本編第一部(完結済み)

 主の部屋を出た歌仙は、彼女の部屋のほど近くにある一室に向かった。それは髭切の部屋だ。手入れ部屋に負傷者全員を入れるわけにもいかず、重傷で動くのも辛い者は今、それぞれの部屋で待機している。彼もまたその一人だ。
 障子を開くと、部屋の真ん中に敷かれている布団がまず目に入る。その側には五虎退が座っていた。途中までとはいえ主に手入れをしてもらった五虎退は、この本丸の中では数少ない動ける刀剣男士だ。

「彼の様子はどうだい?」
「半刻ほど前から、眠ってしまいました。あの……お腹の怪我が酷くて、全然傷が塞がらないんです……」

 五虎退は不安げに言っているが、傷が塞がらないのは何も髭切に限った話ではない。時間遡行軍のつけた傷は、基本的に手入れをしなければ治るものではないのだから。
 人間のように悪化したり、膿んで感染症を引き起こしたりすることがない代わりに、ただただ痛みが続く。本体である刀にも罅や欠けができてしまい、いくら死なないとはいえ、刀としても肉体としても放置していい状態ではない。髭切が本丸に戻ってからほとんど体を横にしているのも、仕方ないと言えるだろう。

「寝ないと会えないだろうからって、言っていたんです。あるじさまが倒れたって聞いてから、凄く心配そうな顔をして……。もしかして、夢の中であるじさまに会いに行っているんでしょうか」
「そうかもしれないね。僕は会ったことがないけれど、彼には彼なりの考え方があるのだろう」

 歌仙は五虎退の隣に座り、眠っている仲間の様子を見つめる。髭切の顔色はそこまで悪いわけではない。この分なら、手入れに来てくれる審神者を待っていても問題ないだろう。

「あるじさま、起きていましたか?」
「ああ。目は覚ましていたよ。自分が倒れた側だというのに、すぐに僕らの手入れをしようとしてね。更紗嬢のことを伝えてから、布団の中に押し込み直しておいたというわけさ」

 わざといつもの軽口のような喋り方をして、歌仙は肩を竦めてみせた。

「あるじさま、きっと疲れちゃったんですね……」
「そうだね。だから僕らが帰ってきたんだから、もう無理をする必要はないと言わなければ」

 疲れているのも、無理をしていたのも、彼らの言う通りではあった。だが彼らの言葉に含まれるのは、単なる肉体的な疲労への心配だった。
 それ以外の見方が、どうして彼らにできようか。

「さて、主が目を覚ましたことを他の皆に伝えてくるよ。五虎退は髭切が起きたら、教えてあげてくれないか」
「わかりました。きっと皆も……安心すると思います」

 五虎退と歌仙は顔を見合わせて、ふっと微笑む。
 主を何よりも案じている彼ら。自分たちの思いが、主を癒やしてくれると信じて止まない彼ら。
 その想いが重荷になっていることなどとは、想像すらしていなかった。


 ***


 辺り一面、灰色だけで構成された世界を彼はひたすら歩いていた。雨のような、灰のような、雪のような、塵のような、何とも形容し難いものがひらひらと空から舞い落ちてきている。
 足の感覚はある。だから、歩いて行ける。
 手の感覚もある。落ちてきているものを掴んだら、触れるよりも先にそれは溶けて消えていった。
 目は無論、機能している。こうして色がついていないということだけは分かるのだから。足音が聞こえているなら、耳も問題ないのだろう。
 だというのに、妙に非現実的な感覚が膜のように彼を覆っていた。体はまるで、凍り付いたように冷たい。数ヶ月前、庭に積もっていた雪というものを想起させるような冷たさだ。

(僕の名前は――)

 以前も似たような世界を歩いていた。あの時は、自分の名前すらよく分からなかった。けれど、今ははっきりと分かる。

(何と呼ばれたいのかと、彼女は尋ねた。僕は髭切と呼ばれたいと答えた)

 それが、揺るがない自分の存在となる。
 ならばもう一つ尋ねよう。彼女とは誰か。
 彼女は、主だ。藤という名の審神者。
 自分は彼女の手によって呼び出され、顕現した太刀。源氏の重宝としての逸話を宿した、一振りの刀の付喪神。鬼を斬り、獅子のように吼え、自分の写しを斬ったと言われた刀。
 そこまで己がはっきりすると同時に、ずきりと腹に痛みが走る。

(少し、無理しすぎちゃったかなあ)

 一歩歩くごとに、両脇腹から不愉快な痛みがじくじくと主張を始める。先だっての戦いで、捨て身の攻撃を仕掛けたが故のものだというのは分かっていた。それでも彼は、歩くのを止めなかった。何故なら、この灰色の世界で目指す物があるような気がしていたからだ。
 崩れ落ちて立ち止まり、何もしないで待っている方がきっと楽なのは分かっている。
 けれども、と彼は思う。
 探さなくては、見つけなければ手遅れになる。それは不安から生まれた予測ではなく、確信じみた予感だった。
 歩き続けて何時間が経ったのだろうか。それとも何分も経っていないのだろうか。不意に、この静かな世界で自分の足音以外の音を、彼は耳にした。

