縹・月影(清明)本丸短編
少し眩しすぎる日差しが差し込む午後。にっかり青江は鳥が騒ぐ声でうっすらと細い瞼を開いた。どうやら、内番もないからと横になっていたらすっかり眠ってしまっていたらしい。
寝ぼけ眼の感覚を暫し楽しんでいると、不意に彼の上に影が落ちた。
「青江。ふにふにしたものをぎゅーって押し付けるのしよう」
「はいはい。それはおしくらまんじゅうのことかな」
年の頃はまだ十くらいの娘が、青江を見下ろしてにっこりと笑っていた。青空よりもなお深い、海の青と同じ紺碧の瞳が彼をじっと見据えている。
子供らしい遊びのお誘いかと思い、青江はいつものように薄い笑みを浮かべて返事をする。
「ううん。きす!」
「うん、そうだね。キスだね……ん?」
「今日はきすの日だから、きすしようって父君に話したのだが、ダメって言われたからな。青江としたい!」
少女が息巻いて話しているが、青江の頭では情報が処理しきれない。彼は体を起こし、一度頭を振る。
――きっと寝ぼけて変な聞き間違いをしたのだろう。
気を取り直して、青江は改めて彼女に問いかける。
「それで、何がしたいんだい」
「きす!」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。何だかくらくらしてきたなと彼は頭に手をやる。
ああ、そういえば気温も上がってきたのだっけ。そろそろ夏が来るな──などと現実逃避をしてみる。だが、ぐらぐらと少女に揺さぶられてしまうと、儚い現実逃避もあっという間に無意味と化した。
「青江ーきすしろー」
「こらこら。あまりそういうことを大きな声では言ってはいけないよ」
「何故だ?」
「それはね」
不意にドタドタと荒々しい足音がして、青江の部屋の障子がスターンと勢いよく開かれる。まるで漫画のように、いっそ小気味いいくらいの開きっぷりだった。
そちらを向けば青江が予想した通り、びきびきと青筋を立ててこちらを睨む山姥切長義が立っていた。
「それは、怖ーいお父さんが来るからだよ」
「にっかり青江。俺は君の教育方針について話をさせてもらいたいのだが」
「まあまあ、山姥切長義。僕はほら、無実だよ」
「いいや。大方君が幼子に有る事無い事吹き込んだんだろう」
眦を釣り上げる長義と、なぜか正座させられている青江。その二人を見守るように彼らの主である審神者の女性がにこにこと笑いながら見守っていた。
「君も、母親ならすこしは彼に何か言ったらどうなんだい」
「いえいえ。私はどちらかというとにっかり様の味方ですから」
二人の主でありながら同時に幼子の母でもある女性は、膝に件の娘を抱えて刀剣男士たちの様子を見守っていた。長義に声をかけられても、笑顔が崩れる様子はまるでない。
「にっかり様は思わせぶりなことをお話しすることが確かに多いようですけれど、思わせぶりに留めておられますし」
「ほら、主もそう言ってることだからね。僕は小さな子供に変なことを教えるような真似は──」
「ねえ。青江ときすしたらだめー?」
青江が滔々と自己の弁護をしている傍から、無邪気なおねだりが乱入する。途端、長義の目つきが剣呑なものに変わった。
彼女が幼い頃から父親のように振舞ってきた彼にとって、この不穏な発言は単なる風紀の取り締まり以上の問題を持っているらしい。
「構わないわよ。ほら、いってらっしゃい」
続く主の言葉に、青江も頭を抱えたくなった。
彼の主は、一言で言い表すなら──甘い。大抵のことは笑って受け流すし、許容範囲の広さときたら計り知れないほどだ。
「青江! 母君からも、おゆるしもらったぞ!」
「うん。お母さんからお許しはもらってもちょっと落ち着こうね」
「どうしてだ! 母君はよく私にしてくれてる!」
「お母さんがするのと僕がするのとじゃあ、意味が変わってきちゃうからねえ」
