本編第一部(完結済み)

 審神者であることにも、随分と慣れてきたと思っていた。五月に就任して、早八ヶ月。素人を名乗れる時は過ぎたと思っていた。
 遠征や出陣があったとして、彼らが酷い傷を負って帰る数は減ってきていたから、たとえ少し時間がかかっても安心して待てるだろうと甘く見ていた部分もあった。次郎太刀の初陣のときだって、彼らはさも当たり前のように勝利を持って帰ってきたのだから、今度だってと。
 けれども、何日も一人の夜を過ごしていく内に、言い知れない寂しさを感じてしまった。皆に思う所はあると言えど、それでも皆といたいと思う自分がいることを、もう何度目になるか分からないくらい確認することになった。

「歌仙、今日のご飯は何にする?」

 と、誰もいない厨に声をかけた。

「物吉と五虎退は手合わせに夢中になってるだろうから、何か差し入れしようかな」

 と、道場に目を向けて声のしないことに気がついた。

「次郎と髭切は、今日は晩酌をするのかな」

 と、縁側に向かってただ風が通り過ぎていく場所を見つめてしまった。

「折角服を選んでくれたのはいいけれど、着る機会ってあるのかな」

 と、乱が選んだ服を前に考え込み、一応意見を聞こうかと思って誰も居ないことに気がつかされた。
 一人になれる空間をどこかで望んでいた傍らで、突如与えられた孤独は心地よいとは程遠いものだった。
 五虎退が残していった虎の子たちは、主である少年が戻ってこない日が続くとすっかり元気を失くして、五虎退の部屋でじっとしている日が増えた。普段は子猫のようにじゃれついてくる彼らも、藤の無聊を慰めてくれる存在にはなってくれなかった。
 そんな寒々しい日々の中でも、歌仙が定期的に送ってくれる連絡は、藤にとって砂漠の中に齎された一滴の水が如く、大事なものだった。だが、彼の連絡内容は決して心が晴れるようなものではなかった。
 敵と遭遇した。自分たちが、恐らく与えられたこの任務における最初の前提――強敵が現れているようだが、どこの時代に現れているか不明――における、強敵にあたる存在を捉えたようだ。
 その連絡を歌仙から受けたときは、一瞬頭が真っ白になってしまった。帰ってこなくて寂しいなどという子供染みた駄々など、あっという間に吹き飛んでしまった。

(もし間に合わなかったらどうしよう。あの時、すぐに引けと命じるべきだったのかな)

 自分たちの技量で対処できるか分からないから、援軍は呼んでくれと言われたが、部隊を下げてくれとは言われなかった。だから、彼らの判断に任せた。
 現場の状況も分からず、戦の機微にも疎い自分が横からあれこれ言うべきではないと思ったからだ。それが、最善だと結論を下した。
 なのに、いつまでも援軍を送るとの報せは政府の担当者から届かず、痺れを切らして更紗に連絡をとったのがつい数時間前のこと。まだ日も昇りきる前だったというのに、更紗も鶴丸も快く引き受けてくれた。感謝しつつも、間に合わなかったらという危惧はどこかにあり、安心して休むことなどは到底できなかった。

(だけど、僕はどこかで怖がってしまっている。勝手な行動をして、目をつけられることを)

 こんなときまで保身に走ろうとする自分の浅ましさに、吐き気を催す嫌悪を覚える。何より優先すべきは歌仙たちの安全だと、分かっているのに。
 己の立場、審神者であるべき行動、他人にどう見られるか。手入れをしなければならなくなっていたら、また気分が悪くなってしまったら、彼らの側にいるべきでない者だと気がつかれてしまったら。様々な憶測に、頭がパンクしそうだった。
 膝を抱えて自室にこもっていた彼女は、自分が身につけている端末が振動していることに気がつく。まもなく帰還、という通知に彼女は顔を上げた。

「皆が、帰ってくる」

 言葉にすれば実感も湧く。藤は頬をぺしぺしと叩いて気合いを入れ直した。弱音を吐いている場合ではない。自分の役割を果たせ。
 己の役割は、ちゃんとした審神者であること。傷を見たくらいで心を揺らすものではない。泣き言を口にすることは許されない。彼らは戦ってきた、それは彼らにとって当たり前のことだ。大げさに騒ぐのではない。迎える際に、悲しげな顔を見せるものではない。

