本編第一部(完結済み)
ぼんやりと浮かび上がる小さな灯をじいっと見つめ、髭切は目を眇める。
ホウ、と遠くで鳴いているのは何という鳥なのだろう。主はきっと鳥にも詳しいはずだ。今度聞いてみよう。
思いつつ、彼は申し訳程度に集めた木っ端を灯の中に投げ入れる。微かな燃えさしに過ぎなくても、全く灯りがないのとあるのとではまるで違う。
「今日は、随分と月が遠くに見えるね」
ぽつりと呟いた所で、返事はない。それもそのはず、乱も五虎退も物吉も既に夢の中に旅立っている。ここ数日、一行は夜でも体を休めることなく、強行軍を続けていた。肉体的な疲労は感じずとも、精神的な疲弊は溜まっていたのだろう。
だが、それも今日で終わりを迎える。明日には、目的地である北の藩領にたどり着く予定だ。
流石に夜半に忍び込むのは気が引けたというのと、到着地点が近づいてきたにも関わらず、敵の姿を全く見かけなくなったという事情もあり、ここで久しぶりの野宿をして、英気を養おうという話になったのだ。
「こんなに長い間、本丸を空けたのは初めてだよねえ。寧ろこっちの方が僕らの本来の使命だっていうのに」
自分にも焼きが回ってきたということだろうか。それとも、これが人というものなのだろうか。
もう一つ、木っ端を投げる。パチリと爆ぜた小さな火花が、淡く髭切の横顔を照らし出していた。
本丸の中にいるときと違って、意識的に眠気を抑えているから欠伸は出てこない。人間なら本来できないはずの、欲求の意図的な切除。そうしていると、人間でないことを嫌というほど思い出される。
ざくりと土を踏みしめる音に、髭切は意識を外へと向けた。この足音は歌仙と次郎のものだ。偵察から戻ってきたのだろう。
「髭切、見張りありがとう」
予想通り、かけられた声は歌仙のものだった。振り返れば、次郎の大きな影も背後に見える。
「援軍は来てくれそう?」
「主に話はしておいた。主自身、何日も前から掛け合ってはいるようだけれど、どうにも反応が芳しくないらしい」
「まあ、僕たちで全部倒してしまったら関係ないけれどね」
何てことの無いように髭切は言ってみせるものの、やや楽観的に過ぎる予想であるとは歌仙も次郎も、言っている本人ですら理解はしていた。
懸念点は二つ。一つは敵の強さだ。先だっての宿場町で邂逅した敵は、明らかに今まで相まみえたものより練度が高い。
二つ目については、乱が出会ったという正体不明の敵だ。五虎退の短刀が突き刺さっても、致命傷に至らなかったどころか、軽く払い落とされてしまったと二人は話していた。
しかも、その敵は普段短刀を操る敵に似ているというではないか。あの種の敵は素早さこそあれ、耐久性においては幾らか劣る種類だと、彼らは今までの戦いから判断していた。
その前提が覆されている。今回の遠征は、何かがおかしい。ならば、より練度の高い部隊に引き継いでもらった方がいいとまでは、思っていた。
が、現実はそこまで甘くないようだ。
「主の様子はどうだったの?」
「ここまで長期の任務は初めてだったからだろうね。ひどく憔悴しているように見えたよ」
「主がご飯を作ると炭になっちゃうから、憔悴もするだろうね」
髭切の言葉に、次郎は何度か瞬きをしてから「そうなのかい?」と尋ねた。
「炭というより、主の場合は火加減が大雑把すぎるんだよ。僕らが帰ってきたら、主もほっとするだろうさ。土産話と言えるような、風流で面白みのある話はできないのが残念だけれどね」
「人を食っているような時代の話じゃあね」
歌仙の言葉の後を追い、次郎も肩を竦めてみせた。
数日前、髭切たちが目にした光景は時間を置いてから、歌仙へと仔細に報告された。
人をばらばらにして売る男。それを美味いと言いつつも、食らうこと自体に忌避感は覚えていた鬼の角のようなものを生やした女。男が話した、北の方にいるという怨霊の噂。
必要なのは最後の噂だけだったが、前者二つを完全に無視できたかというと、答えは否と言うしかないだろう。
「鬼みたいな人物が、この時代には普通に暮らしているんだね。不思議なものだよ」
歌仙は髭切の隣に腰掛け、しみじみと言葉を紡ぐ。けれども、それを聞いた次郎が、
「何言ってんだい。アタシたちの主にも角はあるんだろう?」
事もなげに尋ねた言葉に、髭切と歌仙は揃って目を丸くする。
主の額に生えているものについては、髭切より後に顕現した者たちにはまだ知らせていない。この中で言うなら、次郎太刀と乱藤四郎だ。
時期を見て話すから、と主が言う以上、歌仙としても無理強いはできず、別に語らずとも本丸での生活に問題はなかったので、結局そのままになってしまっていた。
「……なんだい、二人して鳩が豆鉄砲食ったような顔して」
「いつ知ったの?」
先に動揺から戻ってきたのは髭切だった。同じ屋根の下で暮らす以上、隠し事をしていても互いの態度で透けて見えるものの一つや二つある。次郎が自分の知らぬ所で主の秘密に触れていても、不思議ではないと判断したのだ。
「最初に、おやって思ったのはアタシの初陣の後にやった宴のときだよ。鬼みたいにって話したら、明らかに空気が変わったからねえ。でも、確信したのは大晦日の夜だね」
次郎は月明かりの下、いつもの気さくな笑顔を二人に向けて言った。
「角について悩んでる、誰だって鬼とは呼ばれたくないってね。あんた達が相談しているのを聞いて、主がいつも額に布を巻いてる理由が分かったってわけさ」
たき火の側には座らず、次郎は近くの木にその大きな背を預ける。月と小さな火が照らし出した顔は、常の彼と変わりなかった。
「別にアタシはそれで主が嫌いになったりしないさ。鬼って呼ばれたくないなら呼ばない。角があるってのも、それが何だって話だよ。アタシたちに、危害を加えるわけでもなし」
「……きみがそう言ってくれて、僕は今心底ほっとしているよ」
「そうだね。また、僕みたいなことになったら大変だものねえ」
まるで他人事のように語っているが、顕現直後に角を見せていた主の首を獲ろうとしたのは髭切本人だ。その意味もこめて、歌仙が困ったように彼へと視線を送り、続けて次郎に声をかける。
「きみが察している通り、主に鬼の話題はあまり振らないでもらえるかな。きっと彼女も気にしているだろう。髭切、きみが見たというこの時代の鬼の女性がそうだったように」
「不思議だよねえ。ちょっと人と違うだけなのに、石を投げられるんだから」
それを言うなら僕らだって、という言葉までは流石に髭切も口にはしなかった。
「人を獲って食っているわけでもなし――ああ、でも人は食べてはいるんだっけ? 何だか、ややこしい時代に来ちまったもんだね」
次郎の話す通り、この時代において現代の倫理観などまるで意味を成さない。人を食うのが鬼だというのなら、あの男に騙されて、或いは分かっていてその選択をした人間は全て、鬼ということになってしまう。そんな論理がまかり通るかというと、それもまた何か違うと思うのだ。
「だけど、人を襲って食うようになってしまったら、それは紛れもなく鬼だろうね」
ぞくりと、その場にいる次郎と歌仙は寒気を覚える。
自分たちの近くに座る刀剣男士――髭切の瞳が、すっと細められていた。淡い火の光を受けて、琥珀を彷彿させる色に揺らめいた彼の双眸は、酷く冷たいものに見えた。
「そういう鬼なら、僕は容赦なく斬るよ。たとえそれが、主だったとしても」
ふう、と息を一つ吐き出す。ひょいと顔を上げた髭切は、いつも通りの柔らかな微笑の彼に戻っていた。
「主には、関係ない話だろうけどね。主の好きなものは、歌仙の料理みたいだから」
「……その通りだよ。さて、髭切も少し休んできたらどうだい。いくら寝なくてもいいとは言え、一睡もしないのは流石に堪えるだろう」
「そうだね。ちょっと休もうかな」
自らが発した言葉が呼び水となったかのように、髭切は大きな欠伸をする。抑えていた眠気を受け入れ、彼は木に凭れるようにしゃがんだ。
その腕には、自身である太刀を抱くのを忘れてはいない。急襲に備えて、彼らはいつもそうして休息を取っている。横になるのは、本丸に戻るまでお預けだ。
「明日明後日には、帰りたいもんだね。アタシも禁酒生活が辛くなってきたよ」
「来て早々に飲み干すからだろう?」
ひそひそと、特に意味も無い雑談を続ける。そうして、夜は更け――やがて、朝がやってきた。
***
ここは自分が暮らす本丸だというのに、まるで別の家にいるかのようだと、藤は思う。
歌仙たちが遠征に旅立ってから早十日。彼らがいなくても日は昇るし、皆がいなくなったからと言って時計が早く進むわけでもない。そんなことは分かっているのに、藤は何度も時計やカレンダーを見つめてしまう。
