短編置き場

 ふっと漂う甘い香りに、縁側を歩いていた若苗は足を止める。香りが漂ってきているのは、厨の方だ。どこか、焦げついたような、それでいて甘いような不思議な香りは彼女の気を惹くには十分すぎた。
 時刻はおやつどきの少し前。もしかしたら今日の三時に食べるものだろうか、と思い若苗はいそいそと厨に向かう。甘味というのは、いつだって少女の心を期待に満ちあふれさせるものだ。若苗とてその例外ではない。

「小豆長光様?」

 甘味といえば、小豆長光が作っていることが多い。そのような認識は、本丸に訳あって預けられるようになって一年も経たない若苗であっても既に承知のことだった。
 そろそろと厨の戸を開き、中をこっそりと覗く。
 果たして、そこには予想していた背の高い赤茶の髪の青年ではなく、上背こそ似ていたが薄緑の髪を跳ねさせた青年が、火を出すからくりの前で慎重に何かを混ぜていた。

「まあ。膝丸様が……?」

 彼が厨に立つこと自体は、思わず声をあげるほど珍しいことではない。厨当番は持ち回り制であるし、几帳面な彼は料理においてもその几帳面さを遺憾なく発揮してくれている。おかげで、安心して任せることが出来るとは、以前は一人で厨を切り盛りしていた歌仙の談だ。
 とはいえ、膝丸が甘味を作るという印象は、若苗にはなかった。そういう嗜好品を手がけるのは、前述したように小豆長光や歌仙兼定の印象が強かったからだ。

「若苗か。何かあったのか?」

 娘の声に気がついた膝丸は、彼女の方を振り向くことなく返事をする。その視線は、先程から鍋にじっと注がれたままだった。
 普段はどんな時であってもこちらと目を合わせて話をしてくれる彼にしては珍しい、と若苗は膝丸の側にとてとてと歩み寄る。

「いい香りがしたもので、つい。何をお作りになっているのですか?」
「ぷりん、のからめるという部分だ」
「ぷりん?」

 聞き馴染みのない言葉を、若苗は口の中で繰り返していく。随分と可愛らしい発音の単語だが、これは一体何を指すのだろうか。
 その疑問を読み取ったかのように、膝丸は言葉を続ける。

「ぷりんというのは、外の国にある卵と砂糖を使った菓子だ。以前、主に作ってほしいと頼まれたことがあってな。おかげでこうして、今も何も見ずとも作れるようになっている」

 自ら言う通り、慣れた手つきで火を止め、今度は用意してあった小さなボウルに入っていたお湯を鍋の中にゆっくりと入れていく。その手際は、菓子を作り慣れている小豆長光のそれと比較しても、遜色ないだろう。

「今日は、久しぶりに主に作って欲しいと頼まれてしまってな。俺のものでなくとも、それこそ小豆に頼めばよいだろうに」
「膝丸様はこのお菓子を、もう何度も作られているのですか?」
「ああ。最初に作ったときは、随分と大変な思いをしたが……」

 頃合いだろうと、鍋の中に薄く広がる、甘いようで苦い液体に味見用の匙を入れる。ひとすくいしてから、膝丸は昔を思い出すようにふっと目を細めた。

「あれは、俺が顕現した最初の年だったな。主に、突然ぷりんを作ってくれと頼まれたのだ」

 匙が掬い上げた褐色の液体に映る自分を見つめながら、膝丸は数年前の思い出を隣に立つ娘へと語り始めた。


***


「膝丸、プリン作って」
「ぷりん?」

 その面妖な単語を聞いた数年前の膝丸は、主であり審神者である藤が一体何を作ってくれと頼んでいるのか理解すらできなかった。
 正午も少し過ぎた頃、自室で読書に興じていた膝丸の元に、主である藤が神妙な面持ちで尋ねてきたと思いきや、こんなことを言い始めたのだ。何をまた主は突然言いだしているのか、という心持ちの一つや二つ、膝丸が抱いてしまうのも仕方ないというものである。

