清麿夢と水心子夢の話

 聞いたことのない音の連なりを耳にして、少年は足を止めた。
笛の音というよりは重く、琴の音と比べても深く、笙の音と比べるとすっと耳に馴染む。そんな、不思議な音色だった。
 ここは、政府所属の刀剣男士も赴く医療施設の一つだ。本丸に所属しない彼らの体調管理は、日常を共にする審神者のような存在がいないため、体調の管理が疎かになってしまいがちだ。
 故に、特に顕現直後の刀剣男士はこうしてたまに日常を送る上で健康に不備がないか、確認をされる。人間で言うなら定期検査とか健康診断というところだろう。
 もっとも、人のなりをしているのに付喪神でもあるというこの異質な存在を、より医学的に詳しく調べたいという考えがないわけではない。だが、顕現したばかりの少年はそんなこと、つゆほども知らなかった。

(ここでこんな音聞いたの、初めてだ)

 共に顕現された相棒が傍らにいたら、興味を持ったことだろうと思う。だが、生憎彼は別の棟で診断の結果を聞いている。戻ってくるには、もう暫くかかるだろう。

(水心子が戻ってくるまで少しかかるだろうし、少し探ってみてもいいかな)

 どうせ、今日は特にすることもない。実質的な鍛錬や現代知識に関する指導は、年明けを待つ必要があると教えられていた。
 それもこれも、本来審神者の元に顕現されれば自ずと身につく物らしいが、少年は今の自分の境遇に不満があるというわけでもない。気心の知れた友人と共に顕現できたというだけでも御の字だ。
 取り留めも無く思考を遊ばせながら、少年は真っ白の階段を上っていく。清潔をアピールするためか、この施設はとにかくやたらと白い。その中において黒い上着を纏った少年の姿は、白紙に垂らした墨汁のようによく目立っていた。

「ええと、確かこの辺り……」

 階段を上りきった先、踊り場から左手に広がる廊下にはずらりと扉が並んでいた。その一室から、この柔らかい音が響いている。
 少年は真っ白の引き戸を開くか迷い、結局ゆっくりと開くことを選んだ。
 途端、扉越しにくぐもっていた音がはっきりと彼の耳に届く。柔らかくしなやかな、同時でどこか切なさを帯びた音が彼の全身を通り過ぎていく。
 彼の眼前にあったのは、真っ黒な奇怪なオブジェ──少なくとも、少年は最初そう思った。だが、そこからあの音が響いていることに気がついて、それは楽器なのだと彼は理解する。
 その前に座り、指を動かして音を奏でているのは、彼が目にしたことのない一人の人間だった。
 手を止めて余韻の音を響かせつつ、こちらに気がついた人間は──彼女は、顔を上げて侵入者をまじまじと見つめた。

「誰かな」

 彼女の瞳は、まるで星のように綺麗だと思った。

「僕は──源清麿。君の名前は?」

 問いかけられ、彼女は雪のような白い肌の上に光る、椿のような赤い唇をゆっくりと開いた。
 壁にかけられたカレンダーは、十二月二十四日を指していた。


***


「ん……」

 のそりと頭を起こすと、目の前にトン、と何かが置かれる音がした。それがカップだと気がつく前に、置かれた何かが持ち上げられ、額にぺたりと押し付けられる。

「あつっ」
「のんびり寝てるからだよ。お寝坊さん」

 ひどいなあ、と文句を言うと、彼女はカップを戻して彼の抗議など御構い無しに離れていってしまった。
 体を起こし、凝り固まった上体をぐいと伸ばす。体をほぐしてから、清麿と呼ばれた少年は自分がいる場所を確認し直した。
 ここはある喫茶店の一角。政府所属の刀剣男士である彼の、身の回りの世話や、知識の指導をしてくれる彼女──カップを額に当ててきた彼女が普段手伝いをしている場所だ、と教えてもらっていた。

(あれから、もう一年経つんだよね)

 十二月二十四日。今日が、暦上ではクリスマスイブと呼ばれる日だと知ったのは、年が明けてからのことだった。ピアノという楽器を弾いていた彼女は、どういう奇縁か、清麿と彼の相棒の教導係を務めており、今もこうして側にいる。

「君たち、今日は政府からの手伝いは頼まれていないのかな」

 厨房に引っ込んだ彼女からの問いかけに、清麿は「うん」と返事をする。

「今日は特に任務がないんだって」
「正秀は出かけていて、君は暇で私の所にちょっかいを出しにきたと」
「そんな感じだね」

 相棒の水心子正秀は連れと共に出かけているようだが、清麿の方はこうして何をするわけでもなく、知り合いの勤め先で油を売っていた。

「お客の人はいないの?」

 まだ開店時間のはずでは、と思ったら「臨時休業」と素っ気なく返された。どうやら辺鄙な場所にあるこの喫茶店は、クリスマスイブであるにも関わらず、閑古鳥を客として迎えてしまっているらしい。
 先ほど、一組カップルらしい客がやってきたが、彼らも帰ってしまったようだ。道理でのんびりとうたた寝をしていても彼女が起こさないわけだ、と清麿は思う。人使いが荒い彼女は、お店にいるときは刀剣男士すら店員扱いするのだから。

