若苗の話
「海に行ってみたい?」
向かい合って言葉を交わしていた髭切は、目の前に座る弟の膝丸が口にした言葉をオウム返しに尋ねた。春を目前にした、まだ冷たい空気が残るある日の午後のことだった。
「それはまた、どうして」
特に否定をすることもなく、かといって肯定をするわけでもなく、髭切は自分の疑問を口にする。膝丸はこくりと頷いてから、己の中にある思いを語った。
「若苗に言われて、そういえば俺も海をゆっくりと見たことはなかったと思い出したのだ」
膝丸が顕現して早数年。海そのものなら、遠征先や出陣先で目にすることはあった。先を急ぐ道中で、視界の端に映る広大な青い水たまりを前にしたことが、なかったわけではない。
しかし、じっくりとその広い青の前に立ったことはなかった。膝丸にとって、海はただの背景に過ぎなかったのだ。
「あの子がねえ。たしかに、あの子は海を見たことはないのだろうけれど」
若苗と膝丸が呼び、髭切があの子と暗に示している娘はこの本丸で預かっている娘のことだ。本丸の本来の主である藤が、あやかしに憑かれやすい彼女を引き取ると言い出してから、彼女はこの本丸を家として暮らしている。
それ以前から膝丸とは交流があり、名目上において彼はあやかし退治を兼ねた護衛となっているが、文字通り籠の鳥として育っていた世間知らずな彼女に日々の生活についてや常識を教える立場にもなっていた。
そうして日時を重ねていく内に、彼女の穏やかな日だまりを思わせる優しい人柄に自分が惹かれていっていることに、膝丸は気がついていた。無論、まるで童のような無垢さを持つ彼女は、当然知らないことだろうが。
閑話休題。そんな彼女が、先日膝丸と出かけた折に口にしたのが、「海を見てみたい」という言葉だったのだ。
「兄者は、出陣以外で海に出かけたことはあるのか?」
「うーん、川はあるけれどね。僕はどちらかというと、山に連れて行かれることが多いかな」
髭切が懇意にしている主は、山育ちということもあって本丸裏にある山を殊の外好いていた。彼女のハイキングに付き合わされた数は、両手で数えるにはとても足りないと言えるくらいだ。
話をしながらも、髭切は今自分と膝丸の間にあるものに視線を落とす。それは、木製の板に縦横規則正しく線を引いたもの──俗に将棋盤と呼ばれるものだった。
真ん中にはこんもりと積み上げられた将棋の駒の数々。二人が会話をしながら興じていたのは、所謂積み将棋というものだった。
「そら、次は兄者の手番だぞ」
「……ううん、どこを抜いても崩れちゃうよ」
髭切が言うように、積み将棋というのは駒を抜いたときに崩してしまった方が負けになる。残されている駒の数は決して少なくはないのだが、その土台は二人によって駒が抜かれていったこともあり、酷く脆くなっていた。
「じゃあ、これ」
すっと彼が駒を抜いた瞬間、予想に違わずじゃらじゃらという澄んだ音をたてて将棋の山が崩れてしまう。髭切の口から残念そうな声が漏れた。対する膝丸は、兄を負かしたということもあって少し得意げだ。
「弟、この駒って色々文字が書いてあるよね。こうやって積み上げて崩す以外の遊び方があるの?」
「ああ。どちらかというと、そちらの方が主流だ。兄者にいきなり教えても混乱するかと思い、まずはこうして駒に触れて慣れてもらおうと遊んでみたが、そろそろいいだろう」
膝丸は髭切の手元にあった駒を受け取り、手際よく将棋盤に並べ直していく。
「これが王だ。この駒を取られるような状況を回避できなければ、負けだ。残りの駒は、王を守りながら相手の王を守るために動く必要がある」
「自分の主を守りながら、大将の首を獲るんだね」
「そういうことだ」
駒を並べ直してから、膝丸は一つ一つ駒の動きを説明していく。
金、銀、角、飛車、桂馬、香車、歩。それぞれの名と動きを実際に動かしてみせ、ひっくり返した後の動きも見せていく。
「飛車を返せば、龍になるんだねえ」
「ああ。飛車は真っ直ぐにしか進めぬが、龍は斜めにも動くことができるようになる」
このように、と動く駒を見つめる髭切の視線は、少しばかり優しいものに見えた。それに気付くことなく、膝丸は続けてそれぞれの駒を裏返したときの説明を進める。
説明が終われば、一局となるのが自然な流れというものだ。弟の胸を借りるなんて変な感じだね、と言いながらも髭切は楽しそうに駒を並べてみせる。
「さっき言っていた海の話、なんだけど」
駒を動かしながらも、髭切は不意に思い出したように尋ねる。
「海に行って、したいことはないの? 主なら泳ぎたいとか水鉄砲で遊びたいとか言い出しそうだけれど」
「いや、特に何をしたいというわけではない。ただ、この目でじっくりと眺めてみたいのだ」
この世界に顕現して、膝丸は多くの知識を得た。その中には、この国をぐるりと囲う海の存在についての知識も含まれていた。
元々、海が狭いものだと感じていたわけではない。だが、書物によると、あの広大な青は外の国全ての大陸に繋がっているのだというではないか。その深さは、ときに日の光も届かぬほどの深淵にも繋がっているという。
ただ、遠くから見ているだけでは湖や川を広くしただけとしか思えなかった。だが、そうではないのだと、この時代に顕現したからこそ、知ることができた。
「お前は勤勉だからね。本丸の皆のように、端末や本で見るだけで満足できないってことかな」
「そうなのだろうな。若苗に教えるためとはいえ、知識を得るために書物を読んだ結果だろうか」
外の世界をろくに知らない娘に常識を教えるためには、まず膝丸が外の世界を知る必要があった。その経験は、本丸の他の仲間とは異なる知識を彼に授けていた。
本丸の主である藤は、一定の知識と経験を得ているために、逆にそれが物珍しいものだと気がつかず、当然のように刀剣男士たちにわざわざ教えようとはしない。けれども、海とは何かと問われる立場に立たされたことのある膝丸は、その詳細を調べる必要があった。調べれば、自然と好奇心も生まれるというものだ。
「変わったね、弟は。昔はすっごく真っ直ぐで、僕のため、本丸のため、使命のためって感じだったのに」
「……やはり、おかしいのだろうか。このようなことを思うのは」
ぱちん、と乾いた音が二人の間に響く。膝丸が置いた歩が、一歩前進をした音だった。しかし、
「僕は悪くないと思うよ。昔の弟も、嫌いではなかったけれどね。あ、これでこの歩兵は僕のものになるんだよね」
髭切が動かした駒が、不用意に突出した膝丸の駒をかすめ取っていく。
「ああ。どうにも考え事をしながらは良くないな。兄者は筋がいいから、すぐに駒の動きを掴んで俺を負かしてしまうだろう」
「ふふ、その日を楽しみにしているよ。それで、そんなに海を見に行きたいなら主に頼んでみたら? ついでにあの子も誘えばいいだろうに」
「……この程度のことで、手を煩わせるわけにはいかない。突然俺に誘われても、若苗も困るだけだろう」
真面目だなあ、と髭切は目の前に弟に対してそのような感想を抱くが、口には出さずに代わりに駒を進める。他の駒より大ぶりな駒――飛車に指を載せ、ずいと前に進み出た。
丁度、この駒のように膝丸は真っ直ぐだと、髭切は思う。真っ直ぐすぎるほどに。怠惰を己に許さず、常に己を律して源氏の重宝として相応しい自分であれと戒めている。
以前はそれを他者にも強要してしまうきらいがあったが、今はその押しつけがましい部分についてはすっかり鳴りを潜めていた。もっとも、だからといって自分が気を緩めるつもりがないのが、彼らしいと言えるだろうか。
「しょうがないなあ」
髭切はぱちんと駒を進め、そして徐に自分の側にあった障子をからりと開いた。彼が顔を廊下へと覗かせると、折良く主の藤がこちらに向かって歩いてくるところだった。彼女の足音が聞こえたからここを開いたのだから、ある意味当然の結果ではあるのだが。
「主、ちょっといい?」
「どうしたの、髭切」
とんとんと軽やかな足音を響かせてやってきた彼女の背後に隠れるように、若苗の姿も見える。二人でお喋りしながら、ここを通りがかったというところだろう。
「主、この前政府から借りた車って、まだ返していなかったよね。あの車置き場に置いていたと思うんだけど」
「ああ、あれね。明日返す予定だよ。それがどうかしたの?」
「弟が車乗って海に行きたいって言ってるから、貸してあげられない?」
「あ、兄者。俺は何もそこまでは」
慌てて制止の言葉を投げかけようとしたものの、藤は髭切と膝丸の顔を見て大体のことを既に把握してしまったようだった。
