若苗の話
二月十四日。
その日がバレンタインという耳馴染みのない名前の、しかしとても重要な意味を持つ日になっていることを知ったのは、膝丸にとっては数年前のことだった。
当初、バレンタインは世話になってる者に贈り物をする日だと彼は教わっていた。日頃の感謝を伝える日なのか、と理解した膝丸は、この年になるとささやかな贈り物を主に渡すようにしていた。お互いが自分のお気に入りの菓子を持ち寄って、感謝の言葉を渡し合う日。膝丸の中で二月十四日はそのように定義されていた。
だが、数日前。彼は主からこっそりとこのように言われたのだ。
「実はね、バレンタインは好きな人にお菓子をあげる日でもあるんだよ」
そのように囁く彼女もまた、ひどく嬉しそうだった。それもそのはず、彼女は膝丸の兄である髭切とは、自他とともに認める恋人同士なのだから。
彼らの思いが通じ合うのは喜ばしいことだと、膝丸としても二人の関係を認めて素直に祝福していた。以前なら、それで終わるはずだったのだが。
「随分と楽しそうだね」
「兄者か。いや、それほど浮かれているように見えるか?」
「足元、見てみたら?」
質問に質問で返されて、膝丸は本丸の廊下に立つ自分の足元を見やる。そこには一目でわかるほど桜の花びらが積もっていた。
気分が高揚すると刀剣男士から桜の花びらが舞い落ちるというのは、誰だって知っている。顔色は隠せてもこればかりは隠しようもない。
「そんなに、あの子から貰えるって考えるのが嬉しいのかなって」
「い、いや、別にそういうわけでは」
髭切が暗に示しているあの子とは、この本丸に住まうもう一人の娘のことだ。膝丸とは何かと縁がある彼女は、訳あってこの本丸に身を寄せてからもう数年になっている。
それ以前からも膝丸から一方的に彼女を憎からず思っていたが、最近になってようやく行き違いになっていた気持ちに気がついた二人は、晴れて両思いとなった。
そこまで至れば、次を求めてしまうのも止むなしというもの。膝丸が桜の花びらを山と積み上げている理由は、そこにあった。
「俺は、そのようなものにうつつを抜かすような浮ついた者ではないぞ。既に主から貰っているのだから、これ以上を望むのは欲深というものだ」
彼のいう通り、膝丸の手には毎年主が皆に渡しているチョコレートの包装がある。今年はどうやら炭にならずに済んだようだ。包みから漏れる芳香は、程よく彼の食欲を唆るものだった。
「お前はもう少し、欲張りになってもいいと思うけどね。僕は後からもう一つあげるって主に言われているよ?」
髭切は得意げな笑みと共に、自分の特別扱いを隠すこともせずに明らかにした。彼らの付き合いは本丸内では公然のものであるが、表向きは極端に差が出ないように主も気を遣っているらしい。もっとも、恋人の髭切が特に隠そうともしていないので、彼女の心配りも無に帰しているように膝丸には思えた。
「でも、僕らは主から貰いはしたけれど、あの子から貰ってないね。今年は何かと忙しかったみたいだから、作らないのかな?」
膝丸の思い人は、もしかしたら贈り物を用意していないかもしれない。その可能性を示唆されて、膝丸は頭の上に大きな重石を載せられたような衝撃を受ける。
そうはいっても、貰えないのは残念だとあからさまに顔に出すことは、膝丸自身の矜持が許さなかった。
「そ、そういうこともあるのだろう。だから、欲を出すものではないと言ったのだ。既に主から貰っている分で、糧食としては十分だからな。それに甘いものばかり食べていては舌がおかしくなる」
実は密かに期待していたこともあって内心では胸が張り裂けそうではあったが、彼はつらつらと自分に言い聞かせるような言い訳を口にしてそれを誤魔化した。
素直じゃないな、と思った髭切は、ふと小さな足音を耳にして、振り返る。話に夢中になっている膝丸は気づいてなかったようだが、ちらりと小さな黒い影がよぎったのを髭切は見逃さなかった。
(弟は、肝心な所でちょっとうっかり者だよねえ……)
結局、髭切は何も言わずに、止めどなく流れる膝丸の言い訳を聞くことに徹したのだった。
***
(……遅い)
その日の夜。部屋の時計の長針と短針は既に真上を指さしている。外は既にとっぷりと日が暮れて久しく、つまるところもう三十分もすれば日付が変わってしまう。なのに、膝丸は未だ意中の相手から菓子はおろか、キャンディの一つも貰っていなかった。
