本編第一部(完結済み)

 誰かが泣いている声が、耳に響いている気がした。
 怒っているようにも、泣きじゃくっているようにも、或いは責めているようにも聞こえる。そんな、声にならない声だった。
 その声が誰の声か、自分は知っている。だから、そんな声を出さなくていいとその人に言おうとした。けれども、励ますために発した声は形にならず、虚空に消えていくばかりだ。虚しい挑戦を幾度も繰り返して全てが徒労に終わっていく。自分の中に流れ込んでくる悲痛な叫びは増すばかりだった。
 泣かないでくれ。自分は大丈夫だから。せめて思いは届けと、何も見えない空の世界で幾度も繰り返す。
 努力が実ったからか、思いが形になったように意識がはっきりとしてくる。自分の体の輪郭がくっきりと浮かび上がっていくような感覚。同時に、内側に響く苦しげな声が誰のものかも分かるようになった。
 これは、主の声だ。
 朝焼けのような夕焼けのような、淡い朱色の髪。その名の通り藤色をした瞳。柳のように細くてしなやかな、余計な肉は削ぎ落としたような体躯。
 覚えている。全部、覚えている。
 自分の中に流れ込んでくる暖かなものが、所々にあった鈍痛をゆるりと和らげていく。
 同時に痛々しい何かも混ざりこんでくる。血を吐くような叫びが、大きく、小さく、己の中でこだまする。
 その慟哭に応じたくて、彼は未だ重い瞼をこじ開ける。無意識に伸ばした手は、ふにゃりと柔らかい何かに触れた。そこから、じんわりと暖かなものが流れ込んでくる。

「……るじ、あるじ」
「歌仙、起きた?」

 はっきりと像を結んだ視界が、伸ばした手が触れたものを教えてくれた。歌仙が持ち上げた手は、主の頬を慈しむように撫でている。
 その手を握るでもなく、藤は機械的に側に散らばっていた何かを片付けている。少し首を動かしてみると、白く細切れになった布切れが目に入った。どうやら血痕がついた包帯を片付けているようだ。

「ここは?」
「本丸の手入れ部屋。歌仙は記念すべき一人目の利用者。覚書にあった通りに手入れっていうのをやったから、刀身の罅は治ったよ。霊力を使うってことしか書いてないから最初はびっくりしたんだけど、何とかなるものだね。体の方も手当てはしたつもりなんだけれど、どうかな」

 主に問いかけられて、歌仙は自分の状態を把握する。
 どうやら、あれから気を失った自分は本丸に戻り、こうして手入部屋で手入れをされていたらしい。背中から感じる柔らかい感触からして、布団の上に寝かしつけられていたようだ。
 自分の容態を主に伝えようと、歌仙は上体を起こそうとする。だが彼が体を起こそうと動き出す前に、藤の手が伸びてやんわりと布団に押し返されてしまった。

「無理に起きなくていいから。痛いところは?」
「……ないはずだよ。ただ、少しくらくらはするね。思うように力が入らない」
「あれだけ血が出てたからね」

 澄ました顔で、藤は何でもないことのように言う。体を起こすこともままならないので、歌仙はぼんやりと手入れ道具の片づけをしている主を見つめていた。
 だが、主が何気なく顔を横に向けた折、歌仙は思わず目を見開く。何故なら、その頬にべったりと赤黒い血の染みができていたからだ。よく見れば、服にも明らかに血によるものである黒ずんだ染みが、あちこちにできている。

「主、それは!?」
「五虎退が大変そうだったから僕が運んだの。その時ついた歌仙の血だよ。着替えてもどうせ汚れるかと思って」

 まず自分の服をつまんで、主は歌仙の問いに答えた。続いて、歌仙の指が自分の頬のあたりを指していることに気がつき、

「これは、君がさっき急に僕の顔を撫でたから」

 全く動揺を見せることなく、さらりと起きたことを口にした。
 落ち着いて掌を見れば、自分の血で掌がべったりと汚れている。乾ききっていなかったそれが、彼女についてしまったのだろうと、歌仙もすぐに納得した。