「――っ、ううっ」

 誰かの呻くような声。今にも消えてしまいそうな声だったが、髭切は聞き逃さない。朦朧としかけていた意識を、一気に覚醒の域まで引きずり上げ、彼は走る。

「主」

 たった一言、それだけで彼は駆け出すことができる。
 腹の痛みなど忘れて、彼は走った。
 同時に、今まで何もない空間だったはずなのに、多くの者が、多くの景色が、走りゆく彼の横を通り過ぎていった。そのどれもが、灰でできたようにどこか朧気なものだ。
 本丸の風景。主の部屋。
 歌仙が、五虎退が、物吉が、髭切が、次郎が、乱が、通り過ぎていく。
 更紗という名の審神者が、彼女の側にいる鶴丸が、演練で会った煉とスミレと名乗っていた審神者が、彼らの元に控えていた刀剣男士らが、通り過ぎていく。
 続いて、見慣れない部屋が見えた。四角い箱が所狭しと並んでいる。要るものと記された箱には、主が普段着ている服が詰め込まれていた。要らないものの方には卒業アルバムという名の本が数冊、乱の戦装束のように装飾の多い服が幾つか、ひどく乱雑に置かれていた。

(これは、主が昔いた部屋……?)

 考えるより先に足が動き、灰色の部屋もまた見えなくなる。
 彼の隣を、袴を穿いた優しげな男性が通り抜けていく。あれは、写真で見せてもらった彼女の養父だったか。その少し後ろを、黒い髪をひっつめた女性が。続いて、養父にどこか似た顔立ちの少女が。どれも、写真に写っていた彼女を育てた者とその親戚だ。
 更に続くのは、揃いの服を着た少女達が数名。次いで、以前夏祭りの夢で見た少年が行き過ぎる。その頃には、通り過ぎる灰色の景色はあまりにあっという間に変化するため、髭切の目では追いきれなくなっていた。
 だが、たった一人だけ。彼の目に焼き付いた人物がいた。

(……あれは、主の)

 主によく似た顔立ちの女性。その背後には、体の輪郭も朧気な男性が立っている。
 彼らが消え、そして髭切の足が徐々に限界を迎え始めた頃、ようやく彼は辿り着いた。
 膝を抱えてうずくまっている小さな少女の元へと。腕の中に顔を埋め、黙りこくっている子供の所へと。
 それが誰かを、髭切は知っている。

「主、やっと見つけた」

 本丸に戻っても、主が意識を失ってしまったがために対面することが叶わなかったが、こうしてここでは彼女と会えた。
 だが再会を喜ぶより先に、髭切は思わずその場で足を止めてしまうほどの驚きを目にすることになった。

「うぅ……ひっく、う、うぅ……」

 彼女は、泣いていた。
 髭切は、主が泣いている所を今まで見たことが一度もなかった。髭切だけではない。この本丸の誰もが、彼女の涙を目にしたことがなかった。

「主、どこか痛むの。苦しいの」

 慌てて駆け寄り彼女と向かい合うようにしゃがみこみ、小さな両肩に手をかけて彼女に呼びかける。だが、幼子の姿をした主は、ゆるゆると首を横に振るばかりだった。

「いやだ、いやだよ。いやだ、いやだ、もういやだ」

 ひたすら、壊れてしまったからくりのように彼女は嗚咽混じりに同じ音だけを紡ぎ続けている。

「何が嫌なの、主。僕は主が何を思っているか、ちゃんと聞くよ。主が僕にそうしてくれたように」

 彼女は髭切の声が聞こえたのか、ゆっくりと顔を上げる。大きな瞳にはやはり涙がたっぷりと溜まっていて、丸い頬を零れ落ちていた。
 彼女はまるで髭切を初めて見たかのように目を見開き、小さな唇を辿々しく動かし、

「かみさま」

 ぽつりと一言、呟いた。

「……主?」
「神様、ごめんなさい。嘘つきでごめんなさい。騙してごめんなさい」

 再び彼女はくしゃりと顔を歪めて、わあわあと泣き出す。途方に暮れた髭切は、一体どうしたものかと、ただ彼女を見つめることしかできない。

「ごめんなさい、ごめんなさい。おばさん、ごめんなさい。もう言いません、だから泣かないでください。そんなこと思ってないから、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 髭切ではない誰かに向けて許しを乞いながら、藤は小さな手を伸ばして髭切にしがみついた。されるがままになっていた彼は、彼女の腕がぞっとするほど冷たいことに息を呑んだ。

「お願い、お願いだから、捨てないで。行かないで。もっといたいのに、いると辛くて、分かんなくなって、ごめんなさい。勝手だけど、勝手なんだって分かってるけれど」
「僕はどこにも行かないよ。だから、何が分からないのか教えて。大丈夫だから、離れたりしないから」

 自分の腕の中にいる、今にも消えていきそうな、か細い存在に彼は手をそろそろと伸ばす。
 だと言うのに、彼女は髭切の言葉を聞いた瞬間、ぴたりと泣くのを止めた。その幼い顔を緊張で強張らせ、ぶんぶんと首を横に振る。髭切に触られるのを嫌がるようにじたばたと暴れ、離れた方がいいのかと髭切が迷った隙を縫うように、少女は彼の腕から飛び出していった。丁度彼の側から数歩分の距離を置いて恐る恐るこちらを見つめる姿は、まるで手負いの獣のようだ。
 少女の瞳に混ざっている感情を形容する言葉を、髭切は持ち合わせていなかった。不安、或いは期待、だが失望が顔を覗かせ、同時に苦悩が垣間見える。
 どうしたものかと髭切が彼女を見つめていると、ざくり、と地に積もる灰を踏みしめる足音がした。それは、幼い彼女のすぐ後ろからした。