彼らの話を聞いている限り、どうやらこの本丸の部隊が緊急の任務における原因を見つけてしまった――つまり、当たりを引いてしまったらしい。普段なら、敵影なしという連絡が続くはずなのに、今回に限っては事細かに時間遡行軍の詳細な情報が送られてくる。
歌仙が綴る電子メッセージの最後には、いつも「援軍を求む」という内容の言葉が綴られていた。先ほど、久しぶりに数分とは言え対面で顔を合わせたときも、全く同じことを言われてしまった。
だというのに。
「……本部隊で作戦の続行が可能と判断、援軍は暫し待たれよ、か」
政府からの連絡は、この一点張りである。もしかしたら、より強大な敵を見つけた部隊がいて、そちらに人員を割いているのかもしれない。
この程度の難関は、越えて当たり前ということなのだろうか。もっと彼らを信じてみるべきなのか。しかし、その刀剣男士たち自身が、自分たちの手に余ると言ってきているのだ。
もし、判断を誤ってしまったら。待っているのは――そこまで考えて、藤の脳裏にありし日の彼らの姿が思い浮かぶ。
初陣の折、血まみれになって帰ってきた歌仙兼定のことを。
一人突出した行動をとってしまったが故とはいえ、死んでしまうのではないかと思うほどぼろぼろになって戻ってきた髭切のことを。
他にも、腕から足から、或いは腹や胸から血を流し、本丸の玄関に姿を見せた彼らのことを。
その時に濃く薫ってくる、血の匂いのことを。
思い出して、藤は頭をぶんぶんと横に振った。
「やっぱり心配だ。こういうときどうすればいいか、誰かに訊けたらいいのに」
誰かに。例えば、自分より審神者として長く務めている者に。そこまで考えが至った瞬間、藤は端末を取り出し、登録してある連絡先を表示する。
真っ先に出てきたのは、最初の演練で出会った女性――スミレの名だった。だが、彼女は以前会ったときに鍛刀が苦手だと語っていた。ならば、顕現している刀剣男士の数もそこまで多くないかもしれない。自分と同レベルとまでは言わずとも、出陣の回数は少ない可能性が高い。
続いて、煉の名前を見つけて、藤は通話のボタンを押すか躊躇った。冬の演練で出会った先輩の男性。年末には、皆への贈り物について相談にも乗ってもらった。だが、彼こそベテランの審神者として忙しくしているかもしれない。そんなときに、自分が連絡をとっていいものかどうか。
「それに、以前歌仙たちが撤退した後に助けてくれたって言うのに、今回もなんて流石に迷惑かけすぎだよね」
再び案を却下し、最後に表示された審神者の名を見て藤は目を留める。
そこに記されている名は、更紗。夏祭りの折に出会い、一ヶ月ほど前に本丸に遊びに来た、子供の審神者の名だ。彼女の側にいつもいる鶴丸国永からも、友人になって欲しいと頼まれたところでもある。
友人ならば助けてほしい、というほど図々しい下心があったわけではないが、気楽な調子で話してくれる鶴丸は相談しやすい人物であることは確かだ。彼ならば、と思い、藤は今度こそ通話のボタンを押したのだった。
***
最初に、それに気がついたのは五虎退だった。
「敵襲!!」
怯えていても澄んだ声が伝える警報に、歌仙たちの間に緊張が走る。
「数は!?」
五虎退や乱を先行させて、敵はいないことを確認していた。だというのに、この街道沿いにある林で敵に会うとはどういう理由があってか。
疑問は尽きないが、今は問答をしている場合ではない。
「分かりません、でもすごく、多い――っ、歌仙さん!!」
鋭い声と共に、五虎退が歌仙に飛びつく。殿を歩いていた彼に向かって、目にも留まらぬ速さで飛びかかってきたのは、普段は短刀を咥えている浮遊した骨魚に見えた。
が、既にそれの姿はない。恐らく、前を行っている者たちめがけて一目散に駆け抜けていったのだろう。
「全員、二人一組で行動するんだ! 孤立するんじゃない!!」
姿勢を崩した歌仙が辛うじて発することができた指令は、それだけだ。もう前方からは、剣戟が何度か聞こえている。
幸い、混乱に陥った様子はない。急襲で姿勢を立て直せないまま、訳も分からず敗北するという惨事だけは避けられそうだ。
「――っ、僕としたことがっ!」
未だ背中を地につけていた彼を仕留めようと、林の木々の隙間を掻い潜るように現れた、亡霊の如き姿の武者が太刀を振るう。だが、歌仙は身を捻ってそれを躱す。
勢いをつけて転がっていた体を起こし、腰に手挟んでいた刀を抜く。握り慣れた柄を掴み、改めて自分と傍らにいる五虎退を取り囲む敵を睥睨する。
数は多い。街道の宿を使うと悪目立ちする可能性を考えて林で野宿をしたのだが、それが今の状況では仇となった。霧まで薄ら出ている林は、決して視界良好とは言えない。
「だが、街道を行く人を巻き込まずに済んだと見方を変えれば、重畳と思うべきかな」
「歌仙さんとこうして背中を合わせるの、すごく久しぶり……ですね」
「ああ。初めては初陣のときだったね」
あのときは、敵の数も少なかった。自分で敵を討ち取る体験を通して、この体を得た実感というものを改めて確かめられた。
だが、同時に歌仙にとっては忘れられない戦いでもあった。大太刀を仕留めるのに、あれほどの手間をかける必要があったなどと、今の自分から考えれば失笑ものだ。
「さて、それを思えばこれは、雪辱を果たすということでいいかな」
自分たちを囲む敵の中には、大太刀を操る鬼のような敵がざっと数えても三はいる。その体躯は、以前見たものより更に大きいようだ。
他にも、太刀を携えた武者のような時間遡行軍も複数。短刀をくわえた骨魚が幾ばくか、それに脇差と思しき刀を構えた蜘蛛のような異形もちらほらと姿を見せている。
「五虎退。脇差と短刀は任せたよ」
「はい。歌仙さんは大きい方を頼みます」
あの時のように怯むことは、最早ない。
五虎退は唾をごくりと呑み、こちらを押しつぶすように姿を見せる大群に向けて、一歩も引かず睨み付けてみせた。並び立つ歌仙は、朝露が舞う空気を断つように己を振るい、高らかに叫ぶ。
「――我こそは之定が一振り、歌仙兼定なり!」
「おやおや、これはまあ酷いもんだね」
自分の傍らを通り過ぎようとする、打刀を持つ落ち武者のような異形を、まずはざっと横薙ぎで一払い。次いで、同じく脇を掠めかける短刀を咥えた骨魚の尾を、
「おっと」
何てことのないように、次郎は掴む。突如前に進めなくなった骨魚が動揺している様子は、肉の落ちた顔であるというのによく分かった。
構わず、次郎はそれを地面に叩きつけ、己の履く草履で踏み抜く。呆気ないほど容易く割れたその肉体が、一体何でできていたのか。そんなことを次郎はいちいち考えない。
「次郎さん、大丈夫!?」
「はいはい。次郎さんは平気だよー! それにしても、いきなり現れたねえ。よっぽどアタシたちに例の偉い人に会わせたくないってことかなっと」
ぶん、と勢いよく振られた大太刀は、鉄の暴風となって次郎に挑みかかろうとした亡霊武者をなぎ払った。
がら空きになった背中に向けて、そろりとボロ傘を被った異形が近寄る。そのまま打刀を次郎めがけて振り下ろそうとするも、
「こーら、背中からなんて卑怯だぞ!」
その異形の背中に組み付いたのは、乱藤四郎だった。
丁度敵の首に足を絡めるようにして飛びついた彼は、振りほどかれそうになるのをどうにか凌ぎ、自分が持つ短刀を躊躇うことなく敵の喉笛に突き立てる。
飛び立つ飛沫を浴びるより先に、乱はひらりと飛び退いた。同時に、どうと音をたてて敵が崩れ落ちる。
「次郎さん、後ろも気をつけないとダメだよ?」
「あっはっは、助かったよ乱。背後は任せていいかい」
「もっちろん。ボクの初陣、可愛くきめちゃうよ!」
言葉こそ愛らしさがあるものの、敵を見据える空色の瞳は野生の獣にも負けないくらいぎらぎらと輝いていた。彼に背中を預けている次郎の瞳も、普段の酔っ払った様子を微塵も感じさせない激しさを帯びている。
「アタシと乱が揃えば、どんな敵もイチコロさ」
「ふふ。そのとーり!!」
ひらりと舞うのは、黒の蝶と金の蝶。彼らが振るう二振りの銀は、次なる敵を求めて再び飛び出していく。
こいつは、何かおかしい。まず二人が思ったのは、そのことだった。先頭を歩いていた髭切と物吉が、五虎退の警戒を促す声を聞いてすぐ。それは彼らの前に現れた。
「ああ……これが乱たちが言っていた敵だね」
見た目は、短刀を咥えた骨魚の敵に近い。だが、それが咥えているのは短刀とは思えなかった。
無骨なその鉄の杭には、柄のようなものが見当たらない。辛うじて握り手と思しき部分の柄頭からは、鎖がじゃらじゃらと伸びて骨ばかりの胴体に巻き付いていた。この武器を操るのが人間ならば、鎖を使って絡め手を用いたかもしれない。
