本編第一部(完結済み)
どん、と背中を打った衝撃で一瞬呼吸が止まった。この体は、そういう部分が不便だ。
不満は、それ以外にもある。可愛い服は似合うけれど、綺麗なものを身につけることもできるけれど、その反面自分の力不足だって目の当たりにしなければならなくなる。それは乱にとって、我慢ならないものだった。
頭がぐらぐらしていて、すぐに体を起こせない。腕も足も何もかもが痛くて、思うように動いてくれない。
悔しい。立ちたい。次郎太刀は、豪華絢爛な着物を血で汚しながらも立っているではないか。だから、自分だって立たなくてはならない。なのに、足が言うことを聞いてくれない。
ぐらつく膝に力を込める。片足は立った。それなら、もう片方の足も。けれど立ち上がりかける側から、体から力が抜けていく。まだだ。もう一回、立つのだ。立たなければ。
「ボクは……まだやりたいことがいっぱいあるんだから。あるじさんに、いっぱい好きなものを教えてもらうんだから!!」
そうしたら、彼女の心に眠っている凍り付いてしまった『好き』を掘り出せるだろうから。ぎこちなく笑う不器用な人の中に隠されたものを、見つけられる気がしたから。
なのに、時間は待ってくれない。彼が体に力を込めるより先に、ゆらりと彼の二倍はある巨体の敵が姿を見せる。
相手の手には打刀が一振り。携えるのは、人では無い化け物。彼の空色の瞳にその銀が振り下ろされるより早く、
「だめだめ、そんな怖い顔しちゃ!」
ずばん、と刃が風を断ち割り、肉を一刀で斬り伏せる音が響く。びたびたと飛び散る血肉を前にして笑うのは、自分と同じ顔の刀剣男士だ。
金色の髪を腰になびかせ、紺の制服をまとった少女のような少年。だが、スカートの裾のフリルはへたりこんでいる乱のものよりも数段多く、血風を浴びて尚艶やかに大輪の花の如く咲き誇っていた。二の腕と腰を覆うのは、桃色の甲冑。腰に翻るのはたなびく雲を思わせる白いフリル。
明らかに自分よりも豪奢な装束を纏った、もう一人の乱藤四郎。彼は、顔かたちは同じであるはずなのに、乱とはあまりに違いすぎた。
「頑張ったね、そっちのボク。でも、安心して。後はボクらで、全部やっつけちゃうから」
にっこりと微笑み、もう一人の乱は蝶のように軽やかに舞う。彼は一人で戦線を支えようとしていた次郎に近寄り、声をかける。
「次郎さん、肩を借りるね!」
「ああ、いくらでも――って、アンタ、その格好!?」
同じ声を発していても、その姿を視界に入れて、次郎も異なる本丸の乱だと気がついたらしい。彼の驚く声など意に介することなく、乱藤四郎は軽く跳躍して次郎の肩に手をつく。そこを起点に体を引き上げ、彼の肩を踏み台に更に跳ぶ。彼の姿は、まさに自由奔放に風を舞う一枚の花びらのようだ。
だが、その花びらはただ美しいだけではなかった。くるりと宙で身を捻り、敵の首に己の手足を絡め、組み付いたと思うや否や、すぐに首を掻き切る。まるでかまいたちのように鮮やかで、俊敏な一撃だった。続けて、同様にもう一体。花から花へ飛び移る蝶の後には、敵の骸が累々と積み上がっていく。
「ごめんなさい。ボク、あまり加減できないみたいなんだよね」
敵に向かってちろっと舌を見せる乱藤四郎は、確かに次郎の知る乱によく似ていた。けれども、纏う覇気はまるで違う。短刀を操る子供の見た目をしていながら、漂う空気はまさに歴戦の武者そのものだ。
「……ひょっとして、アンタも極めてきたってやつかい?」
「そうだよ。乱藤四郎、その極めた姿。君達の主に頼まれて、助けに来たんだ」
「あるじ、さんが……?」
敵がまだ残っているからか、乱藤四郎はそれ以上話すことはなく再び自分を囲む敵を鮮やかに輝く蒼穹の瞳で睨み付ける。
「ボク一人でも何とかできると思うけど、どうする?」
「まさか。援軍のアンタに全部任せるほど、アタシは卑怯じゃないよ」
「……ボクも。こんなところで、休んでなんていられない」
「そうこなくっちゃ!」
自分自身に負けてなるものかと、乱は再び立ち上がる。ぐらついていた膝に、もう少しだけ頑張れと言い聞かせて。
「髭切。随分と無茶な戦い方をしたようだな」
謡うように揺れる声。それを紡ぐ相手へと返事をする余裕などなく、髭切は鎧を纏う鬼の武者と相対していた。
正確には、戦いは既に終わりを迎えていた。髭切の太刀は、つい先ほど漸く敵の喉を貫いた。だが相手が操る槍は、先だって戦った苦無の敵がつけた傷を抉るように、更に深々と突き刺さっている。
