美芳本丸短編
「ああ、雪か」
言葉を発すれば、後を追うように吐いた息が白い霧となってふわりと舞う。それを見ると、冬も本番になったと鶯丸は思うのだった。
わざわざ言葉にするまでもなく、空から舞う白の欠片は音もなく道に、木々に、家に、人に降り積もる。夜の間に降って既に薄ら積もっていた雪は、こうして今、お色直しのように再び汚れひとつない白へと染まっていく。
ある店の入り口を見張るように道端に立っている鶯丸もまた、雪によって純白へと彩られていく。持ってきた傘をさすと、赤の和傘によって白の視界が少し切り取られた。
時刻は夕暮れの頃だが、今日は夕日を拝むことはなさそうだ。ただぼんやりと薄暗くなっていく空を、鶯丸は何ともなしに見上げた。
(こうしていると、まるで物みたいだな)
そこまで考えて、鶯丸はふっと口元に弧を描く。
元より、者ではなく己は物だ。だからこれはただの、思い違い──人の姿をした故の感傷だと、彼は笑む。それはまるで雪に溶けて、今にも消えていきそうな淡い笑みだった。
雪の中、ある店の入り口をぼんやりと見つめること更に一時間近く。日はすっかり暮れ、街灯がぽつりぽつりと音も無く灯っていく。夏に見た蛍を思わせるその下で、彼はただ待ち続けていた。
やがて、その時が来る。
店の暖簾が揺れ、店員の賑やかな声が音一つ無い空間に響いた。続いて姿を見せたのは、年の頃まだ十代と思しき娘。
ああ、やっと、と彼は息を吐く。凍りついた己という存在が、軋みをあげて動き出す。
彼女はこちらを見て、ただでさえ大きな琥珀色の瞳をさらにまん丸にして駆け寄ってきた。
「鶯さん!? どうして、ここに」
「帰りが遅いから迎えに来た。それで正月の晴れ着は仕上がっていたのか?」
「はい。とても綺麗で──じゃないです! 鶯さん、コートも着ないで一体いつから立ってたんですか!?」
「俺たちは風邪はひかないからな。気にするほどのことじゃない」
「気にします!」
きっぱりと、言い返されてしまった。
感覚はなくとも動く指が、問答無用で彼女の手袋に包まれる。
彼女が目を三角にして叱るのも、無理はない。鶯丸は戦装束の籠手を外しただけという、非常に質素な出で立ちをしていたのだから。
雪が降り積もる中において、直立不動の姿勢でそんな格好の鶯丸が立っているというだけで、ある種異様な状況であった。余人が側に寄るのも憚られるような、静謐な空間が彼の周りには生み出されていた。
だが、彼女はそこに躊躇無く割り込んでいく。それだけで、彼は者へと戻っていく。
「手も冷えてますよ。私の分の手袋を使ってください」
「それでは君の手が冷える。それに、俺と君では手の大きさが違う」
「じゃあせめて、これくらいはしてください」
彼女は自分が巻いてた白いマフラーを解き、ぐるぐると鶯丸の首に巻き始めた。きゅっと蝶リボンの形で結ばれてしまい、これではなんだか子供のようだと思うも、彼はなすがままになっていた。
「鶯さん、店の中になぜ入らなかったんですか」
「鍵がかかっていた」
「あ……そういえば」
今日、彼女は正月に着る晴れ着ができたと連絡を受けて、最後の調整のために店にまで赴いていた。そこで帯や小道具を勧められたり、最終的な調整を行っていたりと時間がかかってしまい、結果的に本来の営業時間はとうの昔に過ぎてしまったのだ。故に、誤って客が入ってこないよう、店員が入り口に鍵をかけてしまったのだろう。
まさか迎えが来ていると思わず、彼女もそこまで気を回せなかったのだ。
「それに、どうせ晴れ着を見るなら実際に着る時に見たいからな」
「それは期待してもらって大丈夫ですよ。とても綺麗な色でした。黄色はなかなかないそうなんですが、私の瞳の色とよく合っていると、褒められたんです」
鶯丸に傘を差しかけられ、一礼をしてから彼女はその内側へと入る。
彼と二人並んで歩く雪道は、まだ誰も足跡のつけてない真新しい白に埋められていた。それを汚すことに幾ばくかの申し訳なさを覚えつつ、二人は家路を急ぐ。きゅっ、きゅっと雪を踏みしめる音が響くこと暫し、次に口を開いたのは少女の方だった。
「鶯さん、その、今日はなんの日か知ってますか?」
