若苗の話
膝丸には、天敵がいた。
それは毎朝毎朝、彼の枕元にやってくる。
夏にはそれも弱くなるが、冬となるとそれを倒すには並々ならぬ気力が必要だ。特に遠征が夜まで長引いた日などは、それに負けてしまうことも多い。
それの力をより強めてしまうもの──暖かな布団は、冬の夜には必需品だ。必然的に膝丸は最大勢力のそれと、朝から戦うことを余儀なくされる。
──それの名は、眠気という。
そして今日もまた、枕元にあるけたたましい目覚ましが彼に開戦の幕開けを告げる。が、布団から伸びた逞しい彼の手は、遠慮なく目覚まし時計のスイッチを勢いよく叩いた。
リン、という虚しい音と同時に鳴り止む目覚まし時計。単純な停止ではなく、最早ボタンが陥没してしまっているほどの勢いで押されたそれは、再起不能と言っても差し障りないだろう。
朝の微睡みを邪魔するものは無くなり、膝丸の手は暖かな布団の中にずるずると戻っていった。
(兄者もいないのだ……もう少し、いいだろう)
眠気との戦いに最初から白旗を揚げた理由の一つに、敬愛する兄の不在がある。普段は膝丸の隣で寝ていることが多い髭切は、今日は別室──正しく言うならばそこが髭切の部屋だが──そこで休んでいる。
兄がいるならだらしない姿を見せるわけにはいかない、と思うこともあるが、彼がいないとなればもう五分、十分と甘い誘惑につい耳を傾けてしまうのも仕方ないというものだった。
(それに今朝帰ってきたのは丑三つ時であったからな……。今しばらく体を休めねば、体調を崩すというものだ)
遠征が予想外に長引いた膝丸の部隊が本丸に帰ってきたのは、日付がとうに変わってからだ。いつもの時間に起きようとすれば当然、睡眠量が足りずに尋常でない眠気に襲われることになる。
(今日の遠征ではよい土産が手に入ったのだったな。寝ぼけ眼で渡しては、源氏の重宝として恥というものだ)
などと、言い訳がましいことを考えつつ、膝丸は布団の海に沈んでいく。このまま夢の世界に旅立てば、と思うが現実はそれほど甘くなかった。
スルスルと襖が開く音が眠りかけている彼の耳に届く。誰かが、この部屋に入ってきた。
「膝丸様、朝ですよ」
淑やかな女性の声が、布団に籠もっている彼にはくぐもって聞こえた。この声音は、先ほど土産を渡したいと思いを馳せていた相手でもある。
トントン、と畳の上を歩く軽い足音に続いて、自分の眠る布団の側でしゃがみこむ衣摺れの音を膝丸は耳にする。
「あ、また目覚まし様を止めているんですね。こんなに強く押しては、目覚まし様が痛いって言ってますよ」
うんしょ、という声は、膝丸が凹ませたらしい目覚ましのスイッチを元に戻そうとする彼女の掛け声だろう。だが、陥没した押しボタンは、どうやら彼女の細腕では戻せなかったらしい。
「膝丸様、目覚まし様を困らせてはいけません。起きてくださいっ」
目覚ましと戦うのをやめた彼女は、今度こそと膝丸の布団を小さな手でゆさゆさ揺さぶる。少女の細腕では冬の分厚い布団を力一杯押しても、大して揺さぶられるわけではないのだが、振動はたしかに膝丸に届いていた。
ゆさゆさ、ゆさゆさ。可愛らしくいじらしいとも思える所作だが、膝丸の快眠のためには少しばかり煩わしくもある。
「もう少し、寝かせてほしい……昨日は、遅かったのだ……」
「そ、そうなのですか? どうしましょう……」
元が驚くほど純粋な彼女だ。膝丸の抗弁を聞いてしまうと途端に、こうして揺り起こすことに罪悪感を覚えたのだろう。
もし、これが五虎退や物吉のような本丸の仲間なら膝丸は何も言わずに再び眠っていた。だが、彼女は違う。憎からず思い、庇護したいという感情がいつしか別の熱を持った思いに変わった相手である。簡潔に言うなら恋慕を抱く娘なのだ。
だから、蛇は自分のねぐらに潜り込んだ相手を逃そうとはしない。ただでさえ、眠気が彼の正常な思考を鈍らせていたということもある。
「……添い寝を、してはくれないか?」
「え、はい……え?」
思わず勢いに任せて頷いた彼女が、何を頼まれたのか理解して慌てふためくものの時既に遅し。
布団から伸びた膝丸の腕は、彼女の細く柔らかな白い腕をしっかと掴み、そのままずるずると布団の中に引きずり込んでしまった。
「あの、膝丸様、二人では余計狭くなって寝苦しいのではありませんか」
「いや、こちらの方がいい」
