縹・月影(清明)本丸短編
「長義さん。夫婦とは何でしょう」
その日の夜、山姥切長義の部屋に訪れた彼の主──月影と普段は名乗る審神者は、唐突にそのようなことを切りだしてきた。
十一月二十二日。世間ではいい夫婦の日などという、ささやかな語呂合わせによる記念日となっている日だ。勿論、長義にとっては全く縁もゆかりもない記念日である。
「いったい、どうして、君はそんなことを急に聞いてくるのかな」
山姥切長義は、この主が苦手だった。
ひょんな縁からこの本丸の刀剣男士になったものの、刀剣男士同士と交流を深めることはできても主の月影とは一線を引いてしまう。だから、彼の返事はやや棘が残るものとなっていた。
「今日はいい夫婦の日だと、包丁藤四郎さんが教えてくれたんです。そして尋ねられたのです。主は人妻だったけれど、いい夫婦だったのか、と」
彼女自身が言っているように、審神者になった当初、彼女は既にどこの誰かも知らないが、とある者の妻であったという。もっとも、元々仮面夫婦的な立場だったこともあり、住む家も異なるようになってから離縁が持ち出されるまでそこまでかからなかったそうだ。
そのことを悲しんでいるわけでもなければ、喜ぶでもなく、月影と名乗るようになったその女は、淡々と受け入れたのだと長義は聞いていた。
さもありなん、と彼は思う。今も、まるでこうして他人事のように己のことを話しているのだから、離縁など彼女にとって些事だったのだろう。
「夫婦ってなんでしょう。それは、どのようなものを指すのでしょうか」
「俺に聞かずとも、そこの辞典でも端末を使ってでも調べればいいよ。余程ちゃんとした答えがあるだろうから」
彼女に対して苦手意識を持っていると自覚しているからだろうか。長義の返事もまた、つれないものだった。
だが、それも仕方ないと言えなくもないことだ。なにせ月影は子供ではなく、年は二十歳をとうに過ぎてそろそろ三十路を迎える頃合いの妙齢の女性である。そんなわかりきった単語の意味を、大真面目にきょとんとした顔で尋ねていい年頃はとうに過ぎていた。
「辞典での意味は存じています。ただ、分からないものでしたから」
部屋に入ってきた主は、長義が長居を許すつもりがないから立ったまま話を続けていた。そこに不快さもなければ、邪険にされているということへの懸念もない。無邪気さ故に信じているのでもなく、ただ何も感じていないかのように彼女は粛々と疑問を言葉にし続けている。
「包丁さんは私を人妻と呼んでいましたが、本当に夫婦の片割れと言っていいものなのでしょうか。未だに私は夫婦だったという実感が持てないのです」
これが本当の子供なら、まだ見た目の可愛らしさに絆されることもあったのかもしれない。だが、彼女ときたら愛想笑いは浮かべてるのにその瞳の奥がまるで空虚なのだ。
言葉を投げかけても、彼女に届いているのか分からない。人との対話でなく、さながら穴とでも話しているかのような気分にさせられる。
(だから、俺はこの主が気に入らないんだ。まるで何も感じてないような顔をする。体だけは大人なくせに中身は童──いや、それ以上に得体が知れない)
ただ、いくら個人的な忌避感は覚えていても主であることに変わりは無い。故に、長義は自分でもとってつけたと思える笑みを顔に浮かべて、
「俺は刀だからね。その手のことはさっぱりだ。他の刀の方が詳しいんじゃないかな」
適当な返事をして、会話を打ち切ってしまった。これ以上話をしたくないと言わんばかりに、長義は「ちょっと外に出る」と言い残して自室を後にする。残された月影は、立ち去る青年の背中にぺこりと頭を下げて引き留めもせずにあっさりと見送った。
シンと静まりかえった部屋に立ち尽くした主は、数分してから漸く歩き出す。その姿はまるで、ようやく自分で動くことを覚えた絡繰りのようにどこか覚束ないものだった。
足袋に包まれた足をぎこちなく動かして、月影は夜の本丸を歩く。時刻は既に九時を過ぎている。まだ晩酌で賑やかにしている者もいれば、早朝からの出陣や掃除当番のために早々に床につくものもいる。まして、今は冬も半ばの頃だ。庭に面した廊下を歩く者など月影以外にほとんどいない。
