本編第二部(完結済み)

 五月四日。その日が、後数分で終わろうとしている。
 髭切は藤棚下のベンチに腰掛け、離れへと続くはずの小道をじっと見つめていた。
 今日は、ほとんど一日中と言っていいほど、この藤棚の下にいたか、遠目からそれを見守っていた。畑当番と食事の時間、主にケーキを渡しに行ったとき以外の時間のほぼ全てを、藤棚の観察につぎ込んでいたのだ。

(主と話すのは、久しぶりだったなあ)

 春の暖かな夜風が、彼の柔らかな金髪を撫でていく。約束の時刻までは、あと一分。部屋から持ち出してきた目覚まし時計が、今日が残り僅かで終わると教えてくれている。
 外に出る気力もなく、約束などどうでもいいと思っていたのだろうか。
 あと三十秒。ふと気配を覚えて、髭切は顔を上げる。虫の知らせに誘われるまま振り返ると、主が本丸からこちらへとやってくる姿が見えた。

「主」

 何と声をかけようか。髭切が立ち上がり、一歩距離を詰めた瞬間、先んじて藤が口を開く。

「髭切、ちょっと来て」

 有無を言わさぬ口調でそれだけ告げると、彼女はくるりと踵を返す。すたすたと小走りで行く彼女を、髭切は必死で追う。かけたい言葉は沢山あるのに、彼女は全く聞こうとすらしていなかった。
 本丸の夜は比較的早い。日付が変わる頃には、夜更かしをしている者以外は床についてしまう。電気が落とされ、しんと静まりかえった本丸内を、藤は足音を立てないように慎重に歩いていく。

(主の気配、何だか以前よりも薄い気がする)

 昼に会ったときは一瞬すぎて気が付かなかったが、そこに在る生き物としての気配が希薄になっているように、髭切には感じられた。
 まるで、この世界から別の世界に片足を突っ込んでしまったかのような。そのせいで、彼女が近くに来るまで気配に気付くことすらできなかった。通り道以外を彼女が使っていたとしても、普段ならもっと早く察知できたはずなのに。

「主、どこに行くんだい」

 もう一度、彼女を呼ぶ。相変わらず、藤は振り向かない。髭切は思わず彼女へと手を伸ばし、腕を掴んだ。
 流石にこれには驚いたようで、彼女は髭切の手を振り払いつつ、足を止めて振り返った。その瞳は、変わること泣く泥のように濁っている。

「……どうしたの」
「僕を、主はどこに連れて行くの?」
「顕現用の部屋」

 彼女はそれだけ告げると、再び背中を向けてしまった。慌てて後を追うと、程なくして宣言通り、顕現を行うための部屋に二人は辿り着く。
 新たな仲間を呼んだから、立ち会いを要求されているのだろうかと髭切は考える。だがそれなら、歌仙が適任ではないか。そのように思った矢先、

「見ただけで、気が付いたんだ。姿がよく似ていたから」

 閉じられた襖を見つめ、彼女はぽつぽつと語る。

「鏡に映したみたいに同じで、だからすぐに分かった。もし違う刀剣男士だったら、何度も呼び直す必要があるって思っていたけど。そうならなくてよかったよ」

 いったい何の話なのか、と問うより先に彼女が両手で襖を押し開いた。
 部屋の中には、白布の上に鎮座した一振りの太刀があった。月明かりを受けて輝くそれは、ある種の神聖さを帯びているようにも見える。
 その光景だけを見るなら、ただの刀が置かれているように思えただろう。だが、そこにある太刀の刀身を目にして、髭切は己の中心が震えていることに気が付いた。
 ――焦がれている。
 こんなにも、強く。自分は、目の前の刀を求めている。

「じゃあ、呼ぶね」

 何か言うよりも先に、彼女は深呼吸一つしてから、指を刀身に触れさせた。
 瞬間、紫の花弁がぶわりと宙に舞う。ひらひらと風にその身を遊ばせる花々は美しいもののはずなのに、何故か今日はとても悲しく思えた。
 刀身が光に包まれて輪郭を変え、やがて人の姿へと変じる。曖昧だった影は一枚一枚花弁が剥がれていくように、徐々に露わになっていった。
 最初に目に入ったのは、薄緑の髪。右側だけ長く伸びた前髪が、そこにいる人物の片目をすっかり覆い隠してしまっている。目鼻立ちがくっきりしており、意志の強さを帯びさせた顔立ちは、どこかで見たもののように思えた。
 続いて花弁が剥がれて露わになったのは、すらりと伸びた手足。髭切のものよりは丈の短い、脇ほどまでの長さの黒い上着に、同色のズボンが長い脚部を包んでいた。膝まであるブラウンのブーツも、彼の足の長さを強調しているかのようである。
 古い時代の将校を思わせる上衣は、細やかな意匠や色こそ違うものの、髭切が肩に羽織っている上衣と瓜二つだった。
 いや、服だけではない。長い睫毛を押し上げて露わになった金が混ざった褐色の瞳も、髭切には見覚えがあった。
 何せそれは、毎日鏡で見ている顔なのだから。

