若苗の話
「夜の海、とても綺麗でしたね」
「ああ。風光明媚とはまさにこのことだろう」
「暖かくなったら、今度は皆さんと来てみたいです。歌仙様と一緒にお昼を用意して、藤様が話されていた川遊びのように水を掛け合って」
「川遊びのときは、それはもう主がはしゃいで大変だったな。彼女がかけた水が川辺で歌を考えていた歌仙に当たって、とても酷いことになったのだぞ」
その時を思い出したのか、くつくつと笑う声が運転席から聞こえた。顔を見ることができないのが残念だ、と若苗は背もたれに体を預けながら思う。
帰りの車中では、若苗は後部座席に座っていた。そちらの方が、眠くなったら好きなように姿勢を変えて眠れるからと膝丸に勧められたのだ。シートベルトで多少拘束は受けても、隣に座る者を気遣わなくてもいい分楽なはず、ということだった。
「川遊びといえば、水遊び用の服があると藤様から聞いております。海で遊ぶときには、そのような格好をしてみるのもいいかもしれませんね」
若苗としては何の気なしに話してみた話題だったが、不意に車中に沈黙が降りる。何かまずいことでも言ってしまったかと思った折、今度はごほんとわざとらしい咳払いが聞こえた。
「……一応聞いておくがそれは、水着のことを言っているのか?」
「恐らくそうかと思います。あの……私が欲しがるのは、変でしょうか」
「いいや、何もおかしなことではない。そうだ、何も変なことではないぞ」
最後の方は自分自身に言い聞かせるような口調になっていたが、ともあれ先ほどの発言は変なことではなかったようだと分かり、若苗を安堵の息を吐く。
「昼の海はどのような姿を見せてくれるのでしょうね。楽しみです――……ふあぁ」
小さな欠伸が言葉の最後に差し挟まれ、若苗を少し顔を紅くする。ミラー越しにこちらを見ている膝丸と目が合ってしまったからだ。きっと、この欠伸もしっかり見られてしまったことだろう。
「少し休むといい。君も潮風にあたって疲れたことだろう」
「ですが、膝丸様が運転をされているのに私だけ眠るわけには」
「俺もこのカラクリにほとんどは任せている。大して労はない」
そこまで言われてしまうと、無理に起きることもできない。若苗は少しばかり後部座席を倒し、背中を先ほどより深く背もたれに預ける。何度か首の角度を変え、比較的楽な姿勢を見つけてから彼女は瞼を閉じた。だが、眠気はまだ訪れる気配がない。
(やはり膝丸様の側に居た方が良かったのでは、ないでしょうか)
この暗く沈んだ箱の中は、静かすぎる。昼間はさして気にならなかったものの、夜になればその沈んだ世界が浮き彫りになる。時折聞こえるのも、他の車が通り過ぎるときの短いサーッという音のみ。あとは、機械が動く低い駆動音ばかりがこの場を包んでいた。
目を閉じると、この暗闇の中に消えていくような気持ちになる。たとえ起きていたとしても、一人でここにいるのは自分なら心細い。この空間は、この闇は、まるで海の中のようだ。
(あのとき、膝丸様が──少し、怖がっているような気がしました)
波打ち際で戯れている自分を呼ぶ声が、普段と違うように聞こえた。咎めるのとも縋るのとも違う、必死な彼の呼び声に何かが違う、と思ったのだ。
『気のせい』が『もしかしたら』に変じたのは、濡れるからと彼が自分を引き留めたときだ。振り返ったときの膝丸の横顔が、その端正な顔に収まっていた琥珀の瞳が、不安に揺れていたのを若苗は覚えている。
それこそ見間違いだと思いたかった。普段の彼女ならまず間違いなく、そう思っていたことだろう。だが、行きの道で感じた声にならない彼の思いが、彼女の推測を掴んで離さなかったのだ。
(不安に思っても口にすることはしない。それが膝丸様だということも分かっているのですけれど)
常に真っ直ぐ突き進み、揺れることのない彼の生真面目さを若苗は好いていた。
