美芳本丸短編
好きな人に美味しいものを食べてもらいたいというのは、恋する乙女なら誰しもが思うことである。
十三歳の美芳はまだ大人というには程遠い年齢ではあったが、恋する乙女としてはすでに一人前であった。
その彼女は、キッチンの前でうーんと悩んでいた。
悩み事はたった一つ。
「ケーキ、何作れるかな……」
彼女がそもそもそんなことを頭を抱えて悩むようになった理由は、数日前に遡る。
***
「ケーキを食べたことがない、ですか?」
「ああ。そのけえき 、という食べ物は口にしたことがない」
数ヶ月前から数奇な縁が重なって公園でしばしば顔を合わせるようになった青年は、見識豊かな知識人だが時々突拍子もないことを口にする人物であった。
その彼が、世間話のついでに口にしたことがこれである。
彼にとっては特に奇をてらった発言では無かったらしいが、美芳の度肝を抜くには十分すぎる発言だった。
「でも、鶯さんって色んなところに出掛けることが多いって言ってましたよね。ケーキとか、食べる機会ないんですか?」
「まあ細かいことは気にするな。それで、そのけえきとやらは美味いものなのか?」
彼が一体どこで何をしているかは、美芳も全く知らなかった。細かく訊こうとすると、いつもこうしてはぐらかされてしまう。
「は、はい。それはもう。私もちょっとしか食べたことないんですけど、甘くて美味しいんです! 一緒に紅茶も飲むと幸せな気分になります!」
「そうか。それはいいな」
力説を重ねると、彼は──美芳が鶯と呼んでる彼は、優しげに笑う。
この笑みが、まだ見ぬ食べ物の美味しさに思いを馳せているからではないのだということは、その時の美芳は気づく由もなかった。
ともあれ、美芳は洋菓子に馴染みがないらしい彼に洋菓子の味を教えてあげようと、自然な流れで思い立った。
「そうだ。それなら今度、ケーキを持ってきますね」
「それはいいな。美芳が作るケーキがどんなものか、楽しみだ」
何気なく彼は頷いたが、美芳はこの時点で内心に冷や汗をかいていた。
いつも彼女が自作の料理を持ってくるから、今度もそうだろうと彼は思っていだのだろう。
しかし、美芳にはこの点に関してある一つの問題を抱えていた。
すなわち、ケーキを作る環境も経験もないということである。
***
「またそうやって大見得切るからそうなるのよ。そんなにあいつ、好き?」
「す、すすす、好きとかじゃなくて、ケーキ食べさせてあげたいだけだよ! ケーキ食べたことないなんて、あんまりだもの」
横から割って入った声は美芳にとって物心ついた頃からの親友こと海弥だ。浅葱色の髪に金の瞳を持つ彼女は、意地悪なことを言うが常に美芳の味方でいてくれる数少ない友人である。
「でも、材料もオーブンもないんでしょ?」
「う、うん……」
美芳の家にある家具は軒並み古いし、性能がシンプルだ。食品をあっという間に解凍する調理器具はあるが、じっくりと高温で焼き上げる機能は付いていない。
普段から仕事であくせく働いて、家に帰れば疲労でやつれた顔を見せる父に、おねだりなどもできるわけがない。
材料についても然りである。父と自分が食べるもの以外のものを沢山買うべき余裕は、毎月与えられた予算にはない。
それ以外の理由としても、父に何かを頼むということは美芳の中では思いつくことすら許されない事項であった。
「じゃあ、何か適当に買ってくる?」
「それじゃだめだよ。多分見抜かれちゃう」
普段はのんびりとした様子を見せることが多い彼であるが、存外鋭いことも彼女は知っていた。量販店で買ってきたものは見抜いてしまうだろう。
彼がそのことを気に病むかと言われると微妙な線だったが、折角『美芳が作るケーキ』を楽しみにしてくれているのだ。市販のもので済ますというのは、乙女心が許せなかった。
「じゃあどうするの? ないない尽くしじゃない」
「……家にあるものでできるもの、探すよ」