「……主」

 彼のよく知る姿をした、成長した藤の姿がそこにあった。けれども、髭切は彼女の姿を見ても全く安心することができなかった。
 背筋に寒気を覚えるほど、大人の藤が見せている笑顔の仮面は完璧すぎる。一分の隙も無く、まるで人ではないかのように無機的な笑顔を前に、どうして安心などできようか。
 その彼女は幼い自分にずかずかと歩み寄ると、幼子の前髪をむんずと掴んだ。そのまま小さな体をつるし上げ、悍ましい笑みと共に声をあげる。

「だからさ、刀剣男士だからって期待するのは、もうやめようって決めたじゃないか。諦めようって何度も言ってるじゃないか。おばさんは僕に何て言った? 施設の人は僕になんて言った? 忘れたの?」

 普段の主からは想像できないような、人を見下すような嘲弄に、髭切は思わず踏み出しかけた足を止めてしまった。
 あれは、いったい主なのか。自分自身とはいえ、泣いている子供を虐げているあの姿をしている者が?
 幼い主の方は、まるで人形のように動かない。ただ、首だけが縋るようにこちらを見ようと、ぎこちない動きを見せていた。だが、すかさず成長した彼女の嘲るような声が飛ぶ。

「よりにもよって、彼らに頼るの? 君が一番騙してきた優しい神様たちを?」
「僕らは主に騙されてなんかいないよ」

 反論せねばと口を挟むも、大人の主はこちらを見下すような笑みを顔に浮かべるだけだった。

「何も知らない綺麗な神様は黙ってなよ。人の気も知らないで、耳障りのいい事ばかり口にして。神様ってだけで、何しても善人扱いされるんだから羨ましいよ。ああ、僕は君達が羨ましい。凶器なのに、綺麗だなんて言ってもらえるんだから」

 流石にこの物言いは、髭切の苛立ちに火をつけた。
 ずかずかと大人の主に歩み寄ると、彼はぐいと幼い主の方の体を奪い取る。意外にも、あっさりと大人の主は小さな自分を引き渡した。

「神様。私は、どうしたらいいの」

 子供の主は、髭切にしがみついたまま尋ねる。涙こそ浮かんでいないものの、その声は未だ嗚咽混じりで濡れたものだった。

「どうしたらいいのか、分からないの。笑わないといけないのに、笑えなくて。皆といたいのに、いたくなくて、好きなのに嫌いで。頭の中、もうぐちゃぐちゃで」
「…………主」
「ちゃんとしたいのに上手くできなくて。信じたいのに、信じられなくて。逃げたいのに、逃げたくなくて。もう全然分からない。私が分からないの」
「ねえ、主」

 彼女の言葉はあまりに抽象的すぎて、髭切にはその意味の半分も伝わってきていなかった。
 けれども、彼女が何かに悩んでいる事実だけは十分すぎるほど彼にも分かった。その悩みを、矛盾を押し殺して、彼女は笑っていたのだと理解した。自分の中で整理できない感情を、全部笑顔に包んで隠していたのだと悟った。
 彼女のあり方は顕現したときの自分と同じものだ、と髭切は知る。怒りという形を得ても尚、表せなかった想いの全てを笑顔の下に埋めてしまった自分と、彼女はやはり似ていたのだ。

「僕は、主がどうして苦しいのか分からない。何が主を傷つけているかも知らない。何で、主が僕の探している笑顔を浮かべてくれないのかも分からない。だから、ちゃんと考えてみる。君の心を、想像してみるよ」

 まだ答えは、全く見当もつかないけれど。
 彼女が、髭切の逸話から目の前にいる刀剣男士の黒い想いを解き明かしたように。自分だって彼女の中に凝るものに名を与え、解き明かしていきたい。

「答えが出るまで、主は待てるかい?」

 幼い彼女は目を伏せ、ゆるゆると首を横に振る。もうこのままの状態では待てないと、彼女は示していた。
 だが、主の答えは彼には予想できたことだった。もとより、あの凍り付いた笑顔を浮かべさせたままでいたいとは、彼も思っていない。
 秋の日差しと湖のような青の中で浮かべていた、あのリンドウ畑で目にした笑顔は、恐らく彼女の内側にあるものを全て解き放った先に隠れている。

「だったら、今は主の好きにしていいよ。答えを見つけたら、僕が主を探しにいく」
「……いいの、本当にいいの?」
「うん。主のどんな願いも、僕が叶えるから」
「それなら、お願い」

 彼女は手を伸ばし、髭切の首にしがみついた。
 瞬間、幼い彼女の体は髭切のよく見知った大人の姿へと変わる。肌へと伝わる熱は、最初に触れたときより幾ばくか暖かくなっていた。
 彼の首元に顔を埋め、彼女は囁くように呟く。その声を、髭切は聞き漏らさなかった。

「お願い。私を、助けて」


 ***


 バチン、と何かに弾かれたような衝撃と共に、髭切は目を覚ました。さながら、今まで繋がっていた糸が無理矢理引っ張りすぎて、引きちぎれたかのような感覚だ。
 同時に、彼は確信する。
 主との間にあった、あの繋がり。夢を見たり感情の反響が響いていたりするものの、既に薄くなりかけていた繋がり。
 あれが、ついに断たれてしまったのだ、と。

(主は?)