本丸内で膝丸との付き合いが長いのは、兄を除けば主となる。生真面目な弟が己の要求を飲み込んでしまい、兄がそれを汲み取って主に伝えるのはいつものことなので、既に慣れっこになってしまっていたのだ。
「いいよ。ちゃんと返してくれるならね。膝丸なら運転の指導を前に受けてたから、髭切より安心して任せられるだろうし」
「ひどいなあ。僕もちゃんと運転できるよ?」
「あ、あの」
軽口の応酬を続けている二人の間に割って入ったのは、蚊の鳴くような小さな声だった。藤の後ろに隠れるようにして立っていた若苗のものである。
「あの、もしよかったら……私も、同席させていただいても、よろしいでしょうか」
声こそおずおずとしたものだったが、彼女の薄緑に染められた瞳には隠しきれない好奇心が滲んでいた。もとより、海に行きたいと言い出したのは若苗なのだ。彼女がこのような反応を見せるのも当然である。
「というわけだけど、膝丸。頼んでもいい?」
「あ、ああ。……任された」
思いがけなく自分が憎からず思う相手と共に出かけるという状況になり、膝丸の心中は表面にこそ出していないものの穏やかならざるものとなっていた。だが、断るかと言われれば、このような機会を逃すわけにはいくまいという程度の高揚は、彼にもある。
「まだ午後二時前だから、近くの海なら高速道路使えば割とすぐに到着すると思うよ。外でご飯食べてきてもいいし。日付が変わる前には帰ってきてね」
「分かった。兄者、すまないが将棋は明日でも良いか」
「構わないよ。行っておいで、飛車丸」
「俺はまっすぐしか進めないわけではないぞ……?」
早速覚えた単語を使って交えながら弟を呼ぶ兄に、膝丸は呆れたように肩を竦めてみせる。
何はともあれ、時間は有限だ。善は急げとも言う。藤から車の鍵を預かった膝丸は、若苗を伴って足早にその場を後にした。
残された藤は、膝丸が座っていた座布団に腰を下ろし、目を細めて膝丸を見送る髭切に声をかける。
「今の呼び方さ、間違えたわけじゃないでしょ」
「うん。この駒、弟にそっくりだなと思ってね」
髭切は自分が進めていた飛車に人差し指を載せ、示してみせる。真っ直ぐにしか進めない、生真面目で不器用で、でも敵に挑む時は誰よりも勇猛果敢な将。ひっくり返せば龍と変じるのも、彼らしい。
「龍になったら、斜めにも動けるようになるんだって。主、知ってた?」
「一応は。でも、そういう気配りできそうな所は、ちょっと膝丸とは違うかな。膝丸がもしこの龍なら、きっと何かにぶつかるまで止まれなくて、掴めるものも取り逃がしてしまいそう」
飛車や龍は自分の好きな所で直進を止めることはできるが、膝丸が器用に自分の望むものを得るために足を止める姿は、あまり想像しにくい。
自分より後ろに控えているものに手を差し伸べることはできる。自分の前に立っていると分かっているものに、手を伸ばして追いかけようともできる。
なのに、隣に立つ者に触れることはできない。きっと手を掴んでしまえば最後、彼は止まれなくなってしまうだろう、と髭切は目を伏せ、生真面目さと苛烈さの両方を備える弟のあり方を思う。髭切はそれもまた自分なのだと受け入れられるが、恐らく彼は止まれない自分を責めてしまうだろう。
「いい加減、若苗に好きだって言っちゃえばいいのに。そうしたら膝丸も楽になるんじゃないかな」
「それを主が言うかなあ。でも、言い出せない弟の気持ちも分からないでもないよ」
「どういうこと?」
「だって、僕らは刀だから」
部屋の片隅に飾られている髭切の本体を目にして、藤も浮かべていた笑みを引っ込めた。
「あの娘、僕から見ても白すぎるからね。弟から見たら、自分のようなものが側にいていいか悩むんじゃないかな」
事情があったとはいえ、若苗は子供のように無垢だ。色恋のような欲に晒していいのか、悩んでしまうほどに。人殺しの道具でもあると考えられるものが、護衛以外の感情を抱いていいかと自問自答してしまうほどに。
「……それを決めるのは膝丸じゃなくて、若苗だと僕は思うけどな。何か切っ掛けがあって、距離が一気に進むとかあればいいのに」
「切っ掛けを待っていたら、見守る側が待ちくたびれてしまうよ。そうだ、主。将棋ってもう一つない?」
「あったかもしれないけど、突然どうしたの?」
突如話を切り替えた髭切に驚き、藤は首を傾げる。
「弟が帰ってくるまでに強くなりたくて。負けっぱなしじゃいられないものね」
「そういうことなら、分かったよ。指南本とかなかったか、ついでに調べてみるね」
「うん、よろしく頼むよ。主も一局お願いしていい?」
「僕はほとんどやったことないんだけど、それでいいなら」
膝丸の帰りを待つ二人は、予備の将棋を持ち出して再び盤面を挟んで向かい合う。素人と素人の泥仕合は、それから夕方まで延々と続いていくこととなったのだった。
***
主から借りた車は、特に問題を起こすことなく走行を開始した。
以前主が話していたことによると、まだまだ一般的には普及しきっていない自動走行の機能などがこの車には付属しているらしい。他にも諸々の安全装置が加わり、無人で動かしていても事故を起こさないと太鼓判を押されているものとのことだ。そういうものでないと、人ではなく付喪神である本丸所属の刀剣男士が動かすことを許されていないのだそうだ。
もっとも、それでも運転する刀剣男士はある程度の講習を受ける必要はあるのだが、膝丸は一時期政府に貸し出された経緯があるため、その際に十分な指導を受けていた。政府に所属している刀剣男士ならまた事情も変わってくるらしいが、膝丸は生憎その恩恵を受けることは叶わずのままだ。
「ここから最短で二時間と少しで到着するそうだ。気分が悪くなったら、すぐに言ってくれ」
「はい。わかりました」
返事をしたのは、彼の隣に座る若苗だ。普段着ている和服ではなく、今日は長時間座りっぱなしになることも踏まえて春物の洋服を纏っている。膝丸の髪を思わせる薄緑色のスカートに、同じく彼の上着の色と同じ黒の上着をまとっていた。膝丸本人はというと、いたってシンプルな白の薄手のセーター、紺のジャケットにズボンという出で立ちだ。流石に外出するのに、内番の服を着ていくわけにはいかないと選んだものである。
「不思議なものですね。このようにして、膝丸様の隣に座っていられるなんて」
自動車自体に乗ったことが初めてではないようだが、こうして二人並ぶ日が来るとは膝丸自身想像もしていなかった。
運転席の周りにあるメーターなどの機器類が気になるのだろう。若苗の視線は落ち着きなくあちこちに向けられ、運転自体は車の機能に任せているものの、ハンドルは握っている膝丸にも熱い視線という形で注がれた。だが、娘が向ける憧憬の視線を、しかし膝丸は誇らしいと思うと同時にむず痒く感じていた。
できれば視線を外して欲しい。けれども、同時にもう少し見つめてほしいとも思う。全くままならないものだ、と膝丸は矛盾する自分の気持ちに人知れずため息をついた。
数十分後。流石に膝丸を見つめ続けることに飽きたのか、若苗の視線はいつしか窓の向こうへと移っていた。
高速道路を走っているため、行き過ぎる景色はまるで川のように流れていき、ゆっくりと眺められるものではない。それでも、若苗にとっては面白いものなのだろう。彼女がこちらを振り向く様子はまるでなかった。
(俺ばかり見ていても、たしかに面白みはないだろうが)
一度熱い視線を向けられた後に、それを逸らされるというのは少し堪えるものがある。かと言って、子供のように構ってと言うわけにもならない。運転自体はほぼ自動でしてくれているとしても、万一を考えるとよそ見をするわけにもいかないからだ。
だからといって、じっと前を向き続けていられるほど膝丸も忍耐強いわけではなかった。隣に気になる相手が座っているのだから、気も移ろうというものである。
「……その、喉は渇いていないか」
「大丈夫です、膝丸様。先ほど、少しいただきましたので」
「そうか」
ただ、会話は全く続かない。若苗が大人しく外を見つめている上に、膝丸は話し上手というわけでもなかった。髭切のように、沈黙を特に気にせずにいられるほど大らかな気質でもない彼は、既にこの一時間近く続く沈黙に耐えかねていた。
対する若苗の方は、別に気まずさも感じていないように外を見つめ続けている。運転中に話題を振るのは失礼と思って黙っているのだろうが、今に限って言うならば何か話題を振ってほしかった。
(……いや、仮にも車を御する側になっているのだから、下手に会話をする方が不自然だろう。沈黙は金とも言うではないか)
どうにか合理的な説得を自分に試み、膝丸はこの気まずさを意識の外にやろうと努力する。意識の半分をフロントガラスの向こうにやり、もう半分を若苗に向けて、彼はこの沈黙をやり過ごそうとした。
