本編の話
何時間彷徨っているのだろうかと、主は走って乱れた息を整えながら思う。ぼんやりと辺りを照らす光も、永遠に続く灯籠もどれだけ歩いても変わる様子はない。
終わりのない迷宮を歩き続けているせいで、肉体的な疲労ももちろんだが、このままでは帰れないのではという不安がわき上がってくる。
それを口にしていないのは、膝丸が奮闘してくれているからだ。今も、彼の振るう銀の刃が、行く手に溜まっていた黒い空気をなぎ払ってくれている。
「ここも、長くは保たなさそうだな」
一帯が、あの瘴気に覆われてしまったら、今よりもなお状況は悪くなる。いや、既に先ほどよりも事態は悪い方向に転がっていると、膝丸は思っていた。
頭の奥底から、ざわざわと誰かが囁いているような不愉快なノイズが湧き上がっている。今は意識の外に追いやる程度で済んでいるが、斬ったものの影響がこちらにも滲み出ているのは明らかだ。
「ひざまる、少し休む?」
「いや、だいじょう──」
大丈夫と言いかけた瞬間、臓腑が反転したような気持ち悪さに膝丸は思わず噎せ返った。幸い、形としては咳き込んだだけだが、
(……影響が強く出すぎているな。真正の神の中にあった淀みだ。俺への影響が強いのも、当たり前か)
付喪神と、それ以外の人ならざる存在。
どちらが上とは一概に言えないが、彼女の言葉を借りるなら「顕現してまだ五年の魂」には、何十年何百年──或いは何千年生きたような存在がため込んだものは、影響が強すぎるのだろう。
「……すまない、少し休ませてくれ」
灯籠にもたれ、膝丸は軽く深呼吸をして息を整える。そうすると、頭を浸食していくざわざわを鎮めることができた。
耳を澄ますと、それはどろどろとした呪い染みた感情だとは分かったが、それ以上意識を傾けすぎると自分が喰われそうで、膝丸は無視を選んでいた。
「……主」
隣で腰を下ろしている少年は、担がれているときも、隣を走っているときも、ほぼ無言を貫いていた。
無口な彼が一層喋らないのは、疲労のせいだろう。だが、ただ沈黙を続けているのも、気分の良いものではなかろうと膝丸は言葉を探し、
「……怖くはないか」
自分でもありきたりと思える言葉で問うと、主はゆっくりと言葉を振る。
「ここ、怖くはない。優しい空気がする」
「君はそう感じるのか。無理矢理連れてこられて、普通は恐ろしいと感じるものだと思っていたが」
「無理矢理じゃ、ないと思う」
あの得体の知れない存在を庇うような主の発言に、膝丸は怪訝そうに眉を顰める。
「いらない子なのかって、お父さんやお母さんはどうしたのかって聞いてた。ワンピースの子も、着物の子も」
そういえば、と膝丸は思い返す。彼女が膝丸に見せた髭切の幻も、彼女が膝丸自身にかけた言葉も、やけに「置いてかれた」ということを強調していた。
「だからといって、置いてかれた子供を自分のものとして連れて行く理由にはならんだろう」
「そうだけど……でも、ここにいるみんなは、すごく楽しそうだった」
同い年ぐらいの子供たちが、細やかな遊びに興じる姿を主はずっと目にしていた。もし、髭切と膝丸と過ごしていた今でなかったら──ただ、置いてかれていたあの自分なら、きっと迷わずにこの場の一員になっていただろう。
「怖い思いをしていて、帰りたいって願っているなら……多分、あんな風に遊べない」
「だが、わざわざ何故そのような真似を。童を遊ばせるだけなら、別に閉じ込める必要はないだろう」
そこまで考え、膝丸はふと思い返す。昼に見た夢でも、童女は両親の所在を尋ねた。尋ねられた子供は、ひどく飢えた様子だった。
兄を連れてきてほしいと子供が頼んだとき、童女は「ここに来たら」と語った。
そして、職員から伝えられた情報。いなくなった子供を、保護者は皆探そうとしなかった。裏を返せば、いなくなった子供に元より興味がなかった。
言い換えれば、置いてかれた。この場所に、置いてかれた。
兄に、家族に、置いてかれた。捨てられた。
彼女は言った。
──置いてかれた子供は、消えないと。
「……ここは不要になった者を、消す場所」
並び立てた事項を一言でまとめると、何ともおぞましい単語になった。
だが、疑念は尽きない。本来ならどうでもいいと切り捨ててしまえばいいが、ことは自分と主の安全に関わってくる。どうでもいいと言っている場合ではなかった。
「なら、何故遊ばせる。消すのなら、殺してしまえばいいだろう。それが役割ならば……役割?」
その単語が、妙に引っかかる。先ほども聞いた気がする。たしか、あの童女と対峙したときに。
『あなたは、己の役割を知っているのね。そう、それはいいことね』
続けて彼女は言った。
「羨ましくて、妬ましい──」
妬ましいのは何故か。羨ましいのは何故か。膝丸が、主を──子供を守っているからか。
だが、童女の領域にいる童は楽しそうにしていると主は語っていた。言い換えれば、彼女は既に彼らを守っている。わざわざ羨む必要がない。
そこで、彼は首を横に振る。違う。彼女は役割そのものを妬ましいと言ったわけではない。
(役割を知っていることが羨ましいのなら、裏を返せば彼女は知らないのだろう。自分の役割を知らず、しかし子供は隠し続けている。子供を隠せば、当然悪しきものとして語られるだろうが……)
「ひざまる。気分、悪い?」
「いや、大丈夫だ。少し考えている。あの壊れた神らしきものは、本当に置いてかれた子供を消すだけの存在なのかどうかと」
「……それだけ聞くと、あの子、怖いお化けみたいだ」
「ああ、そうだ。怖がられ、恐れられ疎まれる。ただ、彼女はそれを望んでいない……?」
怖がられるのが役割だ、というものもいるだろう。だが、少なくとも、彼女にとってはそうではないらしい。
けれども、怖がられると分かっていても、彼女は置いてかれた子を捨ておけなかった。その周囲に、捻れた因果があるように、膝丸には感じられた。
刀としての役割は斬るものであるというのに、持ち主の敵を斬ったら呪われた刀と言われる。刀にありがちな、そんな話に似た歪んだ巡りを、膝丸はつかみ取ったような気がした。
己を象る物語が変われば、刀は加護を授けるものにも、呪われたものにも変わる。況んや、神とてそれは変わらない。
「これはあくまで、仮定にすぎないが……本来は怖がられるどころか、尊崇の念で扱われていたが、やがて、どうしようもない理由で子を隠していく内に、悪いように語られていったのかもしれないな」
付喪神も、そうでない人ならざるものも、多かれ少なかれ人の願いに影響を受ける。
彼女も、同様に周囲に住まう者から受けていた尊敬や信仰が、恐怖や憎悪に変わったのなら。あまりに根深く浸透しすぎて、己が何だったかすらも忘れてしまったのなら。
それは、羨んでも仕方ないだろう。ひょっとしたら、童女はあのとき、あまりに確たる役割を掲げている膝丸という存在を、己と同じ位置まで引きずり落としたかったのかもしれないと、膝丸は思う。
隣にいる主を見やると、小さく額に皺を作っていた。どうやら、難しい単語が多すぎて理解できなかったようだ。
「本来は良いものとして扱われていたが、彼女なりによかれと思ってやっている行為が、人々にとっては恐ろしいものに見えるようになった。結果、本当に自分は恐ろしいものだと思い込んで、彼女はあのようになったのだ」
かみ砕いて説明すると、今度は理解できたらしく、主はこくこくと頷いてみせる。
「……じゃあ、ひざまるもぼくも、怖くないよって言ったら、思い込むのをやめる?」
「どうだろうな。あそこまで酷く変異していてはもう、聞く耳もたずの可能性が高い」
「でも、おかしくなった子は白い着物の子だけで……ワンピースの子は、まだ大丈夫かも」
「ああ、洋服を着ていた彼女か。だが、似たような存在なら大した差はないのではないか」
「あの子は、迷子のぼくを助けてくれた」
「そうなのか?」
主は膝丸の問いに明瞭な首肯で返す。言われてみれば、と膝丸は思い返す。
自分が斬り伏せたのは白い着物の童女であり、夢で子供に手を差し伸べて消えたのも童女である。
だが、この場所に訪れて姿を見せたのは、白い洋服の少女で、更に言うなら夢の中で主が連れて行かれたことをほのめかしたのも、洋服の娘だった。
見た目があまりに似ているので、神使かその類だろうと思っていたが、もしそうではなく、別の存在なのだとしたら?
