本編の話

抜けるような青空。燦々と降り注ぐ日差し。目の前に広がるのは、青々とした草原と、新緑の木々たちだ。五月晴れの今日は、まさに散歩日和と言えよう。
鳥のさえずりが空に響き、思わず空を仰げば一つ二つの白い雲。
地平線の向こう側には、既に使われなくなって久しいだろう田んぼや畑が、茶色い碁盤のように連なっている。
人の気配のしない民家も合わさって、訪問者を秘境へと迷い込んだような心地にさせる不思議な場所だ。
そんな中を、二つの人影が歩いて行く。

「いやあ、随分と静かな場所だねえ」

長閑な声をあげているのは、人影のうちの一人だ。陽光を浴びて、柔らかそうな薄い金髪がきらきらと輝いている。
アーモンド形の大きな瞳に、長く伸びた睫毛、琥珀に似た金茶の瞳。中性的な顔立ちとスッと通った鼻筋が魅力的なその人物は、首から上だけを見れば女性にも見えただろう。
だが、首から下を見れば、その人物はどこからどう見ても男性の体躯をしていた。
淡いベージュ色をした薄手の生地の上着に袖を通し、長い足は灰色のズボンに包まれている。初夏の気候にあわせてか、下に着ている襟がついたブラウスのボタンはいくらか開いていた。
端正な見た目とは対照的に、その服装は量販店の品を適当に選んで着たように見えた。彼の片手には、これまた浮世離れた容姿には似合わない、コンビニのビニール袋がぶら下がっている。

「兄者、あまり先走らないでくれ。目的地を知らないのだろう」

先を行く金髪の青年の後を追っているのは、周りの木々に負けず劣らす、鮮やかな五月の緑を写し取ったような薄緑の髪をした青年だった。
その顔立ちこそ前を行く青年によく似ているが、釣り上がった眉や、ギュッと引き締められた口元は、兄に比べると男性的と言える。
兄である青年が、柔らかな癖毛を頬ほどの長さに切っているのに対し、弟の方は片方の前髪で片目をすっかり覆い隠し、反対側の髪は逆にすべて後ろに流していた。
頭の後ろ側にある毛は外に向けて無造作に跳ね、頭頂部の毛は軽く逆立っている。どこかのロックバンドのメンバーと言われても通じるような荒々しさを感じる髪型であり、何もかもが兄と対照的だ。
もっとも、その服装だけは兄に合わせようとしているのか、同型の上着とズボンを穿いている。ただ、色合いは黒やくすんだ緑であり、色については兄と真逆の趣味嗜好をしているようだった。
彼も、兄と同じく簡素なビニール袋を指先に引っかけるようにして持っている。

「大丈夫、大丈夫。道なりに行けばそのうち着くよ」
「その道が不明瞭だから、言っているのだ。貰った地図を確認するから、少し待っていてくれ」

神経質そうな弟の声に配慮してか、兄は足を止める。
弟の名は膝丸、兄の名は髭切という。苗字はない。
何故なら、二人は──否、二振りは人ではなかったからだ。

***

刀剣男士。
刀の中に宿る思いを励起させ、付喪神として人の肉体と心を与えた末に生まれた存在に、人々はそのような名を与えた。
彼らは、何もただ興味本位で、刀に人の形を与えられたわけではない。刀剣男士たちは、戦うことを求められて誕生した。
それは目に見える犯罪に対してなどではなく、歴史を変えようとする未来からの敵──歴史修正主義者と呼称されるものに対してだった。
未来に存在するこの犯罪者たちは、過去に介入して改変のための動きを見せ始めた。
時間遡行軍と名付けられた、鬼や妖怪に似た化け物を過去に投入し、歴史を変える。そうすることで、未来もまた変えようとしている、というのが現状わかっていることだ。
折しも、時間に対する研究が始まった頃だったことが幸いしてか、その変調はこの時代を生きる者たちにも、比較的すぐに察知できた。
最初こそ、未来からの犯罪に対して、気にせずに放置しておけばいいという声もあがったが、じわじわと現代にもその影響は出始めており、流石に無視はできなくなっていった。
たとえば、そこにいるはずだった人間がある日突然いなくなり、そのことを認識しているものも殆どいない──といった事例が一番分かりやすい影響と言えよう。
ただ、闇雲に人間を送ったとしても、超常の力を持つ時間遡行軍には太刀打ちできない。
そこで、超常の力には超常の力を、というわけで刀剣男士という、人智を超えた力を持つ存在が求められたのだった。
数多の逸話や歴史によって、多くの人間の祈りや願いを背負ってきた器であり、同時に武器でもあるもの。
刀剣という器は付喪神としても、人を守るものとしても、うってつけの立ち位置にいた。
だが、刀剣という〈武器〉は本来持ち主に振るわれるもの。それは、人の体を得ても変わらない。
直接振るわせることはなくとも、彼らはその本能として、人間の持ち主──主と呼ばれる存在を求めていた。
刀剣男士を呼び出し、十全の力を発揮させる。それには、彼らを呼び出す──顕現させる力を持った人間が必要だった。
〈審神者〉と通常呼称される、顕現の力を持った者。そして、彼ら彼女らが呼び出す刀剣男士。二つが揃って、初めて歴史修正主義者に対する戦いに全力で挑める準備が整ったのだ。