「手入れも、ちゃんとしないと」

 夢の中で見た彼らの、蔑むように自分を見つめる目を思い出してしまい、藤はぶんぶんと首を横に振る。手を見れば、汚れ一つないまっさらな己の肌が見えた。あれは夢だ。ただの悪い夢だ、と言い聞かせて、見ない振りをする。
 がらりと引き戸を開き、玄関口から外に出た。途端に、むわりと薫る血の匂いが彼女の鼻を掠めていく。その匂いに、一瞬藤の心が揺れる。
 時空転移を行うために用意されている、小さな祠に慌てて向かえば、

「ただ今帰ったよ、主」

 行きと同じようにまず歌仙から、声をかけられた。
 ただ、彼の姿は行きのときとはまるで違う。歌仙だけではない。皆、どこかしかに傷を負っていた。そこから漂う血の匂いに、頭が揺さぶられるような気がした。
 いつもこうだ。ひどい怪我を負っている彼らを目にすると、胸が締め付けられると同時に、何だか自分の中に眠るものがざわめく。

「一番、深い傷を負っているのは?」
「五虎退だ。……僕を庇って、背中に一撃を。ただ、応急手当は済ませている」

 歌仙が背負う五虎退の姿を見て、藤は息を呑む。だが、顔には出さない。出してはいけないと、心の手綱をとる。
 他の者を見る限り傷は酷いものの、髭切や歌仙のときのように手当てもままならないままに敗走してきたわけではないことが窺える。その意味では、被害を分散させた歌仙の指揮官としての手腕、それを補う皆の連携、ならびに上からの指示を待たずに己の人脈に頼る決断を下した藤の行動力がもたらした成果と言えるだろう。

「主、手入れを頼んでもいいかい?」
「うん。分かってる」

 だから、衝撃を受けても少し安堵をする余裕は生まれていた。それに、彼女は自分で思うよりも素人のままでいたわけでもなかった。怪我の状態を見て、すぐに手入れをしないと手遅れになる状態か、それとも重傷ではあるが急を要するわけではないか、一瞥しただけである程度判断できるようになってはいたのだから。
 そして、今回に限って言うならば、五虎退の傷は深くはあるが手遅れになるものではないと、藤は思っていた。
 手入部屋へと急ぐ歌仙の後を、藤も小走りで追いかける。その彼女へと、

「ねえ、あるじさん。ボクも……一緒に行って、いいかな」

 縋るように、乱は主の手をとった。五虎退と乱藤四郎は、いわば兄弟のようなもの。弟の容態が心配なのだろうと、藤は特に断ることもなく頷いた。


***

 
 援軍に後を任せて引くということを、皆どこかで悔しがってはいた。一度はぎりぎりではあれど勝利を掴めると思ったということもある。だが敵の方が一枚上手で、それを更に乗り越えるためにはどうしても、不慮の事態を捻り潰すほどの力が必要になるのだ。歌仙も、物吉も、次郎も、髭切もそう思っていた。
 だが、乱だけは違っていた。

(……ボクは、皆の役に立てたのかな)

 戦いの中、乱は別に突っ立っていたわけではない。次郎の背後を守り、彼が己の力を十分に振るえるよう貢献し続けていたつもりだ。
 だが自分と同じ顔をした彼は、その更に上をいく戦果を、乱がかけた時間よりも短い時間で軽々とやってのけた。同じ自分ができることを、この乱藤四郎にはできなかった。その事実を、ただ積み重ねてきた経験の差と一蹴することが、戦いの後で気力も落ちていた乱にはできなかった。
 あるじさんの好きを知りたい、という話をしたのが、乱には最早遥か過去のことに思えていたほどだ。

「ねえ、あるじさん。ボクは、その」

 手入れのために集中している主に声をかけるのは気が引けたが、声をかけずにはいられなかった。誰かに、言葉をかけてほしかった。

「ボク、上手くできなかったかもしれない」
「どうしてそう思うの?」

 五虎退の傷を塞ぎ終わり、一息ついた藤が乱へと顔を向ける。その顔は、ひどく落ち着いて冷静なものだった。
 審神者かくあれかしと決めた彼女は、いつだってそうして自分を厳しく戒めていることを乱は知らない。その顔が、自分を責めているように乱には見えた。ゆえに、一切の言い逃れを排除して乱は話すことにした。

「だって、次郎さんを守りきれなくて怪我させちゃった所もあるし、情報収集だって髭切さんに任せっぱなしだったし、五虎退に助けてもらわなかったら、最初に敵と遭遇したときにやられちゃってたかもしれないし」

 数えていけば、いくらでも間違っていたかもしれないと思うことは出てくる。自ら口にする度に、心のどこかがじくじくと痛む。それでも、黙っていることは乱にはできなかった。