「そういえば、俺があの着物の童を斬ろうとしたとき、止めようとする声があったように思う」
主に目をやると、彼も微かに数度首を縦に振っていた。少女は、膝丸に童女を斬らせたくはなかったらしい。
もし、彼女が何かを知っている──あわよくば解決策まで知っているのなら、今は彼女を探し出して聞き出すのが先決だと膝丸は方針を定める。
ただ似たような場所を闇雲に駆け回るよりは、よほど建設的なはずだ。
「……あの子、お化けって言われたくないなら、何て言われたいんだろう」
「役割を忘れているのなら、俺たちがいくら考えても思いつけるわけがない」
善は急げと、膝丸は立ち上がり、主へと手を差し伸べる。彼も、すぐさま膝丸の手をとって立ち上がる。
「人間にとって、喜ばれるような役割だったのだろう」
「役割……」
「ああ。主は無事でいることが役割だ。俺は主を守り、刀を振るう。それが、この膝丸の役割だ」
そこまで語り、膝丸は数週間前のことを思い返す。ムジナと名乗った奇妙な獣は、ちゃんと役割を果たしたいと語っていた。
人を脅かすだけでなく、道案内をするのが彼らの役割なのだろうと、膝丸も薄々察していた。
役割は、膝丸たち人ではないものの本質といってもいい。
正しく役割を全うすることで、初めて彼らは己の存在を強く認識できるのだから。
「もし、役割を思い出したら、あの白いワンピースの子みたいに、優しそうな人になるかな」
主の期待は、子供ならではの希望的観測が大きい。寧ろ、希望というよりは半ば願望染みてすらいた。
「……どうだろうな。己の本質に立ち返れば、あるいはそうかもしれぬが、どのみち俺たちでは分からぬ」
分からないものを悩む暇はなし。膝丸は主の手を引いて、再び歩き出した。辺りには子供の姿は見られず、そのせいか酷く閑散としているように感じられる。
風のざわめく音すらなく、空気すらも死に絶えたかのようだ。この領域の本体があの童女ならば、比喩ではなく事実となる時も近いかもしれない。
あまりに静かすぎて、二人の間の空気もぴりぴりしている。髭切が隣にいるのなら、この沈黙も不自然には感じなかったのかもしれないが、生憎主と共にすごす沈黙は若干毛色が異なる。
さて、どうしたものかと彼が言葉に迷っていると、
「ひざまる、ずっと歌、歌ってたよね」
「歌?」
「えっと……ぼくが寝ずに待ってた日の夜の、次の日から。その日から、あの着物の子が、家にいたように見えて」
「主、それは本当か。そんなものが、入ってきていたのか。何故言わなかった」
「……見間違いかと思って」
自分にしか見えないものがあったら、まず自分の方がおかしいと感じて、主は沈黙を選んだ。
ありもしない存在や錯覚を口にすることを、彼が以前過ごしてきた環境は全く許してくれなかったか。故に、彼は強固に主張しようとは思えなかった。
「それで、歌とは何だ」
「お皿洗ってるときとか、料理のときとかに、小さい声で歌ってた」
「どんな歌だ?」
主は目をぎゅっと瞑り、必死に何度か耳にしたメロディを思い返そうとする。膝丸も何度も何度も歌っていたわけではないが、独特の音律だったためか、どうにか主は一節だけを鼻歌で歌ってみせた。
彼が歌い終わるより先に、次いで膝丸の口から言葉を載せた旋律が零れ出る。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ
ちいっととおしてくだしゃんせ ご用のないものとおしゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります
そこまで歌い終わり、膝丸は「そうか」と呟く。思いついた閃きを決して離すまいと、彼は必死に口を動かす。
「……これは、ひどく単純な答えなのやもしれぬ。なぜ、こんな童歌を俺が覚えているのかは知らないが、恐らく──最初からこのためか」
「え?」
「この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります。要するに祝いだ、主。あれは子を隠して遊ばせるものでも、まして都合よく消すものでもない」
膝丸は足を止め、ぐるりと振り返る。自分たちが立ち去った社のある大体の方角を向いて、
「単純に、祝うものだ。七つまでが神のうちといわれているのなら、七つを過ぎ人となったものを言祝ぐものがいてもおかしくはない。君は、そういうものではなかったのか」
膝丸の視線は主でもなく、社がある方角にでもなく、自分たちが歩いてきた道を見つめていた。そこには、白いワンピース姿の少女が黒い真っ直ぐの髪を靡かせて立っている。
主の言う通り、彼女からは悪い気配はしない。着物姿の童女と見目はそっくりだが、近寄りがたい気配は微塵も感じない。寧ろ、清浄な空気を纏っていると言えよう。
「子に纏わるものであるが故に、保護者に置き去りにされた童も見捨てられず、人の世で息絶えるくらいならとかくまった。だが、その行いは人の子の目からは、さぞかし奇異な怪奇現象のようにうつったのだろう。故に、貴様はよくないモノとして語られ、結果、自らも変貌するようになっていった」
「正解。そこまで分かってもらおうとは思っていなかったのだけれど、あなたのあにさまも、あなたも、随分と聡明なのね」
少女は黒真珠のように艶やかな目を細め、軽い足取りで近づいてくる。後ろ手で何か持っているようだが、生憎体が邪魔になって何も見えない。
だが、膝丸は彼女が何を持っているかではなく、彼女の言葉の方を耳ざとく拾い上げていた。
「兄者に会ったのか!?」
「ええ。あなたと同じことに、あの短期間ですぐ気が付いていたわ」
「そうか。ともあれ、貴様が顔を出したのなら話を早い。俺たちをここから外に出すか、あの狂った存在をどうにかするか。貴様なら、できるのではないか」
だが、膝丸の質問に彼女は首を横に振り、否定を露わにした。
「わたしは、役割を覚えていた頃の〈私〉の残り滓みたいなもの。〈私〉が外に出さないと決めたものを勝手に持ち出せないし、〈私〉を正しい形に戻せるわけでもない。だけど、あなたたちならできるわ」
彼女は膝丸と主の眼前に立ち、艶やかな瞳を一度瞬かせ、
「あなたたちは、大人と子供だから」
膝丸へと少女が差し出したのは、ひどく古びた木の札だった。膝丸は怪しむように木札を目にしていたが、半ば黒ずんだ表面に薄らと記されたペンの筆跡を見て、目を丸くする。
「あなたのあにさまが、これを渡してほしいと」
言われるまでもなく、膝丸は木札を受け取った。結びつけられたメモを解いて開くと、流麗な筆跡で一言、こう書かれていた。
〈早く帰っておいで。待っているから〉
ただそれだけの言葉と渡されたもので、膝丸は何をすべきかを概ね理解した。不思議そうにこちらを見つめている主に、膝丸は問いかける。
「主、君は今いくつだ」
「……七つ、だと思う」
「わかった。ならば、まさに丁度いい」
膝丸は主を安心させるように微かに笑いかけてから、
「だが……正直、掌の上で踊らされているようで、業腹ではある」
膝丸が不服そうに少女を睨むと、少女は心外だと言わんばかりに目を丸くする。
「あら、どうしてそんなことを?」
「貴様が、俺も主もここに至るように仕組んだのではないのか。貴様らの考えでは、俺は五つの童だそうだな。だが、俺の姿は人の成人した男性を模している。そして、あの壊れた方の貴様は、この場所には子供しか招こうとしない」
あからさまに怒りを露わにしている膝丸に、主は不安そうな視線を送っている。だが、彼の様子などお構いなしに膝丸は剣呑な空気を隠そうともしない。
「彼女に役割を思い出させ、在るべき形に戻すには、子供を正しく祝う必要がある。そのためには、祝ってくれと頼む大人が必要だった。その役割を、俺と主に与えようと目論んだのは、貴様ではないのか」
壊れきった方の存在では、そこまで頭は回らないはずだ。あれは、もはや一つのシステムに近い。
ただ、与えられた条件を満たしたものを、己の中で遊ばせて飼い殺しにするだけの権能しか持ち得ていない。ならば、考えて行動するものが別にいるのでは、と膝丸は考えていた。
「ええ、確かに。わたしは、大人の姿を持ちながら、その魂の稚さを見出して、あの日、あなたに社を見せ、〈私〉にあなたへ目をつけさせた。でも、その先に都合良く子供がいるとは思わなかったし、その子供が〈置いてかれた子〉だったのは偶然。でも……そうね。もし、そうでなかったら、もっとわたしは介入していたかもしれないわね」
「随分と勝手な真似を」
「勝手なのは、わたしたちの十八番よ。それで、成すべきことは分かったのでしょう。頼めるかしら」
図々しい物言いではあるが、少女の目は真剣そのものだ。膝丸は暫し少女とにらみ合った後、先に目を逸らし、承諾の意を露わにした。
「……案内を頼めるか」
***
自分は何をすべきものだったのか。気が付けば、そんな当たり前のことが分からなくなっていた。
己のいるべき場所は分かる。そこは、自分が作り出した子供たちのための遊び場だ。
己が何者かも分かる。人とは異なるものであり、己が役割を果たすものだ。
だが、何をしていたのかだけが分からない。ただ、何かを待っていたような気持ちだけがぼんやりと残っていた。
あれは何年前のことか。あるいは何十年前か、何百年前のことかもしれない。
周りに目をやったとき、泣いている幼子たちが目に入ったことがあった。そんな彼らを見ていると胸が痛み、だから声をかけた。
お母さんは。お父さんは。
あなたを待っている人はいるの。
いない、と言われたなら、連れて行くと決めていた。何も分からぬまま、動けなくなって朽ち果てるよりかは、自分の住まう場所の方がきっと幸せだろうと思った。
そんな行為を何度も何度も繰り返すうちに、自分の役割は益々分からなくなっていった。
耳に入り込み、体に染み渡る人の子の声は、己を蝕むものになっていった。
──あれは、呪われた山だ。
──子供を連れていってはいけない。入ってはいけない。
──神隠しが起きた。
──いいや、子を攫う妖怪がいるのだ。
いったい、何を言っているのだろうと思った。けれども、言葉が増えれば増えるほど、確かにあったはずの自分が分からなくなっていく。
社の片隅に溜めていた、かつて自分へと捧げられた祈りたちをかき集めて、どうにか自分を保とうとした。
私が隠すのは、大人が置き去りにした子供だけ。一人で生きられない弱い存在だけに手を差し伸べる。そういう決まりを、私の中で定めていたつもりだった。
あの日、とても思い詰めた顔で私の住処に入ってきた子供がいた。
ひどく純粋で、混じりけのない魂を抱えていた。なのに、彼は大人と同じ姿をしていた。
彼は、どこか寂しげだった。家族のことで思い悩んでいるのだと知った。だから、彼も誘ってあげなくてはならないと思った。
どうせ置いていかれて傷つくくらいなら、わたしが触れてきた子供たちみたいに心の傷から血を流して泣き伏すくらいなら、それが現実になる前に私の元へと辿り着けばいい。