見た目だけならば、以前主が見せてくれた書物の中で目にした苦無という武器に似ている。だが今は名前など、どうでもよくなるような問題が一つあった。
「随分と、固い……」
傍らに立つ物吉が呻くように呟く。
物吉や他の短刀たちのような足の速い者でしか捉えられない素早さに加えて、この敵は異常な硬度を誇っていた。髭切が己の太刀を少し掠めさせたくらいでは、小揺るぎもしない。まるで岩を叩いているかのようだ。
「物吉、周りを任せてもいい?」
「はい。でも、髭切さんであの速さの敵を捕まえられますか?」
別に髭切を侮っているわけではない。単なる事実として、髭切には荷が重いのでは無いかと物吉は案じているのだ。
「だけど、物吉は捕らえられても仕留められないよね」
そう言われてしまうと、物吉も言い返す言葉がない。自分の力では、精々あの奇妙な武器を携えた敵にかすり傷をつけるのが精々だ。
「分かりました。髭切さんに、任せます」
物吉は頷き、自分の得物を構えて周囲に姿を見せていた敵へと視線を送る。他の脇差に比べて小ぶりなそれは、短刀のように小回りが利く。特に、今のような入り組んだ場所での戦闘ではこの武器が活きる。
自分に向かって突っ込んでくる、短刀を咥えた骨魚の怪異を、すれ違いざまに数振りするだけでその体を断つ。駆け抜ける勢いを殺さず、立ち並ぶ木々の一つに手をかけ、急制動。直角に体の向きを変えた先には、木々の陰に身を潜めている時間遡行軍の一体がいた。
「隠れても、無駄ですよ!!」
流星のように物吉が飛び込み、鎧武者の敵の懐に己を突き立てる。本来なら鎧が邪魔で攻撃が通りにくいものだが、こういうときは小さな刃も役に立つ。
敵を蹴っ飛ばして突き刺さった脇差を抜き、振り返りざまに背後から近寄っていた落ち武者めいた異形を、脇差をなぎ払って牽制する。
異形が持つ、およそ人のものとは思えない不自然に膨れ上がった腕は、腐った死体を思わせる肌の色をしていた。
川辺に流れ着いていた死体の数々。或いはそこで主と共に朽ち果てることになった数多の物たちの姿を想像し、物吉はその整った顔を一瞬歪める。
「ボクたちは、この歴史を守ります。そうすることが、ボクらの役割ですから」
それが、今の主の幸せに繋がるのなら。たとえ全てに手を届けることはできなくても、と物吉は決意を再び固める。琥珀の双眸は小揺るぎもせず、敵の濁った紅い目を正面から見据えていた。
自分の周りを挑発するように飛び交う敵の武器は、やはり見た目通り切れ味の良いもののようだ。実際、髭切が苦無を持つこの敵を捕らえ損なった代償として、彼の足や腕に薄いかすり傷がついている。
最初は物吉や五虎退がそうしているように、目で追おうともした。だが、どう頑張っても敵が早すぎる。目で辛うじて追えても、その手はまるで届かない。太刀を振るうより先に、敵が消えてしまう。
あれを捕らえるなら、動く先を予想して何かを投げるか、予想地点に突っ込むか、それを上回る速さで食らいつくか。どの手段も、髭切のような体躯の大きい刀剣男士では難しい。次郎なら、力任せに大太刀を振るって一か八かに賭けられたかもしれないが、ないものねだりをしてもしょうがない。
「さてさて、どうしようかな」
弄ぶようにいくつか傷をつけながらも、相手もこちらの出方を窺っているのか、致命的な急所を狙わない。空を浮遊し、時折髭切を伺うように、じっと見ていることがある。
だが、物吉の方に向かおうとすれば、当たらずとも髭切の一撃がこのすばしっこい怪異に向けて繰り出される。膠着状態を維持している分には、こちらに有利に働いているのは確かだ。
相対してにらみ合うこと暫し。硬直時間に終わりを告げたのは、がさがさと茂みをかき分ける音だった。
「!」
そこから姿を現したのは、鬼面をそのまま顔としたような武者。携えているのは一本の槍。足取りこそ鈍重であるものの、新たな敵の登場に髭切の気が僅かに逸らされる。
彼が見せた動揺を、骨魚の異形はぽっかりと空いた眼窩であっても見逃さなかった。鎖の音を鳴らし、骨魚が彼に肉薄する。
針を通すように隙を突き、急所を穿たんと迫り、その刃は確かに肉を抉った――はずだった。
「ああ、やっと来てくれたんだね」
だというのに、この敵は何故こんな声をかけるのか。まるでこちらが、わざと誘い込まれてやってくるのを待つかのように。
動揺のせいか、或いは予め向こうがこちらの動きを読んだためか。狙っていた腹ではなく、鋭い苦無は脇腹を掠めるように刺さり、動かなくなっていた。
傷自体は少し深いが、全く抜けなくなるほどのものではない。なのに、なぜ抜けないのか。
その理由を問うより先に、骨魚の胴がむんずと彼の手に掴まれる。ずるりと脇腹から刃が抜け落ちて血が溢れるものの、髭切はまるで気にしている様子を見せない。
――こいつは、何だ。
異形の敵でも、感情がないわけではない。苦無を咥えた時間遡行軍は、今すぐこの場から逃げ出したいという否定的な衝動――恐怖に駆られていた。
「やっと捕まえられた。頃合いを見計らって腹に力を入れて抜けないようにする、なんて芸当は何度もできないから逃げちゃだめだよ。さて、君はとーっても硬いようだけど。どれくらい硬いのかなあ」
骨魚に顔色があったら、それは真っ青になっていただろう。薄く微笑を浮かべたその青年は、暴れる骨魚を無視して、まず新手である槍を持った鬼の武者に接近する。
「鬼退治は僕の物語の一つだからね。ちゃんと今度は殺しておかないと」
思わず逃げ腰になりかける、鬼のような時間遡行軍の一人に数歩で肉薄して、片手で握っている太刀で武者の首をなぎ払う。及び腰になっている敵が敵うわけもなく、首こそ落ちずとも鮮血が溢れ飛んだ。
右腕を振るったついでとばかりに、髭切は左手に持っていた骨魚を、ものは試しと崩れ落ちかけていた鬼の武者へと叩きつける。骨魚が咥えていた苦無の鎖が、じゃらじゃらと耳障りな音を派手にたてた。
岩で殴ったのではないかと思うほどの、低く鈍い音が響くと同時に、武者の敵は槍を取り落として、その場にどうと倒れた。もはや、立ち上がることはないだろう。対する骨魚は、未だじたばたともがき続けている。
「おお、怖い怖い。石頭なんだねえ、君は」
その石頭の敵を逃がさないように、胴体部分を足で踏みつけてからは彼は手を離す。棘がついた骨の頭をばたばたとさせる敵は、さながら陸に揚げられた魚のようだ。
「さて、と。硬いと言っても、これはどうだろう?」
髭切は両手で持った己自身の切っ先を真下に向けんと垂直に持ち直し、骨魚の頭部へと切っ先の標準を合わせる。
短刀で薙いでも脇差で払っても物ともせず、太刀で払っても擦過傷をつけるのが精々というのなら。より深い傷を、しっかりと刻み込むまでのこと。それが、髭切の出した答えだ。
捕まえるために、わざと隙を作ってこちらに誘い込まねばならないのは難点だが、おかげでこうして敵は俎上の鯉となった。
「君が大将首だと、斬り落とすのが大変だろうね」
真っ直ぐ自分に向かって落とされた銀光。そして、ガツンという鈍い音が、意識を途切れさせる前に苦無を咥えた敵が聞いた、最期の音だった。
相手の脇腹を腰だめに構えた刀で一突き、次いで側面から振り下ろされる太刀は受け止められないと判断し、身を捻って躱す。だが躱しきることは叶わず、着物の袖が少し破れた。
視界の端に過る外套が血で汚れていることに気がつき、歌仙は顔を顰める。主の元に帰っても、これではまた心配をさせてしまうだろう。或いは、心配をしていないというふりをさせてしまうだろう。
「歌仙さん!」
「こっちは平気だ!!」
振り返ることもなく、歌仙は両手で柄を握り込む。相手の動きに合わせて、大上段からの一撃。鍔迫り合いに持ち込まれたとしても、押し切られるつもりなど毛頭ない。
「はあああぁぁ!!」
気合いを込めた声と共に、ぐいと敵が押され、姿勢が崩れる。均衡が破られ、歌仙が真っ直ぐに振り下ろした一撃は、敵を一刀両断にする。纏う鎧ごと崩れ落ちた敵には一瞥もくれず、歌仙は辺りを睥睨した。
ざっと見た限り、あれが自分の視界に収まる範囲での最後の一体だった。これで、全て凌げたはずだ。恐らくは、政府が最初に観測したのもこの大人数の部隊だったのだろう。
「歌仙さん、終わった……のでしょうか」
「ああ。今のところは……」
ひゅう、と冷たい風が通り過ぎる。辺りは、異様なまでに静かだ。戦いが終わったからか。全ての敵を倒したからか。
だというのに、どうしてこの胸騒ぎは消えてくれない?