「プリンっていうのは、卵で作るお菓子のことだよ!」
「菓子ならば、俺でなくとも小豆に頼めば良いだろう」

 この本丸には、小豆長光という刀剣男士がいる。彼は『すいーつ』という洋菓子を作らせたら右に出るものはいないと言えるほど、菓子作りやその研究に力を入れている刀剣男士だった。
 主が甘味を好むと知ってから、小豆も腕によりをかけて午後三時にはおやつを用意するようになっていた。作りたい当世風の菓子があるならば、彼に頼んだ方が確実だと膝丸は思ったのも至極もっともな流れだ。
 だが、藤はぶんぶんと首を横に振る。

「小豆は今遠征中だよ。もうそろそろ帰るって連絡はあったけどね」

 それで主がこんなに元気なのか、と膝丸は納得する。
 主は、遠征中や出陣中はいつもどこか張り詰めた顔をしている。本丸ができてすぐの頃、遠征先や出陣先で刀剣男士たちが大怪我を負って帰ってくることが続いてしまい、帰参の連絡を受けるまで落ち着くことができなくなってしまったらしい。
 今朝も、ピンと張った糸のように緊張している彼女の顔を膝丸は目にしていた。

「だから、遠征で疲れて帰ってきたときに、プリンがあると嬉しいだろうなーと」
「本音は?」
「安心したらお腹すいたから、僕が甘いものを食べたい」

 思わずため息がついて出た。
 下手に迂遠な表現で己を隠して誤魔化すというのも褒められたことではないが、ここまで直接的な物言いもどうなのだろうか。

「駄目かな?」

 じりじりとにじり寄り、顔を覗き込んでくる主から逃げられる術など、膝丸が持ち合わせているわけもない。潔く読書を諦め、彼は読んでいた本に栞を挟み、立ち上がる。

「それで、俺は何をすれば良いのだ?」
「作り方なら端末から表示させておいたから、それを見てプリンを作って欲しい」
「そこまで準備できているのなら、自分でやれば早いのではないか?」

 膝丸の疑問は、至極もっともなものだった。だが、藤は薄い胸を精一杯張って、堂々と言い放つ。

「もうやったよ。そして焦がした」
「…………」

 膝丸が絶句したのは、言うまでもなかった。


「最初に砂糖と水を入れて少しずつ混ぜながら焦がしていき、予熱でさらに色をつけつつお湯をゆっくり混ぜる……か」

 なるほど、と頷いてから、膝丸は自分の後ろで顔中を笑顔にしている主を見やる。プリンを作ってもらえると聞いて、すっかりご機嫌になっているらしい。まるで十にも満たない子供のようだ。

「主が焦がすわけだな」
「でしょ?」

 我が意を得たりとばかりに得意満面な表情になっているものの、慎重にやればできないものではないだろう、とは膝丸の心中によぎった言葉だった。
 だが、この主はとにかく火加減というものをまるで理解していない人物だと言うことは、この本丸にいる刀剣男士なら誰もが承知していることだった。何せ、早く食べたいからと常に強火で何もかもを調理するような人物なのだ。
 野菜炒めも、生姜焼きも、彼女に作らせればどこかで炭の味がするものになってしまう。この菓子のように、慎重にわざと焦がすなどという高等技術は、到底望むことはできないだろう。

「膝丸なら、そういう細かい気を遣う作業も、得意そうかなーって」
「……聞いているだけなら、できなくもないだろうとは思うが」

 言いつつも、膝丸は厨の中から示された材料を取り出し始める。卵に牛乳さえあれば大体は問題ないようだ。
 ついでに、厨当番をするときのいつもの癖で、長く伸びて片目を隠す前髪を持ち上げ、歌仙のように頭のてっぺんで留める。そうしないと髪の毛が入るかもしれないと、以前に小豆長光から注意されたことがあったからだ。
 その様子をじーっと見つめる藤の視線に、自分は何か変なことをしてしまっただろうか、と膝丸は眉をひそめる。