「……悪いことをしたね」
「顔のことなら気にしなくていいよ。びっくりはしたけど」
「それだけじゃないよ。醜態を晒してしまった。主を驚かせてしまっただろう」

 そのように言葉を紡ぎながらも、歌仙は微かに違和感を覚える。
 先ほどまで体のうちに痛いほど響いていた悲しげな声は、主のものだと思っていた。だが目を開けば、肝心の主は平時と変わらぬ顔で歌仙の手入れをしている。突き刺すように響きわたっていたあの声は、幻聴だったのだろうか。

「別に驚いてないから安心していいよ。刀剣男士って、そういうものなんだって分かってるから。それより今は休んでて」

 ポンと軽く胸のあたりを叩かれる。そこには不恰好ではあったが、包帯がぐるぐると念入りに巻かれていた。
 主の感情がどうであれ、少なくとも必死に彼を治そうとしたという気持ちはあった。歌仙は自分が受けた治療の跡から、そのように読み取った。

「君も早く顔を洗ってくるといいよ。血化粧なんて、女性にさせるものじゃないからね」

 歌仙の放った言葉は、何気ない気遣いから生じたものだった。女の人に戦化粧のように顔を血で濡らすのはよくないだろうというだけの、それだけの発言だ。
 けれども、彼の言葉を聞いて今までテキパキと片付けをしていた藤の手が止まる。ゆるりと顔を上げて、ぎこちない動きで藤は歌仙を見やる。しかし、言葉を発した当人はすでに目を閉じて眠ってしまっているようだった。
 何か言おうと開きかけた藤の口は、一度噤まれた後に別の形で声を紡いだ。

「……女性にさせるものじゃない、なんて。今さら、僕は何を考えてるんだか」

 誰とも知れない独り言は、歌仙を責めるというよりは自らを嗤うものに聞こえた。
 藤は、自分の姿に目を落とす。歌仙を背負ってきたことで血だらけになった服――にではない。
 簡素なシャツに、これまた余計な装飾のないズボン。短く切った髪。女性らしさなど微塵も感じられない、直線的な体躯に起伏のない薄い胸。

「男扱いで、いい――はずだったんだけどな」

 馬鹿らしい感傷だと思いながらも胸に手を伸ばし、血で汚れるのも構わずにぎゅっと握りしめる。握られた拳は、力を入れすぎたせいか真っ白になっていた。
 何かを堪えるかのように、唇は真一文字に引き結ばれている。そうでもしないと、まるで内側から何かを吐きだしてしまうとでも言わんばかりに。
 そうして、数分間の沈黙で湧き上がる衝動を全て刈り取り、藤は大きく息を吐き出す。頭の片隅が、痺れたようにじんと痛んだ。
 感傷に浸るまでもなく、体がどこか重いことに藤は気がついていた。じんじんと広がる頭痛は、高熱のときに感じるものに似ている。腹の奥に不愉快な淀みができているような気持ち悪さが、じわじわと蠢いている。手入れの後遺症なのか。或いは、単に疲れが溜まっていたのか。
 ともかく歌仙を休ませるためにも自分は外に出ようと、包帯を入れた救急箱を片手に藤は障子を開く。だが廊下に出てすぐ、藤はぴたりと足を止めることになった。

「あ、あの」

 ふわふわした白髪に、制服のような形の紺の戦装束をまとった少年――五虎退がそこに立っていた。歌仙ほどではないが体のあちこちに薄く走る切り傷は、見る者に痛々しさを感じさせる鮮やかさで白い肌に刻まれていた。

「歌仙さんは……大丈夫ですか」
「うん。今は寝てる」

 返した言葉は短かったが、ほっとしたように五虎退は安堵の息をつく。しかし少年は、藤の顔を見ると大きな瞳を益々丸くして、驚きの表情を見せた。

「あの、顔に」
「血? 歌仙が触ったのがついただけだよ。落としとかないとね」

 口元にまでこびりついた血の跡を、何気なく藤は舌で舐めとった。
 所作自体はさりげないものだったが、まるでまずいことでもあったかのように、目を見開く。今まで風一つない湖面を思わせるほど表情がなかったにも関わらず、藤ははっきりと驚愕と狼狽を顔に浮かべていた。
 だが、表情の変化が突然のものであったのなら、収まるのもまた唐突だった。

