清麿夢と水心子夢の話
「水心子さん、お願いがあります」
その日の朝、居間にやってきた彼女は目をキラリと輝かせて、机越しに身を乗り出し、そんなことを水心子正秀に向かって言ってきた。
何事かと思わず身を引いた水心子に、彼女はにこにこという効果音がつきそうな完璧な笑顔を向けつつ、
「今日、学校に迎えにきてくださいませんか?」
とんでもないことを口にした。
水心子と彼女が向かい合って黙ること数秒。清麿が「ご飯できたよ」と茶碗を持ってくるのに十秒。「ありがとうございます」と彼女が返事をするのに、さらに十秒。
「何を言ってるんだ、あなたは!?」
「あ、やっと返事をしてくれましたね」
我に返った水心子が口を開くまでに、実に一分近い時間が過ぎていた。その間に少女は着座して、さっさとご飯を口の中に含んでいる。
「つまり、私に、出迎えの真似事をしろと言うのか」
「真似事ではなくて出迎えそのものですよ」
「何故、私がそのようなことをしなくてはならないのだ」
するわけないだろう、と言いながら彼は茶碗に手を伸ばす。日頃から刀は刀、人は人、と言っている彼なら当然の反応ではある。
ただし、彼は言葉で言うほど普段から頑なな態度をとっているわけではないことも、また周知の事実だった。故に、彼女はそこで諦めずに言葉を重ねる。
「今日はクリスマスイブです」
「そのような日だということは、知っている」
「クリスマスイブには、男女がペアで帰るのが当たり前となっています」
「……あなたが通う学校は、女人のみが通う学校だと思っていたが」
水心子が言う通り、目の前の彼女が通う学校は、簡単に言うなら女子校である。当然、男性などいるわけがない。
水心子の胡乱な視線を受け止めながら、彼女はそんなことは何でもないことだと言わんばかりに会話を続けた。
「だからです。他校の殿方とペアを組む社交力があるか、先輩方も同年代の方も目を光らせているのです。ただでさえ一人で帰ることが多い私が、この日もまた一人であるとなると、何と思われるでしょう」
箸を置き、やや芝居掛かった仕草で胸に手を当て、彼女はこちらに手を差し出してきた。
審神者候補の身の上の彼女は、確かに日々の鍛錬のために、寄り道などせず真っ直ぐに、この政府管理の宿舎に戻ってくる。その姿が浮いていると言うのかは水心子には分からないが、常に一人というのはたしかに不憫と言えるのかもしれない。
「というわけで、よろしくお願いしますね」
いいとも悪いとも言わないうちに、彼女はごちそうさまと手を合わせて、鞄を持ってさっさと部屋を出て行ってしまった。
出発の挨拶に「いってらっしゃい」と返す清麿の声でようやく我に返るものの、既に彼女はここを発った後だった。
「……大体、何で僕なんだ。政府の人間に頼めばいいだろうに」
新々刀の祖としての畏まっていた態度も、今は相棒しかいないということで少し緩み、隠していた砕けた口調で思わず愚痴が溢れる。清麿はどこか楽しそうに、そんな親友の様子を見つめていた。
「水心子のことを、気に入っているからじゃないかな」
「あれは、馬鹿にしていると言うんだ。いつもいつも僕のことを、まるで子供のように」
見た目の年は近いものの、彼女の方がこの時代の暮らしは長い。彼女の言葉を借りるなら、水心子は新しくできた小学生の弟のように可愛い人、ということだったが、水心子としては全く承服できかねるところだった。
殊更に子供扱いと言うよりは、どちらかというと単にからかって反応を見ているだけだと清麿は思っていたが、人間も刀剣男士も自分のことに関しては客観的になれないものである。
「うーん、僕は違うと思うけどね」
「どういう意味だ?」
「だって、彼女が毎日一人でこちらに戻ってきていることは、事実なんだよね。なら、学校という所で僕らのように話せる友人もいないのかなと思って」
それがどうしたというのだ。審神者になるのなら当たり前のことだろう。
