本編第一部(完結済み)
頬を走る一丈の赤。同時に鋭い痛みが顔をよぎり、乱はその端正な少女のような顔を顰めた。
通り過ぎた鈍色の光を纏ったもの――白い骨の魚を思わせる異形の化け物は、鎖を巻き付けた短剣を咥えている。今まで何度か見かけた相手とは、明らかに違う得物だ。
けたけたとこちらを嘲笑うように宙を舞う骨魚を、乱は悔しげに睨み付ける。
「もう、お触り禁止!」
軽口を叩きながらも、乱は化け物がこちらに向かってくる隙を窺っていた。だが、たとえ迎え撃ったところで倒せるかというと微妙な所だ。何せこの敵は、やたらと硬い。乱の短刀で何度斬りつけても、まるで怯む様子がない。
それに、こちらは万全の状態とは言えなかった。夜間に偵察を行っているとき、不意を突かれて腕に一撃を貰ってしまったのだ。
初の出陣で気持ちが高揚していて、地に足がついていないような状態だったのも良くなかった。市中で視界が悪かったとはいえ、これは失態だとは乱も自覚している。
「ああもう、降りて来なよ! 卑怯者ー!」
だからこそ、失態を補おうと敵を追跡したのだが、もうすぐ夜が明ける頃だというのに敵は未だ宙を漂い、乱を挑発し続けている。
恐らく、空を舞う手段を乱が持っていないと分かっているが故に、接近して挑発を繰り返して乱が消耗するのを待っているのだろう。未熟な刀剣男士一人程度では、この狡猾な敵を捕らえることなど、到底できるはずがなかった。
それでも、相手が地上に向かう瞬間を狙って乱は肉薄するも、骨魚の異形は再びひらりと身を捻って難なく一直線の攻撃を躱す。
「動かないでってば!」
乱が怒りの声を発した瞬間、彼の言葉に応じるように、ガツンと骨の砕ける音がした。見れば、彼の眼前に迫っていた敵の頭に一振りの短刀が突き立っていたのだ。
「五虎退!」
その短刀の名を呼ぶと同時に、骨魚はぶるりと身を震わせて短刀を払い落とす。やはり、致命傷には至らなかったらしい。
「乱兄さん、大丈夫……ですか!?」
「ボクは平気。それよりあいつが!」
二人揃ったことで不利を悟ったのか、或いは東から差し込む朝日に引き時と考えたのか。その異形は明らかな嘲笑と思える笑い声を最後に残して、薄闇の中へと消えてしまった。
「逃げちゃいましたね……」
「ああもう、悔しいなあ! ボクがもっと強かったら倒せたのに!!」
「でも、乱兄さんが無事で、良かったです。敵を倒すより、僕はそっちの方が……嬉しいです」
五虎退の脳裏によぎるのは、初陣のとき目にした歌仙の姿だ。彼の体から流れ出る赤は、いつ思い出しても目眩を覚えてしまうほどに鮮烈なものだった。
「あーあ、ちょっと怪我しちゃった。歌仙さんに報告しに行くついでに、手当もしないとね」
「は、はい。そろそろ、待ち合わせの時刻です」
朝日が昇り始めたら、この街の河原に集まること。それが、街に訪れてすぐに歌仙が下した命令の最後にあった言葉だった。そして今、既に夜は終わりを告げ払暁を迎えている。
「時間遡行軍がこんな町中に出るなんて、何かおかしい……です。目的地まで、もう少し距離があるのに」
「つまり、ボクたちがこの緊急の任務で当たりを引いちゃったってこと?」
「……多分。敵の狙いは、僕らが今いる時代のこの場所にあるんだと、思います」
彼らがいるのは天明三年。
それは後に天明の大飢饉と呼ばれる、数多の人々の命を奪った飢餓の時代でもあった。
***
江戸時代において、農作物の収穫が減少するというのは歌仙の主たちが暮らす現代より、深刻な意味を持っていた。
前年より続いていた冷害や悪天候に加えて、火山の噴火により日が十分に当たらない日々を送れば、当然の結果として農作物は壊滅的な打撃を受ける。すると、既に疲弊をしていた農村地帯は当然食うものに困り、飢餓に苦しむことになる。
その地を治めている藩主の政策が不適切だった場合、損害を被るのはいつだってそこに暮らす人々だ。結果、都市部には飢餓から逃れるためにやってきた農民が流れ込み、一時期無法地帯にまでなったという。
だが、このような窮地において才覚を示す者もいた。
「それが、これから行く先の藩主様のところなんですよね」
「ああ。彼の藩領は、執り行ってきた政策のおかげで、今僕らが見ているような惨状は免れているらしい」
「松平定信様のことですね。その後、正しい歴史では定信様は寛政の改革という政策を行っていたはずです。倹約家の彼の政治は、後世の歴史ではあまり良いものとは語られてはいないようですが」
「度の過ぎた倹約が、役に立つときだってあるだろうさ。今のようにね」
河にかかる橋のたもとにて、ごろごろと転がる岩の上に腰掛けていた歌仙が呟く。中空に浮かび上がらせていた、この時代の概要が記載されたホログラムの画面を眺めながら、彼は物吉と言葉を交わしていた。
指先を軽く払って画面を消去し、もう一度周りを見渡す。街に入った時点で感じてはいたが、ここには活気がなかった。元々、宿場町と言えど農村地帯に隣接するここは、江戸のそれに比べれば随分と小規模ではある。
とはいえ、それを抜きにしても、この場所の静けさは異常だ。何せ、人が生きている気配すら、ほとんどしないのだから。
「……酷かったですものね」
「無理に思い出す必要は無いよ、物吉貞宗」
歌仙の隣に腰掛けている物吉貞宗の琥珀色の瞳は、明らかに暗い。彼の側で五虎退に手当をしてもらっている乱も、思わず視線を落として言葉を詰まらせた。
「何だか、悔しいんです。ボクがここにいたはずなのに」
江戸時代と言えば、物吉の元の主でもある徳川家康とその後継が治めていた時代である。三百年近く続いたこの時代は、それまでの乱世を思えば、比較的落ち着いた時代であるとは、誰もが認める所だろう。
だが、それでも常に平和だったわけではない。このような自然災害に見舞われて、多くの人が命を落とした時期もあると物吉自身も認識はしていた。しかし、知っているのと目で見るのでは、意味合いは大きく異なってくる。
「ボクの幸運は、この時代の人までは守れませんでした」
思わず彼が弱音を吐いてしまうのも、無理もない。
彼らがいる河原にも、水を求めてやってきただろう人の亡骸が、ちらほらと見える。飢えて痩せ細った死体は、腹ばかりがやたら膨れ上がり、まさに絵物語の餓鬼を思わせた。
既に、死して何日も経っているのだろう。季節が冬のおかげで腐敗臭は幾ばくか抑えられているものの、それでも見ていて気持ちのいいものとは到底言えない。
宿場町まで、食料を探してやってきたのだろうか。はたまた、元々この町にいた者だったが食うものが無くなり、遂に命を落としてしまったのだろうか。
(ボクが本当に幸運を運べるのなら……)
こんなことにはなっていないはずだ、という言葉を物吉は喉の奥に飲み込んだ。
それ以上考えてしまうと、以前の遠征の時と同じになってしまう。幸運を運べない己を呪うのではなく、他者の側にある幸せを気付かせてあげる。そうして喜びを共に分かち合う。
そんな存在になりたいと、主に誓ったのだ。
「可哀想……って思っちゃ、駄目なんですよね。もし、僕たちが、持ってきたご飯を分けてあげたら」
「分けて、どうするというの」
割り込んできた声に、五虎退の小さな声は吹きすぎる風と共にあっという間に消えてしまった。
少年が振り向いた先では、五虎退や乱と同じように偵察に行っていた、髭切と次郎が立っていた。先ほど、五虎退の言葉を遮ったのは髭切のものだ。
「それで、僕らは少しばかりの満足を得られるけれど、与えられた側は結果的に飢えで死ぬのが数日遅れるだけ。あまり意味があるとは思えないよ」
髭切の言葉は冷たく聞こえるが、事実でもあった。人の死を目の当たりにすると感情を抑え込めず、つい心に任せた行動をしようとすることがあるのは当然の道理として、髭切も理解はしている。
だが、許容してはならない理由もまた、彼らにはあるのだ。
「もし、君が本当にここにいる人たちを全員救いたいというなら、その行動に意味は生まれるのかもしれない。でも、そこまでする場合、今度は僕らが君を斬らなくちゃいけなくなる」
この時代に亡くなる人を全員助けてしまえば、それは最早歴史改変と言っていい。時間遡行軍と、やっている行動としては変わらなくなってしまう。表面的な行動が善意から生まれているように見えるだけ、尚更たちが悪いと言えるかもしれない。
