若苗の話

 びゅおおおという強い風に煽られて、薄緑の髪をした青年──膝丸の長く伸ばされた片側の前髪が乱暴に乱される。鬱陶しそうにそれを払いながら、膝丸は風に負けないように声を張り上げた。

「──! ──!」

 しかし彼の声は風に攫われてしまい、かき消されてしまう。
 膝丸は今、本丸の庭の中を雨風に打たれながら歩き回っていた。今日がひどい嵐になると聞いたのは昨晩のこと。探し人である彼女にも、そのことは伝えてある。
 だというのに、当日の朝になって膝丸が彼女を起こしにきたら布団はもぬけの殻。部屋のどこを探しても見当たらないという始末だ。
 この風雨の中、外にいるのではないかと肝を冷やした膝丸はこうして庭や畑を探し回る羽目になった。

「一体どこにいるんだ、君は……」

 それなりの広さの畑をざっと見渡してみるものの、少女の姿は見当たらない。既に嵐が近づく予兆として、強い風と横殴りの雨が降り始めていた。この嵐の中で濡れそぼって立っているのではないかと考えてしまうと、身を斬られるよりも尚苦しい思いがこみ上げてくる。
 彼女と出会ってからそれなりの月日を経て膝丸が得た思いは、ただの保護欲だけではなくなっている。そのことを薄ら自覚しているからこそ、彼女が手元にいないことがどうにも不安をかき立ててしまう。もしかしたら、嵐の中で怪我を負って動けないのではないか。或いは、体を壊して倒れているのではないか。嫌な予想ばかり次から次へと浮かんでしまい、膝丸はかぶりを振ってそれらの悲観的な展望を振りほどこうとした。

「入れ違いになって部屋に戻っているかもしれぬな。今一度確認を──」

 言いつつ、膝丸が踵を返しかけたときだった。彼の耳が、にゃあという小さな獣の鳴き声を拾い上げる。

「……猫? こんな嵐の日に?」

 直感がそこに向かえと彼の中で囁いている。その声に従って、膝丸は再び畑へと目を凝らした。よくよく見てみると畑の畝ではなく、その縁を囲むように作られた植木の隅が不自然に盛り上がっている。雨に煙っているせいで、今の今まで気がつくことができなかったようだ。
 どういうわけか、そこからにゃあにゃあという鳴き声が聞こえている。何事かと思い近寄り、その不自然な盛り上がりの正体に気がついた膝丸は目を丸くした。

「君は一体ここで何をしているんだ?」

 膝丸の探し人である少女が、寝間着に上着をつっかけただけの姿でしゃがみこんでいたからだ。あろうことか、靴も履いていない素足の状態である。おかげで、彼女の白い足は泥ですっかり汚れてしまっていた。
 少女の白魚のような腕の中には、鳴き声の正体である真っ黒な子猫がうずくまっていた。濡れた毛のせいか、目ばかりやたら大きく見えてしまっており、みすぼらしさが強調されている。
 何時間もそうしていたのだろう。少女の長い黒髪はびっしょりと濡れており、寝間着も肌に貼り付くほど水気を吸ってしまっている。寝間着の隙間から見える肌は見なかったことにするため、膝丸は一度ぎゅっと目を瞑った。自身の煩悩の浅はかさは、今この場において最も不要なものだ。
 そんな彼の思いなどつゆとも知らず、膝丸に気がついた彼女は慌てた様子で、

「えっと、実はこの子、時々お家のお庭に遊びに来ている子なんです。今日は嵐になると聞いて心配になって」
「そういうことを訊いているのではない。君はどうして、その猫を抱えたまま、ここでうずくまっているのかと訊いているんだ」

 できるだけ怖がられまいと、膝丸は声の調子を極力穏やかにしようと務めてはみた。が、やはり叱られたと思ったのか、少女はしゅんとして、

「そ、それは……膝丸様が、私以外のものを勝手に部屋に入れてはいけないとこの前仰っていたので」

 そういえば以前そのようなことも言ったな、と膝丸は思い返す。
 目の前の少女は、膝丸にとっては主ではない。彼の主は別の人物だ。だが、諸々の事情が重なり、主が保護して様子を見ているのがこの娘であり、その世話を任されているのが膝丸というわけだった。
 彼女はあまり体が強い方では無い。正確に言うならば、厄介な体質のせいで健康を保ちにくいと言える。
 簡単に言うと、彼女はあやかしや妖怪のような目に見えない厄介な物を寄せやすい体質らしい。迂闊に不要な物を近づければ、そこに憑いているあれやこれやを引き寄せて体調を崩してしまう。あやかし退治の逸話がある彼が少女の世話役をしているのは、その体質も理由の一つだった。
 だが世間知らずの彼女は、あれこれと色んな物に興味を持って知らぬ間に雑多な物を部屋に持ち込もうとする。いたちごっこを数ヶ月続けることになった結果、細かい指示を出すよりは十把一絡げに持ち込み禁止にしてしまった方がよいと、膝丸がそのように言いつけたのだった。

