本編の話
五月もそろそろ終わりを迎えようとしている。
燦々と降り注ぐ日差しは、夏の到来が近いことを教えてくれており、髭切は体に籠もる熱を追い払うためにぱたぱたと手を団扇代わりにはためかせていた。
彼が歩いているのは、仕事場である庁舎の三階だ。
ここは昔学校として使われていた木造校舎と新しい建物を無理矢理繋げたような構造になっており、髭切の所属する部署は前者の建物内にある。
何でも近頃の建物よりは、気の巡りがよく、結界などの術を開発するのに向いているらしい。
元が学校なので、かつて教室だった部屋は髭切たちのいる部屋のように職員たちの仕事部屋となっているが、本来の用途として使われている場合もある。
資料室と書かれた札を扉の端から吊している部屋も、その一つだ。かつては図書室の札が下げられていた部屋の引き戸を開き、髭切は中に入る。
「こんにちは。何かお探しかな?」
髭切を出迎えてくれたのは、カウンターにいる小柄な少年──日向正宗だ。
髭切の主よりは少し大きいが、彼の見た目は小学生ぐらいの子供と大差ない。髭切の主とは異なる色合いの深い青の瞳に、麦穂に似たくすんだ茅色の髪の毛をしている。
赤と黒を基調とした半袖のシャツとズボンはやや派手な組み合わせの色合いだが、彼の小柄な体躯とあわさると、少しめかしこんだ小学生が図書室にいるようにしか見えない。
だが、彼も刀剣男士の一振りであり、資料室の管理と警備を任されていると髭切は聞いていた。
「ええとね、場所だけ教えてもらえれば、僕の方で取りに行くんだけど」
日向はすかさず手元にあった板状の端末を起動させる。中空に操作パネルが広がり、日向は指先で数度軽く叩き、髭切の前に資料室内の書架を図式化した地図を見せてくれた。
「僕らが所属している部署が調査した内容で、去年のものってまとめられていないかな?」
「それなら、この辺りだよ」
司書役もこなしている日向は、端末を操作して、表示された地図の一点を点滅させる。
「でも、その頃ならもう髭切さんって配属された後だよね。髭切さんの知っているものしか、纏められていないと思うよ?」
「それはそうなんだけど……ほら、僕ってあの頃、周りが何をしているかって何の興味もなかったから」
長義が聞いていたら、恐らく深く何度も頷いていただろう。
今も、髭切としてはそこまで興味を抱いているわけではない。
だが、前に比べれば、他人が携わった任務や作業が何かを気にするようにはなっていた。
「ちょっと待ってね……。あれ、珍しいな。これ、持ち出し禁止の資料だ」
「おや、そうなのかい。ここの資料って、基本的に持ち出していいものばかりだと思っていたよ」
「基本的にはそうだね。審神者様の拠点座標とか履歴書とかの大事な資料は、もっとセキュリティが厳重な新庁舎の方に格納されているし、怪異や不可思議な現象の調査結果なんて盗まれた所でどうしようもないからって、そこまで重要視されていないんだ」
「じゃあ、これは何で持ち出しちゃだめになっているんだい?」
「それは僕にも分からないなあ。とりあえず、閲覧のロックは外しておいたから、電子媒体の情報も所属のカードを翳してもらえば、見られると思うよ」
日向にお礼を述べて、髭切は先ほどの地図が示していた書架へと移動する。かつては図書館の本が詰まっていたそこには、今はぎっしりとファイリングされた資料が詰め込まれていた。
大ぶりの図鑑に似たファイルを開けば、そこには大量の紙が挟み込まれている。紙でわざわざ出力する理由は、電子情報は何かの弾みで消去されたら取り返しがつかないから、らしい。
もっとも、付属している端末にカードを翳せば、先ほどの日向が使用した端末同様、宙空に資料が浮かび上がる仕組みにはなっている。
いちいち捲る必要もないので、一部の電子機器慣れした刀剣男士は、こちらの手法を好んでいると聞いていた。
「さて、と。どこかでじっくりと読もうかな」
ファイルを片手に、髭切は周囲を見渡す。資料室には、図書室として使われていた名残として、大きな机に椅子が並べられていた。丁度日当たりの良い一角を見つけて、髭切はそこに腰を下ろす。
「前に来たときと比べると、机の位置が変わっているね。模様替えでもしたのかな?」
ともあれ、心地よい五月の日差しを浴びながらのんびりと過ごすにはうってつけだと、髭切はクッションの効いた椅子に腰掛ける。
何故こんなところで、ゆったりとした昼下がりを満喫しているのかというと、髭切の今日の仕事は既に終わっていたからだ。
本来、髭切の午後の任務は、長義たちの所属する霊地を管理する部署のお手伝いとなっていた。だが、リーダー格たる人物が熱で倒れてしまい、急遽予定が無くなってしまったのである。
鬼丸には帰って少し休め、と言われていたが、弟の膝丸は別件で出陣しているため、彼の帰りをここで待って一緒に帰宅しようと髭切は思い、こうして暇つぶしと調査兼ねて資料を見ることにしたのである。
「僕らが所属し始めたのが、大体去年の今頃で……その前後に多分──ああ、あった」
髭切がページを捲って見つけたのは、会議の議事録らしき内容だった。わざわざ音声を紙に書き起こしているのだから、並々ならぬ苦労があっただろうと髭切は思いを馳せる。
「刀剣男士を、当部署に所属させる有用性について」
仰々しい字で書かれた題字と概要を捲り、髭切は眉を顰める。途中から、明らかに歯抜けになっている部分があったからだ。
不思議に思い、髭切は首から下げているカードをファイルに付属している端末に翳す。軽い電子音の後に、ふわっと髭切の眼前に携帯端末より大きいホログラム状の画面が表示される。
先ほどの会議の資料を見つけ、早速読み進めようとするも、すぐにエラーを示す赤い×印が表示されてしまった。
「当該せきゅりてぃれべるの者は、参照権限がありません……ねえ。僕じゃ見られないのか」
仕方なしと髭切は他のページを捲っていく。見たことのある調査内容の報告書がいくらか通り過ぎていくも、文字の上を目は滑っていくばかりだった。何故なら、
(眠い……)
瞼の上を睡魔が漂い始めたからだ。人の体というものは、昼餉を食べて温かい所にいると眠くなるようにできているらしいと、最近髭切は知った。
無論、睡魔は意識すれば排除は可能だ。だが、これに身を委ねるのは大層気持ちいいのだとも既に知り始めていた。
「よし、ちょっと寝よう」
そうなる可能性も踏まえて、髭切は予め自身の少ない荷物に枕代わりの柔らかなタオルを用意していた。
資料を一度元の場所に戻してから、髭切は改めて日差しが降り注ぐ机を使って午睡を楽しみ始めたのだった。
***
ふと気が付くと、髭切の目の前に膝丸の背中があった。
最近身につけている、ようやく見慣れた現代の私服ではなく、戦闘の際に身に纏う黒の礼装に似た戦装束に着替えている。
周りを見渡せば、やや荒涼とした庭が見えた。荒らされた畑や、濁った水を湛えた池。見る者の目を楽しませたと思われる木々は、半ばから折れて無残な断面図を晒している。
荒廃した庭の向こうには、同じく戦の跡が濃厚に残った建物があった。火事にでもあったのか、所々に炭化の跡すら見てとれる。
何故、自分はこんな所にいるのか。そう思い、同時に髭切は気が付く。
「……ああ、これは夢だね」
髭切の見る夢に弟は頻繁に登場する。夢という事象は、自分が体験した内容を辿るものである以上、共にいる時間が一番長い膝丸が登場する回数が増えるのは、当然とも言えた。