「それでも、アタシは五虎退の優しさには意味があると思うけどね。誰かが誰かのために心を砕くことを、何でもかんでも無意味だって言っちまったら、アタシたちが主のために何かしたいって思うのも無意味だってなっちまうよ」
現代に生きる主と、過去に生きる名も無き人々。比べるには少々不釣り合いにも思えるが、過去の人間だって自分が過ぎ去った存在などとは思っていないはずだ。
その日その日を懸命に生きるものに向けて、気持ちを寄せることが無意味とは思えない。次郎の言葉には、そういう思いが込められていた。
「……そうだね。五虎退、訂正するよ。僕らが彼らを生かした数日に、ひょっとしたら意味は生まれるかもしれない」
「だけれど、僕らでは決定的なものを変えることはできない。そこだけは確かだ」
髭切の希望的な物言いに重ねて、釘を刺すような歌仙の言葉が穿たれる。言いながらも、誰よりも歌仙の心はぎしりと軋んでいた。
最近は、このように罪も無い一般の人が沢山命を落とす場に、出くわす機会が少なかった。戦場の只中か、寺社仏閣のような人里離れた山中や、もっと先に時代が進み、主達が暮らす時代にほど近い時代に行くことが多かったからだ。
戦場のまっただ中で、自らの覚悟を決めて戦い、命を散らす者を歌仙は引き留めようとは思わない。人里離れたところでひっそりと己の信仰を深める者たちは、少なくとも死には直面していなかった。
更に先の時代ともなれば、そもそも死は非常に限られた空間のものになっていた。死は人々の生活の場から遠ざけられ、施設や病院の中に収まる存在と変化していたのだ。
そうして無辜の民が命を落とす場面を、目の当たりにせずにいられる日々に、安堵している自分がいると歌仙は認めていた。
今でも、主と同じ名前の村娘の頭が砕けた瞬間を、彼は忘れない。彼女の犠牲を意味のあるものとするために、歴史を正し続けなければならないことを、忘れてはいない。
同時に、正しさの前には犠牲も必要という現実を知る度に、心の中の柔らかい所が声をあげていると、歌仙は既に気がついていた。
(主、きみは大きな正しさに無理に従う必要はないと言っていた)
ならば、歴史を守る正しさに目を瞑り、ここで飢えた民を救うとして。その行為を自分は許せるのか。胸を張って、自分自身に誇れるのか。
答えは否だ。
たとえ己の心に従ったとしても、この時代の人間全てを助けられるほど歌仙の手は広くない。それに、もし助けてしまったら、それこそ時間遡行軍と同じになってしまう。先ほど、自らが忠告したように。
改めて自問自答を終え、歌仙は額に親指をぐりぐりと押しつけて眉間の皺を広げようとした。どうにも、自分は考えすぎてしまう。よくない癖だと、歌仙は己を戒めるように目をぎゅっと瞑ってから、顔を上げる。
「そういえば次郎。もしかして、怪我をしているのかい。きみから少し、血の臭いがするよ」
「ああ。ちっとばかし、偵察に出ていたときにね」
歌仙の視線の先では、次郎の二の腕に巻かれた包帯が朝日を受けてくっきりと浮き上がっていた。偵察から戻ってきた乱も、軽い傷を負っていたという点も踏まえれば、敵がここにいるのは明白だ。
「町中じゃ、アタシはあまり暴れられなくて参ったよ。髭切がいなかったら、どうなってたことやら」
「いやいや、次郎太刀。僕だって壁に何度かぶつけてしまいそうになってしまったよ。時間遡行軍は三体。刀種は脇差と短刀かな。そこまで強敵じゃないけれど、斥候として配備しているなら注意が必要だろうね」
「五虎退の所にいた敵は、妙に硬い敵だったと聞いているんだ。髭切、そっちは普段と違うところはなかったかい?」
「ううん。そこまで特別な強さは感じられなかったよ。ただ、夜だったから姿が捉えにくかったかなあ」
夜戦のときに小回りの利く敵に出会うと厄介だという知見は主に伝えねばと、歌仙は頭の片隅で記憶しておく。今はまだ六振りしかいないから部隊員も固定ではあるが、いずれ出陣先に合わせて部隊を変更する場合もあるだろう。ならば、その際に使える判断材料は多いに越したことはない。
「これは、僕らが当たりを引いたかな」
言いつつ、髭切は歌仙から離れて、河原に転がる大きな石の一つに腰掛けた。朝日の眩しさに目を細めつつ、彼は現在の状況を整理する。
主のいる本丸からこの時代に転移して、早五日。本来ならば目的地の近くに転移するのが常なのだろうが、緊急調査の場合は原因を虱潰しに当たるために、歴史改変の影響がなさそうな所に転移することも、しばしばあるという。
ならば仕方なしと、とりあえず近隣の農村や宿場町を渡り歩き、その時代に生きる人に聞き込みをしようとした。
だが、肝心の聞き込み相手のほとんどは酷い飢餓により屍と化しており、生きていても話がまともにできる健康状態では無かった。荒廃した農村二つを行き過ぎた彼らは、ようやく昨晩この宿場町を見つけた。
そこでやっと、倒れている人間以外の存在に出会えたのだ。もっとも、それは時間遡行軍だったわけだが。
「乱たちの遭遇した、今まで見たこともない敵の存在が気になるね。ここが本命と決めつけるのは早計だろうが、敵の手が入り込んでいることは、この近辺に時間遡行軍の狙いがあると踏んで間違いないだろう」
歌仙が皆の意見をまとめるように結論を出し、
「それが、松平定信って人なんだよね」
髭切が来る直前に話していた内容を反復して、乱が言葉を先取りする。
「僕の方から、主に援軍の進言をしておくよ。恐らく、僕らが出会った以上の敵が、この近辺に潜んでいるだろうから」
主から受け取った端末を取り出し、歌仙はやや辿々しさの残る手つきで文字を入力していく。暫くは彼に任せておこうと、河原を見るともなしに見ていた髭切は、不意に眉をひそめた。
「あそこ、誰か動いている」
死体しかいない河原に、動いている誰かがいる。この冬の朝、まだ吐く息も白い頃だというのに。
これが平時ならさして気にすることもなかったが、こんな飢餓の時世に、よりにもよって死体捨て場のようになっているこの場所に、朝早くから誰かがいる。その点で、髭切は不自然さを感じ取っていた。
「町の人、でしょうか」
「丁度いいよ! 話を聞いて、時間遡行軍がその松平さんって人のところに行ってないか、確認してみよう!」
「そうですね……。町の人なら、何か知ってるかもしれない、です」
「歌仙さん、声をかけに行ってもいいでしょうか」
乱と五虎退の意見を代表して、物吉が部隊長である歌仙に尋ねた。否定する理由もないため、彼もすぐに小さく頷き返す。流石に子供たちだけで近づけば怪しまれるだろうと、髭切はその人影に接近する三人の後ろを追うことにした。
薄ら差し込んだ朝日が、死体の間を行ったり来たりしている人間の影を浮かび上がらせる。それは、手に棒のようなものを持って時折振り下ろし、時には拾い上げた何かを一箇所に集めているようだった。
(……物取りかな)
こちらに敵意を向けるようなら、少々手荒な対応で応じる必要があるかもしれない。髭切はそう思い、己自身ともいえる刀に手を添える。
じりじりと上る冬の陽光が、そこにいる誰かの姿をくっきりと髭切たちに見せつける。
そして、彼は思わず目を見開いた。
瞬間、息をすることも忘れるほどに。
河原にいたのは、一人の男だった。片手に握っているのは、黒く固まった血の上に更に赤を滲ませている鉈だ。だが、彼らが息を呑んだのは、男の猟奇的な姿のせいではなかった。
彼が拾い上げているもの。それは、人の腕だった。直前まで、その辺りに転がっている人間についていた、部品の一つだった。
男は無造作に人の身体を解体し、体の一部を掴んでは河原の一角にある茣蓙の上に運んでいたのだ。
淡々と、淡々と。さながら鶏肉や豚肉を解体するのと同じような感覚で。自分と同じような姿形をした存在を、刻んで、積み上げていく。髭切たちが立ち尽くしている間にも、何度も何度も。
だというのに――彼の目には、狂気は一切なかった。
「な、何してるの、あの人……!?」
「どうして、人をばらばらに……?」
人間一人分を解体しし終えた彼は、それを茣蓙ですっかり覆い隠し、橋のたもとへと隠すように運んだ。その人間くさい彼の行動が、益々彼に理性があることを四人に知らしめていた。
距離はかなり置いていたとしても、こちらを四対もの視線を見つめていれば、素人とはいえ気配を感じるのだろう。男は鉈の刃を乱暴に革のようなもので包み、腰紐に挟んでからこちらにずいずいと大股で歩み寄ってきた。