「源氏の重宝、膝丸だ。ここに兄者は来ていないか?」

 低く芯の通った声が、頭のてっぺんからつま先まで響き渡り、彼の心を痺れさせる。思わず一歩、髭切の足が歩み出た。
 顕現したばかりの彼も、自分の前に現れた者に気が付き、そちらに目を向ける。つり目がちの瞳が徐々に見開かれ、やがて、

「あにじゃ……?」

 彼の問いかけへの返事代わりに、髭切は距離を一息の間に詰め、その体に触れることを選んだ。
 どれだけ触っても、もう彼の姿は掻き消えない。夢ではない。たしかに、ここに弟がいる。
 思わず、目の奥が熱くなる。そこから溢れ出てくるものにつける名を、彼はまだ知らない。

「兄者、先に顕現していたのか! 待たせてしまっていたのだな、すまない」
「大丈夫だよ。ちゃんと、お前の分の隙間を埋めてくれる人がいたから」

 だから、一人残される空虚を感じたまま、日々を過ごすようなことはなかった。そう言おうとして、髭切は気が付く。
 弟を顕現したのは、誰だったか。彼女が自分と契っていた約束はなんだったか。
 自分は昼間、彼女に何を言ったのか。

(弟が来るまで、主が僕の穴を埋める。だから、僕も主の穴を埋める。弟が来るまで――)

 そう、弟が来るまで。

「髭切」

 ぞっとするほど冷えた声は、どんな難敵にすら躊躇しない髭切ですら、一瞬振り返るのを躊躇わせるものだった。だが、彼の中に振り返らないという選択肢は存在しない。
 息を一つ吐き、ゆっくりと身を翻した先には、表情という表情を全て削ぎ落としたような顔で主が立っていた。

「よかったね。弟が来て」
「……主」

 兄者、と後ろから呼びかける膝丸の声も、今は聞いてあげる余裕がなかった。
 弟の代わりに髭切の半身を務めていたというのなら、弟が来てしまいさえすれば、その役割は終わってしまう。自分たちが契った縁は、切れてしまう。

「これで、もう僕の所に来なくていいよね。弟さんに、髭切の育てたものを見せてあげればいい。君の時間を使えばいい」

 言葉だけを読み取って言うのならば、その通りだ。
 本当に、ただの弟の代わりとして彼女に花を贈り、時間を割いていたのなら。代用品として、彼女を扱っていたのなら。
 にこりともせずに背を向けて立ち去る主に、髭切はどうすべきか迷ってしまった。
 弟と出会った喜びは無上のものであるはずなのに、自分が手放してしまったものへの衝撃も強く、それらが混ざり合って一切の思考と行動を一瞬奪われてしまった。
 だが、気が付けば彼は、弟を部屋に置き去りにして、靴に履き替える手間すらかなぐり捨てて、主の元へと向かっていた。

(違う。そうじゃない。どうして、君はいつもいつもそうなってしまうんだ)

 差し伸べられた手を、彼女はいつも払いのけてしまう。あんなに心の中では泣きじゃくっていたのに、こちらが歩み寄ればその分だけ逃げ出してしまう。
 誰のせいで、何のせいで、彼女をそうさせてしまっているのか。知りたいのに答えはまだ見つからず、なのに主はどんどん遠くに行ってしまう。
 もどかしい。刀でいくら斬っても、この答えは手に入らないのだから。
 持ち主に加護を与える逸話を持つはずなのに、彼女を苦悩の泥濘から掬い上げることができないのが、こんなにも口惜しい。

「主!!」

 藤棚の下で主に追いついた髭切は、立ち去ろうとする藤の腕を掴む。ぎょっとするほど、その腕は細かった。

「……何?」
「これで、僕との縁を切ったつもり?」
「だって、そうでしょう。僕は弟の代わりなんだから」
「それは、主にとって僕が迷惑だから? 邪魔になっているから?」

 独りよがりの末に彼女を追い詰めてしまっていたと言うのなら、彼女の態度も已む無しと言えるだろう。
 だが、藤は決して彼と目を合わそうとはしなかった。

「答えて、主。じゃないと離さない」
「離して」
「離さない」
「……離して、髭切!」

 言葉と同時に、ぶんっと手を振りほどかれる。このか細い腕のどこからそんな力が出るのかと思うほどの勢いに、髭切は彼女の腕を放してしまった。

「……迷惑なんて思ってない。嫌いだなんて、言える資格もないし、そんなことは全然思ってない。君にも、他の皆にも」
「それなら、どうして主はこんなことをしているの? なぜ、僕らの側にいたくないって言ったの?」
「だって、僕は」

 勢いに任せて、彼女が口を開きかけた。髭切を見つめる藤色の瞳が、彼が今まで見た中でもっとも強く揺らいだ。
 とってつけたような笑顔ではなく、全てを諦めたような瞳ではなく、誰かに縋り付くような感情を湛えたものに。

