八乃・志乃本丸短編
コチコチと音をたてて動く秒針に向けて、目の前に座っている青年の視線がちらりと動く。一つ長針が動くたびに、視線がちらり。集中できていないことが丸わかりである。 そんなことをもう五分近く続けていることもあり、痺れを切らしたもう一人の青年は、わざとらしいため息を吐いた。
「偽物くん。三時のおやつがそんなに待ち遠しいのかな」
目の前の仕事仲間が、堂々と気もそぞろになっていたら、共に仕事をしている者としては、いい気がするわけもない。
山姥切長義は口元に皮肉げな笑みを浮かべ、目こそ辛うじて笑っているものの、額にはしっかり青筋を立てていた。
仕事と言っても精々が本丸内の備蓄管理や設備の損害報告であり、日頃からやっていることでもあるので今更念入りにやる必要もない。とはいえ、仕事は仕事だ。だというのに、目の前の彼はふてぶてしいことに真顔のまま、
「今日の三時は特別だからな」
真顔で長義の皮肉をさらりと受け流したのだった。答えたのは無論、彼と似た造作の顔を持つこの本丸の初期刀、山姥切国広だ。
「今日の三時に何かあるのか?」
特段目立った行事はなかったはずだが、と長義が思った矢先、切国が答える前に時計が三時の鐘を鳴らした。彼は待ってましたと言わんばかりに、部屋に置かれている給湯器の操作を始める。続いて、同様に設置されている茶箪笥から、慣れた手つきでティーカップを取り出した。普段は日本茶を淹れることが多いのに珍しい、と長義は眉を少しだけ持ち上げて様子を伺う。
長義が見ていることも意に介さず、切国が引き出しからティーバッグが入った袋を取り出したときだった。
「きーりーくーにー!!」
スパァーンと勢いよく襖が開く。びっくりした長義が思わず振り向くと、そこには栗色の髪の毛を一つにまとめた、満面の笑顔を浮かべている少女が立っていた。今日は普段身に纏っている巫女装束ではなく、妙にめかし込んだ当世風の格好をしている。この本丸の主の一人、八乃と呼ばれる娘だ。
続いて彼女の後ろから「おじゃましまーす」と控えめに姿を見せるのは八乃と瓜二つの顔をしている少女だ。八乃とは異なり、長義と同じような銀の髪をこれまた一つにまとめている。装いもまるで鏡あわせのように、八乃と色違いの服を身につけている。
彼女たちは双子ではあるのだが、その性格は面白いくらいに真逆であるということは、長義もよく知っていた。
「二人とも、一体どうしたのかな」
「あ、長義さんは後でね。切国。今年は切国が一番乗りね!」
長義に軽く挨拶をしてから、八乃はずかずかと部屋にあがりこみ、片手から提げていた袋から大きな包みを取り出した。彼女の好きなパステルグリーンの包装に、オレンジ色のリボンがかけられている。山姥切国広の瞳と戦装束の飾りを表しているようだ、と長義は片目でそちらを見やりながら思う。半透明の袋から垣間見えるのは、お菓子らしき茶色の塊だった。微かに漂う香りから察するに、チョコレートのお菓子だろう。
「……偽物くん、これは?」
「今日はバレンタインだ。毎年この日は、八乃が菓子を作って渡してくれる」
どこか得意げに説明している彼の頬は、本人は無自覚だろうが少しだけ得意げに緩んでいた。この本丸に来てまだ日が浅い長義は、さして興味もなさそうに、ふうんという声を漏らすだけだった。いつの間にかちょこんと隣に座っている志乃が、まじまじとこちらを見ていることに、彼はまだ気がついていない。
自分の本歌の態度は一旦無視して、切国は主である八乃の方へと顔を向ける。その間も、紅茶を入れる手は休むことなく動き続けていた。
「他の連中には会わなかったのか?」
「鯰尾とか骨喰もいたけれど、先に切国に渡したくって」
去年はできあがったお菓子を片手に、出会った者から順に片っ端に渡していたのに、と切国は当時のことを思い返す。
「それは、どういう風の吹き回しでそうなったんだ?」
できるだけ平静を装って切国が尋ねると、八乃は得意げに腰に手を当てて胸を逸らしてみせる。
「バレンタインっていうのは、好きな人や大事な人に贈り物を渡すって日なんだよ。折角なんだから、一番好きな人には一番初めに渡したいなって思ったわけ!」