「きゃっ」
小さな悲鳴を彼女があげるのも致し方のないこと。少女の細腕をつかんでいた膝丸の手が彼女の背に回り、ぎゅうと力を入れて彼の体へと抱き寄せたからだ。
外気で冷えていた彼女の体を、布団の中で温まった体に押しつける。自分の熱を分け与えるように、柔く心地よい肌に頬をすり寄せ、枕の代わりとばかりに顔を埋める。
早朝でまだ着替えも済ませていない彼女は、寝間着姿でここに来たようだ。薄手の布越しに伝わる人肌の熱が、ただの枕とは異なる極上の眠気を彼にもたらす。
「膝丸様、あの、私はどうすれば」
しどろもどろになっている彼女の声が、徐々に遠くなる。恐る恐る自分の背に回る小さな手の感触を感じつつ、膝丸は今度こそ二度目の眠りへと落ちていった。
「それで、お前はずっとそうして、一時 以上も、寝ていたわけだ」
「……兄者、たしかに俺は日が昇ってからも眠ってはいたが、床に入る時間は遅かったわけでだな」
「うんうん。でも、あの子を後生大事に抱えながら寝てた理由にはならないよねえ」
そう言われては、膝丸もぐうの音も出ない。ハッと目を覚ました時には、すでに時計の針は十をとうの昔に過ぎた位置を指していた。
加えて、妙に柔らかいものに顔を埋めていると気がつき、快眠のおかげで眠気が吹き飛び、理性を取り戻した膝丸は羞恥で飛び起きる羽目になった。
「まさか、あの子の胸に顔を埋めて寝てるなんてねえ」
「兄者……。それは、言わないでくれ……」
半分寝ぼけ眼とはいえ、確信犯で仕出かしたということは事実。膝丸は自分と一緒に眠ってくれた彼女を揺り起こし、朝から畳に額をつけて詫びることになった。当の本人が「気にしていないので、大丈夫です」と言ってくれたのがせめてもの救いだろうか。
だが、その一部始終を、様子を見に来た髭切に発見されたせいで、膝丸は二重の意味で穴にあったら入りたくなってしまっていた。昼が過ぎてもこうして自室でからかわれるというのは、最早羞恥の生き地獄と言えるだろう。
「それで、どうだったんだい? 彼女の胸の中で十分休めた?」
「ああ。それはまるで極上の羽布団のような寝心地で……いや、そうではなくてだな!」
にこにこ微笑む髭切の様子は、楽しんでいるというのが丸わかりだった。膝丸としてはさっさとこの話題から離れたいのに、なかなかどうして兄は自分の事情などお構いなしに何度も話題にし続けている。
「……ともかく、休むことはできた。それは確かだ」
「うんうん。それなら良かったんじゃない? 彼女も休めているか、気にしていたようだったから。目が覚めたなら、そこにある遠征の土産物でも渡してきたら?」
言いつつ、髭切は膝丸の部屋の文机に置いてあるものを指す。
そこには、どこにでもある透明な瓶に挿された一輪の椿があった。遠征帰りに膝丸が手折ったものでもあり、すぐに枯れぬように少しばかり膝丸の霊力が込められたものだった。
白い肌の彼女に、真っ赤な椿はよく似合うだろう。そう思ったら自然と、彼の手が動いてしまっていたのだ。
「彼女、まだ気がついてなかったようだよ」
「あ、ああ。すまない兄者。しばし席を立つ」
「はいはい、ごゆっくり」
にこにこと微笑む兄にひらひらと手を振られて見送られ、膝丸は一輪の紅を手に彼女のもとに向かう。本丸は然して広いわけでもない。廊下を数本巡れば、すぐに黒髪に白肌の彼女が目に入った。
「──っ」
少女の名を呼ぶと、嬉しそうに目を輝かせて彼女は振り向く。 先ほどのことを思い出して少しばかり罪悪感を覚えながら、膝丸はずいと椿を差し出した。
「今朝はすまなかった。……君に似合うと思って摘んできたものだ。詫びにもならないと思うが」
少女の丸い瞳が大きく見開かれ、その中に彼の薄緑の髪と差し出した一輪が映し出されるのが膝丸にもよく見えた。
気にしていないのに、と言わんばかりにふるふると首を横に振った少女は、嬉しそうにはにかみつつ細い指で小さな椿を受け取る。手袋に包まれた彼の指が微かに彼女に触れるだけで、心の臓が跳ねたように鼓動が五月蠅くなっていく。
「ありがとうございます、膝丸様」
何もかも許すかのような彼女の微笑は、夢見心地の時に見たものよりも尚鮮やかに膝丸の心に刻まれる。
高揚のあまり、自分の後ろに舞い散ってしまった桜に気がつかれなければ良いのだがと願いつつ、膝丸は澄ました顔で彼女との穏やかなひとときを楽しんだのだった。