「だからといって、君が外にいればいいというものではないだろう。このままでは風邪をひくし、何より危険なのだぞ」
「はい、存じております。でも、嵐の日には大事なものをしまうのだと、膝丸様は仰ってました。この子猫もしまっていいですか?」

 問われて、膝丸は自分の眉間に皺が刻まれていくのを実感する。
 数秒の逡巡を経た後、彼はしゃがんで黒猫と相対した。雨で濡れた哀れな獣は、か細い鳴き声で今夜の宿を膝丸に求めている。魔を退ける刀としての逸話も持つ彼が近づいても逃げようとしないということは、あやかしの類ではないと考えていいだろう。

「わかった。だが、しまわれるのは子猫だけではないぞ」
「はい?」
「君もだ。まったく、このまま見つからなかったらどうするつもりだったのだ」

 言いつつ、膝丸は慣れた手つきで彼女を抱え上げる。何かと倒れ込むことが多い彼女を抱えるのは、すっかり慣れっこになっていた。暢気な少女は「よかったですね」と言いながら、黒猫に話しかけている。その笑顔ときたら、雨と泥で塗れていても花のように可憐なものだ──と思うのは、憎からず思っている相手だからだろうか。
 ともかく、怪我をしていなくてよかった。少しばかり考えてしまった最悪の予想が外れたことに安堵して、膝丸は部屋へと足を急がせた。


***

 部屋に戻った膝丸は、びしょびしょになった少女に着替えを言いつけた。ならばその代わりにと、彼女の懇願を受けて彼は黒猫に湯浴みをすることになってしまった。部屋から出てすぐの浴場で丸洗いされた子猫は、膝丸を親の敵か何かのようにあらん限りの抵抗をし、敵わないと分かればまるでこの世の終わりが訪れたかのような鳴き声をあげた。
 それでも、どうにか数本のひっかき傷と共に猫を洗い終えた彼は、タオルで水気を丹念に拭き取り、どうにか部屋にあげても構わないほどには綺麗にすることに成功した。

(一体俺は何をしているのだ……)

 猫を抱えながら、自問自答をしても返ってくるのはいまだ抵抗を続ける子猫の蹴りだけである。
 まったく懐く様子のない子猫と共に、膝丸は少女に確認をとってから部屋の襖を開ける。

「膝丸様。猫の体は温まりましたか?」
「ああ。十二分に──」

 少女の部屋に入った膝丸はそこまで言いかけて、自分の前にある光景を目にして二、三度瞬きをする。

「あの、どうかされましたか」
「何故、俺の上着を羽織っているのだ」

 少女は濡れた寝間着を脱いで、いつものように着物を軽く腰紐で縛っていた。膝丸がいなかったので、その結び目が少し緩いのは目のやり場に困るが今は仕方ない。
 問題は、彼女が膝丸が置いておいた戦装束の上着部分を、自分の肩に羽織っていることだ。

「私も膝丸様にしまわれることになるということでしたので……。膝丸様がいなかったので、代わりに膝丸様の上着の中にしまわれることにしました」

 世間知らずの彼女は、大真面目にそのような返事をした。どうやら嵐の日に物をしまう、という言葉を額面通りに受け取っているらしい。
 思わず肩の力が抜けて、膝丸は長いため息を吐く。隙ありとばかりに子猫は膝丸の腕から逃げ出し、少女の側で早速彼女にじゃれつき始めた。

「俺が言っていた『しまう』というのは、雨風のあたらぬ安全な場所に置いておくということだ」
「でも、こうしていれば雨風が来ても大丈夫です」

 これまた大真面目な顔で、少女は膝丸の上着を頭まで引っ張り上げて被る。これでどうだと言わんばかりに少しばかり得意げな顔は、まるで童のようである。
 苦笑しながらも、おかしな頭巾のようになっている上着を彼女から取り返し、膝丸は袖を通した。「あっ」という小さな抗議の返事代わりに、少女の頭を風呂の湯で少し濡れた手で撫でる。

