本編第二部(完結済み)
勢いよく鼻先を掠めていく木刀。あと少し前に出ていれば、鼻が削がれていただろう。そのことを理解し、瞬時背筋に寒気が走る。
ちらりと視界をよぎったのは、一房千切れ飛んだ黒髪。間違いなく、己のそれだ。
舌打ちを打ちつつ、青年は一歩後ろに飛び退る。どうにも、相手の動きを読むのが難しい。ここが地面の上ならば、砂の一掴みでも投げて相手を攪乱するのだが。生憎、ここは道場であり、砂どころか塵一粒落ちているか怪しい。
「そら、今度はそちらから、かかってきてはどうですか」
対する相手は、まだまだ余裕を見せている。これが経験の差というものかと、青年は内心で舌打ちをした。
「その挑発、売ったこと後悔させてやっからな!!」
気炎を上げ、彼は相手に肉薄する。数撃斬り結ぶも、どれも鍔迫り合いにすら持ち込めず、先に相手にいなされる。
対峙する相手は、白い獣のような毛並みに狐色の着物を纏った太刀の刀剣男士だ。その見た目通りと言うべきか、獣のようなしなやかな一撃に、彼はすっかり翻弄されていた。
決めの一手を打てない苛立ちが、彼の攻めを荒くする。
身を翻した相手のほんの僅かな隙を狙い、大上段からの大ぶりの一撃。当たらねばこちらが、隙を突かれる。そして、運命の女神は残念ながら相手に微笑んだ。
まるで誘われるように、或いは踊るように、狐は彼の攻撃を掻い潜る。
(ああ、全く――)
最悪だ。そう思うより先に、敵の武器がこめかみにガツンとぶつかる――寸前で止められた。
「殴りますよ、と言いたいところですが」
狐の刀剣男士は、木刀を下ろす。勝敗は既に決した。試合でこれ以上の戦いは無用と、相手も分かっている。
だが、峰打ち程度でできる怪我ならば、本来問題にはならない。今青年が立っているのは演練の会場であり、審神者は大体演練に立ち会うものである。
だからこそ、多少怪我を負ったとしても、試合相手である刀剣男士の手入れをすぐに行えるので、思う存分力を振るうことが可能――と言えるはずだった。
「やめておきましょう。そちらのぬしさまのおられない時に怪我をしては、困るでしょうから」
「……ふん」
狐の刀剣男士――小狐丸の言葉は、明らかにこちらの事情を考慮してのものだった。かと言って、青年――和泉守兼定の気持ちが素直に感謝へと傾くかと言えば、答えは否だ。
観覧席のスペースには、相手の刀剣男士の主である女性がいる。だが、その隣に座っているはずの、和泉守の主はいない。
席を立っているのではない。そもそも、彼女はこの演練に来ていないのだ。もっと言うならば、今日演練があることすら知らないに決まっている。
その不作法者の名を、彼は苦々しい感情と共に思い出す。
和泉守兼定。とある本丸に八番目に顕現した刀剣男士。
彼の主の名は――藤と、いった。
「お疲れ様、小狐丸。良い試合だったよ! 和泉守さんは大丈夫? 怪我してるようなら、私が手入れするよ」
こちらに向かってきたのは、試合相手の小狐丸の主である女性だ。演練前の挨拶では、たしかスミレと名乗っていたか。
同じ紫の花の名だというのに、自分の主とは大違いだと和泉守は内心で鼻白んだ。相手の審神者を悪く言っているわけではない。むしろその逆だ。
和泉守が鼻白んだ相手は、己の主だった。
「怪我はしてねえよ。それに、オレが怪我したとしても、手入れをすんのはあんたじゃない」
彼が言外に滲ませた意味を感じ取り、スミレの顔は沈痛なものへと変わる。それが益々、和泉守の神経を逆なでした。
あんな主に、そのような顔を見せる価値などないと。
「兼さん、お疲れ様。あとちょっとだったね。はい、これ」
「おう、国広。助かる」
和泉守に声をかけたのは、黒髪に澄んだくりっとした丸みを帯びた空色の瞳を持つ少年だった。紺の縦縞が入ったジャケット、すらっとしたスタイルのズボンという出で立ちは、一目見ただけでは刀剣男士とは気づきにくいスタイルだった。
純朴そうな顔に添えられた深紅のピアスが、彼がただの大人しいだけの子供ではないということを、暗に示しているようにも見える。
少年の名は堀川国広。和泉守兼定という刀に深い縁を持つ、脇差の刀剣男士だった。
自分の本体といえる打刀を彼から渡された和泉守兼定は、慣れた手つきでそれを腰に差した。
「い、和泉守さん。お疲れ様……です」
堀川の後ろからおずおずと姿を見せたのは、五虎退だ。今日は堀川とあわせてこの三人で、演練に来ていたのだった。
「あの……藤さんは、大丈夫なの? ここ最近、全く姿を見ていないのだけれど」
スミレは心配そうに尋ねたものの、和泉守兼定は嫌悪を隠そうともせずに、ふんと鼻を鳴らすだけだった。
「あんな主、あんたのようなちゃんとした審神者が気にすることじゃあねぇ。ろくに顔も合わせねえ、負傷の可能性があるっていうのに、出陣の見送りも出迎えもしねえ」
指を折って数えながら、和泉守は彼女に会った瞬間のやり取りを思い出して、益々眉間の皺を深くする。
「出てくんのは、たまに飯を買いに行くときと顕現をするときだけ。こっちが声をかけても、適当言ってあしらうような奴だぞ? そんなろくでなしにかける言葉なんざ」
「……和泉守さん」
差し挟まれたのは、氷のように冷え切った声だった。それはあまりに鋭く、本物の刃そのものよりも深く、和泉守の言葉に切り込んだ。
今まで聞いたことのない叱責の声音に、和泉守は目を丸くして辺りを見渡しかけた。だが、その正体は彼のすぐ側にいた。
「あるじさまのこと、そんな風に……言わないでください」
普段は怯えた様子ばかり見せる引っ込み思案な少年が、その名の通り、五匹の虎すら退ける眼で和泉守を見据えていた。
思わず、後ずさりしたくなるような殺気が、五虎退から滲んでいる。しかし、和泉守兼定とて、ただここで押し黙るほど弱気な性格ではない。
「オレは事実を言っただけだ。実際、オレは主の顔すらろくに拝ませてもらっちゃいねえ。五虎退が、あの主に何をしてもらっていたのかは知らねえが、主がオレや国広には何もしてくれてねえのも事実だ」
「何かしてもらわないと、認めないってわけじゃないですけれど、でも無視されるのはあまり良い気持ちになれないんです」
和泉守の言い方が乱暴すぎると思ったのか、堀川が傍らからフォローを差し挟む。
彼の言うとおり、何かしてもらわなければ、主として認めないとは和泉守も考えていない。最低限の心配りを向けてもらえれば、和泉守兼定としてもそれで十分だった。
だが、顕現してから、主は和泉守はおろか、本丸の誰ともまともに顔を合わせていない。出陣のための編成を考えもせず、作戦の立案から政府への報告まで全て、初期刀である歌仙兼定に丸投げしてしまっている。
そんな存在に刀を捧げられるほど、和泉守はお人好しでは無かった。
「で、でも……あるじさまは、ずっと悩んでいるんです」
「ハッ、悩んでいたら何もしなくて良いってか?」
「兼さん。そこまでにしよう。五虎退にあたっても仕方がないよ」
険悪な空気が生まれかけた二人の間に、堀川は割って入る。しかし、決して堀川が主の味方をしているわけではないとは、五虎退も知っていた。
「藤さん、そんなに具合が悪いの?」
どこかぴりぴりした空気を纏わせている三人に、それでも物怖じせずスミレは尋ねかけた。
「離れに閉じこもってから……もう、三ヶ月になります。以前も、お仕事が忙しくて、少し本丸を離れていたことはあるのですが……」
「審神者の仕事が嫌になって、逃げ出してるだけだ。あんたが気にするような話じゃない」
「兼さん」
和泉守の棘のある言い方に、窘めるような言葉が堀川からすかさず挟み込まれた。どうにも突っ走りがちで言動や行動も大味になりやすい和泉守をフォローするのが、この堀川の役どころなのである。
「はて。以前お会いしたときは、そのように責任を放り出すような態度をとる方には思えませんでしたが」