夢の中で自分が動ける場合もあるが、髭切がどれほど膝丸に近づいても声をかけても、膝丸はまるで反応を見せない。どうやら、この場所において自分はただの観客なのだろうと、髭切は理解する。
「この感じ……多分、敵に攻め込まれた本丸の跡地を偵察しに行ったとき、かなあ? そういえば、今日の弟の任務も、そんな内容だったっけ」
だから、その話を聞いて夢が引きずられたのだろうか。膝丸がこちらに気付かないのを良いことに、髭切は膝丸の隣に並び、気楽な調子で荒廃した庭を歩いていた。
普段ならばまず敵を警戒するために、髭切はここまで気を緩めはしない。寧ろ逆に、痛いほど張り詰めさせているぐらいだ。しかし、夢と割り切れば幾分か気も抜ける。
周りの風景も、常ならばただの背景でしかなかったが、今は嘗ての賑やかで風情ある光景を想像できるからこそ、寂しさばかりが強調されているように思えた。
「そんな風に感じるのも、僕が刀以外の在り方を意識するようになったからかもねえ」
花には色がついていて、香りもある。料理は辛いもの、甘いもの、塩っぱいもの、酸っぱいもの、多種多様な味がある。
触れれば熱いものもあれば、冷たいものもある。虫の鳴き声は涼やかであり、早朝にけたたましい声をあげる鳥の鳴き声はちょっとうるさい。
当たり前だが、不要だと切り捨てていたものを、髭切は少しだけ拾い上げることにした。その少しだけを、髭切はいっとう大切に思っている。
「夢の中の弟は、そういうことには縁がない感じかな?」
髭切が見つめる先、膝丸は感傷に耽る様子もなく、ずんずんと歩いて行く。
不意に、ぴたりと膝丸は立ち止まり、その腰に吊した太刀に手を添えた。
彼の眼前には、優に二倍の背丈はあるような大きな異形──巨大な鬼の侍といった形の化け物がいる。
時間遡行軍。過去に遡り、歴史の改変を目論む者たちが遣わす敵は得てしてこのようなあやかしの姿をしている。
意思疎通のできる個体もいるようだが、殆どは無言ないしは耳障りな鳴き声のような音しか漏らさない。
朽ち果てた屋敷に、時間遡行軍。髭切は、徐々にこの夢が何を示しているのかを読み取り始めていた。
「荒廃した本丸に……時間遡行軍。つまり、ここは敵に攻め込まれた本丸で、弟はその調査に来ているのだろうね」
それなら、自分が隣にいてもおかしくはないのだが、そこは夢ならではのご都合主義というものなのだろう。
敵を眼前にして、のんびりと構えていられるのも、このような特殊な状況ならではだ。
「まだ残敵が潜んでいるとはな。その首、即刻叩き落としてくれよう」
威勢の良い言葉通り、太刀を抜き放った膝丸は、裂帛の気合いと共に敵に迫る。
大太刀を持った鬼の異形の斬り下ろしを難なく受け流し、鋭い金属音が髭切の耳を劈く。
刃と刃のぶつかり合う様は、臨場感に満ちており、到底夢とは思えないほどだ。
「弟、頑張ってるねえ。ほら、そこの隙を突くといいよ」
髭切の言葉は聞こえていないのだろうが、膝丸は髭切が指摘していた敵の間隙を突き、胴を横薙ぎにする。たじろいだ隙に今度は逆袈裟に斬り上げ、ドス黒い血が飛び散った。
倒れ伏す直前、敵の体を踏み台に蹴り上げ、膝丸はその首を切り落とした。
斬首をわざわざしたのは、敵を確実に仕留めるためだろう。
「流石、僕の弟だ。夢の中でもしっかり者だね」
髭切がうんうんと頷いていると、膝丸は血振りをしてから太刀を鞘に収め、どういうわけか辺りを見渡し始めた。何か見つけたのかと思いきや、
「……今、兄者の声が聞こえたと思ったのだが、気のせいか?」
膝丸はぐるりと振り返る。丁度、髭切と目線が合う位置で足を止め、膝丸はずんずんと髭切に近寄ってくる。見えていないはずではないのかと、髭切がきょとんとしていると、
「声……違う。気配がした気がするんだが……いや、そんなわけはないか」
膝丸は足を止め、再び髭切に背を向ける。何故だか、今なら夢の中の彼に声をかけられるような気がして、髭切は手を伸ばし、
***
ぐらぐらと体が揺れている。否、誰かに揺さぶられているのだ。
「──殿、髭切殿。こんなところでうたた寝をしていますと、見つかったときに叱られますよ」
急に意識が浮上して、髭切はもぞもぞと頭を起こす。まだくっつきかけている目蓋を無理矢理開くと、白くてふわふわしたものが視界に入った。
「……綿菓子がある」
「誰が綿菓子ですか。私ですよ、小狐丸です」
「こぎつねまる……ああ、小狐丸」
ごしごしと目を擦り、近くに置いていた携帯端末で時計を確認する。時刻は一五時二〇分を示していた。思った以上にぐっすりと寝てしまっていたらしい。
凝り固まってしまった首を軽く揉んでから、髭切は隣に立っている背の高い青年を見やる。
白く癖のある腰ほどまでの長い髪の毛を、背中に流した姿は、一見女性にも見えるが、その背丈は髭切よりも高い。
獣の毛並みを彷彿させるゆったりとした毛並みに緋色のつり上がった瞳は、その名の通り彼の印象を狐に偏らせる一因となっている。
刀剣男士としての戦装束は狐色の衣装だが、今は仕事中のためか、無地の薄茶色をしたジャケットにシンプルな丸首シャツの簡素な出で立ちだ。また、本来なら刀剣男士には不要なはずの黒縁の眼鏡をかけている。
本人曰く、仕事とそうでない時を切り替えるために用いているらしい。
「何か調べ物に来たの?」
「ええ。今度調査に赴く場所で、同様の現象が発生していないかについて、少し目を通しておこうと思ったのです」
「好きだねえ。僕ならすぱすぱって斬ってお終いにするのに」
「私は、足を使って原因を隅々まで調べてからどうするかを考える方が好ましいと、考えているのですよ」
小狐丸と髭切は、共に同じ仕事部屋で机を並べている同僚だ。もっとも、髭切と膝丸が発生した事件に対して武力での解決を求められるのに対し、小狐丸は調査や聞き込みから得た内容で穏当な解決までの道筋を探る手法をとっている。
本来、人間の職員も半分以上はこのやり方で発生した怪異に対処しており、髭切と膝丸のやり方が乱暴すぎるとも言えた。もっとも、いくら調べても話が通じないものも多いので、こればかりは適材適所と言えよう。
「髭切殿も、何か調べ物を?」
「うん。ただ、どうにも今日は眠たくてね。うとうとしてしまうんだよ」
「良い具合に日差しが入りますからねえ。ただ、このような場所で寝ていると、魂が迷い出てしまいますよ?」
「うん? なんだいそれは」
小狐丸は、答えの代わりに髭切の背後にある壁を指していた。
体を捻ってそちら側を見れば、そこには少々豪奢な飾りのついた、如何にも古めかしそうな鏡がかけられている。磨かれた鏡面には、振り向いた髭切と小狐丸が映っていた。
「鏡の側で寝ると、魂が迷い出た上に帰って来られなくなってしまう──という話はご存じでしょうか。よくある言い伝えなのですが」
「知らないなあ。それって、君が好きな迷信なんじゃないの?」
「確かに、私は迷信は怪異譚の類は好みますが、これ自体は割と有名な話ですよ」
迷信呼ばわりされたのが気に食わないのか、小狐丸は不服そうに腕を組んで、眉を寄せてみる。
小狐丸は、その職分に影響されてか、調査で収集する以外も不思議な話や言い伝えに興味を持っている。髭切自身、小狐丸が己の趣味として語っている所を何度か耳にしていた。