彼は、他の子供のように甘えることすら知らないようだったから、念入りに後押しをした。
どうせあなたの家族も、あなたを置いていくのだと、そっと考えの向き先を修正した。それでも、彼は違うとあらがい続けていた。そんなわけがないと、否定してみせた。
──彼のため、と言ったけれど、実際は違う部分もあったのだろう。
彼は、私と同じような存在だった。その在り方は私と異なる部分も多かったけれど、私は彼に強い親近感を覚えていた。
彼は、自分が何なのかを知っていた。何をするべきかも分かっていた。それが、ひどく羨ましかった。
だから、私は彼も惑えばいいと思ったのだろう。在り方を忘れ、彷徨える存在になってほしいと、妬みを募らせた。
けれども、彼は否定した。何よりもきっぱりと、私のしてきたことを否定してみせた。
彼は私と違って役割を知るもので、私は知らないもの。彼が間違っているというのなら、私は、私が作り上げた決まりは──。
***
最早、欠片としてしか残っていない思考を抱き、ふらりふらりと歩き、社へと辿り着く。
もう、子供の声すら聞こえない。耳に響くのは、恐れと嫌悪の声ばかり。何となく、それが少しだけ、寂しかった。
だが、その寂しいという感情も、いずれどこかへと消えていくのだろう──。
「少し、いいだろうか」
声がした。
酷く重たい体を振り返らせ、そこに立つ人影を見つめる。
子供を連れた大人だ。春の野山のような薄緑の髪に、秋に色づく木の実のような瞳。その隣にいる子供は、どこかおどおどとした様子でこちらを見ている。
彼は一枚の木札を、こちらへと差し出した。
「貴様の果たすべき役割を果たしてもらおう」
獲物に食らいつく蛇に似た目で、彼は言う。
「札を納めにきた。ここにいる主──彼が今ここにあることを、君が言祝いではくれぬか」
渡された木札には、懐かしい祈りが詰まっていた。
流麗な細い筆跡で綴られているのは、厄除けを祈願する古い言葉だ。不意に、霧がかかったように、曖昧だった思考が、千々に裂けていた記憶が、急速にあるべき形を取り戻していく──。
***
木札を差し出し、膝丸は相手の様子を窺った。
己が何をすべきものだったかを思い出せば、彼女はこちらを解放すると予想はしていた。こちらを隠して閉じ込めるような役割を持っていない以上、留め置く理由がないからだ。
黒々とした瘴気を纏っていた童女は、蝋のように白い手で膝丸が差し出した札を受け取る。その弾みで、濁った気が体に触れるが、今は四の五の言っている場合ではなかった。
童の姿をした神の、微かな吐息だけが、静かすぎる夜の社に響いている。
「……ええ、そうだったわ」
彼女の震える唇が動き、札をそっと額に押し当て、呟く。
「私は、そういうものだったのに」
その一言と共に、瘴気がまるで吹き出していた穴に蓋でもしたかのように、あっという間に消え失せる。ゆるりと顔を上げた彼女は、最早虚空を顔の内には宿していなかった。
そこには、黒い真珠のように艶やかな瞳が、星のような輝きを宿して、笑みの形をとってみせていた。
「……あなた方の願い、受け取りましょう」
札を両手で握りしめた童女が、一歩こちらへと踏み出す。瞬間、膝丸の鼻を春の柔らかく温かな風が掠めていく。
いつしか、重苦しい夜のような天蓋は透き通る蒼穹に変わり、微かに鳥の囀りすらも聞こえる。
甘い花の香りがほうぼうから漂い、灯籠の明かりを受けて妖しく輝いていた桜は、陽光と共に柔らかな空気を纏って梢を揺らしていた。
「七つまでは神のうち。七つ生きれば、その子は人の子。人の子としての先行きを、私は言祝ぐ。それが、山に託された人々の祈りで生まれた、私の役割」
童女は周りの景色に目を奪われている少年を見つめ、にこりと微笑んだ。彼女の微笑は、花が綻ぶような瑞々しさを湛えていた。
「彼の名は?」
彼女は問う。
人の魂の根幹たる象徴として、言祝ぐためにも必要となる名を。
膝丸は、真っ青に透き通る青の天蓋を見上げて告げる。
「──空、だ」
「とても良い名ね」
「ああ」
主の名を褒められるのは、何故か自分が褒められているかのように膝丸には嬉しく思えた。
童女の姿をした祝いの神は主のもとに歩み寄り、そして手を伸ばしかけ、暫し躊躇を見せてから、
「……あなたには、遅すぎたのかもしれないけれど」
小さな白い手を少年の頭に載せ、彼女は告げる。
「あなたの行く道に、幸いがあらんことを」
***
ふと、周りに漂う嫌な空気が鎮まり、髭切は振るっていた刀をぴたりと止める。剣舞を中断しても、辺りの空気が淀む気配はない。
「……終わったかな?」
軽く太刀を振り、髭切は鞘へと己の本体をしまう。冴え冴えとした月の灯りが、髭切を照らしていた。
「いい月だね。弟にも見せてあげたいなあ。君も、そう思わないかい?」
振り返った先には、白いワンピースを月光で青白く染め上げた少女が立っていた。彼女は軽やかな足取りで、髭切の元へと歩み寄る。
「ちゃんと、渡してきたわ」
「それはどうも。弟は元気そうだったかな」
「ええ。まさに、神をも恐れぬ不遜な態度に、面食らってしまったわ」
「よかった。その分なら、心配は要らなさそうだね」
少女に食ってかかる膝丸の姿を想像して、髭切はくすくすと笑う。少女は何やら嬉しそうな髭切とは裏腹に、不服そうな顔で彼を見つめた後、
「……刀剣男士って、不思議な存在ね。刀に宿った願いを核にして、人の形を与え、こうあるべきという役割を人に与えている。あなたは、それに不満を抱かないのかしら」
「不満は感じないかなあ。僕は僕なりの役割を果たしているつもりだし、他の僕もそれなりに上手くやっているみたいだよ」
「そう。それならあなたに関しては口を挟まないわ。でも」
少女は、年不相応の大人びた声音で髭切に問う。
「あんな風に、無理矢理彼を器に収めたのは、いったい誰? 見た目は人の子に瓜二つだったけれど、彼の本体は」
しーっ、と微かな息の音がした。
それは、髭切が少女に向き直り、自分の唇に人差し指を当てて、沈黙を促すために漏らした音だった。
「僕らにとって必要になりそうだと思ったからね。弟のため、僕のために、保険は多い方がいい」
「道理に反しているとは思わないかしら」
「もとより、神は勝手なものだから」
少女は、些かの優しさも感じさせない鋭い瞳で髭切を睨んでいたが、やがて、ふいと目を逸らした。
「もう、行かないといけないわ」
「そうなんだね。じゃあ、気をつけて──と、一応言っておこうか」
「ええ。結局、何が大きく変わることもないのだろうけれど……それでも、感謝しているわ。刀の付喪神」
くるりと白いワンピースを翻し、少女は夜闇へとその姿を溶け込ませ、姿を消した。まるで最初からそんなものは存在していなかったのように、辺りには寂寥を帯びた夜の風が吹く。
「たとえ一時的に思い出せたとしても、願いの根幹が変わらないなら、きっとまた怖い神様に戻ってしまうのだろうね」
あるいは、存在そのものを忘れられて、彼女は消滅するだろう。
社を祀り、祈る者が存在しなければ、彼女のような人あらずの存在は長くこちら側に留まれまい。
自分とて同じだ。もし、ただの何の逸話も持たない刀なら、ここに足を下ろすこともなかったのだろうから。
僅かに残った哀惜を、どうでもいいものとして切り捨て、髭切は雨で崩れた場所を所々出っ張った岩などを踏み台に上り直し、獣道を通って立ち入り禁止の札の前まで戻る。
そこで振り返り、彼は先ほどまで少女に見せていたものとは異なる、親愛に満ちた笑顔を浮かべた。
「やっと、帰ってきたね」
髭切が呟くと同時に、獣道の端にふわりと柔らかな蛍に似た灯りが舞う。同時に、木々の隙間から、背の高い薄緑の髪をした青年と、彼に手を引かれて歩く主の姿が見えた。
「兄者!!」
いつもの何倍か、喜色を滲ませた膝丸の声に、髭切は益々笑みを深くする。思えば、兄弟が顔を合わせるのは実に二日ぶりだった。
「やあ、弟。何だか、もう何年も会っていないような気分だよ。元気そうでよかった」
「まったく、酷い目にあった。向こうの都合に、最初から最後まで振り回されたようなものだ」
膝丸は不愉快そうに眉間に谷を刻む。
彼は結果的にあの童女の神が本来持っていた役割を取り戻した形になったが、別に気の毒だとか哀れだと思って、あのような行動をとったわけではない。
単に、必要だからやった。それだけだ。
人の感情が形を変え、人ならざるものに影響を与えるのは、どんな所でもよく見かける。その一つ一つを憂えるような優しさも、自分に危害を加えた者を庇おうとする甘さも、膝丸は持ち合わせていない。
「でも、怪我がなくてよかったよ。主もね」
軽く膝丸の背中を数度叩いて無事を喜んでから、髭切は主に目線を合わせてにこりと笑いかける。
人ならざる領域に連れ込まれて恐怖しているのかと思いきや、主は常と変わらない淡々とした目で髭切を見つめていた。
「おや、主。思ったより平気そうだね。流石の主も、泣いたり取り乱したりしているものかと思ったよ」
「……怖い所じゃなかったから」
「そうかい? それはよかった」
改めて腰を上げ、髭切は弟に対面する。膝丸の目には確かに喜びもあるが、同時に僅かな躊躇いも窺えた。
神隠し騒動で忘れかけていたが、膝丸は髭切に楽しく笑って過ごしてもらえるように、あれこれ苦心惨憺して上手くいかずに落ち込んでいる所だった。
それは、半ばあの壊れかけた童女の神が偏らせた思考でもあったが、発端となる迷いがゼロになったわけではない。
「兄者、その……」
「ああ、そうだ。お前に聞きたいことがあったんだよね。何だか思い悩んでいるようだったけれど、いったい最近、何を考え込んでいたんだい?」
「それは……先日、兄者が長義と話していたことだ。兄者が近頃浮かべる笑みと、嘗ての笑みは違うと聞いて、それに気付けない不甲斐ない弟で、申し訳ないと」
「ああ、それを気にしていたんだね。だから、僕が笑っていると穴が空くんじゃないかって思うほど、見ていたんだ」
髭切は朗らかな笑みを唇に湛え、膝丸の頭をぽんぽんと手で軽く叩く。彼らのやり取りを見て、主は自分が頭を撫でられたときの様子を思い出し、そっと小さな手を自分の頭の上に置いた。
「僕だって自覚してなかったんだから、仕方ないよ。僕としては、てっきり、お前が練習している料理が上手くいかなくて、それで落ち込んでいるものかと思っていたんだ」
「いや、確かに兄者にいつも楽しく過ごしてもらおうと料理の修練はしていたが……待て、兄者。今、なんと……!?」
膝丸としては、不甲斐ない調理結果を見せられないと、料理の勉強をしていること自体が秘匿事項となっていた。咄嗟に膝丸の視線が主へと注がれるが、主は慌ててぶんぶんと首を横に振る。
「作っているなら、真っ先に食べさせてほしかったのになあ」
「あれは食べさせられるようなものではないから……いや、そもそもどうして俺の修練について兄者が知っているのだ?!」