どうせ外に出た後は、何か話すことになるだろう。流石に、無言のまま海をうろうろして回るのは避けたいものだ。予行演習代わりに何を話すのか決めておいた方がいい。
月並みな所で言うなら、服装だろうか。すぐに車に乗り込んでしまったせいで、ろくに彼女の装いについて話題を振ることができなかった。
(普段は和服を着ていることが多かったからな。洋服の方が、確かにこの車に座るのには向いているだろう)
何せこのシートベルトというやつは、安全のためとはいえ腹と胸を拘束するものだから、帯を締める和装の上からでは苦しいだろう。
そんなことを考えて彼女に視線を送っていた膝丸は、気がついてしまう。普段はきっちりと抑えられている彼女の胸元に、しっかりと食い込んでいるシートベルトに。
斜めに横断したベルトが強調する、二つの豊かな双丘に。
(…………)
しばし、思考が停止する。
特に女人の体に強い興味を抱いてなくても、強調された丸い膨らみに、男の体で顕現してしまった彼は一瞬とはいえ目を奪われてしまっていた。
とはいえ、すぐに我に返り、膝丸は強引に視線を前に向ける。その白皙の頬には、ほんのり朱が混ざっていた。
(俺は、一体何を考えているのだ。そのようなものに、目を奪われるなど)
本丸の主が同じ女人とはいえ、胸が平たい体格なために普段目にすることもなく、つい物珍しく思った。ただそれだけなのだ、と必死に否定する。もし当の主がそんな言い訳を聞いていたら、膝丸は間違いなく両頬に平手打ちを食らうことになっただろう。
(話をしていなくてよかったかもしれぬ。このような思い、彼女に知られていたらと思うと)
思わずハンドルに頭を打ち付けたくなるが、ぐっと堪えて彼は素知らぬ顔で前を見る。視線を横に向けたいとのたまう煩悩という名のもう一人の自分を、膝丸は理性という名の刃で苦心惨憺しながら斬り伏せたのだった。
膝丸が己の煩悩を斬り伏せる少し前、若苗は川のように流れていく景色をじっと見つめていた。
本当のところを言うと、もう少し膝丸の運転している様子を見ていたかった。視線が合うわけではないものの、彼が易々とこの複雑なからくりを手懐け、操る姿はどういうわけか心惹かれるものがあった。普段ゆっくり見ることができない横顔を、こうして眺めることができるからかもしれない。
(でも、あまり見ていてはお邪魔のようでしたから)
こちらの視線を感じてか、膝丸の目が困っているように見えた若苗は、窓の方を向くことにしたのだった。まさか、当の本人がこちらを向いてほしいと思ってることなどとは、到底彼女が知る由も無い。
(山が近くて、木々の声が少し聞こえてきます。この車はとても早く移動してしまうので、聞き取りにくいですけれども)
あやかしに憑かれやすい彼女は、同時に人ならざるものの声を聞き取る力が強い者でもあった。むしろその力があるこそ、あやかしが寄ってきやすいと言えるだろう。
以前は聞こえてくる声の全てが頭に流し込まれるように入り込んできてしまうため、自我というものすら十全に保てないことがあった。だが、今は膝丸がくれたお守りや彼という存在そのもの影響もあって、問答無用で声や意思が押し入ってくることはない。今日だって、彼が作ってくれたお守り代わりの木札が彼女の手首から紐を通してぶら下がっている。
勝手に入り込んで来られるのは困りものだが、こうしてこちらがそっと耳を傾ける分は問題なく、些細なおしゃべりに耳を傾けるのはいっそ心地よいものでもあった。若苗にとっての密かな楽しみでもある。
(まだ春が遠いですものね。少し寂しい声にも聞こえます)
行き過ぎる緑の帯のような景色をじっと眺めていると、不意に自分に向けて暖かくも激しい視線が向けられていることに、若苗は気がついた。ここ暫く感じたことのなかった燃えるような想いが込められた視線に、若苗は外を向いたまま思わず数度目を瞬かせる。害意は感じないために悪いものではないだろうと思うが、ここまで燃えるような思いを向けられると少し居心地が悪い。
一体何が、そんな思いを自分に向けているのだろうか。移動中の車内に何かが乗り移ったのだろうか。そこまで考えて、若苗は違うと否定する。
(これは、膝丸様からの――?)
自分に向けられている炎のように熱くも、同時に好感を覚える視線。それは、隣に座る彼からのもののように思えた。
人ならざるものの声を聞き取りやすい彼女は、当然付喪神の声も聞き取りやすい。だが、膝丸のくれた加護のようなもののおかげで、本丸にいる刀剣男士の声ならぬ声を片っ端から拾い上げるようなことはない。元々、声を自ら発することができるようになった刀剣男士たちは、物言えぬ者よりかは思いを外側に発露できる手段がある分、心に直接訴えてくる者はそこまでいないはずだった。
だが、この熱さは言葉を持たぬ者の思いに似ているような気がする。
(何か、思うことがあっても言えないのでしょうか)
まさかシートベルトで強調された胸部に気が付いてしまい、慌てふためいていたなどという理由だったということは、若苗が知る由も無い。
やがて、じわじわと続いていた熱い想いも、始まるのと同じくらい唐突に途切れてしまった。恐らくは、隣の彼が意図的に心を切り替えたのだろう。
(膝丸様は、いつも前を向いておられて、皆様にも頼られているお方ですけれど……言えずじまいのこともあるのでしょうか)
兄である髭切には、一人前の刀剣男士として、また源氏の重宝として恥ずかしくない姿を見てもらおうと常に凜とした姿勢を見せ。
主である藤の前には、頼りになる刀の一振りとして扱ってもらおうと、弱音を見せることなどもなく。
本丸の他の刀剣男士の前では、顕現が他の者より後であったからといって足を引っ張ることのないようにと、彼らの声に耳を傾け、自ら助けになろうと積極的に動き回る。
そして、若苗の前でも。頼れる護衛として、彼は脅威に対して一歩も引くことがなかった。
(真っ直ぐで、勇ましくて、素晴らしい方。今日もこうして、私の我が儘に付き合ってくださっている)
海を見たいと言い出したのは自分だ。ならば、彼が付き合ってくれているのも、自分の我が儘を聞き入れてくれたからこそと彼女は思っていた。
(清廉潔白で、何事にも動じない方。でも、もし口にできないことがあるのでしたら、せめてそれを聞くお手伝いくらいできたなら……などと思うのは、傲慢でしょうか)
自分を見つめている視線の熱をそのように解釈しつつも、若苗の口が開くことはなかった。主でもない自分が、彼のことについて口を挟むことではないと考えてしまったからだ。
とはいえ、外の景色を眺めていても、考えるのは膝丸のことばかりだ。彼に浮かない顔を見せまいと、彼女は窓ガラスに頬をぺたりと貼り付けて、流れゆく緑を眺め続けた。
そうこうしているうちに、車はようやく海へと到着したのだった。
***
海に到着した頃には、春を目前にしつつも冬の香りが強い太陽は既に西へと沈みかけていた。真っ赤に染め上げられた空を写し取ったように、眼前の海も青と朱を混ぜた色合いに染まっている。黒く切り取られたかのような砂浜には、家路を急ぐ親子や夫婦の姿が見えた。
その光景を目の当たりにして、膝丸は、
「――――」
声を、失った。
遠く響く潮騒の音も。どこぞではしゃぐ子供の声も。全てが遠くへと押し流されていく。隣にいる娘のことも忘れ、彼の琥珀色の瞳は延々と広がる海だけを映していた。
瞬きすら忘れて、彼は眺め続けた。自分という、ちっぽけな存在の前に広がり続ける海というものを。
何もかもを飲み込むかのような恐ろしさと、何もかも包み込むような広大さを兼ね備えた、茜色に染め上げられた水面を見つめ続けていた。
鼻の裏をくすぐる言い様のない香りは、少ししょっぱいようにも思える。きっとこれが磯の香りなのだろう。遮蔽物のない浜辺では、容赦なく海からの風が吹き抜けていく。彼の片目を隠す薄緑の髪もまた朱色に染め上げられた風に撫でられ、ふわりとなびいた。
「膝丸様」
膝丸と同じように、無限に広がる海に言葉を奪われていた若苗は、しかし彼より早く我に返って彼の袖を引いた。
「折角来たのですから、もっと近くに行ってみませんか」
二人は丁度、堤防の途中にある砂浜に降りる階段のてっぺんで海を眺めていた。少し離れた所に車を停めて、ここまで歩いてきたのだ。
「膝丸様?」
若苗は再び名前を呼んだが、膝丸の反応は鈍い。遠慮がちに彼の手に触れて、ようやくはっとしたように瞬きをして、彼は若苗の方を向いた。
「あ、ああ。そう……だな。行ってみるか」
だが、言葉に反して膝丸の足取りは鈍い。若苗は彼の手を引くように、階段を降りていくことになった。