歴史修正主義者と戦う刀剣男士としての正しい答えを言葉として口にしかけ、しかし水心子は口ごもってしまう。
やたらと仰々しい芝居掛かった態度を取っていたのは、もしかして寂しさを悟られないためか。彼女も本当は、審神者である前に年相応に子供のように振る舞いたくてもできず、あんな態度をとったのだろうか。
「だが、彼女は審神者──なの、だから」
「水心子、納得できないことならするべきではない。それは言葉も同じだと、僕は思うよ」
清麿にそう言われてしまい、水心子は口を噤む。数秒置いて彼が出した答えは、
「清麿。昼は、少し出かけよう……と思う」
未だはっきりしないものの、己の気持ちに素直に応じたものだった。
***
彼女にとって、水心子との約束はとりあえず言ってみたものの、どうせ断られるだろう、という類のものだった。
彼にお願いをして受け入れられる可能性は、大体五回に一回がいいところである。それだけ無茶振りをしている自覚もある。なので、彼女が下校する頃には、既に頭から今朝のことは九割がた無くなっていた。
今日は、冬休み直前ということもあって授業は午前しかない。さっさと宿舎に戻り宿舎に戻り、次の修練の日に備えて復習をしておこう。今日がクリスマスイブだなんてことは忘れてしまおう。友達と連れだって街に繰り出す同級生らなど見ないふりをすればいい。
そう思っていた。
校門の柱にもたれて立つ、黒い小さな影を見つけるまでは。
「まあ」
女子校において、男子の出迎えというのは目立つ。
無論、彼女が今朝語ったように、今日はカップルで帰らないと白い目で見られる日、というわけではない。ちらほらとそれらしい組み合わせも目に入るが、彼らは目立たないようにそれらしくやっている。
だというのに彼ときたら、校門の隅に寄ってはいるものの、隠れるつもりなどまるでない。全身を包むコートといい、目深にかぶった学生帽のような帽子といい、あれで目立たないというのが土台無理な話だ。
いったいあれは何なのかという女子学生らの無遠慮な奇異の目が、矢のように刺さっているのがいっそ気の毒に思えるほどである。
流石にいつまでも観察しているのは可哀想なので、彼女はそそくさと彼のもとに駆け寄った。
「水心子さん、水心子さん。何をしているんですか」
「何をしているも何も、あなたが迎えに来いと――」
「本当に来てくださるとは思ってなかったのです。それに、些かその格好は目立つかと」
普段の戦装束とさして変わらない厚手のマントのようなコートは、口元までしっかりと覆うタイプのものだ。彼としては防寒と普段と似た装いをすることで、咄嗟の事態に対処できるよう選んだものだった。
だが、目深に被った黒の帽子と相まって、彼が少年の姿をしてなかったら、真っ先に通報されていただろうと彼女は思っていた
「そうですね。そういえば、水心子さんはまだ外出に出た回数が然程多くなかったのでしたね」
「許可は、ちゃんと貰ってきた。この身なりでも問題ないと言われたのだぞ」
「この場所では目立つんです。あ、いいことを思いつきました」
彼女の頭上に豆電球が点灯したのではないかと思うほど、彼女はぱっと顔を輝かせた。
だが、対する水心子は内心で冷や汗を一筋垂らしていた。彼女がこんな顔をするのは、大体ろくでもないことを考えているときだ。
「では、政府所属の刀剣男士に私が臨時で課外授業をします」
「は?」
「今日一日、私と一緒にデートをしましょう」
一拍置いて、思わず口から声が漏れかける。だが、彼女は問答無用で水心子の手を引いて、「行きましょう!」と駆け出してしまったのだった。
迎えに行って、さっさと宿舎に戻る。水心子としてはそのつもりだったのに、何故か彼は喫茶店の端に座って、彼女と対面でお茶をしていた。
先程纏っていたコートは畳まれ、椅子の上に置かれている。彼女いわく、外では仕方ないとしても、せめて部屋の中では脱いでくださいと言われてしまったのだ。