「鏡には何かと曰くがつくものです。元々は三種の神器の一つとして神聖なものとして敬われていたからでしょうが、近頃は合わせ鏡や学校の怪談で登場する手洗い場の鏡など──」
「その話、長くなるなら、僕もう一眠りしようかな」
「また、あなたはそうやって人の話の腰を折る」
「だって、長いんだもの。僕は話の出所よりも、それが斬れるか斬れないかの方が重要だと思うなあ」
「なら、こんな話はどうでしょう?」
小狐丸は不敵な笑みをわざと作ってみせて、それこそ狐のように目を細め、
「この鏡には、とある妖怪が封じられているのです。鏡の前でうっかり眠って隙を見せると妖怪が取り憑いてしまい、それからずっと鏡の中から取り憑いた相手に迫り続け、いずれはその者の魂を抜き取ってしまう……という話です」
「それは、小狐丸が今考えた話?」
「いいえ。以前、手伝いに行った管理課の職員から伺ったお話です。鏡の向こうのあやかしでは、髭切殿も斬れますまい」
どうだと言わんばかりに笑う小狐丸に、髭切はうーんと大真面目な顔を作ってみせる。
「まあ、でも魂を抜き取るときぐらいは、姿を見せるでしょ? そのときにばっさりと斬っちゃえばいいよ」
「あなたは何でもすぐ斬って解決しようとしますが、鬼丸殿に何でもかんでも斬るなと言われていませんでしたっけ?」
「そうなんだけどね、行動してすぐ解決する方が早いよね」
「膝丸殿があんなことになっても、方針は変えないと?」
髭切は暫し沈黙を保ってから、にこりと笑ってみせた。彼の微笑は、机に降り注ぐ日だまりとは程遠い冷たさを帯びている。
「……失礼。失言でしたね。とはいえ、鬼丸殿も心配しているので、あまり無茶はしない方がよいかと」
「気をつけるよ。ところで、小狐丸」
髭切は鏡を指さし、続けて自分が枕代わりに今も置いているタオルを指さす。柔らかなタオルは、丁度髭切の頭の形にくぼんでいた。
「僕はこの鏡の前で寝てしまっていたわけだけれど、取り憑かれてしまうのかなあ?」
「もし、そうだと言ったら、髭切殿は怖がっていただけますか?」
「いいや。だって怖い話は、所詮怖い〈話〉でしょう? 語られていることでしか形を持ち得ないものは、脅威にはならないよ。話す人が変わればころころ物語も変わってしまう。そんな相手を、君は怖がるのかい?」
「そう言われてしまうと、いいえと言うしかないのですけれどね。事実、私も又聞きですので、恐らく抜け落ちている部分も多いでしょうし」
口伝による伝承が廃れるというのはよく聞く話だが、怖い話にはそれ以外にも余計な尾鰭がついて、全く別の話になることもある。
小狐丸自身、自分が語った内容が原典の話と全く同一などとは思っていなかった。
「ともあれ、怖くはなくとも、別の意味での教訓にはなりましょう」
「どんな教訓だい?」
「資料室は寝る場所ではない、という教訓です」
「ありゃ。気持ちいいから、ついうとうとしてしまったんだよねえ。弟が帰ってくるまで、これを読んでるつもりだったんだけど」
髭切がファイルをこんこんと手の甲で示すと、小狐丸はラベリングされたタイトルを見て目を眇める。
何か言いたげに髭切を見つめる彼に、髭切は人差し指を口元に添えて沈黙を促した。
「弟が帰ってくるまで、適当に時間潰してるよ。何かいい暇つぶしはないかな」
「それなら、私が以前収集したとっておきの怪談話を」
「うーん。僕はせっかくなら、美味しい話がいいなあ」
色気より食い気ならぬ、恐怖よりも食欲が髭切の中では勝っていたらしい。
小狐丸が肩を落としたのは言うまでもなかった。
***
「──ええとね、それで、鏡に住んでるお化けに連れて行かれちゃうんだって」
髭切が大雑把に物語を締めくくると、主である少年は青ざめた顔で髭切を見つめていた。
あれから、予定通り膝丸と合流した髭切は、小狐丸と別れて自宅であるマンションに戻ってきていた。膝丸は今、ようやく使い慣れたキッチンで夕餉を作っている。
最近の膝丸は、ようやく料理の勘所を掴んだようで、めきめきと腕を上げている。元々の生真面目な性格と料理という行為の相性は、思った以上に良かったらしい。
ご相伴に与れる髭切も、彼の料理を食べられる日はいつもより足取り軽く帰っていた。
主の方は相変わらず、自宅に閉じこもっての留守番が多い。その実情を長義に話すと、流石に子供が一人で長時間の留守番は退屈だろうと、本を貸してくれた。
最近は熱心にそれを読んでいるようだった。
「連れて行かれる?」
「そう。連れて行かれておしまい」
そして今、髭切は主に意気揚々と小狐丸直伝の怪談を語って聞かせていた。髭切にとっては何てことのない話だったが、主はソファのクッションの端をぎゅっと握りしめている。
(なるほど、これが怖い話を正しく怖がっているってことなんだね)
小狐丸がここにいたら、さぞかし喜んだだろうと髭切は思う。彼は、元々このような話を怖いとは全く思えない存在だった。
刀剣男士という存在が、まず不可思議な存在である。加えていえば彼自身、斬れば大抵の物事は解決すると考えているからでもあった。
「兄者、そのような話で主を怖がらせるのは感心せぬぞ」
主を庇うように、膝丸がキッチンの向こうから苦言を呈している。
「大丈夫だよ。主は強い子だから」
ちらりと和室の奥を見やってから、髭切は主に笑いかける。もっとも、主本人は髭切からそっと目を逸らしていた。
「そんな話、一体誰から聞いたのだ」
「小狐丸が教えてくれたんだ。今日、資料室でたまたま出会ってね」
「あの御仁は、時折ただの怪談か、ホラ話か分からないようなことを口にするな。先日は、庁舎を走る謎の白い影がいるとかいう話をしていたか」
「……お化けの出る学校?」
どうやら、主は二振りの話を断片的にまとめて、彼らの仕事場がお化けの遊び場のようになっているのではと思ったらしい。
実際、当たらずも遠からずのところはある。刀剣男士は、その存在が人によっては妖怪と言ってもいいものだろうから。
「古い建物の外観を活かしているそうだからねえ。そういうところ、怪談は生まれやすいらしいよ」
「おおかた、退屈を持て余したものが適当にでっち上げたのだろう。我々があやかしを退治している傍らで、自ら増やしていったいどうするというのだ」
「そうだね。まあ、そんなものがいても僕がスパスパッとしちゃうから、主は安心していいよ」
髭切が手で斬りつけるような真似をすると、主も納得したようでこくこくと頷く。
程なくして、膝丸が作った夕飯──今日は先日食べた親子丼に汁物や漬物だ──が机に並び、結果として話はそこで一旦中断となった。
***
夕餉を食べたあと、髭切は先んじて入浴を済ませると二人に言い残して脱衣所へと向かっていた。
風呂場が狭いため、二振りが同時に風呂に入ることは物理的に不可能になるため、大体は交代で入ることになっている。
ふんふんと調子外れの鼻歌を歌いながら、洗濯機やら洗面台やらのある脱衣所で上着やら服を脱いでいく。この洗濯機も、実を言うと最近買ったものだ。それまでは、私服は汚れたら捨てるという生活スタイルだった。
元より戦装束から上着を脱いだだけの状態が、現代にも一応溶け込める服だったこともあり、髭切も膝丸も私服を買ったのはここ最近だったりする。
洗濯機に着ていた服を投げ込もうとしたときだった。
「おや?」
こんこんという控えめのノックが響く。膝丸ならこんな控えめなノックはしないので、必然的に主だろうと髭切は推測する。
「入っていいよ」