「あるじさま。何か、気になることでも?」
「……何でもないよ。顔を洗ってくる。そのあと、君も手入れしよう」
「はい。ありがとう……ございます」

 立ち去る主の背中を、五虎退はこわごわ見送る。
 彼は脳裏によぎった一つの推測を、ぶんぶんと首を振ってすぐさま追い出した。
 あんな風に見えたのは、きっと手入部屋から漏れる光のせいだ。そうに違いない。血の味にびっくりしただけだろう。
 あの表情に紛れて主が見せた感情は、何かの見間違いだと五虎退は言い聞かせる。主が血を舐めた瞬間、喜んでいるように見えたなんて、と。


 ***


 顔を洗って出直してきた藤は、今度は五虎退の手当てをしていた。手入れ部屋は歌仙が眠っているので、今は空き室に布団を敷いて治療を行っている。
 幸い、五虎退の傷は軽傷と言っていいものだった。そのため、ただ黙っているのも何だからと思ってか、藤は彼の傷の様子を見ながら話を振った。

「出陣って、どんな感じなの」
「え、と……時間遡行軍っていう敵が出てきて、それをやっつけるんです。ちょっと怖かった、です」
「怖かったの?」
「少しだけ、少しだけです。それに、頑張ってやっつけました」

 自分の戦果を語るのが嬉しいのだろう。五虎退は白い頬を桜色に染めて微笑んだ。
 藤は小さな頷きだけ返すと、五虎退の袖を捲し上げてそこに手を添える。ふわりと淡い紫の光が五虎退の体にできていた傷を包み、みるみるうちに塞いでいく。体の内に走る温かいものに、五虎退はこれが主の力なのだと改めて感じ入った。
 だが藤は傷が塞がる様子を見て、どういうわけか顔を顰めていた。主の不安げな顔に引きずられるように、五虎退もつい懸念を抱いてしまう。

「何か……気になることが、あるんですか?」
「歌仙もそうだったんだけど、傷が治るんだなって」

 藤は痕も残っていない五虎退の肌を、訝しげな様子でさわりと撫でる。その手つきがくすぐったくて、五虎退はぴくりと身を縮めた。

「傷が治ると、変ですか?」
「人間はこんな深い傷、あっという間に治ったりはしないから。やっぱり刀剣男士は神様なんだね」

 藤の言う通り、刀剣男士は刀の付喪神と言われている。それを妖怪の類いと判断するか、神様と判断するかは人によって様々ではあるが、藤は彼らを神様だと認識していた。

「神様なのは、あるじさまは嫌いですか?」
「嫌いじゃないよ。ただ……なんだろう」

 何度もぱちぱちと瞬きを繰り返し、五虎退の傷跡一つ残らない肌と自分の手を見比べている。その様子だけを見るなら、霊力という摩訶不思議な力を初めて使った審神者が驚いているだけにも見えた。
 だが、藤はそれとは別に不思議な感覚にその胸の内を蝕まれていた。まるで、立ち入ってはいけない場所に踏み入っているような、ささやかな抵抗感。そのことを意識すればするほど、体の奥がざわついていくようだ。それは、五虎退を手入れしたときだけに限った話ではなかった。

「ちょっと、変な感じがする……かな」

 結局、藤は曖昧な物言いで、胸の内に残る不快感を押し殺すことにした。


 歌仙の手入れでコツを掴んだらしい藤の手つきは、これが初めてと思えないほど手際の良いものだった。
 傷に包帯を巻き、その上から霊力を流し込むという作業を何度も繰り返す。その度に痛みが引いていくだけではなく、体の内がぽかぽかと温まっていくことに五虎退は気がついた。これも主の力のおかげだろう。

「五虎退は、戦うのは楽しいって思うの?」

 腕の擦り傷を治す手を休めることなく、不意に藤は彼へと尋ねた。

「た、楽しいとは……ちょっと、違います。でも、頑張りたいこと、です」
「出陣を続けることになっても問題ないの?」

 普段以上に抑揚を抑えた声音に、五虎退はどのように答えればいいかと言葉に迷ってしまった。
 楽しいかと言われれば、違うとは言える。けれども出陣したくないかと問われれば、これもまた違うと言える。ただ、はっきりしているのは、出陣しない自分を想像できないというだけだ。何もせずに本丸に居続けるだけの自分というものは、五虎退にとっては思い浮かべるのも難しいことだった。