声を発したのは、スミレの刀剣男士である小狐丸だ。彼は六月の演練で、藤とは直接出会っていた。彼女は悩みを抱えながらも、一歩一歩前に進もうとしているように小狐丸には見えていた。
やや頼りなさげな部分もあるが、それもまた若さや青さとして見守っていける範囲のものだろう、と。
「あんたが何を見たのかは知らないが、今の主は……ありゃ、ただの死人だ」
穏やかではない和泉守の言葉に、小狐丸もスミレも怪訝そうに眉を顰める。
「死人、ですか」
「ああ。顕現したときの話になるが――」
和泉守は、自分が顕現して最初に眼にすることになってしまったものの記憶を思い出す。
彼が顕現したのは、二月の中旬。まだ肌寒さを厳しく感じる冬のある日、太陽すら昇っていない早朝のことだった。
◇◇◇
翻るは、嘗て自分が活躍した時代の端を彩った浅葱の段駄羅羽織。次いで後を追うのは、夜よりも尚濃い射干玉の黒髪。
だが、女性と見紛うような長髪の持ち主は、やはり一振りの刀を具現化した存在に相応しい剛毅な体つきをしていた。
体を包むは、臙脂色の着物に燃え尽きた灰を思わせる色合いの袴だ。着物に金色で添えられているのは、鳳凰と思しき鳥。それは着物と袴をあわせて、まるで永遠に蘇る不死鳥を想起させる意匠となっていた。
意志の強そうな太い眉の下、薄らと開かれた瞳の色は春の清流と同じ翡翠色。顕現の際に湧き上がる光を反射して煌めいたのは、紅玉と金の耳飾りだった。
「オレは和泉守兼定。かっこ良くて強い! 最近流行りの刀だぜ」
顕現してすぐに、和泉守は威勢良くその名を高らかに響かせる。
だが、返事はない。出鼻を挫かれ、和泉守は不服そうに平らかな額に皺を寄せた。最低限落とした明かりの中、ぼんやりと浮かび上がっている小さな影は、間違いなく主その人だろう。
大きな声に驚いて、腰でも抜かしているのだろうか。彼がそう思いかけた折、
「……ああ、そう」
その言葉が自分への返事だと気が付くのに、和泉守は数秒を要した。それ程までに彼女の声には、こちらに対してまるで興味が無いという意思が、ありありと滲み出ていたのだ。
「おい。あんた、オレの主なんだろう? その返事は何なんだよ、まさか刀剣男士を見るのは初めてか?」
わざと明るい調子で呼びかけてみたのも、あまりに二人の間に漂う空気の温度差が違いすぎたからだ。顕現直後でありながらも、和泉守は主と自分の間に、埋めようのない溝ができていると嫌でも気が付いてしまった。
「ここから出て、廊下の突き当たりに、歌仙兼定って刀剣男士の部屋がある。本丸の説明は、そこで聞いて」
「歌仙兼定? ああ、之定がいんのか」
顕現直後であっても、刀同士に特別な繋がりがあったら、不思議とそこに何らかの感情を見出すことがある。和泉守にとって歌仙兼定という名は、親しいとまではいかずとも、知人程度の感覚は持ち合わせるものだった。
そこで主は初めて、和泉守を見た。その目と向き合い、彼はぎょっとする。申し訳程度につけられた橙の灯りが照らした藤色の瞳は、ガラス玉のように無機質であり、同時に泥のように濁っていたのだから。
「……あんた、大丈夫か?」
「歌仙の知り合いなんだ。じゃあ、丁度いいや。後は彼が何とかしてくれるだろうし」
和泉守の問いを完全に無視して、目の前の主らしき人物はぽつりぽつりと言葉を並べる。その声音ときたら、瞳と違わずまさに死人のそれだ。
干からびた喉を辛うじて動かし、音としたような気力のなさ。こちらを視界に入れている筈なのに、目が合っているとは思えない濁りきった瞳。そして何より、顕現した刀剣男士に対して、彼女はまるで興味を見せていなかった。
歴史を守る使命を帯びて、刀剣男士は呼び起こされる。それは刀剣男士である以上、誰もが理解していることであり、和泉守とて例外ではない。
だからこそ、彼は自分を呼ぶか細い声に応えた。手を取らねば消えてしまいそうな呼びかけに応じた。
だというのに、先ほどからこの態度は何なのか。これが自分の主であると、認めろと?
「じゃあ、それで」
簡潔な別れの挨拶と共に、主である者は踵を返す。
「おい、待てよ! ……あんた、本当にオレの主でいいんだよな?」
和泉守の呼びかけに、彼女の足が止まる。振り返った横顔から見える瞳は、相変わらず暗澹としていた。
「主と思いたくないなら、それでもいいよ。別に、なりたいとも思わないし」
そのとき受けた衝撃は、およそ言葉にできかねる代物だった。
自分の中で燃え盛っていた使命や、新たな姿を得た上でのまだ見ぬ生活への期待が、他ならぬ主によってかき消されかけてしまった。何よりも、主の刀として生まれ出でた彼にとって、主になりたくないと言われることは、想像以上に堪えるものがあった。
主と刀。その関係は彼ら刀剣男士にとって、本能のような事柄なのだから。
「……おい、あんた! 今、なんて言った!!」
去りゆく彼女を追いかけようとして、しかし和泉守は思わず二の足を踏む。生まれて初めて感じた冬の寒さ、そして一寸先も危うい夜の闇は、彼にとって足を踏み留める理由に、十分になり得たのだ。
追いかけることは叶わなかったものの、彼は己の中に萌える怒りの炎を、自覚せずにはいられなかった。
自分が主として認めた者のために刀を振るうのが、刀としての本分だ。なのに、彼はこの世に姿を得た瞬間に、自分が刀を捧げる相手に関わりを絶たれてしまった。
この行き場のない気持ちを、どこにやればいい。生まれた瞬間に己の本質の半分を無下にされてしまったのだと、簡単に認められるわけがない。
そうして、和泉守は怒りとも恨みともつかぬ煮えくり返った感情を抱え、立ち続けていた。やがて、それは四半刻を経て、ようやく一つの形へと収まった。
それは、『主への失望』という形をしていた。
◇◇◇
「……それは、何と申し上げればいいものやら」
話の一部始終を聞いて、小狐丸は難しそうに額に皺を寄せた。聞いている限りならば、使命を帯びて顕現した刀剣男士に向けるには、相応しくない態度としか思えない。
だが、彼は一度既に彼女に会っている。和泉守の話にあったように、顕現直後の刀剣男士を、すげなくあしらうような人だとは、やはり考えにくいものがあった。たった数ヶ月で彼女がそこまで変容しているとも、想像しづらい。
「藤さんは、審神者でいるのが辛いのかな……」
和泉守の語る彼女の様子をもとに、スミレは自分の考えを口にする。審神者であったはずの人が、戦いの重責に堪えかねて辞任するという話は、全く聞かないわけではない。
あくまで噂程度ではあるが、政府がどれだけ情報統制していたとしても、全ての人の口に戸は立てられないのだ。
「なら、いっそのこと、辞めちまえばいいんだ。オレだって、本人がそう決めたんなら否定しねえよ。腹が立つのは、中途半端でどっちつかずのままでいるってことだ」
腰に手挟んだ打刀の柄に、和泉守は乱暴に手をかける。鯉口がすれて生じた金属音は、彼の苛立ちを表しているかのようだった。
「審神者の仕事は放り出しておきながら、審神者という肩書きだけは守りたがる。そんな奴、主なんて呼べるわけねえだろうが」
和泉守の意見はもっともだ。五虎退も堀川も、これには流石に反論する言葉を、持ち合わせていなかった。
「……そうだね。和泉守さんの言う通りだと思う」
スミレもこれ以上は口を挟むまいと、肯定を返した。よその本丸の事情に、審神者としての立場の彼女が不用意に割り込めば、本丸の刀剣男士を奪う気か、本丸同士で抗争を起こすつもりか、と口さがない連中に噂される可能性もあるからだ。
だから、今は喉まで出かかった言葉をぐっと押し込む。
「それじゃあ、藤さんが元気になったら、また一緒にお茶しようって伝言しておいて。無理はしなくていいからって」
和泉守は相変わらず不服そうな渋面を作っていたが、それでもスミレの顔を立てるために小さく頷き返した。
演練が終わり、去って行く三人の背中はどんどん小さくなっていく。完全に彼らが人混みに紛れた頃、スミレは大きくため息を吐き出した。