そうなれば、最早水心子としては何も言えない。下に着ていたのは戦装束の時と同じ物なので、有事の際にはすぐ動けるだろうが、先だってから彼女の視線が痛いほど刺さる。主に、口元のあたりに。
「何が、そんなに珍しいのだ」
「いえ。水心子さんが口元を隠してないところを、ゆっくり見るのは久しぶりだと思って」
「今朝も見ていたではないか」
流石の彼も、食事の時は普段隠している口元を見せる。夏の時だって何度かそうしていただろうに、と思って言ってはみたものの、
「ジャージの時と、その格好では違うんです」
と言われてしまった。水心子としては、何が違うか到底さっぱり分からない。
「それで、何を頼みますか?」
「いや、私は遊びに来たわけではないのだから」
「そうですか。では、ケーキはいらないと。ここのは甘くて美味しいのですが、それは残念ですね」
水心子が甘味を好んでいるということは、親友の清麿以外には秘密にしているつもりだった。
それを知ってか知らずか、彼女は「勿体ないですけど、水心子さんが言うなら」と思わせぶりなことを言いながら、メニューを目で追っている。満面の笑顔でどれを頼もうか悩む彼女は実に楽しそうで、どれほどこの店の菓子は美味なのだろうと、水心子でなくても想像してしまうだろう。そこまで至れば、必要なのはもうひと押しだけだ。
「水心子さん、このような場所では飲み物と一緒に何か頼むのが礼儀なんですよ。だから、むしろ頼まない方が不自然かと」
「そ、そうか。それなら私も」
だめ押しをもらって彼女に渡されたメニューに目を通すものの、横文字にはまだ慣れてない彼には呪文のようなものが並んでいるとしか思えなかった。
結局、目の前の彼女が進められるままに頼み、彼らの間に注文した品が届くまでの空隙の時間が生まれる。
目の前の彼女は、先に出された紅茶を口に含んでほっと一息ついていた。その横顔が普段見るものより、どこか緩んでいるように水心子には見えた。
普段なら審神者たるもの、もう少し緊張感を持てと言っていたのかもしれないが、
(くりすますいぶという日は、特別な祭日だというし、これも仕方ないのかもしれない。僕にはよく分からない感覚だが、でも)
そこで水心子は、彼女の真似をして紅茶に口を含む。いまだ慣れない、日本茶とは違うすっきりした味が喉を通っていった。
(友人がいないのは寒いことだというのは、僕にも分かる──気がする)
学校から一人で出てくる彼女は、時間遡行軍との戦いに向けて心を引き締める孤高の指揮官としては、絵になったかもしれない。
だがそれは同時に、連れだってはしゃぐ同年代の娘たちの間で一人浮いた存在になっていることを露わにしているようで、水心子としてはどこか落ち着かない気分になるのだった。
「そんなにじろじろと見て、私の顔に何かついてますか」
「い、いや、そういうわけでは……あ、丁度頼んだものが運ばれてくるようだぞ」
やってきたケーキへと話題を移したおかげで、どうやら彼女を見つめすぎていたことは誤魔化せたようだ。彼としても、仄かに香る甘い空気に思わず心が浮き足立つ。
水心子の前にテーブルに並べられたのは、薔薇のように飾り切りがされた林檎が乗せられたケーキだった。対する彼女は、真っ赤な苺と対照的な青い木の実が載ったショートケーキだ。
手を合わせて食前の挨拶を手早く済ませば、甘味を味わう二人の間にはしばしの静寂が流れる。
彼女がケーキに舌鼓を打っている隙に、水心子も緩みそうになる口元を全力のポーカーフェイスで引き締め、そろそろと飾り切りされた林檎の土台となっているケーキを、フォークで削り取った。
まるで雪のように柔らかく崩れていきそうなそれを口に含むと、仄かな甘味と濃厚なバターの味わいが一気に広がる。添えられた林檎と共に食べると、さくっとした歯ごたえとすっきりした酸味が混ざり合い、先ほどとまた違った味はまるで極上の甘露のように彼の口内に幸せを齎す。