それは毎朝毎朝、彼の枕元にやってくる。
夏にはそれも弱くなるが、冬となるとそれを倒すには並々ならぬ気力が必要だ。特に遠征が夜まで長引いた日などは、それに負けてしまうことも多い。
それの力をより強めてしまうもの──暖かな布団は、冬の夜には必需品だ。必然的に膝丸は最大勢力のそれと、朝から戦うことを余儀なくされる。
──それの名は、眠気という。
そして今日もまた、枕元にあるけたたましい目覚ましが彼に開戦の幕開けを告げる。が、布団から伸びた逞しい彼の手は、遠慮なく目覚まし時計のスイッチを勢いよく叩いた。
リン、という虚しい音と同時に鳴り止む目覚まし時計。単純な停止ではなく、最早ボタンが陥没してしまっているほどの勢いで押されたそれは、再起不能と言っても差し障りないだろう。
朝の微睡みを邪魔するものは無くなり、膝丸の手は暖かな布団の中にずるずると戻っていった。
(兄者もいないのだ……もう少し、いいだろう)
眠気との戦いに最初から白旗を揚げた理由の一つに、敬愛する兄の不在がある。普段は膝丸の隣で寝ていることが多い髭切は、今日は別室──正しく言うならばそこが髭切の部屋だが──そこで休んでいる。
兄がいるならだらしない姿を見せるわけにはいかない、と思うこともあるが、彼がいないとなればもう五分、十分と甘い誘惑につい耳を傾けてしまうのも仕方ないというものだった。
(それに今朝帰ってきたのは丑三つ時であったからな……。今しばらく体を休めねば、体調を崩すというものだ)
遠征が予想外に長引いた膝丸の部隊が本丸に帰ってきたのは、日付がとうに変わってからだ。いつもの時間に起きようとすれば当然、睡眠量が足りずに尋常でない眠気に襲われることになる。
(今日の遠征ではよい土産が手に入ったのだったな。寝ぼけ眼で渡しては、源氏の重宝として恥というものだ)
などと、言い訳がましいことを考えつつ、膝丸は布団の海に沈んでいく。このまま夢の世界に旅立てば、と思うが現実はそれほど甘くなかった。
スルスルと襖が開く音が眠りかけている彼の耳に届く。誰かが、この部屋に入ってきた。
「膝丸様、朝ですよ」
淑やかな女性の声が、布団に籠もっている彼にはくぐもって聞こえた。この声音は、先ほど土産を渡したいと思いを馳せていた相手でもある。
トントン、と畳の上を歩く軽い足音に続いて、自分の眠る布団の側でしゃがみこむ衣摺れの音を膝丸は耳にする。
「あ、また目覚まし様を止めているんですね。こんなに強く押しては、目覚まし様が痛いって言ってますよ」
うんしょ、という声は、膝丸が凹ませたらしい目覚ましのスイッチを元に戻そうとする彼女の掛け声だろう。だが、陥没した押しボタンは、どうやら彼女の細腕では戻せなかったらしい。
「膝丸様、目覚まし様を困らせてはいけません。起きてくださいっ」
目覚ましと戦うのをやめた彼女は、今度こそと膝丸の布団を小さな手でゆさゆさ揺さぶる。少女の細腕では冬の分厚い布団を力一杯押しても、大して揺さぶられるわけではないのだが、振動はたしかに膝丸に届いていた。
ゆさゆさ、ゆさゆさ。可愛らしくいじらしいとも思える所作だが、膝丸の快眠のためには少しばかり煩わしくもある。
「もう少し、寝かせてほしい……昨日は、遅かったのだ……」
「そ、そうなのですか? どうしましょう……」
元が驚くほど純粋な彼女だ。膝丸の抗弁を聞いてしまうと途端に、こうして揺り起こすことに罪悪感を覚えたのだろう。
もし、これが五虎退や物吉のような本丸の仲間なら膝丸は何も言わずに再び眠っていた。だが、彼女は違う。憎からず思い、庇護したいという感情がいつしか別の熱を持った思いに変わった相手である。簡潔に言うなら恋慕を抱く娘なのだ。
だから、蛇は自分のねぐらに潜り込んだ相手を逃そうとはしない。ただでさえ、眠気が彼の正常な思考を鈍らせていたということもある。
「……添い寝を、してはくれないか?」
「え、はい……え?」
思わず勢いに任せて頷いた彼女が、何を頼まれたのか理解して慌てふためくものの時既に遅し。
布団から伸びた膝丸の腕は、彼女の細く柔らかな白い腕をしっかと掴み、そのままずるずると布団の中に引きずり込んでしまった。
「あの、膝丸様、二人では余計狭くなって寝苦しいのではありませんか」
「いや、こちらの方がいい」