「どうにも……他にやり方が分からなくて、ね」
ずるりと槍が抜け落ちると同時に、髭切も己の太刀を敵の喉笛から引き抜く。ぴゅうと勢いよく噴き出す血を、崩れ落ちる武者を一顧だにせず、彼は顔を上げて自分に声をかけた者へと視線を流す。
その場に現れた刀剣男士は、下生えの草を踏みながら髭切に近づいた。彼の姿は髭切にも見覚えがある。初めて会った折、更紗という審神者の側に控えていた刀剣男士の一人――名は、小烏丸だったか。
烏の羽を思わせる漆黒の髪を高く結い上げた、白面の者。以前はその名の通り、烏の羽を思わせる色合いの浴衣で身を包んでいたが、今は平安時代の童のような独特の装束を纏っている。
黒い水干装束に、赤の菊綴が小さな花のように色鮮やかに咲き誇っていた。片袖はその細い腕にぴったりと吸い付くように布は少なく、代わりではないだろうが、もう片方の袖は地に擦るのではないかと思うほど長い。
雪のように白い足には靴も何も履かれていないが、土一つついていない。まるで尊いものの存在を穢すまいと、土自体が彼を避けているかのようだ。
「ひどい傷だ。苦無を相手にしたと聞いていたが、まさか其方がやったのか?」
「そうだよ。あれを壊すのは、強い力がいると思ったから。ただ、すばしこいのは、あの小さいのだけじゃなかったみたいだね」
「槍を振るう者の中にも、異常に素早い者がいる。例えば、先ほど其方が相手にしていたもののように」
がさりと茂みが揺れる。再び姿を表したのは、あの尋常ならざる足の速さを見せた、槍を操る武者だ。
この敵の強みは、単なる足の問題だけではない。体の動き一つ一つが、異常に速いのだ。回避し続けても決定打を与えられず、代わりに自分が相手にちくちくと攻められて傷を負っていってしまう。消耗戦を強いられると判断した髭切は、この敵一体を倒すために、相打ち覚悟で突っ込むことしかできなかった。
その敵が、もう一体。どう対処するのかと、髭切が小烏丸を見やると、
「だから、動かれる前に」
彼はとん、と敵に詰め寄る。ほんの一歩、舞い降りる烏の挙動は人の理を超えているものだった。相手がその視界に黒い烏を収めるより先に、小烏丸は既に自分の間合いに敵を捉えている。
「壊す」
ざん、という肉を断つ嫌な音。鎧の存在などまるで無視したかのような、問答無用の一振り。ばらばらと崩れ落ちる敵の肉片を視界に入れることなく、小烏丸は薄い唇に笑みを浮かべて、紅を引いた目を細めた。
「この通りというわけだ。鍛えれば、誰でもいずれできるようになろう」
ぴっと血を払い、もう一体足音を忍ばせて襲ってきていた太刀を振るう亡霊武者を、小烏丸は容赦なく斬り伏せる。刹那、自分の背後に殺気が膨れ上がり小烏丸は身を捻りかけ、
「これで、授業料代わりにはなるかな?」
背後に迫っていた敵が倒れ伏すのを目にする。彼の背後に翻っていたのは、血で濡れても尚失われない輝きを持った白の上着を纏う者――髭切だった。
「どうやら、藤花の子らは我が思っていた以上に、強い刀剣男士のようだな」
返事をするより先に、小烏丸は髭切に背を預けて声を投げかける。
「ならば、暫し我の背後を任せるとしよう。苦しくなったら、いつでも我が引き受けようぞ」
「……冗談。源氏の重宝、髭切――助太刀には感謝するが、援軍に全てを任せて逃げ出すような臆病者ではないと、心得よ」
「そのようだな。ならば、此度の戦、源平共に並びて立ち向かうとしようか」
気炎を上げて、白と黒の二振りを己らに挑みかかる時間遡行軍へと足を踏み出す。難敵に刃を向ける彼らの瞳は、奇妙なほどによく似たものだった。
絶体絶命の窮地に陥るということは、往々にして刀剣男士の戦いにおいてはよくある。その中でも、自分のペースへと相手を持ち込むには、それ相応の技量と同時に時の運を必要とする。
運に関して言うならば、物吉貞宗には自信があった。自分は幸運を運ぶのだ。そう信じて疑わず、それでいて運が悪かったと責任をなすりつけ、己の不遇を嘆いて足を止めるような真似はしない。
だから、今も敵に囲まれたとしても戦いを投げ出さず、彼は相手から目を逸らさなかった。
(髭切さんは、あのすばしっこい敵を仕留められたんでしょうか。それとも、まだ苦戦しているんでしょうか。そこまでしぶとい敵なら、ボクも早く援護に行かないといけないのに)