顔を合わせてはいたが、その時はいつも彼女は誰かと一緒にいた。主と楽しそうに話をしていたり、歌仙の手伝いをしていたりと、膝丸が声をかけても「すみません、少し手が離せなくて」言われてしまう始末。それでも、夜になればと風呂を出て意気込んで待つこと数時間。彼女が訪れる気配は、今の所皆無だ。
「まさか、本当に作っていない……。いや、知らないという可能性も……」
世間の常識に疎い所がある娘だ。だから、今日が贈り物をする日だとは知っていても、恋人にお菓子を渡す日ではあると知らずにいるのかもしれない。あるいは、ひょっとして主と一緒にお菓子を作ってそれで満足したのだろうか。
それなら、今日主から渡されたチョコレートは事実上彼女が作ったことにもなるのだが、兄のように恋人からの特別な一つが欲しいというのが膝丸の本音であった。
「……期待して勝手に空回りして、俺はどこまで愚かなのだ」
自分を叱責し、膝丸は軽く首を横に振る。余計なことを考えるのはやめよう。彼女にも、何か事情があるのだろうから。そうこうしている内に、あと十五分で今日も終わる。明日は何食わぬ顔で彼女に挨拶をしよう。今日の未練は今日に置いていくべきだ。
そうやって菓子を貰うのを諦めるための言い訳を一通り並べ終えて、照明を落とし、膝丸は床へと入ろうとした。
「あの……」
部屋の障子の向こうから、待ち人の細い声を耳にするまでは。
「入っても、よろしいでしょうか」
心なしか震えているそれは、紛れもなく膝丸の思い人のものだ。
「若苗か」
返答に迷うより先に、娘の名が彼の口から零れ出た。その音を耳にするだけでも愛おしさが増すというのに、今は同時に苦々しさも覚えてしまう。
潰したはずの期待という名の風船が、性懲りも無く膨れ上がる。同時に、失望を抱いてしまうのではないかという不安も共に大きくなる。
障子一枚挟んでの距離。近いようで遠い距離。追い返してしまえば、期待をせずに済むと分かっているのに。膝丸の体はまるで誘われるように勝手に動き、欲深な己を制するより先に障子を開いてしまった。
予想通り、そこには寝間着姿の少女――若苗が立っていた。薄手の着物の上からは申し訳程度にショールをかけているだけで、二月の廊下を歩いて行くには寒すぎる装いであるということは一目で分かる。
「こんな時間にそのような格好で、一体どうしたのだ」
責めるような物言いに聞こえたのか、若苗はまるで小動物のようにきゅっと肩を縮こませる。
だが、膝丸の問いに彼女は何も言わなかった。代わりに、後ろ手に持っていた何かを勢いよく彼の前に差し出した。
「……あ、あの、糧食として、もう十分なのでしょうとは、分かっていたのですが」
「ん?」
「甘いものばかり食べても舌がおかしくなるというのも重々承知なのですが、よ、よろしければ……貰っていただけないでしょうか」
「なぜ、そのようなことを」
彼女にしては、らしくない言い訳がつらつらと並べられ、突き出された贈り物に対して膝丸は喜ぶより先に疑問を抱く。
自分はそのようなことを彼女に言っただろうか――とまで思いかけて、膝丸は昼に髭切と交わした会話を思い出す。贈り物を貰えなかったとしても、自分が傷つかぬようにと言い訳のことを。
「聞こえていたのか……」
おずおずと首を縦に振る彼女を前にして、予想は確信へと変える。時間が巻き戻るなら、今すぐ己の口を塞ぎに行きたいほどの後悔が膝丸を襲った。怯えた小動物のようにこちらを見つめる若苗は、膝丸の言葉を聞いて用意した贈り物を渡していいものかと、悩んでいたのだろう。
「あれは……そう、言葉の綾だ。君が用意していないのかと思い、それでつい心にもないことを言ってしまった」
まさか貰えない可能性があると示唆されて動揺してしまい、悲しい気持ちを誤魔化すためについた言い訳だ、などということは言えなかった。
「では、膝丸様に喜んでいただけるのでしょうか」
「ああ、無論だ。すまなかった」
一度頭を下げてから、膝丸は差し出されていた贈り物を受け取る。膝丸の手の上にすっぽりと収まるような小さな包みから透けて見えるのは、ころころとした褐色の球のような菓子だ。粉雪が積もったように白いものも混ざっている。