それでも、彼女は歩みを止めない。生まれた疑問に対する答えを求めて、彼女は行く。誰かに出会ったら、その時にはさっきと同じ問いをしようと決めて。
そして、その機会はすぐに訪れた。
「おや、主。夜の散歩かな」
「石切丸さん。はい、夜の散歩です。あと、人を探してました」
「それはまた、誰をお探しだい?」
月影が出会ったのは、この本丸にいる刀剣男士の一人──石切丸だった。優しげに微笑む彼の周囲の空気は、いつもどこか澄んでいるようだと月影は感じていた。
本丸の刀剣男士の誰からも慕われ、時には相談事を持ちかけられる彼。ならば、この問いにも答えられるのではと月影は唇を開く。
「誰かを探していたわけではありません。誰でも良かったんです。石切丸さん、夫婦って何でしょうか」
突然そのようなことを問われ、石切丸は目を何度か瞬かせる。彼女の問いは大体いつも唐突だ。だから慣れてはいるものの、やはり何も反応せずに済むというわけにはいかない。
月下のもと、じっと石切丸を見つめる彼女の瞳を長義なら空虚と言っただろう。だが、石切丸はそれを無垢だと捉えていた。
「夫婦というものが、今の主の知りたいことなんだね」
「はい」
はてさて、これまたどうしてと内心で石切丸は考える。そして、今朝包丁藤四郎が「今日はいい夫婦の日なんだって」と騒いでいたことを思い返した。
自ら人妻好きを宣言している彼にとって、いい夫婦の日はいい人妻の日のようなものでもあるらしい。ともあれ、それが疑問の発端かと彼は原因を掴み、改めて主を見つめる。
「長義さんは辞書で調べればいいと言いました。けれども、それでは私は、足りないように思いました」
淡々と、彼女は言葉を並べる。その間も、彼女の瞳には疑念を抱いているというのに、恐ろしいくらいまっすぐこちらを見つめていた。
どういう経緯で彼女が審神者になったかを石切丸は知らない。ただ、彼女は体は大人のそれなのに、アンバランスなほど自分がない人物だと彼は感じていた。
優柔不断なのではなく、他人に考えを委託している──とでも言うのだろうか。刀剣男士は物の付喪神であるが、彼女はまるで人なのに物のようだ。誰かに使われるために自分があるかのように在る。
その歪さを危惧した石切丸は、浮かんだ疑問や考えは簡単に手放さないようにと以前彼女に言ったことがあった。その結果、彼女はこうして考えて、石切丸の前に立っている。
「私は夫婦でした。紙に名前を書いて役所という場所に提出し、夫である男性の苗字もいただいていました。ですが、私は元の夫の顔を覚えておりません」
あっけらかんと、彼女は言う。自分の心を持ち合わせていない『物』である彼女にとっては、結婚も離縁も等しく意味のないものだったようだ。
「夫である方の名前も、もう忘れてしまいました。それでも、戸籍上というものの上では私は妻だったそうです」
表情を塵ほども曇らせることなく、相変わらずけろりとした顔で彼女は尋ねる。ただ、その横顔にはほんの僅かとはいえ、疑問を抱き、何かを考えようという意思があることに彼は気がついていた。
「私は──私が、以前作り上げた関係が夫婦であるとは、思わないようです」
「……そうだね。夫婦であるということを他人からも証明してもらうために、主が言うような紙や戸籍というものができたのだろう。それも、たしかに夫婦という関係性を確実なものにしてくれるだろうね。けれども主は、どうやらそれだけでは夫婦というものとは思わないと言っている」
「はい。思わないようです」
「なら、主にとって夫婦と聞いて思い浮かぶものは何だろう」
長話になりそうだと、石切丸は縁側に腰掛けることを勧める。夜の風は少し冷えていて居心地がいいとはとても言えないが、彼女は断ることもなく素直に腰をおろした。
自分が肩にかけていた羽織物を外し、主の細い肩にかけ直してから石切丸も隣に腰掛ける。月影は小さく頭を下げてから、羽織物に手を添え、その温もりを傷一つない肌で感じながら答えを探す。そのために、今まで使われることのなかった自我という名の歯車を回す。