「嫌な予感がする。五虎退、まだ構えておくんだよ」
「……はい」
翡翠と同色の瞳を凝らし、歌仙は自分が木々の隙間を凝視する。そこから現れる者が何かを捉えようとしていた彼は、滲み出る数多の気配を見逃すことはなかった。
「そこに隠れている者たち、出てくるといい。僕たちが撤退してから進軍をするつもりだったのかもしれないが、そうはいかない」
歌仙の挑発に乗ったかのように、ぞろぞろと林から姿を見せた時間遡行軍の数を見て、歌仙は返り血を浴びた顔を苦渋に歪ませる。
「……っ!」
口汚い罵りの言葉を叫び出したくなるのも仕方ない。倒れた敵の屍を踏み越えるように、木々の向こうから現れた敵の姿の数。それは、まさにたった六人しかいない刀剣男士を飲み込まんとする、黒雲のように見えるのだから。
想像するに、第一陣である歌仙達が相手をしていた部隊では対処しきれるならばと、控えていた者たちだろう。
「歌仙さん……!」
五虎退も、眼前の敵の数に表情を引き締め直す。歌仙たちから離れている乱や次郎たち、更に向こう側の髭切や物吉たちの方からも、戦いの気配が収まらない。恐らくは、彼らもまた増援に翻弄されているに違いない。
たしかに、実力はついている。敵を倒すための力も、長く戦うための力も身についている。だが、この大群を相手取って全てを蹴散らせるかと問われれば、正直厳しい。
最初に歩いていた場所からも、既に遠ざかっている。自分たちが今どこにいるのかも、正直はっきりしていない。土地勘などというものは当然望めない。そんな状態でも、第一波を退けることができたのは確かに一つの成長の証だ。
けれども、それだけでは足りないというのが現実というものだと、彼らは今思い知らされていた。
「援軍は……あるじさまが、頼んでおいてくれたんですよね」
「ああ。だから、それまで僕らが奴らの跳梁を阻まなければならない」
血で滑りかけた柄を掴み直し、歌仙は汗で貼り付いた前髪を払うこともなく、敵を睨む。五虎退が鋭く息を呑むと同時に、わっと異形の武者が彼らに迫る。
背中だけは五虎退に預けている。だが、それ以外の手の届く範囲は全てが死の領域に等しい。敵の振るう銀の刃を受け止め、弾き、上から襲い来る大太刀を後ろに下がって回避しようと試み、し損なったせいで額に薄く切り傷が走る。
疲労が溜まっている。
継続した戦闘の疲労、血を流した疲労、痛みを覚え続けていることの疲労。意識的に全ての感覚を断つか。だが、そうすれば引き際も分からなくなる。引くことができるのかという根本的な疑念は、今は放棄する。
一方、数で勝ると判断した彼らがとったのは、まるで獣が獲物をいたぶるかのような包囲戦だ。歌仙にとっては最悪だが、敵にとって最善手なのは戦の素人でもわかる。
前に踏み出た敵の攻撃をフェイントと見抜き、体をわずかに捻るに留め、後ろからの一刀を刀で防ぐ。
が、死角からのもう一撃は、予測できても避けられはしない。ギリギリのところで、肌を数センチ切り裂かれるにとどめたつもりだったが、
「――ぐっ」
呻き声が漏れ、敵が笑うような引きつった耳障りな声が嫌という程、彼の耳に響く。時間遡行軍の腕が歌仙へと伸び、着物に触れると思うより先に姿勢が崩れて、彼はどうと倒れ込んだ。
瞬間、確かに歌仙は目にした。敵の手が、自分が首から提げている不恰好な金襴の袋に掠ったことに。
その袋は、彼女がくれたものだった。戦いに送り出すときはいつも気丈に振る舞い続ける主が、無事に帰ってきてくれという思いを形にして渡してくれたお守りだ。
「それに触るな!!」
己の体勢など無視して、歌仙は片手で握った刀で自分に馬乗りになろうとしていた敵を追い払う。最早、火事場の馬鹿力だ。
だが、それも一瞬のこと。敵は怯むより先に逆さまに持ち直した打刀を、まだ半ば倒れ込んでいる歌仙に突き立てんとした。ごろごろとその場に転がり辛うじて致命傷を避けるも、これで敵の位置が分からなくなってしまった。それでも立ち上がらねばと、彼が反射的に身を起こしたとき、
「歌仙さん!」
少年の鋭い呼び声に、熱くなっていた感情が一気に冷える。思わず振り返り、彼は瞳を見開いた。
自分を庇うように両手を広げる少年の姿。それが、彼の視界に飛び込んだものだ。
全ての時が、まるでのろのろと進んでいるかのように感じられた。紺と白の五虎退の華奢な体から、目が眩むような赤が爆ぜるより先に、歌仙は彼に突き飛ばされて姿勢を崩し倒れ込む。
瞬間、丁度自分の首があった所に、死角から繰り出された薙刀の一撃が通り過ぎていった。あまりに速く、最初それは風が通り抜けていっただけのようにすら思えた。
「五虎退!!」
声を取り戻した瞬間、歌仙の中で時が正常に動き始める。自分の側に倒れ伏す少年を、抱え上げる余裕など当然ない。
立たなくてはならない。背中を預ける者がいなくても。
「――戦とあらば、散る最期まで戦い続けるのが刀の本道。来るがいい!!」
退くことは最早叶わないと彼は腹を括り、吼える。
その呼び声に応えるかのように、彼の目の前に桜の花びらがはらりと舞う。
さながら雪のように、血に染まらない白の花。この血濡れた戦場に、不似合いな白桜の花弁が彼の眼前を通り過ぎたときだった。
「確かに、刀の本道は散る最期まで戦い続けることかもしれない。だが、きみは散るより先に会うべき相手がいるはずだ」
飄々とした声が、辺りの空気の全てをかっさらう。ばさりと舞うは、白の装束。肩に担ぐは金鎖をつけた白鞘。その背中を、その声を、歌仙は知っている。
「助太刀に来たぞ、歌仙兼定。さて、ここからは俺たちも混ぜてもらおうか!!」
白の羽織を靡かせて、金の瞳を輝かせた刀剣男士――鶴丸国永が、自身の参上を高らかに宣言した。
ホウ、と遠くで鳴いているのは何という鳥なのだろう。主はきっと鳥にも詳しいはずだ。今度聞いてみよう。
思いつつ、彼は申し訳程度に集めた木っ端を灯の中に投げ入れる。微かな燃えさしに過ぎなくても、全く灯りがないのとあるのとではまるで違う。
「今日は、随分と月が遠くに見えるね」
ぽつりと呟いた所で、返事はない。それもそのはず、乱も五虎退も物吉も既に夢の中に旅立っている。ここ数日、一行は夜でも体を休めることなく、強行軍を続けていた。肉体的な疲労は感じずとも、精神的な疲弊は溜まっていたのだろう。
だが、それも今日で終わりを迎える。明日には、目的地である北の藩領にたどり着く予定だ。
流石に夜半に忍び込むのは気が引けたというのと、到着地点が近づいてきたにも関わらず、敵の姿を全く見かけなくなったという事情もあり、ここで久しぶりの野宿をして、英気を養おうという話になったのだ。
「こんなに長い間、本丸を空けたのは初めてだよねえ。寧ろこっちの方が僕らの本来の使命だっていうのに」
自分にも焼きが回ってきたということだろうか。それとも、これが人というものなのだろうか。
もう一つ、木っ端を投げる。パチリと爆ぜた小さな火花が、淡く髭切の横顔を照らし出していた。
本丸の中にいるときと違って、意識的に眠気を抑えているから欠伸は出てこない。人間なら本来できないはずの、欲求の意図的な切除。そうしていると、人間でないことを嫌というほど思い出される。
ざくりと土を踏みしめる音に、髭切は意識を外へと向けた。この足音は歌仙と次郎のものだ。偵察から戻ってきたのだろう。
「髭切、見張りありがとう」
予想通り、かけられた声は歌仙のものだった。振り返れば、次郎の大きな影も背後に見える。
「援軍は来てくれそう?」
「主に話はしておいた。主自身、何日も前から掛け合ってはいるようだけれど、どうにも反応が芳しくないらしい」
「まあ、僕たちで全部倒してしまったら関係ないけれどね」
何てことの無いように髭切は言ってみせるものの、やや楽観的に過ぎる予想であるとは歌仙も次郎も、言っている本人ですら理解はしていた。
