癖をつけてきた審神者に手をあげられてな。顔も名も覚えているから、後で手入れを頼む際にしっかりとその件については伝えるつもりだ」
彼の言い分も、怪我の場所も、あの一瞬意識が落ちた瞬間に目にした光景と合致している。偶然ではない。あれは、夢ではないと髭切は確信した。
意識が落ちたときに見ている膝丸の様子は、まず間違いなく、その瞬間の彼そのものなのだろう。夢ではなく、髭切の意識──ないしは魂と呼ぶものだけが外に飛び出て、迷い出た挙げ句、膝丸の元に行き着いているらしい。
「すまない、兄者に隠していたつもりではなかったのだが」
「ああ、知っていたからそれはいいよ。あまり、無茶はしないでもらいたいけれど」
言ってから、髭切は思わず口を引き結ぶ。あの場にいたのは、不埒な審神者とその刀剣男士、そして膝丸だけだ。膝丸が他の者に言いふらしていない限り、髭切が本来知るはずがない情報である。
「……知っていたとは、いったいどういうことだ?」
「ああ、うん。弟がもめているのを聞いていた者がいてね、心配で僕の所にまでわざわざ教えに来てくれたんだよ」
「そういうことか。ともあれ、俺はこの件を報告しに行く。兄者はどうする? 俺を待っているか?」
「そうだねえ。ちょっと小狐丸に話があるから、僕も一緒に行こうかな」
膝丸と他愛のない雑談を繰り広げながら、髭切は思考を目まぐるしく回転させていく。魂が迷い出て、膝丸の元に向かうのはおかしくはない。元々、髭切と膝丸は二振で一具と言われているような刀だ。
己の片割れには、否応なく惹きつけられるものだろう。
(もし、小狐丸の話が本当だとして……でも僕はまだ完全に魂が抜き取られているわけではなさそうだった。こうして、今は歩いて話しているし、体もちゃんと動かせている)
しかし、だからといってこのままにしていいとも思えない。故に小狐丸から、先だって教えられた怪談をより詳しく聞こうと髭切は考え、今こうして彼らの仕事部屋へと向かっていた。
幸い、小狐丸はまだ残って、何やら荷物の準備をしていた。聞いた所によると、暫く遠出の調査をするように命じられたらしい。
「小狐丸、ちょっといいかな?」
膝丸がせっせと報告書や申請書を作り上げているのを確認してから、髭切は小狐丸に声をかける。だが、小狐丸は荷造りに必死になっているのか、振り返ろうともしない。
「小狐丸ってば」
ちょんちょんと体をつつくと、小狐丸は初めてこちらに気が付いたように、驚いた顔で髭切を見つめる。
「おや、帰っていたのですか。どうしたのですか?」
「えっとねえ、この前教えてもらった話、あったでしょう。あれ、もうちょっと詳しく聞きたいんだけど」
できる限り固有名詞をぼかしたのは、膝丸が同じ部屋にいるからだ。髭切の弟は、妙な所で勘が鋭い。その上、兄の身に危険が迫っていると知ると、無鉄砲になることがある。
彼に徒に心配をかけないために、できるだけこの事態を髭切は一人で解決するつもりでいた。
「髭切殿に興味を持っていただけたのは大変嬉しく思いますが、生憎私はあれ以上の話は覚えていないのです。私に教えてくれた者に、直接尋ねた方が早いかと思いますよ」
「それは誰だい?」
「霊地管理の課に所属していた事務員の者です。確か名前は……星岡、とか言っていましたかな。女性の者でした」
「その人、今会えるかな?」
あまりに不躾なお願いだとは承知しているが、事態を曖昧にしたまま日々を過ごすのを髭切は良しとする性格ではない。
「彼女なら、まだ管理課の方に残っていると思いますよ。今晩、私と共に出立する調査員たちの中に名前が含まれていましたから。話を通しておきましょうか?」
「お願いするよ」
小狐丸は自分の携帯端末を用いて、手早く件の職員に要件を伝えてくれた。三十秒ほどのやり取りの後、小狐丸は髭切に向き直り、
「しかし、随分と急ですね。何かあったのですか?」
まさか、本当に魂が抜け出ているとか、鏡の向こうにいる自分の様子が変だとかは、ここで語るわけにはいかない。視界の端にいる膝丸は、今は手を止めて髭切の様子をそれとなく窺っていた。
「いや、知り合いに話したら詳しく知りたがっていてね」