 最後に見た夢の中での光景が、今の主の心中を映し出しているとするのなら、彼女は助けを求めている。
 体を勢いよく起こすと同時に、脇腹に走った激痛に髭切は顔を歪ませた。思わず手を伸ばせば、簡素な寝間着越しでも包帯が巻かれているのが分かる。まだ塞がっていない傷が、ずきずきと嫌な主張をするが、構わずに彼は立ち上がった。
 行かなければならない。
 どこへ向かうかも決めずに自分の部屋を出ようとしたとき、髭切が手をかけるよりも先に、バンっと音をたてて障子が開かれた。

「歌仙、いったいどうしたの」

 眼前に立つ彼――歌仙兼定の顔は、穏やかとは程遠い。歌仙は髭切が起きていることを意に介さず、彼の寝ていた部屋に素早く視線を送った。

「主は、ここには来ていないかい!?」
「来ていないよ。彼女は今どこに?」
「それはこっちが聞きたいくらいだよ。いないんだ、部屋に。本丸中を今探し回っていて、きみの部屋が最後だったんだ」

 歌仙の背中越しに見える窓からは、白み始めた空があった。彼が言うには、明け方になって主の様子を見に行くと、そこにはもぬけの空になった寝台があったのだという。だが、彼女は今起きられるような体調ではないはずだ、と彼は主張した。

「本丸のどこにもいない。でもどこか遠くに行けるような状況ではない……」

 歌仙が告げた内容を整理しながら、髭切は夢の中の彼女の様子もまた思い出す。
 笑わないといけないのに、笑えなくて。
 皆といたいのに、いたくなくて。
 好きなのに、嫌いで。
 逃げたいのに、逃げたくなくて。
 それなら、彼女は自分たちの側にはいないだろう。けれども、遠くにも行かないはずだ。
 そこまで考えて、髭切はある一つの場所を思い出した。
 顕現した直後の彼が迷い込んだ場所。冬の間、一ヶ月ほど主が閉じこもって仕事をしていた場所。それは本丸に遠くて、けれど本丸の外では無い場所だ。

「離れだ」

 言葉にすれば尚のこと、彼女の逃げ込む場所としてこれ以上無いくらい相応しい場所に思えた。
 結論を出せば、後は行動だけだ。髭切は寝間着姿に裸足のまま、歌仙の横を通り抜けて冬の庭へと足を下ろした。
 日は姿を見せかけているとはいえ、吹き付ける冬の風はお世辞にも暖かいとは言えない。それでも、構わずに彼は足を動かす。走って、走って、蔦が絡み合うようになっているアーチ型の門をくぐり抜け、彼はそこへと辿り着いた。
 周囲を木々で囲まれているここは、お世辞にも日当たりがいい場所ではない。長く伸びた影が建物をすっぽりと覆っており、まるで大きな生き物の口に呑まれたような不安を来る者に与える。
 けれども髭切も、後を追ってやってきた歌仙も、その程度で怯むようなことはない。髭切は迷わずに玄関の取っ手に手をかけ、動かそうとした。だが、ガタガタという音と下がりきらない取っ手の感触が、どんな言葉よりも雄弁に拒絶を語っていた。

「……主は、本当にここに?」
「うん。人の気配がしている」

 目で見たわけではないが、ここに向かうときに降り積もった落ち葉を蹴散らした足跡があった。それに、普段なら静まりかえって生き物の気配がしないこの家に、確かに何かの気配がある。恐らく、それが主で間違いないだろう。
 歌仙と髭切が顔を見合わせていると、次いでざくざくと落ち葉を踏みしめる別の足音が響く。見れば、そこには五虎退、物吉、次郎、乱が揃ってやってきていた。

「あるじさん、いなくなっちゃったって聞いてたけど……もしかして、ここにいるの?」

 乱の言葉から察するに、歌仙が彼らにも捜索を依頼していたのだろう。こくりと頷くと、乱は安堵した表情を見せた。
 しかし、後ろに立つ次郎の表情は険しいままだ。物吉も五虎退も、不安げな様子を隠せずにいる。

「どうして、こんな所でかくれんぼなんてしているの? あるじさん、まだちゃんと寝てないと歌仙さんが心配するよ」

 乱だけが――まだ主と深く関わっていなかった彼だけが、主に期待を寄せてもらったと思うことができたが故に、躊躇無く扉へと近づいた。だが、彼がどれだけ取っ手を捻っても動く様子はない。

「ねえ、乱」
「あるじさん、鍵かかってるよ。これじゃ入れないよ」

 髭切が声をかけ終わるより先に、乱はトントンとノックをする。
 不気味なほどの沈黙が、辺りを支配した。
 再びノックの音。乱の呼びかける声に続いて、今度は歌仙も声をかける。

「主、急にどうしたんだい」

 呼びかけながらも、歌仙は薄ら感じていた。
 これは、別に何も急なことでも何でもないのでは、と。
 自分にとって、ある程度予想ができていたはずのことなのではないか――と。
 そして、返事はあった。

「……やめて」

 くぐもった声が、ドア越しに響く。
 扉の鍵よりも尚はっきりとした拒否に、歌仙は、その場にいる皆は、かける言葉をすぐに見つけられなかった。
 その間にも、弱々しく震える彼女の声が言葉を紡ぎ続けていく。

「来ないで。今は、来ないで」
「……訳も聞かずに、拒絶だけされて帰れるわけがないだろう。一体どうしたんだい」

 それでも何か言わねばと、諭すように、それでいてどこか厳しさの残る声で歌仙は問いかける。
 だが、応じる声も徐々に熱のこもったものへと変じていく。

「来ないでよ、お願いだから今は来ないで!! ちゃんとできないから、ちゃんと笑えないから、どうしたらいいか分からないから!!」

 苛烈さの滲んだ声に含まれていたのは、拒否だけでは無い。
 そこには、隠しきれない嫌悪があった。

「君達は知らないだろうけどさ、君達と一緒にいるだけで、僕はすっごく疲れるんだよ。皆、無責任に、無邪気に、主様、主様って僕を慕って、その時僕がどんな気持ちになっているかも知らないで!! 僕が僕でなくなっていってることなんて、知りもしないで!!」