懸念点は二つ。一つは敵の強さだ。先だっての宿場町で邂逅した敵は、明らかに今まで相まみえたものより練度が高い。
二つ目については、乱が出会ったという正体不明の敵だ。五虎退の短刀が突き刺さっても、致命傷に至らなかったどころか、軽く払い落とされてしまったと二人は話していた。
しかも、その敵は普段短刀を操る敵に似ているというではないか。あの種の敵は素早さこそあれ、耐久性においては幾らか劣る種類だと、彼らは今までの戦いから判断していた。
その前提が覆されている。今回の遠征は、何かがおかしい。ならば、より練度の高い部隊に引き継いでもらった方がいいとまでは、思っていた。
が、現実はそこまで甘くないようだ。
「主の様子はどうだったの?」
「ここまで長期の任務は初めてだったからだろうね。ひどく憔悴しているように見えたよ」
「主がご飯を作ると炭になっちゃうから、憔悴もするだろうね」
髭切の言葉に、次郎は何度か瞬きをしてから「そうなのかい?」と尋ねた。
「炭というより、主の場合は火加減が大雑把すぎるんだよ。僕らが帰ってきたら、主もほっとするだろうさ。土産話と言えるような、風流で面白みのある話はできないのが残念だけれどね」
「人を食っているような時代の話じゃあね」
歌仙の言葉の後を追い、次郎も肩を竦めてみせた。
数日前、髭切たちが目にした光景は時間を置いてから、歌仙へと仔細に報告された。
人をばらばらにして売る男。それを美味いと言いつつも、食らうこと自体に忌避感は覚えていた鬼の角のようなものを生やした女。男が話した、北の方にいるという怨霊の噂。
必要なのは最後の噂だけだったが、前者二つを完全に無視できたかというと、答えは否と言うしかないだろう。
「鬼みたいな人物が、この時代には普通に暮らしているんだね。不思議なものだよ」
歌仙は髭切の隣に腰掛け、しみじみと言葉を紡ぐ。けれども、それを聞いた次郎が、
「何言ってんだい。アタシたちの主にも角はあるんだろう?」
事もなげに尋ねた言葉に、髭切と歌仙は揃って目を丸くする。
主の額に生えているものについては、髭切より後に顕現した者たちにはまだ知らせていない。この中で言うなら、次郎太刀と乱藤四郎だ。
時期を見て話すから、と主が言う以上、歌仙としても無理強いはできず、別に語らずとも本丸での生活に問題はなかったので、結局そのままになってしまっていた。
「……なんだい、二人して鳩が豆鉄砲食ったような顔して」
「いつ知ったの?」
先に動揺から戻ってきたのは髭切だった。同じ屋根の下で暮らす以上、隠し事をしていても互いの態度で透けて見えるものの一つや二つある。次郎が自分の知らぬ所で主の秘密に触れていても、不思議ではないと判断したのだ。
「最初に、おやって思ったのはアタシの初陣の後にやった宴のときだよ。鬼みたいにって話したら、明らかに空気が変わったからねえ。でも、確信したのは大晦日の夜だね」
次郎は月明かりの下、いつもの気さくな笑顔を二人に向けて言った。
「角について悩んでる、誰だって鬼とは呼ばれたくないってね。あんた達が相談しているのを聞いて、主がいつも額に布を巻いてる理由が分かったってわけさ」
たき火の側には座らず、次郎は近くの木にその大きな背を預ける。月と小さな火が照らし出した顔は、常の彼と変わりなかった。
「別にアタシはそれで主が嫌いになったりしないさ。鬼って呼ばれたくないなら呼ばない。角があるってのも、それが何だって話だよ。アタシたちに、危害を加えるわけでもなし」
「……きみがそう言ってくれて、僕は今心底ほっとしているよ」
「そうだね。また、僕みたいなことになったら大変だものねえ」
まるで他人事のように語っているが、顕現直後に角を見せていた主の首を獲ろうとしたのは髭切本人だ。その意味もこめて、歌仙が困ったように彼へと視線を送り、続けて次郎に声をかける。
「きみが察している通り、主に鬼の話題はあまり振らないでもらえるかな。きっと彼女も気にしているだろう。髭切、きみが見たというこの時代の鬼の女性がそうだったように」
「不思議だよねえ。ちょっと人と違うだけなのに、石を投げられるんだから」
それを言うなら僕らだって、という言葉までは流石に髭切も口にはしなかった。
「人を獲って食っているわけでもなし――ああ、でも人は食べてはいるんだっけ? 何だか、ややこしい時代に来ちまったもんだね」
次郎の話す通り、この時代において現代の倫理観などまるで意味を成さない。人を食うのが鬼だというのなら、あの男に騙されて、或いは分かっていてその選択をした人間は全て、鬼ということになってしまう。そんな論理がまかり通るかというと、それもまた何か違うと思うのだ。
「だけど、人を襲って食うようになってしまったら、それは紛れもなく鬼だろうね」
ぞくりと、その場にいる次郎と歌仙は寒気を覚える。
自分たちの近くに座る刀剣男士――髭切の瞳が、すっと細められていた。淡い火の光を受けて、琥珀を彷彿させる色に揺らめいた彼の双眸は、酷く冷たいものに見えた。
「そういう鬼なら、僕は容赦なく斬るよ。たとえそれが、主だったとしても」
ふう、と息を一つ吐き出す。ひょいと顔を上げた髭切は、いつも通りの柔らかな微笑の彼に戻っていた。
「主には、関係ない話だろうけどね。主の好きなものは、歌仙の料理みたいだから」
「……その通りだよ。さて、髭切も少し休んできたらどうだい。いくら寝なくてもいいとは言え、一睡もしないのは流石に堪えるだろう」
「そうだね。ちょっと休もうかな」
自らが発した言葉が呼び水となったかのように、髭切は大きな欠伸をする。抑えていた眠気を受け入れ、彼は木に凭れるようにしゃがんだ。
その腕には、自身である太刀を抱くのを忘れてはいない。急襲に備えて、彼らはいつもそうして休息を取っている。横になるのは、本丸に戻るまでお預けだ。
「明日明後日には、帰りたいもんだね。アタシも禁酒生活が辛くなってきたよ」
「来て早々に飲み干すからだろう?」
ひそひそと、特に意味も無い雑談を続ける。そうして、夜は更け――やがて、朝がやってきた。
***
ここは自分が暮らす本丸だというのに、まるで別の家にいるかのようだと、藤は思う。
歌仙たちが遠征に旅立ってから早十日。彼らがいなくても日は昇るし、皆がいなくなったからと言って時計が早く進むわけでもない。そんなことは分かっているのに、藤は何度も時計やカレンダーを見つめてしまう。
彼らの話を聞いている限り、どうやらこの本丸の部隊が緊急の任務における原因を見つけてしまった――つまり、当たりを引いてしまったらしい。普段なら、敵影なしという連絡が続くはずなのに、今回に限っては事細かに時間遡行軍の詳細な情報が送られてくる。
歌仙が綴る電子メッセージの最後には、いつも「援軍を求む」という内容の言葉が綴られていた。先ほど、久しぶりに数分とは言え対面で顔を合わせたときも、全く同じことを言われてしまった。
だというのに。
「……本部隊で作戦の続行が可能と判断、援軍は暫し待たれよ、か」
政府からの連絡は、この一点張りである。もしかしたら、より強大な敵を見つけた部隊がいて、そちらに人員を割いているのかもしれない。
この程度の難関は、越えて当たり前ということなのだろうか。もっと彼らを信じてみるべきなのか。しかし、その刀剣男士たち自身が、自分たちの手に余ると言ってきているのだ。
もし、判断を誤ってしまったら。待っているのは――そこまで考えて、藤の脳裏にありし日の彼らの姿が思い浮かぶ。
初陣の折、血まみれになって帰ってきた歌仙兼定のことを。
一人突出した行動をとってしまったが故とはいえ、死んでしまうのではないかと思うほどぼろぼろになって戻ってきた髭切のことを。
他にも、腕から足から、或いは腹や胸から血を流し、本丸の玄関に姿を見せた彼らのことを。
その時に濃く薫ってくる、血の匂いのことを。