近くに寄れば尚、風体がはっきりと分かる。ボロボロの着物を纏い、無精髭を生やした年の頃は三十を越えたかどうかという青年だ。今まで見てきたこの時代の人間の誰よりも、彼はしっかりとした体格をしていた。
骨が浮き出てもいないし、飢餓状態により腹が膨らんでいるわけでもない。主の時代の人間を思うと当然痩せている方ではあるが、一日二日で死ぬような飢え方はしていないことが見て取れる。
「あんたら、旅のもんか? 妙な身なりしてるが、お侍さんつーわけではなさそうだな。伴天連の連中にしちゃあ、ちっこいのも混ざってるみたいだが」
やや訛りの残る口調で、男は髭切たちを遠慮無く値踏みするような視線で睨み付ける。彼の抜け目ない視線は、戦装束姿の髭切たちの衣服を舐めるように移動し、次いで刀を見据えてぴたりと止まった。
この飢餓の時代で飢えていない状況にあるとしたら、続いて必要となるのは金銭だ。金目のものに視線が行くのは、必然の流れと言えただろう。
「侍ではないけど、故あって旅をしているのは確かだよ」
「ふうん。この時代に、優雅なもんだね。それとも、あれか。ついに住んでる町に飯がなくなったってところか。このご時世だもんな。金があるからって、飯にありつけるたぁかぎらねえ」
髭切は極力刺激しないような言葉を選んだつもりだったが、男の言葉には身なりの整った自分たちへの、隠しようのない僻みと嘲りが滲んでいた。
回答に困り、思わせぶりに髭切は微笑んで見せたが、どうやら男はそれを図星と思ったらしい。彼の中で、この妙に小綺麗な一党は、金はあるものの肝心の食糧が尽きて家を出るしか無くなった者と、一旦捉えられたようだ。
「見たところ、荷物も持ってなさそうだしな。兄弟か親子か知らねえが、そんなんじゃ、後一日もしたらばったり倒れちまうだろうさ。あんたら、どこまで行くつもりなんだ」
「ちょっと北の方までね」
本当は兄弟でも親子でも無く、加えて言うならここにいる四人以外に更に二人の連れもいるのだが、わざわざそのようなことを髭切は口にはしない。
「北、ああ北か。あっちは、もうちょいましなお役人のおかげで、暮らしが楽らしいが……ここからだと、結構な距離だぞ?」
「おや、そうなのかい。すぐ着くかと思っていたよ」
危機感の無い髭切に、男は呆れたという気持ちを隠そうともせずに露わにしていた。この飢えの時代に、まともな糧食を持たずふらふら歩いていたら、そんな顔の一つもしたくなるだろう。
だが実際のところ、刀剣男士は食べ物を食べなくても死にはしない。彼らの本質は鉄の塊であるがゆえに、食事はあくまで付属物に過ぎなかった。
本丸にいるときに食事をしているのは、彼らに人としての生活や感覚を身につけさせ、精神的な疲弊を覚えさせないための手段に過ぎない。空腹を感じないわけではないが、意識してその感覚を断つこともできる。腹が満たされていなかったとしても、体の動きが鈍るわけでもない。
さらに言えば、暑さ寒さも彼らには直接的には関係なかった。五感で影響があると言えるのは、触覚――ひいては痛覚だろう。それも、意識してしまえば感じないようにできる。もっとも、痛みを覚えないと自分の傷の程度がわからなくなるのでよした方がいい、と言われているものでもあった。
閑話休題。そういうわけで、彼らは食料のようなものは、持っていなかった。そして目の前の男は、彼らが自分の知る世界から外れた存在とは、当然認識していなかった。
「そんなら、あんたらは俺の売ってるもんが欲しいだろうなあ。飢えは怖いもんだからなあ」
「売ってるものって?」
「食いもんだよ」
「おじさん、食べ物を売ってるの?」
乱は未だ青い顔をしながらも、男の言葉に食いついて見せた。この時代に来て初めて会ったまともに喋れる人間なのだ。彼を無視することはできない。
乱の様子を見て、男はにやりと笑ってみせる。笑うと、彼の汚れた黄色の乱杭歯がよく見えた。
「そうだぞ、嬢ちゃん。腹が減ってるんだろう? どんだけいい物を着て、高いもの持ってても、飢えには勝てねえもんなあ。だがな、もしその高そうなもんを譲ってくれんなら、ちょっと分けてやってもいいぞ」
「こ、こんなに、からからで、何もないのに……ご飯を、持ってるんですか?」
「おうさ。肉ならたんとある。ま、土の混ざった狗肉でよければだけどな」
五虎退のおずおずとした問いかけにも、男は気前よく答える。つかみ所のない保護者然としている髭切の様子を見て、彼に売り込むのは難しいと思ったらしいが、子供なら手玉にとれると考えたのだろう。子供から保護者へと強請らせて、一儲けしてやろうという魂胆が透けて見える。
だが、髭切は男が隠している事実を見抜いていた。
「それは、人の肉じゃないの?」
瞬間、男の顔色が変わった。
商談を進める抜け目ない商人の瞳から、こちらへの明らかな警戒を滲ませる獣の眼へと。
「そこら辺で死んでいる人の中で、そんなに腐ってない人をばらばらにして、土を混ぜて犬の肉として売る。自分も食べてたらお腹も減らないし、次から次へと供給はある」
髭切は、淡々と自分が発見した事実を男の口にした言葉を結びつけて、推測を事実に近い仮定として語る。
「お腹がすいた人は、土が混ざった犬の肉でも食べられるなら気にしない。もしかして、何の肉か分かっている人も、いるのかもしれないけれど」
「……やっぱり、あれってそういうことなの?」
「そんな……どうして、騙すような真似を、しているんですか」
乱も五虎退も、激しい動揺は見せていなかった。既に目にしてしまった以上、男の語り口を聞いてある程度の予想はしていたからだ。
とはいえ、予想していたことと、現実にそうだと確信を持つのとではまた違う。五虎退がつい批難めいた言葉を口走ってしまったのも、無理のないことだった。
「ちっ、見てやがったのか。騙すっつったって、死ぬよりましさ。別に毒を混ぜて売ってるわけでもなし」
男はにべもなくいうが、五虎退の顔には依然として嫌悪の感情が残っている。
事実としては男の言う通りなのだろうが、主の生きた時代の価値観に基づいて顕現し、その考え方を良しとして生活を続けていた彼らには看過しづらい部分であった。
そうでなくても、自分と同様の姿をした者――刀剣男士という立場で考えるならば、自分の主と似た姿、同じ存在のものをばらばらにして食らうという点だけでも、少なからず忌避感を覚えずにはいられないのだ。
「でも……そんなの、ひどいです。死んだ人を、ばらばらにするなんて」
「おう、坊ちゃん。どこの金持ちか知らねえが、死ねば皆等しく肉の塊よ。腐らせるよりかは、まだ生きてるもんの腹の足しになった方が、ましってこった」
男の言い分は、この時代においてあまりに真っ当すぎた。故に、五虎退はこれ以上彼の考えを否定はできなかった。
けれども、彼の考え方は同時に酷く危ういものでもあると髭切は思う。ともすれば、肉を得るために殺人を肯定しかねない言葉でもあったからだ。
「このこと、よその連中には話すんじゃねえぞ。折角の商品が、売れなくなっちまうからな」
「それじゃあ、言わない代わりに僕らから質問していいかな」
もともと彼に声をかけた理由は、情報交換だった。彼から何か聞き出すためには、こちらから対価を差し出さねばならないかとは思っていたが、この分では弱みとなる部分を揺するだけで済みそうだ。
案の定、男は不服そうな顔をしてみせたが、対する髭切は刀の柄に手をかけて、悠然とした微笑みを崩すことなく、言葉を続ける。
「最近、北の方から妙な噂が流れてきてはいないかな。あやかしが出たとかもののけが出たとか、怨霊がいるとか変な人死にが出たとか」
時間遡行軍がどれだけ慎重に行動していても、人の目の全てを掻い潜ることは不可能に近い。彼らの痕跡は、遅かれ早かれ噂となって人々の間に伝わるものだ。
とはいえ、髭切の質問は男の常識から考えれば、埒外のものであったのは間違いない。彼はこちらに対して、鼻白んだ表情を隠そうともしなかった。
生きるのが精一杯の今の時代に、あやかしやもののけのような、あるかないか分からないようなことを尋ねているのだから、彼の反応も妥当と言えるだろう。
「人死になんざ、このご時世ごまんとあるけどな。怨霊の話っつーのは、少し前にここを通った旅の奴から聞いたなあ。なんだ、おめえさんらは噂を聞きつけて、怨霊退治に来た伴天連の妖術師か何かか」
髭切たちの珍妙な格好を、彼は質問を踏まえたうえでどうやらそのように解釈し直したらしい。