「問題はない、です。それに、歌仙さんが頑張っているのだから、僕も頑張りたいです」
「今日の出陣で歌仙が怪我をしたのも、彼が頑張った結果?」

 歌仙を批難しているようにも聞こえる物言いに、五虎退の眼が僅かばかり見開かれる。
 照明を最小限まで絞っていても、五虎退の瞳には主の顔がよく見える。その顔には、笑顔もなければ怒りもなく、ただ淡々とした無があった。
 自分が何を言っても、主は気に留めることすらしないのでは。そのような考えがちらと五虎退によぎるが、ともかくも今日の歌仙があげた戦果については、そして何が起きたかについては正しく伝えねばと、気持ちを奮い立たせる。

「歌仙さんは、僕より、いっぱい頑張ってました。僕がもっと頑張ってたら――歌仙さんが、僕を庇って怪我をすることもなかったかも、しれません」
「君を庇ったの?」
「……はい」

 言葉だけを聞くと、まるで咎めるような内容に五虎退は思わず肩を縮ませる。

「歌仙は、良い人だよね」

 唐突に話題を切り替えられたが、どうやら批難しているわけではなさそうだと五虎退は主の言葉に追従する。

「歌仙さんは優しくて、それに……かっこいい、です」
「…………うん」

 当たり前のことの事実確認をする藤の声からは、やはり何の感情も読み取ることはできなかった。
 五虎退の上半身に刻まれた切り傷に包帯を巻き終り、続いて藤はむき出しになった膝小僧や脛の手当てを進めていく。

「時間遡行軍ってさ、どんな奴なのかな。人間の姿をしているの? 五虎退や歌仙みたいな感じ?」
「そういうわけではなくて……何て言うんでしょう。怖くて、お化けみたいで……」
「お化け……。ふわふわしている半透明の風船みたいな形ってこと?」
「お化けっていっても、ふわふわしているわけじゃなくて……」

 藤が言っているお化けの全容を五虎退は掴めなかったが、少なくともふわふわはしていなかったと思い返す。顕現して日が浅いものの、必死に言葉の引き出しを漁って彼はあの異形を正確に表す言葉を探そうとした。そして、

「鬼、みたいでした」

 辿りついた言葉を口にしたとき、五虎退の足に包帯を巻いていた藤の手がぴたりと止まった。

「……鬼」

 五虎退は、気が付かない。

「はい。角がとても長くて、怒っているみたいな顔で、大きくて」

 包帯を握る藤の手が、凍りついたように動かないことに、気が付かない。

「まるで、食べられてしまいそうで、怖かった……です」

 傷を見るために俯き加減になっていた藤の顔は、前髪に隠れてよく見えない。

「でも、歌仙さんが、やっつけてくれました! すごく、かっこよかったんですよ」

 勢いづいて興奮した五虎退が歌仙の戦いの一部始終を語る時間は、凍りついた表情に笑顔を浮かべるには十分すぎる時間だった。

「うん。それは、とてもかっこよかっただろうね」

 顔を上げて、藤は少年と歌仙を褒め称えるように、ゆるゆると微笑を浮かべる。僕も見てみたかったと、他愛のない言葉を投げかける。先ほどまでの無の表情が嘘のように、いつもの主の笑顔があった。

「そんな怖い相手と戦ってきたんだ。強いね、五虎退は」
「あ……ありがとう、ございます。でも、僕はまだまだです」

 五虎退は不安と憧憬を混ぜたような感情を込めて、藤を見つめる。

「僕は、あるじさまみたいに、強くなりたいです。どんな時でも落ち着いていて、かっこよくて、力も強くて、そんな男の子になりたいです」
「――五虎退なら、なれるよ。僕も応援してる。ところで、あらかた傷は塞いだけれど、他に痛いところは無い?」
「大丈夫です。あるじさま」