彼女の発言を聞いて、機械的に手を動かしていた切国は、うっかりポットのお湯を自分の手にかけそうになってしまった。頬に上る熱を頭から被っている布が隠していることを願いながら、彼は少女の言葉の続きを待つ。
「なーのーで! 私は切国が一番だから一番に渡したんだよ」
「あんたにとって、俺がそこまで評価されているとは思わなかったな」
平静を装ってはいたものの、彼の心臓はいつもの数倍早く脈を打っていた。長義の前では涼しげな顔をしていられたのに、こうやって実際に言葉をぶつけられると平静なんていうものは、どこかに飛んでいきそうだ。
審神者として、彼女が本丸にやってきてから早数年。小さい頃から面倒を見ていた彼女がいつしか大きくなり、その明けっぴろげな明るさに心を奪われてから更に数年。恋を知るにはまだ幼さが残る彼女と自分では、きっと気持ちが釣り合わないだろうと分かっているのに、彼の期待は際限なしに膨らんでいく。
もっとも、切国の予想しているように、八乃は照れている様子は全く見せていなかった。その言葉に裏表がないのは、彼女の変わりない向日葵のような笑顔を見れば一目瞭然である。けれども、
「他の皆も大事で一番なんだけどね。でも、切国の一番は何か、ちょーっとだけ違うって言うか」
人差し指をちょんちょんとつつき合わせて口にした言葉は、切国の期待に応じるものでもあった。上目遣いでこちらを見上げる瞳に、彼は思わず目を逸らして直視を避けた。真っ直ぐ覗き込まれてしまうと、折角布の下に隠した頬の赤みが彼女に見えてしまう。
「うーん、なんだろうね? えっと、そういうわけで特別な贈り物をしたかったってことなんだよ。だからチョコレートも大きくしてみたの!」
「ああ、感謝する。……八乃」
普段は『あんた』や『主』と呼ぶことが多く、照れもあってなかなか口にできなかった彼女の名を、今日はするりと言葉にすることができた。布の陰から垣間見えた少女の顔は、目をまん丸にして驚きを露わにしている。
だが、やはり自分の思いを彼女が理解するには、まだ早すぎたようだ。結局、八乃はいつものようににこっと笑うだけだった。
「どういたしましてー。味もばっちりだから、早く食べよう!」
一つ頷きを返して、切国は紅茶の準備を始める。無心で砂糖を放り込まれ続けたカップには、真っ白な粉が雪のように積もっていた。
ティーカップの一つに雪景色が生まれている頃、長義は机の上に先んじて出されたチョコケーキにフォークを突き立てていた。
彼に相対するように座っているのは、この本丸のもう一人の主である志乃だ。長義にとっては彼女の方が付き合いが長く、どちらかというと彼にとっての主は彼女を指していた。
そんな彼は今、穴が開くほど見つめられながらケーキを口にすることになっていた。部屋にやってきた二人のうち、八乃が山姥切国広と何事か話している間、長義はいきなり目の前にケーキを差し出され、「食べてください」とお願いされたのである。恐らくお菓子の試食を頼まれてるのだろうと、丁度おやつどきということもあり長義は二つ返事で彼女の頼みを引き受けたのだった。
舌の中で溶けていくチョコクリームとスポンジの味わいは、甘さと程よい苦さが混ざっていて店で売っているものと比べても遜色の無い出来だ。評価をつけるなら、個人的には『優』としていいほどである。
「ど、どう?」
「ああ。とても上手にできているし、味も完璧だ。志乃がここまでお菓子作りができるようになってるとは思わなかったな」
長義の評価を聞いて、志乃はふわっと花が綻ぶように微笑む。
「何度も練習したんだよ。その」
後ろから聞こえる切国と双子の姉の会話を聞き、志乃はぐっと視線に力をこめる。姉より少し白い頬には、さっと朱が混ざっていた。
何やら期待を込めた表情を見せつつ、志乃は震える唇からつっかえつっかえ言葉を発する。
「わ、私も、長義が一番大事で、だから一番に持ってきたんだよ」
「それは嬉しいね。ありがとう」
いつものように感謝の言葉と笑顔を送れば、彼女は喜んでくれるはずだった。だが、長義を見つめる志乃の目は何故か泣きそうに揺れている。
「私の一番は……長義、だから。頑張ったの」
「努力は十分に伝わっているよ。最高の評価をつけてもいいと思っている」
よくできたね、と頭を撫でると、どういうわけか彼女はしょんぼりと肩を落としてしまった。叱られて項垂れる姿はよく目にしたことがあるが、褒めたのにこのような態度をとられたことはない。