「僕は、君達に――」

 何か、彼女が言いかける。だが、

「兄者!!」

 縁側から、こちらを呼ぶ声に、髭切は思わず振り返ってしまう。それもまた、自分にとっては欠かすことのできない大事な者だったから。
 しかし、背を向けた刹那、髭切の前にいた主が立ち去る足音を彼は耳にする。
 再度、彼女に目をやっても時既に遅し。視界にあったのは、浮かんでいた感情を全て奥に押し込み直した藤だけだった。

「君は、僕より弟の側にいるべきだよ。ただの代わりの僕より、ちゃんとした弟がもういるんだから」

 それでも、彼女の声は少しばかり震えていた。主もまた、手放したくないものを手放してしまったと思っているのだと、髭切は直感で理解する。
 背を向けて走り去る彼女を捕まえようとした矢先、今度は髭切の手が後ろからぐいと引かれた。
 向き直れば、そこには不安げな感情を湛えた膝丸がいた。
 顕現した直後に主は脱兎の如く逃げだし、自分にとって近しい存在である兄もその後を追っていなくなってしまったのだから、彼が戸惑うのも無理もないだろう。

「兄者、いったいどうしたのだ。先ほど逃げたあの人物、あれが俺たちの主なのか」
「……うん、そうだよ」
「ならば、なぜ逃げる。なぜ、俺を無視している。なぜ、兄者を置いていってしまったのだ」
「色々あったんだ。とりあえず、本丸に戻ろうよ」

 髭切に促されて本丸に向かう膝丸の顔は、お世辞にも納得しているとは言えなかった。それでも、弟がこうして並び立っているという事実は、胸がいっぱいになるほど嬉しいものだった。
 顕現してからほぼ一年。片腕が落ちたような欠落が遂に今夜、埋まったのだ。
 こうして空白は無くなった。そのはずなのに。

(主。君もまた、僕の中で大きな空白になってしまっているみたいだよ)

 新たにできた穴を埋める者は、いない。
 その代わりに、なれる者すらも。


 ***


 息せき切って部屋に戻り、本丸の主である彼女はずるずると狭い部屋に逃げるように転がり込んだ。
 固い畳の上に転がり、天井を見つめる。カーテンが閉じた部屋はただただ暗く、まるで得体の知れない生き物の腹に潜り込んだような心地にさせられる。

「……これで、彼はもう来ないのかな」

 彼がここに来てくれた理由は、弟の代わりをしていた人物が心配だったから。それだけを考えれば、自分はもうお役御免だ。
 彼に心配をかけずに済むのなら、これでよかった。付喪神であり、神様である彼が、自分の我が儘に付き合う必要はない。

「なのに、僕は寂しいって思ってしまったんだ」

 彼に問い詰められた瞬間、全てを吐き出したくなった。自分に寄り添い続けた彼に、一瞬甘えたくなってしまった。
 だが、自ら手を振りほどいておいて、この態度はなんだと叱責する自分も同時にいる。
 そこまで思うのなら、彼らの元に行けばいい。頭を下げて、これからちゃんとすると言えば、傲慢な物言いになってしまうが歌仙たちは許してくれるだろう。
 一緒にいたくないと逃げておきながら、やっぱり寂しいなどと文句を並べるのは、勝手にも程がある。

「皆のことを知らずに、最初から距離を置いていれば、こんなことにならなかったのかな。出会わなければ、もっと楽だったのかな。もっと、僕がどうでもいいって思えるような人たちだったら」

 それはそうだろう。小豆とかいう刀剣男士も、今日演練の結果を持ってきた刀剣男士も、藤はそこまで詳しく知らなかった。
 薄情な話というのは百も承知だが、知らない人間のことは然して気にならないものだ。彼らに悪感情を向けられていると察してはいるが、それで酷く気に病むということはなかった。
 だが、歌仙たちは違う。彼らに嫌われるのは辛い。彼らが遠くに行ってしまうのは悲しい。ならば、出会わなければよかったか。

『あれらがいない方が、楽だと言うのなら』

 ふ、と声が聞こえた。自分以外の誰かの声だ。この部屋に籠もってから、時折こうして自分に似た正体不明の存在が声をかけてくる。
 ストレスによる幻聴のようなものだろうと、藤は勝手に解釈していた。何故なら、この声はいつも自分にとって都合のいい誘いばかり持ちかけてくるのだ。

『それならば、お前を遠くに連れて行こうか。あれらが来ない、どこか遠くへ』

 今日も、こうして後ろ向きな逃避行を誘ってくる。しかし、藤はぶんぶんと首を横に振った。

「僕は、皆に会えてよかったと思ってる。だから、離れたくない」
『お前の今の願いが、それだと言うのなら』

 すぅっと声は遠くなる。自分の側にいた幻聴の気配が消え、再び真っ暗な闇の中で彼女は一人取り残された。
 布団を出さないと体が痛くなると分かっているのに、藤はそのまま、闇に飲まれるようにゆっくりと目を瞑っていった。


 ***


 翌朝。慣れない重みを体に感じ、彼――膝丸は、のそりと体を起こした。首をぎこちなく下に向け、己の体というものに目を落とし、その顔に触れ、手に触れ、ようやく自分という存在がこの場にあることを受け入れる。
 体という存在には、どうにもすぐ馴染めそうにない。皆そのようなものだと兄も話していたが――そこまで思い、膝丸は首を左右に向ける。