男からの問いかけへの返事代わりに、髭切は意味深に口元に弧を描く。余計な詮索をあれやこれやとされるよりは、こうして勝手に勘違いさせておいた方が、話が複雑にならずに済むからだ。
「そんなら、尚更腹空かせちまったらまずかろうに。どこから来なすったか知らねえが、飢えは苦しいぞお。人の肉が嫌だとか言っている場合じゃなくなっぞ?」
「それは、気持ちだけもらっておくよ」
端的な断りの言葉だけを髭切は述べて、少年達を引き連れて歌仙の元に戻ろうとした。だが、彼らは思わずその場で足を止めることになる。
「おーい、おっちゃん。今日もやってるか?」
河原の斜面を滑り降りながら、威勢の良い声と共に人影が現れたからだ。
現れた人物の姿を見て、髭切のみならずその場にいる四人は目を丸くした。
朝日に照らし出されたのは、目の前の人肉売買を行う男と同じように古ぼけた着物を纏った人物だった。この時代の人間にしては珍しく、背は歌仙に匹敵するのではと思うほど高い。だが、胸の部分の膨らみが、そこにいるのは女性だということを教えていた。
しかし、彼らが瞠目したのは、彼女の肉体が大きかったからではない。短い髪の毛をざっくりと乱暴に切りそろえた彼女の額に、小さな透き通った角が一対、揃って生えていたからだ。
陽光を反射して、まるで光を結晶化させたように美しく煌めく角は、主の額にあるものとよく似ていた。加えて言うならば、彼女の髪の毛は泥に塗れているものの、夕焼け色をした主の髪に似た色であった。
驚く一行を余所に、当の本人は男へとずかずかと歩み寄る。
「先客か、おっちゃん」
「そうだけどよ。こいつら俺のやってることを見やがったようで、こっちが代わりに強請られちまった」
「なんだ、だらしねえなあ。都上がりの偉そうな振る舞いしかできない連中に、弱みを握られるなんてよ」
髭切達の容姿を、値踏みするように遠慮無く見つめるその瞳の色も、主によく似た藤の花を思わせる色をしている。
「そう言うな。この連中、何でも妖術師さんだそうだ。鬼のお前なんて、あっという間にやっつけられちまうぞ?」
鬼。男は確かにそう言った。
髭切たちの視線が、つい彼女の角に吸い寄せられるように集まる。
流石にここまで注目を浴びると、その鬼の女性にも思うところがあったのだろう。鬱陶しそうに、しっしと髭切たちに向けて手を乱暴に振り、
「見せもんじゃねえぞ、何じろじろ見てやがんだ。生まれつきこんな変なもんがあるせいで、やれ鬼だバケモノだって、石投げられるのはもう懲り懲りなんだぞ、こっちは」
ぎっと睨んだかと思いきや、ぺっと唾をこちらに吐きかけてみせた。どうやら、鬼と呼ばれることに対して、彼女は相当な忌避感を覚えているらしい。
「……どういうことでしょう。主様と関係があるのでしょうか」
髭切の側に歩み寄って、物吉は声を押し殺して彼に疑問を投げかけた。乱はまだ主の角について知らないので、彼に聞こえるように尋ねるわけにはいかなかったのだ。
「主の生まれた時代から、数百年ほど昔の時代だからね。先祖がいても不思議では無いよ」
「そう、ですよね。この時代から角があって、そのせいで……」
その先の言葉は、物吉の口の中で曖昧なまま消えていってしまった。
石を投げられるようなことが主にあったのかは定かではないが、彼女が布を巻いて額を隠している様子から、推して知るべしと言えるだろう。初めて二人で山を登り、雨の中でうっかりバンダナがずれてしまったときの藤の顔を、物吉は忘れていなかった。
あれは恐らく、少なからず侮蔑の言葉と弾圧を受けた者の顔だろうと、顕現した直後の彼でもはっきりと理解できてしまった。だから、彼は主が抱えている秘密を漏らさないと決めたのだ。
物吉たちのやり取りなど意に介することなく、女性は担いでいた籠を乱暴に下ろす。端からは、銀色に光る小さな魚の尾のようなものが見えた。
「おっちゃん、今日はこんだけ釣れたから持ってきてやったぞ。適当に食えそうな草もつけておいたからな。たまには肉以外も食わねえと腹がおかしくなっちまう」
「なんでえ、それにしちゃ随分としけてんじゃねえか」
「うるせえ。魚も、もうてんで取れねえんだよ。山の奥まで行っても、小せえのしかいねえ」
「仕方ねえ。ほら、そっちのがとれたてのだ、好きに持って行きな」
男が指さした先には、橋の柱に隠すようにして置かれている茣蓙があった。言わずもがな、その中にはばらばらになった人間の手足が積み上げられているはずだ。
「あ、あの、あれは人間なんです、よ」
もしかしたらこの女性は正体を知らないかもしれない、と五虎退はおずおずと口を挟む。けれども、女性が五虎退に向ける視線は非常に冷ややかなものだった。
「わかってる。お前らも、おっちゃんのしたこと見たっつってんなら知ってるんだろうが。いちいち分かりきったことを聞いてんじゃねえよ」
「分かっていて、食べてるの?」
引っ込み思案の五虎退の代わりに乱が尋ねるも、女性の不愉快そうな様子は変わる様子がなかった。
「妖術師だか何だかしらねえが、食って何が悪いんだ。俺はこいつを食わなかったら、とうの昔に死んじまってたんだぞ」
「でも……」
食い下がる乱の肩を、髭切はぐいと掴んで後ろに下げた。何か言いたげな空色の瞳に、髭切は無言で首を横に振る。
この時代の人間には、この時代での生き方がある。そこに異なる時代の倫理観を持ち込んで、あれやこれやと難癖をつけるものではないと、髭切は暗に乱に言っていた。
現実問題、食べなければ死ぬような状況なら、糧となるものが何であろうと、頓着するのは無意味だとすら彼は思っていた。躊躇している間にも、命は刻一刻と削り取られていくのだから。
「それに他のどんな飯より、こいつが一番美味いんだから文句はねえよ。あんがとよ、おっちゃん」
「おう。今度はもっと持って来いよ」
「おっちゃんと違って、こっちは体張ってあちこち探してんだよ。おっちゃんこそ、侍に見つかって首刎ねられるような間抜けな真似、するんじゃねえぞ!」
軽口の応酬を済ませてから、女は茣蓙の中に隠れていた人の腕と足を、まるで大根でも持つように無造作に持ち上げる。切り取ったばかりだからだろうか。幾ばくかの血が断面からは滲んで滴り落ちていた。
しかし、彼女は全く気にする様子を見せず、現れたときと同じように、難なく斜面を乗り越えていずこかへと消えてしまった。
「……相当、困窮しているみたいですね。人の肉を、美味しいと言う状況にまでなっているなんて」
物吉は眉を顰めて、ゆるゆると首を横に振る。
男の所業や女性の行動に、物吉が積極的に口を挟まなかったのは、彼が少なからずこの江戸時代という歴史に関係がある刀剣男士だったからだ。
安定した治世は、刀剣の持つ幸運だけで成立するものではない。そのことは分かっていても、もし人智を超えた力を己が備えていたらというか細い願いを、彼は胸に抱かずにはいられなかったのだ。
そんな少年の祈りなど、当然知る由もない男は、
「いくら腹が減っていても、舌は正直でな。腐りかけの人肉を美味え美味えっつって喜んで食ってんのは、あのアマくれぇだぞ」
茣蓙の上に置いていた死体の一部を、今度は風呂敷らしき布きれに移し替えながら、にべもなく告げる。
「食えねえっつうこたあねえが、獣とはまた違う味がしやがる。あのアマ、見た目通り鬼だからかねえ。だらだら血ぃ流してる人肉見て、真っ先に目の色変えたのはあいつぐれえだ」
憎まれ口を叩きながらも、男の言葉には言うほどの嫌悪感はない。生計を立てる手段の一つとなっているのだから、男も彼女を不気味がっている場合ではないのだろう。
「血を見て、目の色を変えて……ねえ」
髭切はその言葉を、何とはなしに繰り返す。どこかで聞いたような、或いは目にしたような情景のような気がしたが、思い出すことはできなかった。
「あんたらも用が済んだらとっとと消えな。この話、言いふらすんじゃねえぞ」
しっかりと釘を刺してくる男に、適当な挨拶と愛想笑いを投げかけ、髭切は言われた通り物吉たちを引き連れて歌仙のもとへと戻っていった。
この時代を生きる人間達の立場も、思いも、何もかも理解しているつもりだが、目にしたものを全て割り切って忘れることなど到底できるわけもない。
青い顔をして戻ってきた乱、五虎退、物吉の様子を見て、何かを察した歌仙は「話は後で聞くよ」とだけ口にして、深く尋ねずにいてくれた。少年達は、彼の心遣いにただただ感謝を捧げるしかなかった。
