若苗の話

 ──今日は雪か。
 体を起こし、膝丸はまだ霞んだ視界で外を見やる。普段以上に白く反射した景色が、寝起きの瞼には少々眩しすぎた。
 朝早く遠征から帰ってきた彼は、そのまま用意された朝食をとった後、早々に布団の中に退散して今の今まで眠っていた。
 刀剣男士であるが故に、極端なことを言えば自分たちに睡眠や食事は必要ないらしい。らしい、というのは膝丸はそれらを欠いたことがないからだ。彼らの主は、何かと刀剣男士を人間扱いする。結果、膝丸も戦の只中でなければ、眠気や空腹を当然のように感じるようになっていた。
 閑話休題。結果として付き合いの長い馴染みある眠気を、今は必死ではねのけねばと、膝丸はふるふると首を横に振った。

「兄者は……いないようだな。そういえば、今日は出かける日であったか」

 普段は弟の部屋にいることが多い髭切も、今は見当たらない。
 カレンダーを見れば、師走の二十四を示していた。ならば、今日は彼は主と出かけているのだろう。
 主とは所謂思いを寄せ合う仲である髭切を応援している膝丸は、兄のうっかりを防ぐために、わざわざカレンダーに印までつけていた。
 自分が言い出さずとも出かけていったことに安堵しつつ、膝丸は外の雪景色を見て顔を曇らせる。

(雪か……。兄者は雪がそこまで好きではなかったはず。主といて、気も晴れると良いのだが)

 上体を起こして、ぼんやりと考えること数分。冷気で程よく頭を冷ました膝丸は、厚手の布団を体からずらして、この暖かな誘惑に打ち勝とうとした。まさにその時、

「膝丸様、失礼します。まだお休みでしょうか」
「今、起きた所だ」

 まるで彼が起きるのを待っていたかのように、襖越しに女性の声が響く。
 この声は主の声ではない。この本丸に事情あって居候している娘の声である。彼女はあやかしに好かれやすい体質なので、故あって膝丸が護衛を任されているのだ。
 共に長くいることで、膝丸にとってはいつしか人知れず思いを寄せる相手ともなっていたが、当の彼女はそれに気がつく様子もない――というのが今の二人の関係だった。

「お邪魔します」

 一言断りを入れてから彼女は襖をすーっと開く。灯りの消した部屋であっても、庭の雪明かりで彼女の姿はぼんやりと浮かんで見えた。今日はくすんだ赤の着物をまとっているようだ。色にあわせた落ち着いた黄色の帯が、今は部屋にいない兄を思わせる。

(──ん?)

 同時に、膝丸は一つの疑問を抱く。
 兄の色だと思うより先に、まるで彼女が入ってきた瞬間、髭切が入ってきたように一瞬錯覚した。見た目も体格も、声音もまるで違うというのに。
 だが、疑問が明瞭な形になるより先に、彼女が膝丸に話しかけた。

「膝丸様。歌仙様が昼餉は食べるのかどうか聞いてほしいと、言っておられました」
「ああ、もうそんな時間なのか。いただこう、すぐに行くと伝えておいてくれ」
「はい」

 彼女はぺこりと頭を下げ、すぐに立ち去ろうとした。踵を返したとき、ふわりと彼の鼻を柔らかい香りが過っていく。
 どこかで、嗅いだ香りだ。この匂いを、膝丸は知っている。よく、知りすぎている。
 故に、彼は自分の疑問が何であるかを、遅まきながら完全に理解した。

「……匂いがしている」
「え、もしかして臭いのですか!? し、失礼しました。すぐに湯浴みに行ってきます!」
「違う、そういうわけではない。兄者の匂いが、君からしているのだ」

 布団から出てきた膝丸は彼女に歩み寄り、すとんと屈んでその両肩に手を置いた。
 近くに寄れば、よりはっきりと分かる。彼女の肌から、服から、髪から、余すところなく彼のよく知る者の匂いがしていた。

「俺が兄者に以前渡した香の香りが、君からしている。部屋に入ったときからずっとだ」

 この部屋は膝丸の部屋だ。だから、膝丸が普段焚いている香も膝丸が好んで使っているものであり、髭切に渡したものとは異なる。兄である彼はここによく訪れるが、彼が香を焚くのはあくまで自室に限られている。
 つまり、ここでは膝丸の匂いしかない。だからこそ、髭切の匂いが混ざれば殊更に際立つ。それは、兄が来訪している証になるのだから、膝丸は否が応でも気がついてしまう。

(兄者の部屋に行ったのか? 香の匂いが移るほど長く?)

 今朝のことではあるまい。髭切は、主と今外出しているのだから。
 ならば、昨晩だろうか。膝丸がいない間、兄弟刀である髭切が彼女を守ってくれていたのだろうか。
 ありそうな話だと思うと同時に、その方が安全だという理解もしていた。だというのに、兄の部屋に、兄と二人きりで過ごす彼女の姿を想像するだけで、どうして胸がこんなに苦しいのか。
 自分の知らない所で、自分が敬愛している者と思慕している者が共にいるだけだというのに。これでは、まるで──嫉妬しているようではないか。
 彼女の両肩に手を置いたまま、膝丸はまともに顔を合わすこともできず、俯くことしかできなかった。

「あの、これは髭切様の香りだったのですか」
「そうだ」
「その、藤様から譲ってもらったのですが」
「そうか……ん?」

 藤というのは、この本丸の審神者の名だ。なぜ今、彼女の名が出てくるのかと膝丸が疑問に思うより早く、彼女が言葉を続ける。

「藤様が、着物には香を焚き染めてから着ると、いい匂いが続くと聞きました。だから、譲ってもらったものを早速と思ったのですが」

 彼女の目には明らかに動揺と困惑が滲んでいる。加えて言うなら、何故だかとても悲しげに揺れているようにも見える。膝丸の様子を見て、あまり歓迎されてないことに気がついてしまったのだろう。