 今まで、距離を感じる瞬間はあった。
 少し遠ざけられているように思う一瞬はあった。
 だが、ここまではっきりと壁を作られたことは、一度もなかった。明確に嫌いだと言われたのは、彼らにとって初めての体験だった。だからこそ、この叫びは彼らにとって、ただの叫び以上の意味を持つ。どんな鋭い刀よりも深く、彼らの心を穿つ。
 燃え上がった炎が急に消えたように、ぷつりと言葉が途切れる。五虎退の息を呑む小さな声すら耳に届くほどの、恐ろしいほどの静寂。通り過ぎた風が離れの窓ガラスをガタガタと揺らし、それが合図になったように再びドアから声が響いた。

「……今は一人にして、一人にさせて。お願いだから。ちゃんとした主になれるまで、一人にさせて。ちゃんと、僕に戻りたいから」

 先ほどまでの泣き叫ぶような声が嘘のように、その声は震えてか細いものだった。そんな声を突然耳にした者たちは、かける言葉など見つけられるわけがなかった。
 だが、彼女の叫びを聞いたことがある者だけが一歩、前に出た。

「それが、今の主のやりたいこと?」

 重苦しい空気を破り、髭切は問う。追い詰めるのでもなく、慰めるのでもなく、ただ淡々と問いかける。
 再度の沈黙。やがて、

「……うん」

 という、くぐもった声だけが返ってきた。

「分かった。なら、今はそれでいいよ」

 彼女が発した拒絶の中に含まれた意味を、彼はまだ知らない。
 だから、考え続けなければならない。その答えを知らなければ、物理的にいくら外に引きずり出しても、彼女はまた壊れていくだけだ。

(あの演練の日、三日月宗近は言った。僕らに後悔をしてほしくないと)

 主の気持ちが揺れていることに気がつきながらも、笑顔を探さねばと思いながらも、結局自分の思考はそこで止まっていた。
 彼女が笑顔の面をつけているのは分かっていても、その面を生み出した大本の理由を髭切は知らないままだ。
 春になれば彼女の好きな花をともに咲かせよう、と種を送った。そんな顔で笑わないでほしいと、彼女の頬を伸ばした。いつか変わってくれるとを願い、いつか共に行ける日が来ることを祈った。
 けれども、それでは駄目だ。

(後悔して、ここで終わりにはしない。だって、まだ主はここにいる)

 信じたいのに、信じられない。
 逃げたくないのに、逃げたい。
 相反する気持ちの裏側には、確かに自分たちに寄せられた彼女の想いがあった。主が刀剣男士たちを拒絶したという眼前の光景が現実であると言うなら、ここに留まりたいという願いもまた事実なのだ。
 その心を、彼は信じていた。自分の半身の代わりになると、寄り添ってくれた彼女の心を、彼は信じていた。

「主はここにいてもいい。僕らに会いたくないなら、今は会わなくてもいい。でも、僕はまたここに来るよ。主一人だと、きっと寒いだろうから」

 彼女が自分の半分を名乗るのなら、自分だって彼女の半分だ。なら、共にいるのが当たり前だろう。
 傍らにいない弟を思った自分は、言葉にし難い欠けを抱え、その空虚さを苦しいと感じた。そんな思いを、彼女にはさせたくない。

「……ごめんなさい」

 返ってきたのは、謝罪の言葉だけ。それ以上は歌仙が何を言っても、五虎退がどんな声をかけても、扉の向こうから返事はなかった。
 やがて、ようやく口を開いた次郎に促され、彼らは本丸へと戻っていった。


 後ろ髪を引かれるように何度も振り返る五虎退の後ろ、最後に残った髭切は、アーチ状の門を潜るとき、ふと背後を振り返った。
 ざわりと、朝日に照らされた木々が揺れている。切り絵のように伸びた枝を背景に、そこに誰かがいた。

「…………」

 瞬きをした瞬間、それはすぐに消えた。だが、髭切は確かにその姿を目にした。
 朝日と同じ、朱に染まった長い髪を揺らした誰か。逆光で顔までは見えなかったが、明らかに異様な気配を纏った何か。
 恐らく、それは主が夏祭りで魅入られ、正月に再会したあやかし。更紗という審神者についてきていた狐のあやかしが忠告していた、主に取り入ろうとしている者だ。

「君の好きにはさせないよ。主を、これ以上遠くへは行かせない」

 琥珀色の双眸を眇め、彼は誰も居ない空間へと呼びかける。答えの代わりのように、ざわざわと枝の揺れる音だけがいつまでも響き続けていた。


 ***


 他の本丸の審神者が、手入れを手伝うということは本来そうある話ではない。だが、友達の本丸の刀剣男士に、主が倒れたという話を聞かされれば、何かしてあげたいと思うのが更紗という少女だった。歌仙兼定に頼まれ、手入れのための道具を一式携えてやって来るのに、そう長い時間は彼女には必要ではなかった。
 けれども、以前と同じように鶴丸国永を連れてやってきた更紗は、表情が凍り付いてしまっているはずの顔が思わず動いてしまうのではと思うほどの驚愕を覚えた。