しばらく夢中になってケーキを頬張っていた水心子がはっとして顔を上げると、何やら嬉しそうな顔でこちらを見て微笑んでいる彼女と目があった。
「ん、んん……あなたも、食べたらどうだ」
「もう十分ご馳走さまですが、そうですね。ちゃんといただくこととしましょう」
彼女がケーキを嬉しそうに頬張っているのを、今度は逆に水心子がじっと見つめる。
そういえば、結局何故彼女は自分を出迎えに指定したのだろうかと水心子は今朝のことを振り返った。たしかにこの喫茶店には男女のペアが多くいるが、その真似がしたかったのだろうか。
だが、それなら比較的彼女のわがままを聞いてくれる清麿に頼めばいいだろうに。ただ友人がいなくて人恋しいというのなら、水心子と清麿の両方を指定する方が、人数的には賑やかになるはずだ。
「あなたは、これがしたかったのか?」
疑問はいつの間にか、口からこぼれ出た言葉となっていた。
彼女はケーキを食べる手を止めて、大きな目をぱちくりとさせてこちらを見つめている。
「誰かと一緒にいたかったのなら、私のような刀でなくてもよかっただろう」
「誰でもは良くないです。私は水心子さんが良かったんですよ」
紅茶を一口飲んで、彼女は小さな日だまりのような微笑みを見せる。その笑顔を見ていると、刀に存在するわけない心臓が、何故だかどくりと動いた気がした。
「それは、どうして」
「さあ、どうしてでしょう。考えてみてください。水心子さんへの宿題です」
はっきりとした答えは見せずに、彼女は素知らぬ顔で紅茶を飲み続けている。
少しばかりその頬が桜色に染まっているのは何故か。その理由を、彼はどういうわけか知りたいと思うようになっていた。
ケーキを食べ終えるまでの間、二人の間には他愛のない会話が幾らか飛び交うだけであった。今朝の清麿との手合わせはどうだった、今日の授業はこうだった──などという、水心子の疑問など掠りもしない話題が延々と続く。
だが、話題はいずれ尽き、飲むものも食べるものも既に無くなれば、ここに居続ける理由もなくなってしまう。
「では、そろそろ帰りましょうか。今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
終わりの言葉を彼女は口にして、会計のレシートを抜き取りレジに向かおうと席を立ちかけた。
ここで頷けば、今日の課外授業とやらは終わる。宿舎に戻れば、いつもの通りの生活が続く。それが最良で、それが審神者になるものとして、刀剣男士として望まれるものだと分かっていたのに。
これで終わりかと、自分の内側で何かが不満の声をあげる。
このよくわからない宿題の答えはまるで見えないし、胸の奥は変に熱いままだ。加えて言うなら、この時間をもっと続けていたいという気持ちまで生まれてきている。
水心子はガタリと立ち上がり、己の思いに突き動かされるまま咄嗟に手を伸ばして、彼女の手首を掴んでいた。
「き、今日は、もう少し、寄り道して、いかない、かっ」
刹那の間に思いついた言葉を口にした己の声ときたら、それは見事にひっくり返ったものだった。
いっそ笑えと思うより先に、彼女の笑い声を水心子は耳にする。しかしそれは彼が想像していたような失敗を指差す笑いではなく、ころころと鈴を転がしたような優しげなものだった。
「ふふ。それなら、そうしましょう。水心子さん、もう少し歩いたところに観覧車があるんです。良かったら一緒にどうですか?」
「観覧車、とはどのようなものだ?」
「それは見てのお楽しみとしましょう」
嬉しそうにはにかんだ彼女は、水心子の強張った指に己のものを添え、緊張と動揺で張り詰めた彼を溶かすようにゆるりと微笑む。
得体の知れないこの胸の暖かさを、今はもう少しばかり内に留めたい。そう願って彼もまた、指の力を緩め、今度こそ彼女の手を取ったのだった。