「生チョコと言われているものを作ったのです。チョコと生クリームを混ぜて固め直しただけの簡単なもので……お口に合うとよいのですが」
「……今、食べてもいいだろうか」
「えっ」
念願の贈り物を貰えて嬉しい気持ちに急かされて、膝丸は今すぐにでも彼女の手作り菓子を口にしたい気持ちでいっぱいだったのだが、若苗にとっては予想外だったようだ。
それでも彼女はしどろもどろになりながらも、こくこくと頷いてみせた。
「立ったままでは寒いだろう。中に入るといい」
「あの、それは……」
彼女は膝丸と部屋の様子を交互に見比べ、どういうわけか頬を先ほどよりも濃い朱色に染めてから「お邪魔します」と中に入った。
「座布団はもう片付けてしまったのでな。申し訳ないが、そちらでいいだろうか」
膝丸が手で示した先にあるのは、寝る前の自分が引いた布団だった。他は座椅子しかなく、布団以外に座る場所がないのだ。
彼女からもらったチョコは一度文机の上に載せ、膝丸は座椅子にかけていた半纏を彼女に渡そうと振り返り、首を捻る。どういうわけか彼女は布団の上で突っ立ったまま、おろおろとしていた。
「……どうかしたのか?」
「い、いえ。お気遣い、ありがとうございます」
「遠慮は無用だ。冬の夜は冷える。体は冷やさぬ方が良いだろう」
半纏に包まった若苗は、ようやく布団の上に腰を下ろしてくれた。
腰を落ち着けた彼女から期待に満ちた瞳で見つめられ、膝丸は再び文机の上に置かれた菓子へ向き直る。穴の開くほど見つめられながら食べるのは面はゆいが、彼女の嬉しそうな顔を見ながら食べられるのなら、文句などあるわけがない。
包みのリボンをほどき、普段は刀を握っている指先で小さな球状の菓子を摘まみ上げる。周りに何か振りかけてあるのか、指先に茶色の粉がいくらか付着した。
構うことなく、彼は一口でそれを食べる。周りの粉の甘苦い香りが口内に広がったかと思いきや、固めたチョコレートとは異なる柔らかい感触のそれを、彼の尖った歯が貫いた。
甘いというよりは、どちらかと言うと少し濃い苦さが目立つ。味わいとしては紛れもなくチョコレートのそれだが、普段冷やして食べているものとは違う食感が面白くもあった。
「ど、どうでしょうか」
「……正直言うと、驚かされたな。チョコというのは冷やして固めるものとばかり思っていた。それに、甘さが普段食べているものと異なるようだ」
「お嫌いですか」
「いや、このように苦みが強いものの方が、俺の口には合う」
「普段、皆さんは甘いお味のものを購入されているようだったのですが、膝丸様は甘みを抑えたものの方がお好きなのではと思っていましたので……」
この本丸の主は甘みの強いものが好きなので、普段から膝丸が口にするチョコレートは自然と甘いものが多くなっていた。慣れ親しんだ味として、膝丸としてもそれはそれで嫌いではないと思ってはいた。
だが、自分のためだけの目の前の思い人が材料から改めて選んでくれたのかと思うと、彼の心はこれ以上ないほどに歓声を挙げていた。
「もう一つ、食べても良いだろうか」
「はい、どうぞ」
再び期待に満ち満ちた視線に晒されながら、膝丸は自分のためだけに用意されたチョコをもう一つ口にする。今度は粉雪のように白い粉がかけられたものだ。
舌の上で溶けて消える時の甘苦さはそのままだが、先ほどよりほんのりと上品な甘さが後を引く。食べてから思わず息が溢れそうになるほどだ。
「これは大変美味なものだな。食べて無くなってしまうのが惜しいほどだ」
自分でも自然に浮かべられたと思う笑みを彼女に向けると、はたして若苗もつられたようにぱっと笑顔を咲かせた。まさに大輪の花のようだ。
残りはまた明日食べるとしよう、と膝丸は包みを戻そうとして、自分の指先に付着するものに気がついた。就寝前であることもあって、普段は手袋で包まれている指は当然素手だ。そして、彼の親指と人差し指の先は先ほどの菓子についていた粉によって茶と白に染め上げられていた。摘まみ上げた時についてしまったものだろう。
一瞬の躊躇いはあったものの、彼はまず親指についていたそれに何気ない仕草で舐める。少しはしたないかとは思ったが、折角彼女が作ってくれたものを粉一つでも無駄にするのは気が引けてしまったのだ。
「……?」
ふと視線を感じて、膝丸は顔を上げる。いつの間にか、贈り主である娘が、布団の上から彼のすぐ近くにまで来ているではないか。