「おいおい、こりゃあ一体どうしたんだ?」

 迎えにやってきた歌仙兼定の顔を見て、鶴丸がそう言うのも無理もない。歌仙の顔ときたら、まるで主が死んでしまったのではないかと錯覚するほど、暗く沈んだものだったからだ。

「きみたちの主の具合は、そんなに悪いのか」
「主は」

 歌仙の声は、震えを押し殺そうとして隠しきれず、不確かに揺れたものになっていた。あたかも、これから告げる言葉を口にすることすら恐れているかのように。

「……主は、僕らに『来るな』と言った」
「一体そりゃ、どういうわけだ」

 その言葉だけでは何が何だか分からなかったが、どうにも何やらまずい事態になっているらしいとは、鶴丸にも伝わったようだった。未だ動揺が収まりきらない歌仙を宥め、更紗と鶴丸は本丸へと足を踏み入れる。
 以前来たときから感じていた、歯車の僅かな食い違い。それがどうやら致命的なものになっているらしいとは、言葉にできずとも更紗は察していた。恐らく鶴丸もそうなのだろう。整った横顔には、さすがにいつもの笑顔がない。
 普段は食事に使われているらしい、広々とした居間に二人は通された。傷ついた刀剣男士たちが、あちこち所在なさげにそこに座っている。
 更紗は早速彼らに駆け寄り、自分の力を注ぎ始めた。その間に歌仙がぽつぽつと語ることを、来訪者の二人は頭の中で整理していく。

「つまり藤殿は、きみたちと一緒にいるのに疲れたから、少し休ませてくれと言ったわけだな。審神者の仕事ができるような状態ではない、と」

 歌仙は、無言で頷く。
 彼らの様子を見て、鶴丸は内心で「遅かったか」とため息をついていた。クリスマスの話をした時点で、どうやら本丸の要である主の精神状態が十全ではないと彼は悟っていた。彼らと主の関係を修復するための潤滑油になればと、彼の本丸で行っている行事についてあの時は話したのだが、最早その程度の交流ではどうにもならない部分で亀裂が生じていたらしい。

「たとえ自分がどれだけ辛かったとしても、手入れぐらいはするべきだと俺は思うけれどな」
「あるじさまは、お体の具合が良くないようだったんです。……手入れの後は、いつもよく休んでいましたから」
「それでも、きみたちをこんな状態で放り出していい理由にはならないだろう」

 鶴丸としては当然のことを言ったつもりだったが、刺すような視線を感じて彼は思わず口を噤んだ。視線の元には、臆病で優しい性格の刀剣男士と評されることの多いはずの五虎退が座っていた。
 どうやら自分は虎の尾を踏んでしまったらしいと悟った鶴丸は、それ以上彼女を批難するような発言は口にしなかった。

「……それで、歌仙兼定。きみはどうするつもりなんだ?」
「どう、とは」
「きみが最初の刀剣男士なら、主が折れた以上この本丸の頭はきみが務めるべきだろう。もし、きみがあの主を不要だと思うのなら」
「思うわけがないだろう、鶴丸国永。主があの場所から姿を見せてくれるまで、僕はここを守り続ける」

 鶴丸に問われるまで不明瞭だったはずの未来が、彼の挑発に乗せられるように反論をしたことで、歌仙の中でよりはっきりとした。
 主が戻るその日まで、いつも通りの本丸を維持する。
 彼女がいなくても、彼女が選んだ自分がいる。彼女が呼んだ者たちがいる。ならば、彼女が帰る場所を守り続けるのが自分たちの役目だ。丁度、戦場から戻る刀剣男士たちを、主である彼女が待ってくれていたように。

「そうかい。まあ、乗りかかった船だ。できる限りの手伝いはするさ。主が倒れた際に本丸をどう切り盛りするかについては、俺の方が詳しいだろう。後で色々教えてやる」

 鶴丸は気楽な調子で歌仙に片目を瞑ってみせた。
 少しでも彼の肩の荷を下ろそうとする鶴丸の気遣いに気がついてか、歌仙も強張っていた表情を僅かにだが緩めた。



「ちゃんとできないから、笑えないから来ないで、か。別にそこまでちゃんとしなくてもって、アタシは思うんだけどね」

 更紗の手入れを受け、痛みがなくなった次郎は、調子を確かめるように腕をぐるりと回して見せる。同時に彼が呟いた言葉に、更紗はいつもより多く瞬きをしてからメモを取り出して文字を綴った。

『ふじ わらえない いったの ?』

 次郎と、彼の側にいた髭切は同時に頷く。メモを下ろした彼女は、俯いてそれ以上何か書こうとはしなかった。自身も十分に笑えないとはいえ、笑顔を失ってしまったという友達に思う所があるのだろうと、次郎は更紗の頭を優しく撫でる。
 すぐに次郎は立ち上がり、鶴丸と話し込んでいる歌仙の元に行ってしまったので、更紗が顔を下に向けたまま唇だけを動かしていることには気がつかなかった。
 だが、髭切は見ていた。小さな花弁のようなそれが、声無き声で『よかった』と言っているのを。

「……良かったっていうのは、どういう意味?」

 低く押し殺した声で尋ねられ、更紗は弾かれたように顔を上げる。慌てたように彼の側に駆け寄った彼女は、傷ついた彼の脇腹に手を添えながら、唇だけをゆっくり動かした。

『わらえない けど わらわないといけない それ つらい』
「……そうだね」
『くるしい いうの むずかしい いえたなら きっと とても がんばった』

 棘のように突き立てられた言葉の表面的な意味があまりに辛辣だったもののため、乱も物吉も、歌仙ですらもその衝撃から立ち直るのに精一杯で、彼女の言葉の真意を考えるには至っていなかった。
 だが更紗には、彼女が叫んだ言葉の一つ一つが、夏祭りに会った頃から彼女が口にしたかった言葉なのではないかと感じていた。泣きそうな顔になりながらも、大丈夫だと笑っていた彼女が抑えていた感情。その一つ一つが、いっときに吹き出したら。