血で滑る掌から己の得物を取り落とすまいと、物吉は柄を握る手に力をこめる。彼が纏う白い戦装束は、所々血で赤く染まっていた。なまじっか布地が白である分、彼がどこを負傷しているかは敵にも一目瞭然だろう。無論、だからといって彼は臆することはない。
運は、いつかこちらに味方する。接近する槍の刺突は、体を前に倒して掻い潜るように回避。がら空きになった相手の側面、鎧の隙間にお返しとばかり一突き。だが、背後に忍び寄る打刀を持つボロ傘を被った異形の武者が、彼の脳天へと凶器を振り下ろす。
ここまでか、と諦めることはしない。なぜなら、自分は物吉貞宗だから――。
「よく、頑張った」
ぎん、という金属同士がぶつかり合う鈍い音。身を裂くような痛みは感じず、代わりに彼の眼前に広がったのは紺一色だった。それが、紺色の上着を纏った誰かだと気がつくより先に、肉を斬る音とともに対していた敵が倒れ伏す。そうして、ようやくある程度の余裕を持って、物吉は自分を助けてくれた者が誰かを確かめることができた。
そこに立っていたのは、薄い銀色の短い髪に顔の半分を覆うほどの奇妙な面をつけた青年だ。狐の口に似た面のせいで、物吉は彼がすっと伸びた切れ長の瞳の持ち主であるとしか、分からなかった。身を包む紺色の上着は、五虎退や乱藤四郎のものと似ている。恐らくは、彼も二人の兄弟なのだろう。
援軍か。物吉がそう判断するより先に、ひょっこりと青年の肩から一匹の小さな狐が姿を見せる。戦場に不釣り合いな愛らしい獣の姿の登場に、物吉が目をぱちくりとさせていると、
「やあやあ、無事とはいえないようですが、最悪の事態が起こる前でよかったですな! 鳴狐も、我らの主も大層皆さんのことを心配しておられましたぞ!」
突然、狐が朗々と喋り始めるではないか。あまりに突拍子もない展開だったので、物吉は自分が敵の只中にいることも一瞬忘れかけて、呆気にとられてしまった。
「キツネ、驚いてる」
「いや、これは失敬。我らは更紗という名の審神者から遣わされた援軍でございます。どうも政府の者はこの戦いを甘く見るあまり援軍を出し渋っているとのことで、それならばと我らの主が、こうして鳴狐や本丸の者を派遣したというわけです」
鳴狐という名らしい刀剣男士は極端に無口のようで、その代わりに彼の側に控えているお供の狐は、達者に弁を操るようだった。
「ありがとうございます。助かりました。あの、あっちに他の仲間もいるんですが……!」
「ご安心くだされ。我らの他の仲間が向かっていることでしょう。それに」
「ちょっと、ふたりともー!!」
狐と物吉が言葉を交わしている間に割って入るように、甲高い少年の声が響く。続いて、木々を掻き分ける音。それが止んだと同時に、すたんっと地面に舞い降りたのは一人の童だった。
頭に烏を思わせる小さな兜を載せ、二の腕には朱の甲冑が括り付けられている。纏う衣装は片袖だけが長い奇妙な形の白い着物だ。白銀の腰ほどまである髪は、器用に右耳の下でくるくるとまとめている。一方、その大きな瞳は髪とは対照的な真紅であった。
「のんきにおしゃべりしていないで、すこしははてつだってくださいー!」
「おおっと、これは失礼しました。今剣殿」
鳴狐の狐はぺこりと一礼をする。今剣という名らしい少年は、ぷっくりとほっぺを膨らませながらも彼の背後から忍び寄っていた短刀を操る骨の魚のあやかしを、見ることもなく一刀で斬り伏せた。
その手にあるのは、敵と同じく一振りの短刀。まるでそこに烏が宿っているかのように、黒々とした羽のような形の妖気を纏っている。
「物吉さん、うごけますか? それとも、やすんでますか?」
「戦います。皆さんばかりにお任せはできません。ボクは主様の刀剣男士ですから」
「ぼくも、そういうだろうなって、おもってました! 鳴狐、あとはおねがいしますね!」
「ああ」
まるで自分自身も烏か何かのように、少年はぴょんと跳び上がって再び木々に隠れながらも、後を追ってくる時間遡行軍を迎え打っていた。
おかげで、鳴狐や物吉の周りに敵の気配は少なくなった。だが、全く敵がいなくなったというわけではない。
「そっちに合わせる。好きに動いて」
「分かりました。すみませんが、お願いします!」
歌仙のときほどの連携は望めなかったとしても、肩を並べるのに不満などあるわけがない。