「僕はのんびりできていいけれど、店長さんが困るんじゃないの?」
「暇を持て余しているんだ。閉めたところで誰も文句を言ったりしないだろうさ。それより、冷める前にさっさと飲むといい。さっき出した客の分の余りなんだ」

 自分の前に置かれているココアを目にして、そういえば、と清麿は思い出す。先だって来ていた最後の客に配膳したのは、彼女にせっつかれた自分だった。
 刀剣男士がウェイターの真似事とは、自分もこの一年で随分と人間臭くなったものだと思いつつ、彼はココアを啜る。中に入っていたマシュマロが全部溶けきったのか、まるで砂糖の塊を飲んだような味がして、流石に清麿は眉を顰めた。

「ねえ、主」
「主じゃない」

 クリスマスイブだろうが、この応酬は変わらないと清麿は口元を少し緩める。仕方ないなあ、という気持ちと共に。
 政府所属の刀剣男士にとって、主である者はまだいない。本丸に今後所属することになった折、初めて彼らは自分の主を持つことになる。或いは、審神者の候補生に補佐をする役として組ませる案も出ているようだが、ともあれ今の源清麿に主はいない。
 けれども、彼は彼女を時たま主と呼ぶ。彼女には、自分を主と呼ぶな、と注意されるが、その反応も含めてどこか面白いと清麿は思っていた。

「窓から見える光が、今日は一段と綺麗だよ。いつもよりもずっと明るいみたいだ」

 彼女の言葉を無視して、清麿はマイペースに彼女を窓辺に誘う。
 厨房から出てきた彼女は、白い眉間に少しばかり皺を寄せて、清麿の前にある椅子に腰掛けた。
 頬杖をついて外を眺める彼女は、そこだけ切り取れば絵にもなるのだろう。白い肌も相まって、深窓の令嬢と表してもいいかもしれない。だが、当の本人は結構な辛口にさばさばした性格で、窓辺に立つ物憂げな令嬢というイメージからは程遠い。

「昼頃まで今日は雨が降っていたからね。埃が全部落ちて、空気が澄んでいるんだろう」
「なるほど。そういうこともあるんだね」

 また新しいことを教えてもらったと思いながら、清麿はココアを今度は慎重に飲んでいく。相変わらず砂糖をまるごと溶かしたような甘みだが、二人しかいない少し冷えた室内なら悪くはない。
 彼女が黙ってしまったせいで、部屋には沈黙が雪のように降り積もっていく。その中を、コチコチという時計の音だけがやたら大きく響いていた。

「そういえば、主。今日は弾いていかないのかい」
「だから、主じゃないって言っているだろう」

 律儀に返事をしつつも、彼女は頬杖をつくのをやめて顔を上げた。清麿の視線の先には、喫茶店の片隅に置かれているピアノがある。

「僕と会ったときも弾いていたよね。懐かしいなあ」
「そんなこともあったかな」

 億劫そうに言いながらも、彼女は腰を上げてピアノの前にいる椅子へと座り直す。どうやら今日は機嫌がいいらしい。何だかんだ言いながら、こちらの言葉に従ってくれているのだから。

「リクエストは?」
「じゃあ、初めて会った時に弾いていた曲を聞きたいな。好きなんだよね」
「君は変わった趣味を持っているな。男女が二人きりのときに弾くようなものでもないと、私は思うんだけどね」
「それはどうして?」

 声をかけてみたものの、返事はない。代わりに指慣らしのために演奏される、単調なメロディが返ってきた。
 程なくして、慣らしを終えたほっそりとした指が緩やかに伴奏を始める。続けて、彼女の唇から聞き心地の良い少し低い声がゆるりと静寂に包まれた部屋に流れていった。
 この曲は外国の歌らしい。清麿にとっては聞き馴染みのない外の国の言葉で、意味も全く知らない。だが、どういうわけか彼の中でしっくりとくる。
 目を閉じると、彼女の奏でるメロディがじんわりと内側に響いていく。優しく、時に激しい熱を帯びた音。低く、時に小鳥が囀るように高く、彼という刀の中に音色が滑り込んでいく。
 やがて最後の一音がピアノの鍵盤から響き終わり、唯一の観客であった清麿はパチパチと彼女に拍手を送った。