半纏も羽織物も脱いだ彼女は、どういう理由か思い詰めた様子でこちらをじっと見つめている。
「若苗、どうかしたのか」
「膝丸様。あの……口元にもついています」
「そうだったのか。すまない。自分では気が付かなかった」
文机にあるちり紙に彼が手を伸ばそうとしたとき、ふ、と視界に影が落ちる。自分の体に触れる彼女の手の感触。どうしたのかと思うより先に、口元に暖かく濡れたものが通り過ぎた。
それが彼女の舌であり、菓子の粉がついた己の口元を舐めたのだと気がつく頃には、既に彼女の体は離れていた。
不意を突かれて、呆気にとられた表情を取り繕う暇も膝丸にはない。見開かれた琥珀の双眸は、自分のすぐ側で小さくなっている娘をただただ見つめていた。
「あ、あの……今日は、恋人にとって特別な日だと伺っていましたので、はしたないとは分かっていたのですが」
ただ贈り物を渡しに行くにしては、些か薄手すぎる装い。部屋に誘われたときに、こちらと部屋の様子を交互に見つめていた視線。布団の上に案内されて、躊躇っていた様子。
そして今の行動と、つっかえつっかえ述べられた言葉に、彼女の白い頬がまるで熱に浮かされたように紅くなっている意味。
それは、自分にとって都合のいい勘違いなのではないか、と膝丸が躊躇する必要もないくらい、明らかな誘いの形をしていた。
「もし……よろしければ、ですけれども」
彼女の控えめな問いの答えの代わりに、彼は口元へ弧を描いた。
人差し指に残っていた菓子の粉を舌でなめとり、彼女の腕を掴んで引き寄せ、問答無用でその唇を己のもので塞ぐ。舌に残った甘苦い味をそのまま彼女に与えるように、微かに開いていた彼女の唇から自分の舌を侵入させる。
驚きのあまりか、あるいは迎え入れるためか、動かない彼女の舌に自分のものを絡ませ、吸い付き、口の中に残るチョコの風味ごと彼女に与えていく。
「ん……っ」
小さく漏れる彼女の吐息が、より彼の中にある熱いものを駆り立てていく。
伸ばした手は彼女の細い指の隙間に入り込み、離すまいと言わんばかりにぎゅっと指同士を絡ませ合う。返事のように握り返される手の柔らかさが、いじらしさが、今はたまらなく愛おしい。
唇と唇が触れあい、その熱に理性というものがゆっくりと溶けていく。頭の隅が、触れた指先が、手のひらが、混じり合う舌が、たまらなく熱い。
じんじんと熱を帯びていく体が、もっともっとと先をねだる。欲深なのは良くないなどと言ったのは、どの口だろうか。
十分に彼女の口内を己のもので蹂躙した膝丸は、ようやく娘を離した。混ざり合った唾液が、チョコの代わりに唇の端を濡らしている。
「こちらはいくら食べても、無くならないようだな」
ふっと笑いかけると、彼女はおろおろと視線を彷徨わせていた。自分で誘ってはみたものの、このような返事は予想していなかったのだろう。
くいくい、と膝丸の寝間着の裾を引き、敷かれている布団へと彼を誘う。もぞもぞと後ろに下がって布団の上にちょこんと座り直した若苗は、こちらへと歩み寄る大きな影へと手を広げた。
「ど、どうぞ、召し上がってください」
普段から雪のように白いと思っていた肌は、先の口づけのためか、ほんのりと桜色に染まっている。上目遣いにこちらを見つめる瞳は、次を望むように僅かに潤んでいた。普段はきっちりと着物に包まれている体も、今日は腰紐の緩んだ寝間着一つしか纏っていない。
こんな状態で、「召しあがって」などと言われてしまっては。
膝丸は彼女の側に座り直し、切れかけている理性の手綱をどうにか手繰り寄せ、そっと彼女を抱き寄せる。微かな震え、そしてこちらの背に回されるほっそりとした手。彼女の首元に顔を埋めると、甘い香の薫りがふわりと漂った。それも、以前自分が贈ったものだと彼は知っている。
「今日は、みっともないところを見せてしまうかもしれぬ。……許せ」
最後の理性とともに絞り出すように口にした言葉は、自分が思っていたよりも優しく聞こえた。彼の精一杯の労りに応じるように、若苗も膝丸の耳元にそっと囁く。
「はい。許します。如何様にもしてください」
その許しの言葉が、かろうじて保っていた膝丸の理性を容赦なく断ち切った。先に口にした甘味よりなお甘いものへと、彼は迷うこと無く己の舌を這わせた。