どうしたものかと長義が首を傾げていると、ごっという鈍い音と共に彼の頭頂部に鈍痛が走った。振り向けば握りこぶしを固めた山姥切国広が、静かな怒りのようなものを瞳に湛えて長義を見下ろしていた。
「……何のつもりだい、偽物くん」
「あんたこそ、彼女に対して何のつもりだ」
鈍感な本歌は気がつかずとも、同様の思いと同様のすれ違いを嫌というほど体験してきた切国は、志乃の視線の意味に気がついていた。故に見ていられず、目の前の彼を小突いてしまったのだ。
とはいえ、小突かれた側としては、その意味や理由など当然知る由もない。長義は不愉快そうに眉を顰め、剣呑な眼差しを切国へと叩きつける。
「何を言っているのか、分かるように説明して貰えるかな」
「俺の説明を一から十まで聞く暇があるなら、あんたは前を見て先に言うことがあるだろう」
一体何のことだと思ったら、眼前に座っている志乃の必死な思いが詰まった視線に、否が応でも気付かされた。その顔は、欲しい物が貰えずに、ぐっと我慢しているときの幼い彼女を思わせるものだ。
褒め言葉は与えた。美味しいという評価も下した。頭だって撫でたのに、他に何が欲しいというのだろう。
長義には分からない。けれども、何も言わずにいるというのも気まずい。何を望んでいるのだろうかと彼女とのやり取りを必死で思い返し、
「――志乃。また俺のためだけに、作ってくれないかな」
なんとか辿り着いた言葉は、自分で言っていても照れくささを覚えるものだった。こんな歯の浮いたような言葉で良かったのかと肝心の彼女を見やれば、嬉しそうにこくこくと頷いている姿が目に入る。
これが本当に正解の言葉だったのか。自信はいまいちなかったが、しかしこれ以上の言葉を長義は見つけることができなかった。
「長義さん、顔真っ赤になってるー」
「八乃、長義をあまり虐めないであげて」
自分をからかうもう一人の主の言葉を、目の前に座る志乃がどこか楽しそうな声音でやんわりと制している。
妙に喉が渇いた長義は、切国が置いてくれていた紅茶の入ったティーカップに手を伸ばす。思い切り中身を飲み干した彼が、底に積もった砂糖に気がつくより先に、その甘さのせいで机に突っ伏すまで数秒もかからなかったのだった。
「偽物くん。三時のおやつがそんなに待ち遠しいのかな」
目の前の仕事仲間が、堂々と気もそぞろになっていたら、共に仕事をしている者としては、いい気がするわけもない。
山姥切長義は口元に皮肉げな笑みを浮かべ、目こそ辛うじて笑っているものの、額にはしっかり青筋を立てていた。
仕事と言っても精々が本丸内の備蓄管理や設備の損害報告であり、日頃からやっていることでもあるので今更念入りにやる必要もない。とはいえ、仕事は仕事だ。だというのに、目の前の彼はふてぶてしいことに真顔のまま、
「今日の三時は特別だからな」
真顔で長義の皮肉をさらりと受け流したのだった。答えたのは無論、彼と似た造作の顔を持つこの本丸の初期刀、山姥切国広だ。
「今日の三時に何かあるのか?」
特段目立った行事はなかったはずだが、と長義が思った矢先、切国が答える前に時計が三時の鐘を鳴らした。彼は待ってましたと言わんばかりに、部屋に置かれている給湯器の操作を始める。続いて、同様に設置されている茶箪笥から、慣れた手つきでティーカップを取り出した。普段は日本茶を淹れることが多いのに珍しい、と長義は眉を少しだけ持ち上げて様子を伺う。
長義が見ていることも意に介さず、切国が引き出しからティーバッグが入った袋を取り出したときだった。
「きーりーくーにー!!」
スパァーンと勢いよく襖が開く。びっくりした長義が思わず振り向くと、そこには栗色の髪の毛を一つにまとめた、満面の笑顔を浮かべている少女が立っていた。今日は普段身に纏っている巫女装束ではなく、妙にめかし込んだ当世風の格好をしている。この本丸の主の一人、八乃と呼ばれる娘だ。
続いて彼女の後ろから「おじゃましまーす」と控えめに姿を見せるのは八乃と瓜二つの顔をしている少女だ。八乃とは異なり、長義と同じような銀の髪をこれまた一つにまとめている。装いもまるで鏡あわせのように、八乃と色違いの服を身につけている。