その日の朝、居間にやってきた彼女は目をキラリと輝かせて、机越しに身を乗り出し、そんなことを水心子正秀に向かって言ってきた。
何事かと思わず身を引いた水心子に、彼女はにこにこという効果音がつきそうな完璧な笑顔を向けつつ、
「今日、学校に迎えにきてくださいませんか?」
とんでもないことを口にした。
水心子と彼女が向かい合って黙ること数秒。清麿が「ご飯できたよ」と茶碗を持ってくるのに十秒。「ありがとうございます」と彼女が返事をするのに、さらに十秒。
「何を言ってるんだ、あなたは!?」
「あ、やっと返事をしてくれましたね」
我に返った水心子が口を開くまでに、実に一分近い時間が過ぎていた。その間に少女は着座して、さっさとご飯を口の中に含んでいる。
「つまり、私に、出迎えの真似事をしろと言うのか」
「真似事ではなくて出迎えそのものですよ」
「何故、私がそのようなことをしなくてはならないのだ」
するわけないだろう、と言いながら彼は茶碗に手を伸ばす。日頃から刀は刀、人は人、と言っている彼なら当然の反応ではある。
ただし、彼は言葉で言うほど普段から頑なな態度をとっているわけではないことも、また周知の事実だった。故に、彼女はそこで諦めずに言葉を重ねる。
「今日はクリスマスイブです」
「そのような日だということは、知っている」
「クリスマスイブには、男女がペアで帰るのが当たり前となっています」
「……あなたが通う学校は、女人のみが通う学校だと思っていたが」
水心子が言う通り、目の前の彼女が通う学校は、簡単に言うなら女子校である。当然、男性などいるわけがない。
水心子の胡乱な視線を受け止めながら、彼女はそんなことは何でもないことだと言わんばかりに会話を続けた。
「だからです。他校の殿方とペアを組む社交力があるか、先輩方も同年代の方も目を光らせているのです。ただでさえ一人で帰ることが多い私が、この日もまた一人であるとなると、何と思われるでしょう」
箸を置き、やや芝居掛かった仕草で胸に手を当て、彼女はこちらに手を差し出してきた。
審神者候補の身の上の彼女は、確かに日々の鍛錬のために、寄り道などせず真っ直ぐに、この政府管理の宿舎に戻ってくる。その姿が浮いていると言うのかは水心子には分からないが、常に一人というのはたしかに不憫と言えるのかもしれない。
「というわけで、よろしくお願いしますね」
いいとも悪いとも言わないうちに、彼女はごちそうさまと手を合わせて、鞄を持ってさっさと部屋を出て行ってしまった。
出発の挨拶に「いってらっしゃい」と返す清麿の声でようやく我に返るものの、既に彼女はここを発った後だった。
「……大体、何で僕なんだ。政府の人間に頼めばいいだろうに」
新々刀の祖としての畏まっていた態度も、今は相棒しかいないということで少し緩み、隠していた砕けた口調で思わず愚痴が溢れる。清麿はどこか楽しそうに、そんな親友の様子を見つめていた。
「水心子のことを、気に入っているからじゃないかな」
「あれは、馬鹿にしていると言うんだ。いつもいつも僕のことを、まるで子供のように」
見た目の年は近いものの、彼女の方がこの時代の暮らしは長い。彼女の言葉を借りるなら、水心子は新しくできた小学生の弟のように可愛い人、ということだったが、水心子としては全く承服できかねるところだった。
殊更に子供扱いと言うよりは、どちらかというと単にからかって反応を見ているだけだと清麿は思っていたが、人間も刀剣男士も自分のことに関しては客観的になれないものである。
「うーん、僕は違うと思うけどね」
「どういう意味だ?」
「だって、彼女が毎日一人でこちらに戻ってきていることは、事実なんだよね。なら、学校という所で僕らのように話せる友人もいないのかなと思って」
それがどうしたというのだ。審神者になるのなら当たり前のことだろう。