通り過ぎた鈍色の光を纏ったもの――白い骨の魚を思わせる異形の化け物は、鎖を巻き付けた短剣を咥えている。今まで何度か見かけた相手とは、明らかに違う得物だ。
けたけたとこちらを嘲笑うように宙を舞う骨魚を、乱は悔しげに睨み付ける。
「もう、お触り禁止!」
軽口を叩きながらも、乱は化け物がこちらに向かってくる隙を窺っていた。だが、たとえ迎え撃ったところで倒せるかというと微妙な所だ。何せこの敵は、やたらと硬い。乱の短刀で何度斬りつけても、まるで怯む様子がない。
それに、こちらは万全の状態とは言えなかった。夜間に偵察を行っているとき、不意を突かれて腕に一撃を貰ってしまったのだ。
初の出陣で気持ちが高揚していて、地に足がついていないような状態だったのも良くなかった。市中で視界が悪かったとはいえ、これは失態だとは乱も自覚している。
「ああもう、降りて来なよ! 卑怯者ー!」
だからこそ、失態を補おうと敵を追跡したのだが、もうすぐ夜が明ける頃だというのに敵は未だ宙を漂い、乱を挑発し続けている。
恐らく、空を舞う手段を乱が持っていないと分かっているが故に、接近して挑発を繰り返して乱が消耗するのを待っているのだろう。未熟な刀剣男士一人程度では、この狡猾な敵を捕らえることなど、到底できるはずがなかった。
それでも、相手が地上に向かう瞬間を狙って乱は肉薄するも、骨魚の異形は再びひらりと身を捻って難なく一直線の攻撃を躱す。
「動かないでってば!」
乱が怒りの声を発した瞬間、彼の言葉に応じるように、ガツンと骨の砕ける音がした。見れば、彼の眼前に迫っていた敵の頭に一振りの短刀が突き立っていたのだ。
「五虎退!」
その短刀の名を呼ぶと同時に、骨魚はぶるりと身を震わせて短刀を払い落とす。やはり、致命傷には至らなかったらしい。
「乱兄さん、大丈夫……ですか!?」
「ボクは平気。それよりあいつが!」
二人揃ったことで不利を悟ったのか、或いは東から差し込む朝日に引き時と考えたのか。その異形は明らかな嘲笑と思える笑い声を最後に残して、薄闇の中へと消えてしまった。
「逃げちゃいましたね……」
「ああもう、悔しいなあ! ボクがもっと強かったら倒せたのに!!」
「でも、乱兄さんが無事で、良かったです。敵を倒すより、僕はそっちの方が……嬉しいです」
五虎退の脳裏によぎるのは、初陣のとき目にした歌仙の姿だ。彼の体から流れ出る赤は、いつ思い出しても目眩を覚えてしまうほどに鮮烈なものだった。
「あーあ、ちょっと怪我しちゃった。歌仙さんに報告しに行くついでに、手当もしないとね」
「は、はい。そろそろ、待ち合わせの時刻です」
朝日が昇り始めたら、この街の河原に集まること。それが、街に訪れてすぐに歌仙が下した命令の最後にあった言葉だった。そして今、既に夜は終わりを告げ払暁を迎えている。
「時間遡行軍がこんな町中に出るなんて、何かおかしい……です。目的地まで、もう少し距離があるのに」
「つまり、ボクたちがこの緊急の任務で当たりを引いちゃったってこと?」
「……多分。敵の狙いは、僕らが今いる時代のこの場所にあるんだと、思います」
彼らがいるのは天明三年。
それは後に天明の大飢饉と呼ばれる、数多の人々の命を奪った飢餓の時代でもあった。
***
江戸時代において、農作物の収穫が減少するというのは歌仙の主たちが暮らす現代より、深刻な意味を持っていた。
前年より続いていた冷害や悪天候に加えて、火山の噴火により日が十分に当たらない日々を送れば、当然の結果として農作物は壊滅的な打撃を受ける。すると、既に疲弊をしていた農村地帯は当然食うものに困り、飢餓に苦しむことになる。
その地を治めている藩主の政策が不適切だった場合、損害を被るのはいつだってそこに暮らす人々だ。結果、都市部には飢餓から逃れるためにやってきた農民が流れ込み、一時期無法地帯にまでなったという。
だが、このような窮地において才覚を示す者もいた。
「それが、これから行く先の藩主様のところなんですよね」
「ああ。彼の藩領は、執り行ってきた政策のおかげで、今僕らが見ているような惨状は免れているらしい」
「松平定信様のことですね。その後、正しい歴史では定信様は寛政の改革という政策を行っていたはずです。倹約家の彼の政治は、後世の歴史ではあまり良いものとは語られてはいないようですが」
「度の過ぎた倹約が、役に立つときだってあるだろうさ。今のようにね」
河にかかる橋のたもとにて、ごろごろと転がる岩の上に腰掛けていた歌仙が呟く。中空に浮かび上がらせていた、この時代の概要が記載されたホログラムの画面を眺めながら、彼は物吉と言葉を交わしていた。
指先を軽く払って画面を消去し、もう一度周りを見渡す。街に入った時点で感じてはいたが、ここには活気がなかった。元々、宿場町と言えど農村地帯に隣接するここは、江戸のそれに比べれば随分と小規模ではある。
とはいえ、それを抜きにしても、この場所の静けさは異常だ。何せ、人が生きている気配すら、ほとんどしないのだから。
「……酷かったですものね」
「無理に思い出す必要は無いよ、物吉貞宗」
歌仙の隣に腰掛けている物吉貞宗の琥珀色の瞳は、明らかに暗い。彼の側で五虎退に手当をしてもらっている乱も、思わず視線を落として言葉を詰まらせた。
「何だか、悔しいんです。ボクがここにいたはずなのに」
江戸時代と言えば、物吉の元の主でもある徳川家康とその後継が治めていた時代である。三百年近く続いたこの時代は、それまでの乱世を思えば、比較的落ち着いた時代であるとは、誰もが認める所だろう。
だが、それでも常に平和だったわけではない。このような自然災害に見舞われて、多くの人が命を落とした時期もあると物吉自身も認識はしていた。しかし、知っているのと目で見るのでは、意味合いは大きく異なってくる。
「ボクの幸運は、この時代の人までは守れませんでした」
思わず彼が弱音を吐いてしまうのも、無理もない。
彼らがいる河原にも、水を求めてやってきただろう人の亡骸が、ちらほらと見える。飢えて痩せ細った死体は、腹ばかりがやたら膨れ上がり、まさに絵物語の餓鬼を思わせた。
既に、死して何日も経っているのだろう。季節が冬のおかげで腐敗臭は幾ばくか抑えられているものの、それでも見ていて気持ちのいいものとは到底言えない。
宿場町まで、食料を探してやってきたのだろうか。はたまた、元々この町にいた者だったが食うものが無くなり、遂に命を落としてしまったのだろうか。
(ボクが本当に幸運を運べるのなら……)
こんなことにはなっていないはずだ、という言葉を物吉は喉の奥に飲み込んだ。
それ以上考えてしまうと、以前の遠征の時と同じになってしまう。幸運を運べない己を呪うのではなく、他者の側にある幸せを気付かせてあげる。そうして喜びを共に分かち合う。
そんな存在になりたいと、主に誓ったのだ。
「可哀想……って思っちゃ、駄目なんですよね。もし、僕たちが、持ってきたご飯を分けてあげたら」
「分けて、どうするというの」
割り込んできた声に、五虎退の小さな声は吹きすぎる風と共にあっという間に消えてしまった。
少年が振り向いた先では、五虎退や乱と同じように偵察に行っていた、髭切と次郎が立っていた。先ほど、五虎退の言葉を遮ったのは髭切のものだ。
「それで、僕らは少しばかりの満足を得られるけれど、与えられた側は結果的に飢えで死ぬのが数日遅れるだけ。あまり意味があるとは思えないよ」
髭切の言葉は冷たく聞こえるが、事実でもあった。人の死を目の当たりにすると感情を抑え込めず、つい心に任せた行動をしようとすることがあるのは当然の道理として、髭切も理解はしている。
だが、許容してはならない理由もまた、彼らにはあるのだ。
「もし、君が本当にここにいる人たちを全員救いたいというなら、その行動に意味は生まれるのかもしれない。でも、そこまでする場合、今度は僕らが君を斬らなくちゃいけなくなる」
この時代に亡くなる人を全員助けてしまえば、それは最早歴史改変と言っていい。時間遡行軍と、やっている行動としては変わらなくなってしまう。表面的な行動が善意から生まれているように見えるだけ、尚更たちが悪いと言えるかもしれない。
「それでも、アタシは五虎退の優しさには意味があると思うけどね。誰かが誰かのために心を砕くことを、何でもかんでも無意味だって言っちまったら、アタシたちが主のために何かしたいって思うのも無意味だってなっちまうよ」