「兄者?」

 問いかけ、自分のすぐ側に目をやると膝丸と同じように布団の中で丸まっている髭切が目に入った。彼の姿を目にしただけで、膝丸の気持ちはひとまずの安堵を得る。
 あの夜、髭切は膝丸を連れて本丸で一番の古株という刀剣男士の元へと向かった。そこにいる刀剣男士は、膝丸を目にして、どういうわけか少し悲しげな顔をしてみせた。
 だが、すぐにその表情は鳴りを潜め、歌仙兼定という名の彼は膝丸に簡単な本丸の説明をした。それから、夜も遅いから就寝するように勧められたのだ。

「これが、寝るというものなのか……」

 眠るという行為についての知識は備わっていたものの、目を閉じるだけで意識が無くなり、朝になれば自然に目が覚めるという行為自体が膝丸には理解し難かった。
 まだ部屋がないからと髭切の部屋に布団を用意し、体を横にしたものの、どうにも落ち着かない。ようやく眠りについただろうと思える時間は、体を横にしてから二時間後のことだった。

「兄者。朝だ。朝になったら、やることがあると言っていただろう」

 とんとん、と布団を叩くと、もそもそと薄い金色の髪が蠢く。ごろりと寝返りを打った髭切は、布団から上体を起こし、ぼんやりと膝丸を見ていた。
 しかし徐々にアーモンド形の大きな瞳が揺れ、見開かれると同時に、膝丸の手に髭切の手が重なった。嬉しそうに笑う顔を前に、膝丸はどう反応すべきか瞬時、躊躇う。

(そういえば、兄者は俺が来るまでいったい、いくつの日を過ごしていたのだろう)

 本丸にいる刀剣男士の数は決して多くないが、かといって数日待った程度ではこの反応にはならないだろう。自分はそれほどまでに焦がれられていたのだと思うと、膝丸の中にも照れくさくもあるが歓喜の念が沸き立つ。

「兄者、おはよう」
「おはよう。えーっと」
「膝丸だぞ、兄者」
「そうそう。そういう名前だったね」

 名前を忘れられているのはややショックではあったが、そういうものだと納得する己がどこかにいると、膝丸は気が付いていた。
 髭切という刀は、名前というあやふやなものには拘らない。何故なら、自分たち兄弟には多くの物語が絡まり合っているのだから。そんな認識が無自覚の内に生まれ、勝手に理解を進めていったのだ。
 だが、髭切は大きく一度頷き、

「名前は、大事なものだから。覚えておかないといけないらしいね」

 口にした言葉に、膝丸は目を見開く。内容だけ受け取るのなら、それはまず間違いなく嬉しい言葉であったはずなのに、どうしても違和感を拭えない。
 名前なんて細かいものは気にしない髭切。それが、膝丸という刀剣男士に刻まれた『常識』だった。なのに、彼は覆すようなことを口にしている。

「兄者にとって、名などどうでもよいもの……ではないのか」
「うーん。僕にとってはそうなんだけどね。主にとっては違うから。僕の名前はどうでもいいって話したとき、それはダメだって言われてねえ」

 ころころと笑い、戸惑った様子を露わにしている膝丸の頭に髭切は手を載せる。

「だから、お前の名前を忘れたって言ったら、主に怒られてしまうだろうって思ったんだ」

 わさわさと、弟の跳ねた薄緑の髪の毛を撫でる髭切。膝丸は、当惑のあまり疑問符を頭に浮かべていた。

「主……というのは、昨晩逃げたあの人間か」
「そうだよ。お前のこともちゃんと紹介してあげないとね。あとね、彼女は鬼だよ」
「は?」

 今度こそ、膝丸は目を見開いて驚きを露わにしたまま硬直してしまった。尖った牙のよく見える口を開き、ぽかんとした表情で髭切を見つめている。

「角が生えていたんだ。歌仙たちは鬼とは呼ぶなって言うんだけれど」
「鬼が我らの主だというのか!? なぜ、兄者はそれを斬らぬのだ!!」
「一応斬ったよ? でも、鬼は鬼でも主だからねえ。無闇に斬ったら怒られちゃったし、それにやっぱり主を傷つけるわけにもいかないし」

 彼が発した言葉が、髭切の考えの全てだった。鬼は鬼でも、主だ。ならば、斬るものではない。
 それに、歌仙が主を鬼と呼ぶなというのなら、主がそれに口を挟まない以上、彼女を人間扱いしておくべきなのだろう。
 だが、膝丸はゆっくりと首を横に振る。

「……信じられん」
「何が?」
「兄者が、そのような者を主としているということが、だ。それに、主であるというのに挨拶の礼一つない。なぜ、そのような者に我らが仕えなければならんのだ」

 まして鬼などと、と膝丸はもう一度言う。敬愛する髭切が前にいるからこそ膝丸は動かなかったが、もし自分の前に誰もいなかったら、今すぐにでも主とやらの顔を見に行っただろう。
 それほどまでに、膝丸にとって髭切が鬼を放置し、あまつさえ主と呼んでいることが衝撃的だったのだ。