そのままさらさらとした、足場の不安定な砂浜を彼らは歩いて行く。点々と残っているのは二人分の足跡。一つの歩幅は小さく、一つは大きい。
どこにでもある、ありふれた景色の一つ。少し違うのは海を見に来たのが、一人と一振だということだ。
「波の音が気持ちいいですね。寄せては返して……膝丸様がお話してくださった通りです」
潮風に長い黒髪をなびかせ、頬を夕焼けに負けず劣らず興奮で朱に染めて、彼女は微笑んでみせる。足取りの重い膝丸を置いて、彼女は砂浜の上でまだ冷たさの残る波の元へと駆け寄り、寄せては返す白波と追いかけっこをしていた。楽しそうに笑う彼女は、波というものをそれだけ気に入ったらしい。
春の匂いは感じているものの、まだ少し寒気を覚える日が続いている。今日は暖かかったが、それでも海の水は冷たかろう。だというのに、冷たさを物ともせず、彼女はくるりくるりと潮騒を音楽がわりに舞を舞う。
だが。
彼は、足を動かすことができなかった。
ざざーっと響く潮騒の音は。近づいては離れていく。まるで、それは自分の足を掴んで引きずりこんでいく得体の知れないもののように彼には思えていた。
もし、この海の中に沈んでしまったら、二度と上がることができないのではないか。底知れない広がりの中に浮かぶ、泡の一つに消えていくのではないか。
自分を構成する物語も、多くの逸話と共に寄り添った主のことも、或いはここでこうして顕現して共に過ごした日々も。この海という場においては、全ては取るに足らぬ些事となる。
沈んでしまえば、全て海の藻屑。光も届かぬ深淵に、落ちて、落ちて、二度と還ってこれない。
錆び付き、輝きを失い、人の口の端にものぼらずに――。
「膝丸様っ」
暗い海に沈む幻想から彼を引き上げたのは、澄んだ鈴のような声だった。
「膝丸様、見てください。太陽までの道ができているようです!」
彼女が指した先では、まさに水平線に沈みゆく太陽から一本の光の道がのびていた。
水面に浮かぶ一条の金の帯。まるで、そこに向かうかのように彼女の足が前に進み、
「若苗っ」
弾かれたように、釘付けになっていた足が動いた。
彼女との距離は、ほんの数歩。その数歩が、どれほど遠いものだったか。
呼びかければ、すぐにこちらを振り向いてくれるのがいつもの彼女なのに、今日だけは波に心まで浚われてしまったかのように、振り向くそぶりすら見せてくれない。
「若苗!」
もう一度、呼びかける。彼女は止まらない。
その足が波打ち際から太陽に続く道を歩み、どこか遠くに行ってしまうような気がして、躊躇うことなく膝丸は彼女を抱き寄せて己の腕の中へと閉じ込める。
「あまり遠くに行かないでくれ。濡れてしまうだろう」
はっと彼女が息を呑む音がした。呼吸一つ分を置いてから、彼女は小さく頷いた。腕の中で背後を見ようと体を捻った若苗の息が、微かに乱れる。何かに驚いたかのように。
彼女に驚かれるような顔を自分はしているのだろうか。疑問に思っても、己の顔を見る術など今はなかった。
「……そう、ですね。靴を濡らしてしまうところでした」
若苗の返事を最後に、言葉が止まる。二人の間に沈黙が続き、その間を補うように潮騒だけが静かに響いていく。
数分後、若苗は自分を抱きしめている彼の腕に手を触れて、囁くように呟いた。
「膝丸様、海は広いですね」
「ああ。知ってはいたはずなのだが」
圧倒された。
遠くから背景として捉えていた海を、正面から受け止めて彼は思わず二の足を踏んだ。無限に広がる青と朱の水面の前に踏み出せない自分に気がつき、心が揺れた。
「それに、たくさんの音がします。たくさんの声がします。きっと色んな思いがこの広い水の中にあるのでしょうね。少し、怖くなるくらいに」
彼女の言う通りだ。だから、足を踏み入れれば最後、その中に自分が埋もれてしまうように思えた。あやふやで不明瞭なものへと姿を変えてしまい、二度と形を得られないような気がした。
「でも」
けれど、彼女は地平線に最後の光を投げかける太陽を背にして、微笑んだ。
「でも、海は優しいですね」
いつしか腕を下ろした膝丸の側から離れ、娘は海を抱きしめるように手を広げる。
「たくさんの声がするということは、それだけ沢山のものを受け入れていることだと思うのです。だから、海は大きくて、少し怖くて、でも優しいものだと私は思いました」
「怖いと思っても、優しい?」
「はい。一人で向き合っていたら、きっと怖いとか、寂しいということばかり感じていたと思います。多くの声は聞こえるのに私はひとりぼっちのままで、例え『おいで』って誘われても、今度は広すぎる海が何だか恐ろしく見えてしまうでしょう」
再び彼女は、「でも」と言って膝丸の手をとる。海風で少し冷えた指が、手袋に包まれた彼の指に触れた。
「膝丸様がいたから、私は独りではないのです。だから、海の優しさにも気がつくことができました」
変でしょうか、と彼女は照れくさそうに笑う。膝丸はゆっくりと首を横に振る。
どんなものからも良い点を見出そうとするのは彼女の美点だ。その手伝いができたのなら、膝丸としてはこれ以上を望むことはない。それに、彼女から貰った物の見方は膝丸の視界を開く助けにもなる。
「海が優しい、か」
延々と響く潮騒も、寄せては返す白波も、最初はただただ言い知れぬ恐れしか彼にもたらさなかった。
だが、彼女の言葉を聞いて膝丸は考える。
嫌悪や憎悪のような激しく黒い思いは、この海に向けて感じることはない。無限に姿を変え、ときに全てを受け入れ、ときに全てを押し流して飲み込む。
その有り様を優しいと思えるほど、膝丸は若苗ほど無邪気ではいられなかった。あるとしたら、もっと別の何か。
「俺は、もう少し違うものに見えるな」
「それは、何でしょうか?」
「……また、折を見て話すとしよう。君のおかげで感じられたものだ」
正しく、目の前に広がる水平線に向ける感情を言葉とするならば。
それは、恐れではなく、畏れだ。
自分の手に余る何かを怖がって遠ざけるというよりは、近寄るのも憚られる広大なものへの言葉にし難い感情。人は、これを畏敬と呼ぶのだろう。
そう思うと、ストンと心が落ち着いた。ここにこうして立っていることを、悪いことではないのだと思えることができた。
ならば、今はそれでいい。
再び相まみえるとき、また違う感情を抱くこともあるかもしれない。それもまた、必定というもの。海は移ろうものであり、心もまた同じなのだから。
「あ、お月様がお顔を出してます」
若苗が再び指した水平線には、月と思しき淡い光が見えた。真っ赤に燃えるような空は既に、紺碧の夜空へと模様替えを済ませていた。銀の星々が煌めく天鵞絨のような夜空は、さながら天上の砂浜のようだ。
「もう少し、ここにいてもよろしいでしょうか」
「せっかく来たのだからそれは構わぬが、何か見たいものでもあるのか?」
「この水面にうつる月を、眺めてみたいのです。それはきっと、いっとう美しいでしょうから」
彼女に呼ばれるようにして、とろりとした金が夜空を映した海に流れ込む。太陽のように輝くことはなくても、二人分の姿を照らし出すには十分だ。
水面に映る月が、空を昇る月が、二つ分の輝きを一人と一人に浴びせていく。まるで、こちらを誘うかのように。あるいはこちらを惑わすかのように。
「ああ、今宵は満月だったか」
金の光をその琥珀の瞳を吸い込ませ、彼は目を細める。月光に誘われるように、膝丸の手が彼女の肩へそろそろと伸びた。だが、彼は彼女に触れるより先にぱたりと手を下ろす。彼女に触れる代わりに、彼は自分の上着を脱いで、その細い肩にかけた。
「夜の海は風が冷たい。これを羽織っているといい」
「ありがとうございます。でも、膝丸様が寒くはありませんか」
上目遣いでこちらを見つめる彼女の薄緑の双眸に、ぐらりと膝丸の理性が揺れる。いっそのことその手をとり、今すぐにでも――と思いかけ、膝丸は頭を横に振る。
この月下では、どういうわけか心がいつもより揺れやすいようだ。普段と違う状況で、気持ちが浮ついているのだろう。気を引き締めねばと、膝丸はふぅと息を小さく吐く。
「気にすることはない。元は鉄の身だ。人のように、風邪をひくこともない」
自分で口にした筈の言葉が、どういうわけかちくりと胸に刺さった気がした。
若苗もそれ以上は何も言わず、自分の肩幅に合わない上着をかき抱くようにして、じっと月を見上げていた。
遮るもののない世界で、いつもより大きく見える月の光は静かに二人を照らし出していた。月ではなく、月を見上げる彼女の横顔を知らず知らず見つめている己がいることに、膝丸は気がつかないふりをすることにした。