「俺の顔に何かついているか?」
「そうすると、髭切によく似た顔してるなあって」
「俺と兄者は、兄弟だからな」
「それになんだかちょっと新鮮」

 いつも片目を隠しているから、と藤は自分の顔の右半分を手で隠してみせる。

「顔を見るのかプリンを作らせるのか、どちらかにしてもらえるだろうか」
「ごめんごめん。プリン作る方をお願いします」

 改めて調理台に向き直り、膝丸は鍋の中に入れた砂糖に水を入れて、からくりのつまみを回して鍋を火にかける。
 このあとは、手順を見る限り暫く集中し続けるしかない。何せこれを焦がしたら、主と同レベルの料理の腕前ということになる。それは、何としても避けたいところだった。

(程よく焦げ付かせるとあるが、時間までは書いてないな……。固めてしまっては、ここに載せられてる写真のようにはできないだろう)

 端末から中空に浮かび上がっている丁寧な写真つきの解説を時折見ながら、膝丸は針に糸を通すような心持ちで作業を続けていた。だが、

「おや、なんだか良い香りがするね」
「髭切も、プリン食べる?」

 集中したいときに限って、何ということだろうか。よりにもよって彼の兄である髭切が顔を見せてしまった。
 普段なら自分の様子を見に来た兄の姿を見かけたら、一も二も無く歓喜を顔中に広げる膝丸だったが、珍しく今の彼としては「できれば来ないでほしい」という心境に立たされていた。何せ、兄の髭切は普段はそのマイペースな行動故に、膝丸の集中などいとも容易く乱していってしまうからだ。

「弟は何をしてるんだい?」
「プリンを作ってもらってるんだよ」
「ぷりん?」

 先ほど膝丸と藤の間にあったような応酬を重ねながら、髭切は後ろからひょいと膝丸の手元を覗き込む。
 それだけではない。髭切に倣い、藤まで腰掛けていた椅子から立ち上がって、膝丸の背中越しに手元を覗き込んでくるではないか。

「……集中をさせてくれないか、主」
「声はかけてないよ?」
「そうそう、弟を見てるだけだよ」
「近いと言っているのだ、兄者もだぞ!」

 視線を離すわけにはいかないから背を向けながらの注意になってしまったが、効果覿面、二人はそそくさと膝丸に纏わり付くのをやめて離れていく。

「怒られちゃった」
「怒られちゃったね。それで、主。ぷりんって?」
「お菓子の名前だよ。何だか急に食べたくなったんだけど、僕が作ると焦がしちゃうから膝丸に頼んだの」
「なるほど、道理で弟が厨に立っているわけだ。小豆も歌仙も、遠征中だものね」
「和泉守はこういうの苦手そうだし、それならもう膝丸しかいないよね」

 二人で勝手に会話を続けてくれる分には、膝丸の集中が削がれることはない。良い頃合いと見て、膝丸は火を止めて更にゆっくりと手を動かし続けた。そろそろ指示にあるようにお湯を入れるか、と予め用意していたお湯を鍋の中身へと慎重に混ぜていく。

「そのぷりんとやらを作るのって、どうして僕に頼まなかったの?」
「だって、僕ほどじゃないだろうけど、髭切も料理苦手そうじゃないか。当番の時も野菜の皮むきばかりしていて、火を使わせてもらってなかったよね。この前見てたよ?」
「適材適所というだけだよ。それに、僕だって火を扱ったことくらいは何度かあるよ」

 主と会話を楽しんでいるはずの兄からの視線が、妙に深く背中に突き刺さっている気がすると、膝丸は感じる。
 髭切が主の藤に並々ならぬ執着――本人は否定していたが、膝丸にはそう見えた――をしているのは、彼も知っていた。ならば、髭切ではなく膝丸を真っ先に頼るというのは、髭切としては心中穏やかではいられないものだったのだろう。

「そうだとしても、膝丸の方がお菓子作りには向いてるかなって。それにさ。髪の毛上げたら菓子職人みたいな顔つきしてるし」

 誰が菓子職人だ、と突っ込みたいのを彼はぐっと我慢する。
 主の頼みでなければ、このようなことはまずすることはなかっただろう。他ならぬ彼女からのお願い事だから、刀を鍋と木ベラに持ち替えてこうして調理に励んでいるのだ。