果たして、木製の扉を開いて予想通り主が顔を覗かせていた。手には、髭切が枕代わりに使っていたタオルや、今日持ち歩いていたハンカチがある。
「これも入れておいてって、ひざまるが」
「そういえばそうだったね。預かるよ」
髭切が主の方に向き直り彼の元に近づこうとしたときだった。主は何故か目を大きく見開いて、さっと顔色を変えた。
「どうしたの?」
「……鏡が」
「え?」
髭切の後ろには、確かに洗面台がある。そこに鏡もついている。だが、それが一体何だと言うのだろうか。
振り向いても、そこには不思議そうな顔をしている己が映っているだけだった。
「鏡がどうかしたの?」
「……何でもない」
主自身、不思議そうに数度瞬きをしている。それからゆっくりと首を横に振った。
「そう? じゃあ、僕はそろそろお風呂入るから。主は弟と入る?」
「邪魔じゃ、ないなら」
「それは弟に聞いてごらんよ」
主は言葉少なに立ち去る。あの神隠し事件以来、主は膝丸といくらか距離を縮めているようだった。
前はお互いいくらか壁を作っているのかもしれないと思ったが、膝丸も主に対して気遣う素振りを見せている。否、それは親しみを込めた態度と言ってもいいかもしれない。
髭切とはどうかと言うと、主の方が探り探り距離を詰めているようである。髭切個人としては、特段距離を詰めるつもりもなければ、仲良くしようと思ってはいなかった。
(彼は、ただの楔だ。僕らがやりすぎてしまわないための、判断材料の一つに過ぎない)
お互い以外の第三者がいることで、自分たちがお互いだけを気にして破綻してしまうのを避ける。それが、髭切の考え出した安全策であり、それ以上の親愛を主に持つつもりはなかった。
思索を適当な所で区切り、髭切は風呂場へと足を踏み入れる。全身水に浸けるときいて、最初は抵抗を覚えたものの、慣れというものは恐ろしい。今や、髭切は素直に入浴時間を楽しんでいた。
覚えたばかりの手順で、まだ拙い手つきで体を洗い、髪を洗い、沸いたばかりの少し熱めのお湯に体を浸す。
全身を程よく包む温もりと水が跳ねる音。ついつい、布団に入ったかのようにうつらうつらしてしまう。
ふと、視線をやると浴槽から濡れた鏡がよく見えた。風呂場に鏡は付き物だ。手を伸ばして曇った表面を擦ると、濡れた鏡面に自分の顔が映り込む。
「主、鏡がどうとか言っていたけれど、怖がらせ過ぎちゃったかな」
先日の神隠し騒動では、彼は怖いとは一言も言わなかったし、泣く素振りすら見せなかった。あれこそ人智を超えた存在であるというのに、主はその部分に関しては恐怖を覚えないらしい。
だというのに、あのようなあからさまな作り話を怖がる素振りは見せる。髭切としては、反応が逆ではないかと思っていた。
温かなお湯に包まれ、ぼーっと取り止めもなく考え事をしていたせいだろう。徐々に心地よい眠気が髭切の目蓋を襲う。風呂で寝るなとは膝丸には言われていたが、
「まあ、少しくらいなら……」
風呂の縁に頭をもたれかけさせ、髭切は暫しの微睡みへとゆっくり浸かり始めた。
***
気が付くと、髭切は居間に立っていた。皿洗いを終えた膝丸が端末を覗き込み、主は膝丸の隣でちらちらと端末を盗み見ている。
まるで、風呂場の向こうの光景を、そのまま見ているかのようだと髭切は不思議に思う。知らぬ間に風呂を出たのかと思うほどだ。
(いやいや、僕はまだ湯船の中にいたはず……また夢かな)
居間にいる膝丸と主を眺める夢など、また変わった内容を見るなあと髭切はぼんやりとした意識の中、思う。
少し近づくと、主は端末ではなく、膝丸をじーっと見つめているのが分かった。膝丸も視線に気が付いたのだろう。端末から顔を上げ、
「ひざまる、あの」
「どうした?」
「お風呂……一緒だと、邪魔?」
「ああ、一緒に入ってもいいかと聞いているのか。構わないぞ。主の体格なら問題ないだろう」
おや、と髭切は思う。その会話は、先ほど主に自分が促した内容だ。夢の中で見るほど、自分は気にかけていたのだろうか。
主は数度素早く瞬きをすると、ほんの少しだけ唇の端を緩めていた。どうやら、嬉しいと感じているらしい。
「あの、ひげきりが話してた怖い話」
「鏡の話か? あれはただの作り話だ。兄者も人が悪い。怖がらせると分かっていただろうに」
「そうじゃなくて、えっと」
主は暫く言葉を探すように、口を何度かはくはくとさせてから、
「……鏡の中のひげきりが、違ってた」
「それは、どういう意味だ?」
「えっと」
主は立ち上がって、膝丸に一度背中を向けてから振り向き、
「ひげきりがこうしたとき、鏡の中のひげきり──動いてなかった」
振り向けば、当然髭切の後頭部が鏡に映るはずである。
だが、鏡の向こうの彼は顔をこちらに向けたままだった。
その意味を夢の傍観者である髭切が理解した瞬間、目の前の光景がぶれ、続けてあぶくが爆ぜるような音が耳に響き渡る。
***
「ぷはぁっ」
目を覚ました瞬間、自分の頭がお湯の中に沈んでいる。聞こえた泡は、恐らく口か鼻から零れたものだろう。
奇妙な息苦しさとぼうっとした浮遊感に似た苦しさを自覚すると同時に、髭切は慌てて湯船から顔を出した。びっしょり濡れた髪の毛が、額や頬にぺったりと張り付いてしまっている。
冷えた空気に触れた瞬間、げほげほと噎せ込んでしまった。口の中から水を吐き出しながら、どうやら半分溺れかかっていたようだと自覚する。
(刀剣男士が溺死──なんて、聞いたことがないけれど)
だからといって、自分が第一人者として試したいなどとは当然思わない。激しく咳き込んでいると、音に気が付いたのか、どたどたという激しい足音と共に、
「兄者!?」
浴場の戸にはめ込まれた磨りガラス越しに、膝丸の影が見えた。
「僕なら大丈夫だから、平気平気」
声をあげてみるも、膝丸は未だに「大丈夫か!?」と声をあげている。自分の声で聞こえなくなっているのではと、髭切は風呂場を出て、直接顔を出そうとした。
だが、顔を出すより先に風呂を出た髭切の姿が磨りガラス越しに見えたのか、ようやく膝丸が安堵した様子が分かった。
「ちょっと、気持ち良くて寝ちゃってねえ」
「あれほど浴槽で寝るなと言っただろう」
「ごめんごめん」
そこまで話して、髭切はふと浴槽で夢に見ていた光景を思い出す。主と膝丸の会話の内容、それに夢が終わる間際、主は何か妙なことを言っていたような気がする。
「……弟、今日は主とお風呂に入るの?」
「ああ、そのつもりだが……兄者、聞こえていたのか?」
「いや、何となく……そうかなって」
夢との間にある奇妙な符合に、髭切は微かに眉を寄せる。
自分が主を促したわけであるし、膝丸に対して好感を持つ素直な主が提案に乗るのは当然にも思えた。ただ、この符合は本当に偶然だろうかと、彼は僅かに懸念を抱く。
不意に背筋に微かな寒気が走り、髭切はくしゃみをした。何はともあれ、風呂からあがって裸のまま考えるようなことではない。
「弟、そこにいるとあがれないんだけど?」
「ああ、すまない」
物理的に狭くて邪魔だという意味で、髭切は膝丸に退くよう頼む。物わかりのいい膝丸は、早々に脱衣所から出て行ってくれたようだ。
風呂場の戸を開き、脱衣所の中に入ると、熱気がむわっと広がり、洗面台の鏡が白く曇っていく。
いつも通りの、お馴染みの現象だ。だが、
「……あれ、今」
鏡が白く煙るその瞬間、鏡面の向こうに映る自分が薄く笑みを浮かべていた気がした。