思い出して、藤は頭をぶんぶんと横に振った。
「やっぱり心配だ。こういうときどうすればいいか、誰かに訊けたらいいのに」
誰かに。例えば、自分より審神者として長く務めている者に。そこまで考えが至った瞬間、藤は端末を取り出し、登録してある連絡先を表示する。
真っ先に出てきたのは、最初の演練で出会った女性――スミレの名だった。だが、彼女は以前会ったときに鍛刀が苦手だと語っていた。ならば、顕現している刀剣男士の数もそこまで多くないかもしれない。自分と同レベルとまでは言わずとも、出陣の回数は少ない可能性が高い。
続いて、煉の名前を見つけて、藤は通話のボタンを押すか躊躇った。冬の演練で出会った先輩の男性。年末には、皆への贈り物について相談にも乗ってもらった。だが、彼こそベテランの審神者として忙しくしているかもしれない。そんなときに、自分が連絡をとっていいものかどうか。
「それに、以前歌仙たちが撤退した後に助けてくれたって言うのに、今回もなんて流石に迷惑かけすぎだよね」
再び案を却下し、最後に表示された審神者の名を見て藤は目を留める。
そこに記されている名は、更紗。夏祭りの折に出会い、一ヶ月ほど前に本丸に遊びに来た、子供の審神者の名だ。彼女の側にいつもいる鶴丸国永からも、友人になって欲しいと頼まれたところでもある。
友人ならば助けてほしい、というほど図々しい下心があったわけではないが、気楽な調子で話してくれる鶴丸は相談しやすい人物であることは確かだ。彼ならば、と思い、藤は今度こそ通話のボタンを押したのだった。
***
最初に、それに気がついたのは五虎退だった。
「敵襲!!」
怯えていても澄んだ声が伝える警報に、歌仙たちの間に緊張が走る。
「数は!?」
五虎退や乱を先行させて、敵はいないことを確認していた。だというのに、この街道沿いにある林で敵に会うとはどういう理由があってか。
疑問は尽きないが、今は問答をしている場合ではない。
「分かりません、でもすごく、多い――っ、歌仙さん!!」
鋭い声と共に、五虎退が歌仙に飛びつく。殿を歩いていた彼に向かって、目にも留まらぬ速さで飛びかかってきたのは、普段は短刀を咥えている浮遊した骨魚に見えた。
が、既にそれの姿はない。恐らく、前を行っている者たちめがけて一目散に駆け抜けていったのだろう。
「全員、二人一組で行動するんだ! 孤立するんじゃない!!」
姿勢を崩した歌仙が辛うじて発することができた指令は、それだけだ。もう前方からは、剣戟が何度か聞こえている。
幸い、混乱に陥った様子はない。急襲で姿勢を立て直せないまま、訳も分からず敗北するという惨事だけは避けられそうだ。
「――っ、僕としたことがっ!」
未だ背中を地につけていた彼を仕留めようと、林の木々の隙間を掻い潜るように現れた、亡霊の如き姿の武者が太刀を振るう。だが、歌仙は身を捻ってそれを躱す。
勢いをつけて転がっていた体を起こし、腰に手挟んでいた刀を抜く。握り慣れた柄を掴み、改めて自分と傍らにいる五虎退を取り囲む敵を睥睨する。
数は多い。街道の宿を使うと悪目立ちする可能性を考えて林で野宿をしたのだが、それが今の状況では仇となった。霧まで薄ら出ている林は、決して視界良好とは言えない。
「だが、街道を行く人を巻き込まずに済んだと見方を変えれば、重畳と思うべきかな」
「歌仙さんとこうして背中を合わせるの、すごく久しぶり……ですね」
「ああ。初めては初陣のときだったね」
あのときは、敵の数も少なかった。自分で敵を討ち取る体験を通して、この体を得た実感というものを改めて確かめられた。
だが、同時に歌仙にとっては忘れられない戦いでもあった。大太刀を仕留めるのに、あれほどの手間をかける必要があったなどと、今の自分から考えれば失笑ものだ。
「さて、それを思えばこれは、雪辱を果たすということでいいかな」
自分たちを囲む敵の中には、大太刀を操る鬼のような敵がざっと数えても三はいる。その体躯は、以前見たものより更に大きいようだ。
他にも、太刀を携えた武者のような時間遡行軍も複数。短刀をくわえた骨魚が幾ばくか、それに脇差と思しき刀を構えた蜘蛛のような異形もちらほらと姿を見せている。
「五虎退。脇差と短刀は任せたよ」
「はい。歌仙さんは大きい方を頼みます」
あの時のように怯むことは、最早ない。
五虎退は唾をごくりと呑み、こちらを押しつぶすように姿を見せる大群に向けて、一歩も引かず睨み付けてみせた。並び立つ歌仙は、朝露が舞う空気を断つように己を振るい、高らかに叫ぶ。
「――我こそは之定が一振り、歌仙兼定なり!」
「おやおや、これはまあ酷いもんだね」
自分の傍らを通り過ぎようとする、打刀を持つ落ち武者のような異形を、まずはざっと横薙ぎで一払い。次いで、同じく脇を掠めかける短刀を咥えた骨魚の尾を、
「おっと」
何てことのないように、次郎は掴む。突如前に進めなくなった骨魚が動揺している様子は、肉の落ちた顔であるというのによく分かった。
構わず、次郎はそれを地面に叩きつけ、己の履く草履で踏み抜く。呆気ないほど容易く割れたその肉体が、一体何でできていたのか。そんなことを次郎はいちいち考えない。
「次郎さん、大丈夫!?」
「はいはい。次郎さんは平気だよー! それにしても、いきなり現れたねえ。よっぽどアタシたちに例の偉い人に会わせたくないってことかなっと」
ぶん、と勢いよく振られた大太刀は、鉄の暴風となって次郎に挑みかかろうとした亡霊武者をなぎ払った。
がら空きになった背中に向けて、そろりとボロ傘を被った異形が近寄る。そのまま打刀を次郎めがけて振り下ろそうとするも、
「こーら、背中からなんて卑怯だぞ!」
その異形の背中に組み付いたのは、乱藤四郎だった。
丁度敵の首に足を絡めるようにして飛びついた彼は、振りほどかれそうになるのをどうにか凌ぎ、自分が持つ短刀を躊躇うことなく敵の喉笛に突き立てる。
飛び立つ飛沫を浴びるより先に、乱はひらりと飛び退いた。同時に、どうと音をたてて敵が崩れ落ちる。
「次郎さん、後ろも気をつけないとダメだよ?」
「あっはっは、助かったよ乱。背後は任せていいかい」
「もっちろん。ボクの初陣、可愛くきめちゃうよ!」
言葉こそ愛らしさがあるものの、敵を見据える空色の瞳は野生の獣にも負けないくらいぎらぎらと輝いていた。彼に背中を預けている次郎の瞳も、普段の酔っ払った様子を微塵も感じさせない激しさを帯びている。
「アタシと乱が揃えば、どんな敵もイチコロさ」
「ふふ。そのとーり!!」
ひらりと舞うのは、黒の蝶と金の蝶。彼らが振るう二振りの銀は、次なる敵を求めて再び飛び出していく。
こいつは、何かおかしい。まず二人が思ったのは、そのことだった。先頭を歩いていた髭切と物吉が、五虎退の警戒を促す声を聞いてすぐ。それは彼らの前に現れた。
「ああ……これが乱たちが言っていた敵だね」
見た目は、短刀を咥えた骨魚の敵に近い。だが、それが咥えているのは短刀とは思えなかった。
無骨なその鉄の杭には、柄のようなものが見当たらない。辛うじて握り手と思しき部分の柄頭からは、鎖がじゃらじゃらと伸びて骨ばかりの胴体に巻き付いていた。この武器を操るのが人間ならば、鎖を使って絡め手を用いたかもしれない。
見た目だけならば、以前主が見せてくれた書物の中で目にした苦無という武器に似ている。だが今は名前など、どうでもよくなるような問題が一つあった。
「随分と、固い……」
傍らに立つ物吉が呻くように呟く。
物吉や他の短刀たちのような足の速い者でしか捉えられない素早さに加えて、この敵は異常な硬度を誇っていた。髭切が己の太刀を少し掠めさせたくらいでは、小揺るぎもしない。まるで岩を叩いているかのようだ。
「物吉、周りを任せてもいい?」
「はい。でも、髭切さんであの速さの敵を捕まえられますか?」