不器用かもしれないが、嘘はつかない。考えが硬いと言われることはあっても、己の過ちを認めて正すことができる。そういった彼の曲がったところのない心根が、純粋に好きだった。だが、それは裏を返せば、曲がることができないとも言える。
(もし、膝丸様が不安を言い出すことができない方なのでしたら、せめて私は隣にいることくらいは許されたい。髭切様や藤様のようにはいかなくても)
ただ、もたれかかるだけの存在で構わないから、彼の側にいたい。そう願うのは烏滸がましいのだろうか。
夢うつつの中、薄暗い深海の底のような世界で若苗は小さな祈りを捧げていた。
帰りの道中は、行きよりも尚静かだった。寧ろ静かすぎて耳が痛くなるのではと思うほどだった。
車が通る雑踏の音だけを耳にして、時たま響くクラクションに警戒の糸を張り直し、救急車のサイレンの音に万が一を思い緊張を顔に滲ませる。そうしているうちに、本丸近くの駐車場に車はやってきていた。
駐車スペースに車を入れ、停車後も点検を欠かさず行い、ようやく無事にたどり着いたと確信してから膝丸は運転席から外に出た。しん、と冷えた夜の外気が、彼の首筋をかすめていく。
(時刻は……二十時か。少しかかったな)
途中で渋滞に巻き込まれてしまった割には、比較的早い時間帯に到着することができた。夕飯の残りをちょうだいすることも。この分ならできるだろう。
後部座席側の扉に回った膝丸は、こんこんと扉をノックする。中にいるときに声をかけても返事がなかったので、こうして直接声をかけることにしたのだ。
が、生憎返事はない。どうやらまだ眠りこけているらしい。
「失礼する」
一言断りを入れてから後部座席の扉を開き、膝丸は思わず苦笑いを零した。最初は背もたれにもたれていたのだろう彼女の上体が、見事にぐにゃんと横倒しになっていたからだ。辛うじて足は座る姿勢をとろうとしているものの、上半身は横になりたいと思った結果、このように変な姿勢になってしまったのだろう。
「若苗。着いたぞ」
横倒しになっている上体の肩を掴んで、軽く揺さぶろうと膝丸は手を伸ばす。だが、彼が上体を伸ばして手を触れさせるより先に、若苗の薄緑の双眸がゆっくりと開いた。
「うぅ……ん」
彼女の声に気がつき、触れる必要はないと膝丸が体を外へと戻そうとしたときに悲劇は起こった。
ごんっという鈍い音と共に、彼の後頭部に鈍い痛みが走る。同時に上体のバランスが崩れて、倒れ込むことになってしまった。よりにもよって、まだ半分寝たような姿勢の若苗を押し倒すような形で。
(…………)
人の頭というものは、突然降って湧いた状況ではまるで役に立たないのだと膝丸は痛感する。いったい何が起きたのか、彼はまるで理解できていなかった。
客観的に見れば、膝丸の上背ではこの車に収まるには結構屈まねばならず、その状態で無理に身を引こうとした彼の後頭部が強かに天井に打ち付けられたのは一目瞭然だ。その弾みでバランスが崩れてしまったというわけだった。
が、どうにかこうにか我に返った今の彼の頭を占めていたのは、自分の体の下敷きになってしまった娘の安否だった。断じて、想像以上に柔らかな感触に一瞬意識が飛んだわけではない、と最早誰に向けてか分からない言い訳を膝丸は頭の片隅でつらつらと並べる。
「膝丸様……?」
「すまない、すぐに退く!!」
慌てて座席の彼女が触れていない隙間に手をついて体を起こしかける。が、その動きを押しとどめるものがいた。
自分の背を撫でる、細い手の感触。彼女が――若苗が、まるでこちらを抱き寄せるように手を添えていた。
「な、にを……」
動揺や混乱よりも先に、頬に言い知れない熱が上る。心臓の響く音がやけにうるさい。さっさと退けと理性を持った自分が叱り飛ばしている。そんな己を、うるさいと一蹴する自分もいる。
ろくな思考もできていない内に、彼女の手が込める力は少しだけ強くなった。
「……膝丸様、海は怖くないですよ。私が、側にいますから」
混乱の上に混乱を重ねるようなことを言われて、流石に妙に高ぶっていた彼の心臓も逆に落ち着いてしまった。