彼女たちは双子ではあるのだが、その性格は面白いくらいに真逆であるということは、長義もよく知っていた。
「二人とも、一体どうしたのかな」
「あ、長義さんは後でね。切国。今年は切国が一番乗りね!」
長義に軽く挨拶をしてから、八乃はずかずかと部屋にあがりこみ、片手から提げていた袋から大きな包みを取り出した。彼女の好きなパステルグリーンの包装に、オレンジ色のリボンがかけられている。山姥切国広の瞳と戦装束の飾りを表しているようだ、と長義は片目でそちらを見やりながら思う。半透明の袋から垣間見えるのは、お菓子らしき茶色の塊だった。微かに漂う香りから察するに、チョコレートのお菓子だろう。
「……偽物くん、これは?」
「今日はバレンタインだ。毎年この日は、八乃が菓子を作って渡してくれる」
どこか得意げに説明している彼の頬は、本人は無自覚だろうが少しだけ得意げに緩んでいた。この本丸に来てまだ日が浅い長義は、さして興味もなさそうに、ふうんという声を漏らすだけだった。いつの間にかちょこんと隣に座っている志乃が、まじまじとこちらを見ていることに、彼はまだ気がついていない。
自分の本歌の態度は一旦無視して、切国は主である八乃の方へと顔を向ける。その間も、紅茶を入れる手は休むことなく動き続けていた。
「他の連中には会わなかったのか?」
「鯰尾とか骨喰もいたけれど、先に切国に渡したくって」
去年はできあがったお菓子を片手に、出会った者から順に片っ端に渡していたのに、と切国は当時のことを思い返す。
「それは、どういう風の吹き回しでそうなったんだ?」
できるだけ平静を装って切国が尋ねると、八乃は得意げに腰に手を当てて胸を逸らしてみせる。
「バレンタインっていうのは、好きな人や大事な人に贈り物を渡すって日なんだよ。折角なんだから、一番好きな人には一番初めに渡したいなって思ったわけ!」
彼女の発言を聞いて、機械的に手を動かしていた切国は、うっかりポットのお湯を自分の手にかけそうになってしまった。頬に上る熱を頭から被っている布が隠していることを願いながら、彼は少女の言葉の続きを待つ。
「なーのーで! 私は切国が一番だから一番に渡したんだよ」
「あんたにとって、俺がそこまで評価されているとは思わなかったな」
平静を装ってはいたものの、彼の心臓はいつもの数倍早く脈を打っていた。長義の前では涼しげな顔をしていられたのに、こうやって実際に言葉をぶつけられると平静なんていうものは、どこかに飛んでいきそうだ。
審神者として、彼女が本丸にやってきてから早数年。小さい頃から面倒を見ていた彼女がいつしか大きくなり、その明けっぴろげな明るさに心を奪われてから更に数年。恋を知るにはまだ幼さが残る彼女と自分では、きっと気持ちが釣り合わないだろうと分かっているのに、彼の期待は際限なしに膨らんでいく。
もっとも、切国の予想しているように、八乃は照れている様子は全く見せていなかった。その言葉に裏表がないのは、彼女の変わりない向日葵のような笑顔を見れば一目瞭然である。けれども、
「他の皆も大事で一番なんだけどね。でも、切国の一番は何か、ちょーっとだけ違うって言うか」
人差し指をちょんちょんとつつき合わせて口にした言葉は、切国の期待に応じるものでもあった。上目遣いでこちらを見上げる瞳に、彼は思わず目を逸らして直視を避けた。真っ直ぐ覗き込まれてしまうと、折角布の下に隠した頬の赤みが彼女に見えてしまう。
「うーん、なんだろうね? えっと、そういうわけで特別な贈り物をしたかったってことなんだよ。だからチョコレートも大きくしてみたの!」
「ああ、感謝する。……八乃」
普段は『あんた』や『主』と呼ぶことが多く、照れもあってなかなか口にできなかった彼女の名を、今日はするりと言葉にすることができた。布の陰から垣間見えた少女の顔は、目をまん丸にして驚きを露わにしている。
だが、やはり自分の思いを彼女が理解するには、まだ早すぎたようだ。結局、八乃はいつものようににこっと笑うだけだった。
「どういたしましてー。味もばっちりだから、早く食べよう!」
一つ頷きを返して、切国は紅茶の準備を始める。無心で砂糖を放り込まれ続けたカップには、真っ白な粉が雪のように積もっていた。