「弟は隠し事が下手すぎるよ。僕だって冷蔵庫は覗くし、本棚に知らない本があったら開くんだから。おむらいす、のところに付箋入れていたから、食べたいなあって頼んだのに、主に買いに行かせるなんて、ひどい弟だなあ」
「そ、それは……しかし、まだ兄者に見せられるようなものでは」
「いいから、いいから。今度、弟が頑張って作ったものを食べさせてよ。楽しみだなあ」
背水の陣となってしまった膝丸は、一瞬だらだらと冷や汗を流していたが、すぐに己を奮起させる方向に気持ちを切り替えたらしい。小さく拳を握り、己を鼓舞する姿に、主は内心でほっと胸をなで下ろしていた。
自分の言葉では届けられなかった思いが、髭切の言葉ならいとも簡単に膝丸に届いてくれた。それを残念だとは思わない。
膝丸の中に残り続けた影がなくなることの方が、主にとっては大事だったからだ。
──よかった。
二人が悲しそうな顔をしていなくて、笑い合っていてよかったと、主は心の底から思う。兄は、最初からやはり、弟を置いてこうなどと思っていなかったのだ。
先を行く髭切と膝丸に置いてかれないよう、主は後を追う。膝丸がそれに気が付き、足を止めて彼を待っていた。
「主、今日は助かった」
何のことだろうと首を傾げていると、
「この二日ほど、俺を励まそうとしてくれていただろう。それに、あの娘の言葉で惑わされかけたとき、主が否定してくれたおかげで、俺は己を取り戻すことができた。感謝する」
髭切は、膝丸を大事に思っていると彼が主張してくれなければ、彼女の生み出した闇の中に取り込まれていたかもしれないと、膝丸は語る。
彼は小さな主へと手を差し伸べ、
「帰ろう、主」
その手を、少年はとる。
帰る家がある。疲れた体を休める家がある。それはとても幸せなことだと、主は知っている。
いつもより小さな歩幅の膝丸と共に、少年は新たに得た家へと向かう。その耳が、ふと遠くから聞こえる童歌を拾い上げた。
足を止め、彼は振り返る。
「……ぼくは、大丈夫だから」
遠くにぼんやりと見えた白い童女の影は、瞬きをした刹那、その姿を夜の闇へと紛れさせ、やがて見えなくなった。
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ
***
ある日の昼過ぎのこと、髭切と膝丸の話す声がキッチンから響くのを主はソファに腰掛けてぼんやりと聞いていた。
「兄者、勝手に火を強めないでくれ!」
「ええっ、でもそうした方が早くできる気がしない?」
「長義から貰った教本通りにやった方が上手くできると、最近知ったのだ。だから、今はこうして、こうだ」
何か操作をしたのか、先ほどまでぐらぐらと不穏な音をたてて沸騰していた鍋が静かになる。
ここ最近、膝丸は隠すこともなく調理の修練に邁進していた。髭切も、はりきる弟を見るのが楽しいのか、横から顔を出していたが、最近は手も出すようになったらしい。
「弟、これってどうやって切るんだっけ?」
「兄者、指を伸ばした状態で野菜を押さえるのはやめてくれ!!」
「そうなのかい。じゃあ、僕はこっちをしようかな」
「それは洗うのが先だ!!」
やや絶叫に近い声だったが、楽しそうにやっているのは間違いない。ただ、主はこの一週間ほどのやり取りで「髭切はあまり料理に向いてないのでは」と思いつつあった。
膝丸の方はどうなのかというと、彼の生来の生真面目な性格が幸いしてか、最近はめきめきと腕を上げている。
何故、今まで上手くできなかったのかと言うと、どうやら基本となる部分を知らずに取り組んでいたから、というのが本人の言だった。
職場の知り合いにわけを説明して、基礎を教える教本を貰ってからは、少しずつ難しい調理へと挑戦して、本人も満足のできる成果をあげている。
(その教本っていうの、教科書のことみたいだけど)
家庭科の小学生用教科書であることは、所々の読める漢字を拾い上げて主は薄々察していたが、言わぬが花と黙っておいた。
あれでプライドが高い膝丸が落ち込むと、また厄介だろうと思っての配慮だ。
いずれ、彼が作る料理に期待を込めて、主はソファに置かれたままになっているレシピ集のページを捲る。そして、その途中で指を止めた。
「……あ」
そこには、押し花にされた四つ葉のクローバーの押し葉を利用した栞が挟まっていた。あの日、帰ってからのやり取りを思い出し、主はそっと目を細める。
***
あの日の晩、結局クローバーを渡すまでもなく、二振りは幸せそうにしていたので、主はポケットに入れたまま、その存在を忘れていた。
だが、洗濯をする際にポケットを裏返した膝丸に見つけられてしまった。
「主、これは何だ?」
問われて、主は幸せを運ぶ植物だ、と拙い言葉でどうにか説明してみせた。
「何故そのようなものを?」
「……ひざまるが、元気が……なさそうだったから」
「そうか。そのために、外に出かけていたのだな」
「ごめんなさい」
そもそも、自分が勝手に外に出かけていなかったら、あのような大騒動にはならずに済んだだろうと、主は小さくなって謝罪を繰り返す。膝丸は暫くクローバーをじっと見つめ、
「これを、貰ってもいいだろうか」
「いいけど……」
どうして、と聞こうか主は悩む。理由を問うだけでも、彼は躊躇をしてしまう。何故なら、不要な疑問を彼女は嫌っていたからだ。
だが、膝丸は違う。置いていかないことを選んでくれた。祝ってほしいと、神様に頼んでくれた。だったら、何か変わるのではと、彼は問う選択を選ぶ。
「どうして?」
「主が、それほどまでに俺のために心を尽くして手に入れたものなのだろう。ならば、それは君や俺にとって大事に扱うものなのではないか。そのように考えた」
非常に回りくどい言い回しだったが、何度もかみ砕いた末に「頑張って手に入れてくれたのだから、大切にしたい」という意味合いなのだと主は理解する。
「植物ならすぐに枯れてしまうだろうな。永く持たせる方法がないか、後で調べるとしよう」
膝丸は、ゆるりと目を細め、口元に弧を描いてみせた。
髭切の言葉だけではなく、自分が持ってきた細やかな贈り物が彼に笑みを齎した。自分でも彼を幸せにできたのだと思うと、胸の中がぱあっと温かくなり、つられて主も強張った唇を動かし、冬の日だまりのような小さな笑みを浮かべてみせていた。
***
ぱたん、とレシピの本を閉じる。厨房では相も変わらず、髭切が楽しげに行う調理をはらはらと膝丸が見守っているらしい。
髭切が指を切らないことを祈ってから、主は和室へと向かう。電気のついていない薄暗い部屋には、刀掛けに抜き身の膝丸自身ともいえる本体が載せられていた。
だが、その優美な刀身には、今は黒い染みのようなものがこびりついている。あの晩、瘴気を断ち切ったあと、拭えずに残っているらしい。
手入れ、という行為をしたら取れるかもしれないそうだが、順番が回ってくるまで待たねばならず、結果として膝丸はあの日からは仕事に出ず、一時的に自宅で療養となっていた。
時折、頭痛がすると言って休んでいる様子から察するに、あの黒いもののせいで具合が悪いのは事実なのだろう。
「……きれい」
それでも、膝丸の刀身は冬の朝を思わせる澄んだ銀色を浮かび上がらせており、息を飲む美しさを纏っている。だからこそ、刀身についた汚れが尚更悪目立ちしている。
(こんな汚れ、なくなればいいのに)
綺麗になってくれないだろうかと、主は指先で刃がついていない部分をそっと撫でる。すると、
「あれ?」
撫でたところが、まるで指の腹で汚れを拭い取ったかのように消えている。思わず、自分の指先を見てみても、汚れはない。
もう一度、綺麗になれと祈りながら黒い部分に触れれば、面白いようにするすると汚れが落ちていく。最後の一粒まで入念に消し終わり、綺麗になった刀身を満足げに眺めていると、
「主、何してるの?」
突然背後から声をかけられ、驚いて振り返る。視線の先には、髭切が立っていた。パチリと電気をつけて、彼は和室へと足を踏み入れる。
「弟に危ないからって追い出されちゃってねえ。主、それは触れると怪我をするかもしれないから、触らない方がいいよ」
「うん」
何だか咎められたような心地になり、主は小走りで居間に戻る。
一方、残された髭切は刀掛けに置かれた膝丸の本体を見て、おや、と眉を上げる。
「……消えてる?」
膝丸の刃に残っていた、黒く淀んだ染み──恐らくは、あの童女の神に向けられた憎悪や恐怖の破片が、刀身から消えている。
先ほど目にしたときは、確かに汚れたままだったのに、今は透き通った湖面の如き輝きを放っていた。
「……これは、もしかしたら、もしかするのかもね」
髭切は満足げに笑みを深くしてから、居間のソファに腰掛けている主の元へ向かう。
声をかけると、主は驚いたような顔をしながらも、拙い声で応じる。仕事の話を髭切が語り、主はお返しに自分がいない間の膝丸の様子をぽつぽつと語る。
そうこうしている内に、初挑戦の料理だが、と注釈を挟んで膝丸が皿に何やら料理を載せて運んできた。
「これは何かな?」
「はんばあぐ、というものらしい。簡単なつくりのものだが、工夫次第では色んな味を楽しめるそうだ」
「へえ、食堂で見たことはあったけれど、そんな名前の料理だったんだねえ。楽しみだなあ」
にこにこと嬉しそうに顔を綻ばせる髭切を目にして、膝丸もつられて口の端を釣り上げ、目を細める。
弟の笑顔を目にして、髭切はますます楽しそうに笑顔を顔に浮かべていく。笑顔の連鎖に気が付いた主も、強張っていた唇に仄かな微笑を浮かべていた。
***
五月も半ばを既に過ぎ、少し暑さも感じる日差しの中、長義はとある坂道の途中にあたる位置から、眼前にそびえる山を見つめていた。
「彼らもまた、厄介な案件を持ってきてくれたものだね」
手元にある四角いタブレット型端末を起動して、長義は浮かび上がったホログラム映像に映し出された報告書を眺める。
まず、報告者の名前である髭切と膝丸の名を目にして、長義は苦虫を噛みつぶした顔をしていた。
「この地域一帯で、数年に一度発生していた、子供を標的とした神隠しは、信仰が歪んだとある土地由来の神により起こされたものとされる。実際に、刀剣男士も顕現してから日が浅い場合は、対象となる可能性あり……ね」
数日前、あの兄弟はこの地域に根ざす神が引き起こした一連の事件に人知れず巻き込まれたらしい。
結果として、この土地にあった信仰の変化と、それに準じて生じた歪みに彼らは気が付き、事態の仔細を報告書としてまとめて、長義の所属する課に回してきたのだ。
霊地を管理する課である以上、これを見過ごすわけにはいかない。
裏をとるために幾らかの聞き取り調査を行った結果、社が数年前に大雨で完全に崩れて流されたことが致命的な一撃となり、ここに本来祀られていた存在を著しく歪めてしまったのだろうという結論に至った。
このままでは、いずれ祟り神や真正の禍ツ神に変じて、厄災を齎す可能性まで示唆されれば、流石に放っておくわけにはいかない。
本当に神に会ったのか、刀剣男士が神隠しに遭うのか、という一部の疑問については、現場を指揮している者や報告書の責任者である鬼丸が、猛然と抗議して黙らせたようだ。