(きっと、急に沢山の気持ちが溢れて、気持ちをぶつけられた歌仙たちも他の皆も訳が分からなくて、でも、藤ももっと分からなくて、苦しいと思う。どっちも、同じくらい苦しいと思う)

 その苦しさを取り除けるのは自分では無いと、更紗は感じていた。そして、彼女の苦しい部分を取り除く者なら、既に自分の隣にいる。

「主は頑張ったのかもしれないけれど、僕はここで終わりにはしたくないな。どうして、主があんな気持ちを抱えているのか。どうして、仮面をつけてしまっているのか。もう、どうでもいいものじゃなくなってるんだ」

 何か知らないか、と言わんばかりに視線を向けられたが、こればかりは更紗にも分からない。ふるふると首を横に振り、その答えの代わりに、彼女は自分の中でもっとも大事だと思うことを言葉という形にする。

『おもいは ことばにしなきゃ つたわらない』

 苦悩を叫ぶことも言葉なら、絡まり合った懊悩を解くために必要なのも、また言葉なのだと彼女は思う。たとえ、自分が一文字も音にできなくても。

『かたちにしなければ きもちは わからない』

 ただ黙っているだけでは、伝わらない。
 ただ待っているだけでは、変わらない。

『そのために ことばが あると おもう』

 更紗はすっかり癒えた髭切の体に手を触れ、祈るように小さく唇を動かす。

『ふじの ことば わたしも ちゃんと きいてみたい』

 夏祭りの時に転んだ自分に差し伸べられた手の温かさを、更紗は知っている。雪遊びをしている自分を見守っている瞳の暖かさを、彼女は信じている。それに何より、初めて会ったとき、見ず知らずの自分に髪飾りを譲ってくれた優しさを、彼女はずっと覚えていた。
 それは、きっと更紗が自分の刀剣男士たちに与える温もりと同じもので、だからこそ藤も己の刀剣男士に同様の想いを向けているはずだということは、誰よりも審神者であるが故に彼女は理解していた。
 たとえ、側にいたくないと言っていたとしても。
 たとえ、今は会いたくないと拒んでいたとしても。

『ひげきり ふじを さがして くれる?』
「君に言われずとも、僕はもとよりそのつもりだよ」

 それが、彼女の喜びに繋がるのならば。彼女の本当の笑顔に繋がるのならば。どんな戦よりも困難なものだとしても、挫けることはないだろうと髭切は思う。
 夢の中で、彼女は答えが出るまで今のままで待つことはできない、と既に示していた。だから、好きにしていいと彼は言った。故に、彼女はようやく仮面を外し、逃げ出すという形で、不完全ながらも自分の気持ちを表してみせた。
 ならば、次はその仮面の下で流される涙の意味を、理由を、問い続けなければならない。考え続けなければならない。
 何故なら、自分は彼女の半身なのだから。彼女が苦しんでいる理由を探すと、約束したのだから。

『かせん ほんまる まもる ひげきり ふじ まもって』
「うん」

 更紗は小指を立て、ゆっくりと髭切に振ってみせた。
 幼い娘の仕草を見て、彼の心に一ヶ月と少し前にした雪の日の約束が蘇る。
 主の誕生日に、藤の花を共に見よう。
 彼女の故郷へ訪れよう。
 ――そう、契った約束を。

「……僕は、約束を破りはしないよ」

 そして、破らせるつもりもない。
 琥珀色の双眸に浮かんだ決意は、決して揺るがぬ誓いの火となり、彼の中で燃え続ける。
 答えを見つけ出す、その日まで。


 ***


「最悪だ……」

 硬い畳の感触を後頭部で覚えながら、離れの小さな部屋で何度目になるか分からない『最悪』を口にする。
 最悪なのは、歌仙たちのことではない。自分のことだった。
 袋小路に追い詰められ、子供のように泣きじゃくる夢を見た。都合の良い救い主がまたやってきて、手を差し伸べてくれる幻想に、心が揺れた。
 だから、ちゃんとしろと自分を叱咤しようとした。夢に逃げ込んでいる場合ではないぞ、と駄々っ子の自分を怒るつもりだった。
 でも、そう思った矢先に。歌仙のあの言葉を思い出してしまったから。
 手入れは更紗がしてくれる。じゃあ、もう自分は必要ない。そんなつもりはないとわかっているのに、そんな風に聞こえてしまった。
 ひどい被害妄想だ。ただ、彼はこちらを気遣ってくれていただけだというのに。分かっているのに、心が止められなかった。あの瞬間、自分を辛うじて引き留めていた何かが、音をたてて壊れた。
 そして都合のいい幻覚は、逃げたがる自分にこう言った。
 好きにしていい、と。どんな願いも叶えてあげる、と。
 だから夢だと分かっても、しがみついて願った。
 助けてほしい、と。
 この、まとまらない黒々とした感情から、どうか助けてほしい、と。

(だけど結局それは夢に過ぎなくて。でも、僕はもう耐えられなくて)