ティーカップの一つに雪景色が生まれている頃、長義は机の上に先んじて出されたチョコケーキにフォークを突き立てていた。
彼に相対するように座っているのは、この本丸のもう一人の主である志乃だ。長義にとっては彼女の方が付き合いが長く、どちらかというと彼にとっての主は彼女を指していた。
そんな彼は今、穴が開くほど見つめられながらケーキを口にすることになっていた。部屋にやってきた二人のうち、八乃が山姥切国広と何事か話している間、長義はいきなり目の前にケーキを差し出され、「食べてください」とお願いされたのである。恐らくお菓子の試食を頼まれてるのだろうと、丁度おやつどきということもあり長義は二つ返事で彼女の頼みを引き受けたのだった。
舌の中で溶けていくチョコクリームとスポンジの味わいは、甘さと程よい苦さが混ざっていて店で売っているものと比べても遜色の無い出来だ。評価をつけるなら、個人的には『優』としていいほどである。
「ど、どう?」
「ああ。とても上手にできているし、味も完璧だ。志乃がここまでお菓子作りができるようになってるとは思わなかったな」
長義の評価を聞いて、志乃はふわっと花が綻ぶように微笑む。
「何度も練習したんだよ。その」
後ろから聞こえる切国と双子の姉の会話を聞き、志乃はぐっと視線に力をこめる。姉より少し白い頬には、さっと朱が混ざっていた。
何やら期待を込めた表情を見せつつ、志乃は震える唇からつっかえつっかえ言葉を発する。
「わ、私も、長義が一番大事で、だから一番に持ってきたんだよ」
「それは嬉しいね。ありがとう」
いつものように感謝の言葉と笑顔を送れば、彼女は喜んでくれるはずだった。だが、長義を見つめる志乃の目は何故か泣きそうに揺れている。
「私の一番は……長義、だから。頑張ったの」
「努力は十分に伝わっているよ。最高の評価をつけてもいいと思っている」
よくできたね、と頭を撫でると、どういうわけか彼女はしょんぼりと肩を落としてしまった。叱られて項垂れる姿はよく目にしたことがあるが、褒めたのにこのような態度をとられたことはない。
どうしたものかと長義が首を傾げていると、ごっという鈍い音と共に彼の頭頂部に鈍痛が走った。振り向けば握りこぶしを固めた山姥切国広が、静かな怒りのようなものを瞳に湛えて長義を見下ろしていた。
「……何のつもりだい、偽物くん」
「あんたこそ、彼女に対して何のつもりだ」
鈍感な本歌は気がつかずとも、同様の思いと同様のすれ違いを嫌というほど体験してきた切国は、志乃の視線の意味に気がついていた。故に見ていられず、目の前の彼を小突いてしまったのだ。
とはいえ、小突かれた側としては、その意味や理由など当然知る由もない。長義は不愉快そうに眉を顰め、剣呑な眼差しを切国へと叩きつける。
「何を言っているのか、分かるように説明して貰えるかな」
「俺の説明を一から十まで聞く暇があるなら、あんたは前を見て先に言うことがあるだろう」
一体何のことだと思ったら、眼前に座っている志乃の必死な思いが詰まった視線に、否が応でも気付かされた。その顔は、欲しい物が貰えずに、ぐっと我慢しているときの幼い彼女を思わせるものだ。
褒め言葉は与えた。美味しいという評価も下した。頭だって撫でたのに、他に何が欲しいというのだろう。
長義には分からない。けれども、何も言わずにいるというのも気まずい。何を望んでいるのだろうかと彼女とのやり取りを必死で思い返し、
「――志乃。また俺のためだけに、作ってくれないかな」
なんとか辿り着いた言葉は、自分で言っていても照れくささを覚えるものだった。こんな歯の浮いたような言葉で良かったのかと肝心の彼女を見やれば、嬉しそうにこくこくと頷いている姿が目に入る。
これが本当に正解の言葉だったのか。自信はいまいちなかったが、しかしこれ以上の言葉を長義は見つけることができなかった。
「長義さん、顔真っ赤になってるー」
「八乃、長義をあまり虐めないであげて」
自分をからかうもう一人の主の言葉を、目の前に座る志乃がどこか楽しそうな声音でやんわりと制している。
妙に喉が渇いた長義は、切国が置いてくれていた紅茶の入ったティーカップに手を伸ばす。思い切り中身を飲み干した彼が、底に積もった砂糖に気がつくより先に、その甘さのせいで机に突っ伏すまで数秒もかからなかったのだった。