燦々と降り注ぐ日差しは、夏の到来が近いことを教えてくれており、髭切は体に籠もる熱を追い払うためにぱたぱたと手を団扇代わりにはためかせていた。
彼が歩いているのは、仕事場である庁舎の三階だ。
ここは昔学校として使われていた木造校舎と新しい建物を無理矢理繋げたような構造になっており、髭切の所属する部署は前者の建物内にある。
何でも近頃の建物よりは、気の巡りがよく、結界などの術を開発するのに向いているらしい。
元が学校なので、かつて教室だった部屋は髭切たちのいる部屋のように職員たちの仕事部屋となっているが、本来の用途として使われている場合もある。
資料室と書かれた札を扉の端から吊している部屋も、その一つだ。かつては図書室の札が下げられていた部屋の引き戸を開き、髭切は中に入る。
「こんにちは。何かお探しかな?」
髭切を出迎えてくれたのは、カウンターにいる小柄な少年──日向正宗だ。
髭切の主よりは少し大きいが、彼の見た目は小学生ぐらいの子供と大差ない。髭切の主とは異なる色合いの深い青の瞳に、麦穂に似たくすんだ茅色の髪の毛をしている。
赤と黒を基調とした半袖のシャツとズボンはやや派手な組み合わせの色合いだが、彼の小柄な体躯とあわさると、少しめかしこんだ小学生が図書室にいるようにしか見えない。
だが、彼も刀剣男士の一振りであり、資料室の管理と警備を任されていると髭切は聞いていた。
「ええとね、場所だけ教えてもらえれば、僕の方で取りに行くんだけど」
日向はすかさず手元にあった板状の端末を起動させる。中空に操作パネルが広がり、日向は指先で数度軽く叩き、髭切の前に資料室内の書架を図式化した地図を見せてくれた。
「僕らが所属している部署が調査した内容で、去年のものってまとめられていないかな?」
「それなら、この辺りだよ」
司書役もこなしている日向は、端末を操作して、表示された地図の一点を点滅させる。
「でも、その頃ならもう髭切さんって配属された後だよね。髭切さんの知っているものしか、纏められていないと思うよ?」
「それはそうなんだけど……ほら、僕ってあの頃、周りが何をしているかって何の興味もなかったから」
長義が聞いていたら、恐らく深く何度も頷いていただろう。
今も、髭切としてはそこまで興味を抱いているわけではない。
だが、前に比べれば、他人が携わった任務や作業が何かを気にするようにはなっていた。
「ちょっと待ってね……。あれ、珍しいな。これ、持ち出し禁止の資料だ」
「おや、そうなのかい。ここの資料って、基本的に持ち出していいものばかりだと思っていたよ」
「基本的にはそうだね。審神者様の拠点座標とか履歴書とかの大事な資料は、もっとセキュリティが厳重な新庁舎の方に格納されているし、怪異や不可思議な現象の調査結果なんて盗まれた所でどうしようもないからって、そこまで重要視されていないんだ」
「じゃあ、これは何で持ち出しちゃだめになっているんだい?」
「それは僕にも分からないなあ。とりあえず、閲覧のロックは外しておいたから、電子媒体の情報も所属のカードを翳してもらえば、見られると思うよ」
日向にお礼を述べて、髭切は先ほどの地図が示していた書架へと移動する。かつては図書館の本が詰まっていたそこには、今はぎっしりとファイリングされた資料が詰め込まれていた。
大ぶりの図鑑に似たファイルを開けば、そこには大量の紙が挟み込まれている。紙でわざわざ出力する理由は、電子情報は何かの弾みで消去されたら取り返しがつかないから、らしい。
もっとも、付属している端末にカードを翳せば、先ほどの日向が使用した端末同様、宙空に資料が浮かび上がる仕組みにはなっている。
いちいち捲る必要もないので、一部の電子機器慣れした刀剣男士は、こちらの手法を好んでいると聞いていた。
「さて、と。どこかでじっくりと読もうかな」
ファイルを片手に、髭切は周囲を見渡す。資料室には、図書室として使われていた名残として、大きな机に椅子が並べられていた。丁度日当たりの良い一角を見つけて、髭切はそこに腰を下ろす。
「前に来たときと比べると、机の位置が変わっているね。模様替えでもしたのかな?」
ともあれ、心地よい五月の日差しを浴びながらのんびりと過ごすにはうってつけだと、髭切はクッションの効いた椅子に腰掛ける。
何故こんなところで、ゆったりとした昼下がりを満喫しているのかというと、髭切の今日の仕事は既に終わっていたからだ。
本来、髭切の午後の任務は、長義たちの所属する霊地を管理する部署のお手伝いとなっていた。だが、リーダー格たる人物が熱で倒れてしまい、急遽予定が無くなってしまったのである。
鬼丸には帰って少し休め、と言われていたが、弟の膝丸は別件で出陣しているため、彼の帰りをここで待って一緒に帰宅しようと髭切は思い、こうして暇つぶしと調査兼ねて資料を見ることにしたのである。
「僕らが所属し始めたのが、大体去年の今頃で……その前後に多分──ああ、あった」
髭切がページを捲って見つけたのは、会議の議事録らしき内容だった。わざわざ音声を紙に書き起こしているのだから、並々ならぬ苦労があっただろうと髭切は思いを馳せる。
「刀剣男士を、当部署に所属させる有用性について」
仰々しい字で書かれた題字と概要を捲り、髭切は眉を顰める。途中から、明らかに歯抜けになっている部分があったからだ。
不思議に思い、髭切は首から下げているカードをファイルに付属している端末に翳す。軽い電子音の後に、ふわっと髭切の眼前に携帯端末より大きいホログラム状の画面が表示される。
先ほどの会議の資料を見つけ、早速読み進めようとするも、すぐにエラーを示す赤い×印が表示されてしまった。
「当該せきゅりてぃれべるの者は、参照権限がありません……ねえ。僕じゃ見られないのか」
仕方なしと髭切は他のページを捲っていく。見たことのある調査内容の報告書がいくらか通り過ぎていくも、文字の上を目は滑っていくばかりだった。何故なら、
(眠い……)
瞼の上を睡魔が漂い始めたからだ。人の体というものは、昼餉を食べて温かい所にいると眠くなるようにできているらしいと、最近髭切は知った。
無論、睡魔は意識すれば排除は可能だ。だが、これに身を委ねるのは大層気持ちいいのだとも既に知り始めていた。
「よし、ちょっと寝よう」
そうなる可能性も踏まえて、髭切は予め自身の少ない荷物に枕代わりの柔らかなタオルを用意していた。
資料を一度元の場所に戻してから、髭切は改めて日差しが降り注ぐ机を使って午睡を楽しみ始めたのだった。
***
ふと気が付くと、髭切の目の前に膝丸の背中があった。
最近身につけている、ようやく見慣れた現代の私服ではなく、戦闘の際に身に纏う黒の礼装に似た戦装束に着替えている。
周りを見渡せば、やや荒涼とした庭が見えた。荒らされた畑や、濁った水を湛えた池。見る者の目を楽しませたと思われる木々は、半ばから折れて無残な断面図を晒している。
荒廃した庭の向こうには、同じく戦の跡が濃厚に残った建物があった。火事にでもあったのか、所々に炭化の跡すら見てとれる。
何故、自分はこんな所にいるのか。そう思い、同時に髭切は気が付く。
「……ああ、これは夢だね」
髭切の見る夢に弟は頻繁に登場する。夢という事象は、自分が体験した内容を辿るものである以上、共にいる時間が一番長い膝丸が登場する回数が増えるのは、当然とも言えた。
