更紗本丸
人の体を得て良かったと思うことはいくつかある。
料理を食べること、手足を使って歩くこと、季節を目や鼻で感じられるようになったこと。そして、これもまたその一つだと鶴丸は全身を湯に浸しながら、歓喜の声を漏らす。
「ああ、いい湯だなぁ……」
本丸での一番風呂に入ると、いつも居心地の良さに気の抜けた声が出る。今日は何か入浴剤でも混ぜたのか、ただの無色なお湯ではなく白い濁り湯となっていた。白い肌と白い髪も相まって、鶴丸の姿はほぼ湯船と一体化していた。
熱い湯気が顔にかかり、体にお湯の熱を染みこませていく感覚をじっくり味わっていたい所ではあるが、鶴丸はそういうわけにもいかない理由があった。
「一番乗りできて良かったな、きみもそう思うだろう?」
彼が呼びかけた先、そこではまるで魚でも泳いでるかのようにパシャリと水が跳ねていた。また泳いでるのか、と思い、一度浴槽から立ち上がった鶴丸はザバザバとお湯をかき分けて彼女──主のもとへと向かう。
「こら。いくら本丸の浴槽とは言え、泳ぐものではないと光坊に言われていただろう?」
彼の声に応えるかのように、ザバリとお湯から小さな頭が浮き上がってくる。
長い黒髪はペッタリと肌に張り付き、クリクリとした青の瞳は興奮を浮かべている。そこにいたのは、まだ十かそこらの子供だ。こちらをじっと見つめる双眸には楽しげな光が宿っているものの、肝心の顔に浮かんでいるのは仮面のような無表情であり、見る人によってはその鉄面皮は不機嫌の表れかと思うだろう。
だが、別に彼女は怒っているわけではない。諸処の事情があって、主は表情を浮かべるということができないのだ。だから、鶴丸はいつも彼女の目を見て、そこに浮かび上がる心を読み取るようにしていた。
「髪の毛もまとめないと、傷んでしまうぞ。ほら」
浴槽の縁に引っ掛けられているタオルを手に取り、鶴丸は少女の髪をまとめて掬い取りテキパキと頭の上に纏め上げる。
しかし、彼女はこれをお気に召さなかったようだ。瞳の奥にある彼女の感情は、不服を如実に示していた。ばちゃばちゃと水面を叩き、抗議の意を殊更に強調している。
「きみはすぐに風呂で泳ぎたがるな。どうしてそんなに泳ぎたがるんだ?」
少女は頬をお餅のように膨らませ、鶴丸の手をぐいと取る。そして、その白い掌の上に指を滑らせて文字を綴った。
『およぐ たのしい から』
彼女は表情が強張っているだけでなく、口がもきけない。だから、先ほどから鶴丸はずっと少女に向かって一方的に語りかけていた。口はきけずとも耳は機能している彼女は、こうして言葉で訴えたいときは文字で示すようにしているのだ。
「楽しいって言ってもだ、風呂で泳いだら他の人にぶつかったら危ないって言っているだろう?」
『ここ つる だけ』
彼女が書いた通り、今風呂場にいるのは主と鶴丸だけだ。他に気にするべき他人は存在せず、だから遠慮は無用と彼女は伝えたいらしい。
「あー、まあそうだが……うっぷ」
事実はそうだとしても、半分保護者という立ち位置上否定をせねばと鶴丸が口を開きかけた瞬間、お湯がばしゃりと顔にかけられた。この不意打ちに、鶴丸は言葉を中途で切ることになる。
見事な濡れ鼠と化した鶴丸の視線の先では、主がこちらをじーっと見つめていた。その瞳には明らかに、悪戯っ子の浮かべるにやにやとした笑みが覗いている。
「やったな、そらっ!」
「──!」
やられっぱなしではいられないと、今度は鶴丸がお湯を掬ってばしゃりと彼女にかける。しかし、彼女はその小柄な体を生かしてそそくさとお湯の中に潜ってしまった。
「あ、きみ、ずるいぞ!」
少し離れたところに頭を出した彼女は、ぷかぷかと浴槽を漂っていた木桶を掴む。その中に半ばほどお湯を汲み、少女は遠慮なくその中身を鶴丸にぶちまけた。