母親が娘にするのと、育ての親として近くにいたとはいえ男性の自分がするとでは天と地ほどの差がある。だが、青江が言外に滲ませた意味を理解するには少女は幼すぎたのだろう。
「意味ってなんだ?」
「ほう。その意味とやらを聞かせてもらおうか」
なぜか父親代わりの長義まで、剣呑な雰囲気を隠すこともなく問いかけてきた。そろそろ逃げ場もなくなってきたので、彼は視線で主に助けを求めてみる。
「一つくらいよいではありませんか?」
助けは届かなかった。これなら、単騎で時間遡行軍の中に放り込まれた方がマシなのではないかという思いが、彼の思考にちらりと掠める。
「これは……四面楚歌というやつだね」
あわせて前門の虎、後門の狼という諺も頭によぎったとき。
助け舟は、思いがけない方向からやってきた。
「おや、主に長義。それに青江さんにお姫様も。皆揃ってどうしたんだい」
「石切丸、青江がきすしてくれない!」
部屋にやってきた石切丸に、小さな娘が飛びつく。慣れた手つきで彼女を抱き上げた石切丸は「おやおや」と彼女をなだめるように頭を撫で、
「青江さんも意地悪だね。接吻くらい、やってあげればいいだろうに」
「君までそんなことを言うとは思わなかったよ」
「小さい頃はいつもやっていただろう。ほら、額に」
「さすがの僕も……ん?」
引っかかる部分があり、石切丸が口にした単語を頭で反復する。
「……額?」
「私も今朝頼まれてね。何でも今日はキスの日というものらしいよ」
主そっくりの穏やかな微笑みを浮かべる石切丸の発言を聞いて、青江は長い長いため息を吐いた。どうやら、自分はとんでもない勘違いをしていたらしいと理解する。
「……何だか、とてもドキドキさせられたよ。その子が随分と、回りくどい言い方をするからてっきり」
「ふん、誰かさんに似たんだろう」
長義のじとっとした視線を受けてしまう。こればかりは、流石の青江も反論できなかった。
「だって、ふにふにするものをぎゅーってすることじゃないか」
得意満面な幼子は石切丸の腕の中からぴょいと飛び降りて、今度はへたり込んでいる青江に飛びついた。
青江の気持ちはまだ平時と同じとはいかなかったが、彼女を軽々と受け止めるぐらいの余裕はあった。ついでとばかりに、少女の切りそろえた前髪をかきあげて、ちょんと唇を触れさせる。きゃーっという子供らしい歓声を聞く限り、彼女の願いを叶えることはできたらしい。
「君たちも人が悪いね。それならそうと、言ってくれればいいのに」
「ふん。たとえ額にであっても接吻などできるわけがないだろう」
「ほら、どことは訊かれませんでしたから」
何故か大真面目に長義に反論され、審神者の方は相変わらず笑っているばかりだった。
「まるでリンゴみたいに赤くなってるねえ」
「長義のことだな!」
「そうそう」
二人に揃って言われて、長義はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。彼が耳まで真っ赤になっていることは、二人にもお見通しだった。
「よかったわね。にっかり様がおでこにキスしてくれて」
「うん!」
娘を連れた審神者は、長義をからかっている青江たちを置いて部屋を出る。
母に手を引かれた少女は、にっこりと無邪気な微笑を見せる。しかし、娘の笑顔を見ると審神者は先ほどとは異なる笑顔を薄らと浮かべた。
「でも、本当は違うでしょう?」
「ん?」
「本当は、おでこじゃなくてここが良かったんでしょう?」
彼女は自分の唇を細い指でトントンと示す。彼女の所作を見て、少女は子供が浮かべるにはませすぎている笑みをちらりと見せた。
「まったく、母上は何でもお見通しなのだから」
「顔に出てましたから」
「青江は私のことをまだ三つの童程度に思っているのだ。なら、この辺りが手の打ち所だろう?」
ニヤリと笑う娘に母親は苦言を呈するでも無く、変わらない笑顔を見せ続けた。
――次はどんな風にアプローチをしようか。