もしや、まだ夢の中に半分いるのではと思い、今度こそ慎重に身を彼女から離す。未だ彼女を拘束しているシートベルトの解放ボタンを押し、自由になった若苗に改めて、
「若苗。俺が分かるだろうか。本丸の近くに着いたぞ」
先ほどよりはっきりと声をかけると、上体をのろのろと起こしていた彼女の開ききっていなかった薄緑の瞳が、今度こそぱちりと開かれる。
はっとしたように辺りを見渡している所からすると、先ほどは寝ぼけて抱きついてきたということだろう。そんな自分にとって都合の良い話ばかりあるわけではないと、膝丸は安心したような残念なような、複雑な気持ちに駆られていた。
「あ、あの……私、何か言いましたでしょうか」
夢うつつであっても記憶は残っているらしい。若苗の頬は月明かりの下でも可哀想なくらい紅く染まっていた。
「俺に向かって、海は怖くないと話していたぞ。どうやら、君の夢の中では随分と可愛らしい俺がいるようだ」
「そ、その、違います」
先ほどまでの動揺を隠すように膝丸はわざとらしく彼女の寝言をからかってみせた。けれども、内心ではあながち彼女の見立ても間違いではないと膝丸は思っていた。海に恐れを抱いたのは、事実なのだから。
だが、後部座席から出てきた若苗は、からかわれたことを怒るのでもなく、慌てたように膝丸の腕の中に飛び込んできた。突然の彼女の行動に、彼は思わず目を見開く。
「違うんです。そうじゃなくて、いえ、そうかもしれないんですけれど……」
しどろもどろになりながらも、彼女はどうにか自分が告げたい言葉を選び出す。
「膝丸様にとって、私のようなものが心配をすることは、出過ぎた気遣いだったでしょうか」
予想外の方面からの質問に、彼は答えることができなかった。
彼女の頬は膝丸が望むように気恥ずかしさで紅に染められているようなことはなかったが、それとは別に目を逸らすことすら許されない真摯さが彼女の瞳から滲み出ていた。
「私が心配をするのは、膝丸様にとってご迷惑でしょうか。誰にも語れずにいる思いがあったとしても、膝丸様にとっては露ほども気にならないことなのでしょうか」
誰にも語れずにいる思いがあったとしてもと、尋ねられた。語れずにいることなど、今は一つしかない。そして語りたい相手は、今目の前にいる。
「もし、膝丸様の矜持がどなたかに頼ることを己に許されないのだとしても、私が側にいることを許してはいただけませんか」
「……どうして、そのようなことを、急に」
いっそ、全てを口にしてしまえたらと、思った。
だが、彼女の言う通りだ。己の矜持が、それを許さない。彼女が思うようなこととは、違っていたのだとしても。
「今日、行く道で膝丸様が何事か強い思いを抱えているのが、伝わってきたんです。それに、海を見て少し……怖がられて、いた気がしたので」
自分がそんなことを口にするのは不遜と思ってか、若苗の声はどんどん小さくなっていってしまった。
気付かれていたのか、と膝丸は自分の不甲斐なさに嘆息する。
同時に彼女に心配をしてもらうということそのものに、どういうわけか心が浮き足立っていることに気がついてしまった。少しとはいえ特別に心を寄せてもらうということの歓喜に、胸の内側が暖かくなっていく。その暖かさを、手放したくないと願ってしまうも、
「どうやら俺は、君には隠し事ができないらしい」
結局、膝丸はいつも通りを選んだ。満月を背に、彼は目を細めて笑った。普段は寄せている眉間の皺も緩めて、彼女に微笑んでみせた。
「心配されて嫌だと思うほど、捻くれた精神はしていない。多少、面はゆいものではあるが、別に侮られたなどとは思わぬ。それに、もし君が側にいたいと願うのなら、わざわざ俺に許しを得る必要はないぞ」
若苗の顔がぱっと輝いたのを見て、膝丸はこれで良かった、と確信する。内に秘めた思いを吐露して、一体どうするというのだ。この優しい娘を徒に困らせてしまうだけだ。
(隠し事ができないなどと、また酷い嘘を吐いたものだ)