「君は俺がついていれば、何も恐れることはない」

 少女は大きな瞳を何度か瞬かせたあと、ぎこちなく頷く。それでも彼女の目からは未だ拭えぬ不安が影を潜めていたことに、膝丸はまだ気がついていなかった。



それから数時間。
 膝丸は子猫と遊ぶ彼女を置いて家の中の戸締まりを確認し、政府と主への報告書を作り上げ、濡れた風呂場を掃除し、てきぱきと雑務をこなしていた。
 嵐はますます激しくなっているようで、窓を流れ落ちる雨はさながら滝のようだ。一度外の様子を確認しようと出てはみたものの、十秒もしないうちにびしょ濡れになってしまい戻るしかなくなってしまう程である。

「これは、籠城をすることになりそうだな」

 誰とも知れず呟きながら、膝丸は戸締まりの再確認をして部屋に戻る。幸い、食事の類は備蓄しているものがあるから、今日一日程度なら何とかなるだろう。
 そのことを伝えようと部屋に入り、膝丸は朝見たときと同じ光景を目にすることになる。

「……一体今度はこんな所で何をしているのだ?」

 部屋がもぬけの空になっている、と思いきや。よくよく探すと、押し入れの片隅に子猫を抱えた少女が小さくなって座っていた。
 膝丸が置いていた上着を再び頭まで被っているせいで、押し入れの暗がりと相まって彼女はその薄闇に溶け込んでしまいそうだった。らんらんと輝く黒猫の瞳だけが、やたら際だって光っている。

「家が壊れるような音がしたので、しまわれているんです。膝丸様はお仕事で忙しそうでしたから、また上着だけお借りしました……」
「雨風の音が怖いのなら、遠慮せずに言ってくれなければ俺にも分からぬ」

 そら、と手を差し伸べると膝丸の手袋の上に少女の白い手が載る。布越しに彼女の微かな震えが伝わってきた。怖がらせたまま放置してしまったことを詫びつつ、膝丸は彼女を押し入れからぐいと引っ張り出す。所々黒髪に纏わり付く埃を払い、着物についていた塵をぱっぱと落としていく。
 折悪く、押し入れから出てきた彼女を待ちかねていたかのように、再びぐらぐらと強風が柱を揺らした。ぎしぎしという音に加えて、ばたばたという激しい雨音に少女は身を強張らせる。

「……膝丸様。やっぱり私は、きちんとしまわれた方が安心だと思います」
「だからと言って、押し入れの埃は君の体に良くないだろう。この家が壊れることはないのだから、むやみに怯える必要は無い」
「でも……どうしても、体が勝手に震えてしまうのです」

 それを言われてしまうと、膝丸としてもどうしようもない。顎先に手を当てて暫し考え込んだ後、彼は不意に彼女が再び頭から被っている上着を手にとった。
 今度は自分が袖を通すのでははなく、そのまま彼女の肩にかける。きょとんとしている少女と向かい合うようにして座り直し、膝丸は小さな体を抱き寄せた。二人の間に挟まれた黒猫が、その隙間から這い出て抗議するようにみゃうみゃうと鳴いている。

「……これなら、少しは気が紛れるか?」
「はい! これなら、とても暖かいです。それに、音も」

 少女は嬉しそうに膝丸のひきしまった胸に耳をあて、嬉しそうに微笑む。微かに聞こえる鼓動に意識を割くことで響く雨音から逃げているつもりらしい。
 だが膝丸としては、ただでさえ密着した状態なのに、体重まで預けられて気が気では無かった。もとより他意はない──少なくとも、少女からはないと断言できる──そのはずなのに、やけに体が熱を帯びるのは気のせいか。

(相手が不安がっているなら、側にいてあげると落ち着くと兄者は言っていたから試してみたのだが……俺が落ち着かぬのではないか?)

 そんな膝丸の思惑を読み取ったのか、じーっと彼を見つめている子猫の視線は何だか非難しているように見えた。

「君、できるなら自分で耳を塞ぐとか、そういう方法で……」

 それとなく少しは距離を置いて欲しいと訴えたものの、返事はない。どうしたのかと思いきや、今度は規則正しい寝息が胸元から聞こえてきた。

「……この状態で寝るとは、やはり相手にはされていないということか」

 むやみに気疲れしたように思いつつも、邪険にすることもできない。膝丸は彼女が自分に預けた体重にくらくらする思いを抱きながら、天井を見上げた。
 嵐よ、今暫くは吹き渡ってくれと願いながら。
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