「……何だか、聞いていて悲しくなるね。藤さん、あんなに頑張ってたのに。いったい何があったんだろう?」
「ぬしさまはお優しいですね。他の本丸の者と競い合う輩も少ないというのに」
「だって、何だか他人事とは思えなくって。私も、色々考えすぎて全部放り出したくなったこと、何度もあるんだもの」
流石に本丸内別居を決め込むほど過激な行動に出てはいないが、審神者であり続けるという自分に漠然とした不安を覚えたことはある。
命の危険に晒されるというのも不安の一つではあるが、それ以上に彼女が不安を感じたのは、共に暮らす刀剣男士の主としての自分の姿だった。
自分が彼らに相応しいのかと、自ら神経をすり減らすような思考に囚われ、どうすればいいかと悩んだことは一度や二度ではない。
こればかりは、純粋に使命を胸に抱き、主に仕える姿を是とする刀剣男士には分かりづらい話だ。人間の気持ちというのは、刀のように一本筋が通ったようにはできていない。
「ぬしさまが、自分の責を放り投げるような方には見えませぬが」
「小狐丸が顕現するより前の話だよ。私は、そのとき皆に相談して助けてもらった。だから、藤さんも自分が抱えすぎたものを皆に少しずつ渡せば、ちょっとは楽になるんじゃないかな」
「ですが、彼らの言葉によると、今の藤殿は顔すら合わそうとしないようです。それでは、相談も何もできますまい」
「……そうみたいだね。大丈夫かな、藤さん」
遠くにいる彼女を思う声は、春の風にさらわれて遠く遠く飛んでいく。
桜の花は、もう既に散ってしまっていた。
***
開け放たれた窓からは、ふわりと柔らかい春の風が舞い込んでくる。灯りをつけずとも、降り注ぐ穏やかな日光のおかげで部屋は十分に明るい。
それら全てが、春の到来を告げるのに相応しいものであるにも関わらず、机を挟んで向かい合っている者たちの顔は一様に暗い。
本丸の中にある一室、歌仙の私室である和室には部屋の主である歌仙兼定と鶴丸国永がいた。机の上には、薄い板のような機械が置かれている。それは、本来主が仕事のために使うために、彼女の部屋に置いていたものだった。
「きみが確認をしてくれるおかげで、書類の再提出回数がうんと減って助かっているよ。鶴丸国永」
「いいってことさ、歌仙兼定。本来は刀の俺たちには、机に齧り付いて書類作成なんて、向いてないんだろうからな」
歌仙の前に座っている鶴丸国永は、藤の本丸の刀剣男士ではない。本丸の主である彼女の友人――更紗の刀剣男士だ。
彼女が本邸から離れて、庭の端にある庵のような家で暮らし始めてすぐ、鶴丸は主不在の本丸運営についてのノウハウを歌仙に教えてくれた。
おかげで、主なしでは滞ってしまいがちの事務仕事や、政府とのやり取りも、どうにか処理出来ている。
「きみは、この手の類の作業が得意なようだが、何かコツでもあるのかい」
「ただの慣れさ。俺は、政府で長らく仕事をしてた時期があるんだ。結果、こういう裏方作業にも慣れちまった」
「なら、僕もいずれ慣れるんだろうか」
「慣れたいのかい?」
「……いや」
歌仙の返事は、歯切れ悪いものだった。歌仙が書類仕事に慣れる――それは、それだけ長く藤が本丸を不在にする、ということでもあったからだ。
漂う重苦しい空気を払拭するように、鶴丸はふっと表情を緩める。
「きみが最初に端末を触った時の様子といったら、あれは傑作だったなあ。藤殿に再会した折のの、いい土産話になるだろう」
からからと笑う鶴丸。だが、彼とは対照的に歌仙の笑みは、どこか虚ろで乾いたものとなっていた。
本丸のこれからを、主のこれからを考える度に、歌仙の心には常に憂鬱な黒雲がかかってしまう。彼の心情を考慮してか、鶴丸も適当な所で笑うのをやめ、一転して真面目な表情に切り替えた。
「……藤殿は、まだ姿を見せないのか」
「ああ。たまに、夜半には出かけているようなんだ。だから、以前寝ずにその時を待って彼女に声をかけようとしたんだが……」
無言で首を横に振る彼の様子から察するに、芳しい成果は得られなかったのだろうと鶴丸は思う。
「きみは、彼女に何と声をかけたんだ?」
「悩んでいることがあるなら、いつでも相談に来てくれ。きみ一人で抱える必要はない。僕らに不満があるのなら、それでもいいから、思ったままを僕にぶつけてくれないか――と」
「…………そうか」
「いったい何と言えば、彼女に僕の言葉は届くのだろうか」
藤が本丸に別れを告げたときの言葉は、今でもはっきりと覚えている。
――ちゃんとできないから、ちゃんと笑えないから、どうしたらいいか分からないから!!
――君達は知らないだろうけどさ、君達と一緒にいるだけで、僕はすっごく疲れるんだよ。皆、無責任に、無邪気に、主様、主様って僕を慕って、その時僕がどんな気持ちになっているかも知らないで!!
どんな気持ちになっているのか、彼女ははっきりとは教えてくれなかった。ただ、彼女の心が軋みを上げて壊れかかっていることだけは伝わった。
――僕が僕でなくなっていってることなんて、知りもしないで!!
それは知らなかった。彼女の言う通りだ。けれども、自分が自分でなくなっているというのは、どういうことを表しているのかも、はっきりと歌仙には分からなかった。
――今は一人にして、一人にさせて。お願いだから。
――ちゃんとした主になれるまで、一人にさせて。ちゃんと、僕に戻りたいから。
彼女は、それでも主でいようとしてくれている。
気にかかるのは、言葉の途中までは明らかにこちらへ嫌悪や否定に連なる感情を見せていたのに、最後はまるで審神者であり続けることへの嘆願のような形へ、変化していた点だ。
彼女の抱える感情は、一枚板ではないのだと歌仙は推察していた。だからこそ、曖昧でもいいからその断片をもっと聞かせてほしいと頼んだのだが、あれ以来彼女は誰とも口を利いていないようだった。
「それでも、顕現は続けているんだろう?」
「ああ、どういう理由があるのかは知らないけれどね。大体一ヶ月に一振りの頻度で、夜中にこっそりと顕現をしているみたいなんだ。無理をしなくてもいいのに」
歌仙は、こんのすけが藤に何を話しているのかを、彼女に教えてもらっていない。適当な頻度で顕現を続けなければ審神者をやめることになるかもしれないと、狐が彼女に伝えているとは、主が本丸に離れる前でも全く知らされていなかった。
「不思議なもんだなあ。審神者の仕事がやりたくないのなら、普通は顕現も止めてしまうもんだがねえ」
「主は、自分がちゃんとした主に戻れるまで待っててほしいと、頼んでいたように聞こえた。少なくとも、審神者の仕事を辞めたいとは言ってない」
「だから、顕現もし続けていると?」
「……そのように、僕は解釈している」
審神者として最低限まだ続けられる仕事が、顕現だった。故に、彼女はこっそりと顕現だけは執り行っているのだと、歌仙は言う。
だが鶴丸は別の視点で、彼女の行動への説明を考えていた。
(刀剣男士たちを否定しておきながら、ちゃんとした主には戻りたいという。つまり、彼女は歌仙たちをどうでもいいとは思ってないというわけだ。そんな人間が、新たな刀剣男士を顕現させて歌仙たちに負担をかけるか?)
刀剣男士の顕現自体は、新しい仲間を受け入れるという点では歓迎されるものだが、今は事情が事情だ。新しい風は、そのまま新しい軋轢を生みかねない。何せ、本丸を支える柱が今は欠落している状態なのだから。
(そうしなければならない理由が、彼女の中にある。今の藤殿が望む状況は孤立だが、同時に審神者であり続けることも望んでいる。孤立している状態は政府から見たら、本丸の運営を放棄しているようにも見える、か)
ならば、政府へのパフォーマンスとしての顕現だろうか。自分は、まだ審神者でいられますよという、力の誇示としてなら順当ではある。
(ただ、精神的に追い詰められている藤殿が、即座にその考えに至るものだろうか。前々から考えていたか、或いは以前から顕現を強要されるような指示でもあったのか?)