現代に生きる主と、過去に生きる名も無き人々。比べるには少々不釣り合いにも思えるが、過去の人間だって自分が過ぎ去った存在などとは思っていないはずだ。
その日その日を懸命に生きるものに向けて、気持ちを寄せることが無意味とは思えない。次郎の言葉には、そういう思いが込められていた。
「……そうだね。五虎退、訂正するよ。僕らが彼らを生かした数日に、ひょっとしたら意味は生まれるかもしれない」
「だけれど、僕らでは決定的なものを変えることはできない。そこだけは確かだ」
髭切の希望的な物言いに重ねて、釘を刺すような歌仙の言葉が穿たれる。言いながらも、誰よりも歌仙の心はぎしりと軋んでいた。
最近は、このように罪も無い一般の人が沢山命を落とす場に、出くわす機会が少なかった。戦場の只中か、寺社仏閣のような人里離れた山中や、もっと先に時代が進み、主達が暮らす時代にほど近い時代に行くことが多かったからだ。
戦場のまっただ中で、自らの覚悟を決めて戦い、命を散らす者を歌仙は引き留めようとは思わない。人里離れたところでひっそりと己の信仰を深める者たちは、少なくとも死には直面していなかった。
更に先の時代ともなれば、そもそも死は非常に限られた空間のものになっていた。死は人々の生活の場から遠ざけられ、施設や病院の中に収まる存在と変化していたのだ。
そうして無辜の民が命を落とす場面を、目の当たりにせずにいられる日々に、安堵している自分がいると歌仙は認めていた。
今でも、主と同じ名前の村娘の頭が砕けた瞬間を、彼は忘れない。彼女の犠牲を意味のあるものとするために、歴史を正し続けなければならないことを、忘れてはいない。
同時に、正しさの前には犠牲も必要という現実を知る度に、心の中の柔らかい所が声をあげていると、歌仙は既に気がついていた。
(主、きみは大きな正しさに無理に従う必要はないと言っていた)
ならば、歴史を守る正しさに目を瞑り、ここで飢えた民を救うとして。その行為を自分は許せるのか。胸を張って、自分自身に誇れるのか。
答えは否だ。
たとえ己の心に従ったとしても、この時代の人間全てを助けられるほど歌仙の手は広くない。それに、もし助けてしまったら、それこそ時間遡行軍と同じになってしまう。先ほど、自らが忠告したように。
改めて自問自答を終え、歌仙は額に親指をぐりぐりと押しつけて眉間の皺を広げようとした。どうにも、自分は考えすぎてしまう。よくない癖だと、歌仙は己を戒めるように目をぎゅっと瞑ってから、顔を上げる。
「そういえば次郎。もしかして、怪我をしているのかい。きみから少し、血の臭いがするよ」
「ああ。ちっとばかし、偵察に出ていたときにね」
歌仙の視線の先では、次郎の二の腕に巻かれた包帯が朝日を受けてくっきりと浮き上がっていた。偵察から戻ってきた乱も、軽い傷を負っていたという点も踏まえれば、敵がここにいるのは明白だ。
「町中じゃ、アタシはあまり暴れられなくて参ったよ。髭切がいなかったら、どうなってたことやら」
「いやいや、次郎太刀。僕だって壁に何度かぶつけてしまいそうになってしまったよ。時間遡行軍は三体。刀種は脇差と短刀かな。そこまで強敵じゃないけれど、斥候として配備しているなら注意が必要だろうね」
「五虎退の所にいた敵は、妙に硬い敵だったと聞いているんだ。髭切、そっちは普段と違うところはなかったかい?」
「ううん。そこまで特別な強さは感じられなかったよ。ただ、夜だったから姿が捉えにくかったかなあ」
夜戦のときに小回りの利く敵に出会うと厄介だという知見は主に伝えねばと、歌仙は頭の片隅で記憶しておく。今はまだ六振りしかいないから部隊員も固定ではあるが、いずれ出陣先に合わせて部隊を変更する場合もあるだろう。ならば、その際に使える判断材料は多いに越したことはない。
「これは、僕らが当たりを引いたかな」
言いつつ、髭切は歌仙から離れて、河原に転がる大きな石の一つに腰掛けた。朝日の眩しさに目を細めつつ、彼は現在の状況を整理する。
主のいる本丸からこの時代に転移して、早五日。本来ならば目的地の近くに転移するのが常なのだろうが、緊急調査の場合は原因を虱潰しに当たるために、歴史改変の影響がなさそうな所に転移することも、しばしばあるという。
ならば仕方なしと、とりあえず近隣の農村や宿場町を渡り歩き、その時代に生きる人に聞き込みをしようとした。
だが、肝心の聞き込み相手のほとんどは酷い飢餓により屍と化しており、生きていても話がまともにできる健康状態では無かった。荒廃した農村二つを行き過ぎた彼らは、ようやく昨晩この宿場町を見つけた。
そこでやっと、倒れている人間以外の存在に出会えたのだ。もっとも、それは時間遡行軍だったわけだが。
「乱たちの遭遇した、今まで見たこともない敵の存在が気になるね。ここが本命と決めつけるのは早計だろうが、敵の手が入り込んでいることは、この近辺に時間遡行軍の狙いがあると踏んで間違いないだろう」
歌仙が皆の意見をまとめるように結論を出し、
「それが、松平定信って人なんだよね」
髭切が来る直前に話していた内容を反復して、乱が言葉を先取りする。
「僕の方から、主に援軍の進言をしておくよ。恐らく、僕らが出会った以上の敵が、この近辺に潜んでいるだろうから」
主から受け取った端末を取り出し、歌仙はやや辿々しさの残る手つきで文字を入力していく。暫くは彼に任せておこうと、河原を見るともなしに見ていた髭切は、不意に眉をひそめた。
「あそこ、誰か動いている」
死体しかいない河原に、動いている誰かがいる。この冬の朝、まだ吐く息も白い頃だというのに。
これが平時ならさして気にすることもなかったが、こんな飢餓の時世に、よりにもよって死体捨て場のようになっているこの場所に、朝早くから誰かがいる。その点で、髭切は不自然さを感じ取っていた。
「町の人、でしょうか」
「丁度いいよ! 話を聞いて、時間遡行軍がその松平さんって人のところに行ってないか、確認してみよう!」
「そうですね……。町の人なら、何か知ってるかもしれない、です」
「歌仙さん、声をかけに行ってもいいでしょうか」
乱と五虎退の意見を代表して、物吉が部隊長である歌仙に尋ねた。否定する理由もないため、彼もすぐに小さく頷き返す。流石に子供たちだけで近づけば怪しまれるだろうと、髭切はその人影に接近する三人の後ろを追うことにした。
薄ら差し込んだ朝日が、死体の間を行ったり来たりしている人間の影を浮かび上がらせる。それは、手に棒のようなものを持って時折振り下ろし、時には拾い上げた何かを一箇所に集めているようだった。
(……物取りかな)
こちらに敵意を向けるようなら、少々手荒な対応で応じる必要があるかもしれない。髭切はそう思い、己自身ともいえる刀に手を添える。
じりじりと上る冬の陽光が、そこにいる誰かの姿をくっきりと髭切たちに見せつける。
そして、彼は思わず目を見開いた。
瞬間、息をすることも忘れるほどに。
河原にいたのは、一人の男だった。片手に握っているのは、黒く固まった血の上に更に赤を滲ませている鉈だ。だが、彼らが息を呑んだのは、男の猟奇的な姿のせいではなかった。
彼が拾い上げているもの。それは、人の腕だった。直前まで、その辺りに転がっている人間についていた、部品の一つだった。
男は無造作に人の身体を解体し、体の一部を掴んでは河原の一角にある茣蓙の上に運んでいたのだ。
淡々と、淡々と。さながら鶏肉や豚肉を解体するのと同じような感覚で。自分と同じような姿形をした存在を、刻んで、積み上げていく。髭切たちが立ち尽くしている間にも、何度も何度も。
だというのに――彼の目には、狂気は一切なかった。
「な、何してるの、あの人……!?」
「どうして、人をばらばらに……?」
人間一人分を解体しし終えた彼は、それを茣蓙ですっかり覆い隠し、橋のたもとへと隠すように運んだ。その人間くさい彼の行動が、益々彼に理性があることを四人に知らしめていた。
距離はかなり置いていたとしても、こちらを四対もの視線を見つめていれば、素人とはいえ気配を感じるのだろう。男は鉈の刃を乱暴に革のようなもので包み、腰紐に挟んでからこちらにずいずいと大股で歩み寄ってきた。