 五虎退の綿菓子のようなふわふわした白い頭を藤は優しく撫で、片づけをすると言い残して部屋を出ていってしまった。その足取りはあまりにいつも通りで、五虎退はただ見送ることしかできなかった。

 
 藤の背中が消えてからも、五虎退はそのまましゃがみこんでじっと何もない空間を見つめる。主の優しい手の感触の名残は、まだ頭に残っている。それは嬉しいことのはずなのに。

「どうしてだろう……あるじさま、僕のお話を聞いているだけだったのに……」

 ぽつんと、ただ彼の感じたままの思いを載せた言葉が響く。

「――なんだか、遠い所を見ているような気がして……」

 思わず自分の腕に巻かれた包帯に触れてみる。
 手入れをされているとき、確かに感じた主の力。その力が、どこか少しだけ寂しいもののように五虎退には感じられた。


 ***


 目を覚ました歌仙は、おそるおそる腕を動かしてみた。痛みは鈍痛のように残っていたが、動くには支障なさそうだ。そのことを理解してから、両腕を使って体を起こす。
 側に畳まれて置かれている服は、普段着とは違う無地の着物だ。どうやら着替えの寝間着らしい。有り難く今まで着ていたものを脱いで、新しいものに袖を通す。
 立ち上がっても問題がないことを確認してから、歌仙は手入れ部屋の外に出た。何時間も眠ってしまっていたのだろう。日はすっかり昇りきっており、朝の涼しい空気が歌仙の傍らを通り過ぎていく。

「……主は?」

 食いしん坊でマイペースな主ではあったが、存外早起きな人物でもあることを歌仙は知っていた。
 厨に行っているのだろうかと覗いてみたものの、主の影も形もない。五虎退の姿も見かけないが、彼はもう少し後に起きるはずだから今は気にしなくても大丈夫だろう。
 昨晩は歌仙たちが帰還して早々に、二振りの刀剣男士の手入れが続くことになった。もしかしたらまだ寝ているのだろうかと考え、歌仙は主の部屋に向かう。入り口は襖だけのため、鍵もかかっていないので誰でも容易く主の部屋に入ることができる。

「主、僕だ。入るよ」

 念のため一声をかけ、一拍置いてから襖を開く。
 はたして、主はそこにいた。寝台にもたれかかって顔だけ布団に埋める姿は、疲れ果てて横になる気力もなくその場に倒れ込んだ、ということを容易に想像させる。

「そんな格好で寝ていたら、風邪をひくだろう」

 歌仙に揺さぶられ、藤はうっすらと目を開いた。疲れが残っているのだろう、開いた目の焦点はすぐに合わずに数度の瞬きを要した。だが、すぐ近くに歌仙がいるのを目に留めた瞬間、藤はがばりと跳ね起きた。

「昨晩は助かったよ。ありがとう」
「大したことじゃないよ。審神者として当たり前のことなんだから」
「そうかもしれないけれどね。僕らとしては助かったんだよ。だから、やっぱり感謝をするべきだろう」

 改めて軽く頭を下げると、藤は面食らったような顔をして、落ち着きなく視線を床に落とした。その仕草だけを見れば、主は照れているように見える。

「だからといって、こんなところで寝るのはいただけないね。せめて、ここまで来たのなら寝台で横になるべきだろう」
「何だか、こういう寝方をしたくなって」

 藤は「よいしょ」と呟きながらゆっくりと立ち上がり、大きく両腕を伸ばして伸びをした。伸びをした弾みに少しずり落ちかけた額のバンダナを、ぐいと元の位置に戻す。

「五虎退から聞いたんだけど、時間遡行軍って人間の姿はしていないんだってね」
「主は知らなかったんだね。と言っても、僕も直に見るのは初めてだったよ。見た目は……そうだね、妖怪という表現をした方が主には分かりやすいかな」
「妖怪?」
「空を飛ぶ骨だけの異形とか、ボロ傘を纏った血の気のない落ち武者のような怪物とか、それに鎧のようなものを纏った――鬼の武者、とかね」