「うーん……色々あったんだよねえ。それについては、歌仙から聞いた方が早いかな。僕は説明するのが苦手だから」
「……分かった。だが、あやかしは我らが誅すべきもの。放置している道理はないと、俺は思うが」
「まあまあ、落ち着きなよ。えーっと」
「膝丸だ、兄者」
「そう、それ」

 既に一度したやり取りを繰り返したおかげか、膝丸の中で湧き上がった怒りとも戸惑いともしれぬ感情が、ひとまずの落ち着きを見せる。
 一つ息を吐き、改めて髭切に向き直った膝丸は兄の言葉を待った。

「主は、色々あって今僕たちと離れて暮らしているんだよね。それに、主は鬼だけど、歌仙たちが言うには人間として扱われたいんじゃないかって。だから、ここで主を鬼扱いするとすごーく怒られるよ。主も隠したがっているようだった」
「事情は把握した。だが、顕現直後に逃げ出した理由は、それでは説明がつかぬ。何故、俺から逃げた。何故、兄者を振り払った」
「それも、歌仙が教えてくれると思うよ。そんなに主のことが気になるなら、今日は一緒に来るかい?」
「どこへ向かうつもりだ?」

 髭切は、目を細めて微笑む。

「主のところへ」

 彼の笑みがひどく愛おしげで、なのにどこか寂しげなものに膝丸には映った。


 ***


「審神者としての務めを果たしていない?」

 慣れない箸を使った食事に悪戦苦闘していた膝丸は、和泉守兼定が告げた言葉に思わず箸を取り落としかけてしまった。
 その反応に、我が意を得たりとばかりに和泉守が深く頷く。

「之定が言うには『顔を合わせたくない』『今はちゃんとできないから』と言い張って、引きこもっちまったんだとさ」
「それは、いったいどういうことだ?」
「さあな。オレに会ったときには『なりたくて主になったわけじゃない』だとよ。それならこっちだって」

 和泉守はそこまで言いかけて、ぎゅっと唇を噤んだ。続く先の言葉は、まだ初対面に等しい膝丸であれど、すぐに察する。
 こちらだって、お前の刀になりたくてなったわけじゃない。そう言いたかったのだろう。

(呼ばれたとは、思ったのだがな……)

 刀剣男士たちは、顕現の直前まではっきりとした意識はない。だが、曖昧な記憶の中には誰かに呼ばれたという確かな思い出が刻まれていた。
 和泉守も間接的とはいえ、彼女の呼び声に応じた身だ。だからこそ、無責任な発言をするのを控えようと踏みとどまったのだろう。

「何故、主はそのような言葉を?」
「さあな。之定は、家族から離れて暮らす生活に耐えかねてしまったのではとか言ってるようだが」

 ふん、と鼻を鳴らして、和泉守は朝餉として出された卵掛けご飯を口の中に流し込む。

「それならば、何故まだ審神者をしているのだ」
「やっぱり、そう思うよな!!」

 どんと茶碗を置いて身を乗り出してきた和泉守に、膝丸は驚いて反射的に身を引いてしまったが、目の前の彼とは全く同じ気持ちであった。
 審神者であることが嫌になったというのなら、さっさと役割から退けばいい。主に愛着がない膝丸にとって、すぐに思いつく合理的な思考の帰着だった。

「だから、オレは何度も之定に言ってるんだが、之定の奴は『主がそうしたいと思っているなら、とっくにそうしているだろう。しないということは、何か考えがあるんだ』とかごちゃごちゃ言いやがる」
「来るなと拒絶されても、仕えると言い続けているのか」

 主のことは然程知らないが、自分の持ち主にぞんざいに扱われるのは刀として堪えるものだとは、膝丸にも容易に想像できる。よほど歌仙兼定という人物は、主に対して深い思い入れがあるのだろう。
 だが思い入れがあるなら尚更、来るなと言われればその衝撃も大きく、また怒りもわくものではないかと思ったが、どうやら膝丸が想像するほど事態は単純ではないらしい。

「それで、兄者はどうして主のもとに通っている。兄者も、拒絶されたのではないのか」

 膝丸の隣に座っている髭切は、突如話題を投げかけられて不思議そうに首を傾げた。

「それは、そうだね。あの場にいた皆が、全員主に『来るな』って言われちゃったね」
「しかし、兄者は今日も行くと話していただろう。昨日出会った主は、兄者を振りほどいているように見えた。主が望まぬのならば、行かない方が良いのではないか」
「本当に会いたくないのなら、それでもいいんだろうけれどね」

 髭切は食卓の生卵が入った器を手にとり、箸でゆっくりと力を加えていく。最初は耐えていた黄身は、やがて限界に達したように破れ、どろりとした中身を吐き出した。

(……この卵みたいに、全部全部吐き出しちゃえばいいのね。主は少しだけ吐き出したら、また耐えようとしているみたいなんだよねえ)