ちくちくと良心が苛むが、もとよりこれでよかったのだと彼は言い聞かせる。審神者でもない娘に。自分を慕っているだけの、ただの子供に思いを明かしたところで、訪れるのは困惑だけだろう。
でも、もしかしたら。
もしかしたら、心配事の殻に被せた形で思いを伝えれば、彼女は受け止めてくれるのではないかと、淡い期待を抱いてしまう。
月の光が、ちらちらと彼女の娘らしい白い肌を浮き上がらせる。化粧っ気の無い彼女の濡れた唇が、彼の目に留まった。
思わず手が伸びかける。頬に触れ、その射干玉の黒の髪に指を通し、消えない痕をその唇に残したい。
願う気持ちはあった。けれども、伸びかけた手は結局、彼女の背にそっと添えられるだけに留まった。
「行こう。皆が帰りを待っている」
「はい。あの……今日は、ありがとうございました。後ほど、改めてお礼の品でも」
「この程度、わざわざ礼の品を作るほどのことではない」
「いえ、私が作りたいんです。先日、藤様から美味しいお菓子の作り方を教えていただいたので」
「それなら、兄者と共に有り難くいただくとしよう」
いつも通り、取り留めも無い話を重ねていく。
きっと、今日のこともよくある思い出の一つとして記憶の片隅に押しやられていくだろうと、膝丸は彼女に気付かれないように目を伏せた。
それでいい。そう思っていた筈なのに。
「あ、先ほどの話なのですが。もし、膝丸が皆様にお話しできないことで心がいっぱいになってしまいましたら、いつでも呼んでくださいませ。お隣に馳せ参じますので」
やる気に満ちた星のように輝く瞳を前にして、膝丸は返す言葉を喉の奥で迷子にしてしまった。結局、口にしたのは
「そのときは、頼む」
という言葉だけ。
隣に並び立つ、彼女の手が彼を誘うようにひらひらと揺れていても、その手を彼は掴まない。
どれだけ真っ直ぐに進めても、どれだけ生真面目で清廉潔白だったとしても。
──龍 が己の傍らにある手を掴むことは、できなかったのだった。
「ああ。風光明媚とはまさにこのことだろう」
「暖かくなったら、今度は皆さんと来てみたいです。歌仙様と一緒にお昼を用意して、藤様が話されていた川遊びのように水を掛け合って」
「川遊びのときは、それはもう主がはしゃいで大変だったな。彼女がかけた水が川辺で歌を考えていた歌仙に当たって、とても酷いことになったのだぞ」
その時を思い出したのか、くつくつと笑う声が運転席から聞こえた。顔を見ることができないのが残念だ、と若苗は背もたれに体を預けながら思う。
帰りの車中では、若苗は後部座席に座っていた。そちらの方が、眠くなったら好きなように姿勢を変えて眠れるからと膝丸に勧められたのだ。シートベルトで多少拘束は受けても、隣に座る者を気遣わなくてもいい分楽なはず、ということだった。
「川遊びといえば、水遊び用の服があると藤様から聞いております。海で遊ぶときには、そのような格好をしてみるのもいいかもしれませんね」
若苗としては何の気なしに話してみた話題だったが、不意に車中に沈黙が降りる。何かまずいことでも言ってしまったかと思った折、今度はごほんとわざとらしい咳払いが聞こえた。
「……一応聞いておくがそれは、水着のことを言っているのか?」
「恐らくそうかと思います。あの……私が欲しがるのは、変でしょうか」
「いいや、何もおかしなことではない。そうだ、何も変なことではないぞ」
最後の方は自分自身に言い聞かせるような口調になっていたが、ともあれ先ほどの発言は変なことではなかったようだと分かり、若苗を安堵の息を吐く。
「昼の海はどのような姿を見せてくれるのでしょうね。楽しみです――……ふあぁ」
小さな欠伸が言葉の最後に差し挟まれ、若苗を少し顔を紅くする。ミラー越しにこちらを見ている膝丸と目が合ってしまったからだ。きっと、この欠伸もしっかり見られてしまったことだろう。
「少し休むといい。君も潮風にあたって疲れたことだろう」
「ですが、膝丸様が運転をされているのに私だけ眠るわけには」