 歌仙の最後の言葉を耳にしたとき、藤の口が一文字に結ばれた。強張った表情は、歌仙の告げた妖怪たちに恐怖しているようにも見えた。

「心配することはないよ。本丸にまで押しかけてくることはないし、たとえ来ても僕たちが追い払う。それが僕らの役目でもあるんだから」
「……鬼も、追い払うの?」
「ああ。歴史を守るのが僕らの役目ではあるけれど、主を守るのも大事な僕らの役目だ」

 決意表明のような歌仙の言葉を聞いても、藤は少しも表情を変えなかった。触れたら粉々に壊れそうな緊張が走っていることは、何も言われずとも歌仙はすぐに察した。

「このざまでは、あまり説得力はないかもしれないけれどね」

 自ら口にしながらも、体の内を苛む焦燥が、じりじりと己の体を焦がすような錯覚に襲われる。
 藤の体に走っている緊張は、歌仙や五虎退が自分を守れなかった時のことを考えてだろうと歌仙は感じていた。期待をされないということは、想像以上に堪えるものだと彼は今この瞬間、この上なくはっきりと知ることになった。

「そんなことないよ。ありがとう、歌仙。五虎退のことも、守ってくれたって聞いた。君は、良い刀だ」
「そう言ってもらえるなら、僕としても鼻が高いね」

 フォローをするために述べられた言葉ではないかと思うが、今はその気遣いに歌仙は乗ることにした。
 歌仙との会話に区切りがつくのを待ちかねたように、きゅうと藤のお腹から切ない音が響く。

「……君の腹の虫は今日も正直だね」
「どうやら、胃袋は嘘をつけないみたいだから。あと、昨日はまずいご飯しかなくて大変ひもじい思いをしたんだ」

 藤は悪びれもなく、肩を竦めてみせた。実際、空腹であるのは確かなのだろう。主張の強い腹の虫は、もう一度大きく鳴っていた。

「歌仙は怪我してるんだから、無理に作らなくていいよ。僕が自分で用意する」
「それも甚だ不安だけれどね」
「家庭科の成績、実技は三だったんだから」
「それは何段階の評価で?」
「十」

 歌仙の顔は雄弁に「不安だ」と語っていた。
 藤は胸を張っていたが、腕に自信があるのなら、昨晩歌仙が不在の時にひもじい思いなどをすることはないだろう。結果は見るまでもなさそうだと、歌仙は心配そうな顔で主を見つめた。

「やっぱり、僕が何か作った方がいいんじゃないかい」
「いいから。歌仙は余計なこと考えなくていいの」
「……作るにしても、僕らの分までは考えなくていいからね」
「分かった。じゃあ、君は手入れ部屋に戻って寝ていて。まだ休んでなきゃだめだよ。さあ、早く」
「お言葉に甘えて、そうさせてもらうよ」

 別れの挨拶代わりにひらひらと藤に手を振られ、歌仙は外に出る。
 そんなはずはないだろうと思うのに、まるで藤に追い出されたようだと歌仙は思った。きっと気のせいだろうと気持ちを切り替え、手入れ部屋に続く廊下を歩く。
 体の痛みはほぼないが、泥の底に沈んだような、体中に錆が浮いたような倦怠感は未だ残っていた。主の言う通り、休んでおくのが吉だろう。これではもし本当に本丸に敵が来たとき、主を守れない。
 取り留めもなく思考を続けながら、ぺたぺたと静かな本丸を歩いている時。さわさわと、風の中に溶けてしまいそうな声が彼の耳に届いた。何かと思って振り返っても、既にその声は聞こえなくなっていた。

「……厨が無事だといいんだけれどね」

 主が悪戦苦闘している様子が目に浮かぶようだ。厨の形が無事残っていることを祈りながら、歌仙は手入れ部屋の障子に手をかけた。


 ***


 歌仙を見送ったあと、藤は寝台に大の字になって倒れていた。眠気とは違う、頭痛と吐き気と腹痛がまとめて来たような症状に、立っているのも難しくなってしまったからだ。
 審神者が刀剣男士の前で不調を露わにするものではない。そう言い聞かせて歌仙の前では平気なように話を続けていた。けれども正直なところ、立った瞬間に体をくの字に折ってうずくまりたい所だった。