「本当はもっとかっこよく、勝ちたかったなー……なんて。できると、思ったんだけど」

 悔しいなあ、と乱は唇を噛む。気がついたら、胸の奥がどんどん熱くなっていく。目の奥がじんじんと痛んで、何もしていないはずなのに熱いものが零れて、溢れて、頬を伝い落ちていった。

「……いつか、できるようになるよ」

 聞こえてきた返事は、表情と同様に酷く落ち着いたものではあった。だが、ふわりと乱の頭に載せられた手は温かく、優しいものだった。

「できなかったことだって、頑張り続ければいつかできるようになるよ。いっぱい悔しいって思えたなら、その分いっぱい強くなれる」
「……本当に?」
「うん。悔しい気持ちは、自分の知らない世界を切り開くものにもなるって僕は知っているから」

 顔を上げた乱が目にしたのは、こちらを見つめている藤の笑顔。目を細め、眉尻を下げ、優しげに口元を弧に描いたそれは、形だけ見るならば同じ笑顔のはずなのに、乱にはいつもと違う笑顔に思えた。
 胸に染み込む暖かな主の笑顔に、乱は今度こそ涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をくしゃりと歪ませて、お返しとばかりに笑みを作ってみせる。

「ありがとう、あるじさん。ボク、頑張るから。見ていてね?」
「うん。期待しているよ。……あ、そうだ。五虎退の手入れをしている間、乱があの時代に見たもののことを教えてくれないかな。報告として後でまとめる必要があるんだ」
「任せて。ばっちり見て、聞いてきたから!」

 鼻水をぐしぐしと手の甲で乱暴にふき取り、せめてそれぐらいの役目は果たさねばと、乱は自分が見聞きしたものを頭の中で整理する。


 役割を得たことで、乱が気持ちを切り替えることができたようだ、と藤は思い、彼に背を向けて五虎退の手入れを続けた。
 乱の話に意識を向けておけば、五虎退の傷が不自然に治る姿に――付喪『神』であるがゆえに、どんな傷がついても塞がってしまうのだということを直視せずに済むのでは、という思いも彼女の中にはあった。神様に触れることを意識すると気分が悪くなってしまうのならば、せめて少しでも別のことに意識を追いやっておきたかった。

「ボクらが行った先の時代は、天気のせいで食べるものが全然無かった時代だったみたいなんだ。だから、お腹が空いたまま死んじゃった人が沢山いて」

 話していて楽しい話題ではないとは分かっていたが、主の役に立ちたいという思いから乱は饒舌に話し始める。

「お腹が空いて死んじゃうのは、悲しいね」
「……うん。ボクもそう思う。あの時代で起きたことの話を住んでいる人に聞きたくても、質問して答えられる元気がある人もほとんどいなくって、大変だったんだよ。それでも、あの時代に活躍した偉い人が狙われてるんじゃないかって、歌仙さんと物吉さんが考えてくれたんだ」
「物吉はあの時代を作った人に関係ある刀だったからかな。それにあわせて、考えを進めていける歌仙も凄いな」

 藤も相槌を打ちながら、彼に続きを促した。

「それで、時間遡行軍みたいな化け物を見かけたって人が一人いてね。その人は、結構元気でお腹もそんなに空いていなくて、あれこれ話してくれたんだ」
「そんな人もいたんだね。食べるものがないのに、どうやって生活してたの?」

 彼女は純粋な興味と話を進めるために尋ねたのだが、乱は一瞬言葉に詰まる。自分が目にした光景を話すべきだと思う一方で、あまり聞いていて気分のいい話ではないことも分かっていたからだ。
 だが、報告のために仔細を記す必要があるのならば、語らねばなるまい。乱は覚悟を決めて、できる限り言葉を選んで話すことにした。

「その人、死んじゃった人を使って商売をする人だったんだ。死体をばらばらにして、犬の肉だって騙して売っていてね」

 彼女にどうやって話そうか考え続けていた乱は、気がつかない。五虎退の体に包帯を巻こうと添えられた藤の手が、止まっていることに。
 乱は話しながらも、自分が思い出した光景に一瞬眉を顰める。そのとき表れた女――主に似た髪色をした角を生やした女のことも、報告のためには話さなくてはいけないと思った。けれども彼女の発言を思い出して、乱はできるだけ藤を嫌な気持ちにさせまいと、慎重に言葉を紡ぐ。

「元は人だって分かっていても買っている人も、いたんだけど。鬼みたいに角を生やしていてね。人を食ってるって分かってるけど、美味しいから別にいいって。あ、でもね。好きで食べてるわけじゃないとは言ってたんだよ」