「着物が仕上がった日だな」
「そうじゃないですよ」
「冗談だ。くりすますいぶ、という日だろう」
彼は真顔で冗談を言ってくるから、それと分からないことがある。彼女がいちいち慌てふためいたり驚いたりする様が面白いので、鶯丸も改める気は無かった。
こほんと一つ咳払いをして、彼女は傘をさす鶯丸の冷えた手をとる。まるで氷のように冷たい彼に少しでも熱を伝えられたらと思いながら、彼女は白い息と共に言葉を載せた。
「私、呉服屋さんに行く前に、茶葉を買ってきたんです。その、いつもの日本茶じゃなくて紅茶……ですけど」
彼女はじっと鶯丸を見つめて、その反応を窺う。
これが何を求めての言葉なのか、すぐには思いを汲み取ることができず、流石の鶯丸も流さずにじっと目を合わせて続きを待つこととした。
「また、今度でいいんです。お茶を一緒に、飲みませんか。私、ケーキ焼きます。クッキーも、焼きますから」
「それは、大包平が聞いたら喜びそうだな」
あいつは君の菓子が好きだから。いつものように本丸にいる彼を思い描いて口にすると、
「私は、鶯さんにも、喜んで、欲しいんですっ!」
滅多に耳にすることのない彼女の大きな声に、鶯丸は思わずその目を見開き、足を止めた。見下ろした先にある彼女の目は、いつものような年相応の子供じみたものでなく、真正面からこちらに向き合ったものだった。
「命を大事にしろ、と鶯さんはいつも言ってます。でも鶯さんも、鶯さんも大事にしてください!」
「死にたがった覚えはないはずだが」
「そうですけど、そうじゃないですっ。物かもしれないですけど、物になろうとしないでほしいんです。あんな風に寒い所で立っていたりとか!」
一人でいると、自分が人ではないことを強く意識する。彼女に会うまで、様々な事情が重なって一人でいることが多かったからというのもある。
孤独が辛い、寂しいというわけではない。ただ、言いようのない沈黙の只中にいると、静寂が自分が押し固めていくような感覚には襲われる。先程、雪の中を立っていた時のように。
「なら、君がそばにいてくれればいい」
けれども、彼女が来ればいつだって、凍りついた何かが溶けていく。固まっていたものが解けていく。
「それが俺にとっては、一番の贈り物になるらしい」
ただ思うがままを言ってみただけなのに、彼女は俯いて黙りこくってしまった。やがて、ゆっくりと息を吐き出して、「ずるいです」と彼女は呟いた。
「じゃあ、たまには大包平さんに内緒で、お茶を飲みに行ってもいいですか。私、鶯さんの口から鶯さんの話が聞きたいんです」
「ああ」
「あと、自分が刀剣男士だからって、付喪神だからって、無茶しないでください」
「拝命した」
了承の言葉とともに、雪によって凍り付き錆び付いていたかのような表情が動き、ごく自然に鶯丸の顔に笑顔が生まれた。
彼の変化に気づき、顔を上げた彼女もパッと顔を輝かせる。まるで一足早く、彼女に春が訪れたかのようだ。
「なら、俺も一つ願うとするか」
「何ですか?」
「君の晴れ着姿は、一番に俺が見たい」
「勿論です。色は鶯さんの意見を参考にしたんですから! でも、どうしてですか?」
首を傾げた彼女に、鶯丸は目を細めて、今度は意識して口元に弧を浮かべる。
「一番を、他に譲るわけにはいかないからな」
するりと飛び出た言葉は、ただ思ったままを声としただけのものだった。なのに、彼女ときたらまるで太陽が昇ったかのように、頬をゆっくりと桜色に染め上げていた。
「は、はい。一番に見てもらいに行きます」
蚊の鳴くような声で囁く彼女を見つめ、傘を持たぬ方の手で彼女の頭を撫でようとして、鶯丸は手を止めた。
冷えた手では、彼女の頭には冷たかろう。やはり手袋をつけておくべきだったか、と彼は遅まきながら思う。
「今度、上着と手袋を買うのに付き合ってくれないか」
「やっぱり持ってなかったんですね。ええと、拝命しましたっ」
鶯丸の言い方を真似して、彼女はくすりと笑う。やはり、彼女と話していると自分はただの物以外の何かを得るようだと、彼は新たな発見を心中にそっと収める。
帰りましょう、と誘われて二人は歩き出す。降る雪が溶けるような、春の陽だまりを互いの内に抱えながら。