打刀と脇差。物であった時代からお互いの足りぬ所を支えるというあり方をしていたためか、この刀たちは揃えばより力を活かすことができると言われている。
物吉はそのような理屈は知らなかったものの、背を預けるだけで、不思議と胸の内からこんこんと力が湧き上がるのを感じていた。彼らが地を再び蹴ったのは、連携を持ちかけてからほんの数秒後のことだった。
まるで鶴が舞っている様だと、歌仙はこの瞬間が戦場の只中であると忘れて、一瞬彼らの姿に見とれていた。
鶴丸が履いている高下駄が、音もなく草を踏んだと思うや否や、彼の振るう太刀が敵をまとめて真っ二つにして吹き飛ばす。その膂力、勢い、どれも桁外れだ。
彼の手の届かぬ所を助けるように、後から姿を見せた黒服の刀剣男士も、鶴丸に負けず劣らず凄まじい勢いで敵を片付けていく。しなやかでありながら剛毅さも兼ね備えた体躯に纏っている衣服は、もしこの場に主がいたならばスーツのようだ、と口にしていただろう。
片目を眼帯で隠した彼は、隠されていない側の黄金の瞳を油断なく周囲へと向けている。白い鳥を思わせるように舞いながら敵をなぎ払う鶴丸国永とは対照的に、黒の狼が敵の喉笛を一つずつ丁寧に噛み潰していくかのように、その男は時間遡行軍を逃がすことなく、着実に倒していた。
「これで一丁上がりっと! どうやら、向こう側も終わったようだな」
逃走を図った亡霊武者のごとき時間遡行軍を、鶴丸が一刀両断し、戦闘終了を告げる。辺りに残っているのは時間遡行軍の死体と、血の臭いばかりだ。
「立てるか、歌仙兼定。それに他の者も」
鶴丸が声をかけた方向に歌仙が振り返ると、後ろには髭切や乱藤四郎、次郎太刀、物吉貞宗の姿が見えた。どれも歩けないほどの重傷は負っていない。五虎退だけが、歌仙を庇ったために酷い負傷で意識を失っていた。
「五虎退が重傷だが、それ以外は問題ないだろう。……改めて感謝を、鶴丸国永」
「なに、主の親友からの頼みとあっちゃあ、無碍にはできないさ」
ひらひらと手を振る鶴丸国永は、白い羽織に点々とつけた血のせいでその名の通り、鶴のように見えた。
「一応確認しておく。まさかとは思うが、まだ調査を継続するとか言わないだろうな?」
「続けたいところだが、この状態で続けたら僕らの中で二度と本丸に戻れなくなる者も出てくるだろう。それは、主が望むことではない」
「そうだな。俺の主のもとへ連絡をしてきた藤殿の顔ときたら、まるで卒倒しそうな顔だったんだぞ」
鶴丸の話を聞いて、歌仙は返す言葉を失くす。きっと、ひどい心労だっただろう。早く帰って安心させてやらねばと、彼は本丸にいる主を思う。
だが、それは中途半端にこの任務を切り上げることと同じであり、歌仙の中の刀剣男士としての矜持が、少なからぬ傷を負うものでもあった。無論、部隊が無事に帰るのが第一ではあるのだと分かってはいても、だ。
「きみたちが今できることは、早く帰ってその顔を主たちに見せてやることだ。残りの任務については、俺たちが引き取る。大体は藤殿から伝え聞いてはいるが、きみ達が見聞きした内容を簡潔に教えてくれないか」
「分かった。恐らくだが――」
歌仙は手短に、自分たちがこの時代に訪れて目にしたもの、時間遡行軍の動きについて等を語って聞かせた。
「北に向かうほど敵勢力が増大した。そう考えると、今起きている飢饉と、その後の時代において重要な役割を持った人物――白河藩の藩主、松平定信への干渉を目論んでいるのではと、僕は推測している」
「なるほどな。暗殺か、或いは不必要な助言か……どちらにせよ、見過ごすわけにはいかない。俺たちがそちらの確認もしておこう。先ほどの戦いで、敵の勢力が全部だったと言い切ることもできないからな」
自分の考えをまとめ終えてから、鶴丸はふと目を眇めて歌仙に歩み寄り、
「いくら現場の様子を知らないにしても、今回政府が援軍の要請を後回しにした理由がどうにも不可解だ。今後も出陣するときは気をつけるといい」
声を潜めて、歌仙へと忠告を口にする。その真意を歌仙が問うより先に、鶴丸はすっと歌仙から離れた。
「気をつけて帰ってくれ。藤殿にもよろしくな」
歌仙らに背を向けて、鶴丸は立ち去っていく、六人の刀剣男士。同じ刀剣男士ではあるはずなのに、彼らが立つのは歌仙たちでは手の届かない高みなのだと、改めて思い知る。
上には、上がいる。その現実を噛み締めつつも、任務達成への未練を断ち切るかのように歌仙は彼らに背を向け、帰参のための準備を始めた。