だが、刀剣男士はたとえ十全の力を振るえずとも、人間に比較すると十分に優れた力を持っていた。
卓越した身体能力や、自身の本体である刀を腕の延長のように振るう武術的な才、刀の逸話が形となった摩訶不思議な力。
故に、彼らを管理する政府やその下部組織は、彼らを本来の用途とは違う方法で〈使役〉するようになった。
時間遡行軍から要人を守る。刀剣男士に密接に触れ合う審神者が、人の道を踏み外していないかの監査。
時間遡行軍の動向を確認するための先行隊。あるいは戦いに向いていない性格を持って顕現した場合は、資料の管理や分析の手伝いもしている。
そして、田舎道をこうして闊歩している髭切と膝丸も、審神者という唯一無二の主人を持たずに、政府によって〈使役〉されている刀剣男士だった。
ただ、彼らの役割は、護衛でもなければ監査でもない。
──怪異退治。
刀剣男士という摩訶不思議な存在を表だって認めたことにより、人の世は人智を超えたものを、作り事と笑い飛ばせなくなった。
その結果、彼らは今までと違う形で、人に悪意を向ける人ならざるもの──俗にあやかし、幽霊、妖怪と呼ばれる類のものを意識せざるを得なくなった。
本来、それらは人知れず、力ある者が表舞台から葬り去っていた。その歴史の中には、名のある刀も存在して、重要な役割を果たしている場合もある。
ならば、再び人の口の端に上るようになった人ならざるものを宥め、時に葬るために、力を借りよう。
そうして、一部の刀剣男士が怪異に対する手段として認められるようになったのだった。

***

髭切と膝丸が人里外れた辺境を散歩する、半日ほど前のこと。
二振りは政府の刀剣男士として、彼らの所属している部署がある庁舎、その一室に顔を出していた。

「おはよう……で、あっていたっけ?」

眠そうに目を細めながら、扉を開けつつ部屋を覗き込んだのは髭切だ。
背中には、剣道で用いる竹刀をしまうような袋がある。その中には、彼の本体でもある太刀が入っていた。

「ああ、兄者。朝の挨拶はそれであっていたはずだ」

髭切の後ろにいるのは膝丸だ。彼も同じように、背中に細長い袋を携えている。
彼らは刀の付喪神であるため、本体でもある刀は遠くにあっても一息の間に手元に引き寄せられるのだが、こうして近くに置いておかないと落ち着かないので、大体は持ち歩いていた。
二振りが入った部屋は、机が十ほど並べられている小さな空間だった。この建物自体が、嘗て学校の校舎であった木造の建物のを再利用しており、この部屋も昔は教室に使われていたらしい。
もっとも、今はこの部署における刀剣男士の待機場所──要するに、人間でいう仕事机がある場所になっていた。その証拠に、仕事用に配備された端末が、ワイヤーロックつきで机に備え付けられている。

「今日って、朝から要人護衛の仕事じゃなかったっけ。何でこんな時間に呼び出したの?」
「おかげで、朝餉の準備をし損ねたではないか」

髭切が指摘するのも、さもありなん。部屋の壁にかけられている時計は、まだ五時を指していた。彼らの予定では、仕事は九時から始まるものだったはずだ。

「ねえ、鬼丸国綱。理由を教えてもらえるかな」

髭切が話しかけた先、そこには彼らよりもなお早くやってきて、自身の机で端末を睨んでいる青年がいた。
少し煤けたような白金色の髪の下、緋色に光る片目がじろりと髭切を見ている。長すぎる前髪を止めるために、数カ所無造作にヘアピンがつけられており、前髪の隙間から見えるはずの左目は眼帯で隠されていた。
服装こそシンプルな紺のスーツだったが、首から上のファッションセンスが突き抜けすぎているために、恐ろしいほど似合っていない。
彼もまた、髭切たち同様、この部署にて使役されている刀剣男士の一振りだ。名は、鬼丸国綱という。彼は、髭切と膝丸の先輩格であると同時に、彼らの部隊の部隊長でもある。

「ちょうどいい。おい、鬼切」

不意に顔を上げて、鬼丸は髭切を呼ぶ。彼らは、二振りのことを髭切、膝丸という呼び名では呼ばない。
代わりに、彼らが嘗て名付けられた名だという鬼切、蜘蛛切と呼んでいた。もっとも、二振りもそれは承知しているので、今更驚いたような顔はしない。

「その護衛任務についてだが、取りやめになった」
「おや、どうしてだい」
「別件で緊急の要請がこの部署宛に届いた。刀剣男士が必要だろうということだから、手隙のお前らの隊長であるおれに、話が回ってきたんだ」

髭切と膝丸は揃って顔を見合わせる。その表情は、少しばかり険しい。
彼らは、この部署においてはまだ一年ほどいただけの新参者だ。それもそのはず、刀剣男士がここに配属されると決まったのが去年であり、試用期間で一年早く配属されている鬼丸であっても、全体から見ればまだまだ新人だ。
その新人たちに、いったい何をやらせようというのか。二振りが怪訝そうな顔をするのも、無理はなかった。