歴史修正主義者と戦う刀剣男士としての正しい答えを言葉として口にしかけ、しかし水心子は口ごもってしまう。
やたらと仰々しい芝居掛かった態度を取っていたのは、もしかして寂しさを悟られないためか。彼女も本当は、審神者である前に年相応に子供のように振る舞いたくてもできず、あんな態度をとったのだろうか。
「だが、彼女は審神者──なの、だから」
「水心子、納得できないことならするべきではない。それは言葉も同じだと、僕は思うよ」
清麿にそう言われてしまい、水心子は口を噤む。数秒置いて彼が出した答えは、
「清麿。昼は、少し出かけよう……と思う」
未だはっきりしないものの、己の気持ちに素直に応じたものだった。
***
彼女にとって、水心子との約束はとりあえず言ってみたものの、どうせ断られるだろう、という類のものだった。
彼にお願いをして受け入れられる可能性は、大体五回に一回がいいところである。それだけ無茶振りをしている自覚もある。なので、彼女が下校する頃には、既に頭から今朝のことは九割がた無くなっていた。
今日は、冬休み直前ということもあって授業は午前しかない。さっさと宿舎に戻り宿舎に戻り、次の修練の日に備えて復習をしておこう。今日がクリスマスイブだなんてことは忘れてしまおう。友達と連れだって街に繰り出す同級生らなど見ないふりをすればいい。
そう思っていた。
校門の柱にもたれて立つ、黒い小さな影を見つけるまでは。
「まあ」
女子校において、男子の出迎えというのは目立つ。
無論、彼女が今朝語ったように、今日はカップルで帰らないと白い目で見られる日、というわけではない。ちらほらとそれらしい組み合わせも目に入るが、彼らは目立たないようにそれらしくやっている。
だというのに彼ときたら、校門の隅に寄ってはいるものの、隠れるつもりなどまるでない。全身を包むコートといい、目深にかぶった学生帽のような帽子といい、あれで目立たないというのが土台無理な話だ。
いったいあれは何なのかという女子学生らの無遠慮な奇異の目が、矢のように刺さっているのがいっそ気の毒に思えるほどである。
流石にいつまでも観察しているのは可哀想なので、彼女はそそくさと彼のもとに駆け寄った。
「水心子さん、水心子さん。何をしているんですか」
「何をしているも何も、あなたが迎えに来いと――」
「本当に来てくださるとは思ってなかったのです。それに、些かその格好は目立つかと」
普段の戦装束とさして変わらない厚手のマントのようなコートは、口元までしっかりと覆うタイプのものだ。彼としては防寒と普段と似た装いをすることで、咄嗟の事態に対処できるよう選んだものだった。
だが、目深に被った黒の帽子と相まって、彼が少年の姿をしてなかったら、真っ先に通報されていただろうと彼女は思っていた
「そうですね。そういえば、水心子さんはまだ外出に出た回数が然程多くなかったのでしたね」
「許可は、ちゃんと貰ってきた。この身なりでも問題ないと言われたのだぞ」
「この場所では目立つんです。あ、いいことを思いつきました」
彼女の頭上に豆電球が点灯したのではないかと思うほど、彼女はぱっと顔を輝かせた。
だが、対する水心子は内心で冷や汗を一筋垂らしていた。彼女がこんな顔をするのは、大体ろくでもないことを考えているときだ。
「では、政府所属の刀剣男士に私が臨時で課外授業をします」
「は?」
「今日一日、私と一緒にデートをしましょう」
一拍置いて、思わず口から声が漏れかける。だが、彼女は問答無用で水心子の手を引いて、「行きましょう!」と駆け出してしまったのだった。
迎えに行って、さっさと宿舎に戻る。水心子としてはそのつもりだったのに、何故か彼は喫茶店の端に座って、彼女と対面でお茶をしていた。
先程纏っていたコートは畳まれ、椅子の上に置かれている。彼女いわく、外では仕方ないとしても、せめて部屋の中では脱いでくださいと言われてしまったのだ。