 そりゃそうだよね、と乱は自分でも不恰好だと思う笑顔で続ける。

「だって、ボクだって仕方ないことだって分かってたんだけど。正直」

 彼の言葉に、他意はなく、悪意はなかった。

「気持ち悪いなって」



 藤の手から、包帯が滑り落ちた。
 トン、という軽い音がして、畳にそれが落ちる。ころころと転がっていく白の布は、まるで小さな白い道を畳の上に作り上げていくかのように、どこまでもどこまでも転がっていく。

「……あるじ、さん?」

 乱が思わず声をかけても、藤は動かない。五虎退に触れる手が、いつの間にか震えていた。
 彼に触れることを恐れるかのように。触れてはならないと、戒めているかのように。



「元は人だって分かって買っている人も、いたんだけど。鬼みたいに角を生やしていてね」

 乱の言葉を聞いて、喉が誰かに締め上げられているのではないかと思うほどの閉塞感に息が詰まった。嫌な予感に、頭の片隅が焼け焦げるような痛みに襲われた。

「人を食ってるって分かってるけど、美味しいから別にいいって。あ、でもね。好きで食べてるわけじゃないとは言ってたんだよ」

 そんな当たり前の道徳は知っている。そんな当たり前の倫理観も『もう』持っている。
 だから、言わないでほしかった。

「だって、ボクだって仕方ないことだって分かってたんだけど。正直」

 それ以上を、言わないでほしい。分かっていることだから。今更、何を言っても仕方の無いことだと知っているのだから。
 だから、どうか、

「気持ち悪いなって」

 気づかせないで欲しかったのに。
 できるだけ、見ないふりを続けていたかったのに。
 この感覚に名前を与えず、意識を向けることもしないでいたかったのに。

「……あるじ、さん?」

 動揺を抑えきれない自分を前に、乱が声をかけてきても言葉を返すことができなかった。黙れ、と怒鳴りつけないようにするためには、理性を総動員する必要があった。
 何を言えばいいといいのか。こうして、目を塞いでいたものを目の当たりにして、どうすればいいのか。
 動揺を抱える自分に向けて、もう一人の自分が嘲笑を投げかける。

(本当は、もっと前から知っていた)
(そう、知っていた。僕は、ただ見ないふりをしていただけなんだ)
(いつから。いつから、気がついていたんだろう)

 先ほど、歌仙たちが戻ってきたときからか。髭切が大怪我をして帰ってきたあの夜か。歌仙が初陣で傷を負って帰ってきた頃からか。

(違う。もっと前、もっと前から、僕は知っていた)

 初陣で酷く怪我をした歌仙に頬を撫でられ、ついた血。それを舐めたときに気がついたことは、実はもっと前から知っていたことだった。今まで、あれほど沢山流れ出る赤を見たことがなかったから、普段は気にせずにいられたのに。
 血を見る度に、その匂いが強く薫るのは。思わず、頭がくらりとしてしまうのは。
 それを――美味しそうと思う自分がいるからだ、ということを。藤は、とうの昔に知っていた。

(それに、僕は思ってしまった。乱の話を聞いて、人を食らわねばやっていけない時代に生まれた鬼が、真っ当な理論を振りかざしながら人を食べられることを、僕は――ほんの少しだけ、羨んでしまった)

 だって、自分は知っている。知ってしまっている。
 以前見た夢を思い出す。まだ、山の中で母親と近所の老人たちと暮らしていた頃。鬼と自ら名乗り、それを当たり前としていた頃。
 寒い冬のある日、ろくな食事をとることができず、お腹を空かせていた自分の前に差し出された、鍋の中に浮いていたものが何だったか。
 老人は、それを鹿でも猪でもないと言っていた。口にした瞬間、それをとても美味しいと感じた自分は、食べたものが何だったのか知りたくて、老人の一人を捕まえて尋ねた。彼は、皆には内緒だと言って、こっそり秘密を教えてくれた。
 あれは、『ニンゲン』という生き物だ、ということを。
 その時の自分は、ニンゲンが何かを知らなかった。聞いたことも無い珍しい生き物なのだろうと思った。母に尋ねても、近所の人に尋ねても、誰も詳しくは教えようとしなかった。どれだけ尋ねて回っても、山で死んでいたのを拾ってきたということしか、分からなかった。
 しかし、確かなことは一つだけあった。それが、今の今まで食べてきたものの中で――一番、美味しいと思うものだったということだ。