「すみません。藤様が髭切様から譲っていただいたものだったのですね。髭切様の香りをつけるなどと、主様ならいざ知らず無関係の私ではご不快に思わせて当然ですね。申し訳ございません。すぐに、着替えてきますので」
「いや、違うっ。待ってくれ!」

 膝丸を振りほどくように踵を返しかけた彼女の肩を、彼は再び掴み直し、向き直させる。

「あ、あの」
「違う、そういうわけではないっ。そういうわけではなく──」

 最早自分でも何を言うつもりだったのか決めきれず、

「俺の選んだ香りを、つけてほしいのだ!」

 回りきってない頭はあまりに突拍子のない言葉を発してしまい、膝丸は今すぐ穴を掘って埋まりたい気分になった。
 自分は何を口走っているのやら。見ろ、彼女がきょとんとしているではないか。
 しかし、当の本人は目を数度ぱちぱちさせた後、花がほころぶように微笑んだ。

「はい、分かりました。どんな物をつければよいでしょうか?」

 そういえば、彼女はこの手のことにはかなり勘が鈍い──要するに天然だった、と膝丸は思い返したのだった。


***


 昼餉を手早く取った膝丸は、彼女と共に万屋の商店街に向かっていた。
 あれから、膝丸の好む香りをつけたいと無邪気にねだる彼女の勢いに圧され、結局香りを選びに店に行こうという話になったのだ。
 自分が使う香を彼女に渡せばいいのだが、それではあまりにあからさまだ。確実に兄である髭切にからかわれる。もっとも、自分の思い人である主に自分の香を躊躇なく渡す髭切に、今更何を言われてもという感はあるが、それはそれ、これはこれである。膝丸は、できるだけ自分の思いは秘めておくつもりだったのだ。

「膝丸様、沢山のお香が売ってますよ! あ、こちらには匂い袋というものがあります。小さくて可愛らしいです!」

 初めて訪れる店に興奮した彼女はすっかり興奮して、陳列棚の間をまるで蝶のように飛び回っている。揺れる黒髪を追いかけて、膝丸も彼女が見ている匂い袋の陳列棚に視線を落とした。

「それは持ち物や鞄の中に忍ばせて、匂いを移すものだと聞いている」
「そうなのですね。あ、こちらは藤様からいただいたものと同じ香りがします」

 彼女が指したのは、白檀と記されたものだ。予想通り、それは膝丸が髭切に送ったものでもある。惣領の刀には、相応しい香りも必要だと言って渡したものだ。兄の立ち居振る舞いによく似合う、優しい香りだったことは膝丸もよく覚えている。

「君には柔らかい香りも似合うが、少し甘さが強い方が」

 俺の好みに合っている、と言いかけて、膝丸はごほんと咳払いをした。これでは、あまりに物言いが直接的に過ぎる。

「甘くて濃いものも、似合うだろう」

 適当に言葉を濁し、膝丸は匂い袋の一つをとる。
 膝丸が使うにしては些か甘みが強い香りだが、彼女の髪や着物にはよく合うことだろう。とりわけ、彼女の長い髪にはよく匂いが移る。通り過ぎる時にこのような甘やかな香りが過ればさぞかし、とまで考えて膝丸は内心でぶんぶんと頭を振った。
 邪な空気を一旦脇に置き、彼は言葉少なに「これにしよう」とだけ言った。

「では、こちらを買ってきますね」
「いや、俺が購入してくる。その……今日はそう、くりすます、とやらだからな。贈り物を親しい相手にする日なのだと、主が言っていた」

 異性の人に贈り物をすると特別な意味が生まれる、という話も耳に挟んでいたが、幸い彼女は知らなかったようだ。
 申し訳なさそうに一礼する彼女の艶やかな黒髪を、いつもの癖でさらりと撫でてから、膝丸は会計用のカウンターへ向かう。
 妙に楽しそうに「贈り物ですか」と問いかける店員の問いを掻い潜り、滞りなく支払いを済ませた膝丸は、浮き足立っている様子を悟られないように平常心と心中呟きながら、彼女の元へと戻ってきた。

「今度から、その、これを着物に焚きしめておくようにしてくれないか」
「はい。あ、でも、髭切様のお香は」
「それは、主に返しておいてくれ。俺の方から主にも伝えておく」

 承知しました、と彼女はいつものようにふわりと笑う。
 何やら無垢な子供を騙しているような申し訳なさはある。だが、同時に、彼女の側によれば自分が選んだ香の匂いがするようになる、と考えると、悪くないと喜ぶ己がいることを、膝丸は自覚せずにはいられなかった。
 これではまるで、子供じみた独占欲だ。けれども、彼女が誰かのものに染まっていると考えるだけで、居ても立っても居られないのだから仕方ない。

「膝丸様、早速帰って焚いてみたいですっ」
「雪道で走っては転んでしまうぞ。慌てた所で香は逃げないのだから、ゆっくり行くといい」

 声を弾ませる彼女を窘めながら、膝丸は傘を彼女に差し掛ける。
 自分の隣に彼女が並び、嬉しそうに頬を染めている。ただそれだけのことにこの上ない喜びを噛み締めつつ、彼らは帰路に着く。
 本丸へと伸びる足跡は二対並んで点々と、長く長く続いていったのだった。
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