そうなれば、最早水心子としては何も言えない。下に着ていたのは戦装束の時と同じ物なので、有事の際にはすぐ動けるだろうが、先だってから彼女の視線が痛いほど刺さる。主に、口元のあたりに。
「何が、そんなに珍しいのだ」
「いえ。水心子さんが口元を隠してないところを、ゆっくり見るのは久しぶりだと思って」
「今朝も見ていたではないか」
流石の彼も、食事の時は普段隠している口元を見せる。夏の時だって何度かそうしていただろうに、と思って言ってはみたものの、
「ジャージの時と、その格好では違うんです」
と言われてしまった。水心子としては、何が違うか到底さっぱり分からない。
「それで、何を頼みますか?」
「いや、私は遊びに来たわけではないのだから」
「そうですか。では、ケーキはいらないと。ここのは甘くて美味しいのですが、それは残念ですね」
水心子が甘味を好んでいるということは、親友の清麿以外には秘密にしているつもりだった。
それを知ってか知らずか、彼女は「勿体ないですけど、水心子さんが言うなら」と思わせぶりなことを言いながら、メニューを目で追っている。満面の笑顔でどれを頼もうか悩む彼女は実に楽しそうで、どれほどこの店の菓子は美味なのだろうと、水心子でなくても想像してしまうだろう。そこまで至れば、必要なのはもうひと押しだけだ。
「水心子さん、このような場所では飲み物と一緒に何か頼むのが礼儀なんですよ。だから、むしろ頼まない方が不自然かと」
「そ、そうか。それなら私も」
だめ押しをもらって彼女に渡されたメニューに目を通すものの、横文字にはまだ慣れてない彼には呪文のようなものが並んでいるとしか思えなかった。
結局、目の前の彼女が進められるままに頼み、彼らの間に注文した品が届くまでの空隙の時間が生まれる。
目の前の彼女は、先に出された紅茶を口に含んでほっと一息ついていた。その横顔が普段見るものより、どこか緩んでいるように水心子には見えた。
普段なら審神者たるもの、もう少し緊張感を持てと言っていたのかもしれないが、
(くりすますいぶという日は、特別な祭日だというし、これも仕方ないのかもしれない。僕にはよく分からない感覚だが、でも)
そこで水心子は、彼女の真似をして紅茶に口を含む。いまだ慣れない、日本茶とは違うすっきりした味が喉を通っていった。
(友人がいないのは寒いことだというのは、僕にも分かる──気がする)
学校から一人で出てくる彼女は、時間遡行軍との戦いに向けて心を引き締める孤高の指揮官としては、絵になったかもしれない。
だがそれは同時に、連れだってはしゃぐ同年代の娘たちの間で一人浮いた存在になっていることを露わにしているようで、水心子としてはどこか落ち着かない気分になるのだった。
「そんなにじろじろと見て、私の顔に何かついてますか」
「い、いや、そういうわけでは……あ、丁度頼んだものが運ばれてくるようだぞ」
やってきたケーキへと話題を移したおかげで、どうやら彼女を見つめすぎていたことは誤魔化せたようだ。彼としても、仄かに香る甘い空気に思わず心が浮き足立つ。
水心子の前にテーブルに並べられたのは、薔薇のように飾り切りがされた林檎が乗せられたケーキだった。対する彼女は、真っ赤な苺と対照的な青い木の実が載ったショートケーキだ。
手を合わせて食前の挨拶を手早く済ませば、甘味を味わう二人の間にはしばしの静寂が流れる。
彼女がケーキに舌鼓を打っている隙に、水心子も緩みそうになる口元を全力のポーカーフェイスで引き締め、そろそろと飾り切りされた林檎の土台となっているケーキを、フォークで削り取った。
まるで雪のように柔らかく崩れていきそうなそれを口に含むと、仄かな甘味と濃厚なバターの味わいが一気に広がる。添えられた林檎と共に食べると、さくっとした歯ごたえとすっきりした酸味が混ざり合い、先ほどとまた違った味はまるで極上の甘露のように彼の口内に幸せを齎す。