「あるじさん、大丈夫? 顔色が悪いよ。……無理しない方がいいんじゃない?」

 塞ぎきっていない五虎退の傷を塞ごうと手を伸ばしたいのに、腕が凍ってしまったかのように動いてくれない。指が震えて、傷の位置に触れることすら叶わない。
 気持ち悪い、と言われた。
 きっと彼は、心の底からそう思っている。
 血を美味しいと感じ、人の肉を至上の馳走と感じるような味覚を持っているなんて、彼が知ったら何と言うだろうか。きっと、答えは同じに決まっている。
 気持ち悪い。不気味。側によるな。汚らわしい。
 そんな相手に治してもらいたいだろうか。
 治していい、ものなのだろうか。
 頭が割れるように痛い。お前が触れていい相手ではないのだと責める罵声が、叱責が、体の内側からせぐりあげて苛んでいく。
 指先の感覚がない。目の奥が痛い。お腹も頭も何もかもが、苦しい。苦しい苦しい苦しい。

「――う、うぅっ」

 漏れ出たうめき声とともに、藤は咄嗟に口を押さえた。胃の中がひっくり返るような不快感に嫌な予感を覚え、彼女は即座に立ち上がり、もつれる足で部屋の障子を開き、更に向こう側にある縁側へと繋がる窓を開く。

「あるじさん!?」

 乱の驚く声を耳に入れるよりも先に、限界にまで達していた何かを彼女は全て吐き出した。そうすれば、過去に口にしたものも、何もかもを外に出してしまえるのではないかと思っているかのように。
 止まらない。吐き気が、胃が震えるような気持ち悪さが、無くならない。全て出し切って、もはや胃液の酸っぱい味しかしないというのに、それでもなお消えてくれることがない。これがお前の罰だと言わんばかりに。

(おばさんが、穢れだって言っていたのは――僕を、神社の中に入れようとしなかったのは、これのせいだ。分かっていたのに、僕は気がつきたくなくて)

 一度食べたものは、覆ることがないのか。死した生き物を食らうのは、人でも他の動物でも変わりないのではないか。そんなことを考える余裕など、彼女にはもうなかった。

「あるじさん、大丈夫!? あるじさん、あるじさん!! ねえ、誰か来て!! 歌仙さん!!」

 ようやく嘔吐をやめた口から、自分でもひどい臭いだと思う饐えた臭いが漂っていた。割れるような頭痛と共に、完全に意識を手放す前に思ったことは、一つだけ。

(ごめんなさい。僕は――嘘つきだ)


***


 まるで、泥の中にずっと沈んでいたように、彼女は重たい瞼を無理矢理動かして瞳を開いた。
 夢を見ることも無く、ずるずると眠りの闇の中を漂っていたことだけが分かる。油の切れた機械のように、強張った体を動かして、藤は寝台の横にある机に載せられた時計を見た。
 あれから、どうやら何時間も眠っていたらしい。カーテンの隙間から漏れる光は無く、どうやら夜になってしまったようだと分かる。
 いまだ頭痛の残る頭に手をやりながら、彼女は身を起こした。時計の横にある水差しから、直接がさがさになった喉に水を流し込む。気管に入ったせいで噎せ込んでしまったが、それでも渇いた体に与えられた水分のおかげで幾らか思考ははっきりした。明瞭になってしまった思考は、しかし直前にあったことを彼女に思い出させてしまう。

(……ああ、やっぱり)

 ずん、と頭の上に重りが載せられたように、再び心が沈む。息を一つするのも、苦しい。

(僕はやっぱり――気持ち悪いんだな)

 あるじさまの好きなものを知りたいと、乱は言った。あるじさまの好きなものを好きになりたいと、言ってくれた。
 同じ口で、彼は知らずに否定した。彼女が美味しいものと思ってしまうものを、否定した。好きだと感じてしまうものを、否定した。生理的な嫌悪を覚えるものだと、遠ざけた。
 無理に好きになってくれとは言えない。それは分かっている。そんなこと、誰にだって頼めない。自分だって知ってしまったから、今こんな気持ちになっているのだ。
 ニンゲンという生き物が、じぶんに似たものだと知ってしまったから。だから、忘れようとして、遠ざけようとして、気づかないふりをし続けていた。血肉に惹かれる自分を、無意識に切り離そうとしていたのだ。
 だから、それは仕方ないと宥める。
 同時に、でも、と思う。
 自分の異常な味覚について、だけではない。それ以外も、それ以外も、それ以外も。
 乱だけではなく、歌仙も、五虎退も、物吉も、次郎も、――きっと髭切も。
 口にしたい言葉があった。
 諦められない思いがあり、伝えられていない願いがあったことを、彼女は忘れていたわけではない。