言葉を発すれば、後を追うように吐いた息が白い霧となってふわりと舞う。それを見ると、冬も本番になったと鶯丸は思うのだった。
わざわざ言葉にするまでもなく、空から舞う白の欠片は音もなく道に、木々に、家に、人に降り積もる。夜の間に降って既に薄ら積もっていた雪は、こうして今、お色直しのように再び汚れひとつない白へと染まっていく。
ある店の入り口を見張るように道端に立っている鶯丸もまた、雪によって純白へと彩られていく。持ってきた傘をさすと、赤の和傘によって白の視界が少し切り取られた。
時刻は夕暮れの頃だが、今日は夕日を拝むことはなさそうだ。ただぼんやりと薄暗くなっていく空を、鶯丸は何ともなしに見上げた。
(こうしていると、まるで物みたいだな)
そこまで考えて、鶯丸はふっと口元に弧を描く。
元より、者ではなく己は物だ。だからこれはただの、思い違い──人の姿をした故の感傷だと、彼は笑む。それはまるで雪に溶けて、今にも消えていきそうな淡い笑みだった。
雪の中、ある店の入り口をぼんやりと見つめること更に一時間近く。日はすっかり暮れ、街灯がぽつりぽつりと音も無く灯っていく。夏に見た蛍を思わせるその下で、彼はただ待ち続けていた。
やがて、その時が来る。
店の暖簾が揺れ、店員の賑やかな声が音一つ無い空間に響いた。続いて姿を見せたのは、年の頃まだ十代と思しき娘。
ああ、やっと、と彼は息を吐く。凍りついた己という存在が、軋みをあげて動き出す。
彼女はこちらを見て、ただでさえ大きな琥珀色の瞳をさらにまん丸にして駆け寄ってきた。
「鶯さん!? どうして、ここに」
「帰りが遅いから迎えに来た。それで正月の晴れ着は仕上がっていたのか?」
「はい。とても綺麗で──じゃないです! 鶯さん、コートも着ないで一体いつから立ってたんですか!?」
「俺たちは風邪はひかないからな。気にするほどのことじゃない」
「気にします!」
きっぱりと、言い返されてしまった。
感覚はなくとも動く指が、問答無用で彼女の手袋に包まれる。
彼女が目を三角にして叱るのも、無理はない。鶯丸は戦装束の籠手を外しただけという、非常に質素な出で立ちをしていたのだから。
雪が降り積もる中において、直立不動の姿勢でそんな格好の鶯丸が立っているというだけで、ある種異様な状況であった。余人が側に寄るのも憚られるような、静謐な空間が彼の周りには生み出されていた。
だが、彼女はそこに躊躇無く割り込んでいく。それだけで、彼は者へと戻っていく。
「手も冷えてますよ。私の分の手袋を使ってください」
「それでは君の手が冷える。それに、俺と君では手の大きさが違う」
「じゃあせめて、これくらいはしてください」
彼女は自分が巻いてた白いマフラーを解き、ぐるぐると鶯丸の首に巻き始めた。きゅっと蝶リボンの形で結ばれてしまい、これではなんだか子供のようだと思うも、彼はなすがままになっていた。
「鶯さん、店の中になぜ入らなかったんですか」
「鍵がかかっていた」
「あ……そういえば」
今日、彼女は正月に着る晴れ着ができたと連絡を受けて、最後の調整のために店にまで赴いていた。そこで帯や小道具を勧められたり、最終的な調整を行っていたりと時間がかかってしまい、結果的に本来の営業時間はとうの昔に過ぎてしまったのだ。故に、誤って客が入ってこないよう、店員が入り口に鍵をかけてしまったのだろう。
まさか迎えが来ていると思わず、彼女もそこまで気を回せなかったのだ。
「それに、どうせ晴れ着を見るなら実際に着る時に見たいからな」
「それは期待してもらって大丈夫ですよ。とても綺麗な色でした。黄色はなかなかないそうなんですが、私の瞳の色とよく合っていると、褒められたんです」
鶯丸に傘を差しかけられ、一礼をしてから彼女はその内側へと入る。
彼と二人並んで歩く雪道は、まだ誰も足跡のつけてない真新しい白に埋められていた。それを汚すことに幾ばくかの申し訳なさを覚えつつ、二人は家路を急ぐ。きゅっ、きゅっと雪を踏みしめる音が響くこと暫し、次に口を開いたのは少女の方だった。
「鶯さん、その、今日はなんの日か知ってますか?」
「着物が仕上がった日だな」