「僕も同じような顔をしているよ? ほら、前髪もあげてみようか」

 そこは張り合うところなのか? 
 二人のピントの合わない会話を聞いていると、指摘を入れたくて堪らなくなってしまう。要するに、膝丸はボケとボケしかいない会話に突っ込みを入れたくて仕方が無かったのだ。
 だが、鍋の中にあるものを焦がしては源氏の重宝の名が廃る。間違っても、毎回炭味の料理を提供する主と同レベルの技術しか持っていない刀剣男士にはなりたくない。本人が聞いたら怒り出しそうなことを考えたおかげで、膝丸は、突っ込みを入れることなく真摯に黙々と鍋に向き合うことができた。

「髭切のおでこ出してる髪型も、可愛いなあ。膝丸もおでこ普段見せないから、さっき見ることができて何だかラッキーって気分」
「弟、よかったねえ。見られて良かったってさ」

 言葉の上では一応褒めているつもりらしいが、滲み出ている得も言われぬ感情のせいで膝丸は寒気を覚えることになっていた。
 主の言葉に他意はないはずだ。だからそのような絶対零度の視線をこちらにちらちらと送ってくるのはやめてくれ、と膝丸は内心で呻く。

「そうだ。五虎退も今度前髪上げてもらおうかな? 和泉守とかにも頼んでみよう」
「弟と皆お揃いになるんだね。主、僕の前髪も上げてくれないかな」
「いいよ。髭切もちょっと前髪長めだものね」
「主とお揃いだね」

 二人がわいわいと話しているのを右から左へと聞き流して集中する時間を得た膝丸は、ようやく画像のものと比べても遜色なさそうなものを作り上げることができた。
 試しに小匙の端につけたものを舐めてみると、苦いようで甘いような不思議な味がする。だが、これで正解なのかはプリンなるものを食べたことがない膝丸に分かるわけがなかった。

「あ、カラメルできたの? 味見させて、味見!」
「僕にも味見させてほしいなあ。ほら、匙も持ってきたよ」
「二人とも、それは味見用の小匙ではないぞ!!」

 大匙を持って近寄ってくる食いしん坊の二人を宥め、小匙の先にほんの少しだけ載せたものだけを味見させる。
 口にした瞬間、二人の目がまるで夜空の星をぱらぱらと散らしたようにきらきらと輝いていくのが、膝丸の目からも見て取れた。

「うん。プリンのカラメルの味がちゃんとしてる!」
「甘いようで苦いようで、不思議な味だね。でも、これっぽっちだとすぐに無くなってしまうよ」
「カラメルはプリンの上にかける調味料みたいなものだから、これだけでいいんだよ。次は本体の方だね」

 とりあえず及第点だったか、と胸を撫で下ろしてから、膝丸は先程から思っていたことを口にすることにした。

「……二人とも、頼みがあるのだが」
「何?」
「弟が僕に頼み事なんて珍しいね」

 プリンのカラメルにすっかりご機嫌になっている二人につられるかのように、膝丸にしては珍しくはっきりとした笑顔を見せながら、

「集中をしたいから、出て行ってはくれないか?」

 ビキリと額に青筋を立てて、そう言ったのだった。


***


「それで、結局どうなったのですか?」
「二人を追い出してから、今のようにぷりんなるものを作り上げた。少し時間はかかってしまったがな」

 蒸し器に入れたプリンを取り出し、冷蔵庫に移し替えるために並べる手つきは、あの頃よりも随分と手際よくできているはずだ、と膝丸は思う。初めてこの菓子を作った時は、これで良いのだろうかと首を傾げていたものだ。
 しかし、自分から主を追い出した手前、彼女を呼ぶわけにもいかず、内心ヒヤヒヤしながら手順通りに冷蔵庫にしまったのだった。

「藤様と髭切様は、喜んでいらっしゃったのですか?」
「ああ。特に主は手作りのこの菓子は初めてだと言っていてな。市販のものより美味しいと、お代わりを求めてきたほどだった」

 二つ目のプリンを平らげた主は、遠征先から帰ってきた歌仙に「食べ過ぎだ!」と叱られてしまっていた。その二人のやり取りは、今でも昨日のことのように思い出すことができる。
 冷蔵庫にプリンを移し終えてようやく一息入れた膝丸は、ふと視線を感じて若苗の方を見やった。何やら考え込むように口元に手を当てた彼女は、