ふう、と重たいため息を耳にして、鶴丸は思索の海から己を引きずり上げる。対面している歌仙は、明らかに仕事疲れ以外の気疲れを露呈していた。
「……彼女に、もう主でいなくてもいいと言った方が、いいのだろうか」
「そりゃまた、どうして。こんな状況でも、彼女は主でいたがっているんだろう?」
「審神者の仕事を投げ出した原因は、僕らにあるのだとしたら? 彼女のその言い方は、単に僕たちに気を遣っているだけにもとれるんだ」
「随分と後ろ向きな考え方だな。だが、俺は反対だ」
憔悴しきった様子の歌仙に、鶴丸はゆるゆると首を横に振る。二人の間に出されている菓子の包装を破り、問答無用に歌仙に渡した。
「もし、それがきみの早とちりだったらどうする? きみは、どうにか立ち上がろうとしている人間に、とどめを刺すことになるんだぞ?」
「けれども、僕はどうしたらいいか見当もつかないんだ」
歌仙は渡された小さな饅頭を、口に含む。漉し餡の滑らかな舌触りも甘さも、普段なら美味しいと感じるはずのものだった。なのに、思い出すのは、甘い物が好きだからと茶菓子ばかり食べようとする、主の笑顔ばかりだ。
おやつの時間には顔を見せ、こちらが選んだ茶葉の良さも全くよく分からないようで、蘊蓄を語っても首を捻っていた。それでも、彼女は笑ってこう言うのだ。
「歌仙の淹れるお茶は美味しいね」と。
あの笑顔の裏で、彼女はいったい何を考えていたのだろうか。後悔ばかりが、菓子の味と共に広がって、甘いはずなのに何故か苦さまで感じてしまう。
「僕らの行動は――僕の行動は、彼女にとって望まないものだったのだろう」
髭切が顕現した時と同じだと、歌仙は思う。
知らない間に、自分は誰かを傷つけていた。あの時は、仲間の髭切を。そして今は、もっとも守りたい存在だった主を。
それを認めるのは、ただただ苦しいものだった。最初は、認めたくないと、彼女の勝手さに憤りしか感じないようにしていた。けれども、時が経つにつれて聡明な彼は気が付いてしまった。
(僕は、また間違えていたのだろう。あの時と一緒だ。髭切は笑って流してくれていた。そして、主も)
自分がよかれと思い口にした言葉が、なんてことのないものとして示した振る舞いが、相手を突き刺す刃になっていた。
本音を言うのならば、敬愛する彼女の心を、それと知らずに傷つけていたのだろうなどと、自覚しないままでいたかった。
主も、それが分かっていたのだろう。だからこそ、あの瞬間まで普段通りの笑顔を崩すまいと、していたのかもしれない。
けれども、積み重なった傷の重みに耐えかねて、彼女はもう笑えないと叫んだ。笑って何でもないふりをすることは、できないのだと。
(このことは、審神者の仕事そのものとは関係がない。だから、彼女は新しい刀剣男士を呼ぶことだけはしているのだろうか。あれは、僕らとは言葉を交わす必要のないわけだから)
どんどん、考えは後ろ向きになっていく。底なしの沼に沈み込むように、暗澹とした思考に彼が囚われるより先に、
「きみの行動が、彼女にとって望ましくないものだっとして、きみは改善するつもりはあるんだろう」
鶴丸の声で、歌仙はハッとして顔を上げた。
「……当然さ。相手が嫌がるような言葉を、わざわざ口にしたいとは思わない。ただ、僕には何が原因か、見当がついていないだけで」
だからこそ、主と会ったときに「思ったままの言葉をぶつけてくれ」と言ったのだ。その果てに罵詈雑言を叩きつけられても、己の愚かさを知れるのなら、耐えねばなるまいと心を奮い立たせたのに。
返事は、踵を返した彼女の背中だけだった。
「それなら、後は藤殿がどう出るかだな。一応聞いておくが、きみは藤殿の人格を否定するような発言や、容姿を蔑ろにしたりプライドを傷つけたりするようなことは、言っていないだろうな」
「言うわけがないだろう!! たしかに、少しは説教くさかったかもしれないが、彼女を不当に貶めるような言葉を口にしていない。僕自身の名に誓ってもいい」
「きみは誠実な刀だ。きみがそう言うのなら、間違いないだろうさ」
歌仙は知らない。
自分の発言が、彼女の根幹を――鬼のままでよかったという思いを、真っ向から折ってしまった事実を知らない。
けれども、それは彼でも鶴丸でも想像できない、与えられた一般的な常識という枠から外れた思想だ。何も知らされていない彼が、思いつくことなど到底不可能なものである。
「それなら、藤殿の口が緩むのを待つしかないか」
「ああ。そのつもりなんだが……問題が一つある」
歌仙が言いかけた瞬間、端末に小さく通知が表示される。庭に置かれた空間移動用の装置が起動していると、そこにはあった。それを目にして、歌仙は隠しようもないため息を吐く。
「新しく来た者たちは、主がどうしてああなったのかを知らないんだ。だから、彼女を疎む者もいる」
「まあ、そうだろうな。どれだけ嘗ての藤殿の姿を語ったとしても、新人はその姿を見ていない。彼らが目にしているのは、刀剣男士との関わりを一方的に断った不甲斐ない主だけ。そう言うことだろう?」
「ああ。彼らとも、上手くやっていかねばね。僕は、戻ってきた者の迎えに行くが、きみはどうするんだい」
端末の電源を落とし、歌仙は立ち上がる。鶴丸も、その後を追った。
「なら、俺もそろそろ自分の本丸に戻ろう。主も連れて帰らないとな」
「じゃあ、先に乱の部屋に行こう。そこで遊んでいると、彼は言っていたから」
並び立つ二人は、まず歌仙の部屋からほど近い乱の部屋へと、足を向けた。
***
ぽん、ぽんと宙空を鮮やかな赤の球が飛ぶ。次いで追いかけるように黄の球が、更には藍の球が舞う。
「ほら、お手玉は三つでも意外と簡単にできるんだよ。挑戦してみる?」
小さな球を次から次へと空へ放っていたのは、乱藤四郎だ。彼は今、お手玉を目の前に鎮座している巫女服の子供に教えていた。
その子供とは、少し離れた部屋で歌仙の相談にのっている鶴丸の主こと更紗だった。
主不在によって傾きかけた本丸を支えてくれた人々。その中の一人があの鶴丸国永であり、目の前の更紗だった。
「…………」
口の利けない彼女は、無言でこくりと頷く。乱の渡したお手玉を小さな掌に載せ、えいと投げ上げてみせた。
ぽんぽんと最初は器用に投げてみせるも、ふとした弾みでバランスが崩れ、ぽてんぽてんとお手玉は畳に着地してしまう。
相変わらず彼女の表情は微動だにしていないが、その瞳には僅かな悲哀が滲んでいた。
「えっと……お手玉が難しいなら、おはじきにする? カルタもあるんだよ。それとも、お絵かきの方がいいかな?」
返事の代わりに、更紗は自分が持っているメモ帳を取り出した。ぐりぐりと字を綴り、慌てふためいている乱に突きつける。
『どれも やってみたい でも』
色とりどりのおはじきに、点々と散らばったお手玉。それらから目線を外し、更紗は空色の瞳で本丸の庭を――そのはずれにある建物へと、思いを向ける。
『ふじ まだ もどらない ?』
記された文字を前にして、乱の笑顔に亀裂が走った。艶やかな白いおでこには悲しげな皺が寄り、薄紅色の唇を思わず噛んでしまう。
立ち上がった彼は、開け放たれた障子から春の陽気をたっぷりと浴びている庭を眺めた。
「あるじさんなら、まだいないよ」
同じように緋袴の裾を擦りつつ、腰を上げる更紗。隣に立つ彼女を見ないようにして、乱は続ける。
「ずっと、戻ってきてないんだ。……ひどいよね。ボクの頑張ってる姿を見ていてくれるって応援した矢先に、あんな風に隠れちゃうなんて」
主の話をすると、いつも目の奥がツンと痛くなる。鼻に熱がたまっていき、瞳から感情が溢れて零れ落ちそうになってしまう。
だから隣の子供の顔すら、今はまともに見られない。
「何にも言わないから、何が嫌だったとか全然分からないんだよ。あるじさんの好きなものを見つけて、いっぱいお話もしたかったのに。全部できなくなっちゃって、そんなこと忘れたって感じで閉じこもっちゃってさ!! もう、あるじさんなんて、あるじさんなんて」
知らない――と言えてしまったら、どれだけ良かったのだろう。
服一つ選ぶのにあんなに悩み、戸惑い、子供のように狼狽えていた姿を乱は覚えている。
自分が選んだコートを着た彼女が、歌仙に「似合っている」と言われて、確かに喜んでいたのを、覚えている。
戦果を出せなくて落ち込んでいたときに、慰めてくれた彼女の優しさを、覚えている。
それら全てを突き放して仕舞えたら、どれほど良かっただろうか。
(あるじさんとやりたいこと、いっぱいあったのに)