向かい合って言葉を交わしていた髭切は、目の前に座る弟の膝丸が口にした言葉をオウム返しに尋ねた。春を目前にした、まだ冷たい空気が残るある日の午後のことだった。
「それはまた、どうして」
特に否定をすることもなく、かといって肯定をするわけでもなく、髭切は自分の疑問を口にする。膝丸はこくりと頷いてから、己の中にある思いを語った。
「若苗に言われて、そういえば俺も海をゆっくりと見たことはなかったと思い出したのだ」
膝丸が顕現して早数年。海そのものなら、遠征先や出陣先で目にすることはあった。先を急ぐ道中で、視界の端に映る広大な青い水たまりを前にしたことが、なかったわけではない。
しかし、じっくりとその広い青の前に立ったことはなかった。膝丸にとって、海はただの背景に過ぎなかったのだ。
「あの子がねえ。たしかに、あの子は海を見たことはないのだろうけれど」
若苗と膝丸が呼び、髭切があの子と暗に示している娘はこの本丸で預かっている娘のことだ。本丸の本来の主である藤が、あやかしに憑かれやすい彼女を引き取ると言い出してから、彼女はこの本丸を家として暮らしている。
それ以前から膝丸とは交流があり、名目上において彼はあやかし退治を兼ねた護衛となっているが、文字通り籠の鳥として育っていた世間知らずな彼女に日々の生活についてや常識を教える立場にもなっていた。
そうして日時を重ねていく内に、彼女の穏やかな日だまりを思わせる優しい人柄に自分が惹かれていっていることに、膝丸は気がついていた。無論、まるで童のような無垢さを持つ彼女は、当然知らないことだろうが。
閑話休題。そんな彼女が、先日膝丸と出かけた折に口にしたのが、「海を見てみたい」という言葉だったのだ。
「兄者は、出陣以外で海に出かけたことはあるのか?」
「うーん、川はあるけれどね。僕はどちらかというと、山に連れて行かれることが多いかな」
髭切が懇意にしている主は、山育ちということもあって本丸裏にある山を殊の外好いていた。彼女のハイキングに付き合わされた数は、両手で数えるにはとても足りないと言えるくらいだ。
話をしながらも、髭切は今自分と膝丸の間にあるものに視線を落とす。それは、木製の板に縦横規則正しく線を引いたもの──俗に将棋盤と呼ばれるものだった。
真ん中にはこんもりと積み上げられた将棋の駒の数々。二人が会話をしながら興じていたのは、所謂積み将棋というものだった。
「そら、次は兄者の手番だぞ」
「……ううん、どこを抜いても崩れちゃうよ」
髭切が言うように、積み将棋というのは駒を抜いたときに崩してしまった方が負けになる。残されている駒の数は決して少なくはないのだが、その土台は二人によって駒が抜かれていったこともあり、酷く脆くなっていた。
「じゃあ、これ」
すっと彼が駒を抜いた瞬間、予想に違わずじゃらじゃらという澄んだ音をたてて将棋の山が崩れてしまう。髭切の口から残念そうな声が漏れた。対する膝丸は、兄を負かしたということもあって少し得意げだ。
「弟、この駒って色々文字が書いてあるよね。こうやって積み上げて崩す以外の遊び方があるの?」
「ああ。どちらかというと、そちらの方が主流だ。兄者にいきなり教えても混乱するかと思い、まずはこうして駒に触れて慣れてもらおうと遊んでみたが、そろそろいいだろう」
膝丸は髭切の手元にあった駒を受け取り、手際よく将棋盤に並べ直していく。
「これが王だ。この駒を取られるような状況を回避できなければ、負けだ。残りの駒は、王を守りながら相手の王を守るために動く必要がある」
「自分の主を守りながら、大将の首を獲るんだね」
「そういうことだ」
駒を並べ直してから、膝丸は一つ一つ駒の動きを説明していく。
金、銀、角、飛車、桂馬、香車、歩。それぞれの名と動きを実際に動かしてみせ、ひっくり返した後の動きも見せていく。
「飛車を返せば、龍になるんだねえ」
「ああ。飛車は真っ直ぐにしか進めぬが、龍は斜めにも動くことができるようになる」
このように、と動く駒を見つめる髭切の視線は、少しばかり優しいものに見えた。それに気付くことなく、膝丸は続けてそれぞれの駒を裏返したときの説明を進める。
説明が終われば、一局となるのが自然な流れというものだ。弟の胸を借りるなんて変な感じだね、と言いながらも髭切は楽しそうに駒を並べてみせる。
「さっき言っていた海の話、なんだけど」
駒を動かしながらも、髭切は不意に思い出したように尋ねる。
「海に行って、したいことはないの? 主なら泳ぎたいとか水鉄砲で遊びたいとか言い出しそうだけれど」
「いや、特に何をしたいというわけではない。ただ、この目でじっくりと眺めてみたいのだ」
この世界に顕現して、膝丸は多くの知識を得た。その中には、この国をぐるりと囲う海の存在についての知識も含まれていた。
元々、海が狭いものだと感じていたわけではない。だが、書物によると、あの広大な青は外の国全ての大陸に繋がっているのだというではないか。その深さは、ときに日の光も届かぬほどの深淵にも繋がっているという。
ただ、遠くから見ているだけでは湖や川を広くしただけとしか思えなかった。だが、そうではないのだと、この時代に顕現したからこそ、知ることができた。
「お前は勤勉だからね。本丸の皆のように、端末や本で見るだけで満足できないってことかな」
「そうなのだろうな。若苗に教えるためとはいえ、知識を得るために書物を読んだ結果だろうか」
外の世界をろくに知らない娘に常識を教えるためには、まず膝丸が外の世界を知る必要があった。その経験は、本丸の他の仲間とは異なる知識を彼に授けていた。
本丸の主である藤は、一定の知識と経験を得ているために、逆にそれが物珍しいものだと気がつかず、当然のように刀剣男士たちにわざわざ教えようとはしない。けれども、海とは何かと問われる立場に立たされたことのある膝丸は、その詳細を調べる必要があった。調べれば、自然と好奇心も生まれるというものだ。
「変わったね、弟は。昔はすっごく真っ直ぐで、僕のため、本丸のため、使命のためって感じだったのに」
「……やはり、おかしいのだろうか。このようなことを思うのは」
ぱちん、と乾いた音が二人の間に響く。膝丸が置いた歩が、一歩前進をした音だった。しかし、
「僕は悪くないと思うよ。昔の弟も、嫌いではなかったけれどね。あ、これでこの歩兵は僕のものになるんだよね」
髭切が動かした駒が、不用意に突出した膝丸の駒をかすめ取っていく。
「ああ。どうにも考え事をしながらは良くないな。兄者は筋がいいから、すぐに駒の動きを掴んで俺を負かしてしまうだろう」
「ふふ、その日を楽しみにしているよ。それで、そんなに海を見に行きたいなら主に頼んでみたら? ついでにあの子も誘えばいいだろうに」
「……この程度のことで、手を煩わせるわけにはいかない。突然俺に誘われても、若苗も困るだけだろう」
真面目だなあ、と髭切は目の前に弟に対してそのような感想を抱くが、口には出さずに代わりに駒を進める。他の駒より大ぶりな駒――飛車に指を載せ、ずいと前に進み出た。
丁度、この駒のように膝丸は真っ直ぐだと、髭切は思う。真っ直ぐすぎるほどに。怠惰を己に許さず、常に己を律して源氏の重宝として相応しい自分であれと戒めている。
以前はそれを他者にも強要してしまうきらいがあったが、今はその押しつけがましい部分についてはすっかり鳴りを潜めていた。もっとも、だからといって自分が気を緩めるつもりがないのが、彼らしいと言えるだろうか。
「しょうがないなあ」
髭切はぱちんと駒を進め、そして徐に自分の側にあった障子をからりと開いた。彼が顔を廊下へと覗かせると、折良く主の藤がこちらに向かって歩いてくるところだった。彼女の足音が聞こえたからここを開いたのだから、ある意味当然の結果ではあるのだが。
「主、ちょっといい?」
「どうしたの、髭切」
とんとんと軽やかな足音を響かせてやってきた彼女の背後に隠れるように、若苗の姿も見える。二人でお喋りしながら、ここを通りがかったというところだろう。
「主、この前政府から借りた車って、まだ返していなかったよね。あの車置き場に置いていたと思うんだけど」
「ああ、あれね。明日返す予定だよ。それがどうかしたの?」
「弟が車乗って海に行きたいって言ってるから、貸してあげられない?」
「あ、兄者。俺は何もそこまでは」
慌てて制止の言葉を投げかけようとしたものの、藤は髭切と膝丸の顔を見て大体のことを既に把握してしまったようだった。
本丸内で膝丸との付き合いが長いのは、兄を除けば主となる。生真面目な弟が己の要求を飲み込んでしまい、兄がそれを汲み取って主に伝えるのはいつものことなので、既に慣れっこになってしまっていたのだ。