夢の中で自分が動ける場合もあるが、髭切がどれほど膝丸に近づいても声をかけても、膝丸はまるで反応を見せない。どうやら、この場所において自分はただの観客なのだろうと、髭切は理解する。
「この感じ……多分、敵に攻め込まれた本丸の跡地を偵察しに行ったとき、かなあ? そういえば、今日の弟の任務も、そんな内容だったっけ」
だから、その話を聞いて夢が引きずられたのだろうか。膝丸がこちらに気付かないのを良いことに、髭切は膝丸の隣に並び、気楽な調子で荒廃した庭を歩いていた。
普段ならばまず敵を警戒するために、髭切はここまで気を緩めはしない。寧ろ逆に、痛いほど張り詰めさせているぐらいだ。しかし、夢と割り切れば幾分か気も抜ける。
周りの風景も、常ならばただの背景でしかなかったが、今は嘗ての賑やかで風情ある光景を想像できるからこそ、寂しさばかりが強調されているように思えた。
「そんな風に感じるのも、僕が刀以外の在り方を意識するようになったからかもねえ」
花には色がついていて、香りもある。料理は辛いもの、甘いもの、塩っぱいもの、酸っぱいもの、多種多様な味がある。
触れれば熱いものもあれば、冷たいものもある。虫の鳴き声は涼やかであり、早朝にけたたましい声をあげる鳥の鳴き声はちょっとうるさい。
当たり前だが、不要だと切り捨てていたものを、髭切は少しだけ拾い上げることにした。その少しだけを、髭切はいっとう大切に思っている。
「夢の中の弟は、そういうことには縁がない感じかな?」
髭切が見つめる先、膝丸は感傷に耽る様子もなく、ずんずんと歩いて行く。
不意に、ぴたりと膝丸は立ち止まり、その腰に吊した太刀に手を添えた。
彼の眼前には、優に二倍の背丈はあるような大きな異形──巨大な鬼の侍といった形の化け物がいる。
時間遡行軍。過去に遡り、歴史の改変を目論む者たちが遣わす敵は得てしてこのようなあやかしの姿をしている。
意思疎通のできる個体もいるようだが、殆どは無言ないしは耳障りな鳴き声のような音しか漏らさない。
朽ち果てた屋敷に、時間遡行軍。髭切は、徐々にこの夢が何を示しているのかを読み取り始めていた。
「荒廃した本丸に……時間遡行軍。つまり、ここは敵に攻め込まれた本丸で、弟はその調査に来ているのだろうね」
それなら、自分が隣にいてもおかしくはないのだが、そこは夢ならではのご都合主義というものなのだろう。
敵を眼前にして、のんびりと構えていられるのも、このような特殊な状況ならではだ。
「まだ残敵が潜んでいるとはな。その首、即刻叩き落としてくれよう」
威勢の良い言葉通り、太刀を抜き放った膝丸は、裂帛の気合いと共に敵に迫る。
大太刀を持った鬼の異形の斬り下ろしを難なく受け流し、鋭い金属音が髭切の耳を劈く。
刃と刃のぶつかり合う様は、臨場感に満ちており、到底夢とは思えないほどだ。
「弟、頑張ってるねえ。ほら、そこの隙を突くといいよ」
髭切の言葉は聞こえていないのだろうが、膝丸は髭切が指摘していた敵の間隙を突き、胴を横薙ぎにする。たじろいだ隙に今度は逆袈裟に斬り上げ、ドス黒い血が飛び散った。
倒れ伏す直前、敵の体を踏み台に蹴り上げ、膝丸はその首を切り落とした。
斬首をわざわざしたのは、敵を確実に仕留めるためだろう。
「流石、僕の弟だ。夢の中でもしっかり者だね」
髭切がうんうんと頷いていると、膝丸は血振りをしてから太刀を鞘に収め、どういうわけか辺りを見渡し始めた。何か見つけたのかと思いきや、
「……今、兄者の声が聞こえたと思ったのだが、気のせいか?」
膝丸はぐるりと振り返る。丁度、髭切と目線が合う位置で足を止め、膝丸はずんずんと髭切に近寄ってくる。見えていないはずではないのかと、髭切がきょとんとしていると、
「声……違う。気配がした気がするんだが……いや、そんなわけはないか」
膝丸は足を止め、再び髭切に背を向ける。何故だか、今なら夢の中の彼に声をかけられるような気がして、髭切は手を伸ばし、
***
ぐらぐらと体が揺れている。否、誰かに揺さぶられているのだ。
「──殿、髭切殿。こんなところでうたた寝をしていますと、見つかったときに叱られますよ」
急に意識が浮上して、髭切はもぞもぞと頭を起こす。まだくっつきかけている目蓋を無理矢理開くと、白くてふわふわしたものが視界に入った。
「……綿菓子がある」
「誰が綿菓子ですか。私ですよ、小狐丸です」
「こぎつねまる……ああ、小狐丸」
ごしごしと目を擦り、近くに置いていた携帯端末で時計を確認する。時刻は一五時二〇分を示していた。思った以上にぐっすりと寝てしまっていたらしい。
凝り固まってしまった首を軽く揉んでから、髭切は隣に立っている背の高い青年を見やる。
白く癖のある腰ほどまでの長い髪の毛を、背中に流した姿は、一見女性にも見えるが、その背丈は髭切よりも高い。
獣の毛並みを彷彿させるゆったりとした毛並みに緋色のつり上がった瞳は、その名の通り彼の印象を狐に偏らせる一因となっている。
刀剣男士としての戦装束は狐色の衣装だが、今は仕事中のためか、無地の薄茶色をしたジャケットにシンプルな丸首シャツの簡素な出で立ちだ。また、本来なら刀剣男士には不要なはずの黒縁の眼鏡をかけている。
本人曰く、仕事とそうでない時を切り替えるために用いているらしい。
「何か調べ物に来たの?」
「ええ。今度調査に赴く場所で、同様の現象が発生していないかについて、少し目を通しておこうと思ったのです」
「好きだねえ。僕ならすぱすぱって斬ってお終いにするのに」
「私は、足を使って原因を隅々まで調べてからどうするかを考える方が好ましいと、考えているのですよ」
小狐丸と髭切は、共に同じ仕事部屋で机を並べている同僚だ。もっとも、髭切と膝丸が発生した事件に対して武力での解決を求められるのに対し、小狐丸は調査や聞き込みから得た内容で穏当な解決までの道筋を探る手法をとっている。
本来、人間の職員も半分以上はこのやり方で発生した怪異に対処しており、髭切と膝丸のやり方が乱暴すぎるとも言えた。もっとも、いくら調べても話が通じないものも多いので、こればかりは適材適所と言えよう。
「髭切殿も、何か調べ物を?」
「うん。ただ、どうにも今日は眠たくてね。うとうとしてしまうんだよ」
「良い具合に日差しが入りますからねえ。ただ、このような場所で寝ていると、魂が迷い出てしまいますよ?」
「うん? なんだいそれは」
小狐丸は、答えの代わりに髭切の背後にある壁を指していた。
体を捻ってそちら側を見れば、そこには少々豪奢な飾りのついた、如何にも古めかしそうな鏡がかけられている。磨かれた鏡面には、振り向いた髭切と小狐丸が映っていた。
「鏡の側で寝ると、魂が迷い出た上に帰って来られなくなってしまう──という話はご存じでしょうか。よくある言い伝えなのですが」
「知らないなあ。それって、君が好きな迷信なんじゃないの?」
「確かに、私は迷信は怪異譚の類は好みますが、これ自体は割と有名な話ですよ」
迷信呼ばわりされたのが気に食わないのか、小狐丸は不服そうに腕を組んで、眉を寄せてみる。
小狐丸は、その職分に影響されてか、調査で収集する以外も不思議な話や言い伝えに興味を持っている。髭切自身、小狐丸が己の趣味として語っている所を何度か耳にしていた。