彼女の笑顔を、守れる刀でいたかったのに。そう願った瞬間から、彼女は彼の届かない所へと行ってしまったのだ。
それは、自分のせいなのではないかと、何度考えたのだろうか。彼女と最後にちゃんと言葉を交わしたのは、乱だったのだ。その予想は、現実味を帯びすぎていた。
だから今は主を一方的に悪者にすることで、乱はどうにか折れそうな心を守っていた。
くいくいと袖を引かれ、乱は足元にいる更紗へとようやく顔を向けた。
『みだれ ふじ きらい ?』
記されたメモを前にして、彼の内側がぐらりと揺らぐ。晴れやかな空に似た瞳から、じわりと滲み始めた涙を、乱は慌ててぐしぐしと拭う。
嫌いかどうか。そんなもの、答えは一つに決まっていた。
「すっごく好きだよ。だからすっごく、怒ってるの!」
何も言ってくれなかったことを。
押し隠して、全部抱えて、消えてしまったことを。
(――そうか、そうだったんだ)
悲しかった。苦しかった。
でも、それだけじゃない。
主が自分の叫びを抱えたまま、内側に閉じこもってしまった。その行為そのものに、自分は怒っていたのだと彼は気が付く。
何故なら、乱藤四郎は主が好きだから。
「あるじさんに会ったら、ボクは怒ってるんだよってわんわん言ってやるんだから! それで、美味しいものを沢山食べて、可愛いものを見に行って、どうだ楽しいでしょって笑ってやる! 決めた!!」
だから、世界に背を向け続けないでと、彼は願う。
あなたがボクへ見せてくれた世界はこんなにも素敵だと、教えて上げたい。その中にはきっと、あなたの『好き』も隠れているから、一緒に探そうと手を差し伸べたい。
新たな誓いを胸に、彼は空を仰ぐ。五月の日差しの眩しさも、この空の青さも、全部全部見てもらうまで、今生まれた熱く弾けそうな思いは消えないだろう。
部屋に近づく足音に気が付いたのは、そんなときだった。
どうやら更紗の迎えが来たようだと、今度こそ乱は顔を整え、部屋の襖を開いた。
ちらりと視界をよぎったのは、一房千切れ飛んだ黒髪。間違いなく、己のそれだ。
舌打ちを打ちつつ、青年は一歩後ろに飛び退る。どうにも、相手の動きを読むのが難しい。ここが地面の上ならば、砂の一掴みでも投げて相手を攪乱するのだが。生憎、ここは道場であり、砂どころか塵一粒落ちているか怪しい。
「そら、今度はそちらから、かかってきてはどうですか」
対する相手は、まだまだ余裕を見せている。これが経験の差というものかと、青年は内心で舌打ちをした。
「その挑発、売ったこと後悔させてやっからな!!」
気炎を上げ、彼は相手に肉薄する。数撃斬り結ぶも、どれも鍔迫り合いにすら持ち込めず、先に相手にいなされる。
対峙する相手は、白い獣のような毛並みに狐色の着物を纏った太刀の刀剣男士だ。その見た目通りと言うべきか、獣のようなしなやかな一撃に、彼はすっかり翻弄されていた。
決めの一手を打てない苛立ちが、彼の攻めを荒くする。
身を翻した相手のほんの僅かな隙を狙い、大上段からの大ぶりの一撃。当たらねばこちらが、隙を突かれる。そして、運命の女神は残念ながら相手に微笑んだ。
まるで誘われるように、或いは踊るように、狐は彼の攻撃を掻い潜る。
(ああ、全く――)
最悪だ。そう思うより先に、敵の武器がこめかみにガツンとぶつかる――寸前で止められた。
「殴りますよ、と言いたいところですが」
狐の刀剣男士は、木刀を下ろす。勝敗は既に決した。試合でこれ以上の戦いは無用と、相手も分かっている。
だが、峰打ち程度でできる怪我ならば、本来問題にはならない。今青年が立っているのは演練の会場であり、審神者は大体演練に立ち会うものである。
だからこそ、多少怪我を負ったとしても、試合相手である刀剣男士の手入れをすぐに行えるので、思う存分力を振るうことが可能――と言えるはずだった。
「やめておきましょう。そちらのぬしさまのおられない時に怪我をしては、困るでしょうから」
「……ふん」
狐の刀剣男士――小狐丸の言葉は、明らかにこちらの事情を考慮してのものだった。かと言って、青年――和泉守兼定の気持ちが素直に感謝へと傾くかと言えば、答えは否だ。
観覧席のスペースには、相手の刀剣男士の主である女性がいる。だが、その隣に座っているはずの、和泉守の主はいない。
席を立っているのではない。そもそも、彼女はこの演練に来ていないのだ。もっと言うならば、今日演練があることすら知らないに決まっている。
その不作法者の名を、彼は苦々しい感情と共に思い出す。
和泉守兼定。とある本丸に八番目に顕現した刀剣男士。
彼の主の名は――藤と、いった。
「お疲れ様、小狐丸。良い試合だったよ! 和泉守さんは大丈夫? 怪我してるようなら、私が手入れするよ」
こちらに向かってきたのは、試合相手の小狐丸の主である女性だ。演練前の挨拶では、たしかスミレと名乗っていたか。
同じ紫の花の名だというのに、自分の主とは大違いだと和泉守は内心で鼻白んだ。相手の審神者を悪く言っているわけではない。むしろその逆だ。
和泉守が鼻白んだ相手は、己の主だった。
「怪我はしてねえよ。それに、オレが怪我したとしても、手入れをすんのはあんたじゃない」
彼が言外に滲ませた意味を感じ取り、スミレの顔は沈痛なものへと変わる。それが益々、和泉守の神経を逆なでした。
あんな主に、そのような顔を見せる価値などないと。
「兼さん、お疲れ様。あとちょっとだったね。はい、これ」
「おう、国広。助かる」
和泉守に声をかけたのは、黒髪に澄んだくりっとした丸みを帯びた空色の瞳を持つ少年だった。紺の縦縞が入ったジャケット、すらっとしたスタイルのズボンという出で立ちは、一目見ただけでは刀剣男士とは気づきにくいスタイルだった。
純朴そうな顔に添えられた深紅のピアスが、彼がただの大人しいだけの子供ではないということを、暗に示しているようにも見える。
少年の名は堀川国広。和泉守兼定という刀に深い縁を持つ、脇差の刀剣男士だった。
自分の本体といえる打刀を彼から渡された和泉守兼定は、慣れた手つきでそれを腰に差した。
「い、和泉守さん。お疲れ様……です」
堀川の後ろからおずおずと姿を見せたのは、五虎退だ。今日は堀川とあわせてこの三人で、演練に来ていたのだった。
「あの……藤さんは、大丈夫なの? ここ最近、全く姿を見ていないのだけれど」
スミレは心配そうに尋ねたものの、和泉守兼定は嫌悪を隠そうともせずに、ふんと鼻を鳴らすだけだった。
「あんな主、あんたのようなちゃんとした審神者が気にすることじゃあねぇ。ろくに顔も合わせねえ、負傷の可能性があるっていうのに、出陣の見送りも出迎えもしねえ」
指を折って数えながら、和泉守は彼女に会った瞬間のやり取りを思い出して、益々眉間の皺を深くする。
「出てくんのは、たまに飯を買いに行くときと顕現をするときだけ。こっちが声をかけても、適当言ってあしらうような奴だぞ? そんなろくでなしにかける言葉なんざ」
「……和泉守さん」
差し挟まれたのは、氷のように冷え切った声だった。それはあまりに鋭く、本物の刃そのものよりも深く、和泉守の言葉に切り込んだ。
今まで聞いたことのない叱責の声音に、和泉守は目を丸くして辺りを見渡しかけた。だが、その正体は彼のすぐ側にいた。
「あるじさまのこと、そんな風に……言わないでください」
普段は怯えた様子ばかり見せる引っ込み思案な少年が、その名の通り、五匹の虎すら退ける眼で和泉守を見据えていた。
思わず、後ずさりしたくなるような殺気が、五虎退から滲んでいる。しかし、和泉守兼定とて、ただここで押し黙るほど弱気な性格ではない。
「オレは事実を言っただけだ。実際、オレは主の顔すらろくに拝ませてもらっちゃいねえ。五虎退が、あの主に何をしてもらっていたのかは知らねえが、主がオレや国広には何もしてくれてねえのも事実だ」
「何かしてもらわないと、認めないってわけじゃないですけれど、でも無視されるのはあまり良い気持ちになれないんです」
和泉守の言い方が乱暴すぎると思ったのか、堀川が傍らからフォローを差し挟む。
彼の言うとおり、何かしてもらわなければ、主として認めないとは和泉守も考えていない。最低限の心配りを向けてもらえれば、和泉守兼定としてもそれで十分だった。
だが、顕現してから、主は和泉守はおろか、本丸の誰ともまともに顔を合わせていない。出陣のための編成を考えもせず、作戦の立案から政府への報告まで全て、初期刀である歌仙兼定に丸投げしてしまっている。
そんな存在に刀を捧げられるほど、和泉守はお人好しでは無かった。