「これを見れば分かる」

鬼丸国綱は自分の机に置かれている紙束を、ずいっと髭切に渡した。受け取った紙束をさっそくぺらぺらと髭切は捲り始め、膝丸も隣から覗き込む。
内容は、どこかの地域に関する雑多な資料の寄せ集めだった。地理的な座標、気候、人口の推移、土地の主な利用方法から生産していた農作物、その地で行われていた祭りや祭事の手順まで纏められている。

「何だい、これ」
「それは、先日新たな本丸設立のために、土地の整備に行った者が持っていった資料だ」

本丸というのは、刀剣男士と審神者が暮らす場所のことである。複数の刀剣男士を使役して時間遡行軍と戦うため、彼らを束ねる審神者は拠点となる場所を必要としている。
そのため、本丸という大きな家を、審神者の管理者でもある政府が用意するのが通例となっているのだが、どこにでも用意できるものではないらしい。
単なる面積の問題だけではなく、審神者が駆使する超常的な力──所謂、霊力や霊感のようなものを良い方向に刺激する力が流れているのが望ましいとされている。
結果、彼らを支援している組織側としては、土地を用意するために全国各地で奔走しているとは聞いていた。

「それで、お前らに頼みたいことについては、一番上にある」

鬼丸に言われて、髭切は紙束に目を戻す。そこには、電子メールを印刷したものが挟まっていた。
日付を見ると、今日未明に届いたらしい。つまり、彼らはこのメールを見て、髭切たちを呼び出そうと決めたのだろう。

「何て書いてあるのだ、兄者」
「ええとねえ……」

緊急の割に、几帳面なことにも文面は通例の挨拶から始まっていた。

〈いつもお世話になっております。管理課所属の刀剣男士、山姥切長義と申します。この度は、至急、そちらの手を借りたく連絡させていただいた次第でございます。
三日前より、同部署の者と管理番号『一三六五四二八』の案件について、現地にて作業を行なっていましたが、同行していた職員に昨日の昼頃から異常が見られました。
ひどい高熱、ならびに本人は頭痛を訴えております。
また、眠っていたと思えば突然起き上がり、我をなくしたように取り留めのないことを喋り、再び気絶するように眠るという行為を繰り返しています。
有識者の者は、先んじて退去しており、私個人では判断がつきかねます。
恐らく何らかの障りだろうとは検討しているのですが、地元の人間に問い合わせてみても、はっきりした返事は貰えずじまいとなっております。
可能ならば、事態の解明ならびに原因の排除が可能な専門家、あるいはあやかし退治が得意な刀剣の派遣をお願い致します。
困難な場合は、現状のまま帰還してもよいかの連絡をしてください。

追伸:ご承知かと思いますが、当課所属の鬼丸隊に在籍している髭切と膝丸だけは、絶対によこさないでください。手に余りますので〉

最後まで読み終えて、髭切と膝丸は揃って顔を見合わせた。

「鬼丸、ここに『来るな』って書いてあるんだけど」

髭切は通信の末尾に締めくくられている文言を、ちょんちょんと指でつつく。

「人員がいないんだ。個人的な事情を考慮してやる余裕もない。あやかし退治が可能な人間の職員は出払っている。退治が可能となると、刀剣男士の中でも面子も限られてくるだろ。お前らを遊ばせておく理由はない」

髭切と膝丸は、双方共に嘗て妖怪を退治した逸話を持っていると言われている刀剣男士である。
その是非はともかく、逸話が元となって顕現されている彼らは、人ならざるものに対しては有効打として認識されていた。実際に、実績もいくつか積んでいる。
そのため、鬼丸国綱の言葉に間違いはないのだが、メールの送り主だってそんな事情は分かっているのだろう。
ともあれ、髭切と膝丸としては、行けと言われて行かない理由はない。何しろ、二振りの仕事は本来要人の護衛などではなく、こちらが本職なのだから。

「じゃあ、この紙に書いてある場所に向かえばいいんだね」
「ああ。あとは、送り主の刀剣男士が何とかするだろ」
「承知した。すぐに、準備する」
「あと、もう一つ」

既に部屋を出るところだった二振りを、鬼丸は呼び止める。揃って彼らは足を止め、くるりと振り返った。その所作は、まるで鏡あわせのようにまったく同じだ。

「余計なものは斬るな。得体が知れないと思ったら、おれに連絡しろ。いいな?」

二振りを気遣う言葉に対して、彼らは常と変わらぬ表情で、鬼丸を見つめただけだった。

「ああ。気をつける」
「鬼丸は心配性だねえ。大丈夫だよ」

結局、たったそれだけの返事を残して彼らは部屋を去った。扉がぴしゃりと閉められ、鬼丸国綱は大きく息を吐く。
本来、この課において刀剣男士の横の繋がりは酷く薄い。
元々、一人の主に捧げられるための力を、全体で動く組織に捧げること自体が歪なのだ。結果として、横の連帯性が薄くなるのは必定だろう。
それでも、鬼丸国綱は例外として髭切と膝丸に対して気を配っていた。その理由について、鬼丸は彼らに語るつもりはなかった。
眠気覚ましに入れたとびきり苦い珈琲を一口啜り、彼は目の前の端末を操作していく。
暫くページを捲っていった先には、髭切と膝丸のこれまでの経歴がつらつらと並べられた画面が現れた。
髭切、そして膝丸。歴史の中においては、平安時代に源氏一族の守護を目的として打たれたと言われる、二振一具と言われているほど、対としての存在を意識された太刀だ。
そのせいか、顕現して生じる個体は皆、髭切が兄、膝丸が弟を自称している。
彼らには、それぞれあやかし退治の逸話がある。
髭切は鬼を、膝丸は蜘蛛の妖怪を退治したという物語だ。その功績を受けて、彼らは名前すらも一度変えられたと聞く。