言いつつ、美芳は冷蔵庫の中身を見る。
卵は先日セールだったから沢山ある。砂糖も問題ない。必要なのは設備だと美芳が腕を組んで悩んでいると、
「焼くってことは一緒なんだから、フライパンで焼けたりしないの?」
「海弥は大雑把なんだから。フライパンで焼けるのなんて、そんなのホットケーキくらい……」
そこまで言ってから、美芳は目を見開く。
「それだよ!」
突然出した美芳の大きな声に海弥は目を丸くして、やがて我が意を得たりとばかりにニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「ほら、私って凄いでしょう?」
「うん。ホットケーキミックスなら買うお金、残ってると思う。よし、頑張ろうっ」
彼女は胸の前で拳を握り、気合いを入れ直すのだった。
***
日曜日の昼下がり。
鶯と美芳に呼ばれている青年は、いつものように公園にやってきた。数ヶ月前にはこんなことはしていなかったのに、今はすっかり日課となっている。
普段通り、約束の時間より少し早く来て、彼は誰もいない空間を静かに過ごすつもりだった。彼女が来る前に、日常の雑事を忘れるために費やす時間だ。
だが今日はいつもより早い時間にも関わらず、ベンチの上で待ち人たる少女がちょんと座っていた。
「早いな。今日は俺の方が遅刻か」
「そ、そんなことないです。私が頑張っちゃっただけです、はい」
彼女は、頬を少し赤くしていた。今日は少し気温が高いから、暑かったのだろうか。
待たせた詫びになるものでもあればよかったのだが、と彼は内心で思う。彼女はいつも、お詫びにお弁当や軽食を用意してくれていたのに。これは失態だ。
青年が変わらぬ笑顔の下であれこれ悩んでいるのをよそに、彼女はいそいそとトートバッグの中から紙皿を取り出した。
続いて、普段より大きめのお弁当箱を取り出す。
「その、ケーキはケーキでもホットケーキなんですけど、これも一応ケーキかなって。この前ケーキを食べたことないって言っていたから、頑張って作っちゃいました」
しどろもどろになりながら、彼女はケーキというものを食べるための準備を進める。弁当箱の中には、どうやら切り分けた菓子が入っているようだ。
自分が何をすればいいかわからない彼は、黙っててきぱきと動く美芳の手を見ていた。その彼女が、紙皿の隣にひょいと何かを置いたのに気がつき、彼の注意が逸れる。
そこにあったのは量販店などでよく見かける、小分けされた調味料の一つに見えた。ただ、普段見慣れている醤油やサラダ用のドレッシングとは異なり、澄んだ金色で満たされている。
「これは何だ?」
「それは蜂蜜って言うんです」
「蜂蜜……?」
「そうですよ。かけると、甘くて、ちょっぴりだけ酸っぱい感じもして美味しくなるんです。はいどうぞ」
準備を終えた彼女が差し出した紙皿の上には、ほんのり焦げ目がついた黄色いものがいくつか載っていた。
鶯は蜂蜜を自分の膝の上に置き直し、代わりに空いた両手で皿を受け取る。手が当たった弾みに、彼女がびくりとした気がするが気のせいだろう。
「あ、あの、本物のケーキみたいに、すっごく綺麗とかじゃないですけど、でも」
「では、いただこうか」
どんどん小さくなる声に被せるように、彼はホットケーキなるものを渡されたフォークで刺して口まで運ぶ。
和菓子のようなわかりやすい甘さはない。ただ、飲み込んだ後にふわりと口の中に残る香りは──悪いものではない。
初めて味わう独特の風味に、彼は普段は伏せがちな目を見開く。
「美味いな。これなら茶にも合いそうだ」
「ケーキは紅茶と合わせると美味しいんですよ」
今度は紙コップに入れた紅茶というらしい飲み物を渡された。
ベンチの上に皿を置き直し、こちらも口に入れてみる。日本茶ほど独特の苦みや渋みはなく、さっぱりとした後味だけがふんわりと舌の上に残った。