「いいよ。ちゃんと返してくれるならね。膝丸なら運転の指導を前に受けてたから、髭切より安心して任せられるだろうし」
「ひどいなあ。僕もちゃんと運転できるよ?」
「あ、あの」
軽口の応酬を続けている二人の間に割って入ったのは、蚊の鳴くような小さな声だった。藤の後ろに隠れるようにして立っていた若苗のものである。
「あの、もしよかったら……私も、同席させていただいても、よろしいでしょうか」
声こそおずおずとしたものだったが、彼女の薄緑に染められた瞳には隠しきれない好奇心が滲んでいた。もとより、海に行きたいと言い出したのは若苗なのだ。彼女がこのような反応を見せるのも当然である。
「というわけだけど、膝丸。頼んでもいい?」
「あ、ああ。……任された」
思いがけなく自分が憎からず思う相手と共に出かけるという状況になり、膝丸の心中は表面にこそ出していないものの穏やかならざるものとなっていた。だが、断るかと言われれば、このような機会を逃すわけにはいくまいという程度の高揚は、彼にもある。
「まだ午後二時前だから、近くの海なら高速道路使えば割とすぐに到着すると思うよ。外でご飯食べてきてもいいし。日付が変わる前には帰ってきてね」
「分かった。兄者、すまないが将棋は明日でも良いか」
「構わないよ。行っておいで、飛車丸」
「俺はまっすぐしか進めないわけではないぞ……?」
早速覚えた単語を使って交えながら弟を呼ぶ兄に、膝丸は呆れたように肩を竦めてみせる。
何はともあれ、時間は有限だ。善は急げとも言う。藤から車の鍵を預かった膝丸は、若苗を伴って足早にその場を後にした。
残された藤は、膝丸が座っていた座布団に腰を下ろし、目を細めて膝丸を見送る髭切に声をかける。
「今の呼び方さ、間違えたわけじゃないでしょ」
「うん。この駒、弟にそっくりだなと思ってね」
髭切は自分が進めていた飛車に人差し指を載せ、示してみせる。真っ直ぐにしか進めない、生真面目で不器用で、でも敵に挑む時は誰よりも勇猛果敢な将。ひっくり返せば龍と変じるのも、彼らしい。
「龍になったら、斜めにも動けるようになるんだって。主、知ってた?」
「一応は。でも、そういう気配りできそうな所は、ちょっと膝丸とは違うかな。膝丸がもしこの龍なら、きっと何かにぶつかるまで止まれなくて、掴めるものも取り逃がしてしまいそう」
飛車や龍は自分の好きな所で直進を止めることはできるが、膝丸が器用に自分の望むものを得るために足を止める姿は、あまり想像しにくい。
自分より後ろに控えているものに手を差し伸べることはできる。自分の前に立っていると分かっているものに、手を伸ばして追いかけようともできる。
なのに、隣に立つ者に触れることはできない。きっと手を掴んでしまえば最後、彼は止まれなくなってしまうだろう、と髭切は目を伏せ、生真面目さと苛烈さの両方を備える弟のあり方を思う。髭切はそれもまた自分なのだと受け入れられるが、恐らく彼は止まれない自分を責めてしまうだろう。
「いい加減、若苗に好きだって言っちゃえばいいのに。そうしたら膝丸も楽になるんじゃないかな」
「それを主が言うかなあ。でも、言い出せない弟の気持ちも分からないでもないよ」
「どういうこと?」
「だって、僕らは刀だから」
部屋の片隅に飾られている髭切の本体を目にして、藤も浮かべていた笑みを引っ込めた。
「あの娘、僕から見ても白すぎるからね。弟から見たら、自分のようなものが側にいていいか悩むんじゃないかな」
事情があったとはいえ、若苗は子供のように無垢だ。色恋のような欲に晒していいのか、悩んでしまうほどに。人殺しの道具でもあると考えられるものが、護衛以外の感情を抱いていいかと自問自答してしまうほどに。
「……それを決めるのは膝丸じゃなくて、若苗だと僕は思うけどな。何か切っ掛けがあって、距離が一気に進むとかあればいいのに」
「切っ掛けを待っていたら、見守る側が待ちくたびれてしまうよ。そうだ、主。将棋ってもう一つない?」
「あったかもしれないけど、突然どうしたの?」
突如話を切り替えた髭切に驚き、藤は首を傾げる。
「弟が帰ってくるまでに強くなりたくて。負けっぱなしじゃいられないものね」
「そういうことなら、分かったよ。指南本とかなかったか、ついでに調べてみるね」
「うん、よろしく頼むよ。主も一局お願いしていい?」
「僕はほとんどやったことないんだけど、それでいいなら」
膝丸の帰りを待つ二人は、予備の将棋を持ち出して再び盤面を挟んで向かい合う。素人と素人の泥仕合は、それから夕方まで延々と続いていくこととなったのだった。
***
主から借りた車は、特に問題を起こすことなく走行を開始した。
以前主が話していたことによると、まだまだ一般的には普及しきっていない自動走行の機能などがこの車には付属しているらしい。他にも諸々の安全装置が加わり、無人で動かしていても事故を起こさないと太鼓判を押されているものとのことだ。そういうものでないと、人ではなく付喪神である本丸所属の刀剣男士が動かすことを許されていないのだそうだ。
もっとも、それでも運転する刀剣男士はある程度の講習を受ける必要はあるのだが、膝丸は一時期政府に貸し出された経緯があるため、その際に十分な指導を受けていた。政府に所属している刀剣男士ならまた事情も変わってくるらしいが、膝丸は生憎その恩恵を受けることは叶わずのままだ。
「ここから最短で二時間と少しで到着するそうだ。気分が悪くなったら、すぐに言ってくれ」
「はい。わかりました」
返事をしたのは、彼の隣に座る若苗だ。普段着ている和服ではなく、今日は長時間座りっぱなしになることも踏まえて春物の洋服を纏っている。膝丸の髪を思わせる薄緑色のスカートに、同じく彼の上着の色と同じ黒の上着をまとっていた。膝丸本人はというと、いたってシンプルな白の薄手のセーター、紺のジャケットにズボンという出で立ちだ。流石に外出するのに、内番の服を着ていくわけにはいかないと選んだものである。
「不思議なものですね。このようにして、膝丸様の隣に座っていられるなんて」
自動車自体に乗ったことが初めてではないようだが、こうして二人並ぶ日が来るとは膝丸自身想像もしていなかった。
運転席の周りにあるメーターなどの機器類が気になるのだろう。若苗の視線は落ち着きなくあちこちに向けられ、運転自体は車の機能に任せているものの、ハンドルは握っている膝丸にも熱い視線という形で注がれた。だが、娘が向ける憧憬の視線を、しかし膝丸は誇らしいと思うと同時にむず痒く感じていた。
できれば視線を外して欲しい。けれども、同時にもう少し見つめてほしいとも思う。全くままならないものだ、と膝丸は矛盾する自分の気持ちに人知れずため息をついた。
数十分後。流石に膝丸を見つめ続けることに飽きたのか、若苗の視線はいつしか窓の向こうへと移っていた。
高速道路を走っているため、行き過ぎる景色はまるで川のように流れていき、ゆっくりと眺められるものではない。それでも、若苗にとっては面白いものなのだろう。彼女がこちらを振り向く様子はまるでなかった。
(俺ばかり見ていても、たしかに面白みはないだろうが)
一度熱い視線を向けられた後に、それを逸らされるというのは少し堪えるものがある。かと言って、子供のように構ってと言うわけにもならない。運転自体はほぼ自動でしてくれているとしても、万一を考えるとよそ見をするわけにもいかないからだ。
だからといって、じっと前を向き続けていられるほど膝丸も忍耐強いわけではなかった。隣に気になる相手が座っているのだから、気も移ろうというものである。
「……その、喉は渇いていないか」
「大丈夫です、膝丸様。先ほど、少しいただきましたので」
「そうか」
ただ、会話は全く続かない。若苗が大人しく外を見つめている上に、膝丸は話し上手というわけでもなかった。髭切のように、沈黙を特に気にせずにいられるほど大らかな気質でもない彼は、既にこの一時間近く続く沈黙に耐えかねていた。
対する若苗の方は、別に気まずさも感じていないように外を見つめ続けている。運転中に話題を振るのは失礼と思って黙っているのだろうが、今に限って言うならば何か話題を振ってほしかった。
(……いや、仮にも車を御する側になっているのだから、下手に会話をする方が不自然だろう。沈黙は金とも言うではないか)
どうにか合理的な説得を自分に試み、膝丸はこの気まずさを意識の外にやろうと努力する。意識の半分をフロントガラスの向こうにやり、もう半分を若苗に向けて、彼はこの沈黙をやり過ごそうとした。