「ほう、それはそれは。その方に私も是非、お目にかかりたいですね」
適当に愛想笑いで誤魔化してから、髭切は膝丸に「ちょっと出かけてくる」と言葉を残して仕事部屋を後にした。これ以上、小狐丸と話していては色々と余計な方向に話が転がっていきそうだったからだ。
霊地管理課──通称管理課は、あの山姥切長義も所属している課だ。庁舎の二階の半分は、この課の仕事部屋になっている。
階段を駆け上がり、適当な職員を捕まえて「星岡という女性職員はどの部屋にいるか」と尋ねたら、怪訝そうな顔をされながらも、すぐに髭切を彼女の元へと連れて行ってくれた。
「あっ、あなたが小狐丸さんが言ってた髭切さん? 私が小狐丸さんに教えた話を、もっと詳しく聞きたいって言っているんだっけ」
二十代半ばぐらいの、黒髪を短く揃えた快活そうな女性が、案内された髭切を出迎えた。黒縁の眼鏡の奥に覗く茶色の瞳は、好奇心できらきらと輝いている。
髪の毛に結ばれた赤い紐飾りが特徴といえば特徴だろうか。恐らく、霊的なお守りなのだろう。
「そうそう。小狐丸は『鏡の中にいた妖怪が、寝ている人の隙をついて取り憑いて魂を攫っていく』とだけ話していたのだけれど、何だか簡潔すぎる気がしてね」
仕事の合間に怪談話を教えてくれと押しかけているのに、彼女は嫌な顔一つせずににこにこと髭切の話を聞いてくれていた。恐らく、生粋の『怖い話』が好きなタイプの人間なのだろう。
「そっかあ。それだけだったら、随分と面白みのない怪談に聞こえるね。それで、そんな簡素な話のわけがないって私まで確認しに来たわけだ」
どうやら、彼女の中ではそういうことになっているらしい。訂正して話が拗れても嫌なので、髭切は笑顔で頷くに留めて置いた。
「あれって、実はこの庁舎がまだ学校として使われていた頃の怪談って体裁で話が始まっていてね。えーっとね」
そう言って、彼女は髭切へと語り始める。
昔、この古めかしい木造庁舎は小学校として使われていた。今でこそ多くの大人がひしめき合っているが、ここは子供たちが学業に勤しむ場だったのである。
そして、学校というのは、怖い話や怪談の温床にもなる。学校の怪談とか七不思議と言われるものだ。
その中の一つに『図書室の鏡の前で寝てはいけない。寝たら鬼に取り憑かれて、魂を抜かれてしまう』というものがあった。
「鬼?」
「そう、鬼。先にネタばらししちゃうと、鏡に封印されている鬼が悪さをするっていう話なのよね」
鬼という単語を聞いて、髭切は背に負った刀袋の肩紐に無意識に手をかけた。
「それで、本当に鏡の前で寝た人間はいたのかい?」
「話の中ではね。一人の女子生徒が、そうとは知らずにうっかり寝てしまって、大変な目に遭うの」
うたた寝をしてしまっていた彼女は、家に戻ってから鏡に映る自分だけが、自分がしていないはずの挙動をするようになったと気が付いた。
毎回ではないが、ふとした弾みにその事象は起きる。顔を上げているはずなのに、鏡の自分は俯いている。歯ブラシを持つ手が逆になっている。笑ってもいないのに、鏡の向こうの自分だけが笑いかけている。
その奇妙な現象は夢にまで現れるようになり、彼女は学校の七不思議を思い出して、自分は恐ろしい妖怪に取り憑かれたのだと気が付いた。
「……彼女はその後、どうなったんだい?」
髭切が先を促すと、不意に星岡は眉を顰めて、必死に思いだそうとするかのように顔を顰める。
「ええと確か……細かい所は忘れちゃったんだけど、魂を鬼に奪われたせいで自分が消えちゃいそうになるって話があったはず。結局、学校の卒業生に鏡に封じられた鬼を追い払う呪文を教えてもらって、それを夢の中で唱えて助かりましたってオチだったよ」
彼女も、小狐丸同様にうろ覚えだったのだろう。申し訳なさそうな苦笑いを浮かべて、髭切に頭を下げる。
「実はね、これって私の先輩が教えてくれた話なんだよね。だから、私も詳細まではきちんと覚えていなくって」
「その先輩は、今どこにいるんだい?」
「彼なら、今は警備の部署に配属されているはず。そんなに先が気になる?」