「俺もこのカラクリにほとんどは任せている。大して労はない」
そこまで言われてしまうと、無理に起きることもできない。若苗は少しばかり後部座席を倒し、背中を先ほどより深く背もたれに預ける。何度か首の角度を変え、比較的楽な姿勢を見つけてから彼女は瞼を閉じた。だが、眠気はまだ訪れる気配がない。
(やはり膝丸様の側に居た方が良かったのでは、ないでしょうか)
この暗く沈んだ箱の中は、静かすぎる。昼間はさして気にならなかったものの、夜になればその沈んだ世界が浮き彫りになる。時折聞こえるのも、他の車が通り過ぎるときの短いサーッという音のみ。あとは、機械が動く低い駆動音ばかりがこの場を包んでいた。
目を閉じると、この暗闇の中に消えていくような気持ちになる。たとえ起きていたとしても、一人でここにいるのは自分なら心細い。この空間は、この闇は、まるで海の中のようだ。
(あのとき、膝丸様が──少し、怖がっているような気がしました)
波打ち際で戯れている自分を呼ぶ声が、普段と違うように聞こえた。咎めるのとも縋るのとも違う、必死な彼の呼び声に何かが違う、と思ったのだ。
『気のせい』が『もしかしたら』に変じたのは、濡れるからと彼が自分を引き留めたときだ。振り返ったときの膝丸の横顔が、その端正な顔に収まっていた琥珀の瞳が、不安に揺れていたのを若苗は覚えている。
それこそ見間違いだと思いたかった。普段の彼女ならまず間違いなく、そう思っていたことだろう。だが、行きの道で感じた声にならない彼の思いが、彼女の推測を掴んで離さなかったのだ。
(不安に思っても口にすることはしない。それが膝丸様だということも分かっているのですけれど)
常に真っ直ぐ突き進み、揺れることのない彼の生真面目さを若苗は好いていた。
不器用かもしれないが、嘘はつかない。考えが硬いと言われることはあっても、己の過ちを認めて正すことができる。そういった彼の曲がったところのない心根が、純粋に好きだった。だが、それは裏を返せば、曲がることができないとも言える。
(もし、膝丸様が不安を言い出すことができない方なのでしたら、せめて私は隣にいることくらいは許されたい。髭切様や藤様のようにはいかなくても)
ただ、もたれかかるだけの存在で構わないから、彼の側にいたい。そう願うのは烏滸がましいのだろうか。
夢うつつの中、薄暗い深海の底のような世界で若苗は小さな祈りを捧げていた。
帰りの道中は、行きよりも尚静かだった。寧ろ静かすぎて耳が痛くなるのではと思うほどだった。
車が通る雑踏の音だけを耳にして、時たま響くクラクションに警戒の糸を張り直し、救急車のサイレンの音に万が一を思い緊張を顔に滲ませる。そうしているうちに、本丸近くの駐車場に車はやってきていた。
駐車スペースに車を入れ、停車後も点検を欠かさず行い、ようやく無事にたどり着いたと確信してから膝丸は運転席から外に出た。しん、と冷えた夜の外気が、彼の首筋をかすめていく。
(時刻は……二十時か。少しかかったな)
途中で渋滞に巻き込まれてしまった割には、比較的早い時間帯に到着することができた。夕飯の残りをちょうだいすることも。この分ならできるだろう。
後部座席側の扉に回った膝丸は、こんこんと扉をノックする。中にいるときに声をかけても返事がなかったので、こうして直接声をかけることにしたのだ。
が、生憎返事はない。どうやらまだ眠りこけているらしい。
「失礼する」
一言断りを入れてから後部座席の扉を開き、膝丸は思わず苦笑いを零した。最初は背もたれにもたれていたのだろう彼女の上体が、見事にぐにゃんと横倒しになっていたからだ。辛うじて足は座る姿勢をとろうとしているものの、上半身は横になりたいと思った結果、このように変な姿勢になってしまったのだろう。
「若苗。着いたぞ」
横倒しになっている上体の肩を掴んで、軽く揺さぶろうと膝丸は手を伸ばす。だが、彼が上体を伸ばして手を触れさせるより先に、若苗の薄緑の双眸がゆっくりと開いた。