「で、でも……あるじさまは、ずっと悩んでいるんです」
「ハッ、悩んでいたら何もしなくて良いってか?」
「兼さん。そこまでにしよう。五虎退にあたっても仕方がないよ」
険悪な空気が生まれかけた二人の間に、堀川は割って入る。しかし、決して堀川が主の味方をしているわけではないとは、五虎退も知っていた。
「藤さん、そんなに具合が悪いの?」
どこかぴりぴりした空気を纏わせている三人に、それでも物怖じせずスミレは尋ねかけた。
「離れに閉じこもってから……もう、三ヶ月になります。以前も、お仕事が忙しくて、少し本丸を離れていたことはあるのですが……」
「審神者の仕事が嫌になって、逃げ出してるだけだ。あんたが気にするような話じゃない」
「兼さん」
和泉守の棘のある言い方に、窘めるような言葉が堀川からすかさず挟み込まれた。どうにも突っ走りがちで言動や行動も大味になりやすい和泉守をフォローするのが、この堀川の役どころなのである。
「はて。以前お会いしたときは、そのように責任を放り出すような態度をとる方には思えませんでしたが」
声を発したのは、スミレの刀剣男士である小狐丸だ。彼は六月の演練で、藤とは直接出会っていた。彼女は悩みを抱えながらも、一歩一歩前に進もうとしているように小狐丸には見えていた。
やや頼りなさげな部分もあるが、それもまた若さや青さとして見守っていける範囲のものだろう、と。
「あんたが何を見たのかは知らないが、今の主は……ありゃ、ただの死人だ」
穏やかではない和泉守の言葉に、小狐丸もスミレも怪訝そうに眉を顰める。
「死人、ですか」
「ああ。顕現したときの話になるが――」
和泉守は、自分が顕現して最初に眼にすることになってしまったものの記憶を思い出す。
彼が顕現したのは、二月の中旬。まだ肌寒さを厳しく感じる冬のある日、太陽すら昇っていない早朝のことだった。
◇◇◇
翻るは、嘗て自分が活躍した時代の端を彩った浅葱の段駄羅羽織。次いで後を追うのは、夜よりも尚濃い射干玉の黒髪。
だが、女性と見紛うような長髪の持ち主は、やはり一振りの刀を具現化した存在に相応しい剛毅な体つきをしていた。
体を包むは、臙脂色の着物に燃え尽きた灰を思わせる色合いの袴だ。着物に金色で添えられているのは、鳳凰と思しき鳥。それは着物と袴をあわせて、まるで永遠に蘇る不死鳥を想起させる意匠となっていた。
意志の強そうな太い眉の下、薄らと開かれた瞳の色は春の清流と同じ翡翠色。顕現の際に湧き上がる光を反射して煌めいたのは、紅玉と金の耳飾りだった。
「オレは和泉守兼定。かっこ良くて強い! 最近流行りの刀だぜ」
顕現してすぐに、和泉守は威勢良くその名を高らかに響かせる。
だが、返事はない。出鼻を挫かれ、和泉守は不服そうに平らかな額に皺を寄せた。最低限落とした明かりの中、ぼんやりと浮かび上がっている小さな影は、間違いなく主その人だろう。
大きな声に驚いて、腰でも抜かしているのだろうか。彼がそう思いかけた折、
「……ああ、そう」
その言葉が自分への返事だと気が付くのに、和泉守は数秒を要した。それ程までに彼女の声には、こちらに対してまるで興味が無いという意思が、ありありと滲み出ていたのだ。
「おい。あんた、オレの主なんだろう? その返事は何なんだよ、まさか刀剣男士を見るのは初めてか?」
わざと明るい調子で呼びかけてみたのも、あまりに二人の間に漂う空気の温度差が違いすぎたからだ。顕現直後でありながらも、和泉守は主と自分の間に、埋めようのない溝ができていると嫌でも気が付いてしまった。
「ここから出て、廊下の突き当たりに、歌仙兼定って刀剣男士の部屋がある。本丸の説明は、そこで聞いて」
「歌仙兼定? ああ、之定がいんのか」
顕現直後であっても、刀同士に特別な繋がりがあったら、不思議とそこに何らかの感情を見出すことがある。和泉守にとって歌仙兼定という名は、親しいとまではいかずとも、知人程度の感覚は持ち合わせるものだった。
そこで主は初めて、和泉守を見た。その目と向き合い、彼はぎょっとする。申し訳程度につけられた橙の灯りが照らした藤色の瞳は、ガラス玉のように無機質であり、同時に泥のように濁っていたのだから。
「……あんた、大丈夫か?」
「歌仙の知り合いなんだ。じゃあ、丁度いいや。後は彼が何とかしてくれるだろうし」
和泉守の問いを完全に無視して、目の前の主らしき人物はぽつりぽつりと言葉を並べる。その声音ときたら、瞳と違わずまさに死人のそれだ。
干からびた喉を辛うじて動かし、音としたような気力のなさ。こちらを視界に入れている筈なのに、目が合っているとは思えない濁りきった瞳。そして何より、顕現した刀剣男士に対して、彼女はまるで興味を見せていなかった。
歴史を守る使命を帯びて、刀剣男士は呼び起こされる。それは刀剣男士である以上、誰もが理解していることであり、和泉守とて例外ではない。
だからこそ、彼は自分を呼ぶか細い声に応えた。手を取らねば消えてしまいそうな呼びかけに応じた。
だというのに、先ほどからこの態度は何なのか。これが自分の主であると、認めろと?
「じゃあ、それで」
簡潔な別れの挨拶と共に、主である者は踵を返す。
「おい、待てよ! ……あんた、本当にオレの主でいいんだよな?」
和泉守の呼びかけに、彼女の足が止まる。振り返った横顔から見える瞳は、相変わらず暗澹としていた。
「主と思いたくないなら、それでもいいよ。別に、なりたいとも思わないし」
そのとき受けた衝撃は、およそ言葉にできかねる代物だった。
自分の中で燃え盛っていた使命や、新たな姿を得た上でのまだ見ぬ生活への期待が、他ならぬ主によってかき消されかけてしまった。何よりも、主の刀として生まれ出でた彼にとって、主になりたくないと言われることは、想像以上に堪えるものがあった。
主と刀。その関係は彼ら刀剣男士にとって、本能のような事柄なのだから。
「……おい、あんた! 今、なんて言った!!」
去りゆく彼女を追いかけようとして、しかし和泉守は思わず二の足を踏む。生まれて初めて感じた冬の寒さ、そして一寸先も危うい夜の闇は、彼にとって足を踏み留める理由に、十分になり得たのだ。
追いかけることは叶わなかったものの、彼は己の中に萌える怒りの炎を、自覚せずにはいられなかった。
自分が主として認めた者のために刀を振るうのが、刀としての本分だ。なのに、彼はこの世に姿を得た瞬間に、自分が刀を捧げる相手に関わりを絶たれてしまった。
この行き場のない気持ちを、どこにやればいい。生まれた瞬間に己の本質の半分を無下にされてしまったのだと、簡単に認められるわけがない。
そうして、和泉守は怒りとも恨みともつかぬ煮えくり返った感情を抱え、立ち続けていた。やがて、それは四半刻を経て、ようやく一つの形へと収まった。
それは、『主への失望』という形をしていた。
◇◇◇
「……それは、何と申し上げればいいものやら」
話の一部始終を聞いて、小狐丸は難しそうに額に皺を寄せた。聞いている限りならば、使命を帯びて顕現した刀剣男士に向けるには、相応しくない態度としか思えない。
だが、彼は一度既に彼女に会っている。和泉守の話にあったように、顕現直後の刀剣男士を、すげなくあしらうような人だとは、やはり考えにくいものがあった。たった数ヶ月で彼女がそこまで変容しているとも、想像しづらい。
「藤さんは、審神者でいるのが辛いのかな……」
和泉守の語る彼女の様子をもとに、スミレは自分の考えを口にする。審神者であったはずの人が、戦いの重責に堪えかねて辞任するという話は、全く聞かないわけではない。
あくまで噂程度ではあるが、政府がどれだけ情報統制していたとしても、全ての人の口に戸は立てられないのだ。
「なら、いっそのこと、辞めちまえばいいんだ。オレだって、本人がそう決めたんなら否定しねえよ。腹が立つのは、中途半端でどっちつかずのままでいるってことだ」
腰に手挟んだ打刀の柄に、和泉守は乱暴に手をかける。鯉口がすれて生じた金属音は、彼の苛立ちを表しているかのようだった。
「審神者の仕事は放り出しておきながら、審神者という肩書きだけは守りたがる。そんな奴、主なんて呼べるわけねえだろうが」
和泉守の意見はもっともだ。五虎退も堀川も、これには流石に反論する言葉を、持ち合わせていなかった。
「……そうだね。和泉守さんの言う通りだと思う」
スミレもこれ以上は口を挟むまいと、肯定を返した。よその本丸の事情に、審神者としての立場の彼女が不用意に割り込めば、本丸の刀剣男士を奪う気か、本丸同士で抗争を起こすつもりか、と口さがない連中に噂される可能性もあるからだ。