 目が覚めれば、甘い幻想は当然消え失せている。だが、一度緩んでしまった心の手綱を、しっかりと引き締め直すこともできなかった。
 気がつけば、携帯用の端末と上着をひっつかんで、彼女は縁側から外に出ていた。本当はそのまま、外に飛び出そうとするつもりだった。目的地などなかったけれど、それでもここから離れたい思いがあった。
 しかし、同時に心が急ブレーキを踏んだ。

(なのに、僕はやっぱり皆の側に居たくて。他の誰かに本丸を明け渡すとか、譲るとか、できなくて)

 無茶苦茶な、矛盾だらけの願いだ。
 皆の側にいるのなら、常に笑顔を作って朗らかな空間を作り出しているような、良き主を演じ続けなければならない。自分の信条も、考えも、全て心の奥底にしまい込まなければならない。
 気持ち悪いという嫌悪に共感し、可哀想という憐憫を受け止め、望んでもいない親切をそのまま受け止め続けなければならない。
 なのに、彼らが好きだという気持ちが、消えてくれない。
 皆に主と呼ばれていたい。笑顔を向けてほしい。好かれていたい。
 ――彼らを、好きなままでいたかった。
 身勝手で、無茶苦茶な二律背反。ひどい偽善者ぶりに自分でも吐き気すら感じる。それでも、その願いを捨てきれなかった。
 門に向かっていたはずの足はいつしか離れへと向けられ、彼女は小さな暗がりに体を滑りこませ、ようやく安堵の息を吐き出した。瞬間、体から一時的に消え失せていた疲労が再び重く体にのし掛かり、そこで彼女は一度意識を失い――そして、彼らの声で目を覚ました。

「ひどいこと、言っちゃったな……」

 嫌われたくないと言った側からこれだ。
 彼らを前にしたら、きっと自分はまた自分を見失う。もう、それには耐えられないと思った。限界まで引き絞られた弓の弦が弾けて切れてしまうように。ぷつんと何かが切れてしまう。
 故に、頑なに彼らを拒んだ。理路整然とした建前だけの説明すら作り出す余裕もなかった。

「どうして、こんなことになってしまったんだろう」

 今度は、何かを変えられると思った。うまくできるのでは、と夢を見た。
 養父母の前では変えられなかったことが、学校の先生や同級生の前では取り繕ってしまった自分が、今度こそありのままの考え方を受け入れてもらえるのではと願った。
 どこから、歯車が狂ってしまったのだろう。
 ――自分が穢れているとわかってから?
 いいや違う。その前から、自分は彼らに対して言葉にできない苦しさを覚えていた。
 ――自分が鬼だと皆にわかってしまった時から? 
 いいや、それも違う。髭切に斬られそうになり、主は鬼ではないと真っ向から自分を否定された。だが、同時にどこかで自分はそれを納得していた。予想できてしまっていた。

「ああ――そうか。あの時か」

 時間遡行軍を初めて目にして帰ってきた日。五虎退は、こう言っていた。

『鬼、みたいでした』
『まるで、食べられてしまいそうで、怖かった……です』
『でも、歌仙さんが、やっつけてくれました! すごく、かっこよかったんですよ』

 五虎退は、敵を鬼と表現した。それを怖いと表した。やっつけることが、善いことだと語った。だから、覆すような言葉を口にできなくなった。
 手入れをして傷が不自然に塞がる様を目の当たりにして、彼らを神様だと認識したあの日。
 流れ出す大量の血を目にして、それを舐めたときに美味しいと感じ、気持ちが揺れてしまったあの日。
 彼らは藤のなかでこれ以上揺るぎない形で神様となり、同時に彼らにとって自分は否定されるべき鬼なのだと、人ではない付喪神にとってもそうなのだと、気がついてしまった。
 それ以後はずっと、変えられない認識の違いに気がつかないふりをし続けていただけだ。だって、彼らは優しくて、一緒にいるのが楽しくて、その日々もまた『本当』だったのだから。

「もう……何も、考えたくないな」

 刀剣男士たちは何一つ悪くないのに、どうしてもあいつらが悪いと責任転嫁をしたくなる自分がいる。思考は同じ場所をただ巡り続け、嫌な気持ちばかりがどんどん膨れ上がっていく。
 畳に額を押しつけ、何かを懺悔するように彼女はその場で蹲っていた。そのとき、

『逃げてしまおう』

 ふと、声がした。
 どこか自分に似ている声。なのに、どういうわけか懐かしくもある声。
 母のような父のような、聞いているだけで愛しさと切なさがこみ上げて、混ざり合っていくような声が、優しく自分を包み込むような気配が、すぐ側でしていた。

『逃げてしまおう。誰も、どうせお前のことを分かってくれはしない。お前は、そちらにいるべきではなかった』

 逃げるとして、一体どこへ向かうつもりなのか。そんな都合のいい逃げ先が自分にあるのか。
 声は、それ以上何も言わなかった。まるで、こちらの返事を待っているかのように。

「……それでも、僕は皆といたいんだ」

 考えるより先に、言葉が勝手に口をついて出ていた。
 声の主は、それを返事としたのだろうか。ふっと部屋の中にあった何かの気配が消える。恐る恐る顔を藤は顔を上げてみたが、そこにはもう誰もいなかった。




 
 そうして、藤と名乗る審神者の本丸は、一つの終わりを迎えた。長く冷たい晩冬の空気は重苦しく彼らと彼女にのしかかり、それは春が来て桜が芽吹き、散っていっても尚、変わることはなかった――。

 凍り付いた世界に亀裂が走ったのは、五月の四日目のその日。藤の花咲く頃、彼女が生まれて二十の年を数えた日のことだった。
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