「実際、この山の裏手には本丸があるそうだからね。そちらに累が及ぶ前に片付ける必要がある──となれば、流石に動くしかないのだろう。もしそうじゃなかったら、今頃適当に封印を施して終わりだったはずだ」
建て直す方針で話が決まってからの行動は、迅速だった。
古い文献や口伝を漁った結果、以前この社で貰った札やお守りをまだ残している人たちを何人か見つけられた。
僅かに残った正しい信仰をよすがに社を再建して、この土地の氏神としての正しい役割を再び与える。
最終的に、そのような方針で進めていくと結論が出て、今日は新たな社が建てられる前に、地鎮祭が執り行われていた。
「ああ、始まったかな」
シャン、と鈴の鳴る軽やかな音が山間から響く。恐らく長義の知り合いである者が、今頃舞を舞っているのだろう。
今こちら側からは消えてしまった氏神とやらをその身に下ろすために。
その行為を思うと、長義は顔を顰めずにはいられなかったが、立場として彼は黙って離れた所で見つめることしかできなかった。
今は、彼の先達である祢々切丸が、知り合いの側に控えているはずである。
本来なら、神籬に下ろす程度で済ますはずだが、今回ばかりは膝丸と髭切の伝聞に頼る所も多く、害の有無を下りてきた神格を見て判断したいとかで、人におろして具体的に様子を観察することになったのだ。
「見ていてもしょうがない。少し、周りを巡ってくるかな」
まだまだ時間がかかりそうだ、と長義は坂道を下り町の中を歩いて行く。危うく、忘れ去られた神が変貌の末に祟りを撒き散らす所だった──などとは知らずに、長閑な光景が広がっている。
今も、小さな公園で子供たちが童歌を歌いながら遊んでいた。二人が手を繋ぎ高々と上げることで橋を作り、その下を子供達がくぐり抜けていく。歌が終わった時に下にいたら橋役と交代らしい。
門番と関所の遊びだろうかと、長義は見るともなしに見つめる。
「とおりゃんせ、とおりゃんせ……」
子供たちの無邪気な歌声に誘われるように、長義も口ずさむ。
報告書には、神隠しの直前から膝丸が憑かれたようにこの歌を歌っていたとあった。何故、その歌を覚えさせたのか──あるいは、彼女が覚えようとしていたのか。
原因については不明、と膝丸は締めくくっていたが、長義には分かるような気がした。
「己の在り方を、これほど正しく簡潔に歌った歌はなかっただろうさ」
自分が変貌する前に知ったのか、それとも変貌してから知ったものの、どこか気にかかるものがあって覚えたのか。
その歌が彼らを救う手立てになったのは皮肉というべきか、或いはそれこそ在るべき姿だったと言うべきか。
長義は目を細め、今は宿るべき社すらないものへ、再来の祈りを込めて、囁くように歌う。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ……
終わりのない迷宮を歩き続けているせいで、肉体的な疲労ももちろんだが、このままでは帰れないのではという不安がわき上がってくる。
それを口にしていないのは、膝丸が奮闘してくれているからだ。今も、彼の振るう銀の刃が、行く手に溜まっていた黒い空気をなぎ払ってくれている。
「ここも、長くは保たなさそうだな」
一帯が、あの瘴気に覆われてしまったら、今よりもなお状況は悪くなる。いや、既に先ほどよりも事態は悪い方向に転がっていると、膝丸は思っていた。
頭の奥底から、ざわざわと誰かが囁いているような不愉快なノイズが湧き上がっている。今は意識の外に追いやる程度で済んでいるが、斬ったものの影響がこちらにも滲み出ているのは明らかだ。
「ひざまる、少し休む?」
「いや、だいじょう──」
大丈夫と言いかけた瞬間、臓腑が反転したような気持ち悪さに膝丸は思わず噎せ返った。幸い、形としては咳き込んだだけだが、
(……影響が強く出すぎているな。真正の神の中にあった淀みだ。俺への影響が強いのも、当たり前か)
付喪神と、それ以外の人ならざる存在。
どちらが上とは一概に言えないが、彼女の言葉を借りるなら「顕現してまだ五年の魂」には、何十年何百年──或いは何千年生きたような存在がため込んだものは、影響が強すぎるのだろう。
「……すまない、少し休ませてくれ」
灯籠にもたれ、膝丸は軽く深呼吸をして息を整える。そうすると、頭を浸食していくざわざわを鎮めることができた。
耳を澄ますと、それはどろどろとした呪い染みた感情だとは分かったが、それ以上意識を傾けすぎると自分が喰われそうで、膝丸は無視を選んでいた。
「……主」
隣で腰を下ろしている少年は、担がれているときも、隣を走っているときも、ほぼ無言を貫いていた。
無口な彼が一層喋らないのは、疲労のせいだろう。だが、ただ沈黙を続けているのも、気分の良いものではなかろうと膝丸は言葉を探し、
「……怖くはないか」
自分でもありきたりと思える言葉で問うと、主はゆっくりと言葉を振る。
「ここ、怖くはない。優しい空気がする」
「君はそう感じるのか。無理矢理連れてこられて、普通は恐ろしいと感じるものだと思っていたが」
「無理矢理じゃ、ないと思う」
あの得体の知れない存在を庇うような主の発言に、膝丸は怪訝そうに眉を顰める。
「いらない子なのかって、お父さんやお母さんはどうしたのかって聞いてた。ワンピースの子も、着物の子も」
そういえば、と膝丸は思い返す。彼女が膝丸に見せた髭切の幻も、彼女が膝丸自身にかけた言葉も、やけに「置いてかれた」ということを強調していた。
「だからといって、置いてかれた子供を自分のものとして連れて行く理由にはならんだろう」
「そうだけど……でも、ここにいるみんなは、すごく楽しそうだった」
同い年ぐらいの子供たちが、細やかな遊びに興じる姿を主はずっと目にしていた。もし、髭切と膝丸と過ごしていた今でなかったら──ただ、置いてかれていたあの自分なら、きっと迷わずにこの場の一員になっていただろう。
「怖い思いをしていて、帰りたいって願っているなら……多分、あんな風に遊べない」
「だが、わざわざ何故そのような真似を。童を遊ばせるだけなら、別に閉じ込める必要はないだろう」
そこまで考え、膝丸はふと思い返す。昼に見た夢でも、童女は両親の所在を尋ねた。尋ねられた子供は、ひどく飢えた様子だった。
兄を連れてきてほしいと子供が頼んだとき、童女は「ここに来たら」と語った。
そして、職員から伝えられた情報。いなくなった子供を、保護者は皆探そうとしなかった。裏を返せば、いなくなった子供に元より興味がなかった。
言い換えれば、置いてかれた。この場所に、置いてかれた。
兄に、家族に、置いてかれた。捨てられた。
彼女は言った。
──置いてかれた子供は、消えないと。
「……ここは不要になった者を、消す場所」
並び立てた事項を一言でまとめると、何ともおぞましい単語になった。
だが、疑念は尽きない。本来ならどうでもいいと切り捨ててしまえばいいが、ことは自分と主の安全に関わってくる。どうでもいいと言っている場合ではなかった。
「なら、何故遊ばせる。消すのなら、殺してしまえばいいだろう。それが役割ならば……役割?」
その単語が、妙に引っかかる。先ほども聞いた気がする。たしか、あの童女と対峙したときに。
『あなたは、己の役割を知っているのね。そう、それはいいことね』
続けて彼女は言った。
「羨ましくて、妬ましい──」
妬ましいのは何故か。羨ましいのは何故か。膝丸が、主を──子供を守っているからか。
だが、童女の領域にいる童は楽しそうにしていると主は語っていた。言い換えれば、彼女は既に彼らを守っている。わざわざ羨む必要がない。
そこで、彼は首を横に振る。違う。彼女は役割そのものを妬ましいと言ったわけではない。
(役割を知っていることが羨ましいのなら、裏を返せば彼女は知らないのだろう。自分の役割を知らず、しかし子供は隠し続けている。子供を隠せば、当然悪しきものとして語られるだろうが……)
「ひざまる。気分、悪い?」
「いや、大丈夫だ。少し考えている。あの壊れた神らしきものは、本当に置いてかれた子供を消すだけの存在なのかどうかと」
「……それだけ聞くと、あの子、怖いお化けみたいだ」
「ああ、そうだ。怖がられ、恐れられ疎まれる。ただ、彼女はそれを望んでいない……?」
怖がられるのが役割だ、というものもいるだろう。だが、少なくとも、彼女にとってはそうではないらしい。
けれども、怖がられると分かっていても、彼女は置いてかれた子を捨ておけなかった。その周囲に、捻れた因果があるように、膝丸には感じられた。
刀としての役割は斬るものであるというのに、持ち主の敵を斬ったら呪われた刀と言われる。刀にありがちな、そんな話に似た歪んだ巡りを、膝丸はつかみ取ったような気がした。
己を象る物語が変われば、刀は加護を授けるものにも、呪われたものにも変わる。況んや、神とてそれは変わらない。
「これはあくまで、仮定にすぎないが……本来は怖がられるどころか、尊崇の念で扱われていたが、やがて、どうしようもない理由で子を隠していく内に、悪いように語られていったのかもしれないな」
付喪神も、そうでない人ならざるものも、多かれ少なかれ人の願いに影響を受ける。
彼女も、同様に周囲に住まう者から受けていた尊敬や信仰が、恐怖や憎悪に変わったのなら。あまりに根深く浸透しすぎて、己が何だったかすらも忘れてしまったのなら。
それは、羨んでも仕方ないだろう。ひょっとしたら、童女はあのとき、あまりに確たる役割を掲げている膝丸という存在を、己と同じ位置まで引きずり落としたかったのかもしれないと、膝丸は思う。
隣にいる主を見やると、小さく額に皺を作っていた。どうやら、難しい単語が多すぎて理解できなかったようだ。
「本来は良いものとして扱われていたが、彼女なりによかれと思ってやっている行為が、人々にとっては恐ろしいものに見えるようになった。結果、本当に自分は恐ろしいものだと思い込んで、彼女はあのようになったのだ」
かみ砕いて説明すると、今度は理解できたらしく、主はこくこくと頷いてみせる。
「……じゃあ、ひざまるもぼくも、怖くないよって言ったら、思い込むのをやめる?」
「どうだろうな。あそこまで酷く変異していてはもう、聞く耳もたずの可能性が高い」
「でも、おかしくなった子は白い着物の子だけで……ワンピースの子は、まだ大丈夫かも」
「ああ、洋服を着ていた彼女か。だが、似たような存在なら大した差はないのではないか」
「あの子は、迷子のぼくを助けてくれた」
「そうなのか?」
主は膝丸の問いに明瞭な首肯で返す。言われてみれば、と膝丸は思い返す。
自分が斬り伏せたのは白い着物の童女であり、夢で子供に手を差し伸べて消えたのも童女である。
だが、この場所に訪れて姿を見せたのは、白い洋服の少女で、更に言うなら夢の中で主が連れて行かれたことをほのめかしたのも、洋服の娘だった。
見た目があまりに似ているので、神使かその類だろうと思っていたが、もしそうではなく、別の存在なのだとしたら?