髭切は無言で首を縦に振る。星岡が端折った所こそ、髭切としては大いに気になる箇所だったのだから、そこが有耶無耶にされて良しと言えるわけがない。
「うーん、一応連絡はしてみるね。髭切さん、携帯端末の電話番号、教えてもらえる?」
髭切は彼女に連絡先を教えながら、先ほど彼女が語った内容を頭の中で反芻する。
鏡の向こうの、自分と異なる行動をする存在。不意に意識が落ちる感覚は、魂を奪われる云々に絡んでいると考えてもいいだろう。
自分が消えそうになるという話については、まだ何を具体的に指しているかはっきりとしていないが、いい意味があるとは思えない。
「さっきの話の鏡って、資料室にある鏡のことだよね」
念のための確認として髭切が尋ねると、星岡は「そうだよ」と軽い調子で頷いた。
「でも、こういうのって要するにただの作り話だからさ。あの鏡に鬼なんて封じられていないと思うよ」
「そりゃあ、そんな鬼がいたら僕がばっさり斬っているだろうからねえ」
鬼を斬った逸話を持つ髭切は、すぐさまそのように反論してみせる。そういえば、つい最近似たような会話をしたような気がすると、髭切は記憶の糸を辿った。
折しも、件の鏡の前で居眠りをした直後、小狐丸と交わした会話がそのようなものだったはずだ。
──鏡の向こうのあやかしでは、髭切殿も斬れますまい。
髭切は、無意識に今は刀を吊っていないにも関わらず、腰へとそっと手を添えていた。
***
星岡は、自身の先輩宛てに言づてをするように、別部署の人間に頼んでくれた。何でも、彼は長期休暇をとっていて、暫く庁舎に顔を見せていないらしい。
戻り次第、髭切の携帯端末に連絡をする段取りにしておいてくれたようだ。
「髭切さんって、そういうお話に拘る刀剣男士なんだね。ちょっと意外だなあ」
どうやら、髭切は星岡の中で「怪談マニア」の称号を得てしまったらしい。ここまで執着すれば、普通はそう考えるものだろう。
もっとも、わざわざ何度も言われるまでもなく、髭切も彼女の話を「よくある作り話」と思っていた。
幽霊や神様の類なら、髭切も相対したことがある以上、存在しないとは言わない。
だが、こういった怪談は、古くから伝えられているあやかしの類とは性質が異なると、髭切は思わずにはいられなかった。
(具体的に、何が違うとははっきり言えないのだけれどねえ……。物語として、整いすぎてるからかな?)
もしあの話が本当なら、退治の方法が容易く伝わるとも思えないし、子供たちが学ぶ場である学校に鬼を封印した鏡を置いていくのも不自然だ。
それでも、念のためと髭切は更に階段を上がって資料室に向かう。夕日が差し込むような時間に、わざわざ足を向けるものもいないようで、室内は見るも鮮やかな朱色に見事に染め上げられていた。
真っ赤なシャツに黒いズボン姿の少年──日向正宗が、端末片手に資料の確認をしている姿が見える。
「やあ、こんにちは」
声をかけても、日向は熱中しているのか、端末を凝視している。ちょんちょんと肩をつつくと、少年はびくりと体を小さく跳ねさせ、それから慌てて振り向いた。
「びっくりしたよ、髭切さん。こんな時間にどうしたの?」
「あそこの鏡について聞きたいんだけど」
髭切が昨日午睡を満喫していた机の後ろ、壁に掛けられている古めかしい装飾の鏡を彼は指さした。
「鏡? 何でまた鏡を?」
話題になったついでに、髭切と日向は並んで鏡の前に立つ。夕日を浴びて、綺麗に磨かれた鏡面は光り輝いているようにも見えた。
鏡には髭切の顔も映っているが、鏡像の髭切が勝手に動くようなことはなかった。
「日向って、この資料室に配属されてから長いんだよね。これって、いつ頃から置いてあるか知っているかい?」
「うーん、備品の管理簿を探せば書いてあるかもしれないね。でも、ここが校舎だった時代に置かれているものは、そのまま使っているから、その時代のものは記録が残ってないかもしれない」
「それでいいよ。ちょっと確認しておいてくれないかな」
管理簿に記載がなければ、この鏡が学校の怪談として語られていた鏡と同じものだとはっきりする。今はそれで十分だ。日向と適当な会話を交わしながら、髭切は内心で次の手について考え始めていた。