少女の姿をしていながらも彼女の笑みは、すでに一人の女のものだった。
寝ぼけ眼の感覚を暫し楽しんでいると、不意に彼の上に影が落ちた。
「青江。ふにふにしたものをぎゅーって押し付けるのしよう」
「はいはい。それはおしくらまんじゅうのことかな」
年の頃はまだ十くらいの娘が、青江を見下ろしてにっこりと笑っていた。青空よりもなお深い、海の青と同じ紺碧の瞳が彼をじっと見据えている。
子供らしい遊びのお誘いかと思い、青江はいつものように薄い笑みを浮かべて返事をする。
「ううん。きす!」
「うん、そうだね。キスだね……ん?」
「今日はきすの日だから、きすしようって父君に話したのだが、ダメって言われたからな。青江としたい!」
少女が息巻いて話しているが、青江の頭では情報が処理しきれない。彼は体を起こし、一度頭を振る。
――きっと寝ぼけて変な聞き間違いをしたのだろう。
気を取り直して、青江は改めて彼女に問いかける。
「それで、何がしたいんだい」
「きす!」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。何だかくらくらしてきたなと彼は頭に手をやる。
ああ、そういえば気温も上がってきたのだっけ。そろそろ夏が来るな──などと現実逃避をしてみる。だが、ぐらぐらと少女に揺さぶられてしまうと、儚い現実逃避もあっという間に無意味と化した。
「青江ーきすしろー」
「こらこら。あまりそういうことを大きな声では言ってはいけないよ」
「何故だ?」
「それはね」
不意にドタドタと荒々しい足音がして、青江の部屋の障子がスターンと勢いよく開かれる。まるで漫画のように、いっそ小気味いいくらいの開きっぷりだった。
そちらを向けば青江が予想した通り、びきびきと青筋を立ててこちらを睨む山姥切長義が立っていた。
「それは、怖ーいお父さんが来るからだよ」
「にっかり青江。俺は君の教育方針について話をさせてもらいたいのだが」
「まあまあ、山姥切長義。僕はほら、無実だよ」
「いいや。大方君が幼子に有る事無い事吹き込んだんだろう」
眦を釣り上げる長義と、なぜか正座させられている青江。その二人を見守るように彼らの主である審神者の女性がにこにこと笑いながら見守っていた。
「君も、母親ならすこしは彼に何か言ったらどうなんだい」
「いえいえ。私はどちらかというとにっかり様の味方ですから」
二人の主でありながら同時に幼子の母でもある女性は、膝に件の娘を抱えて刀剣男士たちの様子を見守っていた。長義に声をかけられても、笑顔が崩れる様子はまるでない。
「にっかり様は思わせぶりなことをお話しすることが確かに多いようですけれど、思わせぶりに留めておられますし」
「ほら、主もそう言ってることだからね。僕は小さな子供に変なことを教えるような真似は──」
「ねえ。青江ときすしたらだめー?」
青江が滔々と自己の弁護をしている傍から、無邪気なおねだりが乱入する。途端、長義の目つきが剣呑なものに変わった。
彼女が幼い頃から父親のように振舞ってきた彼にとって、この不穏な発言は単なる風紀の取り締まり以上の問題を持っているらしい。
「構わないわよ。ほら、いってらっしゃい」
続く主の言葉に、青江も頭を抱えたくなった。
彼の主は、一言で言い表すなら──甘い。大抵のことは笑って受け流すし、許容範囲の広さときたら計り知れないほどだ。
「青江! 母君からも、おゆるしもらったぞ!」
「うん。お母さんからお許しはもらってもちょっと落ち着こうね」
「どうしてだ! 母君はよく私にしてくれてる!」
「お母さんがするのと僕がするのとじゃあ、意味が変わってきちゃうからねえ」
母親が娘にするのと、育ての親として近くにいたとはいえ男性の自分がするとでは天と地ほどの差がある。だが、青江が言外に滲ませた意味を理解するには少女は幼すぎたのだろう。
「意味ってなんだ?」
「ほう。その意味とやらを聞かせてもらおうか」