その日がバレンタインという耳馴染みのない名前の、しかしとても重要な意味を持つ日になっていることを知ったのは、膝丸にとっては数年前のことだった。
当初、バレンタインは世話になってる者に贈り物をする日だと彼は教わっていた。日頃の感謝を伝える日なのか、と理解した膝丸は、この年になるとささやかな贈り物を主に渡すようにしていた。お互いが自分のお気に入りの菓子を持ち寄って、感謝の言葉を渡し合う日。膝丸の中で二月十四日はそのように定義されていた。
だが、数日前。彼は主からこっそりとこのように言われたのだ。
「実はね、バレンタインは好きな人にお菓子をあげる日でもあるんだよ」
そのように囁く彼女もまた、ひどく嬉しそうだった。それもそのはず、彼女は膝丸の兄である髭切とは、自他とともに認める恋人同士なのだから。
彼らの思いが通じ合うのは喜ばしいことだと、膝丸としても二人の関係を認めて素直に祝福していた。以前なら、それで終わるはずだったのだが。
「随分と楽しそうだね」
「兄者か。いや、それほど浮かれているように見えるか?」
「足元、見てみたら?」
質問に質問で返されて、膝丸は本丸の廊下に立つ自分の足元を見やる。そこには一目でわかるほど桜の花びらが積もっていた。
気分が高揚すると刀剣男士から桜の花びらが舞い落ちるというのは、誰だって知っている。顔色は隠せてもこればかりは隠しようもない。
「そんなに、あの子から貰えるって考えるのが嬉しいのかなって」
「い、いや、別にそういうわけでは」
髭切が暗に示しているあの子とは、この本丸に住まうもう一人の娘のことだ。膝丸とは何かと縁がある彼女は、訳あってこの本丸に身を寄せてからもう数年になっている。
それ以前からも膝丸から一方的に彼女を憎からず思っていたが、最近になってようやく行き違いになっていた気持ちに気がついた二人は、晴れて両思いとなった。
そこまで至れば、次を求めてしまうのも止むなしというもの。膝丸が桜の花びらを山と積み上げている理由は、そこにあった。
「俺は、そのようなものにうつつを抜かすような浮ついた者ではないぞ。既に主から貰っているのだから、これ以上を望むのは欲深というものだ」
彼のいう通り、膝丸の手には毎年主が皆に渡しているチョコレートの包装がある。今年はどうやら炭にならずに済んだようだ。包みから漏れる芳香は、程よく彼の食欲を唆るものだった。
「お前はもう少し、欲張りになってもいいと思うけどね。僕は後からもう一つあげるって主に言われているよ?」
髭切は得意げな笑みと共に、自分の特別扱いを隠すこともせずに明らかにした。彼らの付き合いは本丸内では公然のものであるが、表向きは極端に差が出ないように主も気を遣っているらしい。もっとも、恋人の髭切が特に隠そうともしていないので、彼女の心配りも無に帰しているように膝丸には思えた。
「でも、僕らは主から貰いはしたけれど、あの子から貰ってないね。今年は何かと忙しかったみたいだから、作らないのかな?」
膝丸の思い人は、もしかしたら贈り物を用意していないかもしれない。その可能性を示唆されて、膝丸は頭の上に大きな重石を載せられたような衝撃を受ける。
そうはいっても、貰えないのは残念だとあからさまに顔に出すことは、膝丸自身の矜持が許さなかった。
「そ、そういうこともあるのだろう。だから、欲を出すものではないと言ったのだ。既に主から貰っている分で、糧食としては十分だからな。それに甘いものばかり食べていては舌がおかしくなる」
実は密かに期待していたこともあって内心では胸が張り裂けそうではあったが、彼はつらつらと自分に言い聞かせるような言い訳を口にしてそれを誤魔化した。
素直じゃないな、と思った髭切は、ふと小さな足音を耳にして、振り返る。話に夢中になっている膝丸は気づいてなかったようだが、ちらりと小さな黒い影がよぎったのを髭切は見逃さなかった。
(弟は、肝心な所でちょっとうっかり者だよねえ……)
結局、髭切は何も言わずに、止めどなく流れる膝丸の言い訳を聞くことに徹したのだった。
***
(……遅い)
その日の夜。部屋の時計の長針と短針は既に真上を指さしている。外は既にとっぷりと日が暮れて久しく、つまるところもう三十分もすれば日付が変わってしまう。なのに、膝丸は未だ意中の相手から菓子はおろか、キャンディの一つも貰っていなかった。