不満は、それ以外にもある。可愛い服は似合うけれど、綺麗なものを身につけることもできるけれど、その反面自分の力不足だって目の当たりにしなければならなくなる。それは乱にとって、我慢ならないものだった。
頭がぐらぐらしていて、すぐに体を起こせない。腕も足も何もかもが痛くて、思うように動いてくれない。
悔しい。立ちたい。次郎太刀は、豪華絢爛な着物を血で汚しながらも立っているではないか。だから、自分だって立たなくてはならない。なのに、足が言うことを聞いてくれない。
ぐらつく膝に力を込める。片足は立った。それなら、もう片方の足も。けれど立ち上がりかける側から、体から力が抜けていく。まだだ。もう一回、立つのだ。立たなければ。
「ボクは……まだやりたいことがいっぱいあるんだから。あるじさんに、いっぱい好きなものを教えてもらうんだから!!」
そうしたら、彼女の心に眠っている凍り付いてしまった『好き』を掘り出せるだろうから。ぎこちなく笑う不器用な人の中に隠されたものを、見つけられる気がしたから。
なのに、時間は待ってくれない。彼が体に力を込めるより先に、ゆらりと彼の二倍はある巨体の敵が姿を見せる。
相手の手には打刀が一振り。携えるのは、人では無い化け物。彼の空色の瞳にその銀が振り下ろされるより早く、
「だめだめ、そんな怖い顔しちゃ!」
ずばん、と刃が風を断ち割り、肉を一刀で斬り伏せる音が響く。びたびたと飛び散る血肉を前にして笑うのは、自分と同じ顔の刀剣男士だ。
金色の髪を腰になびかせ、紺の制服をまとった少女のような少年。だが、スカートの裾のフリルはへたりこんでいる乱のものよりも数段多く、血風を浴びて尚艶やかに大輪の花の如く咲き誇っていた。二の腕と腰を覆うのは、桃色の甲冑。腰に翻るのはたなびく雲を思わせる白いフリル。
明らかに自分よりも豪奢な装束を纏った、もう一人の乱藤四郎。彼は、顔かたちは同じであるはずなのに、乱とはあまりに違いすぎた。
「頑張ったね、そっちのボク。でも、安心して。後はボクらで、全部やっつけちゃうから」
にっこりと微笑み、もう一人の乱は蝶のように軽やかに舞う。彼は一人で戦線を支えようとしていた次郎に近寄り、声をかける。
「次郎さん、肩を借りるね!」
「ああ、いくらでも――って、アンタ、その格好!?」
同じ声を発していても、その姿を視界に入れて、次郎も異なる本丸の乱だと気がついたらしい。彼の驚く声など意に介することなく、乱藤四郎は軽く跳躍して次郎の肩に手をつく。そこを起点に体を引き上げ、彼の肩を踏み台に更に跳ぶ。彼の姿は、まさに自由奔放に風を舞う一枚の花びらのようだ。
だが、その花びらはただ美しいだけではなかった。くるりと宙で身を捻り、敵の首に己の手足を絡め、組み付いたと思うや否や、すぐに首を掻き切る。まるでかまいたちのように鮮やかで、俊敏な一撃だった。続けて、同様にもう一体。花から花へ飛び移る蝶の後には、敵の骸が累々と積み上がっていく。
「ごめんなさい。ボク、あまり加減できないみたいなんだよね」
敵に向かってちろっと舌を見せる乱藤四郎は、確かに次郎の知る乱によく似ていた。けれども、纏う覇気はまるで違う。短刀を操る子供の見た目をしていながら、漂う空気はまさに歴戦の武者そのものだ。
「……ひょっとして、アンタも極めてきたってやつかい?」
「そうだよ。乱藤四郎、その極めた姿。君達の主に頼まれて、助けに来たんだ」
「あるじ、さんが……?」
敵がまだ残っているからか、乱藤四郎はそれ以上話すことはなく再び自分を囲む敵を鮮やかに輝く蒼穹の瞳で睨み付ける。
「ボク一人でも何とかできると思うけど、どうする?」
「まさか。援軍のアンタに全部任せるほど、アタシは卑怯じゃないよ」
「……ボクも。こんなところで、休んでなんていられない」
「そうこなくっちゃ!」
自分自身に負けてなるものかと、乱は再び立ち上がる。ぐらついていた膝に、もう少しだけ頑張れと言い聞かせて。
「髭切。随分と無茶な戦い方をしたようだな」
謡うように揺れる声。それを紡ぐ相手へと返事をする余裕などなく、髭切は鎧を纏う鬼の武者と相対していた。
正確には、戦いは既に終わりを迎えていた。髭切の太刀は、つい先ほど漸く敵の喉を貫いた。だが相手が操る槍は、先だって戦った苦無の敵がつけた傷を抉るように、更に深々と突き刺さっている。