なるほど、今食べたケーキというものとよく引き立て合うだろうと彼は実感する。
「これが、けえきと、こうちゃというものか。悪くないな。ありがとう、美芳」
「わ、私こそ、こんなものしか用意できなくてっ。あの、もしかして……蜂蜜嫌いでしたか?」
勧めたにも関わらず、先程から膝の上に載せられたままの蜂蜜を見て、美芳は不安げに声をかける。
青年は改めて、金色の蜜が詰められた小袋をつまみ上げると、首をゆるゆると横に振った。
「少し惜しかっただけだ。似ていたからな」
「似ている、ですか?」
「ああ。君の目によく似ている」
何気なく彼が口にした言葉を聞いて、美芳は目を見開く。
──彼女自身の、金色に輝く瞳を。
彼の優しげな笑顔を映す双眸は、あふれんばかりの喜びに満ちていく。
「あ、ありがとうございます。でも、蜂蜜かけた方が、多分もっと美味しいです」
「そこまでいうならそうするとしよう。そういえば、美芳は食べないのか?」
「わ、私は……」
彼がいうように、美芳の膝の上には何も載っていない。普段は自分の分のお弁当を用意するのに、今日はそれすらもない。
実は思った以上に上手にホットケーキを焼くのに苦戦して今鶯が食べているのが上手にできた唯一のものだとか、それを焼くためにお弁当の準備を忘れていたとかいうことは、口が裂けても言えるわけがなかった。
彼女がしどろもどろになっているのを見て、彼は数秒だけ何かを考える素振りを見せる。
そして、フォーク切り分けられたでホットケーキの一つを取り、美芳にずいと差し出した。
「俺ばかり食べるというのも気が引ける。美芳も食べないか?」
「え、でも、それは私が鶯さんに作ったもので」
「じゃあ、俺が美芳に送るものということでどうだ。それなら構わないだろう」
また顔を真っ赤にさせて、彼女はわなわなと唇を震わせた後、彼が差し出したフォークから直接ケーキをパクリと口にした。
鳥の雛が親から餌を受け取る仕草に似ている。
そんなことを思った鶯は、思わず笑みをこぼす。
「美味いか?」
「は、はい。美味しいです!」
まるでひまわりのような笑顔を咲かせて、彼女は笑う。
そうして小さなホットケーキパーティの時間は、穏やかに流れていった。
***
「……殿、鶯丸殿」
肩を揺さぶられる感覚で、鶯丸ははっと目を覚ます。
気がつくと、目の前には夢で見たのと同じような蜂蜜色の瞳がある。しかし、彼はあの夢の中の彼女と違って浅葱色の髪をしていた。
わざわざ思い返すまでもない。同じ思いを共にして立つ仲間の一人、一期一振という名の刀剣男士が目の前にいた。
「……俺は、寝ていたのか?」
「ええ。それはもう気持ちよさそうにお休みになっていましたよ」
どうやら、卓袱台を前にしてうたた寝をしてしまったらしい。机上にはすっかり冷めた湯飲みが置かれていた。
「楽しい夢でも見ておられましたかな。何やら嬉しそうに笑ってもいましたよ」
「何、昔の夢を見ていただけだ」
一期に軽く返事をしながらも、鶯丸の口元には隠しきれない笑顔が浮かんでいた。
同時に、ふんわりと彼の鼻を香ばしい匂いが掠めていく。
「……この香りは?」
「美芳がホットケーキなるものを焼いたので、鶯丸殿に準備を手伝って欲しいと言っていたのですよ。私もご同行しましょう」
「それなら、蜂蜜を用意しなければならないな」
その場にすっくと立ち上がり、鶯丸は迷うことなく厨房に向かう。その後を一期も追っていく。
「鶯丸殿は、蜂蜜がお好きなのですか」
「似ているからな」
「似ている?」
「ああ。とても、よく似ている」
頭に疑問符を浮かべる彼を余所に、いつもより少し軽い足取りで彼は厨房に向かう。夢の中と同じ香りが彼を誘っているかのようだ。
きっと彼女もそこにいるのだろう。あの時と同じように、頬を少し朱に染めて。あの時と同じように、蜂蜜色の瞳を輝かせて。
あの時と違うのは、自分の気持ちだけだ。今なら、彼女の赤い頬の意味も分かる。