「私にとって、思い浮かぶもの……」
彼女は少しばかり目を泳がせて記憶を振り返る。二十数年の己の軌跡は、ただ茫漠とした靄のようだった。それでも、彼女の中に残っていた物はある。
以前、石切丸が本丸近くの神社に頼まれて、病で寝込んでしまった神主の代理として挙式の手伝いをしたことがあった。
当然、主である彼女もその場に同席していた。真っ白な雪のような着物を着た女性が、微笑みながら隣に立つ男性と共に歩いてくる姿を、彼女はただいつものように、虚ろと他者に言われた瞳で見守っていた。
だが同時にその姿を、その有り様を、単純に──良いと思った。
「夫婦とは共にいて笑いあえる、特別な人です」
錆びた思考の歯車が回る。軋みをあげて、彼女は答えを答えとして紡ぐ。
「私は、そのように──共に幸せと思える者を、夫婦と定義したいと思っているようです。だから、私は夫婦ではなかったかもしれません」
己が幸せだったかという問いに、明確な答えは未だ出せないので完全な回答とは言えない。それでも、自分なりに導き出した結論を飲み込むように、彼女はこくんとぎこちなく頷いた。
「石切丸さんは、どう思いますか」
「そうだね。私も主と同じような意見を持っている」
「なら、これは正しい答えなのでしょうか」
「それは、主が決めることだね。私や他の誰かが決めていいものではないんだよ。それに形だけとはいえ、主もまた夫婦だったのだろうと私は思う」
前言を撤回するような発言に月影はゆっくりと首をかしげる。
相変わらず彼女の瞳は染み一つない白布を思わせる極端な無垢さを秘めたものではあった。そこに少しでも暖かな色が宿ればいいと願い、石切丸は言葉を続ける。
「主の定義を以て、夫婦でないと結論するも良いかもしれないね。ただ、もう少し広い考え方をするのなら、その関係性を良いものと自分が感じるかどうかを大事にしてみる──というのはどうかな」
一言一言噛みしめるように、彼は語る。彼女はパチパチと数度瞬きをして、「自分」と石切丸の言葉を繰り返した。
「なら、私は夫婦でしたがそれを良いものとは思っていなかった、のかもしれません」
続けて、月影は隣に座る石切丸の瞳をじっと見つめて、
「それに私は、貴方のような方と夫婦という関係を作れたら楽しそうだと思っているようです」
突然の告白に石切丸は驚き、丁度隣にある柱にうっかり頭をぶつけそうになった。どうにか一度咳払いをしても気を持ち直してから、石切丸は苦笑と共に彼女に向き直る。
「そ、それは光栄の至りだけれど、あまりみだりにそのようなことを口にしないほうがいいね。誤解されてしまうよ」
「誤解は良くないことですか」
「主も、ありもしないことに心を動かされたくないだろう?」
石切丸の言葉を十全に理解してはいないようだったが、彼女はぎこちなく頷いた。
まるで子供が口にした無邪気の告白を、大人が大真面目に否定しているようだと、石切丸は内心で自分を客観的に捉え直す。妙にどぎまぎしている自分の方が変なのだ、と気持ちを切り替えて彼女を見やれば、案の定とうの本人はけろりとした顔でこちらを見ていた。
「では、ありもしないことではないものにすればいいのですね」
「それは……一体どういうことかな」
「誤解が良くないことなら、誤解でなくすれば良いのかと考えてみましたということです」
にこりと笑う彼女の笑顔は恐らくは子供のそれの筈なのに、どうにも顔立ちは妙齢のものなのでその食い違いにどきりとしてしまう。夫婦になったら、こういうことをすると楽しいかもしれないなどと、さながらままごとの役割のように天真爛漫に彼女は己の考えというものを口にする。
時折こちらを窺うかのような質問に答えを返しつつ、石切丸は自分が彼女に抱くのはただの親愛か庇護欲か、それともまた違う別の感情なのか、と想いを馳せた。
(ともあれ、主がこの日の意味を理屈でなくて心というもので実感できるようになるまでは、私は隣に居続けることとしよう)
結局石切丸はそのような形で思考に結論をつけ、静かな夜の静寂に響く彼女の言葉に耳を傾け続けたのだった。