「やっぱり、いい曲だね。でも、さっきはどうしてあんなことを?」
「この曲は、クリスマスの曲の中でも失恋の歌だからだよ」

 彼女はくるりとこちらに向き直り、先ほど自分が歌った歌詞の一節を繰り返す。

「去年のクリスマスに贈り物をしたけれど、その人は自分を捨ててしまった。だから翌年のクリスマスは、別の特別な誰かと過ごす。もう君には騙されないよ、と昔の恋人に息巻いている歌というわけさ」
「なるほど。じゃあ、僕は主に恋人として見られているって考えてもいいのかな?」

 清麿が突然発した言葉に、彼女は明らかに鼻白んだ顔をして見せた。

「君は、意味を分かって言っているのか? 分かっていないで、適当なことは言うものじゃないよ」

 げんなりした顔でこんなことを言われるのも、一体何度目だろうか。
 無論、彼女とはそういう関係では無い。清麿自身が強く自覚していることだ。だが、この話でからかうと彼女は面白い反応をする。それを見るのが楽しく、また興味深いと思ってしまうから、ついつい清麿はこの手の話題を彼女に振ってしまうのだ。
 普段は教導役という立場もあって緊張していることも多い彼女に、程よい息抜きも兼ねての軽い冗談だと清麿は内心で言い訳をする。案の定、彼女の眉間の皺も少し緩んでいるように見えた。

「清麿、暇なら君も弾いてみたらどうかな?」
「いや、いいよ。僕は刀で、斬るものだから」
「そうか」

 こうやって誘われるのもこれが最初ではない。断るのも、全く同じ文句だ。そして、彼女はそれ以上深く追求しようとしない。
 刀は刀、人は人。その境界を無闇に越えようとしていないのは、本来なら正しいあり方だ。特段不満に思ったりもしない。ただ、どういうわけか、もっと追求してほしいという自分もいるようだ、と清麿は客観的に自分を見つめていた。
 彼の思いなどつゆ知らず、彼女は今度はピアノに右手だけを置いてゆっくりと主旋律を奏で始めた。後を追って、ぽつりぽつりと雨が落ちるように彼女の歌がゆっくりと紡がれる。
 だが、二度目の歌唱はすぐに途切れて、どういうわけか彼女が睨むようにこちらを見ていた。

「どうせだから、君も歌ったらどうだい」
「ああ。教えるつもりで弾いてくれていたんだね。でも、僕は刀で」
「口があるのに歌わない理由などないよ。ほら」

 隣に来いと手招きされ、強引な人だと思いながら清麿は立ち上がる。
 彼女の隣に並ぶと、黒白の木の板がよく見えた。この一つ一つが違う音を出し、十本の指が動くことで無数の旋律を奏でるのだと彼は知識で理解していても、自分がそれをできるなどとは清麿には到底思えなかった。
 指は刀を握るためにあって、それ以外の意味はない。顕現した直後はそう思っていたし、今も自分が音を紡ぎ出す指を持っているとは思ってない。
 けれども、旋律を紡ぎ出す彼女の細い指に触れるくらいなら──そこまで考えた折、「何ぼーっとしているんだい」と呼びかけられて、清麿はハッとした。

「最初から演奏するから、私の後についてくるといい」
「でも、これは外の国の歌だから言葉が」
「外国の言葉と思わずに、そういう音だと思えばいい。意味など、後からまとめて覚えてしまえばそれで十分さ」

 さくさくと言い切って、彼女は唇を動かす。つられるように、清麿の喉からも掠れた旋律が零れ出た。喋る以外に喉を震わせたのは初めてだ。彼女に寄り添うように、声を震わせたのも。
 ワンフレーズが終わったら、覚えるまで繰り返すと言わんばかりにもう一度伴奏が始まる。

(これは、失恋の歌なんだったよね)

 別れを告げられた誰かが、翌年には違う誰かと過ごすと息巻く歌だと彼女は言った。今はどの部分を歌っているのだろう。別れ話を持ちかけられた所だろうか。それとも、君には騙されないとやり返したところだろうか。
 どちらにせよ、自分はそんなに潔く引き下がるような刀ではないだろうな、と清麿は思う。騙されたと嘆いて次を探すより先に、彼女の手を再度掴むだろう。
 ピアノを演奏する彼女へにこりと笑いかけると、不思議そうに眉根を寄せて彼女は首を傾げた。

「どうかしたのかい、清麿」
「いいや、別に。もう覚えたから、次をお願いしてもいいかな」

 清麿の要望に応えて、彼女が奏でるメロディが変わる。歌の続きを口の端に載せながら、彼は思う。

(去年のクリスマス、僕は君に会った。その次の年も、きっと次の年も、こうして隣にいるんだろうね)

 クリスマスイブの夜は、静かに更けていく。
 一人の人間と物の歌をのせて。
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