(でも、どうせ)

 どうせ、否定される。
 いいや、もう既に否定されている。
 自分が望むあり方は、拒絶されてしまっている。蒸し返して、実は嫌でしたなどと言えない。言えるわけがない。
 本当は、もっと早く口にすればよかったのだ。歌仙に出会ったあのときから、今度こそちゃんとできると思ったのに。臆病な自分は、そのうち機会があるだろうからと誤魔化し続けた。
 何故、今更言えようか。

「僕は、鬼でよかったのに」

 ただそれだけが、彼女が望み続けていたことだった。
 鬼であること。それが、彼女にとって変えることのできない自分の証だった。角が自身の誇りであるように。鬼であることは、己を己として掲げ続けるのに必要なものだった。
 だというのに。
 彼女は、以前あったことを振り返る。髭切を顕現した直後、藤は危うく彼に殺されかけた。歌仙は新入りだった彼に斬りかかった理由を尋ねた。
 そして、彼は答えた。鬼だから、と。
 そのとき、歌仙は目を吊り上げてこう言った。

『貴様、よくも主を鬼と愚弄してくれたな』

 愚弄と、言った。
 鬼であることは、彼にとって忌むべきものだと、何よりはっきりと明らかにされた。

『鬼なんかじゃ、ありません』

 五虎退も、物吉も、そう言った。彼らは優しさを以て言ってくれたから、否定できなかった。彼らにとってもまた、鬼であるというのは悪いことなのだと気がついてしまったから、口を噤んでしまった。


 自分が幼少期を過ごした村では、藤はずっと自分が鬼だと言われて育った。彼女の周りにいた老人たちも自らをそう呼んでいたし、藤も自分がそうであることに違和感を覚えたことはなかった。それが当たり前で、疑ったことすらなかった。
 自分が子供であること、母の娘であること、女の子であること、それら複数の自分であることの一つに、鬼であることも含まれていた。
 ただ、村の外は違った。育ててくれる大人がいなくなり、一人取り残された藤が山の外に連れ出されて得た環境は、彼女が鬼と呼ばれたがることを許さなかった。そんな風に育てられたことを、可哀想と言われた。彼らはこぞって、彼女が育った環境は真っ当でないと評価し、自分たちが保護した子供を自分たちの知る真っ当の範疇に取り込もうとした。
 人を食ってしまったかもしれないという事実が露呈する頃には、新たな世界の大人たちは生まれ故郷に住んでいた者をこぞって狂人呼ばわりした。もっとも、その頃には故郷に住んでいた老人たちは皆、既に土の下で眠っていたのだが。

「可哀想に。お前は何も悪くないんだよ。子供にそんなことをさせていたなんて、あいつらこそ正真正銘の鬼だ」

 そんなことはない、と言えなかった。
 皺だらけの優しい手が自分を撫でてくれたことを、家に顔を出したらこっそり森でとれた木の実をくれたことを、転んで泣いていたら手当てをしてくれたことを、村の人たちの暖かさを全部覚えていたのに。
 それに、何で鬼という単語は悪い意味でしか使われないのか。それは、自分を表す大事な言葉なのに。
 人間であることは良いことで、鬼であることは悪いことなのか。何故悪いのか。どうして、鬼であっては駄目なのか。尋ねてみたかったけれど、彼女は唇を閉ざすことしかできなかった。
 自分を引き取ってくれた養父の声があまりに優しかったから、身寄りの無くなった幼い子供を育てようとしてくれる施設で世話をしてくれた人の心遣いが、得がたい尊いものだと分かっていたから、何も言えなくなってしまった。

「親切にしてくれた人には、その分だけ親切にしてあげないといけないのよ」

 もうおぼろげになった母の記憶の中で、はっきり覚えている言葉の一つがいつも頭の片隅でこだましていた。だから、反論は喉の奥に封じた。何もかもを飲み込み、自分が望む形で見てもらえないと分かっていても。
 自分の否定をする言葉が、優しさから生まれた言葉なのだと気づいてしまったら、彼女は笑顔で受け入れるしかなかった。

「それは隠しておいた方がいいわよ。その方がずっと可愛く見えるわ」

 引き取ってくれた養父母に、村の皆が褒めてくれた角をみっともないものだと言われたときも。

「もう悪い大人はいないから、安心していいんだよ。ほら、ここならもっと美味しいものも綺麗なものものいっぱいあるんだから。あんな山奥の古臭いだけの生活よりずっと楽しいよ!」