だから、今は喉まで出かかった言葉をぐっと押し込む。
「それじゃあ、藤さんが元気になったら、また一緒にお茶しようって伝言しておいて。無理はしなくていいからって」
和泉守は相変わらず不服そうな渋面を作っていたが、それでもスミレの顔を立てるために小さく頷き返した。
演練が終わり、去って行く三人の背中はどんどん小さくなっていく。完全に彼らが人混みに紛れた頃、スミレは大きくため息を吐き出した。
「……何だか、聞いていて悲しくなるね。藤さん、あんなに頑張ってたのに。いったい何があったんだろう?」
「ぬしさまはお優しいですね。他の本丸の者と競い合う輩も少ないというのに」
「だって、何だか他人事とは思えなくって。私も、色々考えすぎて全部放り出したくなったこと、何度もあるんだもの」
流石に本丸内別居を決め込むほど過激な行動に出てはいないが、審神者であり続けるという自分に漠然とした不安を覚えたことはある。
命の危険に晒されるというのも不安の一つではあるが、それ以上に彼女が不安を感じたのは、共に暮らす刀剣男士の主としての自分の姿だった。
自分が彼らに相応しいのかと、自ら神経をすり減らすような思考に囚われ、どうすればいいかと悩んだことは一度や二度ではない。
こればかりは、純粋に使命を胸に抱き、主に仕える姿を是とする刀剣男士には分かりづらい話だ。人間の気持ちというのは、刀のように一本筋が通ったようにはできていない。
「ぬしさまが、自分の責を放り投げるような方には見えませぬが」
「小狐丸が顕現するより前の話だよ。私は、そのとき皆に相談して助けてもらった。だから、藤さんも自分が抱えすぎたものを皆に少しずつ渡せば、ちょっとは楽になるんじゃないかな」
「ですが、彼らの言葉によると、今の藤殿は顔すら合わそうとしないようです。それでは、相談も何もできますまい」
「……そうみたいだね。大丈夫かな、藤さん」
遠くにいる彼女を思う声は、春の風にさらわれて遠く遠く飛んでいく。
桜の花は、もう既に散ってしまっていた。
***
開け放たれた窓からは、ふわりと柔らかい春の風が舞い込んでくる。灯りをつけずとも、降り注ぐ穏やかな日光のおかげで部屋は十分に明るい。
それら全てが、春の到来を告げるのに相応しいものであるにも関わらず、机を挟んで向かい合っている者たちの顔は一様に暗い。
本丸の中にある一室、歌仙の私室である和室には部屋の主である歌仙兼定と鶴丸国永がいた。机の上には、薄い板のような機械が置かれている。それは、本来主が仕事のために使うために、彼女の部屋に置いていたものだった。
「きみが確認をしてくれるおかげで、書類の再提出回数がうんと減って助かっているよ。鶴丸国永」
「いいってことさ、歌仙兼定。本来は刀の俺たちには、机に齧り付いて書類作成なんて、向いてないんだろうからな」
歌仙の前に座っている鶴丸国永は、藤の本丸の刀剣男士ではない。本丸の主である彼女の友人――更紗の刀剣男士だ。
彼女が本邸から離れて、庭の端にある庵のような家で暮らし始めてすぐ、鶴丸は主不在の本丸運営についてのノウハウを歌仙に教えてくれた。
おかげで、主なしでは滞ってしまいがちの事務仕事や、政府とのやり取りも、どうにか処理出来ている。
「きみは、この手の類の作業が得意なようだが、何かコツでもあるのかい」
「ただの慣れさ。俺は、政府で長らく仕事をしてた時期があるんだ。結果、こういう裏方作業にも慣れちまった」
「なら、僕もいずれ慣れるんだろうか」
「慣れたいのかい?」
「……いや」
歌仙の返事は、歯切れ悪いものだった。歌仙が書類仕事に慣れる――それは、それだけ長く藤が本丸を不在にする、ということでもあったからだ。
漂う重苦しい空気を払拭するように、鶴丸はふっと表情を緩める。
「きみが最初に端末を触った時の様子といったら、あれは傑作だったなあ。藤殿に再会した折のの、いい土産話になるだろう」
からからと笑う鶴丸。だが、彼とは対照的に歌仙の笑みは、どこか虚ろで乾いたものとなっていた。
本丸のこれからを、主のこれからを考える度に、歌仙の心には常に憂鬱な黒雲がかかってしまう。彼の心情を考慮してか、鶴丸も適当な所で笑うのをやめ、一転して真面目な表情に切り替えた。
「……藤殿は、まだ姿を見せないのか」
「ああ。たまに、夜半には出かけているようなんだ。だから、以前寝ずにその時を待って彼女に声をかけようとしたんだが……」
無言で首を横に振る彼の様子から察するに、芳しい成果は得られなかったのだろうと鶴丸は思う。
「きみは、彼女に何と声をかけたんだ?」
「悩んでいることがあるなら、いつでも相談に来てくれ。きみ一人で抱える必要はない。僕らに不満があるのなら、それでもいいから、思ったままを僕にぶつけてくれないか――と」
「…………そうか」
「いったい何と言えば、彼女に僕の言葉は届くのだろうか」
藤が本丸に別れを告げたときの言葉は、今でもはっきりと覚えている。
――ちゃんとできないから、ちゃんと笑えないから、どうしたらいいか分からないから!!
――君達は知らないだろうけどさ、君達と一緒にいるだけで、僕はすっごく疲れるんだよ。皆、無責任に、無邪気に、主様、主様って僕を慕って、その時僕がどんな気持ちになっているかも知らないで!!
どんな気持ちになっているのか、彼女ははっきりとは教えてくれなかった。ただ、彼女の心が軋みを上げて壊れかかっていることだけは伝わった。
――僕が僕でなくなっていってることなんて、知りもしないで!!
それは知らなかった。彼女の言う通りだ。けれども、自分が自分でなくなっているというのは、どういうことを表しているのかも、はっきりと歌仙には分からなかった。
――今は一人にして、一人にさせて。お願いだから。
――ちゃんとした主になれるまで、一人にさせて。ちゃんと、僕に戻りたいから。
彼女は、それでも主でいようとしてくれている。
気にかかるのは、言葉の途中までは明らかにこちらへ嫌悪や否定に連なる感情を見せていたのに、最後はまるで審神者であり続けることへの嘆願のような形へ、変化していた点だ。
彼女の抱える感情は、一枚板ではないのだと歌仙は推察していた。だからこそ、曖昧でもいいからその断片をもっと聞かせてほしいと頼んだのだが、あれ以来彼女は誰とも口を利いていないようだった。
「それでも、顕現は続けているんだろう?」
「ああ、どういう理由があるのかは知らないけれどね。大体一ヶ月に一振りの頻度で、夜中にこっそりと顕現をしているみたいなんだ。無理をしなくてもいいのに」
歌仙は、こんのすけが藤に何を話しているのかを、彼女に教えてもらっていない。適当な頻度で顕現を続けなければ審神者をやめることになるかもしれないと、狐が彼女に伝えているとは、主が本丸に離れる前でも全く知らされていなかった。
「不思議なもんだなあ。審神者の仕事がやりたくないのなら、普通は顕現も止めてしまうもんだがねえ」
「主は、自分がちゃんとした主に戻れるまで待っててほしいと、頼んでいたように聞こえた。少なくとも、審神者の仕事を辞めたいとは言ってない」
「だから、顕現もし続けていると?」
「……そのように、僕は解釈している」
審神者として最低限まだ続けられる仕事が、顕現だった。故に、彼女はこっそりと顕現だけは執り行っているのだと、歌仙は言う。
だが鶴丸は別の視点で、彼女の行動への説明を考えていた。
(刀剣男士たちを否定しておきながら、ちゃんとした主には戻りたいという。つまり、彼女は歌仙たちをどうでもいいとは思ってないというわけだ。そんな人間が、新たな刀剣男士を顕現させて歌仙たちに負担をかけるか?)
刀剣男士の顕現自体は、新しい仲間を受け入れるという点では歓迎されるものだが、今は事情が事情だ。新しい風は、そのまま新しい軋轢を生みかねない。何せ、本丸を支える柱が今は欠落している状態なのだから。
(そうしなければならない理由が、彼女の中にある。今の藤殿が望む状況は孤立だが、同時に審神者であり続けることも望んでいる。孤立している状態は政府から見たら、本丸の運営を放棄しているようにも見える、か)
ならば、政府へのパフォーマンスとしての顕現だろうか。自分は、まだ審神者でいられますよという、力の誇示としてなら順当ではある。
(ただ、精神的に追い詰められている藤殿が、即座にその考えに至るものだろうか。前々から考えていたか、或いは以前から顕現を強要されるような指示でもあったのか?)