 黙ったままぐるぐると卵をかき混ぜていると、怪訝そうにこちらを覗き込む瞳と目が合った。

「兄者?」
「会わないだけじゃ、駄目なんだと思う。主に全部押しつけていたら、また同じことの繰り返しになるだろうから。そのとき、もしかしたら主はもっと遠くに行ってしまうかもしれない」

 かき混ぜた卵を茶碗の白米にかけ、金色に光るようになった米を髭切は見つめる。
 この食べ方を教えてくれたのも、主だった。唐突に卵を割って用意したかと思いきや、米にかけたものだから、最初は歌仙に行儀が悪いと叱られていた。
 美味しいのにと不服そうにしていた彼女は、歌仙が忙しい朝にこっそり卵を持ち出し、卵かけご飯を作るようになった。最初は見かける度に注意していた歌仙も、いつしか黙って見逃すようになっていった。
 そんな当たり前の日々は、もう何ヶ月も見ていない。

「僕は、主にここにいてほしいんだ」

 この本丸というただの場所ではなく、自分たちが住まう空間に共にいてほしい。そこに苦痛となる要素があるなら、取り除きたい。
 髭切の答え探しは、まだ迷路の中にあった。
 この難題にどう取り組むかを考え続けたせいだろう。彼の隣に座る弟がどんな顔をしているか、髭切は見逃してしまっていた。


 ***


 顕現したての刀剣男士が、覚えることは多い。
 まずは本丸の間取り。それぞれの部屋の割り当てや、共同で使う設備の使い方。
 続いて、本丸内の仕事について。
 畑当番として、庭にある畑の手入れは週に何度か行うこと。道場は夜間以外の好きなタイミングで行っていいが、木刀を使用して行うこと。万屋に行きたいときは、事前に本丸に残っている誰かに通達しておくこと。金銭は歌仙から割り振られるので、好きなものを購入してもいいこと。
 諸々のルールを覚えつつ、体に仕事を馴染ませるのに、膝丸は三日ほどを要したのだった。

「今日は、兄者と共に畑当番か。源氏の重宝の我々が、土いじりとはな……」

 膝丸の兄である髭切は、普段からのんびりとしている所が多い。恐らく畑仕事も不得手なのだろうと思っていた膝丸は、庭に出て思わず目を見開いた。
 そこには、いそいそと畑に水を撒いている髭切の姿があったからだ。

「兄者、随分と早いのだな」
「うん。畑仕事は朝にやっておいた方が楽なんだよ。弟、そっちの畝は種を植えたところだから、踏まないようにね」

 髭切に注意されて、膝丸は慌ててその場から足を退ける。辺りを見渡せば、髭切が先んじて行った水やりのおかげか、湿った畝が延々と続いていた。

「兄者は……畑仕事が、好きなのか?」
「僕が好きというより、主が好きなんだよね。主が戻ってきたときに、荒れた畑は見せたくないんだ。だから、僕も頑張ってみようかなって」

 途端に、膝丸の額に小さな谷が刻まれる。
 彼は、髭切が畑仕事をすること自体を疎んじているわけではなかった。問題は、彼がいくら献身的な姿勢を見せたところで、主がそれに報いはしないだろうという点だった。

「兄者がそこまでするほど、あの主に価値はあるのか」

 そんな問いが口をついて出たのも、已む無しと言えるだろう。言葉が出てしまえば、後はまるで堤を破ったように膝丸の口から疑念が飛び出してきた。

「主は、兄者に会おうともしない。どれほど畑を精魂込めて耕そうが、彼女は兄者にねぎらいの言葉一つかけないではないか」

 そんな徒労を髭切に味わわせたくないと、膝丸は弁を振るう。だが、髭切はいつも通り柔らかく微笑むだけだった。

「主に価値があるとか、主に褒められたいとか、そういうのとは違うかなあ。僕は、ただ主にまた笑ってほしいだけなんだ」

 鈴を転がすような笑い声を、太陽に負けないくらいの明るい笑顔を、また目にしたいから。髭切の行動原理は、それだけのシンプルなものだった。

「…………」

 だが、彼の言葉は膝丸にとって到底理解し難いものだった。


 納得できないままに畑仕事を終えた膝丸は、縁側に腰を下ろして大きく息を吐き出した。五月の日差しは、顕現したばかりの彼には些か眩しすぎるものがある。
 しかし、ため息の原因は何もそれだけではない。

「……そんなもののために、兄者は身を削っているのか」

 畑仕事は、決して楽な労働ではない。ある程度は機械というからくりを利用しているものの、照りつける太陽の下にいるだけでも重労働と言えよう。
 規模は家庭菜園を多少大きくした程度でありはするが、膝丸から見ればお世辞にも簡単な仕事とは言えないものだった。
 そのような荒行を、自分の兄が淡々とこなしている姿を見続けていれば、心穏やかでは到底いられない。まして、その理由が大して感謝の念も告げぬ主のためだというのだから。

「膝丸、おつかれさま」

 ふと背後から声をかけられ、慌てて膝丸は振り返った。そこには小麦色の肌に優しげな目つきの青年、小豆長光が立っていた。顕現してこの三日間、彼とは食卓で顔を合わせる以外に話をする機会がほとんどなかった。
 改めて居住まいを正し、膝丸はゆっくりと一礼する。