「だからこそ、この仕事はうってつけだと考える奴もいたんだろうが……どうにも、あいつらはすぐに無茶をする」

兄の髭切はつかみ所のない気分屋で、人当たりはいいが、実際のところは何を考えているのか理解できない部分がある。こちらがだめだと言っても、歯牙にもかけず勝手に行動しかねない。
弟の膝丸は兄に比べれば生真面目だが、融通が利かない部分も多い。何より、彼は兄に対して強い敬愛を抱いているからか、兄のためならばと無茶をしかねない。
いや、既に前例はあった。自覚していないのは、膝丸本人だけだろう。

「以前のあいつらよりは、多少人間味は出てきたんだろうがな。さて、何事もなければいいが」

メールの送り主が良いようにやってくれることを祈りつつ、鬼丸は再び端末に向かい合う。時刻は、五時半を示していた。
不意に電話が鳴り響く。こんな時間に一体何だと思いながらも、鬼丸国綱は受話器に手を伸ばし、こう告げた。

「はい。こちら神秘怪異調査対策部──退治課所属刀剣男士、鬼丸国綱だ」


***

それから、髭切と膝丸は始発の特急電車と各駅停車の電車とバスを乗り継ぎ、とある田舎町に辿り着いていた。いや、それは最早町ではなく、村や集落の跡地といってもいいかもしれない。
右を見ても緑。左を向いても緑。前方に、微かに人がここを切り開いた痕跡や家が点々と見えるが、圧倒的に緑の割合が多い。
見渡す限り山と畑ばかりの光景は、都会生活の長い彼らにとっては馴染みが薄く、同時にどこか郷愁を感じさせるものだった。
この国で暮らすものは多かれ少なかれ、緑に心惹かれるようにできているものなのかもしれない。

「よし、大体の位置は把握できたぞ。長義が宿泊している宿までは、ここから三十分ほどだな」

地図の確認を終えた膝丸は、振り返った先にあった光景を目にして思わず言葉を無くしていた。
何故なら、彼の兄刀である髭切が道端の切り株に腰掛けて、コンビニで調達していた昼食のおにぎりをもぐもぐと口にしていたからだ。

「兄者、任務中にそんな暢気なことをしている場合では」
「そうはいっても、お腹が空いてしまったんだもの。それにほら、空が綺麗じゃないか」

髭切に促され、膝丸も思わず真上を見上げる。正午より少し前の日差しが、じんわりと彼らを包んでいた。その向こうにある目の覚めるような青空の美しさは、思わず声を失わせるほど、澄み渡っていた。

「こんな気持ちのいい時間を、ただ歩くだけに使うのは勿体ないんじゃないかな」

おにぎりを片手に、髭切は膝丸を丸め込もうとする。髭切の笑顔を見ていると、膝丸も毒気が抜かれてしまい、呆れたように肩を竦めてしまった。

「ほら、弟も座りなよ。天然のベンチだよ」
「そうだな」

この様子では、髭切は梃子でも動かないだろう。それに、朝餉をほぼ抜いた状態での強行軍だったので、空腹は感じていた。
髭切の腰掛ける切り株の端っこに、膝丸も腰を下ろす。
ちょうど切り株の前には、小さな石像があるのが見えた。なにやら狸か狐に似た生き物の彫刻が施されているように見えたが、風雨に長年晒されていたためか、角が落ちていてはっきりとは分からない。

「風が涼しいね。ここは、良い場所だなって思うよ」
「ああ。空気が澄んでいる」

単に人が少ないからだけではなく、『気』の通りも良いように膝丸は感じていた。刀剣男士と審神者が暮らす本丸の場所として、まさにうってつけと言えよう。
そうして自然の風を肌で感じつつ、電車に乗る前に駅中の店で適当に買っておいた昼ご飯を、膝丸は片手に提げていたビニール袋から取り出そうとした。だが、

「あっ」

袋へと、無造作に手を突っ込んだのがよくなかったのか。
目当てのサンドイッチは手に収まったものの、袋の持ち手に指が引っかかり、弾みで中にまだ入っていたペットボトル飲料や、菓子パンの袋がばらばらと切り株の上に散らばってしまった。
中でも、おにぎりが一つ、勢い余って切り株から転げ落ち、そのまま後ろに広がる斜面を滑り落ちていく。

「おやおや、ついてないね」

髭切は自分の手にあったパンをひょいと口の中に押し込み、散らばった膝丸の昼食を袋に戻し始めた。包装が解けていなくてよかったと、膝丸は安堵の息をつく。

「仕方ない。あれは流石に食べる気はしないが、拾ってはこないとな」

膝丸は手に持ったサンドイッチを一度袋に戻し、斜面をそろそろと降りていく。崖ではないものの、下草があまり伸びていないそこには、油断すると滑って転げ落ちてしまいそうだった。