先ほどまでの子供が掌で掬ってかけるだけの量とは桁違いのお湯が、鶴丸の全身をびしょ濡れにしていく。白髪からぽたぽたとお湯を垂らし、彼は一瞬浴槽の中で立ち尽くす。が、
「きみは、俺を怒らせるとどうなるか思い知った方が良さそうだな!!」
大人げないと思いつつ、鶴丸は風呂の片隅に浮いていたもう一つの木桶をひっつかむ。彼女も同じ目に遭わせてやろうと首を巡らせた瞬間、今度は直線的な水の奔流──要するに水鉄砲が彼の顔面を直撃した。
「うぶっ」
大した量ではないといえ、それなりのスピードでやってくる水が直撃すれば、息も詰まるし鼻に水も入る。ぶるぶると首を横に振ってどうにか瞼に張り付く水の膜を振り払い、何度かくしゃみをして鼻に入った水を反射的に追い出す。
どうにか平時の自分を取り戻した鶴丸が目にしたのは、主がアヒルのおもちゃを構えてじっとこちらを見ている姿だった。どうやら、あの玩具が水鉄砲にもなっていて、それを鶴丸に向かって噴射したらしい。
「ふっふっふ、その程度で負ける俺と思うなよ……そら、お返しだ!」
大声と共に鶴丸は桶にお湯をなみなみと汲み上げ、ばしゃりと彼女にかける。再び彼女はお湯の中を人魚のように泳いで逃げようとするが、負けじと鶴丸も二杯目を汲み上げた。
「そら、これなら大当たりだろう!!」
潜っていた主が丁度お湯の中から顔を出すタイミングを狙い、鶴丸は汲み上げていたお湯をぶちまける。ばしゃばしゃとお湯が浴槽の中へと流れ落ちる音と共に──不意にがらがらと風呂の引き戸が開く音が、鶴丸の耳に届いた。
外から漂う冷気に気がついた彼は、その場で固まったままぎりぎりと首を動かす。ブリキ細工のようにぎこちなく動いた彼の首は、風呂場の入り口と相対する形で固定された。
「鶴さん……一体、何をしているんだい?」
そこに立っていたのは、青銅色の髪に眼帯をした青年──燭台切光忠だった。この本丸の大黒柱であり、本丸の切り盛りも任されている彼は、お湯の無駄遣いにも主の教育にも人一倍気を遣っている。
そして何より彼は──怒らせると、結構怖い。
「お、おう、光坊。今日は随分と早いな」
「ちょっと虫の知らせがあってね。それで、主と一緒にお風呂の中で大騒ぎしていたのは一体誰かな?」
「いや、それは、まあ、うん。誰だろうなー」
「鶴さん、お風呂場でふざけないようにっていつも言っているよね!?」
予想通り燭台切に雷を落とされ、鶴丸は反省する意を示す代わりにお湯の中に体を沈める。横目で主を見れば、我関せずとばかりに浴槽の片隅で目を瞑ってぶくぶくと泡を作っていた。まるで、ふざけていたのは鶴丸だけだと言わんばかりの顔だ。
「お風呂場は遊び場じゃないと僕らが示さないと、主が悪い真似ばかり覚えてしまうんだよ」
「いや、これは元々だな」
「言い訳はしない」
「はい」
わんわんと響く燭台切光忠の説教にしおらしい顔を見せながら、鶴丸はそれでも思わず表情を緩める。何故なら、彼の後ろをすいーっと泳いでる彼女がとても楽しそうにこちらにやってきて、鶴丸にぺたぺたと触れてきたからだ。唇だけを動かして、「もう一度」と言っている。どうやら、まだ遊び足りないらしい。
「主、光坊が怒るから今日は終いにしよう。風呂をあがってから遊ぼうな」
言いつつ、まとめ上げた髪をすっかり台無しにしてしまった少女の頭を撫でる。濡れた黒髪が指の隙間を通る感触が、何だかとても心地よくて思わず鶴丸は目を細めた。
『つる たのしい?』
「ああ、楽しいとも。きみといると、どんな時だって楽しいさ」
人の身体を得てよかったと、鶴丸は再び思う。こうして彼女に触れ、共に遊び、喜びを分かち合うことができるのだから。
笑えない彼女の分も、鶴丸はにっと口角を上げて笑みを浮かべたのだった。