なぜか父親代わりの長義まで、剣呑な雰囲気を隠すこともなく問いかけてきた。そろそろ逃げ場もなくなってきたので、彼は視線で主に助けを求めてみる。
「一つくらいよいではありませんか?」
助けは届かなかった。これなら、単騎で時間遡行軍の中に放り込まれた方がマシなのではないかという思いが、彼の思考にちらりと掠める。
「これは……四面楚歌というやつだね」
あわせて前門の虎、後門の狼という諺も頭によぎったとき。
助け舟は、思いがけない方向からやってきた。
「おや、主に長義。それに青江さんにお姫様も。皆揃ってどうしたんだい」
「石切丸、青江がきすしてくれない!」
部屋にやってきた石切丸に、小さな娘が飛びつく。慣れた手つきで彼女を抱き上げた石切丸は「おやおや」と彼女をなだめるように頭を撫で、
「青江さんも意地悪だね。接吻くらい、やってあげればいいだろうに」
「君までそんなことを言うとは思わなかったよ」
「小さい頃はいつもやっていただろう。ほら、額に」
「さすがの僕も……ん?」
引っかかる部分があり、石切丸が口にした単語を頭で反復する。
「……額?」
「私も今朝頼まれてね。何でも今日はキスの日というものらしいよ」
主そっくりの穏やかな微笑みを浮かべる石切丸の発言を聞いて、青江は長い長いため息を吐いた。どうやら、自分はとんでもない勘違いをしていたらしいと理解する。
「……何だか、とてもドキドキさせられたよ。その子が随分と、回りくどい言い方をするからてっきり」
「ふん、誰かさんに似たんだろう」
長義のじとっとした視線を受けてしまう。こればかりは、流石の青江も反論できなかった。
「だって、ふにふにするものをぎゅーってすることじゃないか」
得意満面な幼子は石切丸の腕の中からぴょいと飛び降りて、今度はへたり込んでいる青江に飛びついた。
青江の気持ちはまだ平時と同じとはいかなかったが、彼女を軽々と受け止めるぐらいの余裕はあった。ついでとばかりに、少女の切りそろえた前髪をかきあげて、ちょんと唇を触れさせる。きゃーっという子供らしい歓声を聞く限り、彼女の願いを叶えることはできたらしい。
「君たちも人が悪いね。それならそうと、言ってくれればいいのに」
「ふん。たとえ額にであっても接吻などできるわけがないだろう」
「ほら、どことは訊かれませんでしたから」
何故か大真面目に長義に反論され、審神者の方は相変わらず笑っているばかりだった。
「まるでリンゴみたいに赤くなってるねえ」
「長義のことだな!」
「そうそう」
二人に揃って言われて、長義はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。彼が耳まで真っ赤になっていることは、二人にもお見通しだった。
「よかったわね。にっかり様がおでこにキスしてくれて」
「うん!」
娘を連れた審神者は、長義をからかっている青江たちを置いて部屋を出る。
母に手を引かれた少女は、にっこりと無邪気な微笑を見せる。しかし、娘の笑顔を見ると審神者は先ほどとは異なる笑顔を薄らと浮かべた。
「でも、本当は違うでしょう?」
「ん?」
「本当は、おでこじゃなくてここが良かったんでしょう?」
彼女は自分の唇を細い指でトントンと示す。彼女の所作を見て、少女は子供が浮かべるにはませすぎている笑みをちらりと見せた。
「まったく、母上は何でもお見通しなのだから」
「顔に出てましたから」
「青江は私のことをまだ三つの童程度に思っているのだ。なら、この辺りが手の打ち所だろう?」
ニヤリと笑う娘に母親は苦言を呈するでも無く、変わらない笑顔を見せ続けた。
――次はどんな風にアプローチをしようか。
少女の姿をしていながらも彼女の笑みは、すでに一人の女のものだった。
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