「どうせ食べないんだったら、放っておけばいいじゃないか」
「そういうわけにもいかない。中身はともかく、包装はごみになると以前聞いた」
「それはまあ、そうだろうけど……怪我しないようにね?」
「この程度の斜面、足を踏み外すわけがないだろう」

宣言通り、膝丸は危なげない足取りで下っていき、下に広がる草むらをかき分けていた。
彼が戻ってくるまで、髭切は自分のおにぎりを食べていた。まるまる一つ分、食べ終えたものの、膝丸が戻ってくる様子はない。どうしたのかと思いきや、彼はまだ茂みの中を右往左往している。

「おぉい、見つかったかい」

髭切が声をかけたからか、膝丸は暫く躊躇う素振りを見せてから、斜面を上がってきた。

「おにぎり、あった?」
「いや、全く見当たらないのだ。そこまで遠くには行っていないと思っていたのだが」
「猫とか犬が取っていったんじゃない?」
「或いは、山で暮らす獣が持っていってしまったのかもしれないな」
「そうなったら仕方ないんだから、諦めて腰を落ち着けてゆっくりと食べるといいよ」

髭切は喋りながらも、サンドイッチのパッケージを開いてむしゃむしゃと頬張り始めていた。

「そんなに落ち込まなくても、後で僕のおにぎりを分けてあげるから」
「……兄者、一ついいだろうか」
「うん?」

サンドイッチの半分を既に口に含んだ髭切を見下ろし、膝丸は唇の端をひくつかせながら言う。

「それは、俺の昼餉の分なのだが」

***

膝丸の機嫌がすっかり斜め下方向に下がっていったため、髭切はおにぎりを多めに分けることで、許しを乞うことになった。
幸い、髭切が申し訳なさそうな態度をとったこともあり、膝丸も納得してくれたらしい。
おにぎりを食べ終えた頃には、すっかりいつもの彼に戻っていた。
特段、膝丸は食べ物に対して必要以上に執着しているわけではないのだが、さすがに自分のものとして分けていたものを勝手に目の前で食べられては、兄に甘い彼も笑って許すとはいかなかったらしい。食べ物の恨みとは、恐ろしいものだ。
そんな一悶着を経て、彼らは目的地である民宿にたどり着いた。
山姥切長義という刀剣男士の送ってきたメールの内容によると、現在は寝込んでいる職員と一緒に、ここに宿泊しているということだった。
民宿といっても、見た目は少し大きな民家と大差ない。玄関口に顔を覗かせると、厨房らしき所から一人の女性が顔を覗かせた。ほっそりとした顔とつり目がかった瞳が特徴的な、妙齢の娘だ。

「こんにちは。ここに先に来ている人たちの知り合いなんだけど、話って通っているかな」

髭切は、仲居らしき彼女に極力穏やかな語調で尋ねる。
鬼丸が長義に連絡をしてくれているなら、長義の方から従業員にも連絡があるだとうと思ったのだが、果たして仲居の娘はこくりと頷いてみせた。

「はい。長義様から話は伺っております。ただ……」
「おや、どうしたんだい」

何やら言葉を濁す仲居に、髭切は更に一歩詰め寄って問いかける。

「お部屋の準備は二人分できていたのですが、その……先にお泊まりだった方が、部屋を破損してしまいまして……今、一人分の部屋しかないのです」
「おやおや、それは穏やかじゃないね」

どうやら部屋は二階にあるようで、吹き抜け構造になっているおかげか、玄関口の階段からも襖の数は見てとれた。外から見た家の大きさを加味しても、恐らく三部屋あるかないかといったところだろう。

「最初は、全ての部屋を使ってもぎりぎりだと思うぐらいに、人が来ていたのですが……。皆様方がお仕事を終えて帰られてから、病人の方は個室に分けた方がいいと長義様が仰っていたので、お二人にそれぞれ部屋を用意していたのですが」

急遽、髭切と膝丸が来るということになり、一部屋に押し込むのも悪いからと、長義は病人が寝込んでいる部屋に移動して二部屋を空けるつもりだったそうだ。
だが、夜中に何やらあって、病人が寝ていた部屋が使えなくなってしまった。結果、逆に長義が元々いた部屋に病人を移動させることになったと、仲居は語った。

「俺は兄者と同じ部屋でも構わない。どうせ、長居するつもりはない。多少狭くても問題ないだろう」
「そういうわけだから、僕らは一部屋でいいよ。汚れていない方の部屋に、案内してもらえるかな」
「はい。本当に申し訳ございません」

ぺこぺこと頭を下げる女性を見て、髭切はふと目を眇める。
何か、違和感がある。だが、それが何かを知るより先に、彼女は二振りを部屋に案内するために歩き始めた。
急勾配の階段は、年季があるのか、三人が歩くだけでもぎしぎしと軋む。家そのものにも、所々に埃が残っている箇所が見受けられ、急ごしらえの宿という印象を二振りは受けていた。
階段を上がってすぐ、二振りは顔を顰める。