顔を合わせてはいたが、その時はいつも彼女は誰かと一緒にいた。主と楽しそうに話をしていたり、歌仙の手伝いをしていたりと、膝丸が声をかけても「すみません、少し手が離せなくて」言われてしまう始末。それでも、夜になればと風呂を出て意気込んで待つこと数時間。彼女が訪れる気配は、今の所皆無だ。
「まさか、本当に作っていない……。いや、知らないという可能性も……」
世間の常識に疎い所がある娘だ。だから、今日が贈り物をする日だとは知っていても、恋人にお菓子を渡す日ではあると知らずにいるのかもしれない。あるいは、ひょっとして主と一緒にお菓子を作ってそれで満足したのだろうか。
それなら、今日主から渡されたチョコレートは事実上彼女が作ったことにもなるのだが、兄のように恋人からの特別な一つが欲しいというのが膝丸の本音であった。
「……期待して勝手に空回りして、俺はどこまで愚かなのだ」
自分を叱責し、膝丸は軽く首を横に振る。余計なことを考えるのはやめよう。彼女にも、何か事情があるのだろうから。そうこうしている内に、あと十五分で今日も終わる。明日は何食わぬ顔で彼女に挨拶をしよう。今日の未練は今日に置いていくべきだ。
そうやって菓子を貰うのを諦めるための言い訳を一通り並べ終えて、照明を落とし、膝丸は床へと入ろうとした。
「あの……」
部屋の障子の向こうから、待ち人の細い声を耳にするまでは。
「入っても、よろしいでしょうか」
心なしか震えているそれは、紛れもなく膝丸の思い人のものだ。
「若苗か」
返答に迷うより先に、娘の名が彼の口から零れ出た。その音を耳にするだけでも愛おしさが増すというのに、今は同時に苦々しさも覚えてしまう。
潰したはずの期待という名の風船が、性懲りも無く膨れ上がる。同時に、失望を抱いてしまうのではないかという不安も共に大きくなる。
障子一枚挟んでの距離。近いようで遠い距離。追い返してしまえば、期待をせずに済むと分かっているのに。膝丸の体はまるで誘われるように勝手に動き、欲深な己を制するより先に障子を開いてしまった。
予想通り、そこには寝間着姿の少女――若苗が立っていた。薄手の着物の上からは申し訳程度にショールをかけているだけで、二月の廊下を歩いて行くには寒すぎる装いであるということは一目で分かる。
「こんな時間にそのような格好で、一体どうしたのだ」
責めるような物言いに聞こえたのか、若苗はまるで小動物のようにきゅっと肩を縮こませる。
だが、膝丸の問いに彼女は何も言わなかった。代わりに、後ろ手に持っていた何かを勢いよく彼の前に差し出した。
「……あ、あの、糧食として、もう十分なのでしょうとは、分かっていたのですが」
「ん?」
「甘いものばかり食べても舌がおかしくなるというのも重々承知なのですが、よ、よろしければ……貰っていただけないでしょうか」
「なぜ、そのようなことを」
彼女にしては、らしくない言い訳がつらつらと並べられ、突き出された贈り物に対して膝丸は喜ぶより先に疑問を抱く。
自分はそのようなことを彼女に言っただろうか――とまで思いかけて、膝丸は昼に髭切と交わした会話を思い出す。贈り物を貰えなかったとしても、自分が傷つかぬようにと言い訳のことを。
「聞こえていたのか……」
おずおずと首を縦に振る彼女を前にして、予想は確信へと変える。時間が巻き戻るなら、今すぐ己の口を塞ぎに行きたいほどの後悔が膝丸を襲った。怯えた小動物のようにこちらを見つめる若苗は、膝丸の言葉を聞いて用意した贈り物を渡していいものかと、悩んでいたのだろう。
「あれは……そう、言葉の綾だ。君が用意していないのかと思い、それでつい心にもないことを言ってしまった」
まさか貰えない可能性があると示唆されて動揺してしまい、悲しい気持ちを誤魔化すためについた言い訳だ、などということは言えなかった。
「では、膝丸様に喜んでいただけるのでしょうか」
「ああ、無論だ。すまなかった」
一度頭を下げてから、膝丸は差し出されていた贈り物を受け取る。膝丸の手の上にすっぽりと収まるような小さな包みから透けて見えるのは、ころころとした褐色の球のような菓子だ。粉雪が積もったように白いものも混ざっている。