「うぅ……ん」
彼女の声に気がつき、触れる必要はないと膝丸が体を外へと戻そうとしたときに悲劇は起こった。
ごんっという鈍い音と共に、彼の後頭部に鈍い痛みが走る。同時に上体のバランスが崩れて、倒れ込むことになってしまった。よりにもよって、まだ半分寝たような姿勢の若苗を押し倒すような形で。
(…………)
人の頭というものは、突然降って湧いた状況ではまるで役に立たないのだと膝丸は痛感する。いったい何が起きたのか、彼はまるで理解できていなかった。
客観的に見れば、膝丸の上背ではこの車に収まるには結構屈まねばならず、その状態で無理に身を引こうとした彼の後頭部が強かに天井に打ち付けられたのは一目瞭然だ。その弾みでバランスが崩れてしまったというわけだった。
が、どうにかこうにか我に返った今の彼の頭を占めていたのは、自分の体の下敷きになってしまった娘の安否だった。断じて、想像以上に柔らかな感触に一瞬意識が飛んだわけではない、と最早誰に向けてか分からない言い訳を膝丸は頭の片隅でつらつらと並べる。
「膝丸様……?」
「すまない、すぐに退く!!」
慌てて座席の彼女が触れていない隙間に手をついて体を起こしかける。が、その動きを押しとどめるものがいた。
自分の背を撫でる、細い手の感触。彼女が――若苗が、まるでこちらを抱き寄せるように手を添えていた。
「な、にを……」
動揺や混乱よりも先に、頬に言い知れない熱が上る。心臓の響く音がやけにうるさい。さっさと退けと理性を持った自分が叱り飛ばしている。そんな己を、うるさいと一蹴する自分もいる。
ろくな思考もできていない内に、彼女の手が込める力は少しだけ強くなった。
「……膝丸様、海は怖くないですよ。私が、側にいますから」
混乱の上に混乱を重ねるようなことを言われて、流石に妙に高ぶっていた彼の心臓も逆に落ち着いてしまった。
もしや、まだ夢の中に半分いるのではと思い、今度こそ慎重に身を彼女から離す。未だ彼女を拘束しているシートベルトの解放ボタンを押し、自由になった若苗に改めて、
「若苗。俺が分かるだろうか。本丸の近くに着いたぞ」
先ほどよりはっきりと声をかけると、上体をのろのろと起こしていた彼女の開ききっていなかった薄緑の瞳が、今度こそぱちりと開かれる。
はっとしたように辺りを見渡している所からすると、先ほどは寝ぼけて抱きついてきたということだろう。そんな自分にとって都合の良い話ばかりあるわけではないと、膝丸は安心したような残念なような、複雑な気持ちに駆られていた。
「あ、あの……私、何か言いましたでしょうか」
夢うつつであっても記憶は残っているらしい。若苗の頬は月明かりの下でも可哀想なくらい紅く染まっていた。
「俺に向かって、海は怖くないと話していたぞ。どうやら、君の夢の中では随分と可愛らしい俺がいるようだ」
「そ、その、違います」
先ほどまでの動揺を隠すように膝丸はわざとらしく彼女の寝言をからかってみせた。けれども、内心ではあながち彼女の見立ても間違いではないと膝丸は思っていた。海に恐れを抱いたのは、事実なのだから。
だが、後部座席から出てきた若苗は、からかわれたことを怒るのでもなく、慌てたように膝丸の腕の中に飛び込んできた。突然の彼女の行動に、彼は思わず目を見開く。
「違うんです。そうじゃなくて、いえ、そうかもしれないんですけれど……」
しどろもどろになりながらも、彼女はどうにか自分が告げたい言葉を選び出す。
「膝丸様にとって、私のようなものが心配をすることは、出過ぎた気遣いだったでしょうか」
予想外の方面からの質問に、彼は答えることができなかった。
彼女の頬は膝丸が望むように気恥ずかしさで紅に染められているようなことはなかったが、それとは別に目を逸らすことすら許されない真摯さが彼女の瞳から滲み出ていた。
「私が心配をするのは、膝丸様にとってご迷惑でしょうか。誰にも語れずにいる思いがあったとしても、膝丸様にとっては露ほども気にならないことなのでしょうか」