「鏡には何かと曰くがつくものです。元々は三種の神器の一つとして神聖なものとして敬われていたからでしょうが、近頃は合わせ鏡や学校の怪談で登場する手洗い場の鏡など──」
「その話、長くなるなら、僕もう一眠りしようかな」
「また、あなたはそうやって人の話の腰を折る」
「だって、長いんだもの。僕は話の出所よりも、それが斬れるか斬れないかの方が重要だと思うなあ」
「なら、こんな話はどうでしょう?」
小狐丸は不敵な笑みをわざと作ってみせて、それこそ狐のように目を細め、
「この鏡には、とある妖怪が封じられているのです。鏡の前でうっかり眠って隙を見せると妖怪が取り憑いてしまい、それからずっと鏡の中から取り憑いた相手に迫り続け、いずれはその者の魂を抜き取ってしまう……という話です」
「それは、小狐丸が今考えた話?」
「いいえ。以前、手伝いに行った管理課の職員から伺ったお話です。鏡の向こうのあやかしでは、髭切殿も斬れますまい」
どうだと言わんばかりに笑う小狐丸に、髭切はうーんと大真面目な顔を作ってみせる。
「まあ、でも魂を抜き取るときぐらいは、姿を見せるでしょ? そのときにばっさりと斬っちゃえばいいよ」
「あなたは何でもすぐ斬って解決しようとしますが、鬼丸殿に何でもかんでも斬るなと言われていませんでしたっけ?」
「そうなんだけどね、行動してすぐ解決する方が早いよね」
「膝丸殿があんなことになっても、方針は変えないと?」
髭切は暫し沈黙を保ってから、にこりと笑ってみせた。彼の微笑は、机に降り注ぐ日だまりとは程遠い冷たさを帯びている。
「……失礼。失言でしたね。とはいえ、鬼丸殿も心配しているので、あまり無茶はしない方がよいかと」
「気をつけるよ。ところで、小狐丸」
髭切は鏡を指さし、続けて自分が枕代わりに今も置いているタオルを指さす。柔らかなタオルは、丁度髭切の頭の形にくぼんでいた。
「僕はこの鏡の前で寝てしまっていたわけだけれど、取り憑かれてしまうのかなあ?」
「もし、そうだと言ったら、髭切殿は怖がっていただけますか?」
「いいや。だって怖い話は、所詮怖い〈話〉でしょう? 語られていることでしか形を持ち得ないものは、脅威にはならないよ。話す人が変わればころころ物語も変わってしまう。そんな相手を、君は怖がるのかい?」
「そう言われてしまうと、いいえと言うしかないのですけれどね。事実、私も又聞きですので、恐らく抜け落ちている部分も多いでしょうし」
口伝による伝承が廃れるというのはよく聞く話だが、怖い話にはそれ以外にも余計な尾鰭がついて、全く別の話になることもある。
小狐丸自身、自分が語った内容が原典の話と全く同一などとは思っていなかった。
「ともあれ、怖くはなくとも、別の意味での教訓にはなりましょう」
「どんな教訓だい?」
「資料室は寝る場所ではない、という教訓です」
「ありゃ。気持ちいいから、ついうとうとしてしまったんだよねえ。弟が帰ってくるまで、これを読んでるつもりだったんだけど」
髭切がファイルをこんこんと手の甲で示すと、小狐丸はラベリングされたタイトルを見て目を眇める。
何か言いたげに髭切を見つめる彼に、髭切は人差し指を口元に添えて沈黙を促した。
「弟が帰ってくるまで、適当に時間潰してるよ。何かいい暇つぶしはないかな」
「それなら、私が以前収集したとっておきの怪談話を」
「うーん。僕はせっかくなら、美味しい話がいいなあ」
色気より食い気ならぬ、恐怖よりも食欲が髭切の中では勝っていたらしい。
小狐丸が肩を落としたのは言うまでもなかった。
***
「──ええとね、それで、鏡に住んでるお化けに連れて行かれちゃうんだって」
髭切が大雑把に物語を締めくくると、主である少年は青ざめた顔で髭切を見つめていた。
あれから、予定通り膝丸と合流した髭切は、小狐丸と別れて自宅であるマンションに戻ってきていた。膝丸は今、ようやく使い慣れたキッチンで夕餉を作っている。
最近の膝丸は、ようやく料理の勘所を掴んだようで、めきめきと腕を上げている。元々の生真面目な性格と料理という行為の相性は、思った以上に良かったらしい。
ご相伴に与れる髭切も、彼の料理を食べられる日はいつもより足取り軽く帰っていた。
主の方は相変わらず、自宅に閉じこもっての留守番が多い。その実情を長義に話すと、流石に子供が一人で長時間の留守番は退屈だろうと、本を貸してくれた。
最近は熱心にそれを読んでいるようだった。
「連れて行かれる?」
「そう。連れて行かれておしまい」
そして今、髭切は主に意気揚々と小狐丸直伝の怪談を語って聞かせていた。髭切にとっては何てことのない話だったが、主はソファのクッションの端をぎゅっと握りしめている。
(なるほど、これが怖い話を正しく怖がっているってことなんだね)
小狐丸がここにいたら、さぞかし喜んだだろうと髭切は思う。彼は、元々このような話を怖いとは全く思えない存在だった。
刀剣男士という存在が、まず不可思議な存在である。加えていえば彼自身、斬れば大抵の物事は解決すると考えているからでもあった。
「兄者、そのような話で主を怖がらせるのは感心せぬぞ」
主を庇うように、膝丸がキッチンの向こうから苦言を呈している。
「大丈夫だよ。主は強い子だから」
ちらりと和室の奥を見やってから、髭切は主に笑いかける。もっとも、主本人は髭切からそっと目を逸らしていた。
「そんな話、一体誰から聞いたのだ」
「小狐丸が教えてくれたんだ。今日、資料室でたまたま出会ってね」
「あの御仁は、時折ただの怪談か、ホラ話か分からないようなことを口にするな。先日は、庁舎を走る謎の白い影がいるとかいう話をしていたか」
「……お化けの出る学校?」
どうやら、主は二振りの話を断片的にまとめて、彼らの仕事場がお化けの遊び場のようになっているのではと思ったらしい。
実際、当たらずも遠からずのところはある。刀剣男士は、その存在が人によっては妖怪と言ってもいいものだろうから。
「古い建物の外観を活かしているそうだからねえ。そういうところ、怪談は生まれやすいらしいよ」
「おおかた、退屈を持て余したものが適当にでっち上げたのだろう。我々があやかしを退治している傍らで、自ら増やしていったいどうするというのだ」
「そうだね。まあ、そんなものがいても僕がスパスパッとしちゃうから、主は安心していいよ」
髭切が手で斬りつけるような真似をすると、主も納得したようでこくこくと頷く。
程なくして、膝丸が作った夕飯──今日は先日食べた親子丼に汁物や漬物だ──が机に並び、結果として話はそこで一旦中断となった。
***
夕餉を食べたあと、髭切は先んじて入浴を済ませると二人に言い残して脱衣所へと向かっていた。
風呂場が狭いため、二振りが同時に風呂に入ることは物理的に不可能になるため、大体は交代で入ることになっている。
ふんふんと調子外れの鼻歌を歌いながら、洗濯機やら洗面台やらのある脱衣所で上着やら服を脱いでいく。この洗濯機も、実を言うと最近買ったものだ。それまでは、私服は汚れたら捨てるという生活スタイルだった。
元より戦装束から上着を脱いだだけの状態が、現代にも一応溶け込める服だったこともあり、髭切も膝丸も私服を買ったのはここ最近だったりする。
洗濯機に着ていた服を投げ込もうとしたときだった。
「おや?」
こんこんという控えめのノックが響く。膝丸ならこんな控えめなノックはしないので、必然的に主だろうと髭切は推測する。
「入っていいよ」