どうせ外に出た後は、何か話すことになるだろう。流石に、無言のまま海をうろうろして回るのは避けたいものだ。予行演習代わりに何を話すのか決めておいた方がいい。
月並みな所で言うなら、服装だろうか。すぐに車に乗り込んでしまったせいで、ろくに彼女の装いについて話題を振ることができなかった。
(普段は和服を着ていることが多かったからな。洋服の方が、確かにこの車に座るのには向いているだろう)
何せこのシートベルトというやつは、安全のためとはいえ腹と胸を拘束するものだから、帯を締める和装の上からでは苦しいだろう。
そんなことを考えて彼女に視線を送っていた膝丸は、気がついてしまう。普段はきっちりと抑えられている彼女の胸元に、しっかりと食い込んでいるシートベルトに。
斜めに横断したベルトが強調する、二つの豊かな双丘に。
(…………)
しばし、思考が停止する。
特に女人の体に強い興味を抱いてなくても、強調された丸い膨らみに、男の体で顕現してしまった彼は一瞬とはいえ目を奪われてしまっていた。
とはいえ、すぐに我に返り、膝丸は強引に視線を前に向ける。その白皙の頬には、ほんのり朱が混ざっていた。
(俺は、一体何を考えているのだ。そのようなものに、目を奪われるなど)
本丸の主が同じ女人とはいえ、胸が平たい体格なために普段目にすることもなく、つい物珍しく思った。ただそれだけなのだ、と必死に否定する。もし当の主がそんな言い訳を聞いていたら、膝丸は間違いなく両頬に平手打ちを食らうことになっただろう。
(話をしていなくてよかったかもしれぬ。このような思い、彼女に知られていたらと思うと)
思わずハンドルに頭を打ち付けたくなるが、ぐっと堪えて彼は素知らぬ顔で前を見る。視線を横に向けたいとのたまう煩悩という名のもう一人の自分を、膝丸は理性という名の刃で苦心惨憺しながら斬り伏せたのだった。
膝丸が己の煩悩を斬り伏せる少し前、若苗は川のように流れていく景色をじっと見つめていた。
本当のところを言うと、もう少し膝丸の運転している様子を見ていたかった。視線が合うわけではないものの、彼が易々とこの複雑なからくりを手懐け、操る姿はどういうわけか心惹かれるものがあった。普段ゆっくり見ることができない横顔を、こうして眺めることができるからかもしれない。
(でも、あまり見ていてはお邪魔のようでしたから)
こちらの視線を感じてか、膝丸の目が困っているように見えた若苗は、窓の方を向くことにしたのだった。まさか、当の本人がこちらを向いてほしいと思ってることなどとは、到底彼女が知る由も無い。
(山が近くて、木々の声が少し聞こえてきます。この車はとても早く移動してしまうので、聞き取りにくいですけれども)
あやかしに憑かれやすい彼女は、同時に人ならざるものの声を聞き取る力が強い者でもあった。むしろその力があるこそ、あやかしが寄ってきやすいと言えるだろう。
以前は聞こえてくる声の全てが頭に流し込まれるように入り込んできてしまうため、自我というものすら十全に保てないことがあった。だが、今は膝丸がくれたお守りや彼という存在そのもの影響もあって、問答無用で声や意思が押し入ってくることはない。今日だって、彼が作ってくれたお守り代わりの木札が彼女の手首から紐を通してぶら下がっている。
勝手に入り込んで来られるのは困りものだが、こうしてこちらがそっと耳を傾ける分は問題なく、些細なおしゃべりに耳を傾けるのはいっそ心地よいものでもあった。若苗にとっての密かな楽しみでもある。
(まだ春が遠いですものね。少し寂しい声にも聞こえます)
行き過ぎる緑の帯のような景色をじっと眺めていると、不意に自分に向けて暖かくも激しい視線が向けられていることに、若苗は気がついた。ここ暫く感じたことのなかった燃えるような想いが込められた視線に、若苗は外を向いたまま思わず数度目を瞬かせる。害意は感じないために悪いものではないだろうと思うが、ここまで燃えるような思いを向けられると少し居心地が悪い。
一体何が、そんな思いを自分に向けているのだろうか。移動中の車内に何かが乗り移ったのだろうか。そこまで考えて、若苗は違うと否定する。
(これは、膝丸様からの――?)
自分に向けられている炎のように熱くも、同時に好感を覚える視線。それは、隣に座る彼からのもののように思えた。
人ならざるものの声を聞き取りやすい彼女は、当然付喪神の声も聞き取りやすい。だが、膝丸のくれた加護のようなもののおかげで、本丸にいる刀剣男士の声ならぬ声を片っ端から拾い上げるようなことはない。元々、声を自ら発することができるようになった刀剣男士たちは、物言えぬ者よりかは思いを外側に発露できる手段がある分、心に直接訴えてくる者はそこまでいないはずだった。
だが、この熱さは言葉を持たぬ者の思いに似ているような気がする。
(何か、思うことがあっても言えないのでしょうか)
まさかシートベルトで強調された胸部に気が付いてしまい、慌てふためいていたなどという理由だったということは、若苗が知る由も無い。
やがて、じわじわと続いていた熱い想いも、始まるのと同じくらい唐突に途切れてしまった。恐らくは、隣の彼が意図的に心を切り替えたのだろう。
(膝丸様は、いつも前を向いておられて、皆様にも頼られているお方ですけれど……言えずじまいのこともあるのでしょうか)
兄である髭切には、一人前の刀剣男士として、また源氏の重宝として恥ずかしくない姿を見てもらおうと常に凜とした姿勢を見せ。
主である藤の前には、頼りになる刀の一振りとして扱ってもらおうと、弱音を見せることなどもなく。
本丸の他の刀剣男士の前では、顕現が他の者より後であったからといって足を引っ張ることのないようにと、彼らの声に耳を傾け、自ら助けになろうと積極的に動き回る。
そして、若苗の前でも。頼れる護衛として、彼は脅威に対して一歩も引くことがなかった。
(真っ直ぐで、勇ましくて、素晴らしい方。今日もこうして、私の我が儘に付き合ってくださっている)
海を見たいと言い出したのは自分だ。ならば、彼が付き合ってくれているのも、自分の我が儘を聞き入れてくれたからこそと彼女は思っていた。
(清廉潔白で、何事にも動じない方。でも、もし口にできないことがあるのでしたら、せめてそれを聞くお手伝いくらいできたなら……などと思うのは、傲慢でしょうか)
自分を見つめている視線の熱をそのように解釈しつつも、若苗の口が開くことはなかった。主でもない自分が、彼のことについて口を挟むことではないと考えてしまったからだ。
とはいえ、外の景色を眺めていても、考えるのは膝丸のことばかりだ。彼に浮かない顔を見せまいと、彼女は窓ガラスに頬をぺたりと貼り付けて、流れゆく緑を眺め続けた。
そうこうしているうちに、車はようやく海へと到着したのだった。
***
海に到着した頃には、春を目前にしつつも冬の香りが強い太陽は既に西へと沈みかけていた。真っ赤に染め上げられた空を写し取ったように、眼前の海も青と朱を混ぜた色合いに染まっている。黒く切り取られたかのような砂浜には、家路を急ぐ親子や夫婦の姿が見えた。
その光景を目の当たりにして、膝丸は、
「――――」
声を、失った。
遠く響く潮騒の音も。どこぞではしゃぐ子供の声も。全てが遠くへと押し流されていく。隣にいる娘のことも忘れ、彼の琥珀色の瞳は延々と広がる海だけを映していた。
瞬きすら忘れて、彼は眺め続けた。自分という、ちっぽけな存在の前に広がり続ける海というものを。
何もかもを飲み込むかのような恐ろしさと、何もかも包み込むような広大さを兼ね備えた、茜色に染め上げられた水面を見つめ続けていた。
鼻の裏をくすぐる言い様のない香りは、少ししょっぱいようにも思える。きっとこれが磯の香りなのだろう。遮蔽物のない浜辺では、容赦なく海からの風が吹き抜けていく。彼の片目を隠す薄緑の髪もまた朱色に染め上げられた風に撫でられ、ふわりとなびいた。
「膝丸様」
膝丸と同じように、無限に広がる海に言葉を奪われていた若苗は、しかし彼より早く我に返って彼の袖を引いた。
「折角来たのですから、もっと近くに行ってみませんか」
二人は丁度、堤防の途中にある砂浜に降りる階段のてっぺんで海を眺めていた。少し離れた所に車を停めて、ここまで歩いてきたのだ。
「膝丸様?」
若苗は再び名前を呼んだが、膝丸の反応は鈍い。遠慮がちに彼の手に触れて、ようやくはっとしたように瞬きをして、彼は若苗の方を向いた。
「あ、ああ。そう……だな。行ってみるか」
だが、言葉に反して膝丸の足取りは鈍い。若苗は彼の手を引くように、階段を降りていくことになった。