料理を食べること、手足を使って歩くこと、季節を目や鼻で感じられるようになったこと。そして、これもまたその一つだと鶴丸は全身を湯に浸しながら、歓喜の声を漏らす。
「ああ、いい湯だなぁ……」
本丸での一番風呂に入ると、いつも居心地の良さに気の抜けた声が出る。今日は何か入浴剤でも混ぜたのか、ただの無色なお湯ではなく白い濁り湯となっていた。白い肌と白い髪も相まって、鶴丸の姿はほぼ湯船と一体化していた。
熱い湯気が顔にかかり、体にお湯の熱を染みこませていく感覚をじっくり味わっていたい所ではあるが、鶴丸はそういうわけにもいかない理由があった。
「一番乗りできて良かったな、きみもそう思うだろう?」
彼が呼びかけた先、そこではまるで魚でも泳いでるかのようにパシャリと水が跳ねていた。また泳いでるのか、と思い、一度浴槽から立ち上がった鶴丸はザバザバとお湯をかき分けて彼女──主のもとへと向かう。
「こら。いくら本丸の浴槽とは言え、泳ぐものではないと光坊に言われていただろう?」
彼の声に応えるかのように、ザバリとお湯から小さな頭が浮き上がってくる。
長い黒髪はペッタリと肌に張り付き、クリクリとした青の瞳は興奮を浮かべている。そこにいたのは、まだ十かそこらの子供だ。こちらをじっと見つめる双眸には楽しげな光が宿っているものの、肝心の顔に浮かんでいるのは仮面のような無表情であり、見る人によってはその鉄面皮は不機嫌の表れかと思うだろう。
だが、別に彼女は怒っているわけではない。諸処の事情があって、主は表情を浮かべるということができないのだ。だから、鶴丸はいつも彼女の目を見て、そこに浮かび上がる心を読み取るようにしていた。
「髪の毛もまとめないと、傷んでしまうぞ。ほら」
浴槽の縁に引っ掛けられているタオルを手に取り、鶴丸は少女の髪をまとめて掬い取りテキパキと頭の上に纏め上げる。
しかし、彼女はこれをお気に召さなかったようだ。瞳の奥にある彼女の感情は、不服を如実に示していた。ばちゃばちゃと水面を叩き、抗議の意を殊更に強調している。
「きみはすぐに風呂で泳ぎたがるな。どうしてそんなに泳ぎたがるんだ?」
少女は頬をお餅のように膨らませ、鶴丸の手をぐいと取る。そして、その白い掌の上に指を滑らせて文字を綴った。
『およぐ たのしい から』
彼女は表情が強張っているだけでなく、口がもきけない。だから、先ほどから鶴丸はずっと少女に向かって一方的に語りかけていた。口はきけずとも耳は機能している彼女は、こうして言葉で訴えたいときは文字で示すようにしているのだ。
「楽しいって言ってもだ、風呂で泳いだら他の人にぶつかったら危ないって言っているだろう?」
『ここ つる だけ』
彼女が書いた通り、今風呂場にいるのは主と鶴丸だけだ。他に気にするべき他人は存在せず、だから遠慮は無用と彼女は伝えたいらしい。
「あー、まあそうだが……うっぷ」
事実はそうだとしても、半分保護者という立ち位置上否定をせねばと鶴丸が口を開きかけた瞬間、お湯がばしゃりと顔にかけられた。この不意打ちに、鶴丸は言葉を中途で切ることになる。
見事な濡れ鼠と化した鶴丸の視線の先では、主がこちらをじーっと見つめていた。その瞳には明らかに、悪戯っ子の浮かべるにやにやとした笑みが覗いている。
「やったな、そらっ!」
「──!」
やられっぱなしではいられないと、今度は鶴丸がお湯を掬ってばしゃりと彼女にかける。しかし、彼女はその小柄な体を生かしてそそくさとお湯の中に潜ってしまった。
「あ、きみ、ずるいぞ!」
少し離れたところに頭を出した彼女は、ぷかぷかと浴槽を漂っていた木桶を掴む。その中に半ばほどお湯を汲み、少女は遠慮なくその中身を鶴丸にぶちまけた。