ふう、と重たいため息を耳にして、鶴丸は思索の海から己を引きずり上げる。対面している歌仙は、明らかに仕事疲れ以外の気疲れを露呈していた。
「……彼女に、もう主でいなくてもいいと言った方が、いいのだろうか」
「そりゃまた、どうして。こんな状況でも、彼女は主でいたがっているんだろう?」
「審神者の仕事を投げ出した原因は、僕らにあるのだとしたら? 彼女のその言い方は、単に僕たちに気を遣っているだけにもとれるんだ」
「随分と後ろ向きな考え方だな。だが、俺は反対だ」
憔悴しきった様子の歌仙に、鶴丸はゆるゆると首を横に振る。二人の間に出されている菓子の包装を破り、問答無用に歌仙に渡した。
「もし、それがきみの早とちりだったらどうする? きみは、どうにか立ち上がろうとしている人間に、とどめを刺すことになるんだぞ?」
「けれども、僕はどうしたらいいか見当もつかないんだ」
歌仙は渡された小さな饅頭を、口に含む。漉し餡の滑らかな舌触りも甘さも、普段なら美味しいと感じるはずのものだった。なのに、思い出すのは、甘い物が好きだからと茶菓子ばかり食べようとする、主の笑顔ばかりだ。
おやつの時間には顔を見せ、こちらが選んだ茶葉の良さも全くよく分からないようで、蘊蓄を語っても首を捻っていた。それでも、彼女は笑ってこう言うのだ。
「歌仙の淹れるお茶は美味しいね」と。
あの笑顔の裏で、彼女はいったい何を考えていたのだろうか。後悔ばかりが、菓子の味と共に広がって、甘いはずなのに何故か苦さまで感じてしまう。
「僕らの行動は――僕の行動は、彼女にとって望まないものだったのだろう」
髭切が顕現した時と同じだと、歌仙は思う。
知らない間に、自分は誰かを傷つけていた。あの時は、仲間の髭切を。そして今は、もっとも守りたい存在だった主を。
それを認めるのは、ただただ苦しいものだった。最初は、認めたくないと、彼女の勝手さに憤りしか感じないようにしていた。けれども、時が経つにつれて聡明な彼は気が付いてしまった。
(僕は、また間違えていたのだろう。あの時と一緒だ。髭切は笑って流してくれていた。そして、主も)
自分がよかれと思い口にした言葉が、なんてことのないものとして示した振る舞いが、相手を突き刺す刃になっていた。
本音を言うのならば、敬愛する彼女の心を、それと知らずに傷つけていたのだろうなどと、自覚しないままでいたかった。
主も、それが分かっていたのだろう。だからこそ、あの瞬間まで普段通りの笑顔を崩すまいと、していたのかもしれない。
けれども、積み重なった傷の重みに耐えかねて、彼女はもう笑えないと叫んだ。笑って何でもないふりをすることは、できないのだと。
(このことは、審神者の仕事そのものとは関係がない。だから、彼女は新しい刀剣男士を呼ぶことだけはしているのだろうか。あれは、僕らとは言葉を交わす必要のないわけだから)
どんどん、考えは後ろ向きになっていく。底なしの沼に沈み込むように、暗澹とした思考に彼が囚われるより先に、
「きみの行動が、彼女にとって望ましくないものだっとして、きみは改善するつもりはあるんだろう」
鶴丸の声で、歌仙はハッとして顔を上げた。
「……当然さ。相手が嫌がるような言葉を、わざわざ口にしたいとは思わない。ただ、僕には何が原因か、見当がついていないだけで」
だからこそ、主と会ったときに「思ったままの言葉をぶつけてくれ」と言ったのだ。その果てに罵詈雑言を叩きつけられても、己の愚かさを知れるのなら、耐えねばなるまいと心を奮い立たせたのに。
返事は、踵を返した彼女の背中だけだった。
「それなら、後は藤殿がどう出るかだな。一応聞いておくが、きみは藤殿の人格を否定するような発言や、容姿を蔑ろにしたりプライドを傷つけたりするようなことは、言っていないだろうな」
「言うわけがないだろう!! たしかに、少しは説教くさかったかもしれないが、彼女を不当に貶めるような言葉を口にしていない。僕自身の名に誓ってもいい」
「きみは誠実な刀だ。きみがそう言うのなら、間違いないだろうさ」
歌仙は知らない。
自分の発言が、彼女の根幹を――鬼のままでよかったという思いを、真っ向から折ってしまった事実を知らない。
けれども、それは彼でも鶴丸でも想像できない、与えられた一般的な常識という枠から外れた思想だ。何も知らされていない彼が、思いつくことなど到底不可能なものである。
「それなら、藤殿の口が緩むのを待つしかないか」
「ああ。そのつもりなんだが……問題が一つある」
歌仙が言いかけた瞬間、端末に小さく通知が表示される。庭に置かれた空間移動用の装置が起動していると、そこにはあった。それを目にして、歌仙は隠しようもないため息を吐く。
「新しく来た者たちは、主がどうしてああなったのかを知らないんだ。だから、彼女を疎む者もいる」
「まあ、そうだろうな。どれだけ嘗ての藤殿の姿を語ったとしても、新人はその姿を見ていない。彼らが目にしているのは、刀剣男士との関わりを一方的に断った不甲斐ない主だけ。そう言うことだろう?」
「ああ。彼らとも、上手くやっていかねばね。僕は、戻ってきた者の迎えに行くが、きみはどうするんだい」
端末の電源を落とし、歌仙は立ち上がる。鶴丸も、その後を追った。
「なら、俺もそろそろ自分の本丸に戻ろう。主も連れて帰らないとな」
「じゃあ、先に乱の部屋に行こう。そこで遊んでいると、彼は言っていたから」
並び立つ二人は、まず歌仙の部屋からほど近い乱の部屋へと、足を向けた。
***
ぽん、ぽんと宙空を鮮やかな赤の球が飛ぶ。次いで追いかけるように黄の球が、更には藍の球が舞う。
「ほら、お手玉は三つでも意外と簡単にできるんだよ。挑戦してみる?」
小さな球を次から次へと空へ放っていたのは、乱藤四郎だ。彼は今、お手玉を目の前に鎮座している巫女服の子供に教えていた。
その子供とは、少し離れた部屋で歌仙の相談にのっている鶴丸の主こと更紗だった。
主不在によって傾きかけた本丸を支えてくれた人々。その中の一人があの鶴丸国永であり、目の前の更紗だった。
「…………」
口の利けない彼女は、無言でこくりと頷く。乱の渡したお手玉を小さな掌に載せ、えいと投げ上げてみせた。
ぽんぽんと最初は器用に投げてみせるも、ふとした弾みでバランスが崩れ、ぽてんぽてんとお手玉は畳に着地してしまう。
相変わらず彼女の表情は微動だにしていないが、その瞳には僅かな悲哀が滲んでいた。
「えっと……お手玉が難しいなら、おはじきにする? カルタもあるんだよ。それとも、お絵かきの方がいいかな?」
返事の代わりに、更紗は自分が持っているメモ帳を取り出した。ぐりぐりと字を綴り、慌てふためいている乱に突きつける。
『どれも やってみたい でも』
色とりどりのおはじきに、点々と散らばったお手玉。それらから目線を外し、更紗は空色の瞳で本丸の庭を――そのはずれにある建物へと、思いを向ける。
『ふじ まだ もどらない ?』
記された文字を前にして、乱の笑顔に亀裂が走った。艶やかな白いおでこには悲しげな皺が寄り、薄紅色の唇を思わず噛んでしまう。
立ち上がった彼は、開け放たれた障子から春の陽気をたっぷりと浴びている庭を眺めた。
「あるじさんなら、まだいないよ」
同じように緋袴の裾を擦りつつ、腰を上げる更紗。隣に立つ彼女を見ないようにして、乱は続ける。
「ずっと、戻ってきてないんだ。……ひどいよね。ボクの頑張ってる姿を見ていてくれるって応援した矢先に、あんな風に隠れちゃうなんて」
主の話をすると、いつも目の奥がツンと痛くなる。鼻に熱がたまっていき、瞳から感情が溢れて零れ落ちそうになってしまう。
だから隣の子供の顔すら、今はまともに見られない。
「何にも言わないから、何が嫌だったとか全然分からないんだよ。あるじさんの好きなものを見つけて、いっぱいお話もしたかったのに。全部できなくなっちゃって、そんなこと忘れたって感じで閉じこもっちゃってさ!! もう、あるじさんなんて、あるじさんなんて」
知らない――と言えてしまったら、どれだけ良かったのだろう。
服一つ選ぶのにあんなに悩み、戸惑い、子供のように狼狽えていた姿を乱は覚えている。
自分が選んだコートを着た彼女が、歌仙に「似合っている」と言われて、確かに喜んでいたのを、覚えている。
戦果を出せなくて落ち込んでいたときに、慰めてくれた彼女の優しさを、覚えている。
それら全てを突き放して仕舞えたら、どれほど良かっただろうか。
(あるじさんとやりたいこと、いっぱいあったのに)
彼女の笑顔を、守れる刀でいたかったのに。そう願った瞬間から、彼女は彼の届かない所へと行ってしまったのだ。
それは、自分のせいなのではないかと、何度考えたのだろうか。彼女と最後にちゃんと言葉を交わしたのは、乱だったのだ。その予想は、現実味を帯びすぎていた。
だから今は主を一方的に悪者にすることで、乱はどうにか折れそうな心を守っていた。
くいくいと袖を引かれ、乱は足元にいる更紗へとようやく顔を向けた。
『みだれ ふじ きらい ?』
記されたメモを前にして、彼の内側がぐらりと揺らぐ。晴れやかな空に似た瞳から、じわりと滲み始めた涙を、乱は慌ててぐしぐしと拭う。
嫌いかどうか。そんなもの、答えは一つに決まっていた。
「すっごく好きだよ。だからすっごく、怒ってるの!」
何も言ってくれなかったことを。
押し隠して、全部抱えて、消えてしまったことを。
(――そうか、そうだったんだ)
悲しかった。苦しかった。
でも、それだけじゃない。
主が自分の叫びを抱えたまま、内側に閉じこもってしまった。その行為そのものに、自分は怒っていたのだと彼は気が付く。
何故なら、乱藤四郎は主が好きだから。
「あるじさんに会ったら、ボクは怒ってるんだよってわんわん言ってやるんだから! それで、美味しいものを沢山食べて、可愛いものを見に行って、どうだ楽しいでしょって笑ってやる! 決めた!!」
だから、世界に背を向け続けないでと、彼は願う。
あなたがボクへ見せてくれた世界はこんなにも素敵だと、教えて上げたい。その中にはきっと、あなたの『好き』も隠れているから、一緒に探そうと手を差し伸べたい。
新たな誓いを胸に、彼は空を仰ぐ。五月の日差しの眩しさも、この空の青さも、全部全部見てもらうまで、今生まれた熱く弾けそうな思いは消えないだろう。
部屋に近づく足音に気が付いたのは、そんなときだった。
どうやら更紗の迎えが来たようだと、今度こそ乱は顔を整え、部屋の襖を開いた。