近くに寄れば尚、風体がはっきりと分かる。ボロボロの着物を纏い、無精髭を生やした年の頃は三十を越えたかどうかという青年だ。今まで見てきたこの時代の人間の誰よりも、彼はしっかりとした体格をしていた。
骨が浮き出てもいないし、飢餓状態により腹が膨らんでいるわけでもない。主の時代の人間を思うと当然痩せている方ではあるが、一日二日で死ぬような飢え方はしていないことが見て取れる。
「あんたら、旅のもんか? 妙な身なりしてるが、お侍さんつーわけではなさそうだな。伴天連の連中にしちゃあ、ちっこいのも混ざってるみたいだが」
やや訛りの残る口調で、男は髭切たちを遠慮無く値踏みするような視線で睨み付ける。彼の抜け目ない視線は、戦装束姿の髭切たちの衣服を舐めるように移動し、次いで刀を見据えてぴたりと止まった。
この飢餓の時代で飢えていない状況にあるとしたら、続いて必要となるのは金銭だ。金目のものに視線が行くのは、必然の流れと言えただろう。
「侍ではないけど、故あって旅をしているのは確かだよ」
「ふうん。この時代に、優雅なもんだね。それとも、あれか。ついに住んでる町に飯がなくなったってところか。このご時世だもんな。金があるからって、飯にありつけるたぁかぎらねえ」
髭切は極力刺激しないような言葉を選んだつもりだったが、男の言葉には身なりの整った自分たちへの、隠しようのない僻みと嘲りが滲んでいた。
回答に困り、思わせぶりに髭切は微笑んで見せたが、どうやら男はそれを図星と思ったらしい。彼の中で、この妙に小綺麗な一党は、金はあるものの肝心の食糧が尽きて家を出るしか無くなった者と、一旦捉えられたようだ。
「見たところ、荷物も持ってなさそうだしな。兄弟か親子か知らねえが、そんなんじゃ、後一日もしたらばったり倒れちまうだろうさ。あんたら、どこまで行くつもりなんだ」
「ちょっと北の方までね」
本当は兄弟でも親子でも無く、加えて言うならここにいる四人以外に更に二人の連れもいるのだが、わざわざそのようなことを髭切は口にはしない。
「北、ああ北か。あっちは、もうちょいましなお役人のおかげで、暮らしが楽らしいが……ここからだと、結構な距離だぞ?」
「おや、そうなのかい。すぐ着くかと思っていたよ」
危機感の無い髭切に、男は呆れたという気持ちを隠そうともせずに露わにしていた。この飢えの時代に、まともな糧食を持たずふらふら歩いていたら、そんな顔の一つもしたくなるだろう。
だが実際のところ、刀剣男士は食べ物を食べなくても死にはしない。彼らの本質は鉄の塊であるがゆえに、食事はあくまで付属物に過ぎなかった。
本丸にいるときに食事をしているのは、彼らに人としての生活や感覚を身につけさせ、精神的な疲弊を覚えさせないための手段に過ぎない。空腹を感じないわけではないが、意識してその感覚を断つこともできる。腹が満たされていなかったとしても、体の動きが鈍るわけでもない。
さらに言えば、暑さ寒さも彼らには直接的には関係なかった。五感で影響があると言えるのは、触覚――ひいては痛覚だろう。それも、意識してしまえば感じないようにできる。もっとも、痛みを覚えないと自分の傷の程度がわからなくなるのでよした方がいい、と言われているものでもあった。
閑話休題。そういうわけで、彼らは食料のようなものは、持っていなかった。そして目の前の男は、彼らが自分の知る世界から外れた存在とは、当然認識していなかった。
「そんなら、あんたらは俺の売ってるもんが欲しいだろうなあ。飢えは怖いもんだからなあ」
「売ってるものって?」
「食いもんだよ」
「おじさん、食べ物を売ってるの?」
乱は未だ青い顔をしながらも、男の言葉に食いついて見せた。この時代に来て初めて会ったまともに喋れる人間なのだ。彼を無視することはできない。
乱の様子を見て、男はにやりと笑ってみせる。笑うと、彼の汚れた黄色の乱杭歯がよく見えた。
「そうだぞ、嬢ちゃん。腹が減ってるんだろう? どんだけいい物を着て、高いもの持ってても、飢えには勝てねえもんなあ。だがな、もしその高そうなもんを譲ってくれんなら、ちょっと分けてやってもいいぞ」
「こ、こんなに、からからで、何もないのに……ご飯を、持ってるんですか?」
「おうさ。肉ならたんとある。ま、土の混ざった狗肉でよければだけどな」
五虎退のおずおずとした問いかけにも、男は気前よく答える。つかみ所のない保護者然としている髭切の様子を見て、彼に売り込むのは難しいと思ったらしいが、子供なら手玉にとれると考えたのだろう。子供から保護者へと強請らせて、一儲けしてやろうという魂胆が透けて見える。
だが、髭切は男が隠している事実を見抜いていた。
「それは、人の肉じゃないの?」
瞬間、男の顔色が変わった。
商談を進める抜け目ない商人の瞳から、こちらへの明らかな警戒を滲ませる獣の眼へと。
「そこら辺で死んでいる人の中で、そんなに腐ってない人をばらばらにして、土を混ぜて犬の肉として売る。自分も食べてたらお腹も減らないし、次から次へと供給はある」
髭切は、淡々と自分が発見した事実を男の口にした言葉を結びつけて、推測を事実に近い仮定として語る。
「お腹がすいた人は、土が混ざった犬の肉でも食べられるなら気にしない。もしかして、何の肉か分かっている人も、いるのかもしれないけれど」
「……やっぱり、あれってそういうことなの?」
「そんな……どうして、騙すような真似を、しているんですか」
乱も五虎退も、激しい動揺は見せていなかった。既に目にしてしまった以上、男の語り口を聞いてある程度の予想はしていたからだ。
とはいえ、予想していたことと、現実にそうだと確信を持つのとではまた違う。五虎退がつい批難めいた言葉を口走ってしまったのも、無理のないことだった。
「ちっ、見てやがったのか。騙すっつったって、死ぬよりましさ。別に毒を混ぜて売ってるわけでもなし」
男はにべもなくいうが、五虎退の顔には依然として嫌悪の感情が残っている。
事実としては男の言う通りなのだろうが、主の生きた時代の価値観に基づいて顕現し、その考え方を良しとして生活を続けていた彼らには看過しづらい部分であった。
そうでなくても、自分と同様の姿をした者――刀剣男士という立場で考えるならば、自分の主と似た姿、同じ存在のものをばらばらにして食らうという点だけでも、少なからず忌避感を覚えずにはいられないのだ。
「でも……そんなの、ひどいです。死んだ人を、ばらばらにするなんて」
「おう、坊ちゃん。どこの金持ちか知らねえが、死ねば皆等しく肉の塊よ。腐らせるよりかは、まだ生きてるもんの腹の足しになった方が、ましってこった」
男の言い分は、この時代においてあまりに真っ当すぎた。故に、五虎退はこれ以上彼の考えを否定はできなかった。
けれども、彼の考え方は同時に酷く危ういものでもあると髭切は思う。ともすれば、肉を得るために殺人を肯定しかねない言葉でもあったからだ。
「このこと、よその連中には話すんじゃねえぞ。折角の商品が、売れなくなっちまうからな」
「それじゃあ、言わない代わりに僕らから質問していいかな」
もともと彼に声をかけた理由は、情報交換だった。彼から何か聞き出すためには、こちらから対価を差し出さねばならないかとは思っていたが、この分では弱みとなる部分を揺するだけで済みそうだ。
案の定、男は不服そうな顔をしてみせたが、対する髭切は刀の柄に手をかけて、悠然とした微笑みを崩すことなく、言葉を続ける。
「最近、北の方から妙な噂が流れてきてはいないかな。あやかしが出たとかもののけが出たとか、怨霊がいるとか変な人死にが出たとか」
時間遡行軍がどれだけ慎重に行動していても、人の目の全てを掻い潜ることは不可能に近い。彼らの痕跡は、遅かれ早かれ噂となって人々の間に伝わるものだ。
とはいえ、髭切の質問は男の常識から考えれば、埒外のものであったのは間違いない。彼はこちらに対して、鼻白んだ表情を隠そうともしなかった。
生きるのが精一杯の今の時代に、あやかしやもののけのような、あるかないか分からないようなことを尋ねているのだから、彼の反応も妥当と言えるだろう。
「人死になんざ、このご時世ごまんとあるけどな。怨霊の話っつーのは、少し前にここを通った旅の奴から聞いたなあ。なんだ、おめえさんらは噂を聞きつけて、怨霊退治に来た伴天連の妖術師か何かか」
髭切たちの珍妙な格好を、彼は質問を踏まえたうえでどうやらそのように解釈し直したらしい。