 姉のように優しくしてくれた、養父の親戚の少女に今までの生活を否定されたときも。

「主様の幸せは主様自身が掴んだものなんですよ」

 角が露呈しても皆に否定されなかったことは幸せなことだと、物吉に言われてしまったときも。

「きみを、鬼だと言うつもりはない」

 歌仙に、真っ向から自分の有り様を否定されたときも。
 ずっと、ずっと、彼女は笑うことを選んだ。
 次郎や乱にいたっては、自分の角のことすら知らない。だが、同じ刀剣男士ならどうせ、と彼女は唇を噛む。
 誰だって同じことを言う。彼らは善い人だ。養父母がそうだったように、学校の教師や施設の人がそうだったように。次郎も、乱も、髭切も――そう思いかけても、彼の答えだけは藤の中ではっきりと見えることはなかった。


 思考を続けるのをやめ、藤は改めて周りを見渡そうとした。けれども、まるで体が自分の体ではないかのように動かない。

(……どう、しよう)

 無理矢理体を動かしていた歯車が、ついに壊れてしまったような気がした。動力となる気持ちが、既に死んでいた。自分の在り様を否定され続けて尚、それでも動き続けることはできたのに。気持ち悪い、とたった一言言われただけで、足元の地盤が一気に崩れ落ちたようだった。
 いいや、実際はもっと前から崩れていたのかもしれない。ただ、それに気がつかないふりをし続けていただけで。

(僕って、そんなことばっかりだ)

 皆のいいところだけを見ようとして、自分を綺麗に見せようとして、気がつかないふりを沢山していた。見ないふりを、重ね続けていた。
 その結果がこれだったとして、それでも彼女は審神者であり続けようと、膝を抱えてうずくまりたい自分の胸倉を掴んで立たせる。

(手入れはしないと。ちゃんとしないと。ちゃんと、笑わないと)

 頬に力をこめても、もう唇はつりあがってくれない。
 笑え、それだけがお前に残された価値だ、と心を責め立てても、表情は思うように動いてくれない。
 そうこうしている内に、襖が音も無く開いた。入り込んできた外気に気がついて、藤は思わずそちらへと視線を向ける。
 部屋の入り口には歌仙が立っていた。最早、勝手に上がりこんでくる無礼さを咎める気力すら、藤にはない。

「よかった。主、目が覚めたんだね」

 疲労が色濃く残る顔や、袖口から見える白い包帯からも彼がまだ全快していないことは明白だ。
 手入れをしないと。そう言い掛けた喉は、震えたまま言葉になってくれなかった。

(…………あれ)

 声が出ない。だが、まあいいかと藤は思う。
 何を言ってもどこかで彼らを騙してしまうようなことになるのなら、声など最初からないほうがいい。どうせ、彼らも勝手に良いように解釈するだろう。

(手入れをしないと)

 今はそれだけだ。ベッドに腰かけた歌仙に手を伸ばし、その肌に触れる。いつものように力を込めようとするも、

(気持ち悪い――)

 乱の言葉を思い出した刹那、頭にひどい痛みが走る。突然頭を抱えた主に驚いたのか、歌仙はすぐさま顔色を変えて体をくの字に折る藤の背を撫でた。

「無理はしないほうがいい。急いで手入れしなければならないほどのひどい怪我じゃないのだから。僕らは刀剣男士だ。人間のように傷が悪化して死ぬことはない」

 しかし、聞き分けの無い子供のように藤はぶんぶんと首を横に振る。死なないからと言って、痛みを残したまま放置していいわけではないだろう、と言いかけたが、案の定唇はまともに動いてくれなかった。

「まだろくに喋れもしないんだろう。傷の方は安心していい。他に助けを呼んでおいたから」

 助けとは、一体どういうことか。藤が首を傾げると、歌仙は藤の頭をそっと撫でながら言葉を続けた。

「きみが使っていた連絡用の端末で、あの更紗という審神者の鶴丸国永と連絡をとったんだ。もう、出陣先から戻ってきていたなんて驚かされたよ」

 凄い刀剣男士たちだ、と語る歌仙の顔は、言葉とは裏腹にどこか悔しげだった。本当なら、自分たちの部隊が全てを終わらせたかったという彼の心が、手に取るように藤にも分かる。

「それで、きみが倒れたという話を聞いたら、鶴丸も更紗嬢も良かったら手を貸そうと言ってくれたんだ。手入れも、彼女が代わりにしてくれるそうだよ」

 だから安心して休んでいるといい、と歌仙は言う。責任感の強い主を安心させるために、主に無断であるというのは心が痛んだが、歌仙としては早めに手を打ちたいと思って行動に出たのだ。もし主を起こして尋ねたとしても、そんな迷惑をかけられないと彼女が言うのは火を見るよりも明らかだった。