「そういえば、俺があの着物の童を斬ろうとしたとき、止めようとする声があったように思う」
主に目をやると、彼も微かに数度首を縦に振っていた。少女は、膝丸に童女を斬らせたくはなかったらしい。
もし、彼女が何かを知っている──あわよくば解決策まで知っているのなら、今は彼女を探し出して聞き出すのが先決だと膝丸は方針を定める。
ただ似たような場所を闇雲に駆け回るよりは、よほど建設的なはずだ。
「……あの子、お化けって言われたくないなら、何て言われたいんだろう」
「役割を忘れているのなら、俺たちがいくら考えても思いつけるわけがない」
善は急げと、膝丸は立ち上がり、主へと手を差し伸べる。彼も、すぐさま膝丸の手をとって立ち上がる。
「人間にとって、喜ばれるような役割だったのだろう」
「役割……」
「ああ。主は無事でいることが役割だ。俺は主を守り、刀を振るう。それが、この膝丸の役割だ」
そこまで語り、膝丸は数週間前のことを思い返す。ムジナと名乗った奇妙な獣は、ちゃんと役割を果たしたいと語っていた。
人を脅かすだけでなく、道案内をするのが彼らの役割なのだろうと、膝丸も薄々察していた。
役割は、膝丸たち人ではないものの本質といってもいい。
正しく役割を全うすることで、初めて彼らは己の存在を強く認識できるのだから。
「もし、役割を思い出したら、あの白いワンピースの子みたいに、優しそうな人になるかな」
主の期待は、子供ならではの希望的観測が大きい。寧ろ、希望というよりは半ば願望染みてすらいた。
「……どうだろうな。己の本質に立ち返れば、あるいはそうかもしれぬが、どのみち俺たちでは分からぬ」
分からないものを悩む暇はなし。膝丸は主の手を引いて、再び歩き出した。辺りには子供の姿は見られず、そのせいか酷く閑散としているように感じられる。
風のざわめく音すらなく、空気すらも死に絶えたかのようだ。この領域の本体があの童女ならば、比喩ではなく事実となる時も近いかもしれない。
あまりに静かすぎて、二人の間の空気もぴりぴりしている。髭切が隣にいるのなら、この沈黙も不自然には感じなかったのかもしれないが、生憎主と共にすごす沈黙は若干毛色が異なる。
さて、どうしたものかと彼が言葉に迷っていると、
「ひざまる、ずっと歌、歌ってたよね」
「歌?」
「えっと……ぼくが寝ずに待ってた日の夜の、次の日から。その日から、あの着物の子が、家にいたように見えて」
「主、それは本当か。そんなものが、入ってきていたのか。何故言わなかった」
「……見間違いかと思って」
自分にしか見えないものがあったら、まず自分の方がおかしいと感じて、主は沈黙を選んだ。
ありもしない存在や錯覚を口にすることを、彼が以前過ごしてきた環境は全く許してくれなかったか。故に、彼は強固に主張しようとは思えなかった。
「それで、歌とは何だ」
「お皿洗ってるときとか、料理のときとかに、小さい声で歌ってた」
「どんな歌だ?」
主は目をぎゅっと瞑り、必死に何度か耳にしたメロディを思い返そうとする。膝丸も何度も何度も歌っていたわけではないが、独特の音律だったためか、どうにか主は一節だけを鼻歌で歌ってみせた。
彼が歌い終わるより先に、次いで膝丸の口から言葉を載せた旋律が零れ出る。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ
ちいっととおしてくだしゃんせ ご用のないものとおしゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります
そこまで歌い終わり、膝丸は「そうか」と呟く。思いついた閃きを決して離すまいと、彼は必死に口を動かす。
「……これは、ひどく単純な答えなのやもしれぬ。なぜ、こんな童歌を俺が覚えているのかは知らないが、恐らく──最初からこのためか」
「え?」
「この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります。要するに祝いだ、主。あれは子を隠して遊ばせるものでも、まして都合よく消すものでもない」
膝丸は足を止め、ぐるりと振り返る。自分たちが立ち去った社のある大体の方角を向いて、
「単純に、祝うものだ。七つまでが神のうちといわれているのなら、七つを過ぎ人となったものを言祝ぐものがいてもおかしくはない。君は、そういうものではなかったのか」
膝丸の視線は主でもなく、社がある方角にでもなく、自分たちが歩いてきた道を見つめていた。そこには、白いワンピース姿の少女が黒い真っ直ぐの髪を靡かせて立っている。
主の言う通り、彼女からは悪い気配はしない。着物姿の童女と見目はそっくりだが、近寄りがたい気配は微塵も感じない。寧ろ、清浄な空気を纏っていると言えよう。
「子に纏わるものであるが故に、保護者に置き去りにされた童も見捨てられず、人の世で息絶えるくらいならとかくまった。だが、その行いは人の子の目からは、さぞかし奇異な怪奇現象のようにうつったのだろう。故に、貴様はよくないモノとして語られ、結果、自らも変貌するようになっていった」
「正解。そこまで分かってもらおうとは思っていなかったのだけれど、あなたのあにさまも、あなたも、随分と聡明なのね」
少女は黒真珠のように艶やかな目を細め、軽い足取りで近づいてくる。後ろ手で何か持っているようだが、生憎体が邪魔になって何も見えない。
だが、膝丸は彼女が何を持っているかではなく、彼女の言葉の方を耳ざとく拾い上げていた。
「兄者に会ったのか!?」
「ええ。あなたと同じことに、あの短期間ですぐ気が付いていたわ」
「そうか。ともあれ、貴様が顔を出したのなら話を早い。俺たちをここから外に出すか、あの狂った存在をどうにかするか。貴様なら、できるのではないか」
だが、膝丸の質問に彼女は首を横に振り、否定を露わにした。
「わたしは、役割を覚えていた頃の〈私〉の残り滓みたいなもの。〈私〉が外に出さないと決めたものを勝手に持ち出せないし、〈私〉を正しい形に戻せるわけでもない。だけど、あなたたちならできるわ」
彼女は膝丸と主の眼前に立ち、艶やかな瞳を一度瞬かせ、
「あなたたちは、大人と子供だから」
膝丸へと少女が差し出したのは、ひどく古びた木の札だった。膝丸は怪しむように木札を目にしていたが、半ば黒ずんだ表面に薄らと記されたペンの筆跡を見て、目を丸くする。
「あなたのあにさまが、これを渡してほしいと」
言われるまでもなく、膝丸は木札を受け取った。結びつけられたメモを解いて開くと、流麗な筆跡で一言、こう書かれていた。
〈早く帰っておいで。待っているから〉
ただそれだけの言葉と渡されたもので、膝丸は何をすべきかを概ね理解した。不思議そうにこちらを見つめている主に、膝丸は問いかける。
「主、君は今いくつだ」
「……七つ、だと思う」
「わかった。ならば、まさに丁度いい」
膝丸は主を安心させるように微かに笑いかけてから、
「だが……正直、掌の上で踊らされているようで、業腹ではある」
膝丸が不服そうに少女を睨むと、少女は心外だと言わんばかりに目を丸くする。
「あら、どうしてそんなことを?」
「貴様が、俺も主もここに至るように仕組んだのではないのか。貴様らの考えでは、俺は五つの童だそうだな。だが、俺の姿は人の成人した男性を模している。そして、あの壊れた方の貴様は、この場所には子供しか招こうとしない」
あからさまに怒りを露わにしている膝丸に、主は不安そうな視線を送っている。だが、彼の様子などお構いなしに膝丸は剣呑な空気を隠そうともしない。
「彼女に役割を思い出させ、在るべき形に戻すには、子供を正しく祝う必要がある。そのためには、祝ってくれと頼む大人が必要だった。その役割を、俺と主に与えようと目論んだのは、貴様ではないのか」
壊れきった方の存在では、そこまで頭は回らないはずだ。あれは、もはや一つのシステムに近い。
ただ、与えられた条件を満たしたものを、己の中で遊ばせて飼い殺しにするだけの権能しか持ち得ていない。ならば、考えて行動するものが別にいるのでは、と膝丸は考えていた。
「ええ、確かに。わたしは、大人の姿を持ちながら、その魂の稚さを見出して、あの日、あなたに社を見せ、〈私〉にあなたへ目をつけさせた。でも、その先に都合良く子供がいるとは思わなかったし、その子供が〈置いてかれた子〉だったのは偶然。でも……そうね。もし、そうでなかったら、もっとわたしは介入していたかもしれないわね」
「随分と勝手な真似を」
「勝手なのは、わたしたちの十八番よ。それで、成すべきことは分かったのでしょう。頼めるかしら」
図々しい物言いではあるが、少女の目は真剣そのものだ。膝丸は暫し少女とにらみ合った後、先に目を逸らし、承諾の意を露わにした。
「……案内を頼めるか」
***
自分は何をすべきものだったのか。気が付けば、そんな当たり前のことが分からなくなっていた。
己のいるべき場所は分かる。そこは、自分が作り出した子供たちのための遊び場だ。
己が何者かも分かる。人とは異なるものであり、己が役割を果たすものだ。
だが、何をしていたのかだけが分からない。ただ、何かを待っていたような気持ちだけがぼんやりと残っていた。
あれは何年前のことか。あるいは何十年前か、何百年前のことかもしれない。
周りに目をやったとき、泣いている幼子たちが目に入ったことがあった。そんな彼らを見ていると胸が痛み、だから声をかけた。
お母さんは。お父さんは。
あなたを待っている人はいるの。
いない、と言われたなら、連れて行くと決めていた。何も分からぬまま、動けなくなって朽ち果てるよりかは、自分の住まう場所の方がきっと幸せだろうと思った。
そんな行為を何度も何度も繰り返すうちに、自分の役割は益々分からなくなっていった。
耳に入り込み、体に染み渡る人の子の声は、己を蝕むものになっていった。
──あれは、呪われた山だ。
──子供を連れていってはいけない。入ってはいけない。
──神隠しが起きた。
──いいや、子を攫う妖怪がいるのだ。
いったい、何を言っているのだろうと思った。けれども、言葉が増えれば増えるほど、確かにあったはずの自分が分からなくなっていく。
社の片隅に溜めていた、かつて自分へと捧げられた祈りたちをかき集めて、どうにか自分を保とうとした。
私が隠すのは、大人が置き去りにした子供だけ。一人で生きられない弱い存在だけに手を差し伸べる。そういう決まりを、私の中で定めていたつもりだった。
あの日、とても思い詰めた顔で私の住処に入ってきた子供がいた。
ひどく純粋で、混じりけのない魂を抱えていた。なのに、彼は大人と同じ姿をしていた。
彼は、どこか寂しげだった。家族のことで思い悩んでいるのだと知った。だから、彼も誘ってあげなくてはならないと思った。
どうせ置いていかれて傷つくくらいなら、わたしが触れてきた子供たちみたいに心の傷から血を流して泣き伏すくらいなら、それが現実になる前に私の元へと辿り着けばいい。
彼は、他の子供のように甘えることすら知らないようだったから、念入りに後押しをした。
どうせあなたの家族も、あなたを置いていくのだと、そっと考えの向き先を修正した。それでも、彼は違うとあらがい続けていた。そんなわけがないと、否定してみせた。
──彼のため、と言ったけれど、実際は違う部分もあったのだろう。
彼は、私と同じような存在だった。その在り方は私と異なる部分も多かったけれど、私は彼に強い親近感を覚えていた。
彼は、自分が何なのかを知っていた。何をするべきかも分かっていた。それが、ひどく羨ましかった。
だから、私は彼も惑えばいいと思ったのだろう。在り方を忘れ、彷徨える存在になってほしいと、妬みを募らせた。
けれども、彼は否定した。何よりもきっぱりと、私のしてきたことを否定してみせた。
彼は私と違って役割を知るもので、私は知らないもの。彼が間違っているというのなら、私は、私が作り上げた決まりは──。