果たして、木製の扉を開いて予想通り主が顔を覗かせていた。手には、髭切が枕代わりに使っていたタオルや、今日持ち歩いていたハンカチがある。
「これも入れておいてって、ひざまるが」
「そういえばそうだったね。預かるよ」
髭切が主の方に向き直り彼の元に近づこうとしたときだった。主は何故か目を大きく見開いて、さっと顔色を変えた。
「どうしたの?」
「……鏡が」
「え?」
髭切の後ろには、確かに洗面台がある。そこに鏡もついている。だが、それが一体何だと言うのだろうか。
振り向いても、そこには不思議そうな顔をしている己が映っているだけだった。
「鏡がどうかしたの?」
「……何でもない」
主自身、不思議そうに数度瞬きをしている。それからゆっくりと首を横に振った。
「そう? じゃあ、僕はそろそろお風呂入るから。主は弟と入る?」
「邪魔じゃ、ないなら」
「それは弟に聞いてごらんよ」
主は言葉少なに立ち去る。あの神隠し事件以来、主は膝丸といくらか距離を縮めているようだった。
前はお互いいくらか壁を作っているのかもしれないと思ったが、膝丸も主に対して気遣う素振りを見せている。否、それは親しみを込めた態度と言ってもいいかもしれない。
髭切とはどうかと言うと、主の方が探り探り距離を詰めているようである。髭切個人としては、特段距離を詰めるつもりもなければ、仲良くしようと思ってはいなかった。
(彼は、ただの楔だ。僕らがやりすぎてしまわないための、判断材料の一つに過ぎない)
お互い以外の第三者がいることで、自分たちがお互いだけを気にして破綻してしまうのを避ける。それが、髭切の考え出した安全策であり、それ以上の親愛を主に持つつもりはなかった。
思索を適当な所で区切り、髭切は風呂場へと足を踏み入れる。全身水に浸けるときいて、最初は抵抗を覚えたものの、慣れというものは恐ろしい。今や、髭切は素直に入浴時間を楽しんでいた。
覚えたばかりの手順で、まだ拙い手つきで体を洗い、髪を洗い、沸いたばかりの少し熱めのお湯に体を浸す。
全身を程よく包む温もりと水が跳ねる音。ついつい、布団に入ったかのようにうつらうつらしてしまう。
ふと、視線をやると浴槽から濡れた鏡がよく見えた。風呂場に鏡は付き物だ。手を伸ばして曇った表面を擦ると、濡れた鏡面に自分の顔が映り込む。
「主、鏡がどうとか言っていたけれど、怖がらせ過ぎちゃったかな」
先日の神隠し騒動では、彼は怖いとは一言も言わなかったし、泣く素振りすら見せなかった。あれこそ人智を超えた存在であるというのに、主はその部分に関しては恐怖を覚えないらしい。
だというのに、あのようなあからさまな作り話を怖がる素振りは見せる。髭切としては、反応が逆ではないかと思っていた。
温かなお湯に包まれ、ぼーっと取り止めもなく考え事をしていたせいだろう。徐々に心地よい眠気が髭切の目蓋を襲う。風呂で寝るなとは膝丸には言われていたが、
「まあ、少しくらいなら……」
風呂の縁に頭をもたれかけさせ、髭切は暫しの微睡みへとゆっくり浸かり始めた。
***
気が付くと、髭切は居間に立っていた。皿洗いを終えた膝丸が端末を覗き込み、主は膝丸の隣でちらちらと端末を盗み見ている。
まるで、風呂場の向こうの光景を、そのまま見ているかのようだと髭切は不思議に思う。知らぬ間に風呂を出たのかと思うほどだ。
(いやいや、僕はまだ湯船の中にいたはず……また夢かな)
居間にいる膝丸と主を眺める夢など、また変わった内容を見るなあと髭切はぼんやりとした意識の中、思う。
少し近づくと、主は端末ではなく、膝丸をじーっと見つめているのが分かった。膝丸も視線に気が付いたのだろう。端末から顔を上げ、
「ひざまる、あの」
「どうした?」
「お風呂……一緒だと、邪魔?」
「ああ、一緒に入ってもいいかと聞いているのか。構わないぞ。主の体格なら問題ないだろう」
おや、と髭切は思う。その会話は、先ほど主に自分が促した内容だ。夢の中で見るほど、自分は気にかけていたのだろうか。
主は数度素早く瞬きをすると、ほんの少しだけ唇の端を緩めていた。どうやら、嬉しいと感じているらしい。
「あの、ひげきりが話してた怖い話」
「鏡の話か? あれはただの作り話だ。兄者も人が悪い。怖がらせると分かっていただろうに」
「そうじゃなくて、えっと」
主は暫く言葉を探すように、口を何度かはくはくとさせてから、
「……鏡の中のひげきりが、違ってた」
「それは、どういう意味だ?」
「えっと」
主は立ち上がって、膝丸に一度背中を向けてから振り向き、
「ひげきりがこうしたとき、鏡の中のひげきり──動いてなかった」
振り向けば、当然髭切の後頭部が鏡に映るはずである。
だが、鏡の向こうの彼は顔をこちらに向けたままだった。
その意味を夢の傍観者である髭切が理解した瞬間、目の前の光景がぶれ、続けてあぶくが爆ぜるような音が耳に響き渡る。
***
「ぷはぁっ」
目を覚ました瞬間、自分の頭がお湯の中に沈んでいる。聞こえた泡は、恐らく口か鼻から零れたものだろう。
奇妙な息苦しさとぼうっとした浮遊感に似た苦しさを自覚すると同時に、髭切は慌てて湯船から顔を出した。びっしょり濡れた髪の毛が、額や頬にぺったりと張り付いてしまっている。
冷えた空気に触れた瞬間、げほげほと噎せ込んでしまった。口の中から水を吐き出しながら、どうやら半分溺れかかっていたようだと自覚する。
(刀剣男士が溺死──なんて、聞いたことがないけれど)
だからといって、自分が第一人者として試したいなどとは当然思わない。激しく咳き込んでいると、音に気が付いたのか、どたどたという激しい足音と共に、
「兄者!?」
浴場の戸にはめ込まれた磨りガラス越しに、膝丸の影が見えた。
「僕なら大丈夫だから、平気平気」
声をあげてみるも、膝丸は未だに「大丈夫か!?」と声をあげている。自分の声で聞こえなくなっているのではと、髭切は風呂場を出て、直接顔を出そうとした。
だが、顔を出すより先に風呂を出た髭切の姿が磨りガラス越しに見えたのか、ようやく膝丸が安堵した様子が分かった。
「ちょっと、気持ち良くて寝ちゃってねえ」
「あれほど浴槽で寝るなと言っただろう」
「ごめんごめん」
そこまで話して、髭切はふと浴槽で夢に見ていた光景を思い出す。主と膝丸の会話の内容、それに夢が終わる間際、主は何か妙なことを言っていたような気がする。
「……弟、今日は主とお風呂に入るの?」
「ああ、そのつもりだが……兄者、聞こえていたのか?」
「いや、何となく……そうかなって」
夢との間にある奇妙な符合に、髭切は微かに眉を寄せる。
自分が主を促したわけであるし、膝丸に対して好感を持つ素直な主が提案に乗るのは当然にも思えた。ただ、この符合は本当に偶然だろうかと、彼は僅かに懸念を抱く。
不意に背筋に微かな寒気が走り、髭切はくしゃみをした。何はともあれ、風呂からあがって裸のまま考えるようなことではない。
「弟、そこにいるとあがれないんだけど?」
「ああ、すまない」
物理的に狭くて邪魔だという意味で、髭切は膝丸に退くよう頼む。物わかりのいい膝丸は、早々に脱衣所から出て行ってくれたようだ。
風呂場の戸を開き、脱衣所の中に入ると、熱気がむわっと広がり、洗面台の鏡が白く曇っていく。
いつも通りの、お馴染みの現象だ。だが、
「……あれ、今」
鏡が白く煙るその瞬間、鏡面の向こうに映る自分が薄く笑みを浮かべていた気がした。