彼女にどんな風に声をかけようかと思いながら、鶯丸は厨房への戸を開いた。
十三歳の美芳はまだ大人というには程遠い年齢ではあったが、恋する乙女としてはすでに一人前であった。
その彼女は、キッチンの前でうーんと悩んでいた。
悩み事はたった一つ。
「ケーキ、何作れるかな……」
彼女がそもそもそんなことを頭を抱えて悩むようになった理由は、数日前に遡る。
***
「ケーキを食べたことがない、ですか?」
「ああ。その
数ヶ月前から数奇な縁が重なって公園でしばしば顔を合わせるようになった青年は、見識豊かな知識人だが時々突拍子もないことを口にする人物であった。
その彼が、世間話のついでに口にしたことがこれである。
彼にとっては特に奇をてらった発言では無かったらしいが、美芳の度肝を抜くには十分すぎる発言だった。
「でも、鶯さんって色んなところに出掛けることが多いって言ってましたよね。ケーキとか、食べる機会ないんですか?」
「まあ細かいことは気にするな。それで、そのけえきとやらは美味いものなのか?」
彼が一体どこで何をしているかは、美芳も全く知らなかった。細かく訊こうとすると、いつもこうしてはぐらかされてしまう。
「は、はい。それはもう。私もちょっとしか食べたことないんですけど、甘くて美味しいんです! 一緒に紅茶も飲むと幸せな気分になります!」
「そうか。それはいいな」
力説を重ねると、彼は──美芳が鶯と呼んでる彼は、優しげに笑う。
この笑みが、まだ見ぬ食べ物の美味しさに思いを馳せているからではないのだということは、その時の美芳は気づく由もなかった。
ともあれ、美芳は洋菓子に馴染みがないらしい彼に洋菓子の味を教えてあげようと、自然な流れで思い立った。
「そうだ。それなら今度、ケーキを持ってきますね」
「それはいいな。美芳が作るケーキがどんなものか、楽しみだ」
何気なく彼は頷いたが、美芳はこの時点で内心に冷や汗をかいていた。
いつも彼女が自作の料理を持ってくるから、今度もそうだろうと彼は思っていだのだろう。
しかし、美芳にはこの点に関してある一つの問題を抱えていた。
すなわち、ケーキを作る環境も経験もないということである。
***
「またそうやって大見得切るからそうなるのよ。そんなにあいつ、好き?」
「す、すすす、好きとかじゃなくて、ケーキ食べさせてあげたいだけだよ! ケーキ食べたことないなんて、あんまりだもの」
横から割って入った声は美芳にとって物心ついた頃からの親友こと海弥だ。浅葱色の髪に金の瞳を持つ彼女は、意地悪なことを言うが常に美芳の味方でいてくれる数少ない友人である。
「でも、材料もオーブンもないんでしょ?」
「う、うん……」
美芳の家にある家具は軒並み古いし、性能がシンプルだ。食品をあっという間に解凍する調理器具はあるが、じっくりと高温で焼き上げる機能は付いていない。
普段から仕事であくせく働いて、家に帰れば疲労でやつれた顔を見せる父に、おねだりなどもできるわけがない。
材料についても然りである。父と自分が食べるもの以外のものを沢山買うべき余裕は、毎月与えられた予算にはない。
それ以外の理由としても、父に何かを頼むということは美芳の中では思いつくことすら許されない事項であった。
「じゃあ、何か適当に買ってくる?」
「それじゃだめだよ。多分見抜かれちゃう」
普段はのんびりとした様子を見せることが多い彼であるが、存外鋭いことも彼女は知っていた。量販店で買ってきたものは見抜いてしまうだろう。
彼がそのことを気に病むかと言われると微妙な線だったが、折角『美芳が作るケーキ』を楽しみにしてくれているのだ。市販のもので済ますというのは、乙女心が許せなかった。
「じゃあどうするの? ないない尽くしじゃない」
「……家にあるものでできるもの、探すよ」
言いつつ、美芳は冷蔵庫の中身を見る。