「……何、これ。何だか臭いね」
「失礼だが、何か臭っていないか?」

流石に鼻こそつままなかったものの、髭切と膝丸は揃って渋面を作っていた。仲居の女性は、申し訳なさそうに再び頭を下げる。

「すみません。臭いが消しきれなくて……実は」

彼女が臭いの理由を話すより先に、不意に荒々しいうなり声のようなものが響く。髭切と膝丸は、咄嗟に腰を軽く落とし、身構えた。
そのうなり声は、人の声のものだが、明らかに常人が発するものではない。声は、廊下の突き当たりに位置する部屋から聞こえていた。

「今のは?」
「恐らく、寝込まれていた方のお客様かと……」
「魘されているという割には、随分と荒々しい寝言だな」

膝丸が感想を口にするより先に、どたどたと争うような音が響く。介入するかどうか、髭切と膝丸が悩んでいると、

「その酒は駄目だと言っているだろう! 第一、まだ熱は引いていないんだから大人しく寝ていてくれ!!」

今度は襖の向こうから、別の若い青年の声がする。髭切と膝丸は、思わず顔を見合わせた。

「ちょっとぐらい、いいだろうがよぉ! そいつぁ、俺の酒なんだろお?!」

続く声は、明らかに酔っ払いと思えるダミ声だ。

「君の酒じゃないということぐらい、承知しているだろう! 酒はいいから、早く休んでいるんだ。あ、おい!!」

再度獣が呻くような声が響き、やがてドスンと誰かが畳に倒れ伏すような音が響く。そうして、ようやく部屋の向こうから聞こえる音はなくなり、静かになった。
続いてぐおお、と唸るような鼾が聞こえてきたので、どうやら青年に絡んでいた酔っ払いは眠ってしまったらしい。

「長義様から聞いた所によると、明け方からあの調子で、酒をくれと大暴れしているそうです。取り押さえる弾みに……その、障子を破くわ、土壁に穴は空けるわと……」

それが部屋が駄目になった原因か、と膝丸は考える。正直、彼としては障子が破けていようが壁に穴が空いていようが、正直どうでもいいのだが、宿の矜持として思う所があるのだろう。

「どうにか、宥め賺して部屋は移動してもらったのですが、昼に起きてからもあのようです。昨日は、譫言みたいなことは言っていたのですが、暴れてはいなかったので、いったいどうしたのかと」
「元から粗暴な人間だったのかなあ」
「いいえ、私のようなただの仲居にも丁寧に接してくださる方でしたよ」
「あれは、丁寧に見えないけれどねえ」

髭切は眉を顰めて、形だけの愛想笑いを浮かべてみせる。着いたばかりの彼らにとって、今聞いた声だけでもは職員への第一印象を最悪にするには十分過ぎる。

「それで、この悪臭は何なのだ?」
「あの方が熱を出してから、どうにもこの臭いが流れていて、どれだけ換気しても部屋から抜けてくれないのです。隣の部屋は大丈夫だと思いますので」

これ以上廊下で立ち話をしていても仕方ないと、髭切と膝丸は自分たちの部屋へと案内された。仲居の言う通り、そこは廊下にまで漂ってくるような、顔を顰めたくなるような臭いはしない。
部屋といっても、やはり元は民家を改修したものだからだろうか。少し広いだけの和室であり、家具らしきものもほぼないと言ってよかった。
もっとも、歩きづめの彼らとしてはやっと一息つけた場所でもあり、文句を言うつもりはない。仲居がいなくなってから、さっそく髭切はごろりと畳の上に転がった。

「うーん、仕事でなかったらあちこち見て回ってみるのも、いい息抜きになっていたのかもねえ。彼も来ればよかったのに」
「彼は、外にはあまり出たがらないようだったな。それに、兄者。今は遊びの時間ではないぞ」

早々に寝転がった髭切とは対照的に、膝丸は既に布団の確認や備品のチェックに勤しんでいた。

「俺たちは、任務の最中だ。今は、肩に力を入れていなければならない時間だろう」
「そうだね。弟の言う通りだ」

ひょいと起き上がった髭切は、ふうと息を吐き、目を軽く閉じる。次いで開いたときには、先ほどまでの柔らかな気配は薄れ、冷えた鉄のような瞳が露わになっていた。
口元に浮かんでいた春の日だまりのような微笑も、今はどこかよそよそしく見える。
髭切が顔を上げれば、膝丸も似たように怜悧な光を瞳に宿していた。彼も彼なりに、気持ちを切り替えたのだろう。
まるで二人が仕事に向けて姿勢を改めるのを待っていたかのように、不意にコンコンと柱を叩く音が響いた。

「誰だろうか」

膝丸が立ち上がって尋ねると、部屋の外から蛙を絞め殺したような呻き声が聞こえた。続けて、微かなため息。そして、

「山姥切長義、と言えばわかるかな」

暗澹とした様子を隠すこともなく、一人の青年の声が返ってきた。先ほど、酔っ払いに向かって呼びかけていた青年と同じ声だ。
襖を開くと、そこには二振りよりは幾らか年若く見える青年が立っていた。
髭切や膝丸が成人した社会人に見えるなら、目の前の彼はその気になれば学生で押し通せるのではないかと思うような、やや若い顔立ちをしている。
銀の髪のいくらかを後ろに流し、その髪の下からは海よりも尚深い青の瞳が覗いていた。
染み一つない白いシャツにグレーのベスト、足のラインにぴったりと合うような黒いズボンは、都会の雑踏の中ではお洒落な会社員として見られたかもしれないが、明らかにこの山奥では浮いている。