「どうにも……他にやり方が分からなくて、ね」
ずるりと槍が抜け落ちると同時に、髭切も己の太刀を敵の喉笛から引き抜く。ぴゅうと勢いよく噴き出す血を、崩れ落ちる武者を一顧だにせず、彼は顔を上げて自分に声をかけた者へと視線を流す。
その場に現れた刀剣男士は、下生えの草を踏みながら髭切に近づいた。彼の姿は髭切にも見覚えがある。初めて会った折、更紗という審神者の側に控えていた刀剣男士の一人――名は、小烏丸だったか。
烏の羽を思わせる漆黒の髪を高く結い上げた、白面の者。以前はその名の通り、烏の羽を思わせる色合いの浴衣で身を包んでいたが、今は平安時代の童のような独特の装束を纏っている。
黒い水干装束に、赤の菊綴が小さな花のように色鮮やかに咲き誇っていた。片袖はその細い腕にぴったりと吸い付くように布は少なく、代わりではないだろうが、もう片方の袖は地に擦るのではないかと思うほど長い。
雪のように白い足には靴も何も履かれていないが、土一つついていない。まるで尊いものの存在を穢すまいと、土自体が彼を避けているかのようだ。
「ひどい傷だ。苦無を相手にしたと聞いていたが、まさか其方がやったのか?」
「そうだよ。あれを壊すのは、強い力がいると思ったから。ただ、すばしこいのは、あの小さいのだけじゃなかったみたいだね」
「槍を振るう者の中にも、異常に素早い者がいる。例えば、先ほど其方が相手にしていたもののように」
がさりと茂みが揺れる。再び姿を表したのは、あの尋常ならざる足の速さを見せた、槍を操る武者だ。
この敵の強みは、単なる足の問題だけではない。体の動き一つ一つが、異常に速いのだ。回避し続けても決定打を与えられず、代わりに自分が相手にちくちくと攻められて傷を負っていってしまう。消耗戦を強いられると判断した髭切は、この敵一体を倒すために、相打ち覚悟で突っ込むことしかできなかった。
その敵が、もう一体。どう対処するのかと、髭切が小烏丸を見やると、
「だから、動かれる前に」
彼はとん、と敵に詰め寄る。ほんの一歩、舞い降りる烏の挙動は人の理を超えているものだった。相手がその視界に黒い烏を収めるより先に、小烏丸は既に自分の間合いに敵を捉えている。
「壊す」
ざん、という肉を断つ嫌な音。鎧の存在などまるで無視したかのような、問答無用の一振り。ばらばらと崩れ落ちる敵の肉片を視界に入れることなく、小烏丸は薄い唇に笑みを浮かべて、紅を引いた目を細めた。
「この通りというわけだ。鍛えれば、誰でもいずれできるようになろう」
ぴっと血を払い、もう一体足音を忍ばせて襲ってきていた太刀を振るう亡霊武者を、小烏丸は容赦なく斬り伏せる。刹那、自分の背後に殺気が膨れ上がり小烏丸は身を捻りかけ、
「これで、授業料代わりにはなるかな?」
背後に迫っていた敵が倒れ伏すのを目にする。彼の背後に翻っていたのは、血で濡れても尚失われない輝きを持った白の上着を纏う者――髭切だった。
「どうやら、藤花の子らは我が思っていた以上に、強い刀剣男士のようだな」
返事をするより先に、小烏丸は髭切に背を預けて声を投げかける。
「ならば、暫し我の背後を任せるとしよう。苦しくなったら、いつでも我が引き受けようぞ」
「……冗談。源氏の重宝、髭切――助太刀には感謝するが、援軍に全てを任せて逃げ出すような臆病者ではないと、心得よ」
「そのようだな。ならば、此度の戦、源平共に並びて立ち向かうとしようか」
気炎を上げて、白と黒の二振りを己らに挑みかかる時間遡行軍へと足を踏み出す。難敵に刃を向ける彼らの瞳は、奇妙なほどによく似たものだった。
絶体絶命の窮地に陥るということは、往々にして刀剣男士の戦いにおいてはよくある。その中でも、自分のペースへと相手を持ち込むには、それ相応の技量と同時に時の運を必要とする。
運に関して言うならば、物吉貞宗には自信があった。自分は幸運を運ぶのだ。そう信じて疑わず、それでいて運が悪かったと責任をなすりつけ、己の不遇を嘆いて足を止めるような真似はしない。
だから、今も敵に囲まれたとしても戦いを投げ出さず、彼は相手から目を逸らさなかった。
(髭切さんは、あのすばしっこい敵を仕留められたんでしょうか。それとも、まだ苦戦しているんでしょうか。そこまでしぶとい敵なら、ボクも早く援護に行かないといけないのに)