「きゃっ」
小さな悲鳴を彼女があげるのも致し方のないこと。少女の細腕をつかんでいた膝丸の手が彼女の背に回り、ぎゅうと力を入れて彼の体へと抱き寄せたからだ。
外気で冷えていた彼女の体を、布団の中で温まった体に押しつける。自分の熱を分け与えるように、柔く心地よい肌に頬をすり寄せ、枕の代わりとばかりに顔を埋める。
早朝でまだ着替えも済ませていない彼女は、寝間着姿でここに来たようだ。薄手の布越しに伝わる人肌の熱が、ただの枕とは異なる極上の眠気を彼にもたらす。
「膝丸様、あの、私はどうすれば」
しどろもどろになっている彼女の声が、徐々に遠くなる。恐る恐る自分の背に回る小さな手の感触を感じつつ、膝丸は今度こそ二度目の眠りへと落ちていった。
「それで、お前はずっとそうして、
「……兄者、たしかに俺は日が昇ってからも眠ってはいたが、床に入る時間は遅かったわけでだな」
「うんうん。でも、あの子を後生大事に抱えながら寝てた理由にはならないよねえ」
そう言われては、膝丸もぐうの音も出ない。ハッと目を覚ました時には、すでに時計の針は十をとうの昔に過ぎた位置を指していた。
加えて、妙に柔らかいものに顔を埋めていると気がつき、快眠のおかげで眠気が吹き飛び、理性を取り戻した膝丸は羞恥で飛び起きる羽目になった。
「まさか、あの子の胸に顔を埋めて寝てるなんてねえ」
「兄者……。それは、言わないでくれ……」
半分寝ぼけ眼とはいえ、確信犯で仕出かしたということは事実。膝丸は自分と一緒に眠ってくれた彼女を揺り起こし、朝から畳に額をつけて詫びることになった。当の本人が「気にしていないので、大丈夫です」と言ってくれたのがせめてもの救いだろうか。
だが、その一部始終を、様子を見に来た髭切に発見されたせいで、膝丸は二重の意味で穴にあったら入りたくなってしまっていた。昼が過ぎてもこうして自室でからかわれるというのは、最早羞恥の生き地獄と言えるだろう。
「それで、どうだったんだい? 彼女の胸の中で十分休めた?」
「ああ。それはまるで極上の羽布団のような寝心地で……いや、そうではなくてだな!」
にこにこ微笑む髭切の様子は、楽しんでいるというのが丸わかりだった。膝丸としてはさっさとこの話題から離れたいのに、なかなかどうして兄は自分の事情などお構いなしに何度も話題にし続けている。
「……ともかく、休むことはできた。それは確かだ」
「うんうん。それなら良かったんじゃない? 彼女も休めているか、気にしていたようだったから。目が覚めたなら、そこにある遠征の土産物でも渡してきたら?」
言いつつ、髭切は膝丸の部屋の文机に置いてあるものを指す。
そこには、どこにでもある透明な瓶に挿された一輪の椿があった。遠征帰りに膝丸が手折ったものでもあり、すぐに枯れぬように少しばかり膝丸の霊力が込められたものだった。
白い肌の彼女に、真っ赤な椿はよく似合うだろう。そう思ったら自然と、彼の手が動いてしまっていたのだ。
「彼女、まだ気がついてなかったようだよ」
「あ、ああ。すまない兄者。しばし席を立つ」
「はいはい、ごゆっくり」
にこにこと微笑む兄にひらひらと手を振られて見送られ、膝丸は一輪の紅を手に彼女のもとに向かう。本丸は然して広いわけでもない。廊下を数本巡れば、すぐに黒髪に白肌の彼女が目に入った。
「──っ」
少女の名を呼ぶと、嬉しそうに目を輝かせて彼女は振り向く。 先ほどのことを思い出して少しばかり罪悪感を覚えながら、膝丸はずいと椿を差し出した。
「今朝はすまなかった。……君に似合うと思って摘んできたものだ。詫びにもならないと思うが」
少女の丸い瞳が大きく見開かれ、その中に彼の薄緑の髪と差し出した一輪が映し出されるのが膝丸にもよく見えた。
気にしていないのに、と言わんばかりにふるふると首を横に振った少女は、嬉しそうにはにかみつつ細い指で小さな椿を受け取る。手袋に包まれた彼の指が微かに彼女に触れるだけで、心の臓が跳ねたように鼓動が五月蠅くなっていく。
「ありがとうございます、膝丸様」
何もかも許すかのような彼女の微笑は、夢見心地の時に見たものよりも尚鮮やかに膝丸の心に刻まれる。
高揚のあまり、自分の後ろに舞い散ってしまった桜に気がつかれなければ良いのだがと願いつつ、膝丸は澄ました顔で彼女との穏やかなひとときを楽しんだのだった。