別に髭切を侮っているわけではない。単なる事実として、髭切には荷が重いのでは無いかと物吉は案じているのだ。
「だけど、物吉は捕らえられても仕留められないよね」
そう言われてしまうと、物吉も言い返す言葉がない。自分の力では、精々あの奇妙な武器を携えた敵にかすり傷をつけるのが精々だ。
「分かりました。髭切さんに、任せます」
物吉は頷き、自分の得物を構えて周囲に姿を見せていた敵へと視線を送る。他の脇差に比べて小ぶりなそれは、短刀のように小回りが利く。特に、今のような入り組んだ場所での戦闘ではこの武器が活きる。
自分に向かって突っ込んでくる、短刀を咥えた骨魚の怪異を、すれ違いざまに数振りするだけでその体を断つ。駆け抜ける勢いを殺さず、立ち並ぶ木々の一つに手をかけ、急制動。直角に体の向きを変えた先には、木々の陰に身を潜めている時間遡行軍の一体がいた。
「隠れても、無駄ですよ!!」
流星のように物吉が飛び込み、鎧武者の敵の懐に己を突き立てる。本来なら鎧が邪魔で攻撃が通りにくいものだが、こういうときは小さな刃も役に立つ。
敵を蹴っ飛ばして突き刺さった脇差を抜き、振り返りざまに背後から近寄っていた落ち武者めいた異形を、脇差をなぎ払って牽制する。
異形が持つ、およそ人のものとは思えない不自然に膨れ上がった腕は、腐った死体を思わせる肌の色をしていた。
川辺に流れ着いていた死体の数々。或いはそこで主と共に朽ち果てることになった数多の物たちの姿を想像し、物吉はその整った顔を一瞬歪める。
「ボクたちは、この歴史を守ります。そうすることが、ボクらの役割ですから」
それが、今の主の幸せに繋がるのなら。たとえ全てに手を届けることはできなくても、と物吉は決意を再び固める。琥珀の双眸は小揺るぎもせず、敵の濁った紅い目を正面から見据えていた。
自分の周りを挑発するように飛び交う敵の武器は、やはり見た目通り切れ味の良いもののようだ。実際、髭切が苦無を持つこの敵を捕らえ損なった代償として、彼の足や腕に薄いかすり傷がついている。
最初は物吉や五虎退がそうしているように、目で追おうともした。だが、どう頑張っても敵が早すぎる。目で辛うじて追えても、その手はまるで届かない。太刀を振るうより先に、敵が消えてしまう。
あれを捕らえるなら、動く先を予想して何かを投げるか、予想地点に突っ込むか、それを上回る速さで食らいつくか。どの手段も、髭切のような体躯の大きい刀剣男士では難しい。次郎なら、力任せに大太刀を振るって一か八かに賭けられたかもしれないが、ないものねだりをしてもしょうがない。
「さてさて、どうしようかな」
弄ぶようにいくつか傷をつけながらも、相手もこちらの出方を窺っているのか、致命的な急所を狙わない。空を浮遊し、時折髭切を伺うように、じっと見ていることがある。
だが、物吉の方に向かおうとすれば、当たらずとも髭切の一撃がこのすばしっこい怪異に向けて繰り出される。膠着状態を維持している分には、こちらに有利に働いているのは確かだ。
相対してにらみ合うこと暫し。硬直時間に終わりを告げたのは、がさがさと茂みをかき分ける音だった。
「!」
そこから姿を現したのは、鬼面をそのまま顔としたような武者。携えているのは一本の槍。足取りこそ鈍重であるものの、新たな敵の登場に髭切の気が僅かに逸らされる。
彼が見せた動揺を、骨魚の異形はぽっかりと空いた眼窩であっても見逃さなかった。鎖の音を鳴らし、骨魚が彼に肉薄する。
針を通すように隙を突き、急所を穿たんと迫り、その刃は確かに肉を抉った――はずだった。
「ああ、やっと来てくれたんだね」
だというのに、この敵は何故こんな声をかけるのか。まるでこちらが、わざと誘い込まれてやってくるのを待つかのように。
動揺のせいか、或いは予め向こうがこちらの動きを読んだためか。狙っていた腹ではなく、鋭い苦無は脇腹を掠めるように刺さり、動かなくなっていた。
傷自体は少し深いが、全く抜けなくなるほどのものではない。なのに、なぜ抜けないのか。
その理由を問うより先に、骨魚の胴がむんずと彼の手に掴まれる。ずるりと脇腹から刃が抜け落ちて血が溢れるものの、髭切はまるで気にしている様子を見せない。
――こいつは、何だ。
異形の敵でも、感情がないわけではない。苦無を咥えた時間遡行軍は、今すぐこの場から逃げ出したいという否定的な衝動――恐怖に駆られていた。
「やっと捕まえられた。頃合いを見計らって腹に力を入れて抜けないようにする、なんて芸当は何度もできないから逃げちゃだめだよ。さて、君はとーっても硬いようだけど。どれくらい硬いのかなあ」
骨魚に顔色があったら、それは真っ青になっていただろう。薄く微笑を浮かべたその青年は、暴れる骨魚を無視して、まず新手である槍を持った鬼の武者に接近する。
「鬼退治は僕の物語の一つだからね。ちゃんと今度は殺しておかないと」
思わず逃げ腰になりかける、鬼のような時間遡行軍の一人に数歩で肉薄して、片手で握っている太刀で武者の首をなぎ払う。及び腰になっている敵が敵うわけもなく、首こそ落ちずとも鮮血が溢れ飛んだ。
右腕を振るったついでとばかりに、髭切は左手に持っていた骨魚を、ものは試しと崩れ落ちかけていた鬼の武者へと叩きつける。骨魚が咥えていた苦無の鎖が、じゃらじゃらと耳障りな音を派手にたてた。
岩で殴ったのではないかと思うほどの、低く鈍い音が響くと同時に、武者の敵は槍を取り落として、その場にどうと倒れた。もはや、立ち上がることはないだろう。対する骨魚は、未だじたばたともがき続けている。
「おお、怖い怖い。石頭なんだねえ、君は」
その石頭の敵を逃がさないように、胴体部分を足で踏みつけてからは彼は手を離す。棘がついた骨の頭をばたばたとさせる敵は、さながら陸に揚げられた魚のようだ。
「さて、と。硬いと言っても、これはどうだろう?」
髭切は両手で持った己自身の切っ先を真下に向けんと垂直に持ち直し、骨魚の頭部へと切っ先の標準を合わせる。
短刀で薙いでも脇差で払っても物ともせず、太刀で払っても擦過傷をつけるのが精々というのなら。より深い傷を、しっかりと刻み込むまでのこと。それが、髭切の出した答えだ。
捕まえるために、わざと隙を作ってこちらに誘い込まねばならないのは難点だが、おかげでこうして敵は俎上の鯉となった。
「君が大将首だと、斬り落とすのが大変だろうね」
真っ直ぐ自分に向かって落とされた銀光。そして、ガツンという鈍い音が、意識を途切れさせる前に苦無を咥えた敵が聞いた、最期の音だった。
相手の脇腹を腰だめに構えた刀で一突き、次いで側面から振り下ろされる太刀は受け止められないと判断し、身を捻って躱す。だが躱しきることは叶わず、着物の袖が少し破れた。
視界の端に過る外套が血で汚れていることに気がつき、歌仙は顔を顰める。主の元に帰っても、これではまた心配をさせてしまうだろう。或いは、心配をしていないというふりをさせてしまうだろう。
「歌仙さん!」
「こっちは平気だ!!」
振り返ることもなく、歌仙は両手で柄を握り込む。相手の動きに合わせて、大上段からの一撃。鍔迫り合いに持ち込まれたとしても、押し切られるつもりなど毛頭ない。
「はあああぁぁ!!」
気合いを込めた声と共に、ぐいと敵が押され、姿勢が崩れる。均衡が破られ、歌仙が真っ直ぐに振り下ろした一撃は、敵を一刀両断にする。纏う鎧ごと崩れ落ちた敵には一瞥もくれず、歌仙は辺りを睥睨した。
ざっと見た限り、あれが自分の視界に収まる範囲での最後の一体だった。これで、全て凌げたはずだ。恐らくは、政府が最初に観測したのもこの大人数の部隊だったのだろう。
「歌仙さん、終わった……のでしょうか」
「ああ。今のところは……」
ひゅう、と冷たい風が通り過ぎる。辺りは、異様なまでに静かだ。戦いが終わったからか。全ての敵を倒したからか。
だというのに、どうしてこの胸騒ぎは消えてくれない?