「生チョコと言われているものを作ったのです。チョコと生クリームを混ぜて固め直しただけの簡単なもので……お口に合うとよいのですが」
「……今、食べてもいいだろうか」
「えっ」
念願の贈り物を貰えて嬉しい気持ちに急かされて、膝丸は今すぐにでも彼女の手作り菓子を口にしたい気持ちでいっぱいだったのだが、若苗にとっては予想外だったようだ。
それでも彼女はしどろもどろになりながらも、こくこくと頷いてみせた。
「立ったままでは寒いだろう。中に入るといい」
「あの、それは……」
彼女は膝丸と部屋の様子を交互に見比べ、どういうわけか頬を先ほどよりも濃い朱色に染めてから「お邪魔します」と中に入った。
「座布団はもう片付けてしまったのでな。申し訳ないが、そちらでいいだろうか」
膝丸が手で示した先にあるのは、寝る前の自分が引いた布団だった。他は座椅子しかなく、布団以外に座る場所がないのだ。
彼女からもらったチョコは一度文机の上に載せ、膝丸は座椅子にかけていた半纏を彼女に渡そうと振り返り、首を捻る。どういうわけか彼女は布団の上で突っ立ったまま、おろおろとしていた。
「……どうかしたのか?」
「い、いえ。お気遣い、ありがとうございます」
「遠慮は無用だ。冬の夜は冷える。体は冷やさぬ方が良いだろう」
半纏に包まった若苗は、ようやく布団の上に腰を下ろしてくれた。
腰を落ち着けた彼女から期待に満ちた瞳で見つめられ、膝丸は再び文机の上に置かれた菓子へ向き直る。穴の開くほど見つめられながら食べるのは面はゆいが、彼女の嬉しそうな顔を見ながら食べられるのなら、文句などあるわけがない。
包みのリボンをほどき、普段は刀を握っている指先で小さな球状の菓子を摘まみ上げる。周りに何か振りかけてあるのか、指先に茶色の粉がいくらか付着した。
構うことなく、彼は一口でそれを食べる。周りの粉の甘苦い香りが口内に広がったかと思いきや、固めたチョコレートとは異なる柔らかい感触のそれを、彼の尖った歯が貫いた。
甘いというよりは、どちらかと言うと少し濃い苦さが目立つ。味わいとしては紛れもなくチョコレートのそれだが、普段冷やして食べているものとは違う食感が面白くもあった。
「ど、どうでしょうか」
「……正直言うと、驚かされたな。チョコというのは冷やして固めるものとばかり思っていた。それに、甘さが普段食べているものと異なるようだ」
「お嫌いですか」
「いや、このように苦みが強いものの方が、俺の口には合う」
「普段、皆さんは甘いお味のものを購入されているようだったのですが、膝丸様は甘みを抑えたものの方がお好きなのではと思っていましたので……」
この本丸の主は甘みの強いものが好きなので、普段から膝丸が口にするチョコレートは自然と甘いものが多くなっていた。慣れ親しんだ味として、膝丸としてもそれはそれで嫌いではないと思ってはいた。
だが、自分のためだけの目の前の思い人が材料から改めて選んでくれたのかと思うと、彼の心はこれ以上ないほどに歓声を挙げていた。
「もう一つ、食べても良いだろうか」
「はい、どうぞ」
再び期待に満ち満ちた視線に晒されながら、膝丸は自分のためだけに用意されたチョコをもう一つ口にする。今度は粉雪のように白い粉がかけられたものだ。
舌の上で溶けて消える時の甘苦さはそのままだが、先ほどよりほんのりと上品な甘さが後を引く。食べてから思わず息が溢れそうになるほどだ。
「これは大変美味なものだな。食べて無くなってしまうのが惜しいほどだ」
自分でも自然に浮かべられたと思う笑みを彼女に向けると、はたして若苗もつられたようにぱっと笑顔を咲かせた。まさに大輪の花のようだ。
残りはまた明日食べるとしよう、と膝丸は包みを戻そうとして、自分の指先に付着するものに気がついた。就寝前であることもあって、普段は手袋で包まれている指は当然素手だ。そして、彼の親指と人差し指の先は先ほどの菓子についていた粉によって茶と白に染め上げられていた。摘まみ上げた時についてしまったものだろう。
一瞬の躊躇いはあったものの、彼はまず親指についていたそれに何気ない仕草で舐める。少しはしたないかとは思ったが、折角彼女が作ってくれたものを粉一つでも無駄にするのは気が引けてしまったのだ。
「……?」
ふと視線を感じて、膝丸は顔を上げる。いつの間にか、贈り主である娘が、布団の上から彼のすぐ近くにまで来ているではないか。