「……霊力の使い過ぎとか、そんな所なのかなあ」

 怪我をした歌仙を見て、正直に言えば藤はかなり狼狽していた。しかし、審神者がその程度のことで困惑するものではないと自分に言い聞かせたおかげで、どうにか平静を装うことができた。
 手入部屋に歌仙を運んでから、藤は予め目を通していた手入れに関する指南書の内容を思い出した。そこに書かれていたのは簡素な一言だけ。

「『霊力を使え』ってあったから、ちゃんとその通りにしたつもりだったんだけど」

 指南書の他のページには色々と細かな内容が書かれていたが、この部分だけはまるで他に記すことはないと言わんばかりに、一言しか記されていなかった。
 記載の通りに、以前受けた研修の通り呼吸を整え、霊力なるものを呼び出せるように集中し、結果的に歌仙と五虎退の傷も治ったので間違いではなかっただろう。
 しかし歌仙の手入れが済んだ頃には、立つだけで胃の底のものが戻ってくるような不快感や、じわじわと波のように押し寄せる頭痛に襲われてしまっていたのも事実だ。体中の臓腑が機能を忘れてしまったような気怠さに、すぐに部屋に戻って眠ってしまいたかった。
 けれども、手入れ部屋を出たそこには、五虎退が立っていた。軽傷ではあるものの、痛々しい傷を見せて立っていたのである。後にしてほしいなどと言うことは、藤にはできなかった。
 自分を「あるじさま」と慕う少年が、怪我をしている。治す力が自分にある。ならば、治すのが自分のするべきことだ。

「親切にしてくれた人には、親切にしてあげないといけない――だよね」

 乾いた唇から零れた言葉は、何かの座右の銘のようだった。
 日差しを防ごうとするかのように、藤は自分の額に手を翳す。カーテンを閉め直す気力もなかったため、せめてもの抵抗だ。
 心臓の辺りをぎゅっと片手でつかみ、口を開けてできる限り新鮮な空気を取り込もうとする。そうすれば、体中に残っている苦しさもどこかに行ってくれるような気がした。しかし吐き気はおさまることを知らず、頭を締め付けるような疼痛は増すばかりだった。
 体は限界を迎えている。そのことを理解すると同時に、藤は皮肉交じりの笑顔を口に浮かべた。
 体以外にも、とうに限界を迎えている所はあった、と。

「あーあ。やっぱり、そうだったよね」

 何かの期待を捨てるように、藤は言葉を吐いていく。肉体的な倦怠感とは異なる胸の奥の痛みは、いくら体調が回復しても消えることはないだろうと、もう知ってしまっていた。

「もしかしたら、彼らは違うのかもって思ってたけど。期待してしまったけれど」

 喋るのも辛いのに、口だけはよく回る。口にするだけで体の一部を削り取っているような苦しさに襲われていたとしても、藤は言葉を形にしていく。

「分かってるって。うん、分かっていたんだから」

 寝台の上でゴロゴロ転がり、天井を見つめて、主は口の端をつり上げて笑った。声を上げて、ささやかに、しかし鮮やかに、嗤っていた。

「――は、ははっ、あはは」

 己の無様を見下すように。過大な期待を嘲るように。

「あはは、ははは――っ」

 勝手な絶望を批難するように、未練がましく救いを求める罪人を辱めるように、笑い声をあげる。

「ははっ――はぁ、ぁ――――ぅ、うぅ」

 命を削るような、か細く狂気じみた哄笑は、微かな嗚咽を最後にロウソクの火が落ちるように、ふつりと途切れる。
 あとに残ったのは、ただの静寂。痛いほどの沈黙を半刻ほど経て呟いた言葉は、

「――神様は人間の味方だって、相場は決まってるじゃないか」

 とても、寂しげなものだった


 その日、藤は一日中部屋から出てこなかった。それを訝しんで様子を見にきた歌仙に、けろりとした顔で「疲れがたまってて」とだけ言った。歌仙はそれで納得し、それ以上の追究はしなかった。
 藤の口元は緩く弧を描いており、その笑みはあまりにいつも通りだった。だから、その目に浮かんだ光がいつもよりも昏いものだったことを気づく者は、やはり誰もいなかった。
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