「嫌な予感がする。五虎退、まだ構えておくんだよ」
「……はい」
翡翠と同色の瞳を凝らし、歌仙は自分が木々の隙間を凝視する。そこから現れる者が何かを捉えようとしていた彼は、滲み出る数多の気配を見逃すことはなかった。
「そこに隠れている者たち、出てくるといい。僕たちが撤退してから進軍をするつもりだったのかもしれないが、そうはいかない」
歌仙の挑発に乗ったかのように、ぞろぞろと林から姿を見せた時間遡行軍の数を見て、歌仙は返り血を浴びた顔を苦渋に歪ませる。
「……っ!」
口汚い罵りの言葉を叫び出したくなるのも仕方ない。倒れた敵の屍を踏み越えるように、木々の向こうから現れた敵の姿の数。それは、まさにたった六人しかいない刀剣男士を飲み込まんとする、黒雲のように見えるのだから。
想像するに、第一陣である歌仙達が相手をしていた部隊では対処しきれるならばと、控えていた者たちだろう。
「歌仙さん……!」
五虎退も、眼前の敵の数に表情を引き締め直す。歌仙たちから離れている乱や次郎たち、更に向こう側の髭切や物吉たちの方からも、戦いの気配が収まらない。恐らくは、彼らもまた増援に翻弄されているに違いない。
たしかに、実力はついている。敵を倒すための力も、長く戦うための力も身についている。だが、この大群を相手取って全てを蹴散らせるかと問われれば、正直厳しい。
最初に歩いていた場所からも、既に遠ざかっている。自分たちが今どこにいるのかも、正直はっきりしていない。土地勘などというものは当然望めない。そんな状態でも、第一波を退けることができたのは確かに一つの成長の証だ。
けれども、それだけでは足りないというのが現実というものだと、彼らは今思い知らされていた。
「援軍は……あるじさまが、頼んでおいてくれたんですよね」
「ああ。だから、それまで僕らが奴らの跳梁を阻まなければならない」
血で滑りかけた柄を掴み直し、歌仙は汗で貼り付いた前髪を払うこともなく、敵を睨む。五虎退が鋭く息を呑むと同時に、わっと異形の武者が彼らに迫る。
背中だけは五虎退に預けている。だが、それ以外の手の届く範囲は全てが死の領域に等しい。敵の振るう銀の刃を受け止め、弾き、上から襲い来る大太刀を後ろに下がって回避しようと試み、し損なったせいで額に薄く切り傷が走る。
疲労が溜まっている。
継続した戦闘の疲労、血を流した疲労、痛みを覚え続けていることの疲労。意識的に全ての感覚を断つか。だが、そうすれば引き際も分からなくなる。引くことができるのかという根本的な疑念は、今は放棄する。
一方、数で勝ると判断した彼らがとったのは、まるで獣が獲物をいたぶるかのような包囲戦だ。歌仙にとっては最悪だが、敵にとって最善手なのは戦の素人でもわかる。
前に踏み出た敵の攻撃をフェイントと見抜き、体をわずかに捻るに留め、後ろからの一刀を刀で防ぐ。
が、死角からのもう一撃は、予測できても避けられはしない。ギリギリのところで、肌を数センチ切り裂かれるにとどめたつもりだったが、
「――ぐっ」
呻き声が漏れ、敵が笑うような引きつった耳障りな声が嫌という程、彼の耳に響く。時間遡行軍の腕が歌仙へと伸び、着物に触れると思うより先に姿勢が崩れて、彼はどうと倒れ込んだ。
瞬間、確かに歌仙は目にした。敵の手が、自分が首から提げている不恰好な金襴の袋に掠ったことに。
その袋は、彼女がくれたものだった。戦いに送り出すときはいつも気丈に振る舞い続ける主が、無事に帰ってきてくれという思いを形にして渡してくれたお守りだ。
「それに触るな!!」
己の体勢など無視して、歌仙は片手で握った刀で自分に馬乗りになろうとしていた敵を追い払う。最早、火事場の馬鹿力だ。
だが、それも一瞬のこと。敵は怯むより先に逆さまに持ち直した打刀を、まだ半ば倒れ込んでいる歌仙に突き立てんとした。ごろごろとその場に転がり辛うじて致命傷を避けるも、これで敵の位置が分からなくなってしまった。それでも立ち上がらねばと、彼が反射的に身を起こしたとき、
「歌仙さん!」
少年の鋭い呼び声に、熱くなっていた感情が一気に冷える。思わず振り返り、彼は瞳を見開いた。
自分を庇うように両手を広げる少年の姿。それが、彼の視界に飛び込んだものだ。
全ての時が、まるでのろのろと進んでいるかのように感じられた。紺と白の五虎退の華奢な体から、目が眩むような赤が爆ぜるより先に、歌仙は彼に突き飛ばされて姿勢を崩し倒れ込む。
瞬間、丁度自分の首があった所に、死角から繰り出された薙刀の一撃が通り過ぎていった。あまりに速く、最初それは風が通り抜けていっただけのようにすら思えた。
「五虎退!!」
声を取り戻した瞬間、歌仙の中で時が正常に動き始める。自分の側に倒れ伏す少年を、抱え上げる余裕など当然ない。
立たなくてはならない。背中を預ける者がいなくても。
「――戦とあらば、散る最期まで戦い続けるのが刀の本道。来るがいい!!」
退くことは最早叶わないと彼は腹を括り、吼える。
その呼び声に応えるかのように、彼の目の前に桜の花びらがはらりと舞う。
さながら雪のように、血に染まらない白の花。この血濡れた戦場に、不似合いな白桜の花弁が彼の眼前を通り過ぎたときだった。
「確かに、刀の本道は散る最期まで戦い続けることかもしれない。だが、きみは散るより先に会うべき相手がいるはずだ」
飄々とした声が、辺りの空気の全てをかっさらう。ばさりと舞うは、白の装束。肩に担ぐは金鎖をつけた白鞘。その背中を、その声を、歌仙は知っている。
「助太刀に来たぞ、歌仙兼定。さて、ここからは俺たちも混ぜてもらおうか!!」
白の羽織を靡かせて、金の瞳を輝かせた刀剣男士――鶴丸国永が、自身の参上を高らかに宣言した。