半纏も羽織物も脱いだ彼女は、どういう理由か思い詰めた様子でこちらをじっと見つめている。
「若苗、どうかしたのか」
「膝丸様。あの……口元にもついています」
「そうだったのか。すまない。自分では気が付かなかった」
文机にあるちり紙に彼が手を伸ばそうとしたとき、ふ、と視界に影が落ちる。自分の体に触れる彼女の手の感触。どうしたのかと思うより先に、口元に暖かく濡れたものが通り過ぎた。
それが彼女の舌であり、菓子の粉がついた己の口元を舐めたのだと気がつく頃には、既に彼女の体は離れていた。
不意を突かれて、呆気にとられた表情を取り繕う暇も膝丸にはない。見開かれた琥珀の双眸は、自分のすぐ側で小さくなっている娘をただただ見つめていた。
「あ、あの……今日は、恋人にとって特別な日だと伺っていましたので、はしたないとは分かっていたのですが」
ただ贈り物を渡しに行くにしては、些か薄手すぎる装い。部屋に誘われたときに、こちらと部屋の様子を交互に見つめていた視線。布団の上に案内されて、躊躇っていた様子。
そして今の行動と、つっかえつっかえ述べられた言葉に、彼女の白い頬がまるで熱に浮かされたように紅くなっている意味。
それは、自分にとって都合のいい勘違いなのではないか、と膝丸が躊躇する必要もないくらい、明らかな誘いの形をしていた。
「もし……よろしければ、ですけれども」
彼女の控えめな問いの答えの代わりに、彼は口元へ弧を描いた。
人差し指に残っていた菓子の粉を舌でなめとり、彼女の腕を掴んで引き寄せ、問答無用でその唇を己のもので塞ぐ。舌に残った甘苦い味をそのまま彼女に与えるように、微かに開いていた彼女の唇から自分の舌を侵入させる。
驚きのあまりか、あるいは迎え入れるためか、動かない彼女の舌に自分のものを絡ませ、吸い付き、口の中に残るチョコの風味ごと彼女に与えていく。
「ん……っ」
小さく漏れる彼女の吐息が、より彼の中にある熱いものを駆り立てていく。
伸ばした手は彼女の細い指の隙間に入り込み、離すまいと言わんばかりにぎゅっと指同士を絡ませ合う。返事のように握り返される手の柔らかさが、いじらしさが、今はたまらなく愛おしい。
唇と唇が触れあい、その熱に理性というものがゆっくりと溶けていく。頭の隅が、触れた指先が、手のひらが、混じり合う舌が、たまらなく熱い。
じんじんと熱を帯びていく体が、もっともっとと先をねだる。欲深なのは良くないなどと言ったのは、どの口だろうか。
十分に彼女の口内を己のもので蹂躙した膝丸は、ようやく娘を離した。混ざり合った唾液が、チョコの代わりに唇の端を濡らしている。
「こちらはいくら食べても、無くならないようだな」
ふっと笑いかけると、彼女はおろおろと視線を彷徨わせていた。自分で誘ってはみたものの、このような返事は予想していなかったのだろう。
くいくい、と膝丸の寝間着の裾を引き、敷かれている布団へと彼を誘う。もぞもぞと後ろに下がって布団の上にちょこんと座り直した若苗は、こちらへと歩み寄る大きな影へと手を広げた。
「ど、どうぞ、召し上がってください」
普段から雪のように白いと思っていた肌は、先の口づけのためか、ほんのりと桜色に染まっている。上目遣いにこちらを見つめる瞳は、次を望むように僅かに潤んでいた。普段はきっちりと着物に包まれている体も、今日は腰紐の緩んだ寝間着一つしか纏っていない。
こんな状態で、「召しあがって」などと言われてしまっては。
膝丸は彼女の側に座り直し、切れかけている理性の手綱をどうにか手繰り寄せ、そっと彼女を抱き寄せる。微かな震え、そしてこちらの背に回されるほっそりとした手。彼女の首元に顔を埋めると、甘い香の薫りがふわりと漂った。それも、以前自分が贈ったものだと彼は知っている。
「今日は、みっともないところを見せてしまうかもしれぬ。……許せ」
最後の理性とともに絞り出すように口にした言葉は、自分が思っていたよりも優しく聞こえた。彼の精一杯の労りに応じるように、若苗も膝丸の耳元にそっと囁く。
「はい。許します。如何様にもしてください」
その許しの言葉が、かろうじて保っていた膝丸の理性を容赦なく断ち切った。先に口にした甘味よりなお甘いものへと、彼は迷うこと無く己の舌を這わせた。