しばらく夢中になってケーキを頬張っていた水心子がはっとして顔を上げると、何やら嬉しそうな顔でこちらを見て微笑んでいる彼女と目があった。
「ん、んん……あなたも、食べたらどうだ」
「もう十分ご馳走さまですが、そうですね。ちゃんといただくこととしましょう」
彼女がケーキを嬉しそうに頬張っているのを、今度は逆に水心子がじっと見つめる。
そういえば、結局何故彼女は自分を出迎えに指定したのだろうかと水心子は今朝のことを振り返った。たしかにこの喫茶店には男女のペアが多くいるが、その真似がしたかったのだろうか。
だが、それなら比較的彼女のわがままを聞いてくれる清麿に頼めばいいだろうに。ただ友人がいなくて人恋しいというのなら、水心子と清麿の両方を指定する方が、人数的には賑やかになるはずだ。
「あなたは、これがしたかったのか?」
疑問はいつの間にか、口からこぼれ出た言葉となっていた。
彼女はケーキを食べる手を止めて、大きな目をぱちくりとさせてこちらを見つめている。
「誰かと一緒にいたかったのなら、私のような刀でなくてもよかっただろう」
「誰でもは良くないです。私は水心子さんが良かったんですよ」
紅茶を一口飲んで、彼女は小さな日だまりのような微笑みを見せる。その笑顔を見ていると、刀に存在するわけない心臓が、何故だかどくりと動いた気がした。
「それは、どうして」
「さあ、どうしてでしょう。考えてみてください。水心子さんへの宿題です」
はっきりとした答えは見せずに、彼女は素知らぬ顔で紅茶を飲み続けている。
少しばかりその頬が桜色に染まっているのは何故か。その理由を、彼はどういうわけか知りたいと思うようになっていた。
ケーキを食べ終えるまでの間、二人の間には他愛のない会話が幾らか飛び交うだけであった。今朝の清麿との手合わせはどうだった、今日の授業はこうだった──などという、水心子の疑問など掠りもしない話題が延々と続く。
だが、話題はいずれ尽き、飲むものも食べるものも既に無くなれば、ここに居続ける理由もなくなってしまう。
「では、そろそろ帰りましょうか。今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
終わりの言葉を彼女は口にして、会計のレシートを抜き取りレジに向かおうと席を立ちかけた。
ここで頷けば、今日の課外授業とやらは終わる。宿舎に戻れば、いつもの通りの生活が続く。それが最良で、それが審神者になるものとして、刀剣男士として望まれるものだと分かっていたのに。
これで終わりかと、自分の内側で何かが不満の声をあげる。
このよくわからない宿題の答えはまるで見えないし、胸の奥は変に熱いままだ。加えて言うなら、この時間をもっと続けていたいという気持ちまで生まれてきている。
水心子はガタリと立ち上がり、己の思いに突き動かされるまま咄嗟に手を伸ばして、彼女の手首を掴んでいた。
「き、今日は、もう少し、寄り道して、いかない、かっ」
刹那の間に思いついた言葉を口にした己の声ときたら、それは見事にひっくり返ったものだった。
いっそ笑えと思うより先に、彼女の笑い声を水心子は耳にする。しかしそれは彼が想像していたような失敗を指差す笑いではなく、ころころと鈴を転がしたような優しげなものだった。
「ふふ。それなら、そうしましょう。水心子さん、もう少し歩いたところに観覧車があるんです。良かったら一緒にどうですか?」
「観覧車、とはどのようなものだ?」
「それは見てのお楽しみとしましょう」
嬉しそうにはにかんだ彼女は、水心子の強張った指に己のものを添え、緊張と動揺で張り詰めた彼を溶かすようにゆるりと微笑む。
得体の知れないこの胸の暖かさを、今はもう少しばかり内に留めたい。そう願って彼もまた、指の力を緩め、今度こそ彼女の手を取ったのだった。