***
最早、欠片としてしか残っていない思考を抱き、ふらりふらりと歩き、社へと辿り着く。
もう、子供の声すら聞こえない。耳に響くのは、恐れと嫌悪の声ばかり。何となく、それが少しだけ、寂しかった。
だが、その寂しいという感情も、いずれどこかへと消えていくのだろう──。
「少し、いいだろうか」
声がした。
酷く重たい体を振り返らせ、そこに立つ人影を見つめる。
子供を連れた大人だ。春の野山のような薄緑の髪に、秋に色づく木の実のような瞳。その隣にいる子供は、どこかおどおどとした様子でこちらを見ている。
彼は一枚の木札を、こちらへと差し出した。
「貴様の果たすべき役割を果たしてもらおう」
獲物に食らいつく蛇に似た目で、彼は言う。
「札を納めにきた。ここにいる主──彼が今ここにあることを、君が言祝いではくれぬか」
渡された木札には、懐かしい祈りが詰まっていた。
流麗な細い筆跡で綴られているのは、厄除けを祈願する古い言葉だ。不意に、霧がかかったように、曖昧だった思考が、千々に裂けていた記憶が、急速にあるべき形を取り戻していく──。
***
木札を差し出し、膝丸は相手の様子を窺った。
己が何をすべきものだったかを思い出せば、彼女はこちらを解放すると予想はしていた。こちらを隠して閉じ込めるような役割を持っていない以上、留め置く理由がないからだ。
黒々とした瘴気を纏っていた童女は、蝋のように白い手で膝丸が差し出した札を受け取る。その弾みで、濁った気が体に触れるが、今は四の五の言っている場合ではなかった。
童の姿をした神の、微かな吐息だけが、静かすぎる夜の社に響いている。
「……ええ、そうだったわ」
彼女の震える唇が動き、札をそっと額に押し当て、呟く。
「私は、そういうものだったのに」
その一言と共に、瘴気がまるで吹き出していた穴に蓋でもしたかのように、あっという間に消え失せる。ゆるりと顔を上げた彼女は、最早虚空を顔の内には宿していなかった。
そこには、黒い真珠のように艶やかな瞳が、星のような輝きを宿して、笑みの形をとってみせていた。
「……あなた方の願い、受け取りましょう」
札を両手で握りしめた童女が、一歩こちらへと踏み出す。瞬間、膝丸の鼻を春の柔らかく温かな風が掠めていく。
いつしか、重苦しい夜のような天蓋は透き通る蒼穹に変わり、微かに鳥の囀りすらも聞こえる。
甘い花の香りがほうぼうから漂い、灯籠の明かりを受けて妖しく輝いていた桜は、陽光と共に柔らかな空気を纏って梢を揺らしていた。
「七つまでは神のうち。七つ生きれば、その子は人の子。人の子としての先行きを、私は言祝ぐ。それが、山に託された人々の祈りで生まれた、私の役割」
童女は周りの景色に目を奪われている少年を見つめ、にこりと微笑んだ。彼女の微笑は、花が綻ぶような瑞々しさを湛えていた。
「彼の名は?」
彼女は問う。
人の魂の根幹たる象徴として、言祝ぐためにも必要となる名を。
膝丸は、真っ青に透き通る青の天蓋を見上げて告げる。
「──空、だ」
「とても良い名ね」
「ああ」
主の名を褒められるのは、何故か自分が褒められているかのように膝丸には嬉しく思えた。
童女の姿をした祝いの神は主のもとに歩み寄り、そして手を伸ばしかけ、暫し躊躇を見せてから、
「……あなたには、遅すぎたのかもしれないけれど」
小さな白い手を少年の頭に載せ、彼女は告げる。
「あなたの行く道に、幸いがあらんことを」
***
ふと、周りに漂う嫌な空気が鎮まり、髭切は振るっていた刀をぴたりと止める。剣舞を中断しても、辺りの空気が淀む気配はない。
「……終わったかな?」
軽く太刀を振り、髭切は鞘へと己の本体をしまう。冴え冴えとした月の灯りが、髭切を照らしていた。
「いい月だね。弟にも見せてあげたいなあ。君も、そう思わないかい?」
振り返った先には、白いワンピースを月光で青白く染め上げた少女が立っていた。彼女は軽やかな足取りで、髭切の元へと歩み寄る。
「ちゃんと、渡してきたわ」
「それはどうも。弟は元気そうだったかな」
「ええ。まさに、神をも恐れぬ不遜な態度に、面食らってしまったわ」
「よかった。その分なら、心配は要らなさそうだね」
少女に食ってかかる膝丸の姿を想像して、髭切はくすくすと笑う。少女は何やら嬉しそうな髭切とは裏腹に、不服そうな顔で彼を見つめた後、
「……刀剣男士って、不思議な存在ね。刀に宿った願いを核にして、人の形を与え、こうあるべきという役割を人に与えている。あなたは、それに不満を抱かないのかしら」
「不満は感じないかなあ。僕は僕なりの役割を果たしているつもりだし、他の僕もそれなりに上手くやっているみたいだよ」
「そう。それならあなたに関しては口を挟まないわ。でも」
少女は、年不相応の大人びた声音で髭切に問う。
「あんな風に、無理矢理彼を器に収めたのは、いったい誰? 見た目は人の子に瓜二つだったけれど、彼の本体は」
しーっ、と微かな息の音がした。
それは、髭切が少女に向き直り、自分の唇に人差し指を当てて、沈黙を促すために漏らした音だった。
「僕らにとって必要になりそうだと思ったからね。弟のため、僕のために、保険は多い方がいい」
「道理に反しているとは思わないかしら」
「もとより、神は勝手なものだから」
少女は、些かの優しさも感じさせない鋭い瞳で髭切を睨んでいたが、やがて、ふいと目を逸らした。
「もう、行かないといけないわ」
「そうなんだね。じゃあ、気をつけて──と、一応言っておこうか」
「ええ。結局、何が大きく変わることもないのだろうけれど……それでも、感謝しているわ。刀の付喪神」
くるりと白いワンピースを翻し、少女は夜闇へとその姿を溶け込ませ、姿を消した。まるで最初からそんなものは存在していなかったのように、辺りには寂寥を帯びた夜の風が吹く。
「たとえ一時的に思い出せたとしても、願いの根幹が変わらないなら、きっとまた怖い神様に戻ってしまうのだろうね」
あるいは、存在そのものを忘れられて、彼女は消滅するだろう。
社を祀り、祈る者が存在しなければ、彼女のような人あらずの存在は長くこちら側に留まれまい。
自分とて同じだ。もし、ただの何の逸話も持たない刀なら、ここに足を下ろすこともなかったのだろうから。
僅かに残った哀惜を、どうでもいいものとして切り捨て、髭切は雨で崩れた場所を所々出っ張った岩などを踏み台に上り直し、獣道を通って立ち入り禁止の札の前まで戻る。
そこで振り返り、彼は先ほどまで少女に見せていたものとは異なる、親愛に満ちた笑顔を浮かべた。
「やっと、帰ってきたね」
髭切が呟くと同時に、獣道の端にふわりと柔らかな蛍に似た灯りが舞う。同時に、木々の隙間から、背の高い薄緑の髪をした青年と、彼に手を引かれて歩く主の姿が見えた。
「兄者!!」
いつもの何倍か、喜色を滲ませた膝丸の声に、髭切は益々笑みを深くする。思えば、兄弟が顔を合わせるのは実に二日ぶりだった。
「やあ、弟。何だか、もう何年も会っていないような気分だよ。元気そうでよかった」
「まったく、酷い目にあった。向こうの都合に、最初から最後まで振り回されたようなものだ」
膝丸は不愉快そうに眉間に谷を刻む。
彼は結果的にあの童女の神が本来持っていた役割を取り戻した形になったが、別に気の毒だとか哀れだと思って、あのような行動をとったわけではない。
単に、必要だからやった。それだけだ。
人の感情が形を変え、人ならざるものに影響を与えるのは、どんな所でもよく見かける。その一つ一つを憂えるような優しさも、自分に危害を加えた者を庇おうとする甘さも、膝丸は持ち合わせていない。
「でも、怪我がなくてよかったよ。主もね」
軽く膝丸の背中を数度叩いて無事を喜んでから、髭切は主に目線を合わせてにこりと笑いかける。
人ならざる領域に連れ込まれて恐怖しているのかと思いきや、主は常と変わらない淡々とした目で髭切を見つめていた。
「おや、主。思ったより平気そうだね。流石の主も、泣いたり取り乱したりしているものかと思ったよ」
「……怖い所じゃなかったから」
「そうかい? それはよかった」
改めて腰を上げ、髭切は弟に対面する。膝丸の目には確かに喜びもあるが、同時に僅かな躊躇いも窺えた。
神隠し騒動で忘れかけていたが、膝丸は髭切に楽しく笑って過ごしてもらえるように、あれこれ苦心惨憺して上手くいかずに落ち込んでいる所だった。
それは、半ばあの壊れかけた童女の神が偏らせた思考でもあったが、発端となる迷いがゼロになったわけではない。
「兄者、その……」
「ああ、そうだ。お前に聞きたいことがあったんだよね。何だか思い悩んでいるようだったけれど、いったい最近、何を考え込んでいたんだい?」
「それは……先日、兄者が長義と話していたことだ。兄者が近頃浮かべる笑みと、嘗ての笑みは違うと聞いて、それに気付けない不甲斐ない弟で、申し訳ないと」
「ああ、それを気にしていたんだね。だから、僕が笑っていると穴が空くんじゃないかって思うほど、見ていたんだ」
髭切は朗らかな笑みを唇に湛え、膝丸の頭をぽんぽんと手で軽く叩く。彼らのやり取りを見て、主は自分が頭を撫でられたときの様子を思い出し、そっと小さな手を自分の頭の上に置いた。
「僕だって自覚してなかったんだから、仕方ないよ。僕としては、てっきり、お前が練習している料理が上手くいかなくて、それで落ち込んでいるものかと思っていたんだ」
「いや、確かに兄者にいつも楽しく過ごしてもらおうと料理の修練はしていたが……待て、兄者。今、なんと……!?」
膝丸としては、不甲斐ない調理結果を見せられないと、料理の勉強をしていること自体が秘匿事項となっていた。咄嗟に膝丸の視線が主へと注がれるが、主は慌ててぶんぶんと首を横に振る。
「作っているなら、真っ先に食べさせてほしかったのになあ」
「あれは食べさせられるようなものではないから……いや、そもそもどうして俺の修練について兄者が知っているのだ?!」
「弟は隠し事が下手すぎるよ。僕だって冷蔵庫は覗くし、本棚に知らない本があったら開くんだから。おむらいす、のところに付箋入れていたから、食べたいなあって頼んだのに、主に買いに行かせるなんて、ひどい弟だなあ」
「そ、それは……しかし、まだ兄者に見せられるようなものでは」
「いいから、いいから。今度、弟が頑張って作ったものを食べさせてよ。楽しみだなあ」
背水の陣となってしまった膝丸は、一瞬だらだらと冷や汗を流していたが、すぐに己を奮起させる方向に気持ちを切り替えたらしい。小さく拳を握り、己を鼓舞する姿に、主は内心でほっと胸をなで下ろしていた。
自分の言葉では届けられなかった思いが、髭切の言葉ならいとも簡単に膝丸に届いてくれた。それを残念だとは思わない。
膝丸の中に残り続けた影がなくなることの方が、主にとっては大事だったからだ。
──よかった。
二人が悲しそうな顔をしていなくて、笑い合っていてよかったと、主は心の底から思う。兄は、最初からやはり、弟を置いてこうなどと思っていなかったのだ。
先を行く髭切と膝丸に置いてかれないよう、主は後を追う。膝丸がそれに気が付き、足を止めて彼を待っていた。
「主、今日は助かった」
何のことだろうと首を傾げていると、
「この二日ほど、俺を励まそうとしてくれていただろう。それに、あの娘の言葉で惑わされかけたとき、主が否定してくれたおかげで、俺は己を取り戻すことができた。感謝する」
髭切は、膝丸を大事に思っていると彼が主張してくれなければ、彼女の生み出した闇の中に取り込まれていたかもしれないと、膝丸は語る。
彼は小さな主へと手を差し伸べ、
「帰ろう、主」
その手を、少年はとる。
帰る家がある。疲れた体を休める家がある。それはとても幸せなことだと、主は知っている。
いつもより小さな歩幅の膝丸と共に、少年は新たに得た家へと向かう。その耳が、ふと遠くから聞こえる童歌を拾い上げた。
足を止め、彼は振り返る。
「……ぼくは、大丈夫だから」