「これしきのこと、大したことではない」
「むりをすると、からだにどくだぞ。歌仙にたのまれて、つめたいおかしをよういしたんだ。ためしに、たべてもらえるだろうか」

 差し出された小皿に載っていたのは、みずみずしさを湛えた和菓子だった。俗に水ようかんと呼ばれるものだ。
 添えられた匙を手に取り、膝丸は食前の挨拶代わりに「いただこう」と小豆に返す。
 おっかなびっくり匙で水ようかんの端を切り取り、口に入れる。ひんやりとした羊羹の感触が、口の中に籠もっていた熱を存分に吸い取ってくれた。程よい餡子の甘みが、じんわりと疲れた体に染み入っていく。

「小豆は、甘味を作るのが得意なのだな」
「こどもたちには、あまいものがよろこばれるからな。わたしも、つくりがいがある。それに」

 小豆は少しばかり眉尻を下げ、目を細めた。

「あるじも、すきなのだそうだ。さくじつも、わたしのつくったけえきを、すべてたべてくれた。あれは、しっぱいさくだったのに」
「主に会ったのか?」

 思わず、膝丸は腰を浮かせる。しかし、小豆は残念そうに首を横に振った。

「いいや。あったのは、髭切だけときいている。ひさしぶりに、こえもきいたそうだ」
「……そうか。兄者は、主に特別な信頼を向けられている……だから、兄者も主を気遣っているのか?」

 そうだとしても、膝丸には主がひたすら髭切を拒否しているようにしか見えなかった。どうにも、腑に落ちないものがある。
 水ようかんをもう一切れ口に放り込み、膝丸が考え込んでいると、

「はいはーい。二人して、主の話かい? アタシも混ぜとくれよ」

 降り注いだ声は、次郎太刀のものだった。昼間から携帯用の酒壺を抱えてふらふらしている彼に最初こそ膝丸は驚いたものの、今はそれにも大分慣れた。

「次郎は、主について詳しいのか?」
「まあねえ。って言っても、アタシはアンタの兄貴よりは後から顕現したから、アンタたちより少しばかり主と話す機会が多かったってだけさ。そんなに大した差じゃないよ」

 膝丸の隣にどっかりと腰を下ろし、次郎は畑を眺める。丁度、髭切ともこうして庭を眺めながら話をしたことがあったなと、次郎は無言の内で思う。あれは、雪が初めてこの本丸に降り積もった日の夜だったか。
 演練の後、一ヶ月ほど引きこもっていた主が姿を見せたあの夜。次郎は髭切に「ちゃんとした主でいなければと思うあまり、彼女が無理をしているのではないか」と語ったのだ。その予感は、どうやら的中していたらしい。

「俺には、主のことがさっぱり分からぬ。なぜ、兄者があのように主に声をかけ続けるのかも」

 膝丸の語調が荒くなるのも無理はなかった。顕現したその日から、彼は髭切が足繁く主の元に通い、彼女が沈黙し続けている様子を目の当たりにしていたからだ。

「アンタの兄貴なりに、考えがあるのだとは思うけどね。髭切も髭切で、自分の行動の理由について、全部説明してくれるような奴じゃないからさ」

 庭の片隅にいる髭切の様子を目で追いながら、次郎は呟く。本来の仕事を終えた後、彼はああして畑の片隅で育てている花々の手入れをするようになった。
 出陣などでどうしても手入れができない場合は、次郎も何度かその手伝いをしている。何を聞かずとも、それが主のためのものだということぐらいは、彼も言葉を介さずとも察していた。

「主が何を望んでいるのか、アタシだって知らないよ。多分、アンタの兄貴もね」
「そもそも、あるじはどのようなじんぶつだったのだ? むしろ、わたしはそちらがきになるぞ」

 小豆も次郎と共に膝丸を挟むように縁側に腰掛けた。ついでとばかりに次郎に差し出した水ようかんは、あっという間に大柄な彼の口の中に消えていく。

「これ、美味しいねえ! それで、なんだっけ。ああ、主のことだね。主は、なんていうかねえ……絵に描いたような主だったね」
「えに、かいたような?」
「アタシが顕現したばかりの頃は、少しお転婆で歌仙に叱られていたり、アタシたちの戦勝会のために料理を用意してくれたり、ごく普通の子供に見えたんだけどね」

 どこから歯車が狂ったのか、と次郎は記憶を辿る。その契機は、すぐに見つかった。

「仕事のためだからって、年末に今みたいに離れに引きこもっちまったことがあってね。その後からさ。妙に背伸びするようになっちまったのは」

 あの日から、彼女は楽しそうに笑う機会を増やしていても、その背中にどこか痛々しさを抱えるようになってしまった。問いかけても、彼女がそれを打ち明けることはなかった。

「ずーっと笑ってたんだよね。別に何かあったわけじゃないんだけどさ。よその審神者を見て、思う所があったのかねえ。アタシたちの理想的な主でいようと、気を張っちゃってさ」

 それが良かったのか悪かったのかは、次郎には判断しかねる。だから、あのときも流され続けてしまった。

「それでも、どこかに無理があったんだろうねえ。色々溜まっていたものが、ある一点で大爆発!」

 どーんってね、と軽い調子で言ってはみたが、何でもないようににっと微笑んでみせた顔にも、きっと以前の彼女と同じような沈痛なものが滲んでいるのだろうと、次郎自身が思っていた。

(主と呼ばれる生活の中で、主は自分が自分で無くなっていくとか言ってたっけ。アタシたちの存在が、主をただの人間から別のものに押し込んじまった。そんなところかね)

 その考えは、まだ二人には口にせず、次郎は心の奥深くに仕舞った。
 言ったところで、彼らではピンとこないだろう。それまでの主の様子を知り、あの彼女の声を聞かなければ。

「……そうか」

 次郎の予想通り、膝丸は彼の話をいくら聞いても納得ができなかった。
 審神者という立場になった以上、刀を振るう者としての役割を得た以上、本人がどう思おうが主であることには変わりない。それが嫌になって逃げ出すなど、責任放棄も甚だしいと膝丸には思えてしまうのだ。
 一方の小豆長光は難しい顔をしたまま、何やらじっと物思いに耽った後、

「りそうのあるじとは、どのようなあるじなのかな」

 根本的な問いを、膝丸と次郎へと投げかける。次郎は思わせぶりに肩を竦めてみせただけだったために、必然的に膝丸が答えることになった。

「我らの前に姿を見せ、采配を振るい、いかなる事態にも動ぜずに対処できるものだろう」
「ならば、そのようなあるじではなかったばあい、われわれはどうすればいいのだろうな」

 小豆に尋ねられ、膝丸は口元にぎゅっと力を込める。そのような主でなかった場合――つまり今のような事態のとき、彼はどうするべきかを尋ねている。
 主として相応しくない。それは分かった。
 ならば、問題はその次だ。

「……だから、和泉守も言っていただろう。主に相応しくない器の持ち主が、無理に審神者としての地位に拘泥すべきではないと」
「理想の主じゃなかったら、アンタはさっさと首をすげ替えるっていうんだね。なるほど、武士の刀らしい意見だ」

 からからと笑う次郎の言葉が暗に「自分の理想の主でなかったらさっさと捨てるというのは薄情な奴だ」と言われている気がして、膝丸は眉にぎゅっと力を込めてしまった。

「ま、刀もそれぞれ、主もそれぞれさ。今の状態がいいとはアタシも言わないよ」

 ばしばしと次郎に肩を叩かれ、膝丸は危うく地面につんのめりかける。姿勢を戻した頃には、次郎は既に立ち上がり、

「小豆、アンタの水ようかん美味しかったよ。また作っとくれよ」

 去り際に菓子を催促しつつ、さっさといなくなってしまった。残された二人は顔を互いに見合わせ、それぞれ全く異なる表情を見せる。
 膝丸は、困惑と不服げな顔を。
 小豆は、穏やかに目を細めた顔を。

「小豆は、今のままでいいと思っているのか」
「よくはないだろう。だから、わたしは歌仙や髭切にきょうりょくしてみようかとおもう」
「どういうことだ」

 同じように主に目をかけてもらえなかった者同士であるというのに、小豆は膝丸と異なる感情を抱いているようだった。
 和泉守のような攻撃的なものではなく、堀川のような諦めでもない。慈愛とも言えるような感情を瞳の奥に宿しながら、彼は言う。

「きいたところによると、あるじはわたしたちよりおさないようだ。こどもがだだをこねているのに、いうことをきかずにしかりつけるのみでは、わたしもかのじょもつらいだけだろう」
「幼い? 俺が見た主は物吉や堀川とさして変わらぬ見た目をしていたが」
「みためのことではないぞ、膝丸。わたしたちのあるじは、りっぱなあるじになろうとして、がんばっていた。けれど、それはあるじにとっては、たいへんなことだった。わたしには、そうぞうすることしかできないが」

 小豆は自分の手をじっと見つめる。顕現されたとき、主である藤は踵を返してすぐに逃げ出してしまった。
 自分を一番必要としてくれるはずの存在は、目の前から立ち去った。彼女の態度について考えれば考えるほど、闇夜の中に灯りも地図も持たずに放り出されたような、不安な気持ちに襲われた。
 それと同じ感情を、彼女が抱いていたとしたら。行き先の見えない暗闇を進めと言われて、ずっと走り続けていたのなら。

「わたしは、あるじのわがままをちゃんときいてみたい。むりにせのびばかりさせてばかりでは、きっとけがをしてしまう。歌仙や髭切も、わたしとおなじようにかんがえているのだろう」
「……どうやら、あなたは優しすぎる刀のようだ」

 膝丸は、ゆっくりと首を横に振る。つられて、彼の右目を覆い隠す薄緑の前髪が揺れた。

「俺は、やはり認められん」

 自分一人ならば、或いは異なる見方で主と向き合えたかもしれない。
 けれども、兄のことを思うと、膝丸の心は頑なになってしまうのだった。
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