その日の夜、山姥切長義の部屋に訪れた彼の主──月影と普段は名乗る審神者は、唐突にそのようなことを切りだしてきた。
十一月二十二日。世間ではいい夫婦の日などという、ささやかな語呂合わせによる記念日となっている日だ。勿論、長義にとっては全く縁もゆかりもない記念日である。
「いったい、どうして、君はそんなことを急に聞いてくるのかな」
山姥切長義は、この主が苦手だった。
ひょんな縁からこの本丸の刀剣男士になったものの、刀剣男士同士と交流を深めることはできても主の月影とは一線を引いてしまう。だから、彼の返事はやや棘が残るものとなっていた。
「今日はいい夫婦の日だと、包丁藤四郎さんが教えてくれたんです。そして尋ねられたのです。主は人妻だったけれど、いい夫婦だったのか、と」
彼女自身が言っているように、審神者になった当初、彼女は既にどこの誰かも知らないが、とある者の妻であったという。もっとも、元々仮面夫婦的な立場だったこともあり、住む家も異なるようになってから離縁が持ち出されるまでそこまでかからなかったそうだ。
そのことを悲しんでいるわけでもなければ、喜ぶでもなく、月影と名乗るようになったその女は、淡々と受け入れたのだと長義は聞いていた。
さもありなん、と彼は思う。今も、まるでこうして他人事のように己のことを話しているのだから、離縁など彼女にとって些事だったのだろう。
「夫婦ってなんでしょう。それは、どのようなものを指すのでしょうか」
「俺に聞かずとも、そこの辞典でも端末を使ってでも調べればいいよ。余程ちゃんとした答えがあるだろうから」
彼女に対して苦手意識を持っていると自覚しているからだろうか。長義の返事もまた、つれないものだった。
だが、それも仕方ないと言えなくもないことだ。なにせ月影は子供ではなく、年は二十歳をとうに過ぎてそろそろ三十路を迎える頃合いの妙齢の女性である。そんなわかりきった単語の意味を、大真面目にきょとんとした顔で尋ねていい年頃はとうに過ぎていた。
「辞典での意味は存じています。ただ、分からないものでしたから」
部屋に入ってきた主は、長義が長居を許すつもりがないから立ったまま話を続けていた。そこに不快さもなければ、邪険にされているということへの懸念もない。無邪気さ故に信じているのでもなく、ただ何も感じていないかのように彼女は粛々と疑問を言葉にし続けている。
「包丁さんは私を人妻と呼んでいましたが、本当に夫婦の片割れと言っていいものなのでしょうか。未だに私は夫婦だったという実感が持てないのです」
これが本当の子供なら、まだ見た目の可愛らしさに絆されることもあったのかもしれない。だが、彼女ときたら愛想笑いは浮かべてるのにその瞳の奥がまるで空虚なのだ。
言葉を投げかけても、彼女に届いているのか分からない。人との対話でなく、さながら穴とでも話しているかのような気分にさせられる。
(だから、俺はこの主が気に入らないんだ。まるで何も感じてないような顔をする。体だけは大人なくせに中身は童──いや、それ以上に得体が知れない)
ただ、いくら個人的な忌避感は覚えていても主であることに変わりは無い。故に、長義は自分でもとってつけたと思える笑みを顔に浮かべて、
「俺は刀だからね。その手のことはさっぱりだ。他の刀の方が詳しいんじゃないかな」
適当な返事をして、会話を打ち切ってしまった。これ以上話をしたくないと言わんばかりに、長義は「ちょっと外に出る」と言い残して自室を後にする。残された月影は、立ち去る青年の背中にぺこりと頭を下げて引き留めもせずにあっさりと見送った。
シンと静まりかえった部屋に立ち尽くした主は、数分してから漸く歩き出す。その姿はまるで、ようやく自分で動くことを覚えた絡繰りのようにどこか覚束ないものだった。
足袋に包まれた足をぎこちなく動かして、月影は夜の本丸を歩く。時刻は既に九時を過ぎている。まだ晩酌で賑やかにしている者もいれば、早朝からの出陣や掃除当番のために早々に床につくものもいる。まして、今は冬も半ばの頃だ。庭に面した廊下を歩く者など月影以外にほとんどいない。