「おや、山姥切長義」
「おや、じゃない! 何故、君たちがここにいるんだ。よこさないようにと頼んでいたのに」

にこやかに笑いかける髭切とは対照的に、長義は苦虫を千匹ほど噛みつぶしたような顔をしていた。

「何故と言われても、他に回せる人員がいなかったらしい」

嫌そうに顔を歪めている長義に対し、膝丸も髭切も平時と変わらない落ち着きぶりを見せている。
山姥切長義。打刀の刀剣男士であり、彼もまた政府の施設内で、通常の刀剣男士とは異なり、使役をされている立場である。
彼は、髭切と膝丸にとっては顔見知りの関係だった。親密とは程遠いが、顕現したての二振りに、長義が建物の中を案内したという縁から、長義は長義なりに彼らを後輩として気にかけていた時期があった。
もっとも、今はそんな微笑ましい間柄ではないのは、先のやり取りで一目瞭然である。

「それなら、俺は仕方ないと言うべきなのだろうね」

口ではそう言っているものの、長義は不服そうな様子を隠すこともなく、何やらぶつぶつと呟いていた。
やがて、自分なりに結論を出したのか、彼は改めて居住まいを正して二振りに向き直る。

「実は、通信をしてから少し事態が変わった。話が長くなるから、部屋に入れさせてもらおうかな」


部屋に入った長義は、勝手知ったる我が家のように座布団の上に勝手に腰を下ろし、開口一番、

「通信で体調に異変が見られた職員なんだが、実は今朝から更に異常な行動を見せるようになった」

と、告げた。それが何なのかについては、先ほど仲居に聞いた内容を照らし合わせれば容易に想像ができる。

「酒をよこせと大暴れ、か?」
「……聞こえていたのか」

膝丸の言葉に、長義はどこか遠い目をしながら答える。見た目は大学生にも見える彼だが、どうやら酔っ払いの面倒を見るのは相当堪えたようで、視線はどこか遠くを彷徨っていた。

「聞こえていたなら話は早いけれど、一応順を追って説明しよう。昨日の昼過ぎ、俺たちの仕事である土地への祈祷を終えて帰参の準備をしていた折、先ほど君たちが声を聞いた職員が、突如原因不明の頭痛と高熱により昏倒。今日未明まで、時折目を覚ましては、益体にもならない言葉を呟いては気絶する、という行動を繰り返していた。だが、夜明け前頃からあのように意識ははっきりしているものの、大騒ぎをするようになった」
「元気になったのなら、いいんじゃないかな」
「熱自体は残っている。あれほどの高熱なら、普通の人間なら倦怠感を覚えて碌に動けないはずなのに、彼にはその様子がまるでない」
「今は、どうしているのだ。放っておいたら、また暴れ出すだろう」
「ああ、それなら大丈夫だ」

言うと、長義は右手で手刀を作り、軽く振るった。それが何を意味するかは、髭切にも膝丸にも容易に推察できる。どうやら、長義は眠ってくれないのなら強制的に眠らせる方を選んだらしい。

「俺の気を混ぜた上で、軽く叩いておいた。体に影響はないだろうが、肉体の気が乱れて暫くは起き上がれないだろう」
「君も、案外乱暴なことをするんだね」
「不可抗力だ。しめおとすよりは、安全だろうと思ってね」

刀剣男士の身体能力は、人のそれより優れている。本気で取っ組み合いでもしたら、うっかり怪我をさせかねない。長義はその点を考慮した上で、結論を出したようだった。

「君は、異変が起きた理由を、障りって考えているのかい」
「……今の所、それぐらいしか考えられなくてね。実を言うと、これもただの俺の推測に過ぎない」

長義の言に、髭切は軽く肩を落とす。

「これは、長期戦になりそうだね。主に何も言わずに出てきてしまったよ」
「そうだな。買っておいた夕餉や昼餉は遅くなったら食べておくようにと言っておいたから、口にしてはいるのだろうが」
「待ってくれ。君たち、主がいたのか!?」

長義が思わず素っ頓狂な声をあげて尋ねるのも、無理はない。組織に使役される刀剣男士は、基本的に審神者に顕現された刀剣男士と異なり、自分の主を持たない。特別に親しくする職員はいても、それを主と呼ぶ刀剣男士は少ない。
例外はゼロではないが、長義の認識において髭切にも膝丸にも主はいないものとなっていた。

「まさか、どこかの審神者と契約でもしたのかい?」

何らかの縁ができて、審神者が政府にいる刀剣男士の力を見込んで、自陣に引き入れる例もある。謂わば、人間社会でいうスカウトか引き抜きのような場合だ。
性格はどうあれ、髭切と膝丸は使役されている刀剣男士たちの中でも、優秀な部類には属していると長義は思っている。彼らがどこかの審神者に腕を見込まれて勧誘されてもおかしくはない、と思っていたが、

「いいや、違う。兄者が主を連れて来たのだ」

膝丸はきっぱりと否定してみせた。主とはそんな猫の子を拾ってくるように連れてこられるものではないのだが、これ以上は髭切も膝丸も説明する気はないらしい。
本題と違う内容を根掘り葉掘り聞いても仕方ないと、長義は一旦話の軌道を修正することにした。