誰にも語れずにいる思いがあったとしてもと、尋ねられた。語れずにいることなど、今は一つしかない。そして語りたい相手は、今目の前にいる。
「もし、膝丸様の矜持がどなたかに頼ることを己に許されないのだとしても、私が側にいることを許してはいただけませんか」
「……どうして、そのようなことを、急に」
いっそ、全てを口にしてしまえたらと、思った。
だが、彼女の言う通りだ。己の矜持が、それを許さない。彼女が思うようなこととは、違っていたのだとしても。
「今日、行く道で膝丸様が何事か強い思いを抱えているのが、伝わってきたんです。それに、海を見て少し……怖がられて、いた気がしたので」
自分がそんなことを口にするのは不遜と思ってか、若苗の声はどんどん小さくなっていってしまった。
気付かれていたのか、と膝丸は自分の不甲斐なさに嘆息する。
同時に彼女に心配をしてもらうということそのものに、どういうわけか心が浮き足立っていることに気がついてしまった。少しとはいえ特別に心を寄せてもらうということの歓喜に、胸の内側が暖かくなっていく。その暖かさを、手放したくないと願ってしまうも、
「どうやら俺は、君には隠し事ができないらしい」
結局、膝丸はいつも通りを選んだ。満月を背に、彼は目を細めて笑った。普段は寄せている眉間の皺も緩めて、彼女に微笑んでみせた。
「心配されて嫌だと思うほど、捻くれた精神はしていない。多少、面はゆいものではあるが、別に侮られたなどとは思わぬ。それに、もし君が側にいたいと願うのなら、わざわざ俺に許しを得る必要はないぞ」
若苗の顔がぱっと輝いたのを見て、膝丸はこれで良かった、と確信する。内に秘めた思いを吐露して、一体どうするというのだ。この優しい娘を徒に困らせてしまうだけだ。
(隠し事ができないなどと、また酷い嘘を吐いたものだ)
ちくちくと良心が苛むが、もとよりこれでよかったのだと彼は言い聞かせる。審神者でもない娘に。自分を慕っているだけの、ただの子供に思いを明かしたところで、訪れるのは困惑だけだろう。
でも、もしかしたら。
もしかしたら、心配事の殻に被せた形で思いを伝えれば、彼女は受け止めてくれるのではないかと、淡い期待を抱いてしまう。
月の光が、ちらちらと彼女の娘らしい白い肌を浮き上がらせる。化粧っ気の無い彼女の濡れた唇が、彼の目に留まった。
思わず手が伸びかける。頬に触れ、その射干玉の黒の髪に指を通し、消えない痕をその唇に残したい。
願う気持ちはあった。けれども、伸びかけた手は結局、彼女の背にそっと添えられるだけに留まった。
「行こう。皆が帰りを待っている」
「はい。あの……今日は、ありがとうございました。後ほど、改めてお礼の品でも」
「この程度、わざわざ礼の品を作るほどのことではない」
「いえ、私が作りたいんです。先日、藤様から美味しいお菓子の作り方を教えていただいたので」
「それなら、兄者と共に有り難くいただくとしよう」
いつも通り、取り留めも無い話を重ねていく。
きっと、今日のこともよくある思い出の一つとして記憶の片隅に押しやられていくだろうと、膝丸は彼女に気付かれないように目を伏せた。
それでいい。そう思っていた筈なのに。
「あ、先ほどの話なのですが。もし、膝丸が皆様にお話しできないことで心がいっぱいになってしまいましたら、いつでも呼んでくださいませ。お隣に馳せ参じますので」
やる気に満ちた星のように輝く瞳を前にして、膝丸は返す言葉を喉の奥で迷子にしてしまった。結局、口にしたのは
「そのときは、頼む」
という言葉だけ。
隣に並び立つ、彼女の手が彼を誘うようにひらひらと揺れていても、その手を彼は掴まない。
どれだけ真っ直ぐに進めても、どれだけ生真面目で清廉潔白だったとしても。
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