それでも、彼女は歩みを止めない。生まれた疑問に対する答えを求めて、彼女は行く。誰かに出会ったら、その時にはさっきと同じ問いをしようと決めて。
そして、その機会はすぐに訪れた。
「おや、主。夜の散歩かな」
「石切丸さん。はい、夜の散歩です。あと、人を探してました」
「それはまた、誰をお探しだい?」
月影が出会ったのは、この本丸にいる刀剣男士の一人──石切丸だった。優しげに微笑む彼の周囲の空気は、いつもどこか澄んでいるようだと月影は感じていた。
本丸の刀剣男士の誰からも慕われ、時には相談事を持ちかけられる彼。ならば、この問いにも答えられるのではと月影は唇を開く。
「誰かを探していたわけではありません。誰でも良かったんです。石切丸さん、夫婦って何でしょうか」
突然そのようなことを問われ、石切丸は目を何度か瞬かせる。彼女の問いは大体いつも唐突だ。だから慣れてはいるものの、やはり何も反応せずに済むというわけにはいかない。
月下のもと、じっと石切丸を見つめる彼女の瞳を長義なら空虚と言っただろう。だが、石切丸はそれを無垢だと捉えていた。
「夫婦というものが、今の主の知りたいことなんだね」
「はい」
はてさて、これまたどうしてと内心で石切丸は考える。そして、今朝包丁藤四郎が「今日はいい夫婦の日なんだって」と騒いでいたことを思い返した。
自ら人妻好きを宣言している彼にとって、いい夫婦の日はいい人妻の日のようなものでもあるらしい。ともあれ、それが疑問の発端かと彼は原因を掴み、改めて主を見つめる。
「長義さんは辞書で調べればいいと言いました。けれども、それでは私は、足りないように思いました」
淡々と、彼女は言葉を並べる。その間も、彼女の瞳には疑念を抱いているというのに、恐ろしいくらいまっすぐこちらを見つめていた。
どういう経緯で彼女が審神者になったかを石切丸は知らない。ただ、彼女は体は大人のそれなのに、アンバランスなほど自分がない人物だと彼は感じていた。
優柔不断なのではなく、他人に考えを委託している──とでも言うのだろうか。刀剣男士は物の付喪神であるが、彼女はまるで人なのに物のようだ。誰かに使われるために自分があるかのように在る。
その歪さを危惧した石切丸は、浮かんだ疑問や考えは簡単に手放さないようにと以前彼女に言ったことがあった。その結果、彼女はこうして考えて、石切丸の前に立っている。
「私は夫婦でした。紙に名前を書いて役所という場所に提出し、夫である男性の苗字もいただいていました。ですが、私は元の夫の顔を覚えておりません」
あっけらかんと、彼女は言う。自分の心を持ち合わせていない『物』である彼女にとっては、結婚も離縁も等しく意味のないものだったようだ。
「夫である方の名前も、もう忘れてしまいました。それでも、戸籍上というものの上では私は妻だったそうです」
表情を塵ほども曇らせることなく、相変わらずけろりとした顔で彼女は尋ねる。ただ、その横顔にはほんの僅かとはいえ、疑問を抱き、何かを考えようという意思があることに彼は気がついていた。
「私は──私が、以前作り上げた関係が夫婦であるとは、思わないようです」
「……そうだね。夫婦であるということを他人からも証明してもらうために、主が言うような紙や戸籍というものができたのだろう。それも、たしかに夫婦という関係性を確実なものにしてくれるだろうね。けれども主は、どうやらそれだけでは夫婦というものとは思わないと言っている」
「はい。思わないようです」
「なら、主にとって夫婦と聞いて思い浮かぶものは何だろう」
長話になりそうだと、石切丸は縁側に腰掛けることを勧める。夜の風は少し冷えていて居心地がいいとはとても言えないが、彼女は断ることもなく素直に腰をおろした。
自分が肩にかけていた羽織物を外し、主の細い肩にかけ直してから石切丸も隣に腰掛ける。月影は小さく頭を下げてから、羽織物に手を添え、その温もりを傷一つない肌で感じながら答えを探す。そのために、今まで使われることのなかった自我という名の歯車を回す。