先ほどまでの子供が掌で掬ってかけるだけの量とは桁違いのお湯が、鶴丸の全身をびしょ濡れにしていく。白髪からぽたぽたとお湯を垂らし、彼は一瞬浴槽の中で立ち尽くす。が、
「きみは、俺を怒らせるとどうなるか思い知った方が良さそうだな!!」
大人げないと思いつつ、鶴丸は風呂の片隅に浮いていたもう一つの木桶をひっつかむ。彼女も同じ目に遭わせてやろうと首を巡らせた瞬間、今度は直線的な水の奔流──要するに水鉄砲が彼の顔面を直撃した。
「うぶっ」
大した量ではないといえ、それなりのスピードでやってくる水が直撃すれば、息も詰まるし鼻に水も入る。ぶるぶると首を横に振ってどうにか瞼に張り付く水の膜を振り払い、何度かくしゃみをして鼻に入った水を反射的に追い出す。
どうにか平時の自分を取り戻した鶴丸が目にしたのは、主がアヒルのおもちゃを構えてじっとこちらを見ている姿だった。どうやら、あの玩具が水鉄砲にもなっていて、それを鶴丸に向かって噴射したらしい。
「ふっふっふ、その程度で負ける俺と思うなよ……そら、お返しだ!」
大声と共に鶴丸は桶にお湯をなみなみと汲み上げ、ばしゃりと彼女にかける。再び彼女はお湯の中を人魚のように泳いで逃げようとするが、負けじと鶴丸も二杯目を汲み上げた。
「そら、これなら大当たりだろう!!」
潜っていた主が丁度お湯の中から顔を出すタイミングを狙い、鶴丸は汲み上げていたお湯をぶちまける。ばしゃばしゃとお湯が浴槽の中へと流れ落ちる音と共に──不意にがらがらと風呂の引き戸が開く音が、鶴丸の耳に届いた。
外から漂う冷気に気がついた彼は、その場で固まったままぎりぎりと首を動かす。ブリキ細工のようにぎこちなく動いた彼の首は、風呂場の入り口と相対する形で固定された。
「鶴さん……一体、何をしているんだい?」
そこに立っていたのは、青銅色の髪に眼帯をした青年──燭台切光忠だった。この本丸の大黒柱であり、本丸の切り盛りも任されている彼は、お湯の無駄遣いにも主の教育にも人一倍気を遣っている。
そして何より彼は──怒らせると、結構怖い。
「お、おう、光坊。今日は随分と早いな」
「ちょっと虫の知らせがあってね。それで、主と一緒にお風呂の中で大騒ぎしていたのは一体誰かな?」
「いや、それは、まあ、うん。誰だろうなー」
「鶴さん、お風呂場でふざけないようにっていつも言っているよね!?」
予想通り燭台切に雷を落とされ、鶴丸は反省する意を示す代わりにお湯の中に体を沈める。横目で主を見れば、我関せずとばかりに浴槽の片隅で目を瞑ってぶくぶくと泡を作っていた。まるで、ふざけていたのは鶴丸だけだと言わんばかりの顔だ。
「お風呂場は遊び場じゃないと僕らが示さないと、主が悪い真似ばかり覚えてしまうんだよ」
「いや、これは元々だな」
「言い訳はしない」
「はい」
わんわんと響く燭台切光忠の説教にしおらしい顔を見せながら、鶴丸はそれでも思わず表情を緩める。何故なら、彼の後ろをすいーっと泳いでる彼女がとても楽しそうにこちらにやってきて、鶴丸にぺたぺたと触れてきたからだ。唇だけを動かして、「もう一度」と言っている。どうやら、まだ遊び足りないらしい。
「主、光坊が怒るから今日は終いにしよう。風呂をあがってから遊ぼうな」
言いつつ、まとめ上げた髪をすっかり台無しにしてしまった少女の頭を撫でる。濡れた黒髪が指の隙間を通る感触が、何だかとても心地よくて思わず鶴丸は目を細めた。
『つる たのしい?』
「ああ、楽しいとも。きみといると、どんな時だって楽しいさ」
人の身体を得てよかったと、鶴丸は再び思う。こうして彼女に触れ、共に遊び、喜びを分かち合うことができるのだから。
笑えない彼女の分も、鶴丸はにっと口角を上げて笑みを浮かべたのだった。