「そうじゃないですよ」
「冗談だ。くりすますいぶ、という日だろう」
彼は真顔で冗談を言ってくるから、それと分からないことがある。彼女がいちいち慌てふためいたり驚いたりする様が面白いので、鶯丸も改める気は無かった。
こほんと一つ咳払いをして、彼女は傘をさす鶯丸の冷えた手をとる。まるで氷のように冷たい彼に少しでも熱を伝えられたらと思いながら、彼女は白い息と共に言葉を載せた。
「私、呉服屋さんに行く前に、茶葉を買ってきたんです。その、いつもの日本茶じゃなくて紅茶……ですけど」
彼女はじっと鶯丸を見つめて、その反応を窺う。
これが何を求めての言葉なのか、すぐには思いを汲み取ることができず、流石の鶯丸も流さずにじっと目を合わせて続きを待つこととした。
「また、今度でいいんです。お茶を一緒に、飲みませんか。私、ケーキ焼きます。クッキーも、焼きますから」
「それは、大包平が聞いたら喜びそうだな」
あいつは君の菓子が好きだから。いつものように本丸にいる彼を思い描いて口にすると、
「私は、鶯さんにも、喜んで、欲しいんですっ!」
滅多に耳にすることのない彼女の大きな声に、鶯丸は思わずその目を見開き、足を止めた。見下ろした先にある彼女の目は、いつものような年相応の子供じみたものでなく、真正面からこちらに向き合ったものだった。
「命を大事にしろ、と鶯さんはいつも言ってます。でも鶯さんも、鶯さんも大事にしてください!」
「死にたがった覚えはないはずだが」
「そうですけど、そうじゃないですっ。物かもしれないですけど、物になろうとしないでほしいんです。あんな風に寒い所で立っていたりとか!」
一人でいると、自分が人ではないことを強く意識する。彼女に会うまで、様々な事情が重なって一人でいることが多かったからというのもある。
孤独が辛い、寂しいというわけではない。ただ、言いようのない沈黙の只中にいると、静寂が自分が押し固めていくような感覚には襲われる。先程、雪の中を立っていた時のように。
「なら、君がそばにいてくれればいい」
けれども、彼女が来ればいつだって、凍りついた何かが溶けていく。固まっていたものが解けていく。
「それが俺にとっては、一番の贈り物になるらしい」
ただ思うがままを言ってみただけなのに、彼女は俯いて黙りこくってしまった。やがて、ゆっくりと息を吐き出して、「ずるいです」と彼女は呟いた。
「じゃあ、たまには大包平さんに内緒で、お茶を飲みに行ってもいいですか。私、鶯さんの口から鶯さんの話が聞きたいんです」
「ああ」
「あと、自分が刀剣男士だからって、付喪神だからって、無茶しないでください」
「拝命した」
了承の言葉とともに、雪によって凍り付き錆び付いていたかのような表情が動き、ごく自然に鶯丸の顔に笑顔が生まれた。
彼の変化に気づき、顔を上げた彼女もパッと顔を輝かせる。まるで一足早く、彼女に春が訪れたかのようだ。
「なら、俺も一つ願うとするか」
「何ですか?」
「君の晴れ着姿は、一番に俺が見たい」
「勿論です。色は鶯さんの意見を参考にしたんですから! でも、どうしてですか?」
首を傾げた彼女に、鶯丸は目を細めて、今度は意識して口元に弧を浮かべる。
「一番を、他に譲るわけにはいかないからな」
するりと飛び出た言葉は、ただ思ったままを声としただけのものだった。なのに、彼女ときたらまるで太陽が昇ったかのように、頬をゆっくりと桜色に染め上げていた。
「は、はい。一番に見てもらいに行きます」
蚊の鳴くような声で囁く彼女を見つめ、傘を持たぬ方の手で彼女の頭を撫でようとして、鶯丸は手を止めた。
冷えた手では、彼女の頭には冷たかろう。やはり手袋をつけておくべきだったか、と彼は遅まきながら思う。
「今度、上着と手袋を買うのに付き合ってくれないか」
「やっぱり持ってなかったんですね。ええと、拝命しましたっ」
鶯丸の言い方を真似して、彼女はくすりと笑う。やはり、彼女と話していると自分はただの物以外の何かを得るようだと、彼は新たな発見を心中にそっと収める。
帰りましょう、と誘われて二人は歩き出す。降る雪が溶けるような、春の陽だまりを互いの内に抱えながら。