血で滑る掌から己の得物を取り落とすまいと、物吉は柄を握る手に力をこめる。彼が纏う白い戦装束は、所々血で赤く染まっていた。なまじっか布地が白である分、彼がどこを負傷しているかは敵にも一目瞭然だろう。無論、だからといって彼は臆することはない。
運は、いつかこちらに味方する。接近する槍の刺突は、体を前に倒して掻い潜るように回避。がら空きになった相手の側面、鎧の隙間にお返しとばかり一突き。だが、背後に忍び寄る打刀を持つボロ傘を被った異形の武者が、彼の脳天へと凶器を振り下ろす。
ここまでか、と諦めることはしない。なぜなら、自分は物吉貞宗だから――。
「よく、頑張った」
ぎん、という金属同士がぶつかり合う鈍い音。身を裂くような痛みは感じず、代わりに彼の眼前に広がったのは紺一色だった。それが、紺色の上着を纏った誰かだと気がつくより先に、肉を斬る音とともに対していた敵が倒れ伏す。そうして、ようやくある程度の余裕を持って、物吉は自分を助けてくれた者が誰かを確かめることができた。
そこに立っていたのは、薄い銀色の短い髪に顔の半分を覆うほどの奇妙な面をつけた青年だ。狐の口に似た面のせいで、物吉は彼がすっと伸びた切れ長の瞳の持ち主であるとしか、分からなかった。身を包む紺色の上着は、五虎退や乱藤四郎のものと似ている。恐らくは、彼も二人の兄弟なのだろう。
援軍か。物吉がそう判断するより先に、ひょっこりと青年の肩から一匹の小さな狐が姿を見せる。戦場に不釣り合いな愛らしい獣の姿の登場に、物吉が目をぱちくりとさせていると、
「やあやあ、無事とはいえないようですが、最悪の事態が起こる前でよかったですな! 鳴狐も、我らの主も大層皆さんのことを心配しておられましたぞ!」
突然、狐が朗々と喋り始めるではないか。あまりに突拍子もない展開だったので、物吉は自分が敵の只中にいることも一瞬忘れかけて、呆気にとられてしまった。
「キツネ、驚いてる」
「いや、これは失敬。我らは更紗という名の審神者から遣わされた援軍でございます。どうも政府の者はこの戦いを甘く見るあまり援軍を出し渋っているとのことで、それならばと我らの主が、こうして鳴狐や本丸の者を派遣したというわけです」
鳴狐という名らしい刀剣男士は極端に無口のようで、その代わりに彼の側に控えているお供の狐は、達者に弁を操るようだった。
「ありがとうございます。助かりました。あの、あっちに他の仲間もいるんですが……!」
「ご安心くだされ。我らの他の仲間が向かっていることでしょう。それに」
「ちょっと、ふたりともー!!」
狐と物吉が言葉を交わしている間に割って入るように、甲高い少年の声が響く。続いて、木々を掻き分ける音。それが止んだと同時に、すたんっと地面に舞い降りたのは一人の童だった。
頭に烏を思わせる小さな兜を載せ、二の腕には朱の甲冑が括り付けられている。纏う衣装は片袖だけが長い奇妙な形の白い着物だ。白銀の腰ほどまである髪は、器用に右耳の下でくるくるとまとめている。一方、その大きな瞳は髪とは対照的な真紅であった。
「のんきにおしゃべりしていないで、すこしははてつだってくださいー!」
「おおっと、これは失礼しました。今剣殿」
鳴狐の狐はぺこりと一礼をする。今剣という名らしい少年は、ぷっくりとほっぺを膨らませながらも彼の背後から忍び寄っていた短刀を操る骨の魚のあやかしを、見ることもなく一刀で斬り伏せた。
その手にあるのは、敵と同じく一振りの短刀。まるでそこに烏が宿っているかのように、黒々とした羽のような形の妖気を纏っている。
「物吉さん、うごけますか? それとも、やすんでますか?」
「戦います。皆さんばかりにお任せはできません。ボクは主様の刀剣男士ですから」
「ぼくも、そういうだろうなって、おもってました! 鳴狐、あとはおねがいしますね!」
「ああ」
まるで自分自身も烏か何かのように、少年はぴょんと跳び上がって再び木々に隠れながらも、後を追ってくる時間遡行軍を迎え打っていた。
おかげで、鳴狐や物吉の周りに敵の気配は少なくなった。だが、全く敵がいなくなったというわけではない。
「そっちに合わせる。好きに動いて」
「分かりました。すみませんが、お願いします!」
歌仙のときほどの連携は望めなかったとしても、肩を並べるのに不満などあるわけがない。
打刀と脇差。物であった時代からお互いの足りぬ所を支えるというあり方をしていたためか、この刀たちは揃えばより力を活かすことができると言われている。