卵は先日セールだったから沢山ある。砂糖も問題ない。必要なのは設備だと美芳が腕を組んで悩んでいると、
「焼くってことは一緒なんだから、フライパンで焼けたりしないの?」
「海弥は大雑把なんだから。フライパンで焼けるのなんて、そんなのホットケーキくらい……」
そこまで言ってから、美芳は目を見開く。
「それだよ!」
突然出した美芳の大きな声に海弥は目を丸くして、やがて我が意を得たりとばかりにニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「ほら、私って凄いでしょう?」
「うん。ホットケーキミックスなら買うお金、残ってると思う。よし、頑張ろうっ」
彼女は胸の前で拳を握り、気合いを入れ直すのだった。
***
日曜日の昼下がり。
鶯と美芳に呼ばれている青年は、いつものように公園にやってきた。数ヶ月前にはこんなことはしていなかったのに、今はすっかり日課となっている。
普段通り、約束の時間より少し早く来て、彼は誰もいない空間を静かに過ごすつもりだった。彼女が来る前に、日常の雑事を忘れるために費やす時間だ。
だが今日はいつもより早い時間にも関わらず、ベンチの上で待ち人たる少女がちょんと座っていた。
「早いな。今日は俺の方が遅刻か」
「そ、そんなことないです。私が頑張っちゃっただけです、はい」
彼女は、頬を少し赤くしていた。今日は少し気温が高いから、暑かったのだろうか。
待たせた詫びになるものでもあればよかったのだが、と彼は内心で思う。彼女はいつも、お詫びにお弁当や軽食を用意してくれていたのに。これは失態だ。
青年が変わらぬ笑顔の下であれこれ悩んでいるのをよそに、彼女はいそいそとトートバッグの中から紙皿を取り出した。
続いて、普段より大きめのお弁当箱を取り出す。
「その、ケーキはケーキでもホットケーキなんですけど、これも一応ケーキかなって。この前ケーキを食べたことないって言っていたから、頑張って作っちゃいました」
しどろもどろになりながら、彼女はケーキというものを食べるための準備を進める。弁当箱の中には、どうやら切り分けた菓子が入っているようだ。
自分が何をすればいいかわからない彼は、黙っててきぱきと動く美芳の手を見ていた。その彼女が、紙皿の隣にひょいと何かを置いたのに気がつき、彼の注意が逸れる。
そこにあったのは量販店などでよく見かける、小分けされた調味料の一つに見えた。ただ、普段見慣れている醤油やサラダ用のドレッシングとは異なり、澄んだ金色で満たされている。
「これは何だ?」
「それは蜂蜜って言うんです」
「蜂蜜……?」
「そうですよ。かけると、甘くて、ちょっぴりだけ酸っぱい感じもして美味しくなるんです。はいどうぞ」
準備を終えた彼女が差し出した紙皿の上には、ほんのり焦げ目がついた黄色いものがいくつか載っていた。
鶯は蜂蜜を自分の膝の上に置き直し、代わりに空いた両手で皿を受け取る。手が当たった弾みに、彼女がびくりとした気がするが気のせいだろう。
「あ、あの、本物のケーキみたいに、すっごく綺麗とかじゃないですけど、でも」
「では、いただこうか」
どんどん小さくなる声に被せるように、彼はホットケーキなるものを渡されたフォークで刺して口まで運ぶ。
和菓子のようなわかりやすい甘さはない。ただ、飲み込んだ後にふわりと口の中に残る香りは──悪いものではない。
初めて味わう独特の風味に、彼は普段は伏せがちな目を見開く。
「美味いな。これなら茶にも合いそうだ」
「ケーキは紅茶と合わせると美味しいんですよ」
今度は紙コップに入れた紅茶というらしい飲み物を渡された。
ベンチの上に皿を置き直し、こちらも口に入れてみる。日本茶ほど独特の苦みや渋みはなく、さっぱりとした後味だけがふんわりと舌の上に残った。
なるほど、今食べたケーキというものとよく引き立て合うだろうと彼は実感する。