「だから、きみはゆっくり休んで体を回復させることに集中するんだ。体調が悪かったのに、僕らのために無理をさせてすまないね」

 優しく頭を撫でる手が、離れていく。
 体調が悪かったわけではない。手入れをした後に倒れそうになるのはいつものことだ、とは言えなかった。
 喉が動いてくれなかったからだけではない。今の彼女の頭は、もっと大きな想いに埋め尽くされていた。

(歌仙たちの手入れを、更紗ちゃんがする)

 あの子供は表情こそ氷のように硬いが、根は優しいのだとは藤も分かっていた。だから、この申し出もきっと彼女の善意から生まれたものなのだと気がついていた。
 なのに、思ってしまう。

(取らないで)

 この本丸にやって来る彼女は、皆の傷を難なく手入れで塞いでしまうのだろう。
 正しい審神者として、正しい存在として。

(その場所を、取らないで)

 皆の中の輪へと自然に加わっていく更紗。
 その光景が、ただの想像だとどうして笑い飛ばせようか。
 その輪の中に入れない自分が、ただの被害妄想だとどうして言い切れようか。

「また、朝になった様子を見に来るからね。しっかり休んでいるように」

 歌仙の背中が遠くなる。布団に戻された体は、動くことすら最早できなかった。
 行かないで、とも言えなかった。今の自分にできることなど何もないのだから。いいや、今だけではない。これからも、きっとこれまでもそうだったのだ。
 できるふりをして、だまし続けていた。
 色んなものから目を塞ぎ、耳を塞ぎ、口を塞ぎ、鼻を塞ぎ、心を塞いでいた。誤魔化し続けていた。
 自分に嘘をつき、歌仙に嘘をつき、五虎退に嘘をつき、物吉にも髭切にも次郎にも乱にも、皆に嘘をついた。
 鬼と認めて欲しいなどと言えず、角は自分の誇りなのだとも言えず、人を食ったことがあるとも言えず、だから穢れているとも言えず、故に手入れもままならないのだと言えず。
 人として認めて欲しい被害者を装い、角はまるで不愉快なものであるかのようにバンダナで隠し、人を食らった話を気持ち悪いと遠ざけ、手入れをしても少し疲れるだけと笑い、清廉潔白を装った。
 嘘つきだ。自分は、嘘ばかりでできている。

(それなら、本当の私はどこにいるの?)

 嘘つきなことは分かっているのに、どれが本当かも分からない。
 歌仙に声をかけていたときの自分は? 
 五虎退が慕ってくれている自分は? 
 物吉が幸せと言ってくれた自分は? 
 髭切と約束を交わしたときの自分は? 
 次郎から贈り物を貰ったときの自分は? 
 乱と服を買いに行った自分は?
 自分は、果たして、自分だったのだろうか。
 どこからが自分で、どこからが嘘だったのだろうか。それも、もう分からなくなっている。好きも嫌いも、既に見えなくなって久しい。

(私は……僕は、審神者の藤。それさえあれば、いい)

 己を戒め続けようと彼女は心の中で、就任したときにつけた審神者としての名を唱える。
 ちゃんとしなければいけない。ちゃんと立っていないといけない。審神者で居続けたいのなら、笑い続けなければならないと。

(……無理だよ)

 けれども、立ち上がるための力がもう自分に無いことを、藤は気がついてしまっていた。以前から少しずつできていた罅が、ついに亀裂となって決定的な崩壊を招いてしまった。

(だって私は……私が、分からないんだもの)

 自分は何をしたいのか。それが分かったとして、してもいいのか。自分が好き勝手に振る舞うことで、誰かを傷つけてはいまいか。
 思考はそこで行き止まり、彼女は目を閉じた。ぐるぐると渦に引き込まれていくように、重い体は眠りへと引きずり込まれていく。
 もういっそ、このまま目を閉じて何もかも終わってしまえばいい。そんなことを願いながら、ふと、本当に眠りに落ちる前に彼女はぽつりと呟いた。

「あの夢の中の人は、私に、何て言うのかな……」

 乱と出会う前に邂逅した、夢の中の人。己自身に糾弾され、疲弊していた自分を労るように声をかけてくれた人。
 そんな都合のいい妄想に縋る自分を情けないと思いながらも、声になりきらなかった掠れた息の音は、静かな部屋の空気に願いとなって、音も無く溶けていった。
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