そのままさらさらとした、足場の不安定な砂浜を彼らは歩いて行く。点々と残っているのは二人分の足跡。一つの歩幅は小さく、一つは大きい。
どこにでもある、ありふれた景色の一つ。少し違うのは海を見に来たのが、一人と一振だということだ。
「波の音が気持ちいいですね。寄せては返して……膝丸様がお話してくださった通りです」
潮風に長い黒髪をなびかせ、頬を夕焼けに負けず劣らず興奮で朱に染めて、彼女は微笑んでみせる。足取りの重い膝丸を置いて、彼女は砂浜の上でまだ冷たさの残る波の元へと駆け寄り、寄せては返す白波と追いかけっこをしていた。楽しそうに笑う彼女は、波というものをそれだけ気に入ったらしい。
春の匂いは感じているものの、まだ少し寒気を覚える日が続いている。今日は暖かかったが、それでも海の水は冷たかろう。だというのに、冷たさを物ともせず、彼女はくるりくるりと潮騒を音楽がわりに舞を舞う。
だが。
彼は、足を動かすことができなかった。
ざざーっと響く潮騒の音は。近づいては離れていく。まるで、それは自分の足を掴んで引きずりこんでいく得体の知れないもののように彼には思えていた。
もし、この海の中に沈んでしまったら、二度と上がることができないのではないか。底知れない広がりの中に浮かぶ、泡の一つに消えていくのではないか。
自分を構成する物語も、多くの逸話と共に寄り添った主のことも、或いはここでこうして顕現して共に過ごした日々も。この海という場においては、全ては取るに足らぬ些事となる。
沈んでしまえば、全て海の藻屑。光も届かぬ深淵に、落ちて、落ちて、二度と還ってこれない。
錆び付き、輝きを失い、人の口の端にものぼらずに――。
「膝丸様っ」
暗い海に沈む幻想から彼を引き上げたのは、澄んだ鈴のような声だった。
「膝丸様、見てください。太陽までの道ができているようです!」
彼女が指した先では、まさに水平線に沈みゆく太陽から一本の光の道がのびていた。
水面に浮かぶ一条の金の帯。まるで、そこに向かうかのように彼女の足が前に進み、
「若苗っ」
弾かれたように、釘付けになっていた足が動いた。
彼女との距離は、ほんの数歩。その数歩が、どれほど遠いものだったか。
呼びかければ、すぐにこちらを振り向いてくれるのがいつもの彼女なのに、今日だけは波に心まで浚われてしまったかのように、振り向くそぶりすら見せてくれない。
「若苗!」
もう一度、呼びかける。彼女は止まらない。
その足が波打ち際から太陽に続く道を歩み、どこか遠くに行ってしまうような気がして、躊躇うことなく膝丸は彼女を抱き寄せて己の腕の中へと閉じ込める。
「あまり遠くに行かないでくれ。濡れてしまうだろう」
はっと彼女が息を呑む音がした。呼吸一つ分を置いてから、彼女は小さく頷いた。腕の中で背後を見ようと体を捻った若苗の息が、微かに乱れる。何かに驚いたかのように。
彼女に驚かれるような顔を自分はしているのだろうか。疑問に思っても、己の顔を見る術など今はなかった。
「……そう、ですね。靴を濡らしてしまうところでした」
若苗の返事を最後に、言葉が止まる。二人の間に沈黙が続き、その間を補うように潮騒だけが静かに響いていく。
数分後、若苗は自分を抱きしめている彼の腕に手を触れて、囁くように呟いた。
「膝丸様、海は広いですね」
「ああ。知ってはいたはずなのだが」
圧倒された。
遠くから背景として捉えていた海を、正面から受け止めて彼は思わず二の足を踏んだ。無限に広がる青と朱の水面の前に踏み出せない自分に気がつき、心が揺れた。
「それに、たくさんの音がします。たくさんの声がします。きっと色んな思いがこの広い水の中にあるのでしょうね。少し、怖くなるくらいに」
彼女の言う通りだ。だから、足を踏み入れれば最後、その中に自分が埋もれてしまうように思えた。あやふやで不明瞭なものへと姿を変えてしまい、二度と形を得られないような気がした。
「でも」
けれど、彼女は地平線に最後の光を投げかける太陽を背にして、微笑んだ。
「でも、海は優しいですね」
いつしか腕を下ろした膝丸の側から離れ、娘は海を抱きしめるように手を広げる。
「たくさんの声がするということは、それだけ沢山のものを受け入れていることだと思うのです。だから、海は大きくて、少し怖くて、でも優しいものだと私は思いました」
「怖いと思っても、優しい?」
「はい。一人で向き合っていたら、きっと怖いとか、寂しいということばかり感じていたと思います。多くの声は聞こえるのに私はひとりぼっちのままで、例え『おいで』って誘われても、今度は広すぎる海が何だか恐ろしく見えてしまうでしょう」
再び彼女は、「でも」と言って膝丸の手をとる。海風で少し冷えた指が、手袋に包まれた彼の指に触れた。
「膝丸様がいたから、私は独りではないのです。だから、海の優しさにも気がつくことができました」
変でしょうか、と彼女は照れくさそうに笑う。膝丸はゆっくりと首を横に振る。
どんなものからも良い点を見出そうとするのは彼女の美点だ。その手伝いができたのなら、膝丸としてはこれ以上を望むことはない。それに、彼女から貰った物の見方は膝丸の視界を開く助けにもなる。
「海が優しい、か」
延々と響く潮騒も、寄せては返す白波も、最初はただただ言い知れぬ恐れしか彼にもたらさなかった。
だが、彼女の言葉を聞いて膝丸は考える。
嫌悪や憎悪のような激しく黒い思いは、この海に向けて感じることはない。無限に姿を変え、ときに全てを受け入れ、ときに全てを押し流して飲み込む。
その有り様を優しいと思えるほど、膝丸は若苗ほど無邪気ではいられなかった。あるとしたら、もっと別の何か。
「俺は、もう少し違うものに見えるな」
「それは、何でしょうか?」
「……また、折を見て話すとしよう。君のおかげで感じられたものだ」
正しく、目の前に広がる水平線に向ける感情を言葉とするならば。
それは、恐れではなく、畏れだ。
自分の手に余る何かを怖がって遠ざけるというよりは、近寄るのも憚られる広大なものへの言葉にし難い感情。人は、これを畏敬と呼ぶのだろう。
そう思うと、ストンと心が落ち着いた。ここにこうして立っていることを、悪いことではないのだと思えることができた。
ならば、今はそれでいい。
再び相まみえるとき、また違う感情を抱くこともあるかもしれない。それもまた、必定というもの。海は移ろうものであり、心もまた同じなのだから。
「あ、お月様がお顔を出してます」
若苗が再び指した水平線には、月と思しき淡い光が見えた。真っ赤に燃えるような空は既に、紺碧の夜空へと模様替えを済ませていた。銀の星々が煌めく天鵞絨のような夜空は、さながら天上の砂浜のようだ。
「もう少し、ここにいてもよろしいでしょうか」
「せっかく来たのだからそれは構わぬが、何か見たいものでもあるのか?」
「この水面にうつる月を、眺めてみたいのです。それはきっと、いっとう美しいでしょうから」
彼女に呼ばれるようにして、とろりとした金が夜空を映した海に流れ込む。太陽のように輝くことはなくても、二人分の姿を照らし出すには十分だ。
水面に映る月が、空を昇る月が、二つ分の輝きを一人と一人に浴びせていく。まるで、こちらを誘うかのように。あるいはこちらを惑わすかのように。
「ああ、今宵は満月だったか」
金の光をその琥珀の瞳を吸い込ませ、彼は目を細める。月光に誘われるように、膝丸の手が彼女の肩へそろそろと伸びた。だが、彼は彼女に触れるより先にぱたりと手を下ろす。彼女に触れる代わりに、彼は自分の上着を脱いで、その細い肩にかけた。
「夜の海は風が冷たい。これを羽織っているといい」
「ありがとうございます。でも、膝丸様が寒くはありませんか」
上目遣いでこちらを見つめる彼女の薄緑の双眸に、ぐらりと膝丸の理性が揺れる。いっそのことその手をとり、今すぐにでも――と思いかけ、膝丸は頭を横に振る。
この月下では、どういうわけか心がいつもより揺れやすいようだ。普段と違う状況で、気持ちが浮ついているのだろう。気を引き締めねばと、膝丸はふぅと息を小さく吐く。
「気にすることはない。元は鉄の身だ。人のように、風邪をひくこともない」
自分で口にした筈の言葉が、どういうわけかちくりと胸に刺さった気がした。
若苗もそれ以上は何も言わず、自分の肩幅に合わない上着をかき抱くようにして、じっと月を見上げていた。
遮るもののない世界で、いつもより大きく見える月の光は静かに二人を照らし出していた。月ではなく、月を見上げる彼女の横顔を知らず知らず見つめている己がいることに、膝丸は気がつかないふりをすることにした。