遠くにぼんやりと見えた白い童女の影は、瞬きをした刹那、その姿を夜の闇へと紛れさせ、やがて見えなくなった。
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ
***
ある日の昼過ぎのこと、髭切と膝丸の話す声がキッチンから響くのを主はソファに腰掛けてぼんやりと聞いていた。
「兄者、勝手に火を強めないでくれ!」
「ええっ、でもそうした方が早くできる気がしない?」
「長義から貰った教本通りにやった方が上手くできると、最近知ったのだ。だから、今はこうして、こうだ」
何か操作をしたのか、先ほどまでぐらぐらと不穏な音をたてて沸騰していた鍋が静かになる。
ここ最近、膝丸は隠すこともなく調理の修練に邁進していた。髭切も、はりきる弟を見るのが楽しいのか、横から顔を出していたが、最近は手も出すようになったらしい。
「弟、これってどうやって切るんだっけ?」
「兄者、指を伸ばした状態で野菜を押さえるのはやめてくれ!!」
「そうなのかい。じゃあ、僕はこっちをしようかな」
「それは洗うのが先だ!!」
やや絶叫に近い声だったが、楽しそうにやっているのは間違いない。ただ、主はこの一週間ほどのやり取りで「髭切はあまり料理に向いてないのでは」と思いつつあった。
膝丸の方はどうなのかというと、彼の生来の生真面目な性格が幸いしてか、最近はめきめきと腕を上げている。
何故、今まで上手くできなかったのかと言うと、どうやら基本となる部分を知らずに取り組んでいたから、というのが本人の言だった。
職場の知り合いにわけを説明して、基礎を教える教本を貰ってからは、少しずつ難しい調理へと挑戦して、本人も満足のできる成果をあげている。
(その教本っていうの、教科書のことみたいだけど)
家庭科の小学生用教科書であることは、所々の読める漢字を拾い上げて主は薄々察していたが、言わぬが花と黙っておいた。
あれでプライドが高い膝丸が落ち込むと、また厄介だろうと思っての配慮だ。
いずれ、彼が作る料理に期待を込めて、主はソファに置かれたままになっているレシピ集のページを捲る。そして、その途中で指を止めた。
「……あ」
そこには、押し花にされた四つ葉のクローバーの押し葉を利用した栞が挟まっていた。あの日、帰ってからのやり取りを思い出し、主はそっと目を細める。
***
あの日の晩、結局クローバーを渡すまでもなく、二振りは幸せそうにしていたので、主はポケットに入れたまま、その存在を忘れていた。
だが、洗濯をする際にポケットを裏返した膝丸に見つけられてしまった。
「主、これは何だ?」
問われて、主は幸せを運ぶ植物だ、と拙い言葉でどうにか説明してみせた。
「何故そのようなものを?」
「……ひざまるが、元気が……なさそうだったから」
「そうか。そのために、外に出かけていたのだな」
「ごめんなさい」
そもそも、自分が勝手に外に出かけていなかったら、あのような大騒動にはならずに済んだだろうと、主は小さくなって謝罪を繰り返す。膝丸は暫くクローバーをじっと見つめ、
「これを、貰ってもいいだろうか」
「いいけど……」
どうして、と聞こうか主は悩む。理由を問うだけでも、彼は躊躇をしてしまう。何故なら、不要な疑問を彼女は嫌っていたからだ。
だが、膝丸は違う。置いていかないことを選んでくれた。祝ってほしいと、神様に頼んでくれた。だったら、何か変わるのではと、彼は問う選択を選ぶ。
「どうして?」
「主が、それほどまでに俺のために心を尽くして手に入れたものなのだろう。ならば、それは君や俺にとって大事に扱うものなのではないか。そのように考えた」
非常に回りくどい言い回しだったが、何度もかみ砕いた末に「頑張って手に入れてくれたのだから、大切にしたい」という意味合いなのだと主は理解する。
「植物ならすぐに枯れてしまうだろうな。永く持たせる方法がないか、後で調べるとしよう」
膝丸は、ゆるりと目を細め、口元に弧を描いてみせた。
髭切の言葉だけではなく、自分が持ってきた細やかな贈り物が彼に笑みを齎した。自分でも彼を幸せにできたのだと思うと、胸の中がぱあっと温かくなり、つられて主も強張った唇を動かし、冬の日だまりのような小さな笑みを浮かべてみせていた。
***
ぱたん、とレシピの本を閉じる。厨房では相も変わらず、髭切が楽しげに行う調理をはらはらと膝丸が見守っているらしい。
髭切が指を切らないことを祈ってから、主は和室へと向かう。電気のついていない薄暗い部屋には、刀掛けに抜き身の膝丸自身ともいえる本体が載せられていた。
だが、その優美な刀身には、今は黒い染みのようなものがこびりついている。あの晩、瘴気を断ち切ったあと、拭えずに残っているらしい。
手入れ、という行為をしたら取れるかもしれないそうだが、順番が回ってくるまで待たねばならず、結果として膝丸はあの日からは仕事に出ず、一時的に自宅で療養となっていた。
時折、頭痛がすると言って休んでいる様子から察するに、あの黒いもののせいで具合が悪いのは事実なのだろう。
「……きれい」
それでも、膝丸の刀身は冬の朝を思わせる澄んだ銀色を浮かび上がらせており、息を飲む美しさを纏っている。だからこそ、刀身についた汚れが尚更悪目立ちしている。
(こんな汚れ、なくなればいいのに)
綺麗になってくれないだろうかと、主は指先で刃がついていない部分をそっと撫でる。すると、
「あれ?」
撫でたところが、まるで指の腹で汚れを拭い取ったかのように消えている。思わず、自分の指先を見てみても、汚れはない。
もう一度、綺麗になれと祈りながら黒い部分に触れれば、面白いようにするすると汚れが落ちていく。最後の一粒まで入念に消し終わり、綺麗になった刀身を満足げに眺めていると、
「主、何してるの?」
突然背後から声をかけられ、驚いて振り返る。視線の先には、髭切が立っていた。パチリと電気をつけて、彼は和室へと足を踏み入れる。
「弟に危ないからって追い出されちゃってねえ。主、それは触れると怪我をするかもしれないから、触らない方がいいよ」
「うん」
何だか咎められたような心地になり、主は小走りで居間に戻る。
一方、残された髭切は刀掛けに置かれた膝丸の本体を見て、おや、と眉を上げる。
「……消えてる?」
膝丸の刃に残っていた、黒く淀んだ染み──恐らくは、あの童女の神に向けられた憎悪や恐怖の破片が、刀身から消えている。
先ほど目にしたときは、確かに汚れたままだったのに、今は透き通った湖面の如き輝きを放っていた。
「……これは、もしかしたら、もしかするのかもね」
髭切は満足げに笑みを深くしてから、居間のソファに腰掛けている主の元へ向かう。
声をかけると、主は驚いたような顔をしながらも、拙い声で応じる。仕事の話を髭切が語り、主はお返しに自分がいない間の膝丸の様子をぽつぽつと語る。
そうこうしている内に、初挑戦の料理だが、と注釈を挟んで膝丸が皿に何やら料理を載せて運んできた。
「これは何かな?」
「はんばあぐ、というものらしい。簡単なつくりのものだが、工夫次第では色んな味を楽しめるそうだ」
「へえ、食堂で見たことはあったけれど、そんな名前の料理だったんだねえ。楽しみだなあ」
にこにこと嬉しそうに顔を綻ばせる髭切を目にして、膝丸もつられて口の端を釣り上げ、目を細める。
弟の笑顔を目にして、髭切はますます楽しそうに笑顔を顔に浮かべていく。笑顔の連鎖に気が付いた主も、強張っていた唇に仄かな微笑を浮かべていた。
***
五月も半ばを既に過ぎ、少し暑さも感じる日差しの中、長義はとある坂道の途中にあたる位置から、眼前にそびえる山を見つめていた。
「彼らもまた、厄介な案件を持ってきてくれたものだね」
手元にある四角いタブレット型端末を起動して、長義は浮かび上がったホログラム映像に映し出された報告書を眺める。
まず、報告者の名前である髭切と膝丸の名を目にして、長義は苦虫を噛みつぶした顔をしていた。
「この地域一帯で、数年に一度発生していた、子供を標的とした神隠しは、信仰が歪んだとある土地由来の神により起こされたものとされる。実際に、刀剣男士も顕現してから日が浅い場合は、対象となる可能性あり……ね」
数日前、あの兄弟はこの地域に根ざす神が引き起こした一連の事件に人知れず巻き込まれたらしい。
結果として、この土地にあった信仰の変化と、それに準じて生じた歪みに彼らは気が付き、事態の仔細を報告書としてまとめて、長義の所属する課に回してきたのだ。
霊地を管理する課である以上、これを見過ごすわけにはいかない。
裏をとるために幾らかの聞き取り調査を行った結果、社が数年前に大雨で完全に崩れて流されたことが致命的な一撃となり、ここに本来祀られていた存在を著しく歪めてしまったのだろうという結論に至った。
このままでは、いずれ祟り神や真正の禍ツ神に変じて、厄災を齎す可能性まで示唆されれば、流石に放っておくわけにはいかない。
本当に神に会ったのか、刀剣男士が神隠しに遭うのか、という一部の疑問については、現場を指揮している者や報告書の責任者である鬼丸が、猛然と抗議して黙らせたようだ。
「実際、この山の裏手には本丸があるそうだからね。そちらに累が及ぶ前に片付ける必要がある──となれば、流石に動くしかないのだろう。もしそうじゃなかったら、今頃適当に封印を施して終わりだったはずだ」
建て直す方針で話が決まってからの行動は、迅速だった。
古い文献や口伝を漁った結果、以前この社で貰った札やお守りをまだ残している人たちを何人か見つけられた。
僅かに残った正しい信仰をよすがに社を再建して、この土地の氏神としての正しい役割を再び与える。
最終的に、そのような方針で進めていくと結論が出て、今日は新たな社が建てられる前に、地鎮祭が執り行われていた。
「ああ、始まったかな」
シャン、と鈴の鳴る軽やかな音が山間から響く。恐らく長義の知り合いである者が、今頃舞を舞っているのだろう。
今こちら側からは消えてしまった氏神とやらをその身に下ろすために。
その行為を思うと、長義は顔を顰めずにはいられなかったが、立場として彼は黙って離れた所で見つめることしかできなかった。
今は、彼の先達である祢々切丸が、知り合いの側に控えているはずである。
本来なら、神籬に下ろす程度で済ますはずだが、今回ばかりは膝丸と髭切の伝聞に頼る所も多く、害の有無を下りてきた神格を見て判断したいとかで、人におろして具体的に様子を観察することになったのだ。
「見ていてもしょうがない。少し、周りを巡ってくるかな」
まだまだ時間がかかりそうだ、と長義は坂道を下り町の中を歩いて行く。危うく、忘れ去られた神が変貌の末に祟りを撒き散らす所だった──などとは知らずに、長閑な光景が広がっている。
今も、小さな公園で子供たちが童歌を歌いながら遊んでいた。二人が手を繋ぎ高々と上げることで橋を作り、その下を子供達がくぐり抜けていく。歌が終わった時に下にいたら橋役と交代らしい。
門番と関所の遊びだろうかと、長義は見るともなしに見つめる。
「とおりゃんせ、とおりゃんせ……」
子供たちの無邪気な歌声に誘われるように、長義も口ずさむ。
報告書には、神隠しの直前から膝丸が憑かれたようにこの歌を歌っていたとあった。何故、その歌を覚えさせたのか──あるいは、彼女が覚えようとしていたのか。
原因については不明、と膝丸は締めくくっていたが、長義には分かるような気がした。
「己の在り方を、これほど正しく簡潔に歌った歌はなかっただろうさ」
自分が変貌する前に知ったのか、それとも変貌してから知ったものの、どこか気にかかるものがあって覚えたのか。
その歌が彼らを救う手立てになったのは皮肉というべきか、或いはそれこそ在るべき姿だったと言うべきか。
長義は目を細め、今は宿るべき社すらないものへ、再来の祈りを込めて、囁くように歌う。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ……