本編第二部(完結済み)
演練を終えて本丸に戻ってきた和泉守は、帰参の挨拶もせずに玄関から厨へと直行した。
建物の構造上、玄関から他の部屋に行くには空き室の和室を通るか、厨を横断するしかない。用がないときは大抵のものは空き室を通るのだが、和泉守は今、厨へと重大な用があった。
「兼さん、先に歌仙さんに報告しに行かないと怒られちゃうよ!」
「まあまあ、後でいいだろ国広。この匂いを我慢して報告なんざした日にゃ、気もそぞろでまた之定に怒鳴られちまう」
和泉守が言う之定とは、歌仙兼定のことである。二人は兼定派という、謂わば作刀における流派のようなものを同一とする刀工から生まれており、作られた時代こそ違えど遠い親戚のような間柄にある。
中でも歌仙兼定を作った刀工は、その記銘の際の崩し字から之定の通称で知られており、この縁があるために和泉守も彼を之定と呼んでいた。
閑話休題。和泉守は厨に入ってすんすんと、形の良い鼻をひくつかせる。入り口でもはっきり分かるほど濃く漂っているのは、焼き菓子の香りだ。
バターという油の塊と砂糖、そして卵から多くの菓子ができあがるとは教えてもらったが、どうやったらこの香ばしい匂いが生まれるのか。和泉守にはまるで想像できない、不思議なものだった。
「おう、小豆。今日は何を作ったんだ?」
入ってきた彼らの足音に気が付いて、和泉守に声をかけられた刀剣男士が振り返る。
小豆と呼ばれた彼は、濃い土色の髪に優しげな面差しの青年だった。エプロン姿と相まって、保育園にいたらまず間違いなく保父さんと思われることだろう。
肌は和泉守や堀川に比べると程よく焼けたような、ほんのりとした小麦色をしている。歌仙や和泉守とはやや異なる、日の光をたっぷり浴びた川を彷彿させる色の瞳は、今は穏やかに細められていた。
「きょうは、けえきなるものをつくったのだ。これがなかなか、むずかしくてね。しっぱいしてしまったのだよ」
小豆が示した厨の調理台には、ケーキという名らしいお菓子が載っていた。一つは既に誰かが食べるために持っていたのか、数切れ無くなっている。ぺしゃんと潰れた茶色い円盤のような姿だが、香り自体は悪くない。
元々ケーキが何かも詳しく知らない和泉守としては、失敗作と言われても特に気にはならなかった。
「まあまあ、食えりゃとりあえず良しってことだ。どれどれ……」
「兼さん! 先に手を洗わないと駄目だよ」
堀川がそろそろと手を伸ばす和泉守を牽制し、ぐいぐいと背中を押して流し場へと追いやる。その傍ら、先んじて手を洗っていた五虎退はタオルで手を拭き取り、小皿を二つ取り出した。
「あの……小豆さん。二切れ貰っても、いいでしょうか」
「かまわないが、五虎退はけえきがそんなにすきなのか?」
「ええと……僕じゃなくて、あるじさまに持っていきたいんです」
五虎退の言葉を聞き、小豆は数度瞬きをする。
小豆は和泉守ほど、苛烈に主を批判するような素振りを見せてはいなかった。また、五虎退とは嘗て主を共にしたという縁があるためか、二人の仲は概ね良好な関係を築けていた。
無論、まともに言葉を交わしたことすらない主について、小豆が何も感じなかったといえば嘘になる。七振り目の刀として顕現した彼は、一言も言葉を交わさずに逃げ出した主の後ろ姿を見て、少なからず疑問を抱いてはいた。
だが、歌仙から大まかな事情を聞いた彼は、静かにその現実を受け止めた。露骨にそっぽを向かれた和泉守とは事情が違うこともあり、彼は主についてどんな感情を向けるべきか、まだ決めかねていたのだ。
(そういえば、あるじはあまいものがすきだと、歌仙兼定はいっていた)
だから、五虎退は主の元に持っていこうと言い出したのだろう。けれども、小豆は二つ分のフォークを取り出した五虎退を、やんわりと止める。
「小豆さん……? やっぱり、二つ分は駄目ですか?」
「いや、わたしはかまわないのだが……すでに、かれがもっていっているからね。代わりに、五虎退はこちらをもっていってくれるだろうか。わたしが、かれにわたしそこねてしまったものだ」
小豆は冷蔵庫を開き、白い瓶を取り出した。中にはスポンジケーキに塗るための生クリームが入っている。こちらの出来は上々だったのだが、肝心のスポンジケーキがちゃんと膨らまなかったので、使えずにいたのだ。
「は、はい。わかりました。あの……ケーキを持っていったのって、誰なんですか?」
「髭切だよ。なんでも、かれがいうには、きょうは──」
小豆は愛おしそうに、そしてどこか悲しそうに目を細めて言う。
「あるじの、たんじょうびなのだそうだ」
***
四月は一ヶ月前に過ぎ去り、桜はとうの昔に全て散ってしまっていた。庭の藤の花は今が盛りであるはずなのに、心なしか褪せた彩りで咲いている。
それでも、初めて藤の花を見た日のことを忘れはしないだろう、と彼は思う。
藤紫色の薄い垂れ幕のように、天から降り注ぐ薄紫の花房を。その、優しい香りを。
花の色が、久しく会っていない主の瞳と、同じ色をしていたことも。
薄紫のトンネルを潜り抜けて、髭切は離れと呼ばれている小さな家に向かう。庭に咲く藤棚とは別に、離れに続く道中にあったアーチは藤の木だったのだ。それに気が付いたのは、花々の蕾がほころび始めてからであった。
(主がこれを見たら、喜ぶかな?)
そう考えはするものの、肝心の彼女は庭を見るどころか、まともに顔すら合わそうとしてくれない。それでも、髭切はいつもの笑みを絶やさずに、アーチを潜り抜けて離れへと辿り着いた。
「主、また来たよ。今日はお土産もあるんだ」
目的地にやってきた髭切は、よいしょと縁側に腰掛ける。申し訳程度に張り出した屋根のおかげで、やや強すぎる五月の日差しから免れることができた。
「まずは、これ。小豆は失敗だって言ってたけど、味は美味しかったよ」
片手に持っていたのは、小豆が作ってくれたけえきなるお菓子だ。以前見かけたものと異なり、誰かに踏み潰されたようにぺしゃんこではあるが、言葉の通り味に問題はなかった。
ラップが貼られたそれを、運んできた皿ごと縁側に置く。更に、一緒に小脇に抱えていたものも隣に並べた。
「もう一つあるんだけど、ちょっと待っててね。畑から持ってくるから」
答えなどないのに、律儀に声をかけてから髭切はアーチを一度潜り抜ける。畑の片隅に向かう道中、髭切は改めて眼前に広がる畝を見つめ、眉を顰めた。
(やっぱり、緑が少ないな。種をどれだけ植えても、育たないんだよね)
藤が引きこもってしまってから、畑までその心を閉ざしたかのように、作物の育ちが急激に悪化してしまったのだ。審神者の力が、畑に豊かな実りを与えているという説は、どうやら嘘では無かったらしい。
いくら肥料を混ぜても結果は変わらず、結局食事に使う野菜は政府を経由して、買い付けなければいけなくなってしまった。
夏に顕現した彼が、畑仕事を手伝っていたときは、これでもかと緑が溢れていたのに。心なしか胸に痛みを覚え、今はそれを振り払う。感傷に浸るのが、今の自分の役目ではないのだから。
畑の一角にやってきた髭切の前には、小さな鉢植えがいくつも並んでいた。多くは枯れた草が申し訳程度に生えていただけだったが、その中で一つだけ、鮮やかな彩りを添えているものがあった。
その鉢植えを抱え上げ、髭切は再び離れに向かう。
「おや」
アーチを潜り抜ける途中、小柄な二つの影を見つけて、髭切は声をかける。
「五虎退。それに、えーっと……堀川、だよね?」
「あ、髭切さん」
きびきびとした調子で振り返ったのは、堀川国広の方だった。先ほどの演練時とは異なり、今は臙脂色のジャージを着ている。本丸内にいるときの多くは、彼はこのような作業着を身につけていた。
「こんな所で、どうしたの?」
「主さんに、演練の報告をしに行こうと思ったんです。兼さんはあの通りですから」
少し困ったように、堀川ははにかんで見せた。宣言通り、彼の手には薄い封筒が握られている。恐らく、そこには演練結果について記した書類が入っているのだろう。
堀川国広は、和泉守兼定の後を追うようにして顕現していた脇差だった。最近の鍛刀の例に漏れず、彼もまた、藤がこっそりと夜中に顕現していた刀剣男士だ。彼曰く、顕現直後に「面倒を見てくれる人が、この部屋にいるから」とメモだけを主から渡されて、言われるがままに向かった先には、本丸の初期刀の歌仙兼定がいたのだという。
主と会ったのはその一度きりで、以来言葉を交わしたこともない。堀川も、小豆と同じく表だった負の感情こそ抱いていないものの、主にどう向き合うか悩んでいるように髭切には見えた。
「和泉守は、主のことが嫌いなのかな」
一応形として、髭切は堀川に問いかける。堀川は彼の問いに、ゆるゆると首を横に振り、否定を示した。
「兼さんは、何だかんだ主さんについて厳しく言うんですが……この本丸と、主さんのことを考えて、それで怒っているんだと思います。それに、兼さんはあの性格ですから。どっちつかずって形を、納得しかねているのかもしれません」
「だからって、あんな言い方……ないです」
堀川の後を追ってぽつりと呟いたのは、五虎退だ。普段は白い雪原のように滑らかな額には、幾らかの小さな谷ができあがっていた。
「審神者をやめてしまえ、だなんて」
「それも一つの考え方として必要だと思います。僕らの主さんで居続けることが辛いっていうのなら、今の立場から逃げても構わないって兼さんは言いたいんですよ。それを引き留める方が、よっぽど主さんには辛いことかもしれませんから」
「そういう考え方も、確かにあるよねえ」
髭切は曖昧な相槌を打つ。先に行ってますね、とアーチを潜り抜ける堀川の背中を眺め、髭切は隣に立つ五虎退をちらりと見やる。
「ねえ、五虎退。覚えているかな」
「髭切さん?」
「演練の帰りに、君が話していたこと。本丸の仲間が、主を傷つけたいと思う人だった場合、どうしようかっていう話」
髭切に言われ、五虎退は記憶の淵から嘗て自分が彼としていた会話を思い返す。一期一振という、自分にとって兄のような刀剣男士と演練の際に相対した彼は、その刃に迷いを生まれさせてしまった。
自分が仲良くしたいと思う相手が、常に自分や主の味方でいてくれるとは限らない。だからもし、本丸の仲間が主の敵になってしまった場合どうするか。以前、五虎退はそのように髭切に問いかけていた。
「和泉守は主を傷つけたいと、考えているわけじゃないみたいだけど……でも彼の言葉を聞いたら、きっと主は元気を無くしてしまうだろうね」
「……はい。僕も、そう思います」
「その場合、君は和泉守をどうしたいって思う?」
髭切の問いに、五虎退は返事ができなかった。和泉守も堀川も、五虎退にとっては大事な仲間の一人だ。同じ机で料理をつつきあい、顔を合わせれば幾らか話もする。
だから、彼らにも主を好きになってもらいたいのに。主にも、彼らの良い部分を知ってもらいたいのに。どうしても、この部分だけボタンが掛け違ったように噛み合ってくれない。
「本当に、和泉守さんがあるじさまを傷つけるようなことがあったら」
震えた唇は、言葉を紡げずに消えてしまった。相変わらず優柔不断で臆病者の己を叱咤しても、どちらに天秤を傾けるべきかの答えが導き出せない。
髭切は、それ以上五虎退に声をかけず、主が隠れ住まう離れへと向かった。彼の白い背中を、五虎退もまた慌てて追いかけた。
程なくして目的地に辿り着いた髭切と五虎退は、アーチの出口で立ち尽くしている堀川に気が付いた。どうやら、彼は縁側に置かれたケーキと、髭切が用意した贈り物の一つに注目しているようだった。
「あ、髭切さん。あの……あれは、何ですか?」
普段は落ち着いている空色をした堀川の瞳は、今は珍しく分かりやすいほどの動揺に染まっている。彼の指さす先を見つめても、髭切はなんてことのないように微笑みを浮かべ続けていた。
「あれっていうのは、これのことかな?」
畑から持ち出してきた鉢植えを抱えた彼は、その場に棒立ちになってしまっている堀川を余所に縁側に向かい、まず鉢植えを下ろす。続いて、堀川が指しているものを抱き上げ、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、嬉しげに笑う。
「これは大根だよ。僕が育てたんだ」
言葉だけを聞くなら、何ということもない発言だ。
だが、彼が抱えている大根は普通のものと、あまりに違いすぎた。端的に説明するならば、四足歩行の未確認物体とでも言うべきか。
四つん這いの生き物のように四方に伸びた根は、さながら足のようにも見える。葉が生えている部分だけをしゃんと天に向かって真っ直ぐに突き立っていた。遠目から見たら小型の猫か犬のようでもあるが、生憎この物体はどこからどう見ても大根なのだ。
「……大根、ですか?」
「たしかに、大根ですね……」
五虎退は疑問符を頭に浮かべながらおずおずと尋ね、髭切の勢いに圧されたように堀川がぎこちなく頷く。
「畑の具合が良くないせいかなあ。どうしてか、こんな風に育っちゃったんだ」
それ、畑の具合は関係ないと思います。
五虎退と堀川は揃って、そのような言葉を脳裏によぎらせたが、髭切がここまで嬉しそうな顔を見せている手前、沈黙せざるを得なかった。
「それで、堀川。演練の報告をしに来たんじゃなかったの?」
「そうでした。忘れないうちに、入れておかないと」
離れの扉につけられているポストに、堀川は自分が運んできた封筒を投函する。
最初はこちらが来たことを知らせるために、数度呼び鈴を鳴らしていた。だが、待てど暮らせど主は姿をみせなかった。
当時は同行していた和泉守の機嫌が、そのせいで主への不信感をより強めてしまったことも、堀川はよく覚えている。故に結局、最終的に彼はこのような投函をして、一方的に伝えることにしたのだった。
「そういえば、五虎退は主に何か用があったの?」
「え、ええと……けえきにつけると美味しい調味料を髭切さんにって、小豆さんが。くりすますのときにもあった、白くて甘いものです」
「おお、そういえばそうだったね」
話しながらも、五虎退の表情は暗い。
クリスマスの際にパーティをしたこと、贈り物をしたこと、ケーキを食べたこと。
全てほんの数ヶ月前のことなのに、今はもう何年も、何十年も昔の出来事のように五虎退には思えてしまっていた。あのときの主の笑顔も、やはり苦しさを押し隠していた笑顔だったのだろうか。
今となっては、問う術もない。
「小豆さん、このお菓子をもっと上手く作れるように頑張るって、さっき厨で話していましたよ」
「それはいいことを聞いたよ。前に食べたときは、これよりもふんわりと膨らんでいたんだよね」
「これは、ちょっとぺしゃんこですものね。兼さんは、少しぱさぱさするけど腹にたまるって大喜びしてたんですが」
堀川が話すように、小豆が作ったケーキはお世辞にも成功した品とは言えなかった。物吉が以前、クリスマスの際に買ってきたものと比較したら、その出来映えには天と地ほども差がある。
だが、それも仕方ないと言えよう。小豆は、この菓子の作り方がまるで分からず、レシピの探し方も知らなかったのだ。髭切が伝えた味と食感だけで何とか材料を導き出し、試行錯誤を重ねてようやく膨れないスポンジケーキらしき菓子を、彼は作り上げた。その成果は、誇ってもよいものだろう。
「でも、どうしていきなりこのお菓子を作ったんでしょう」
「それはね、僕が小豆に頼んだんだ。人の子は、自分の生まれた日をこのお菓子を食べて祝うんだそうだよ」
「そう、なんですね」
今日が主の誕生日だということも、先ほど初めて知った五虎退は一抹の寂しさを覚えていた。主のことが好きだとは胸を張って言えるのに、自分はあまりにも主を知らない。
彼女の経歴は歌仙から少し聞いているが、人生というものは書物のように客観的に捉えられはしない。彼女が何を考え、どんな思いを抱えて生きてきたかを、五虎退はほとんど把握できていなかった。その事実を、ことあるごとにこうして思い知らされてしまうのだ。
「あるじさま。生誕の日、おめでとうございます」
それでも、少年は祝いの言葉を窓の向こうにかける。そこにいる主に、己の願いが届いてくれることを祈って。
だが、やはり返事はなかった。今まで何回も、何十回も声をかけた。そして今日もまた、同じ結果となってしまった。
「それじゃあ、髭切さん。僕は兼さんの所に戻りますね。また、歌仙さんと口げんかしてるかもしれませんから」
「……ぼ、僕も、小豆さんのところに行きます」
「うん、いってらっしゃい」
踵を返す二人を見守り、髭切は目を細める。
五虎退と小豆こと小豆長光は、元は同じ主が所持していた刀だった。その縁もあってか、小さな先輩と大きな後輩の関係は良好のようで、何かと五虎退が小豆の世話を焼いている姿を、髭切もよく目にしていた。
堀川と和泉守も同様に、同じ主の元にあった刀なのだという。特に和泉守は歌仙と刀派を同じくしていることもあり、主の話さえ出なければ、気の置けない友人のように遠慮無く言葉を交わし合っていた。恐らく、和泉守も歌仙の気苦労をそれとなく察しているのだろう。
堀川はそんな和泉守の助手の位置に納まり、程よく彼の言動の手綱をとっている。時々、脇差の刀剣男士である同士で通じ合うものがあるのか、物吉と仲良く話しているようで、和泉守以外の者とも良い関係を築けているようだった。
幸か不幸か、藤が皆から離れた後に顕現したこの三振りは、本丸に既にいた誰かと某かの縁を得ていた。だからこそ、誰も孤立することなく、上手くやれているとも言える。
その部分だけを切り取れば、少なくとも全ての歯車が順調に回っているように見えた。
彼女がいないという、穴さえ除けば。
「主」
そっと呼びかける髭切の声に、応える声はない。どうしたの、と振り返る彼女の姿は、長らく見ていない。
こうしてここに足繁く通っているのは、もう髭切だけになってしまっていた。
皆、忙しいからというのもある。主不在の本丸を維持し続けなければならない歌仙はもちろんのこと、本丸内の清掃、食事の準備、片付け、畑仕事、道場での稽古とやることは数多く積み重なっている。
だけれど、本当の理由は違うのだろうと髭切は薄ら察していた。
近寄って拒絶される結果を、これ以上なくはっきりと目の当たりにする。それが嫌だから、という理由が皆のどこかにあるように髭切には思えていた。
「僕だって、声が聞こえていたのに、勝手に納得してしまっていたものねえ」
主の心の木霊をずっと聞いていたはずなのに、彼女が何でもない様子を見せるから、気にしなくていいのだと適当な理由をつけて受け流していた。
その方が、気が楽だからだ。彼女の笑顔を鵜呑みにしていれば、自分は心穏やかでいられた。
だから、皆の恐れも理解はできる。ならば、髭切自身はどうなのか。問いかけには、既に答えが出ていた。
(そんなもの、僕にはどうだっていいことだよ)
彼女に拒絶されるかもしれないという恐怖そのものは、今はどうだっていい。
(僕は、主の笑顔を見たい。僕の半分でいると約束したのだから)
その約定を、違えるつもりもなければ、違えさせるつもりもない。何より髭切が違えさせたくないと思っていたのだ。
故に、彼はここにあり続ける。今も、主の側に。
ざあっと木々を風が撫ぜる。その音に耳をすませ、静けさが再び戻ってきてから、髭切は薄い唇を開いた。
「主、小豆長光がお菓子を作ってくれたんだよ。冬の宴のときに、物吉が買ってきたものと同じお菓子なんだ。見た目は、ちょっとへこんじゃったけれど、すごく美味しかったよ。主の分、ここに置いておくね」
ケーキの載った皿と、生クリームの入った瓶を窓に寄せる。カーテンはしっかりと閉ざされ、開く様子はまるでない。
「前に、主は僕に教えてくれたよね。五月四日が誕生日だって。それって今日のことだよね」
ふ、と窓の向こうに髭切は気配を感じた。ぴったりと閉じられていたカーテンが、ほんの少しだけ揺れている。どうやら、彼女は側に来ているらしい。だが、髭切への声はない。
「贈り物になるかは分からないけれど、僕がとってきた大根を置いておくね。どうやったら写真にあったみたいに真っ直ぐ育つんだろうねえ。何だか、面白い形になっちゃったんだ。でも、多分食べられるとは思うなあ。おでんの季節はもう過ぎてしまったのかな? だけど、他にも使い道はあるよね」
返事はない。けれども、彼は滔々と語り続ける。何気ない日常で見つけた発見を、春の思い出を、彼は語り続ける。応える声がないとは知りながらも。
もし彼女がここから逃げたいと心の底から願い、審神者という肩書きを放棄するというのなら、その意思は伝えてほしいと以前口にしていた。それについても、藤は返事をしなかった。
だから、髭切は彼女を諦めないことにした。
審神者でいたくないわけではない。
ちゃんとしなければ――審神者としての役割を果たさねばとは、思っている。
ただ、皆と顔を合わせたくない。合わせても、以前のように笑えないから。
何故、そんな風に追い詰められてしまったのか。理由を問いかけても、変わらずに返事はなし。
ならば、己がそれを探り当てようと髭切は今も考え続けている。語ることができるようになるまで待つのは、もう無しだ。待っているだけでは何も変えられないと、髭切はあの別れの日に既に気付いていた。
以前、藤が髭切の抱えている怒りを解きほぐし、理解し、受け入れたように。自分も彼女の抱えているものを探し当て、追い詰めた何かを見つけ出し、受け入れたいと彼は願っていた。
「あと、冬の宴のときに贈った花の種なんだけど……主の部屋にあったものを、少しだけ出して植えてみたんだ。でも、こっちもうまくいかなくって」
彼女の部屋に勝手に入るという行動そのものについて、髭切はそこまで罪悪感を覚えていなかった。個人の私的な空間は精神的な安寧の地であり、見知った仲の者でもおいそれと入るべきでは無いという概念――要するにプライバシーという意識を、彼らはもとより持ち合わせていない。
「それでも一つだけ、綺麗に咲いた花があるんだよ。桜草って名前の花なんだ」
髭切が畑から運んできた鉢植えには、真っ白の小さな花の群れが咲き誇っていた。植木鉢ごと、髭切はそれを縁側の上に置き直す。
「あとで主も見て欲しいなあ。種ができたら、取っておいてね」
勝手な言いようではあるものの、彼の言葉には五虎退や、堀川のものと違って、機嫌を伺うような極端な不自然さがなかった。
ただ、思うがままに言葉を紡ぎ、彼女へと投げかける。たとえ、それが少しばかり自分本位なものだったとしても。
藤が押し殺して隠し続けていた何かを考え続け、いつか答えを得て彼女へと披露する。その日が来るまで、主を一人にしない。弟がいないという拭いきれない虚無感に、胸を締め付けられるような気持ちに襲われた自分と同じ目には遭わせない。
それが今の髭切が思う、自分のやりたいことだった。
「そうだ。主、この前した約束を覚えてるかな」
主が今と同じように暫し離れに籠もり、歌仙に促されるようにして外に出たその日。彼女は、髭切と雪の積もった藤棚の下で自分の誕生日について彼に教え、このように語り合っていた。
――五月四日になったら、主と一緒にここに来て藤の花を見たいな。
ただ、それだけの小さな約束。あの頃から仮面の笑顔をつけていた彼女が、好きな花を見ていて笑ってくれたらという祈りを込めて交わした約束。
彼女のあり方は大きく変わってしまったが、髭切の願い自体は今も変わらない。
「今日は主の誕生日だから、藤棚の下で待っているね」
嘗ての約束をいつものように軽い口調で言葉の端に載せ、彼は立ち去ろうとした。
「――どうして」
声が、した。
「どうして、髭切は」
久しぶりに聞いた主の声は、がらがらに掠れてしまって、幽霊のようだ。
「どうして、僕に構うの」
君なら見捨てると思った、という思いが込められていた。
そんな投げやりな声に、髭切は何でも無いように答える。
「だって、君が言ったんじゃないか」
――弟が来るまで、僕が君の穴を埋める。君の、半分になる。
「だったら、それは主の穴を僕が埋めるってことでもあるよね」
髭切としては、至極当然の発想だった。彼女が弟のいない兄の心にできた空虚を埋めるというのなら、何かを失って穴を抱えてしまった彼女の空虚をまた、自分が埋める。それが、道理というものだ。
藤は口を閉ざしたまま、だんまりを決め込んでしまった。髭切もそれ以上の言葉は語らず、静かにその場を去っていった。
彼の立ち去る足音がしなくなって、数分後。ようやく縁側に面している窓を開き、藤は髭切の置き土産を中にいれ始めた。
まずはケーキ。小豆長光という刀剣男士が作ったという話だが、まるで誰かに踏まれたようにぺしゃんこになっている。所々焦げもあるし、切り分け方も荒っぽい。
(小豆長光……って誰だっけ)
ここに引きこもってから、三人の刀剣男士を呼んだことは覚えている。お世辞にもお互いに良い初対面とは言えなかった者もいたし、ろくに言葉を交わしていない者もいる。
小豆長光は、その中の誰だろうか。そもそも、顔すら全く思い浮かべられなかった。
そんな自分の不甲斐なさを内心で嗤う。情けない主だ、と。
(こっちは生クリームかな。これも甘くて美味しそう……多分)
クリスマスの頃からおかしさを感じていた味覚については、最近は尚悪くなっている。何を食べても、味そのものがぼやけて、どれも同じように感じられてしまう。
辛いものも、甘いものも、しょっぱいものも、酸っぱいものも、どれも統一した味覚の範疇に収まってしまう。それでも、嘗て食べた記憶が残っていることもあり、反射的に食べ物を見たら「美味しそう」とは思う。
もっとも、思うだけにすぎなかったが。
(思ったより外が暖かいなあ。早く食べないと傷んじゃうね)
五月四日。そういえば、もうそんな時期なのか。久しぶりの日光を浴びつつ、彼女は思う。
冬の終わりも、春の始まりも、既に通り過ぎてしまっていたというのが、にわかには信じがたかった。
(髭切、また勝手に僕の部屋に入ったんだ。ああ、でも……これは綺麗だな)
髭切が咲かせたという、真っ白な桜草。フリルのついたドレスのような小さな花々を見て、彼女は久しぶりに口元を吊り上げた。
笑うということをずっと忘れていたかのような、ぎこちなさの残るものだったとしても、それは確かに笑顔の形をしていた。
(花は縁側に置いた方がいいよね。よし、それじゃあ)
そこまで思考し、縁側の片隅に目をやって、彼女はまるでぜんまいが回りきった人形のように凍り付いた。
彼女の目の前には、大根があった。しかも、ただの大根ではない。四足歩行の生き物のように、四つの根を縁側にしっかりと立たせ、しゃんと屹立している大根だった。
「……なに、これ。こんなことって、早々ないよ」
くすり、と。
顔中に貼り付いた錆が剥がれ落ちるように、笑みがこぼれた。
くすくす、くすくす、と。鈴を転がすような笑い声が、小さな離れに人知れず響いた。
それは、引きこもるより更に数ヶ月以上前から失っていた、藤の心の底から湧き上がった笑い声だった。
「よいしょっと。意外と重いな、これ……」
鉢植えを縁側に出した藤は、四つん這いの動物を思わせる大根を抱えて、室内に戻ってきていた。小さな流し場までそれを運び、ようやく一息つく。
以前なら大根の一つや二つ、難なく運べたというのに、どうやら筋力が落ちているらしい。外にも出ず、日も差さぬ部屋で日がな一日、死んだように暮らしていたのだから、それも已む無しというものだろう。
やっとの思いで全ての品をあるべき位置に収め、藤は窓を閉め、カーテンを閉じた。春の陽光はカーテンに押しやられ、再び薄暗い闇が室内に戻る。
六畳一間の和室に、小さな物置のような部屋が一つ。あとは、申し訳程度の水回り設備がある程度。それが、この離れの全容だった。
流し場に置かれたゴミ袋には、携帯食料の空き箱と、インスタント食品のパッケージが雑多に詰め込まれている。
食事をとりたい気分ではないし、寧ろ何故生き物は食物を摂取しなければ死んでしまうのかと思うことすらあったが、文句を言っても死なない体が手に入るわけではない。だから、こうして最低限のものだけ胃に流し込んでいるのだ。
そんな生活も、三ヶ月が過ぎ、既に四ヶ月目に入ろうとしている。こんな生活をしている場合ではないとは、嫌というほど分かっていた。なのに、これ以外のことをしたくないという、我が儘な己の嘆きも聞こえていた。
(だけど、歌仙たちが来たらいつも僕は、だめになってしまう)
最初は、彼らが再び姿を見せれば、いつものように笑顔になれると思っていた。すぐに姿を見せ、頭を下げて謝罪し、本丸に戻って審神者としての日々を過ごせると甘く見ていた。
しかし、事態はそんなに簡単に終わることを許さなかった。
笑おうとすれば、『気持ち悪い』と言われた瞬間を思い出してしまう。どうにかそれを押しやっても、自分は穢れた存在なのだという事実にぶつかってしまう。
人を食らえば、それを美味だと思う己に、直面してしまう。そして、それを否定したくないという自分にも。自分がおかしいのだと、もうこれ以上己に言い聞かせたくなかった。
お前が間違っているのだと言い聞かせるべきなのに、そんな否定を受け入れたくないと、心が駄々をこねていた。
(新しい刀剣男士たちも、名前と顔もろくに覚えてないなんて。立場としては僕はまだ審神者なのかもしれないけれど、ちゃんとした審神者としては失格なんだろうな)
顕現をし続けなければ、審神者ではいられない。以前、こんのすけが語ったことを、藤は愚直に実行し続けていた。月に一度、あの狐に催促されない程度の頻度で、顕現は続けている。
けれども、顕現直後を除き、彼らと顔を合わせた回数はゼロに近い。顔を合わせていないのは新参者だけではなく、既に顕現していた皆ともだ。
「……別れたくないのに、側にいたら、どうすればいいのか分からなくなっちゃって」
伝えたい言葉は、ごまんとある。
私は、鬼でよかった。だから、鬼というあり方を否定しないでほしい。そのまま、自分の考えを受け入れてほしい。
人の血肉を見てそれを美味しいと思ってしまったとしても、角の生えた姿が他人と異なっていたのだとしても。
その姿を、その考えを、そのままの形で、許容してほしい。私は、誰にも同じ考え方をしろとは言わない。自分の考えを理由にして、誰かの体を傷つけるつもりもない。
そうやって、形にしてしまえばいいと分かっている。
ただ、受け入れられる現実を想像するのは、彼女にとっては困難を極めていた。今まで話したところで、誰にも許容されなかったのだから。
そんな状況で、どうして幸せな結末を夢想できるだろう。
「それに、受け入れられなかったら――僕は、その先を考えるのが凄く、怖いんだ」
歌仙を筆頭に、刀剣男士たちとは仲良くなりすぎてしまった。寝食を共にした赤の他人が、無条件で自分を慕ってくれる。そのような環境は、彼女の人生経験上今まで類のないものだった。
だからこそ、受けいられなかった先の現実を想像することすら、恐ろしかった。
それに、自分を鬼として見てほしいという、根幹の願いを伝えるのは、彼らの鬼として見ないようにするという気遣いへの明確な裏切りだ。
口にすれば最後、賢い彼らは気がついてしまう。自分が主を深く傷つけてしまっていたのだ、と。
とはいえ、既に藤の想像以上に聡い歌仙が、自分の発言や所作のいくつかが彼女を苦しめていたの可能性を考え始めていると、藤はまだ知らずにいた。
もう何度目になるか分からない自問自答の結末は、結局いつも通りの現状保留という形で収まってしまう。
「……そうか。今日、誕生日だったんだね」
机上に運んだケーキを見て、藤は嗄れた声でぽつりと呟く。言われるまで、彼女は誕生日という存在をすっかり忘れていた。
この部屋にカレンダーは存在せず、辛うじて引きこもる前に持ち込んだ携帯端末こそあるものの、必要最低限の情報を拾う以外で操作する気力は、藤にはなかった。
「せっかく作ってくれたんだから、食べないとね」
台所に置かれていたフォークを、藤は取り出す。長らく使っていないそれは、埃をうっすら被ってしまっていた。
ざっと水で一洗いしてから、ケーキにかけられていたラップをほどき、フォークを突き刺す。クッキーよりは柔らかいが、ケーキにしては妙にぱさぱさした質感が、細い金属越しに伝わった。
少し切り取り、一口頬張る。スポンジケーキともホットケーキとも違う不思議な食感だ。
ほろほろと、口の中では確かな甘さと香ばしさが溶けていく。なのに、藤の舌は相変わらず錆び付いてしまって正常に機能しない。甘い物は好きなはずなのに、どうしても、美味しいと思えないのだ。
それでも、生クリームをつけて、彼女は黙々とケーキを頬張る。
顔も名前も声も知らない誰かが、自分のために作ってくれたお菓子。だというのに、正しく味わえない己の不甲斐なさから、彼に申し訳ないと思う。
「……ごちそうさま」
最後の一欠片を飲み込み、彼女は食後の挨拶を呟く。
結局、最後の最後まで、美味しいと思うことはなかった。
***
片付けを終え、ぼんやりと外を眺めていくうちに空はゆっくりと朱色に染まっていった。
今頃、本丸では歌仙が料理を用意し終わって、居間に集まるよう呼びかけている頃合いだろう。新しい面々が増えて、今までの部屋では手狭になっているかもしれない。
「……歌仙、最近来なくなったな」
冬の頃はまだ幾度か姿を見せ、声を掛けていた彼も、ここ数週間は精々出陣の報告をするときだけ、玄関越しに声をかけるのみとなっていた。
彼の心境を思えば、それも当然だろう。突然八つ当たりじみた言葉を投げられ、わけも分からず審神者としての仕事のほとんどを結果的に押しつけられたのだ。
日が経つにつれ、不満が募るのも致し方ない。先日は夜出かける際に声をかけられたが、結局振り切って逃げ出してしまった。
「髭切もすぐに見限ると思ったのにな。彼、ああ見えて結構、思い立ったらきっぱりと行動するタイプだと予想してたのに」
出会った直後の事件でも、自分が本丸にとって不利益になるのなら消えてもいいと、すぐに決断していた。たとえ、それがどれほど後ろ向きな考え方だったとしても。
故に、自分のこの優柔不断な姿勢を彼は許さないと思っていた。なのに、彼はここに何度も訪れている。
庭掃除のついでに、畑当番の休憩がてらに、ちょっと散歩したくなって、などと言いつつ。
彼は自由気ままにやってきて、勝手に日々の出来事を話して、こちらへ不必要には呼びかけずに去って行く。その理由が、今までは分からなかった。
髭切とは少しばかり個人的な関係を持っていた部分もあるが、彼との距離は初期刀の歌仙に比べれば、距離を感じるものだろうと思っていたのだ。
だが、今日その理由がはっきりした。
「そうだったね。僕は弟の代わりだったんだものね。弟が引きこもっていたら、心配にもなるよね」
もう半年ほど前になるのだろうか。自分が彼の半身になると口にしたのは。
そのときのやり取りを忘れたわけではなかったが、まさかここで蒸し返されるとは思わなかった。
ともあれ、理由が分かれば、話は早い。
「君の優しさは、弟に向けるべきものだよ」
こんな、自分にではなく。
何故なら、自分は世間から見たら間違っているのだから。いつだって、大きな正しさの前に従うべきと分かっているのに、小さな誤りに拘り続けてしまう。
正しさを受け入れることができずに、駄々をこねてしまう。そんな鬼に、彼のような正しい物語を持つ者が付き合うべきではない。
「夜になったら、鍛刀をしよう」
今までは誰を呼んでもいいと、思っていた。しかし今日は、彼女は呼び寄せたいたった一人を強く強く、思い浮かべていた。
建物の構造上、玄関から他の部屋に行くには空き室の和室を通るか、厨を横断するしかない。用がないときは大抵のものは空き室を通るのだが、和泉守は今、厨へと重大な用があった。
「兼さん、先に歌仙さんに報告しに行かないと怒られちゃうよ!」
「まあまあ、後でいいだろ国広。この匂いを我慢して報告なんざした日にゃ、気もそぞろでまた之定に怒鳴られちまう」
和泉守が言う之定とは、歌仙兼定のことである。二人は兼定派という、謂わば作刀における流派のようなものを同一とする刀工から生まれており、作られた時代こそ違えど遠い親戚のような間柄にある。
中でも歌仙兼定を作った刀工は、その記銘の際の崩し字から之定の通称で知られており、この縁があるために和泉守も彼を之定と呼んでいた。
閑話休題。和泉守は厨に入ってすんすんと、形の良い鼻をひくつかせる。入り口でもはっきり分かるほど濃く漂っているのは、焼き菓子の香りだ。
バターという油の塊と砂糖、そして卵から多くの菓子ができあがるとは教えてもらったが、どうやったらこの香ばしい匂いが生まれるのか。和泉守にはまるで想像できない、不思議なものだった。
「おう、小豆。今日は何を作ったんだ?」
入ってきた彼らの足音に気が付いて、和泉守に声をかけられた刀剣男士が振り返る。
小豆と呼ばれた彼は、濃い土色の髪に優しげな面差しの青年だった。エプロン姿と相まって、保育園にいたらまず間違いなく保父さんと思われることだろう。
肌は和泉守や堀川に比べると程よく焼けたような、ほんのりとした小麦色をしている。歌仙や和泉守とはやや異なる、日の光をたっぷり浴びた川を彷彿させる色の瞳は、今は穏やかに細められていた。
「きょうは、けえきなるものをつくったのだ。これがなかなか、むずかしくてね。しっぱいしてしまったのだよ」
小豆が示した厨の調理台には、ケーキという名らしいお菓子が載っていた。一つは既に誰かが食べるために持っていたのか、数切れ無くなっている。ぺしゃんと潰れた茶色い円盤のような姿だが、香り自体は悪くない。
元々ケーキが何かも詳しく知らない和泉守としては、失敗作と言われても特に気にはならなかった。
「まあまあ、食えりゃとりあえず良しってことだ。どれどれ……」
「兼さん! 先に手を洗わないと駄目だよ」
堀川がそろそろと手を伸ばす和泉守を牽制し、ぐいぐいと背中を押して流し場へと追いやる。その傍ら、先んじて手を洗っていた五虎退はタオルで手を拭き取り、小皿を二つ取り出した。
「あの……小豆さん。二切れ貰っても、いいでしょうか」
「かまわないが、五虎退はけえきがそんなにすきなのか?」
「ええと……僕じゃなくて、あるじさまに持っていきたいんです」
五虎退の言葉を聞き、小豆は数度瞬きをする。
小豆は和泉守ほど、苛烈に主を批判するような素振りを見せてはいなかった。また、五虎退とは嘗て主を共にしたという縁があるためか、二人の仲は概ね良好な関係を築けていた。
無論、まともに言葉を交わしたことすらない主について、小豆が何も感じなかったといえば嘘になる。七振り目の刀として顕現した彼は、一言も言葉を交わさずに逃げ出した主の後ろ姿を見て、少なからず疑問を抱いてはいた。
だが、歌仙から大まかな事情を聞いた彼は、静かにその現実を受け止めた。露骨にそっぽを向かれた和泉守とは事情が違うこともあり、彼は主についてどんな感情を向けるべきか、まだ決めかねていたのだ。
(そういえば、あるじはあまいものがすきだと、歌仙兼定はいっていた)
だから、五虎退は主の元に持っていこうと言い出したのだろう。けれども、小豆は二つ分のフォークを取り出した五虎退を、やんわりと止める。
「小豆さん……? やっぱり、二つ分は駄目ですか?」
「いや、わたしはかまわないのだが……すでに、かれがもっていっているからね。代わりに、五虎退はこちらをもっていってくれるだろうか。わたしが、かれにわたしそこねてしまったものだ」
小豆は冷蔵庫を開き、白い瓶を取り出した。中にはスポンジケーキに塗るための生クリームが入っている。こちらの出来は上々だったのだが、肝心のスポンジケーキがちゃんと膨らまなかったので、使えずにいたのだ。
「は、はい。わかりました。あの……ケーキを持っていったのって、誰なんですか?」
「髭切だよ。なんでも、かれがいうには、きょうは──」
小豆は愛おしそうに、そしてどこか悲しそうに目を細めて言う。
「あるじの、たんじょうびなのだそうだ」
***
四月は一ヶ月前に過ぎ去り、桜はとうの昔に全て散ってしまっていた。庭の藤の花は今が盛りであるはずなのに、心なしか褪せた彩りで咲いている。
それでも、初めて藤の花を見た日のことを忘れはしないだろう、と彼は思う。
藤紫色の薄い垂れ幕のように、天から降り注ぐ薄紫の花房を。その、優しい香りを。
花の色が、久しく会っていない主の瞳と、同じ色をしていたことも。
薄紫のトンネルを潜り抜けて、髭切は離れと呼ばれている小さな家に向かう。庭に咲く藤棚とは別に、離れに続く道中にあったアーチは藤の木だったのだ。それに気が付いたのは、花々の蕾がほころび始めてからであった。
(主がこれを見たら、喜ぶかな?)
そう考えはするものの、肝心の彼女は庭を見るどころか、まともに顔すら合わそうとしてくれない。それでも、髭切はいつもの笑みを絶やさずに、アーチを潜り抜けて離れへと辿り着いた。
「主、また来たよ。今日はお土産もあるんだ」
目的地にやってきた髭切は、よいしょと縁側に腰掛ける。申し訳程度に張り出した屋根のおかげで、やや強すぎる五月の日差しから免れることができた。
「まずは、これ。小豆は失敗だって言ってたけど、味は美味しかったよ」
片手に持っていたのは、小豆が作ってくれたけえきなるお菓子だ。以前見かけたものと異なり、誰かに踏み潰されたようにぺしゃんこではあるが、言葉の通り味に問題はなかった。
ラップが貼られたそれを、運んできた皿ごと縁側に置く。更に、一緒に小脇に抱えていたものも隣に並べた。
「もう一つあるんだけど、ちょっと待っててね。畑から持ってくるから」
答えなどないのに、律儀に声をかけてから髭切はアーチを一度潜り抜ける。畑の片隅に向かう道中、髭切は改めて眼前に広がる畝を見つめ、眉を顰めた。
(やっぱり、緑が少ないな。種をどれだけ植えても、育たないんだよね)
藤が引きこもってしまってから、畑までその心を閉ざしたかのように、作物の育ちが急激に悪化してしまったのだ。審神者の力が、畑に豊かな実りを与えているという説は、どうやら嘘では無かったらしい。
いくら肥料を混ぜても結果は変わらず、結局食事に使う野菜は政府を経由して、買い付けなければいけなくなってしまった。
夏に顕現した彼が、畑仕事を手伝っていたときは、これでもかと緑が溢れていたのに。心なしか胸に痛みを覚え、今はそれを振り払う。感傷に浸るのが、今の自分の役目ではないのだから。
畑の一角にやってきた髭切の前には、小さな鉢植えがいくつも並んでいた。多くは枯れた草が申し訳程度に生えていただけだったが、その中で一つだけ、鮮やかな彩りを添えているものがあった。
その鉢植えを抱え上げ、髭切は再び離れに向かう。
「おや」
アーチを潜り抜ける途中、小柄な二つの影を見つけて、髭切は声をかける。
「五虎退。それに、えーっと……堀川、だよね?」
「あ、髭切さん」
きびきびとした調子で振り返ったのは、堀川国広の方だった。先ほどの演練時とは異なり、今は臙脂色のジャージを着ている。本丸内にいるときの多くは、彼はこのような作業着を身につけていた。
「こんな所で、どうしたの?」
「主さんに、演練の報告をしに行こうと思ったんです。兼さんはあの通りですから」
少し困ったように、堀川ははにかんで見せた。宣言通り、彼の手には薄い封筒が握られている。恐らく、そこには演練結果について記した書類が入っているのだろう。
堀川国広は、和泉守兼定の後を追うようにして顕現していた脇差だった。最近の鍛刀の例に漏れず、彼もまた、藤がこっそりと夜中に顕現していた刀剣男士だ。彼曰く、顕現直後に「面倒を見てくれる人が、この部屋にいるから」とメモだけを主から渡されて、言われるがままに向かった先には、本丸の初期刀の歌仙兼定がいたのだという。
主と会ったのはその一度きりで、以来言葉を交わしたこともない。堀川も、小豆と同じく表だった負の感情こそ抱いていないものの、主にどう向き合うか悩んでいるように髭切には見えた。
「和泉守は、主のことが嫌いなのかな」
一応形として、髭切は堀川に問いかける。堀川は彼の問いに、ゆるゆると首を横に振り、否定を示した。
「兼さんは、何だかんだ主さんについて厳しく言うんですが……この本丸と、主さんのことを考えて、それで怒っているんだと思います。それに、兼さんはあの性格ですから。どっちつかずって形を、納得しかねているのかもしれません」
「だからって、あんな言い方……ないです」
堀川の後を追ってぽつりと呟いたのは、五虎退だ。普段は白い雪原のように滑らかな額には、幾らかの小さな谷ができあがっていた。
「審神者をやめてしまえ、だなんて」
「それも一つの考え方として必要だと思います。僕らの主さんで居続けることが辛いっていうのなら、今の立場から逃げても構わないって兼さんは言いたいんですよ。それを引き留める方が、よっぽど主さんには辛いことかもしれませんから」
「そういう考え方も、確かにあるよねえ」
髭切は曖昧な相槌を打つ。先に行ってますね、とアーチを潜り抜ける堀川の背中を眺め、髭切は隣に立つ五虎退をちらりと見やる。
「ねえ、五虎退。覚えているかな」
「髭切さん?」
「演練の帰りに、君が話していたこと。本丸の仲間が、主を傷つけたいと思う人だった場合、どうしようかっていう話」
髭切に言われ、五虎退は記憶の淵から嘗て自分が彼としていた会話を思い返す。一期一振という、自分にとって兄のような刀剣男士と演練の際に相対した彼は、その刃に迷いを生まれさせてしまった。
自分が仲良くしたいと思う相手が、常に自分や主の味方でいてくれるとは限らない。だからもし、本丸の仲間が主の敵になってしまった場合どうするか。以前、五虎退はそのように髭切に問いかけていた。
「和泉守は主を傷つけたいと、考えているわけじゃないみたいだけど……でも彼の言葉を聞いたら、きっと主は元気を無くしてしまうだろうね」
「……はい。僕も、そう思います」
「その場合、君は和泉守をどうしたいって思う?」
髭切の問いに、五虎退は返事ができなかった。和泉守も堀川も、五虎退にとっては大事な仲間の一人だ。同じ机で料理をつつきあい、顔を合わせれば幾らか話もする。
だから、彼らにも主を好きになってもらいたいのに。主にも、彼らの良い部分を知ってもらいたいのに。どうしても、この部分だけボタンが掛け違ったように噛み合ってくれない。
「本当に、和泉守さんがあるじさまを傷つけるようなことがあったら」
震えた唇は、言葉を紡げずに消えてしまった。相変わらず優柔不断で臆病者の己を叱咤しても、どちらに天秤を傾けるべきかの答えが導き出せない。
髭切は、それ以上五虎退に声をかけず、主が隠れ住まう離れへと向かった。彼の白い背中を、五虎退もまた慌てて追いかけた。
程なくして目的地に辿り着いた髭切と五虎退は、アーチの出口で立ち尽くしている堀川に気が付いた。どうやら、彼は縁側に置かれたケーキと、髭切が用意した贈り物の一つに注目しているようだった。
「あ、髭切さん。あの……あれは、何ですか?」
普段は落ち着いている空色をした堀川の瞳は、今は珍しく分かりやすいほどの動揺に染まっている。彼の指さす先を見つめても、髭切はなんてことのないように微笑みを浮かべ続けていた。
「あれっていうのは、これのことかな?」
畑から持ち出してきた鉢植えを抱えた彼は、その場に棒立ちになってしまっている堀川を余所に縁側に向かい、まず鉢植えを下ろす。続いて、堀川が指しているものを抱き上げ、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、嬉しげに笑う。
「これは大根だよ。僕が育てたんだ」
言葉だけを聞くなら、何ということもない発言だ。
だが、彼が抱えている大根は普通のものと、あまりに違いすぎた。端的に説明するならば、四足歩行の未確認物体とでも言うべきか。
四つん這いの生き物のように四方に伸びた根は、さながら足のようにも見える。葉が生えている部分だけをしゃんと天に向かって真っ直ぐに突き立っていた。遠目から見たら小型の猫か犬のようでもあるが、生憎この物体はどこからどう見ても大根なのだ。
「……大根、ですか?」
「たしかに、大根ですね……」
五虎退は疑問符を頭に浮かべながらおずおずと尋ね、髭切の勢いに圧されたように堀川がぎこちなく頷く。
「畑の具合が良くないせいかなあ。どうしてか、こんな風に育っちゃったんだ」
それ、畑の具合は関係ないと思います。
五虎退と堀川は揃って、そのような言葉を脳裏によぎらせたが、髭切がここまで嬉しそうな顔を見せている手前、沈黙せざるを得なかった。
「それで、堀川。演練の報告をしに来たんじゃなかったの?」
「そうでした。忘れないうちに、入れておかないと」
離れの扉につけられているポストに、堀川は自分が運んできた封筒を投函する。
最初はこちらが来たことを知らせるために、数度呼び鈴を鳴らしていた。だが、待てど暮らせど主は姿をみせなかった。
当時は同行していた和泉守の機嫌が、そのせいで主への不信感をより強めてしまったことも、堀川はよく覚えている。故に結局、最終的に彼はこのような投函をして、一方的に伝えることにしたのだった。
「そういえば、五虎退は主に何か用があったの?」
「え、ええと……けえきにつけると美味しい調味料を髭切さんにって、小豆さんが。くりすますのときにもあった、白くて甘いものです」
「おお、そういえばそうだったね」
話しながらも、五虎退の表情は暗い。
クリスマスの際にパーティをしたこと、贈り物をしたこと、ケーキを食べたこと。
全てほんの数ヶ月前のことなのに、今はもう何年も、何十年も昔の出来事のように五虎退には思えてしまっていた。あのときの主の笑顔も、やはり苦しさを押し隠していた笑顔だったのだろうか。
今となっては、問う術もない。
「小豆さん、このお菓子をもっと上手く作れるように頑張るって、さっき厨で話していましたよ」
「それはいいことを聞いたよ。前に食べたときは、これよりもふんわりと膨らんでいたんだよね」
「これは、ちょっとぺしゃんこですものね。兼さんは、少しぱさぱさするけど腹にたまるって大喜びしてたんですが」
堀川が話すように、小豆が作ったケーキはお世辞にも成功した品とは言えなかった。物吉が以前、クリスマスの際に買ってきたものと比較したら、その出来映えには天と地ほども差がある。
だが、それも仕方ないと言えよう。小豆は、この菓子の作り方がまるで分からず、レシピの探し方も知らなかったのだ。髭切が伝えた味と食感だけで何とか材料を導き出し、試行錯誤を重ねてようやく膨れないスポンジケーキらしき菓子を、彼は作り上げた。その成果は、誇ってもよいものだろう。
「でも、どうしていきなりこのお菓子を作ったんでしょう」
「それはね、僕が小豆に頼んだんだ。人の子は、自分の生まれた日をこのお菓子を食べて祝うんだそうだよ」
「そう、なんですね」
今日が主の誕生日だということも、先ほど初めて知った五虎退は一抹の寂しさを覚えていた。主のことが好きだとは胸を張って言えるのに、自分はあまりにも主を知らない。
彼女の経歴は歌仙から少し聞いているが、人生というものは書物のように客観的に捉えられはしない。彼女が何を考え、どんな思いを抱えて生きてきたかを、五虎退はほとんど把握できていなかった。その事実を、ことあるごとにこうして思い知らされてしまうのだ。
「あるじさま。生誕の日、おめでとうございます」
それでも、少年は祝いの言葉を窓の向こうにかける。そこにいる主に、己の願いが届いてくれることを祈って。
だが、やはり返事はなかった。今まで何回も、何十回も声をかけた。そして今日もまた、同じ結果となってしまった。
「それじゃあ、髭切さん。僕は兼さんの所に戻りますね。また、歌仙さんと口げんかしてるかもしれませんから」
「……ぼ、僕も、小豆さんのところに行きます」
「うん、いってらっしゃい」
踵を返す二人を見守り、髭切は目を細める。
五虎退と小豆こと小豆長光は、元は同じ主が所持していた刀だった。その縁もあってか、小さな先輩と大きな後輩の関係は良好のようで、何かと五虎退が小豆の世話を焼いている姿を、髭切もよく目にしていた。
堀川と和泉守も同様に、同じ主の元にあった刀なのだという。特に和泉守は歌仙と刀派を同じくしていることもあり、主の話さえ出なければ、気の置けない友人のように遠慮無く言葉を交わし合っていた。恐らく、和泉守も歌仙の気苦労をそれとなく察しているのだろう。
堀川はそんな和泉守の助手の位置に納まり、程よく彼の言動の手綱をとっている。時々、脇差の刀剣男士である同士で通じ合うものがあるのか、物吉と仲良く話しているようで、和泉守以外の者とも良い関係を築けているようだった。
幸か不幸か、藤が皆から離れた後に顕現したこの三振りは、本丸に既にいた誰かと某かの縁を得ていた。だからこそ、誰も孤立することなく、上手くやれているとも言える。
その部分だけを切り取れば、少なくとも全ての歯車が順調に回っているように見えた。
彼女がいないという、穴さえ除けば。
「主」
そっと呼びかける髭切の声に、応える声はない。どうしたの、と振り返る彼女の姿は、長らく見ていない。
こうしてここに足繁く通っているのは、もう髭切だけになってしまっていた。
皆、忙しいからというのもある。主不在の本丸を維持し続けなければならない歌仙はもちろんのこと、本丸内の清掃、食事の準備、片付け、畑仕事、道場での稽古とやることは数多く積み重なっている。
だけれど、本当の理由は違うのだろうと髭切は薄ら察していた。
近寄って拒絶される結果を、これ以上なくはっきりと目の当たりにする。それが嫌だから、という理由が皆のどこかにあるように髭切には思えていた。
「僕だって、声が聞こえていたのに、勝手に納得してしまっていたものねえ」
主の心の木霊をずっと聞いていたはずなのに、彼女が何でもない様子を見せるから、気にしなくていいのだと適当な理由をつけて受け流していた。
その方が、気が楽だからだ。彼女の笑顔を鵜呑みにしていれば、自分は心穏やかでいられた。
だから、皆の恐れも理解はできる。ならば、髭切自身はどうなのか。問いかけには、既に答えが出ていた。
(そんなもの、僕にはどうだっていいことだよ)
彼女に拒絶されるかもしれないという恐怖そのものは、今はどうだっていい。
(僕は、主の笑顔を見たい。僕の半分でいると約束したのだから)
その約定を、違えるつもりもなければ、違えさせるつもりもない。何より髭切が違えさせたくないと思っていたのだ。
故に、彼はここにあり続ける。今も、主の側に。
ざあっと木々を風が撫ぜる。その音に耳をすませ、静けさが再び戻ってきてから、髭切は薄い唇を開いた。
「主、小豆長光がお菓子を作ってくれたんだよ。冬の宴のときに、物吉が買ってきたものと同じお菓子なんだ。見た目は、ちょっとへこんじゃったけれど、すごく美味しかったよ。主の分、ここに置いておくね」
ケーキの載った皿と、生クリームの入った瓶を窓に寄せる。カーテンはしっかりと閉ざされ、開く様子はまるでない。
「前に、主は僕に教えてくれたよね。五月四日が誕生日だって。それって今日のことだよね」
ふ、と窓の向こうに髭切は気配を感じた。ぴったりと閉じられていたカーテンが、ほんの少しだけ揺れている。どうやら、彼女は側に来ているらしい。だが、髭切への声はない。
「贈り物になるかは分からないけれど、僕がとってきた大根を置いておくね。どうやったら写真にあったみたいに真っ直ぐ育つんだろうねえ。何だか、面白い形になっちゃったんだ。でも、多分食べられるとは思うなあ。おでんの季節はもう過ぎてしまったのかな? だけど、他にも使い道はあるよね」
返事はない。けれども、彼は滔々と語り続ける。何気ない日常で見つけた発見を、春の思い出を、彼は語り続ける。応える声がないとは知りながらも。
もし彼女がここから逃げたいと心の底から願い、審神者という肩書きを放棄するというのなら、その意思は伝えてほしいと以前口にしていた。それについても、藤は返事をしなかった。
だから、髭切は彼女を諦めないことにした。
審神者でいたくないわけではない。
ちゃんとしなければ――審神者としての役割を果たさねばとは、思っている。
ただ、皆と顔を合わせたくない。合わせても、以前のように笑えないから。
何故、そんな風に追い詰められてしまったのか。理由を問いかけても、変わらずに返事はなし。
ならば、己がそれを探り当てようと髭切は今も考え続けている。語ることができるようになるまで待つのは、もう無しだ。待っているだけでは何も変えられないと、髭切はあの別れの日に既に気付いていた。
以前、藤が髭切の抱えている怒りを解きほぐし、理解し、受け入れたように。自分も彼女の抱えているものを探し当て、追い詰めた何かを見つけ出し、受け入れたいと彼は願っていた。
「あと、冬の宴のときに贈った花の種なんだけど……主の部屋にあったものを、少しだけ出して植えてみたんだ。でも、こっちもうまくいかなくって」
彼女の部屋に勝手に入るという行動そのものについて、髭切はそこまで罪悪感を覚えていなかった。個人の私的な空間は精神的な安寧の地であり、見知った仲の者でもおいそれと入るべきでは無いという概念――要するにプライバシーという意識を、彼らはもとより持ち合わせていない。
「それでも一つだけ、綺麗に咲いた花があるんだよ。桜草って名前の花なんだ」
髭切が畑から運んできた鉢植えには、真っ白の小さな花の群れが咲き誇っていた。植木鉢ごと、髭切はそれを縁側の上に置き直す。
「あとで主も見て欲しいなあ。種ができたら、取っておいてね」
勝手な言いようではあるものの、彼の言葉には五虎退や、堀川のものと違って、機嫌を伺うような極端な不自然さがなかった。
ただ、思うがままに言葉を紡ぎ、彼女へと投げかける。たとえ、それが少しばかり自分本位なものだったとしても。
藤が押し殺して隠し続けていた何かを考え続け、いつか答えを得て彼女へと披露する。その日が来るまで、主を一人にしない。弟がいないという拭いきれない虚無感に、胸を締め付けられるような気持ちに襲われた自分と同じ目には遭わせない。
それが今の髭切が思う、自分のやりたいことだった。
「そうだ。主、この前した約束を覚えてるかな」
主が今と同じように暫し離れに籠もり、歌仙に促されるようにして外に出たその日。彼女は、髭切と雪の積もった藤棚の下で自分の誕生日について彼に教え、このように語り合っていた。
――五月四日になったら、主と一緒にここに来て藤の花を見たいな。
ただ、それだけの小さな約束。あの頃から仮面の笑顔をつけていた彼女が、好きな花を見ていて笑ってくれたらという祈りを込めて交わした約束。
彼女のあり方は大きく変わってしまったが、髭切の願い自体は今も変わらない。
「今日は主の誕生日だから、藤棚の下で待っているね」
嘗ての約束をいつものように軽い口調で言葉の端に載せ、彼は立ち去ろうとした。
「――どうして」
声が、した。
「どうして、髭切は」
久しぶりに聞いた主の声は、がらがらに掠れてしまって、幽霊のようだ。
「どうして、僕に構うの」
君なら見捨てると思った、という思いが込められていた。
そんな投げやりな声に、髭切は何でも無いように答える。
「だって、君が言ったんじゃないか」
――弟が来るまで、僕が君の穴を埋める。君の、半分になる。
「だったら、それは主の穴を僕が埋めるってことでもあるよね」
髭切としては、至極当然の発想だった。彼女が弟のいない兄の心にできた空虚を埋めるというのなら、何かを失って穴を抱えてしまった彼女の空虚をまた、自分が埋める。それが、道理というものだ。
藤は口を閉ざしたまま、だんまりを決め込んでしまった。髭切もそれ以上の言葉は語らず、静かにその場を去っていった。
彼の立ち去る足音がしなくなって、数分後。ようやく縁側に面している窓を開き、藤は髭切の置き土産を中にいれ始めた。
まずはケーキ。小豆長光という刀剣男士が作ったという話だが、まるで誰かに踏まれたようにぺしゃんこになっている。所々焦げもあるし、切り分け方も荒っぽい。
(小豆長光……って誰だっけ)
ここに引きこもってから、三人の刀剣男士を呼んだことは覚えている。お世辞にもお互いに良い初対面とは言えなかった者もいたし、ろくに言葉を交わしていない者もいる。
小豆長光は、その中の誰だろうか。そもそも、顔すら全く思い浮かべられなかった。
そんな自分の不甲斐なさを内心で嗤う。情けない主だ、と。
(こっちは生クリームかな。これも甘くて美味しそう……多分)
クリスマスの頃からおかしさを感じていた味覚については、最近は尚悪くなっている。何を食べても、味そのものがぼやけて、どれも同じように感じられてしまう。
辛いものも、甘いものも、しょっぱいものも、酸っぱいものも、どれも統一した味覚の範疇に収まってしまう。それでも、嘗て食べた記憶が残っていることもあり、反射的に食べ物を見たら「美味しそう」とは思う。
もっとも、思うだけにすぎなかったが。
(思ったより外が暖かいなあ。早く食べないと傷んじゃうね)
五月四日。そういえば、もうそんな時期なのか。久しぶりの日光を浴びつつ、彼女は思う。
冬の終わりも、春の始まりも、既に通り過ぎてしまっていたというのが、にわかには信じがたかった。
(髭切、また勝手に僕の部屋に入ったんだ。ああ、でも……これは綺麗だな)
髭切が咲かせたという、真っ白な桜草。フリルのついたドレスのような小さな花々を見て、彼女は久しぶりに口元を吊り上げた。
笑うということをずっと忘れていたかのような、ぎこちなさの残るものだったとしても、それは確かに笑顔の形をしていた。
(花は縁側に置いた方がいいよね。よし、それじゃあ)
そこまで思考し、縁側の片隅に目をやって、彼女はまるでぜんまいが回りきった人形のように凍り付いた。
彼女の目の前には、大根があった。しかも、ただの大根ではない。四足歩行の生き物のように、四つの根を縁側にしっかりと立たせ、しゃんと屹立している大根だった。
「……なに、これ。こんなことって、早々ないよ」
くすり、と。
顔中に貼り付いた錆が剥がれ落ちるように、笑みがこぼれた。
くすくす、くすくす、と。鈴を転がすような笑い声が、小さな離れに人知れず響いた。
それは、引きこもるより更に数ヶ月以上前から失っていた、藤の心の底から湧き上がった笑い声だった。
「よいしょっと。意外と重いな、これ……」
鉢植えを縁側に出した藤は、四つん這いの動物を思わせる大根を抱えて、室内に戻ってきていた。小さな流し場までそれを運び、ようやく一息つく。
以前なら大根の一つや二つ、難なく運べたというのに、どうやら筋力が落ちているらしい。外にも出ず、日も差さぬ部屋で日がな一日、死んだように暮らしていたのだから、それも已む無しというものだろう。
やっとの思いで全ての品をあるべき位置に収め、藤は窓を閉め、カーテンを閉じた。春の陽光はカーテンに押しやられ、再び薄暗い闇が室内に戻る。
六畳一間の和室に、小さな物置のような部屋が一つ。あとは、申し訳程度の水回り設備がある程度。それが、この離れの全容だった。
流し場に置かれたゴミ袋には、携帯食料の空き箱と、インスタント食品のパッケージが雑多に詰め込まれている。
食事をとりたい気分ではないし、寧ろ何故生き物は食物を摂取しなければ死んでしまうのかと思うことすらあったが、文句を言っても死なない体が手に入るわけではない。だから、こうして最低限のものだけ胃に流し込んでいるのだ。
そんな生活も、三ヶ月が過ぎ、既に四ヶ月目に入ろうとしている。こんな生活をしている場合ではないとは、嫌というほど分かっていた。なのに、これ以外のことをしたくないという、我が儘な己の嘆きも聞こえていた。
(だけど、歌仙たちが来たらいつも僕は、だめになってしまう)
最初は、彼らが再び姿を見せれば、いつものように笑顔になれると思っていた。すぐに姿を見せ、頭を下げて謝罪し、本丸に戻って審神者としての日々を過ごせると甘く見ていた。
しかし、事態はそんなに簡単に終わることを許さなかった。
笑おうとすれば、『気持ち悪い』と言われた瞬間を思い出してしまう。どうにかそれを押しやっても、自分は穢れた存在なのだという事実にぶつかってしまう。
人を食らえば、それを美味だと思う己に、直面してしまう。そして、それを否定したくないという自分にも。自分がおかしいのだと、もうこれ以上己に言い聞かせたくなかった。
お前が間違っているのだと言い聞かせるべきなのに、そんな否定を受け入れたくないと、心が駄々をこねていた。
(新しい刀剣男士たちも、名前と顔もろくに覚えてないなんて。立場としては僕はまだ審神者なのかもしれないけれど、ちゃんとした審神者としては失格なんだろうな)
顕現をし続けなければ、審神者ではいられない。以前、こんのすけが語ったことを、藤は愚直に実行し続けていた。月に一度、あの狐に催促されない程度の頻度で、顕現は続けている。
けれども、顕現直後を除き、彼らと顔を合わせた回数はゼロに近い。顔を合わせていないのは新参者だけではなく、既に顕現していた皆ともだ。
「……別れたくないのに、側にいたら、どうすればいいのか分からなくなっちゃって」
伝えたい言葉は、ごまんとある。
私は、鬼でよかった。だから、鬼というあり方を否定しないでほしい。そのまま、自分の考えを受け入れてほしい。
人の血肉を見てそれを美味しいと思ってしまったとしても、角の生えた姿が他人と異なっていたのだとしても。
その姿を、その考えを、そのままの形で、許容してほしい。私は、誰にも同じ考え方をしろとは言わない。自分の考えを理由にして、誰かの体を傷つけるつもりもない。
そうやって、形にしてしまえばいいと分かっている。
ただ、受け入れられる現実を想像するのは、彼女にとっては困難を極めていた。今まで話したところで、誰にも許容されなかったのだから。
そんな状況で、どうして幸せな結末を夢想できるだろう。
「それに、受け入れられなかったら――僕は、その先を考えるのが凄く、怖いんだ」
歌仙を筆頭に、刀剣男士たちとは仲良くなりすぎてしまった。寝食を共にした赤の他人が、無条件で自分を慕ってくれる。そのような環境は、彼女の人生経験上今まで類のないものだった。
だからこそ、受けいられなかった先の現実を想像することすら、恐ろしかった。
それに、自分を鬼として見てほしいという、根幹の願いを伝えるのは、彼らの鬼として見ないようにするという気遣いへの明確な裏切りだ。
口にすれば最後、賢い彼らは気がついてしまう。自分が主を深く傷つけてしまっていたのだ、と。
とはいえ、既に藤の想像以上に聡い歌仙が、自分の発言や所作のいくつかが彼女を苦しめていたの可能性を考え始めていると、藤はまだ知らずにいた。
もう何度目になるか分からない自問自答の結末は、結局いつも通りの現状保留という形で収まってしまう。
「……そうか。今日、誕生日だったんだね」
机上に運んだケーキを見て、藤は嗄れた声でぽつりと呟く。言われるまで、彼女は誕生日という存在をすっかり忘れていた。
この部屋にカレンダーは存在せず、辛うじて引きこもる前に持ち込んだ携帯端末こそあるものの、必要最低限の情報を拾う以外で操作する気力は、藤にはなかった。
「せっかく作ってくれたんだから、食べないとね」
台所に置かれていたフォークを、藤は取り出す。長らく使っていないそれは、埃をうっすら被ってしまっていた。
ざっと水で一洗いしてから、ケーキにかけられていたラップをほどき、フォークを突き刺す。クッキーよりは柔らかいが、ケーキにしては妙にぱさぱさした質感が、細い金属越しに伝わった。
少し切り取り、一口頬張る。スポンジケーキともホットケーキとも違う不思議な食感だ。
ほろほろと、口の中では確かな甘さと香ばしさが溶けていく。なのに、藤の舌は相変わらず錆び付いてしまって正常に機能しない。甘い物は好きなはずなのに、どうしても、美味しいと思えないのだ。
それでも、生クリームをつけて、彼女は黙々とケーキを頬張る。
顔も名前も声も知らない誰かが、自分のために作ってくれたお菓子。だというのに、正しく味わえない己の不甲斐なさから、彼に申し訳ないと思う。
「……ごちそうさま」
最後の一欠片を飲み込み、彼女は食後の挨拶を呟く。
結局、最後の最後まで、美味しいと思うことはなかった。
***
片付けを終え、ぼんやりと外を眺めていくうちに空はゆっくりと朱色に染まっていった。
今頃、本丸では歌仙が料理を用意し終わって、居間に集まるよう呼びかけている頃合いだろう。新しい面々が増えて、今までの部屋では手狭になっているかもしれない。
「……歌仙、最近来なくなったな」
冬の頃はまだ幾度か姿を見せ、声を掛けていた彼も、ここ数週間は精々出陣の報告をするときだけ、玄関越しに声をかけるのみとなっていた。
彼の心境を思えば、それも当然だろう。突然八つ当たりじみた言葉を投げられ、わけも分からず審神者としての仕事のほとんどを結果的に押しつけられたのだ。
日が経つにつれ、不満が募るのも致し方ない。先日は夜出かける際に声をかけられたが、結局振り切って逃げ出してしまった。
「髭切もすぐに見限ると思ったのにな。彼、ああ見えて結構、思い立ったらきっぱりと行動するタイプだと予想してたのに」
出会った直後の事件でも、自分が本丸にとって不利益になるのなら消えてもいいと、すぐに決断していた。たとえ、それがどれほど後ろ向きな考え方だったとしても。
故に、自分のこの優柔不断な姿勢を彼は許さないと思っていた。なのに、彼はここに何度も訪れている。
庭掃除のついでに、畑当番の休憩がてらに、ちょっと散歩したくなって、などと言いつつ。
彼は自由気ままにやってきて、勝手に日々の出来事を話して、こちらへ不必要には呼びかけずに去って行く。その理由が、今までは分からなかった。
髭切とは少しばかり個人的な関係を持っていた部分もあるが、彼との距離は初期刀の歌仙に比べれば、距離を感じるものだろうと思っていたのだ。
だが、今日その理由がはっきりした。
「そうだったね。僕は弟の代わりだったんだものね。弟が引きこもっていたら、心配にもなるよね」
もう半年ほど前になるのだろうか。自分が彼の半身になると口にしたのは。
そのときのやり取りを忘れたわけではなかったが、まさかここで蒸し返されるとは思わなかった。
ともあれ、理由が分かれば、話は早い。
「君の優しさは、弟に向けるべきものだよ」
こんな、自分にではなく。
何故なら、自分は世間から見たら間違っているのだから。いつだって、大きな正しさの前に従うべきと分かっているのに、小さな誤りに拘り続けてしまう。
正しさを受け入れることができずに、駄々をこねてしまう。そんな鬼に、彼のような正しい物語を持つ者が付き合うべきではない。
「夜になったら、鍛刀をしよう」
今までは誰を呼んでもいいと、思っていた。しかし今日は、彼女は呼び寄せたいたった一人を強く強く、思い浮かべていた。