「……その主とやらには申し訳ないが、すぐに帰るというわけにはいかないだろう」
「そのようだね。とりあえず、長義が原因を障りと思っている理由をまず聞こうか。考える切っ掛けぐらいはあったんだよね?」

髭切に促され、長義はどこから話したものかと暫く虚空を睨む。結局彼は、自分が何故ここにやってきていたかを語る所から始めた。

「俺たちは、本丸をこの地に建てるために派遣されてきた。俺たちの課は知っての通り、霊地を管理するのを仕事としているからね」

霊地管理課。髭切と膝丸が所属する部署は同じであれど、対応内容は大きく異なるチームとなっている。
通称管理課で知られるこの課の仕事は、本丸の設営準備から、審神者同士の交流と腕試しの場である刀剣男士の演練用の場を用意することまで、土地に関わるものなら大体全てを任されている。
中でも、本丸の準備のためには、その土地の関係者にお伺いを立てる必要があり、長義たちの課において最も重要な仕事の一つだ。そのため、彼も同様の案件で数日前にこの場所へと足を踏み入れていた。

「関係者、と言っても別に土地の持ち主である人間ではない。その辺りは人と人のやりとりだ。机上で書面を交わすだけで、大抵は片付く」
「じゃあ、長義は何をしにきていたの?」
「──土地に住まう、人ではないものに伺いを立てるためだよ」

審神者が住う本丸は、それなりに清浄な場所であることが望ましい。それは刀剣男士という付喪神──仮にも神と名のつくものを、この世界に下ろすためでもある。
加えて言うなら、彼らは時間遡行軍の戦いで多かれ少なかれ負傷を強いられる。負傷──すなわち血や死の匂いがするものを、一時的にとはいえ、その土地にもたらしてもよいものか。
その可否を問うのは、人間相手ではない。土地を古くから治めてきた、土地に宿っているものたちに対してだ。

「簡単に言うと、産土神、土地神と呼ばれるものだね。地鎮祭は、どこの土地で建物を建てるにしても行うだろう。あれのもっと大がかりなものだと思ってくれればいい」

そうして、長義や他の関係者たちは三日三晩かけて、滞りなく儀式を終了した。結果として、返事は色良いものであったらしい。
了承がとれたなら、また別の土地で、同じことをしに行かなくてはならない。スケジュールは詰まっており、関係者たちは早々にこの地を後にした。
長義は一人の職員と残って後片付けをしていたのだが、そこで異変が起きたというわけである。

「考えられるとしたら、俺たちの執り行った儀に対して、何か過ちがあったから……と思ったんだ。障りというより、祟りと言うべきだったかな。だから、彼の様子がおかしくなったのだろう、と」
「だとしたら、彼に会ったとしても、あまり意味はないかな」

外に理由があるのだとしたら、直接対面しても得られるものはないだろう。何より、中途半端に覚醒させれば、酔っ払いの相手をすることになる。
髭切も膝丸も、あのように感情に任せて好き放題に振る舞う人間に対して、長義ほど優しく接してやれる自信がまるでなかった。

「もういっそのこと、斬ってしまったらどうだ」
「何でもかんでも、斬って解決しようとするんじゃないよ」

ピシャリと長義は言い返す。膝丸にいたっては、髭切より一足飛びに物騒なことを考えていたらしい。まさか本気ではないだろうが、彼らに限っては、そのまさか、が通用しないことがあると長義は思っていた。

(だから、彼らの相手をしたくないんだ。真っ当なことを話していたかと思いきや、俺の予想から遙かにずれたことを平然と口にするんだから)

常識の尺度で話し合っていた相手が、いきなり自分とはまるで異なる価値基準で話を始めたら、当然面食らってしまう。だからこそ、長義は彼らとは慎重に距離を置いていた。わざわざ来るなと名指しした理由も、そこにあった。

「一応、鬼丸に似たような事例があるか聞いてみようよ」
「ならば、その後で、その職員がこの地で訪れたことがあるところに行ってみよう。この地に来てからおかしくなった以上、何か原因がここにあるのだろう」
「そうだね。俺は昨日、つきっきりになっていて見られなかったから、彼が気絶している内に見て回ろうかな」

長義も賛成して、話がまとまったので髭切が携帯端末を取り出したときだった。

「──誰?」

不意に髭切は立ち上がり、勢いよく障子を開く。

「どうしたのだ、兄者」

膝丸がすぐさま後を追い、一緒になって障子の向こう、廊下を見渡す。だが、短い廊下には人影はおろか、猫の子一匹見当たらない。

「……何でもないよ。じゃあ、出かけようか」

言いつつ、部屋の外に出た髭切は自信のうなじ付近をそっと手で撫でる。

(あの瞬間、確かに──視線を感じた)

自分たちを見据える、一対の瞳。害意はなさそうだったが、あまりに無遠慮な視線が気になって、即座に反応したつもりだった。

(でも、おかしい。人間が覗き込んでいたなら、弟や僕が気付かないはずがないのに。長義だって、最前線からは引いていたとしても、相当な手練れのはず)

刀の付喪神が三振りも揃っているのに、誰もあの視線の持ち主が近づくのに気がつけなかった。
そのことに違和感を覚えつつも、髭切は階段を下り始めた。

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