物吉はそのような理屈は知らなかったものの、背を預けるだけで、不思議と胸の内からこんこんと力が湧き上がるのを感じていた。彼らが地を再び蹴ったのは、連携を持ちかけてからほんの数秒後のことだった。
まるで鶴が舞っている様だと、歌仙はこの瞬間が戦場の只中であると忘れて、一瞬彼らの姿に見とれていた。
鶴丸が履いている高下駄が、音もなく草を踏んだと思うや否や、彼の振るう太刀が敵をまとめて真っ二つにして吹き飛ばす。その膂力、勢い、どれも桁外れだ。
彼の手の届かぬ所を助けるように、後から姿を見せた黒服の刀剣男士も、鶴丸に負けず劣らず凄まじい勢いで敵を片付けていく。しなやかでありながら剛毅さも兼ね備えた体躯に纏っている衣服は、もしこの場に主がいたならばスーツのようだ、と口にしていただろう。
片目を眼帯で隠した彼は、隠されていない側の黄金の瞳を油断なく周囲へと向けている。白い鳥を思わせるように舞いながら敵をなぎ払う鶴丸国永とは対照的に、黒の狼が敵の喉笛を一つずつ丁寧に噛み潰していくかのように、その男は時間遡行軍を逃がすことなく、着実に倒していた。
「これで一丁上がりっと! どうやら、向こう側も終わったようだな」
逃走を図った亡霊武者のごとき時間遡行軍を、鶴丸が一刀両断し、戦闘終了を告げる。辺りに残っているのは時間遡行軍の死体と、血の臭いばかりだ。
「立てるか、歌仙兼定。それに他の者も」
鶴丸が声をかけた方向に歌仙が振り返ると、後ろには髭切や乱藤四郎、次郎太刀、物吉貞宗の姿が見えた。どれも歩けないほどの重傷は負っていない。五虎退だけが、歌仙を庇ったために酷い負傷で意識を失っていた。
「五虎退が重傷だが、それ以外は問題ないだろう。……改めて感謝を、鶴丸国永」
「なに、主の親友からの頼みとあっちゃあ、無碍にはできないさ」
ひらひらと手を振る鶴丸国永は、白い羽織に点々とつけた血のせいでその名の通り、鶴のように見えた。
「一応確認しておく。まさかとは思うが、まだ調査を継続するとか言わないだろうな?」
「続けたいところだが、この状態で続けたら僕らの中で二度と本丸に戻れなくなる者も出てくるだろう。それは、主が望むことではない」
「そうだな。俺の主のもとへ連絡をしてきた藤殿の顔ときたら、まるで卒倒しそうな顔だったんだぞ」
鶴丸の話を聞いて、歌仙は返す言葉を失くす。きっと、ひどい心労だっただろう。早く帰って安心させてやらねばと、彼は本丸にいる主を思う。
だが、それは中途半端にこの任務を切り上げることと同じであり、歌仙の中の刀剣男士としての矜持が、少なからぬ傷を負うものでもあった。無論、部隊が無事に帰るのが第一ではあるのだと分かってはいても、だ。
「きみたちが今できることは、早く帰ってその顔を主たちに見せてやることだ。残りの任務については、俺たちが引き取る。大体は藤殿から伝え聞いてはいるが、きみ達が見聞きした内容を簡潔に教えてくれないか」
「分かった。恐らくだが――」
歌仙は手短に、自分たちがこの時代に訪れて目にしたもの、時間遡行軍の動きについて等を語って聞かせた。
「北に向かうほど敵勢力が増大した。そう考えると、今起きている飢饉と、その後の時代において重要な役割を持った人物――白河藩の藩主、松平定信への干渉を目論んでいるのではと、僕は推測している」
「なるほどな。暗殺か、或いは不必要な助言か……どちらにせよ、見過ごすわけにはいかない。俺たちがそちらの確認もしておこう。先ほどの戦いで、敵の勢力が全部だったと言い切ることもできないからな」
自分の考えをまとめ終えてから、鶴丸はふと目を眇めて歌仙に歩み寄り、
「いくら現場の様子を知らないにしても、今回政府が援軍の要請を後回しにした理由がどうにも不可解だ。今後も出陣するときは気をつけるといい」
声を潜めて、歌仙へと忠告を口にする。その真意を歌仙が問うより先に、鶴丸はすっと歌仙から離れた。
「気をつけて帰ってくれ。藤殿にもよろしくな」
歌仙らに背を向けて、鶴丸は立ち去っていく、六人の刀剣男士。同じ刀剣男士ではあるはずなのに、彼らが立つのは歌仙たちでは手の届かない高みなのだと、改めて思い知る。
上には、上がいる。その現実を噛み締めつつも、任務達成への未練を断ち切るかのように歌仙は彼らに背を向け、帰参のための準備を始めた。