「これが、けえきと、こうちゃというものか。悪くないな。ありがとう、美芳」
「わ、私こそ、こんなものしか用意できなくてっ。あの、もしかして……蜂蜜嫌いでしたか?」
勧めたにも関わらず、先程から膝の上に載せられたままの蜂蜜を見て、美芳は不安げに声をかける。
青年は改めて、金色の蜜が詰められた小袋をつまみ上げると、首をゆるゆると横に振った。
「少し惜しかっただけだ。似ていたからな」
「似ている、ですか?」
「ああ。君の目によく似ている」
何気なく彼が口にした言葉を聞いて、美芳は目を見開く。
──彼女自身の、金色に輝く瞳を。
彼の優しげな笑顔を映す双眸は、あふれんばかりの喜びに満ちていく。
「あ、ありがとうございます。でも、蜂蜜かけた方が、多分もっと美味しいです」
「そこまでいうならそうするとしよう。そういえば、美芳は食べないのか?」
「わ、私は……」
彼がいうように、美芳の膝の上には何も載っていない。普段は自分の分のお弁当を用意するのに、今日はそれすらもない。
実は思った以上に上手にホットケーキを焼くのに苦戦して今鶯が食べているのが上手にできた唯一のものだとか、それを焼くためにお弁当の準備を忘れていたとかいうことは、口が裂けても言えるわけがなかった。
彼女がしどろもどろになっているのを見て、彼は数秒だけ何かを考える素振りを見せる。
そして、フォーク切り分けられたでホットケーキの一つを取り、美芳にずいと差し出した。
「俺ばかり食べるというのも気が引ける。美芳も食べないか?」
「え、でも、それは私が鶯さんに作ったもので」
「じゃあ、俺が美芳に送るものということでどうだ。それなら構わないだろう」
また顔を真っ赤にさせて、彼女はわなわなと唇を震わせた後、彼が差し出したフォークから直接ケーキをパクリと口にした。
鳥の雛が親から餌を受け取る仕草に似ている。
そんなことを思った鶯は、思わず笑みをこぼす。
「美味いか?」
「は、はい。美味しいです!」
まるでひまわりのような笑顔を咲かせて、彼女は笑う。
そうして小さなホットケーキパーティの時間は、穏やかに流れていった。
***
「……殿、鶯丸殿」
肩を揺さぶられる感覚で、鶯丸ははっと目を覚ます。
気がつくと、目の前には夢で見たのと同じような蜂蜜色の瞳がある。しかし、彼はあの夢の中の彼女と違って浅葱色の髪をしていた。
わざわざ思い返すまでもない。同じ思いを共にして立つ仲間の一人、一期一振という名の刀剣男士が目の前にいた。
「……俺は、寝ていたのか?」
「ええ。それはもう気持ちよさそうにお休みになっていましたよ」
どうやら、卓袱台を前にしてうたた寝をしてしまったらしい。机上にはすっかり冷めた湯飲みが置かれていた。
「楽しい夢でも見ておられましたかな。何やら嬉しそうに笑ってもいましたよ」
「何、昔の夢を見ていただけだ」
一期に軽く返事をしながらも、鶯丸の口元には隠しきれない笑顔が浮かんでいた。
同時に、ふんわりと彼の鼻を香ばしい匂いが掠めていく。
「……この香りは?」
「美芳がホットケーキなるものを焼いたので、鶯丸殿に準備を手伝って欲しいと言っていたのですよ。私もご同行しましょう」
「それなら、蜂蜜を用意しなければならないな」
その場にすっくと立ち上がり、鶯丸は迷うことなく厨房に向かう。その後を一期も追っていく。
「鶯丸殿は、蜂蜜がお好きなのですか」
「似ているからな」
「似ている?」
「ああ。とても、よく似ている」
頭に疑問符を浮かべる彼を余所に、いつもより少し軽い足取りで彼は厨房に向かう。夢の中と同じ香りが彼を誘っているかのようだ。
きっと彼女もそこにいるのだろう。あの時と同じように、頬を少し朱に染めて。あの時と同じように、蜂蜜色の瞳を輝かせて。
あの時と違うのは、自分の気持ちだけだ。今なら、彼女の赤い頬の意味も分かる。
彼女にどんな風に声をかけようかと思いながら、鶯丸は厨房への戸を開いた。