「私にとって、思い浮かぶもの……」
彼女は少しばかり目を泳がせて記憶を振り返る。二十数年の己の軌跡は、ただ茫漠とした靄のようだった。それでも、彼女の中に残っていた物はある。
以前、石切丸が本丸近くの神社に頼まれて、病で寝込んでしまった神主の代理として挙式の手伝いをしたことがあった。
当然、主である彼女もその場に同席していた。真っ白な雪のような着物を着た女性が、微笑みながら隣に立つ男性と共に歩いてくる姿を、彼女はただいつものように、虚ろと他者に言われた瞳で見守っていた。
だが同時にその姿を、その有り様を、単純に──良いと思った。
「夫婦とは共にいて笑いあえる、特別な人です」
錆びた思考の歯車が回る。軋みをあげて、彼女は答えを答えとして紡ぐ。
「私は、そのように──共に幸せと思える者を、夫婦と定義したいと思っているようです。だから、私は夫婦ではなかったかもしれません」
己が幸せだったかという問いに、明確な答えは未だ出せないので完全な回答とは言えない。それでも、自分なりに導き出した結論を飲み込むように、彼女はこくんとぎこちなく頷いた。
「石切丸さんは、どう思いますか」
「そうだね。私も主と同じような意見を持っている」
「なら、これは正しい答えなのでしょうか」
「それは、主が決めることだね。私や他の誰かが決めていいものではないんだよ。それに形だけとはいえ、主もまた夫婦だったのだろうと私は思う」
前言を撤回するような発言に月影はゆっくりと首をかしげる。
相変わらず彼女の瞳は染み一つない白布を思わせる極端な無垢さを秘めたものではあった。そこに少しでも暖かな色が宿ればいいと願い、石切丸は言葉を続ける。
「主の定義を以て、夫婦でないと結論するも良いかもしれないね。ただ、もう少し広い考え方をするのなら、その関係性を良いものと自分が感じるかどうかを大事にしてみる──というのはどうかな」
一言一言噛みしめるように、彼は語る。彼女はパチパチと数度瞬きをして、「自分」と石切丸の言葉を繰り返した。
「なら、私は夫婦でしたがそれを良いものとは思っていなかった、のかもしれません」
続けて、月影は隣に座る石切丸の瞳をじっと見つめて、
「それに私は、貴方のような方と夫婦という関係を作れたら楽しそうだと思っているようです」
突然の告白に石切丸は驚き、丁度隣にある柱にうっかり頭をぶつけそうになった。どうにか一度咳払いをしても気を持ち直してから、石切丸は苦笑と共に彼女に向き直る。
「そ、それは光栄の至りだけれど、あまりみだりにそのようなことを口にしないほうがいいね。誤解されてしまうよ」
「誤解は良くないことですか」
「主も、ありもしないことに心を動かされたくないだろう?」
石切丸の言葉を十全に理解してはいないようだったが、彼女はぎこちなく頷いた。
まるで子供が口にした無邪気の告白を、大人が大真面目に否定しているようだと、石切丸は内心で自分を客観的に捉え直す。妙にどぎまぎしている自分の方が変なのだ、と気持ちを切り替えて彼女を見やれば、案の定とうの本人はけろりとした顔でこちらを見ていた。
「では、ありもしないことではないものにすればいいのですね」
「それは……一体どういうことかな」
「誤解が良くないことなら、誤解でなくすれば良いのかと考えてみましたということです」
にこりと笑う彼女の笑顔は恐らくは子供のそれの筈なのに、どうにも顔立ちは妙齢のものなのでその食い違いにどきりとしてしまう。夫婦になったら、こういうことをすると楽しいかもしれないなどと、さながらままごとの役割のように天真爛漫に彼女は己の考えというものを口にする。
時折こちらを窺うかのような質問に答えを返しつつ、石切丸は自分が彼女に抱くのはただの親愛か庇護欲か、それともまた違う別の感情なのか、と想いを馳せた。
(ともあれ、主がこの日の意味を理屈でなくて心というもので実感できるようになるまでは、私は隣に居続けることとしよう)
結局石切丸はそのような形で思考に結論をつけ、静かな夜の静寂に響く彼女の言葉に耳を傾け続けたのだった。