「先ほどのお話ですと、膝丸様はあまりお菓子を作られることについて、気が乗らなかったように聞こえたのですが……。それでもやはり、主にあたる方のお願いとなるという別なのでしょうか?」

 真剣な顔つきで、膝丸にそのように尋ねた。
 予想していなかった質問に、膝丸はその琥珀色の瞳を僅かばかり丸くする。だが、それもすぐにふっと緩み、細められた。

「それもあるかもしれぬが、それだけではない」

 自分がつけていたエプロンを外し、厨の片隅にあるハンガーにぶら下げる。慣れた手つきで片付けを進めながら、膝丸はあの日の自分を振り返った。
 主と出会って、まだ数ヶ月しか経っていなかった、あの頃の自分を。

「――初めてだったのだ。主に、あのような頼みごとをされたのは」

 口をついて出たのは、あの日プリンを作り終えてから漸く気がついた、あることだった。

「主は、今まで俺にあのような厄介な頼み事を、無遠慮にしてくることはなかった」

 簡単な頼み事なら、それまでもいくつかあった。
 洗濯物を取り込んでおいてほしい。ご飯の準備を手伝って欲しい。手が届かない所にあるものを取って欲しい。
 そのような、ちょっと時間を割く程度で済む依頼なら、既に主は何度も頼んできていた。膝丸も、手が離せないときは断り、手が空いているときは手伝った。
 だが、お菓子を作ってくれと言われたのは、初めてだった。しかも膝丸にとって馴染みのないものを用意してくれなどと、手の込んだことを不躾に頼んできたのは、あの瞬間が初めてだったのだ。

「断っても主は怒らなかったろう。遠征から戻る者を待てと言えば、きっと待っていただろう。主は時折突拍子もないことを言うが、俺たちが本当に困り果ててしまうようなことは頼むような者ではないからな」

 けれども、他ならぬ自分に彼女が頼んだ、ということが、顕現してまだ間もない新参者の膝丸にとっては異なる意味を持っていた。故に、多少困りはしたが、問答無用で断ろうとは思わなかった。
 それは、ただ顕現したばかりの新米刀剣男士が、初めて主に頼られたから、という意味合いだけがあったわけではない。

「俺はその頃、主とはその……今のように、何を気にすることもなく話し合う仲ではなかったのだ」
「そうなのですか?」

 とてもそうは見えないが、と若苗は思う。
 主の藤は、彼女の知る限り明け透けで分け隔てなく、誰にでも等身大の自分をさらけ出しているような人物だ。
 膝丸のように生真面目な性格とは真逆かもしれないが、それでも誰かに嫌われたり、殊更気を遣ったりしなければならないときがあったなどというのは、若苗には想像しがたかった。

「俺が顕現した頃は、主も今と違って色々と……至らぬ部分が多くあった。兄者はそれを補おうと、昼も夜も無く主に付き添っては声をかけていたのだ。だが、顕現したばかりの俺には、どうにもその行動が理解し難かった」

 淡々と昔を振り返って話しているつもりだったが、膝丸は自分の身の内に苦いものが走るのを感じていた。話を聞いている娘の目をまともに見ることだけでも、堪えるものがあることを自覚せずにはいられない。
 己のことをそれこそ神様のように崇拝している若苗に、このような自分の失態を自分自身の口で語るのは並々ならぬ気力と勇気がいるものなのだ、と彼は痛感させられる。
 だが、膝丸の矜持は己のした行動を矮小化して伝えることを許さない。だから、彼は愚直なまでにありのままの己を語ることを選ぶ。

「兄者の手を煩わせても尚、一人で十分に立つこともままならない主のことを、俺は無意識に見下していたのだろう。そもそもあの娘は主として、失格なのだと思った。兄者が心を砕く必要などないのだと、源氏の重宝である我らが、あのようなものに目をかける意味はないと。
 そのような考えを、口にしたこともあった。そのことで、兄者と衝突することもあった。しかも、よりにもよって俺の言葉を、主は聞いていた」