男からの問いかけへの返事代わりに、髭切は意味深に口元に弧を描く。余計な詮索をあれやこれやとされるよりは、こうして勝手に勘違いさせておいた方が、話が複雑にならずに済むからだ。
「そんなら、尚更腹空かせちまったらまずかろうに。どこから来なすったか知らねえが、飢えは苦しいぞお。人の肉が嫌だとか言っている場合じゃなくなっぞ?」
「それは、気持ちだけもらっておくよ」
端的な断りの言葉だけを髭切は述べて、少年達を引き連れて歌仙の元に戻ろうとした。だが、彼らは思わずその場で足を止めることになる。
「おーい、おっちゃん。今日もやってるか?」
河原の斜面を滑り降りながら、威勢の良い声と共に人影が現れたからだ。
現れた人物の姿を見て、髭切のみならずその場にいる四人は目を丸くした。
朝日に照らし出されたのは、目の前の人肉売買を行う男と同じように古ぼけた着物を纏った人物だった。この時代の人間にしては珍しく、背は歌仙に匹敵するのではと思うほど高い。だが、胸の部分の膨らみが、そこにいるのは女性だということを教えていた。
しかし、彼らが瞠目したのは、彼女の肉体が大きかったからではない。短い髪の毛をざっくりと乱暴に切りそろえた彼女の額に、小さな透き通った角が一対、揃って生えていたからだ。
陽光を反射して、まるで光を結晶化させたように美しく煌めく角は、主の額にあるものとよく似ていた。加えて言うならば、彼女の髪の毛は泥に塗れているものの、夕焼け色をした主の髪に似た色であった。
驚く一行を余所に、当の本人は男へとずかずかと歩み寄る。
「先客か、おっちゃん」
「そうだけどよ。こいつら俺のやってることを見やがったようで、こっちが代わりに強請られちまった」
「なんだ、だらしねえなあ。都上がりの偉そうな振る舞いしかできない連中に、弱みを握られるなんてよ」
髭切達の容姿を、値踏みするように遠慮無く見つめるその瞳の色も、主によく似た藤の花を思わせる色をしている。
「そう言うな。この連中、何でも妖術師さんだそうだ。鬼のお前なんて、あっという間にやっつけられちまうぞ?」
鬼。男は確かにそう言った。
髭切たちの視線が、つい彼女の角に吸い寄せられるように集まる。
流石にここまで注目を浴びると、その鬼の女性にも思うところがあったのだろう。鬱陶しそうに、しっしと髭切たちに向けて手を乱暴に振り、
「見せもんじゃねえぞ、何じろじろ見てやがんだ。生まれつきこんな変なもんがあるせいで、やれ鬼だバケモノだって、石投げられるのはもう懲り懲りなんだぞ、こっちは」
ぎっと睨んだかと思いきや、ぺっと唾をこちらに吐きかけてみせた。どうやら、鬼と呼ばれることに対して、彼女は相当な忌避感を覚えているらしい。
「……どういうことでしょう。主様と関係があるのでしょうか」
髭切の側に歩み寄って、物吉は声を押し殺して彼に疑問を投げかけた。乱はまだ主の角について知らないので、彼に聞こえるように尋ねるわけにはいかなかったのだ。
「主の生まれた時代から、数百年ほど昔の時代だからね。先祖がいても不思議では無いよ」
「そう、ですよね。この時代から角があって、そのせいで……」
その先の言葉は、物吉の口の中で曖昧なまま消えていってしまった。
石を投げられるようなことが主にあったのかは定かではないが、彼女が布を巻いて額を隠している様子から、推して知るべしと言えるだろう。初めて二人で山を登り、雨の中でうっかりバンダナがずれてしまったときの藤の顔を、物吉は忘れていなかった。
あれは恐らく、少なからず侮蔑の言葉と弾圧を受けた者の顔だろうと、顕現した直後の彼でもはっきりと理解できてしまった。だから、彼は主が抱えている秘密を漏らさないと決めたのだ。
物吉たちのやり取りなど意に介することなく、女性は担いでいた籠を乱暴に下ろす。端からは、銀色に光る小さな魚の尾のようなものが見えた。
「おっちゃん、今日はこんだけ釣れたから持ってきてやったぞ。適当に食えそうな草もつけておいたからな。たまには肉以外も食わねえと腹がおかしくなっちまう」
「なんでえ、それにしちゃ随分としけてんじゃねえか」
「うるせえ。魚も、もうてんで取れねえんだよ。山の奥まで行っても、小せえのしかいねえ」
「仕方ねえ。ほら、そっちのがとれたてのだ、好きに持って行きな」
男が指さした先には、橋の柱に隠すようにして置かれている茣蓙があった。言わずもがな、その中にはばらばらになった人間の手足が積み上げられているはずだ。
「あ、あの、あれは人間なんです、よ」
もしかしたらこの女性は正体を知らないかもしれない、と五虎退はおずおずと口を挟む。けれども、女性が五虎退に向ける視線は非常に冷ややかなものだった。
「わかってる。お前らも、おっちゃんのしたこと見たっつってんなら知ってるんだろうが。いちいち分かりきったことを聞いてんじゃねえよ」
「分かっていて、食べてるの?」
引っ込み思案の五虎退の代わりに乱が尋ねるも、女性の不愉快そうな様子は変わる様子がなかった。
「妖術師だか何だかしらねえが、食って何が悪いんだ。俺はこいつを食わなかったら、とうの昔に死んじまってたんだぞ」
「でも……」
食い下がる乱の肩を、髭切はぐいと掴んで後ろに下げた。何か言いたげな空色の瞳に、髭切は無言で首を横に振る。
この時代の人間には、この時代での生き方がある。そこに異なる時代の倫理観を持ち込んで、あれやこれやと難癖をつけるものではないと、髭切は暗に乱に言っていた。
現実問題、食べなければ死ぬような状況なら、糧となるものが何であろうと、頓着するのは無意味だとすら彼は思っていた。躊躇している間にも、命は刻一刻と削り取られていくのだから。
「それに他のどんな飯より、こいつが一番美味いんだから文句はねえよ。あんがとよ、おっちゃん」
「おう。今度はもっと持って来いよ」
「おっちゃんと違って、こっちは体張ってあちこち探してんだよ。おっちゃんこそ、侍に見つかって首刎ねられるような間抜けな真似、するんじゃねえぞ!」
軽口の応酬を済ませてから、女は茣蓙の中に隠れていた人の腕と足を、まるで大根でも持つように無造作に持ち上げる。切り取ったばかりだからだろうか。幾ばくかの血が断面からは滲んで滴り落ちていた。
しかし、彼女は全く気にする様子を見せず、現れたときと同じように、難なく斜面を乗り越えていずこかへと消えてしまった。
「……相当、困窮しているみたいですね。人の肉を、美味しいと言う状況にまでなっているなんて」
物吉は眉を顰めて、ゆるゆると首を横に振る。
男の所業や女性の行動に、物吉が積極的に口を挟まなかったのは、彼が少なからずこの江戸時代という歴史に関係がある刀剣男士だったからだ。
安定した治世は、刀剣の持つ幸運だけで成立するものではない。そのことは分かっていても、もし人智を超えた力を己が備えていたらというか細い願いを、彼は胸に抱かずにはいられなかったのだ。
そんな少年の祈りなど、当然知る由もない男は、
「いくら腹が減っていても、舌は正直でな。腐りかけの人肉を美味え美味えっつって喜んで食ってんのは、あのアマくれぇだぞ」
茣蓙の上に置いていた死体の一部を、今度は風呂敷らしき布きれに移し替えながら、にべもなく告げる。
「食えねえっつうこたあねえが、獣とはまた違う味がしやがる。あのアマ、見た目通り鬼だからかねえ。だらだら血ぃ流してる人肉見て、真っ先に目の色変えたのはあいつぐれえだ」
憎まれ口を叩きながらも、男の言葉には言うほどの嫌悪感はない。生計を立てる手段の一つとなっているのだから、男も彼女を不気味がっている場合ではないのだろう。
「血を見て、目の色を変えて……ねえ」
髭切はその言葉を、何とはなしに繰り返す。どこかで聞いたような、或いは目にしたような情景のような気がしたが、思い出すことはできなかった。
「あんたらも用が済んだらとっとと消えな。この話、言いふらすんじゃねえぞ」
しっかりと釘を刺してくる男に、適当な挨拶と愛想笑いを投げかけ、髭切は言われた通り物吉たちを引き連れて歌仙のもとへと戻っていった。
この時代を生きる人間達の立場も、思いも、何もかも理解しているつもりだが、目にしたものを全て割り切って忘れることなど到底できるわけもない。
青い顔をして戻ってきた乱、五虎退、物吉の様子を見て、何かを察した歌仙は「話は後で聞くよ」とだけ口にして、深く尋ねずにいてくれた。少年達は、彼の心遣いにただただ感謝を捧げるしかなかった。