 息をのむ音とともに、若苗の目がわずかに見開かれる。
 彼女に軽蔑されたとしても、おかしくないことだ。今目の前にいる娘は、膝丸の主のことを姉同然に慕ってもいるのだから。
 だが、彼女は余計な言葉を差し挟むこともなく、膝丸の言葉の続きをじっと待っていた。

「主は、自分の至らなさを誰よりも自覚していた。だから、後ほど自分の未熟さを認めて、頭を下げた。それに、俺もまた主のことを何一つ知らないのに、過ぎた言葉を並び立てていたことに気がついていた。だから、彼女に詫びの言葉は贈っていた。
 しかし、それだけで何もかもが解決したというわけではなかったのでは、と思う節はあった」

 普段通り他の刀剣男士と分け隔てなく主が接してくれている日々の中で、ほんの少しできた薄い膜のような距離感を、膝丸は覚えていた。
 彼自身が作り上げたものなのか、主が作り上げたものなのか、それも定かではない。だが意識してしまうと、見えなかったはずの隔たりは確固としたものになっていってしまう。
 少なくとも、膝丸の中では見えないようで見えている、確かなものになっていたのだ。あの、主の他愛ないおねだりの日までは。

「主は、俺に多少迷惑をかけても大丈夫だと信頼した上であの菓子を作ってほしいとねだった。そして、この膝丸がそれに応えた」

 他の誰でもよかったのかもしれない。主からしたらそこまで深い意図はなかったのかもしれない。彼女は良くも悪くも裏表がないように、今は振る舞ってくれていることを、膝丸は知っている。
 それでも、と彼は思う。

「俺が作ったものを、主は喜んで食べてくれた。そうしてやっと一つ、水に流せたのではないか、と今となっては思う」

 刀であるがゆえに、壊すか傷つけるかしかできない存在にしかなれないと思っていた節もあった。
 或いは誰かに愛でられて大事にされることはあれど、その手足でもって何かを作り上げることなど到底できないと思い込んでいた部分もあった。
 そんな彼らに、誰かを喜ばせるものを作り上げるよう促すことの意味──など当然、主は考えてすらいないだろう。
 とはいえ、主に意図はなくても、膝丸にとっては意味があった。

「主にとっては、そこまで深い意図はなかったとしても。俺にとっては、どうにもこの菓子は多少特別な意味を持つものになったようだ」

 苦心惨憺して作り上げた見たこともない洋菓子を口にしたときの主の笑顔を、自分の口の中に広がった優しい甘みを、忘れることは二度とないだろう。
 懺悔というにはいささか軽い調子で話を締めくくり、膝丸は聞き手となっていた若苗に苦笑いを浮かべてみせた。

「それに、おかげで君にも振る舞うことができるのだから、菓子作りも手間ばかりかかる面倒なものというわけでもない、と思ってな」
「はいっ。ぷりん、食べるのがとても楽しみです」

 子供のように笑う娘の姿に、膝丸もつられて目を細める。
 自分が彼女に向ける思いが、兄が主に向けるそれと似てきたことに薄々彼は気がついてはいる。だが、無邪気な子供のような彼女に向けるには不似合いな思いであると、彼はまだ見ないふりを続けることにした。

「あの菓子が冷えるまで、少し時間がかかる。暇つぶしになるか分からぬが、先日知った遊戯に付き合ってくれるか?」
「あまり難しいものはお付き合いできるか分かりかねるのですが、どのようなものでしょう」
「将棋崩しというものだ。短刀たちとやってみたのだが、存外難しくてな」

 差し伸べた手を取る彼女と、他愛ない言葉を投げかけながら、彼は部屋に向かう。
 この日々はとても穏やかで、歴史を守る戦とは程遠い。以前の彼なら、その生活は無意味だと斬って捨てていたかもしれない。だが、今ならこの手に握る暖かさが何を己に齎すか──彼は、誰よりもそのことを知っている。
 源氏の重宝としてだけの膝丸ではなく、それ以外を得た彼のその横顔は、どこか主に似た晴れやかさを帯びていたのだった。
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